君の好きなところ全部




 砂埃と詰め込まれた用具の混ざったにおいが鼻をつく。
 ぶれる視点を定めようと少しばかり細めた目で、念の為先ほど集めたばかりのボールをざっと数えておく。とは言うもののそこそこ大きいサッカーボールだ。テニスや卓球ならまだしも、見落とす事はまずないだろう。よし、と一人頷いて、無数のボールが入ったカゴに網を掛け、先端部分の紐を緩く縛った。
 倉庫内は昼といえども暗い。
 明かり窓から差し込む陽射しは隅々まで行き届かず、細かな塵を浮かび上がらせるのみで、気温も外よりやや低い気がする。温かな空気が薄いのだ。おまけにこの倉庫はグラウンドの隅にあるから人の気配も感じられず、高校生にもなって情けない話だけどちょっと寂しかった。そんなはずないのに、一人きり取り残された錯覚に陥ってしまう。
 時間割表によって水曜日の体育の授業が昼休み前だと知らされた春、クラスのほぼ半数が溜め息をついたと思う。
 少なくとも私は憂鬱になった。
 直前に用具を片付ける係を運悪く引き当てていたので、噂のマンモス校である立海で希望通りの昼食を取る事は難しいだろうと覚悟したものだ。
 幸いにもクラスの友達は優しく、先に食堂行って席取っとくよ、と毎回申し出てくれる為、今までご飯を食べる場所に困った事はない。
 ただ今日は少々状況が違った。
 右人差し指に巻かれた絆創膏をちらと見下ろし、そっと触れただけでも走る痛みに顔を顰める。
 手伝おうかと心配してくれた子もいたけれど、誰しもが一刻も早く着替えて空腹を満たしたい時間帯、じゃあ遠慮なくよろしく頼もうなどと堂々口に出来るほどの精神力が私にはない。大丈夫だから席取っとくのお願い、と返すのが精一杯だ。
 そこまでの怪我じゃないしね。
 自分に言い聞かせながら体を反転させ、昼なお薄暗い倉庫内を後にする。
 ポケットに入れていた鍵を引っ張り出し、重くぶ厚い鉄製の扉と相対して、負傷した指以外の全部に力を籠めた。教室のドアとは異なる独特な音が耳を揺する。太いレール上をゆっくり進む扉が今日ばかりは憎らしい。
 う、だとか、ぐ、だとかちっとも女の子らしくない呻き声を上げ、完全に閉まるまで残りあと数センチという所まで持って来たその時、背後ろから名前を呼ばれて肩がびっくりした。
「ごめん、これもいいかな」
 勢い余って妙に力強く振り返ってしまった先に、どこぞに捨て置かれていたと思しきカラーコーンと使い込まれていそうな野球ボールを一まとめに持つクラスメイトがいた。
 逐一説明する必要のない立海の有名人である。
「幸村くん」
 するっと舌の上を転がった響きはそれなりに離れた距離の彼にも届いていたらしく、好青年そのものといった笑顔が寄越される。
 釣られて声が喉を駆けていった。
「どこに置いてあったの?」
「昇降口の辺りだよ。多分、他のクラスの奴が置いていったんだろう」
 俺達のクラスはこれ使ってないから、言いながら、仕事を増やして悪いね、付け加えるのも忘れない。慌てて首を横に振った私は、再びあらん限りの力で重量級の扉をこじ開けた。
 幸村くんの言う通りうちのクラスは女子がサッカーで男子は走り高跳びをしていた、高校一年生にして早くもテニス部内最強プレイヤーなのではと噂される御人を無駄に歩かせた不届き者は見知らぬ誰かなのだろう。
 にしたって、無視せず拾ってくる幸村くんは優等生だ。規律厳しい運動部に在籍しているから、出しっ放しにされた用具を見逃せないのかもしれない。
 手にした二つとも手早く仕舞い、ほの暗い倉庫を突っ切って戻る肩に、明かり窓から斜めに空間を割る光が降っている。さながら後光を背負うありがたい何かのようで、カラーコーンとボールを放置した人物が一人か二人かはわからないけど罰が当たりそうだと思った。
