溶けてしまえ
(お題提供元:Lamp様)




ざんぶと勢い良く水の中へくぐらせれば、手首から先の体温が急激に消えてゆく心地がした。
爪を洗濯ばさみか何かで摘まれたように締め付けられる。
暦の上では春といえども、金属製の水道管を通り、蛇口からやってくる水はまだ冬の名残を含んでいて、想像以上の冷たさに肩が竦んだ。
ついでに鳥肌も立つ。
うう、と情けない声の漏れる唇を結び、汗と涙と埃と土と砂と、あとはまあ色々を吸って汚れた最早何枚あるのかなど数えるべくもない、大量のタオルを引っ掴んで伸ばし、洗剤を溶かした冷水へ浸す。ぐるぐると円を描いて掻き混ぜ、こぼれる水滴に注意しながらもみ洗いを試みた。
散った残滓が、コンクリートの上に黒っぽい染みを作っている。
泡立ち始めた洗剤が指という指に纏わりついて独特の感触を味わわせてくるので、思わず手の皮膚の今後を想像してしまう。ハンドクリームを塗っても追いつかないかさつきは、どこか懐かしい。
時には選手と同じくらい汗だくになってコート周りや部室を行き来した日々から遠く離れ、ふっと思い出してみればもう半年前の事だと気が付き少し呆然とする。
中学生活のほとんどを、テニス部マネージャーとして過ごしてきたようなものなのだ。
寂しいというより、急に押し寄せる余った時間をどうすればいいのかがわからない。
わからないまま、ずるずると卒業間近の三月になってしまった。
そんな私がどうして以前のような雑事を引き受けているのかというと、新体制となった男子テニス部で健気に頑張る後輩マネージャーに、心底申し訳なさそうな顔つきで泣きつかれたからである。
電話口で響いた、絶望してます、といった色をたっぷり含んだ声。
先輩、洗濯機が壊れました。
既に泣いているんじゃなかろうかと危ぶむくらいの後輩を宥め、事情をよく聞いてみると、朝は問題なく動いていた全自動のそれが、昼前にはうんともすんとも言わなくなったらしい。
電源を確認しても問題なし、先生に聞いてみてもお手上げ、家電販売店やサポートセンターなるものに電話したが、残念ながら解決するには至らなかったようだ。
新しい洗濯機を買おうにも、学校側の許可は必要だし、そもそも買いに行って丁度良い製品があるとも限らず、買ったところで即日配達してくれるかどうかも不明瞭だ。
最早手洗いで乗り切るしかない、と判断した所までは良かったが、圧倒的に人手が足りない事に気が付いて、彼女は大層慌てたのだろう。
新しい部長を据え、後一ヶ月もすれば新一年生も入学してくる時期、ようやくマネージャー業のコツを上手く掴めてきたというのに、思いも寄らないアクシデント。
折角、前より仕事ができるようになったと思ったのに、耳を打つ弱音には覚えがあった。
しかし冷静に考えれば、自分の所為でもなんでもない機器の故障なのだから、そう思い詰めるほどの事態ではない。
全国に名を馳せる強豪テニス部の冠が肩に重く圧し掛かるのか、必要以上にナーバスになっている様子を知ってしまったら、ああそれは災難だったね、じゃあ頑張って、等と突き放すわけにもいかず、久々の休日登校を果たし、何度も謝罪を繰り返す後輩に混じって地道な仕事を開始したのだった。

今時テレビでも見ない、大きな金盥を家庭科室から借り受けて来、ひたひたに水を浸して、それまでは洗濯機に入れていた洗剤を混ぜ込む。
実際に見た事もないくせして、これ昭和っぽい、なんて笑いながらちょっと盛り上がった。
そうして最初の内は肩を並べて同じ作業をしていたのだが、マネージャーは洗濯だけしていれば済むというわけでもなし、ドリンクの用意や各選手のデータ整理等々をこなすべきであり、おまけにちょっと来てくれ、の一声で飛んでいかなければならない。
再び謝り倒す背を制し、こっちは私がやっておくから行ってきなよ、と送り出したのが、数分前の事。
水を含めばそれなりの質量になるタオルをじゃぶじゃぶとつけては洗い、長袖のシャツをまくって剥き出しとなった腕に飛沫が撥ねる。
何の工夫もなく表現するが、冷たい。
せめて夏明けの、9月とかだったらなあ。
嘆いても季節が逆戻りするはずもなかった。
掻き混ぜていた腕を止め、水流の余韻に振り回されるタオルの内引っ掴んだ一枚、特に汚れのついている箇所を指で擦り合わせていると、コートの方からあがった歓声に耳を捕らえられてしまう。
一寸、全身の筋肉が固まったものの、すぐさま元の動きを取り戻す。
鼓膜を揺らした、たくさんの声に女の子のものが多く混ざっているのは、コート内で目を見張る活躍をしたやたらと目立つ輩がいるからなのだろう。
大体の見当はつく。
引退しても尚、なんだかんだと理由をつけてテニスから離れようとしない三年生達が、今日顔を出している事を私は知っていた。
真田先輩達も来てるんですよ。
幾分落ち着きを思い出した後輩の、ついさっき交わした言葉が脳裏をよぎる。洗濯機の故障を伝えるかどうか迷ったのだが、言ったが最後、真田や柳、柳生といった几帳面に分類される野郎共を巻き込んでは大事になってしまう、と黙っている事にしたらしい。
世紀の英断だと、私は拍手をしたい気持ちでいっぱいになった。
どうせその三人だけでは済まず、面白半分の誰か、こうすりゃ汚れ落ちんだよと自分論を展開する誰か、いやそれは違うだろと引き止める誰か、重曹入れてみんしゃいと悪戯を始める誰か、連鎖するようにして元レギュラーが全員参加、洗濯どころの話ではなくなるのだ。
一人と対峙していれば普通にこなせる事も、二人三人、数が増えれば増えるほど収拾がつかなくなっていくのが男の子という生き物である。まとまっていないようでその実、団子状になった溢れる馬鹿パワーに、女子は対抗出来ない。
この三年間、嫌と言う程思い知らされたので、なのに先輩にだけ迷惑かけちゃってすみません、という彼女の言い分もまるで気にならなかった。
眼前に広げた白地に染みついていた薄茶の土汚れがやわらいで、限りなく元の色に近づきつつある。
よし、と今一度泡立つ水面へ掌ごと飛び込ませた時、校舎側から走ってきた子達の会話が頭上に降って湧いた。

「うそ、ほんとに幸村くんだ!」
「学校のコートでテニスしてるとこ見るの、久しぶりだね!」

足音と共に可愛らしくはしゃぎ合う声音も遠ざかっていった。
しっかり聞き終えてから、ああ、なるほど、それで。胸中で独り言を呟き、私は深く納得をする。
声援の所以はこれだったのだ。
しかも今日は3月4日、話題に上った神の子の誕生日を明日に控えている。
それではいつも以上に沸き立つのだって至極当然、賑やかな空気になった所で別段不思議じゃない。
もしかすると気の早い誰かが、明日誕生日だね、おめでとう、と伝えるかもしれない、いわば前夜祭である。
キリストの生まれる前の日をクリスマスイブと称するように、神の子の生まれる前日を聖誕祭前夜と呼んでもまあ許されるかな、なんてちょっと本気で考えてしまう程度には、私も歴とした立海生である。
それくらいの輝かしい功績を、彼は築き上げた。