 不意に目が合って、何気なく微笑まれる。
 本当に綺麗な笑い方だったので反応に困り、だけど無視するわけにもいかないし、わずか一秒間で考えを巡り巡らせた結果、なんとも曖昧な笑顔を返してしまった。直後、ここで笑うの変だったかな、と後悔が肩から圧しかかる。
 凍りかけた背筋を溶かせないままで立ち尽くし、ふらつく視線が灰色のコンクリートへ落ちた所で、すぐ傍にまで来た人のやわらかな声が耳に触れた。
「待たせちゃったね、ごめん。ありがとう」
 鉄製の倉庫扉へと添えていた掌が、私の意志とは無関係に小さく震える。
「ううん」
 どうにかしてたった一言を紡いだけどいつも通り響いていただろうか。そんなふうに細かい事が気になるのは、相手が幸村くんだからだ。
 初対面ではないにしろ大の仲良しといった関係じゃなくて、なかなか味わう機会のない物柔らかな雰囲気と遠くからでもわかる存在感の持ち主でみんなの注目を浴びるすごい人、大小様々の理由が私を無駄に焦らせる。
 おまけに今のセリフなんてすごく自然で、待ち合わせに遅れた幸村くんに謝られたみたいだとちょっと危ない妄想が頭をよぎるくらいだった。
 悲し過ぎる一方通行のもしもを振り払おうとする途中、ついさっき焼き付いた光景が勝手に目の奥で再生される。
 男子の走り高跳びは幸村くんの番になると、ちょっとした緊張感が沸くらしかった。
 静まり返る、まではいかない、でも何か空気が変わって肌に障る。皮膚の薄い所をゆるい風が撫でていき、血管まで染みた。離れた位置の私がこんなにも固唾を呑んで見ているのに、当の本人は特別気負った所も見せずそれはそれは見事なフォームで跳んでみせたのである。
 陸上部も形無しの歓声が男子側からも女子側からも上がって双方の先生が苦言を呈す。ごめんなさいの一声はいとも簡単に引っ張り出されたものの、心や視線が授業に戻るかというとそうでもない。周りで囁かれる声はとても素直だ。
 すごいね、幸村君ホントかっこいい、なんでも出来るんだ。
 何故か心地よく響くささめきを耳に受け入れながら、私は跳び終えた男子の輪の中で談笑する幸村くんへ視線を投げ、ついさっきの場面を丁寧に思い返す。
 勢いよく駆けていた足が地面から離れ、欠点なんか探そうとしても見つからないすっきりとした鼻先が青い空を仰ぐ。しなやかな体躯。軽々とクロスバーを越えていく。反った背中が綺麗だった。全部の瞬間が一枚の絵のようで、思わず息をついてから呼吸も忘れて見入っていた事に気づいたのだった。
 仕草を見るに、もっと高く跳べるだろ、と話している様子の男子に、腕を組んだ幸村くんが肩を揺らして笑っている。
 十数秒遅れでクラスメイトの賞賛に深く頷いた私は、心の中でしみじみと呟いた。
 ホント、こんなすごい男の子が存在するんだなあ。
 ――と、勝手な回想がきりのいい所へ到達すると同時、私より背の高い彼が隣を通り過ぎ倉庫から出ていくので、ものすごいスピードで我に返った。ぼうっと突っ立っている場合じゃない。
 不思議な感動をひとまず仕舞い、掌というか全身に力を籠めて砂や何やらでざらつく金属のレールにぶ厚い扉を滑らせようと試みると、幸村くんがすぐそこにいるにもかかわらず恐ろしげな低い呻き声が漏れかけて焦る。
 なけなしの腹筋を駆使してもう一回、とちょっと気合を入れて息を吐いたら、鈍行速度だった扉がいきなり特急になった。
 豪快な音と共に颯爽とレール上を進んでいく。力もうとする寸前だったから変に空ぶってしまいびっくりした。おかげで頭の上の方から降る影と視界の端に引っかかった大きな手の甲の発見が遅れに遅れ、かなり間を置いてしまってからはっとする。反射的に首を傾け、また目が合った。