腹の淵から喉にかけてを込み上げるものに犯され、一秒ほど息が詰まる。
転じて、深い呼吸が肺を縮めてまろび出て、持ちあげていた顔を水面へと戻した。泡で濁るそれは不透明で底など見えない。
そういう小さな、ひょっとすればどうでもいいと一刀両断されかねない感傷に足を踏み入れつつあるのは、柄にもなく緊張している所為だ。
毎年、レギュラー陣と一緒くたになってあげていたプレゼントを、今年は別口で用意している。
自室の机横、鞄の類いを仕舞う籠にすとんと置かれた可愛らしい袋を思い出す都度、私はどこか遠くへ走って消えたい気持ちに駆られるのだった。
恥ずかしいというのもあるが、何より今になってどんな風に渡せばいいのか、まるでわからない。
買うか否かで迷い、いざ心を決めれば喜ぶ品物を考え尽くすのに膨大な時間を費やし、買ったら買ったでやっぱりあげられないかもしれないなどと悩み始め、繰り返しに繰り返しを重ねた毎日の結果、遂には前日になってしまった。
決意を目前に控えた今、流石に取り止める気はないけれど、だからといって一切躊躇がないかと問われればありますと即答するのが正直な気持ちだ。
長い片思いに一定の目途をつけるため、その人の誕生日を利用する形になるのはよくない事かもしれないが、そうでもしないと踏ん切りがつかない。
このまま黙って級友、部活仲間を続けるのだって悪くないだろう、だけれどそれじゃあきっと、私は自分の気持ちひとつ言えずに、学生生活を終えてしまうと思った。
他の女の子より近い場所で、しかしある意味、いちばん遠い所で。
いつか大人になって、ああそんな時もあったなあ、なにも伝えられなかったけど好きだったなあ、なんて懐かしく思い出すような単なる記憶にしたくないのだ。
たった一度しか巡ってこない夏の為だけに、ひと時を、一瞬を、ともすれば体をすり減らすようにして糧にしてきた人たちの傍にいながら、なあなあで終わらせる事は出来ない。
迷惑をかける可能性だって視野に入れた、だから明日のプレゼントが、私の精一杯。
断られてもそうでなくても、一つの区切りにはなってくれるはずだった。
ぴしゃん、ときつく張り詰めた音を弾いた爪先は相変わらず冷たい、飛んだ水滴が肌を濡らしていく。
汚れを浮かせてくれる泡の渦へ、幾枚もの布が巻き込まれる。
わっとたくさんの人の声が沸く。どこか彼方の出来事みたいだ。
コートに立つ、神の子の姿を脳裏に漂わせた。羽織ったジャージが風を孕んでなびいている。
幸村は立海の中で一等、テニスが似合う人だった。

始まりを掬い上げるのだとしたら、一年の頃だろう。
強豪、全国二連覇、常勝、わかりやすい看板に惹かれるのは何も新入部員に限らず、いわば裏方であるマネージャーにも名乗りをあげる生徒は決して少なくなかった。
そういう私も当時は友達に誘われて、というたるみきった理由で入部届けを出したのだから、他人をどうこう批評する権利などない。
多くの注目を集めるその看板が、名前だけでなくしっかりと中身を伴っていたあたり、浮かれた一年生に挫折を味わわせ同時に活を入れる起因だと言える。
つまり立海テニス部は、並大抵の厳しさではなかった。
勝ち続けるという偉業を考えれば当然の練習量なのだが、雑誌で見ただの友達が入るって言うから一緒にだのなんかかっこいいからだの、浅い心持ちの人間を叩きのめすには充分すぎるほどの地獄が待っていたのである。
華やかな成績の裏には練習、努力、練習、汗と涙ばかりが増え、お約束の友情が入る隙はなく、その上勝利はなかなかついてこないときた。
初日には生き生きとしていた同い年の男子の顔が、日に日に輝きを失っていくのを目の当たりにし、正直なところ私はとんでもない部のマネージャーになったと後悔したのだが、すぐさま悔いる間など与えないと言わんばかりに忙殺されたおかげで、辞める辞めないの問答を繰り広げずに済んだ。
手加減なしで回される仕事にどうにか食らいつき、一つ一つを片付けるのにいっぱいいっぱいな日々に在っても、類い稀なる才気を放つプレイヤーというのはわかるもので、くすんでいく色がほとんどのコートでも、スポットライトが当たったように光る輩が一年生の内、幾人かいた。
輝きを浴びる中の一人、幸村はすごく派手な容姿だったり、感じの悪い突っ掛かる物言いをするわけじゃないのに、当時から何かが人より頭一個分飛び抜けており、不思議と目立っていたのである。
だから、初めて話しかけられた時は本当に驚いた。
乱れた髪の毛を整えるのも忘れ、慌しく洗濯機に汚れ物を放り込み、休憩時間に皆が飲むドリンクを配分通りに作って運んでいたら、きつい練習の一欠片も窺わせない爽やかな声。

って、根性入ってるよね」

はあ、と答えたかもしれないし、突然の事に口を閉ざしていたかもわからない。
思い出そうと懸命になっても判然としないほど、とにかく必死だったのだ。
どちらにせよ曖昧な反応を返したに違いない私を嘲笑うでもなく、からかいもせず、それだけを言い置き後腐れなくコートに戻る背中を視界に入れつつ、誉め言葉だとしたらもっと言い方があるんじゃ、などと悶々としたのを今でも覚えている。
根性って。
しかも根性があるとかでなく、根性入ってるって。
たおやかな外見から想像し難い、ちょっと意外な言葉遣いだ。
首を傾げて考えている内に、だんだんじんわりと込み上げる。
疲れきって、新しい環境に慣れるのに気をとられ、ぬるい優しさが易々と降ってくるわけでもない毎日に、ひとつの波が立てられたようだった。
頑張ってるねと言われるより、あまり無理をしないでと励まされるより、ずっと嬉しかった。
体中の力という力を振り絞りしがみついていた私には、一番の言葉だった。
多分幸村にしてみれば、見たままの感想を述べただけだったのだろうけれど、予想もしていない時に自覚するのは実に簡単なもので、あの伸びやかな背中を追いかける理由には充分、気持ちを育てていくための時間など有り余るほどだ。
きらきらと輝く夏が来て、三年生のいなくなる秋もやがて訪れ、水仕事が辛くなる冬に耐え、新入生で賑やかになる春を感じた。
私が送ったどの季節もテニスボールの弾む音がして、心の真ん中には幸村がいた。
いなくちゃいけない人がいないコートを見るのは辛かったけど、ある日突然夢みたいに帰ってきていた。

すっかり水に浸かってしまった指は冷たいを通り越して最早熱い気さえしてくる、地道な洗濯の甲斐あって、白色に戻りつつあるタオルが暢気に浮かぶ様を目にして、私みたい、と静かに呟く。
三年間は長かった。
息が苦しくなるくらい笑ったし、鼻水をかんでもかみきれないほど泣いた事もある、噴き出る汗とひたすら戦った日、気温に関係なく力仕事もこなして、手が足りなければ砂にまみれてボール探しだってなんだって引き受けた。
全部が詰まった思い出の日々が、本当の終わりを迎えようとしている。
高等部にもテニス部はあるが、今までとまるきり同じことが繰り返されるわけじゃないのだ。
私は、卒業式が少しだけ怖い。
汚れていても頑張った証には違いないタオルがまっさらになっていくよう、自分にもどこかでリセットするころが訪れるのだろう。いつなんどきなのか、計る事は出来ないけれど。
(今日でも明日でも、おかしくないんだ)
こまかなあぶくが、水に溶けていく。


「何してるの?」


びっくりして肩が竦んだ。はっと目をやれば、制服姿の幸村が、水場の向こう側から興味深そうにこちらを見ているところだった。

「何って、見たらわかるでしょ。洗濯」

お湯が使えないのなら日光に当たろうと、重たい盥を引き摺りながら部室棟の影を抜け出し、いわゆる部員に見つかりやすい場所を陣取っていたのが悪かった。
今、こんな気持ちで会いたくなかったな、と思う一方、手と頭は常と変わらず働いてくれている。動揺を押し隠して、唇をひらいた。

「どうしてまた、手洗いなんだい。洗濯機は?」
「壊れたんだって。で、私はお手伝いに」
「フフ…なるほどね、ご苦労様」
「幸村は、休日なのになんでいるわけ。そっちこそご苦労様じゃない」
「俺? 俺は冷やかしに来ているだけだから」

まごうことなき、穏やかな微笑みで豪胆な台詞を吐く。
脳内で赤也の悲鳴が響き渡って、今度会ったらお菓子か何かをあげてやろうと密かに誓った。
声が震えていやしないだろうか心を配りながら言葉を連ねたが、どうにか形にはなってくれたようだ。身だしなみについては、女子としては悲しい事だが、今更気にする理由もない。あちらこちらを振り乱して駆けずり回っている所を、とうの昔に見られている。
じゃぶじゃぶと遠慮なく音を立て、本格的に洗濯を再開すると、距離の縮まる気配がした。
よく見たら、幸村は身軽そのもので、ブレザーすら羽織っていない。
シャツの袖を捲り、ネクタイを緩め、いつもは閉じている第二ボタンまでをも解放させていた。コートでかるく打ち合った足で、こちらへ来たのだろうか。隙のないテニスをする人なのに、何故だか時たま私生活はこうして隙だらけだ。
見慣れたスニーカーが、残りあと三歩という所で歩みを止めた。
影は生まれない。
陽の光があまねく全てを照らしている。

「時間がかかりそうだね」

悠々と腕など組んで、見下ろす人が楽しげに言う。
どういう意図での発言なのか、さっぱりわからなかった。

「だからなによ」
「うん、大変そうだなと思ってさ」
「優しい言葉をどうもありがとうあんた何しに来たの」
「どういたしまして。俺の事は気にしないで、そのままどうぞ」

これだから嫌なのだ。幸村ってタイミングが良すぎて逆にタイミング悪い。
心中で毒づくも長くは続かず、すぐに切り替えた私は布の端と端で泡立つ洗剤を挟みながら擦り荒いをする。

「ほんとはね、こんなにたくさんあると足踏み洗いしたほうが、早い気がするんだけど」
「ああ、それは見てみたかったなあ」
「……なんで」
「楽しそうだから」
「私は楽しくないし、さすがにここで裸足になる勇気、ない。
濡れた足どうすんのよ、拭くものも持ってないのに」
「自然乾燥でいいんじゃない」
「よくない」

まったく、子供みたいな言い方をする。
仮にも女の子に対する扱いかなこれ、などとついつい落ち窪んでいく思考を叱咤し、粗方綺麗になった一枚を沈み込ませ、いまだ汚れの目立つ一枚を取り出して、同じ動作を繰り返す。
はみ出した水のひと雫がコンクリートへ撥ねたその一瞬の間に、幸村が開いていた距離を軽やかに詰めた。
あたかも目的があるかのように迷いなくしゃがみ、のびやかだが決して細くない腕を、ばっしゃんと豪快な音を付随させ盥の中に突っ込んだのである。
驚きのあまり肩が強張った。

「ちょ、ちょっと何してんの!?」
「うわ、やっぱ冷たいや。平気そうな顔しているけど、すごいね

眉をしかめたのも数秒、花が咲いたみたいな笑顔がこぼれ、私は言葉を失うしかない。
が、しかし、些末事に気を配らない人のネクタイが水面すれすれを掠めているのを目にし、態勢を立て直した。あ、ほら、濡れるよ。指を差し注意を促せば、幸村は空の掌でひょいと肩にかける。もう一つの右手は、変わらず水の中である。
何がしたいんだあんたは、と半ば非難めいた視線をぶつけていたら、ふと目が合って、空気がやわらぐ。

「指が真っ赤だ」

微笑みはどうやら私の掌へ向けられているらしい。
つられて目線を下げると、神の子の言う通り、確かに赤くなった両手があった。
だけれど、それがどうして、心底嬉しそうな物言いに繋がるのかはわからない。

「そりゃ、水仕事してればね」

首こそ傾げはしなかったけど腑に落ちないと疑問を抱いていたのが、声色に出、看破した様子の幸村がまた笑みを深める。
ジャージの私はいいとして、彼は制服だというに、お構いなしで膝をつけてしまっていた。
よっぽど汚れるよ、言おうかと思いかけ、マネージャーから卒業してるくせにあんまり口うるさくするのも良くないかな、と唾ごと飲み込んだ。
小さなことでも、我慢は我慢、体に悪い。
何か身の置き場のない、居た堪れない心地がして、無意味にタオルを絞ってみたりする。
幸村は幸村で、今度こそ本当に子供のように手首をぐるぐる回し、冷たいとその口で評した水を掻き乱していた。
泡の間に見え隠れする、さっき私が作った渦よりも、いくらか狭い波紋。
二種類の白色に揉まれた彼の手は、一体どこを潜っているのか行方知れずだ。
誕生日を明日に控える人を眼前にしての妙な沈黙と、少しばかり日常からはずれた状況がお腹の底を落ち着かせてくれない、意を決した私は息を吸って口火を切った。

「あのさあ……聞いていい?」
「構わないよ」

言いながら、やんわり水面を伝う揺れはおさまらない。
ちゃぷちゃぷ、可愛らしくはねる音も続いている。

「何してんの? っていうかむしろ、何がしたいの?」

盥の向こう側、私から見て斜め前に居る人が、明朗な笑声を転がした。

「それ、最初に俺が聞いたのに。さっきと逆みたいだな」
「一緒にしないでよ。私はすぐ見てわかる事しか、してないじゃない」
「うん、そうだね。
……いや、やっぱわからないかも」
「どっち」

遊んでいるのか、からかわれているのか、それとも他に言いたい事があるのか、幸村の考えを当てるのはいつだって難しい。
冷えて硬い底についていた両手をわずかに持ち上げ、縮めていた背中を起こし、やがて来るはずの答えを待っていたら、

「誕生日くらい、素直になろうかと思ってね」

明後日にも程がある方角から返される。

「いっつも素直でしょうが」
「そうでもないよ」

どの口が言うのかと呆れて一瞬息が詰まり、誕生日と今の会話と何がどう関係しているのか、そもそも明日の話だろう、諸々突っ込む機会を見失ってしまう。
ただ黙る私を一瞥して、幸村がじゃあ続けるよと言わんばかりに唇を結び、ゆっくりと開いた。

「だからちょっと、聞いていてくれ」
「……いいけど…何を聞けばいいの」
「俺の話」

話を聞くだけなのに、いちいち許可を求めてくるような性格だったか、またしても腑に落ちなかったけれど、こちらを見遣る二つの目が意外にも真摯だったので、率直に頷く事とする。
微笑み、首を傾ける幸村のかんばせに、薄い陰が浮かぶ。
目蓋の上に柔らかそうな髪の毛が、頬の少し高いところに比べて窪んだ目のふちへ睫毛の余韻が、はらとしどけなく落ちていた。

「好きなんだ」

それらの儚さとは似ても似つかぬ、強い声が辺りを通る。
蓋がついたみたく、色んなものが一緒くたになって舌の奥でつかえ、次に喉が震えたのは、ゆうに数秒経ってからだった。

「…な、なに……何が?」

いつの間にか水中を打つ感触は失せている。凪いだ波がどうしてか痛い。

「うーん、そうだな、全部?」

なんで疑問形、言うより早く、揺れ動いて指先に当たるタオルの海に気がついた。
泡水を掻き分けるなにかが、探している。
見えていなくとも、迷わず、真っ直ぐに。
おおよそ温度の感じられないさ中、近づく熱のおかげで気圧されて、動けない。

「頑張ってるのを見るのが。
あと、汗水たらして必死になって、文句言わないで、一生懸命な所も。
ちょっと涙もろくて、一度ツボにはまると笑いっぱなしな所。細かい注意が得意で、マネージャーに向いている所、ネクタイや制服を汚すな、ってすぐ怒る所。
何があっても、俺達の――俺の、そばにいてくれた所」

最初は爪の端だった。
ほどなく、甘皮のやわくなった部分。
指の腹、第一関節。
私のものではない、かたく引き締まった指と掌に包まれる。
春が来ても尚、冬の濃く残る水、無温を誇るタオルの数々に勝る熱さが、冷え切った手にうんと沁みた。

が好きだ」

血が逆流する。
燃えるように沸き、体温と体温がちょうどよく混じった。境界がわからない。幸村と私の指は、違うもののはずなのに、恐ろしくぴったり重なっていた。白く埋め尽くされる水面の下で、どんどん溶けていく。水に洗われ、泡にほぐされて、同じものになっていく。
あつい。
苦しい。
痛い。
けれども重なり過ぎているから、離れられない。

「だから、明日。
誕生日に、プレゼントをくれないか。俺の欲しいもの」

静かに告げられた事でようやく、幻想が解けた。
ざわつく肌は確かに幸村の温度を感じ取っており、握られていてもぬるつき滑るのは、泡立つ洗剤の所為だ、手首まで伸びた爪先が骨を撫でている。
3月に入ったばかりでまだ弱く、しかし先月を振り返ればあたたかい日差しが降り積もる。
コートの方から威勢の良い掛け声が響く。
あまった指で隙間を埋められ、ふやけて余計に柔らかくなった水かきをなぞられて、おかしな声が出そうになった。シャツを捲った腕の上まで、肌が粟立つ。引いても引けない。押したって抜け出せない。
そうこうしている内に、器用にもよそを掴んだまま右手の薬指の腹を揉む、強引な振る舞いに耐えかねた両の肩が震え出す。弾かれた声帯も大いに揺れた。

「あっ…、う、やだ、ま、待って…」

ぱくぱくと息を吸いつつ吐きつつ、とにかくまず名を呼ぼうと試みるも、突如割って入った声に阻まれたのだった。

「おい、幸村。自分の制服くらい、自分で持っていかんか!」
「やあ、真田」

立たない足を支えていた杖を奪われたみたく、張り詰めていた私の精神はくず折れた。
ひゅう、と喉がか細く鳴った。
同様に制服姿の真田が、片手にブレザーを抱えながらむっつりとした表情で仁王立ちしている。
恐るべきは、常と大差ない顔つきで応対をする幸村だ。一挙一動、声まで変わらない。
そのくせ指をくっつけたままなのだから、もう超人の域である。今のやり取りすべて、夢だったのではないかとすら思う。

「放っておけばいいだろうに、わざわざ持って来たのか。俺、後で取りに行くつもりだったんだけど」
「ならばもう少しましな所へ置いておけ」
「掛けてたじゃないか。その辺に」
「お前の言うその辺、は本当にその辺だから捨て置けんのだ! 大体、この制服に袖を通すのも後何回もないのだぞ、それを」

眉間にきつい皺を刻み、まるで小さくない音量の小言を続けようとした所で、真田の動きが止まった。
しかめっ面が更に深まる。

「……何をしている」

咎めるというよりは、理解出来ないと表現した方が正しい声音である。
返す言葉も浮かばないが、癖で咄嗟に口を開きかけ、問うた張本人に押し留められた。

の事ではない」
「ああ、俺か」

悪びれる素振りすら見せない幸村が、あっけらかんと応じる。

「俺はリクエストしてたんだ。明日、誕生日だろ。それで、ちょっとね」

指先に籠められた力が強まり、夢かと一瞬でもよぎった考えが見事打ち消されてしまう。頬といわず全身に熱が巡ったのが、自分でもよくわかった。
確実に赤くなっているであろう顔を隠そうと俯く私に、一切勘付く様子のない真田が、渋々といった調子で嗜めた。

「……あまり無茶を言ってやるなよ」
「大丈夫、無理難題なんてふっかけてはいないさ」
「……常識の範囲内にしろ」
「あれ、真田、珍しくの肩を持つな。何、どうかしたのか」
「どうもせん。それよりも幸村、休日にも関わらず、引退した身で仕事をしているの邪魔をするな」

その言い草で、真田が純粋に哀れんでいるのだと悟る。
先程まで交わされていた会話、今タオルと水の間で繋がれている指、どちらにも注意を向けない彼は早く行くぞとばかりに急かし、知ってか知らずか、幸村は穏やかに微笑んだ。

「酷いなあ。まあ楽しそうだとは思ったけど、邪魔していないし、無茶だって言ってないよ。
……ね?」

振られた私は答えに窮して唇を噛む。こんなタイミングで発言を求められたって、形に出来る言葉など一つしかないではないか。
真田が、訝しげな眼差しを寄越す。
幸村は、こちらを覗き込む角度で笑っている。
邪魔じゃない。無茶なお願いをされていない。
そう応じるのは、最早告白しているのと同等だ。

「………うん、大丈夫」

それでも、言う他ない。
語尾までしっかり紡いだ所で、ぱっと手が軽くなった。
素早く、しかし乱雑ではない動作で幸村が立ち上がっていた。
こまかな飛沫が落ち、盥にめいっぱい張られた水へと吸われて消える。
泡のない面から覘く、いくつもの波紋はすぐさま失せた。
まさかここで放っておかれるとは考えもしなかった私は虚をつかれ、情けなく座り込んだまま一連の流れを見守るだけだ。
幸村が右腕に纏わり付いた雫を払い、振り返りもせずさっさと真田からブレザーを受け取る。
二人は二、三言葉を交わしていたようだったが、呆然とする耳には何も入ってこない。
先に歩き始めたのは真田で、程良い時間に休憩をとれ、とかなんとか言っていたのだが、申し訳ない事にその優しさを有り難いと拝んでいる余裕はなく、そ知らぬ顔でやや縒れた上着を羽織る幸村にばかり目がいく。
襟を正し、伸ばした袖のボタンを止め、ネクタイを締め直す。
そこでようやっと、視線が交わった。

「ありがとう」

途端、たおやかな微笑に照らされる。

「真田がいる時に言ったら面倒だから黙ってたけど、ほんとは今日、元気をもらいに来たんだ。がテニスコートの近くにいて、マネージャーの仕事してるの、久しぶりだったから」

泣きすぎてしゃくり上げたように声がうわずった。
単語にさえなっておらず、発音出来ているかも危うい私の言葉に、彼はただ優しく笑うばかりだ。
心臓が重い。体の中から落ちてきそうなほどに重たい。
加えてどくどくとけたたましく脈打つものだから、尚辛い。
酸素が脳にまで届かない。
水の中に浸かりっ放しの掌は、あたかも感覚機能を失くしてしまったようだった。
舌が空回って、喉が渇く。
違う、私が伝えたい事は、もっと他に、たくさんある。
さっき幸村に引き出されたものだけでなく、別にある。いくらでもある。あんなのじゃない。簡単に済まされる、一言なんかじゃない。絶対に違うんだ。
閉ざされた唇と饒舌な頭の整合が取れず、どこにも行けない私を尻目に、じゃあまた明日、なんていつも通り過ぎる挨拶と一緒に去ろうとする背が翻った。
スニーカーがコンクリートを擦り、制服の端が風に揺れ、癖のある髪が空になびく。
早春の光が、肩に乗っかった小さな埃と砂をきらきらと輝かしていた。

見てきたのは、いつも背中だ。

コートへ向かう時、表彰される為に壇上へ上がる時、部室棟の横から試合を見守る時、廊下ですれ違って思わず見送ってしまう時。
広い病室。
病院の屋上でベンチに座っている。
校庭の花壇をしゃがんで世話している時は、ちょっと丸っぽくなる。
けれど先生や目上の人にお辞儀をする時は、強靭なまでにすっきり伸びている。
部室を開けたら、ロッカーの上にある荷物をなんなく取っていて、自分とは異なる大きさに驚いた。
レギュラー陣とふざけていると、よく腕が動く。通じる肩と、肩甲骨が服と一緒に揺れる。時折私の方を振り返って笑い、半端に捻られたその角度。
たまらなくなって、息を切った。


「幸村!」


ともすればコートにまで聞こえるんじゃないかという響きに、幸村は振り返らず、歩みを止めて体ごと向き直す。
待って、言おうとして、出てこない。呼吸が続かない。
背中は、見えなかった。

「……待ってるよ」

目元を季節外れの雪みたいに淡く溶かし、美しく滲んだ瞳の光彩を残したまま、いつぞやのようにたった一言だけを置いていく。
彼は、私へと完全に背を向けるより先に階段を降りたので、余韻など与えられなかった。
幸村の姿が消え、言葉のほかに証拠のない現実に覆われると、自分を支えていられず手をついた。
加減なしに突っ込んだ為、水の粒と泡が盛大に撥ねて顔ばかりか着ているシャツまで濡らす。髪にだってついたかもしれない。
勢いに押されたタオルの端が、だらりと盥からはみ出した。
相変わらず指先はひどく熱い。いくら注いでから時間が経過してるとはいえ冷水、あたたまっていないはずだが、それでも凶暴な熱が下がらない。
うそでしょ。
呟きは外に出ず、喉を下がってくまなく体の内側を駆け回った。
待ってと言ったのは私なのに、待ってると答えたのは幸村なのに、どうして私の方が待たされてるの。
明日までなんて、到底もちそうにない。
今すぐ言いたい事が、言いたくて仕方ない事があるのに、私の言葉ではなんにも言わせてもらえなかった。

「う、」

悔しさで満たされた声を発端にし、目蓋の内側がしとやかに濡れ始める。
滲み、たまって、ひと粒こぼれた涙は水面へ混ざり、うっすら消えていく。

「じょ、だんじゃない、私こそ、何年、待っ……」

こんな事になるのなら、あの時、私と幸村の違いが溶けてわからなくなった時、二人分の気持ちを吸った水、ぶっ掛けてやれば良かった。
そうしたら、少しは伝わったかもしれない。
本当に言い出せば止まらない、ぐずぐずと引き摺るのをなんとか抑え、泡まみれの腕で顔を拭う。
より酷い様になった気がするけれど、そんなのもうどうだっていい。へこんで、泣いてばかりじゃ、幸村を好きでいられない。言いたい事もろくに言えない。
今すぐ走って、追いかけるのは簡単だろう。
だけれど、多分そうじゃない。私が心から伝えたい気持ちは、焦ってなしくずしにして良いものじゃない。
何より負けたくない。
他のどんな勝負で負けたっていい、でも、幸村を好きなことでは負けたくないのだ。
三年という月日の中で、最も深い場所に根付いた想いの強さをしっかり腹に括り、それを軸にして呆けた背筋に力を入れる。
腑抜けた足が元通りになる。突っ張った腕を曲げ、開ききった掌をぐーとぱーにかたどらせ解していく。
ふいに感触が蘇り、慌てて首を振ることで吹き飛ばした。

とりあえず、万端の調子で明日を迎えるには一つ。
目の前の仕事を完璧に片付けるべし。

独りごち、なんとも情けない表情だけ正せぬ私は、洗濯機の代わりになるべく盥の中身をかき回すのだった。