「あ、ありがとう」
 柔らかな影を私に落とす彼はこちらが掴んでいる部分を優に超えた位置へ腕を伸ばし、文字通り手を貸してくれたのである。
 見下ろしてくる瞳がなんとなく優しい、私のつむじ近くを通っている片腕の温度が髪伝いに感じられる気がした、陽射しをわずかに遮る幸村くん自体が庇みたいだ。
 あれやこれやを十二分に巡らせたのちに想像以上の近さを思い知った心臓がうねったものの、それを上回る速さで脳をかき乱したのは驚きだった。
 だって、今の今までごろごろ唸ってさながら動きたくないと駄々をこねる子供だった扉が幸村くんの手にかかった途端に素直ないい子と化している。鶴の一声ならぬ幸村くんの一押し。どういう事だと無機物相手に問い質したくて仕方ない。いや私の腕力がなさ過ぎるのが悪いのか。それにしたって、この差はいかがなものか。
「力持ちだねぇ、幸村くん」
 張り合うつもりはまったくないけれど、つい自分の不甲斐なさと比較してしまい心から感嘆した声が出た。
 私の捻りのない称賛を受けた彼が、がたん、仕上げとばかりに大きな音を立てて閉まった扉から手を離し、にっこり笑ってなんでもない事みたいに言う。
「これくらい普通だよ」
 私があれだけ格闘していた重量をいとも簡単に動かしておいて普通はないだろう。思いはしたが、全国区のテニス部に所属している人にとっては本当に普通なのかもしれない、考え直す。
 人は見かけによらない、のお手本みたいだ。そもそも体育会系のイメージがない、どちらかといえば文化系の部活に入ってるっぽいのに。
 他愛ない感想を胸に抱きながら鍵をかけようとし、何度聞いてもやっぱり柔らかな声で呼び止められた。
「……それ、どうしたの」
 振り返った先で幸村くんが私の手元へ目線を落としている。指の絆創膏が行き先なのは明確だ。
「あ……えっと、体育前の授業中ノートめくった時に切っちゃって」
 事故ではなく己の不注意が原因である為、説明するのが恥ずかしかった。なのに気遣わしげな表情で大丈夫と聞かれていっそう身の置き場に困ってしまう。平気だよ、負傷した手をひらひら振って答えたが、目の前のクラスメイトの顔は晴れない。
「血が滲んでる」
「えっ、嘘」
「結構深く切ったんじゃない?」
 その通りだった。紙で切った割にはすぱっというよりざっくりいって、ティッシュで止血していた時間も長かったのだ。
 指摘を受け手首を捻り確認すると、絆創膏の色がうっすら赤く変化している。さっきは少し痛いだけで出血まではしていなかったから、倉庫扉相手に奮闘している間に傷口が開いたのかもしれない。
「張り替えた方がいい。痛そうだ」
 ごく真面目に呟かれて何故だか無性に照れ臭くなった。
「だ、大丈夫。そこまで痛くないし。さっき張ったばっかだから」
「そこまでって事はちょっとは痛いんだね? それに、キミの言うさっきって体育の授業が始まる前だろ。そういうのをさっきとは言わないよ」
 ぐうの音も出ない正論である。
 口調は穏やかでも内容が間抜けを追いつめる捜査官だ。
 すみませんもうしません、咄嗟の謝罪が喉元まで出かかって息を飲む。
「扉を閉めようとしてた時に傷が開いたんだ。……言ってくれたら俺が当番を代わったのに」
 代わりの言葉を探していたら恐れ多い申し出が寄越され、慌ててお返しした。
「いいよ、いいよ! そんな重病人じゃないもん」
「けど、余計な仕事を増やしたのは俺だから」
「仕事っていうほど大層なものじゃ……」
「消毒はちゃんとしたのかい」
「あ、うん。水で洗ったよ?」
 微妙に話を聞いてくれてなくない? と失礼な考えを巡らせていたのがバレたのかもしれない、幸村くんは難しい顔で黙り込む。
 気まずい。
 別に悪い事をしているわけでもないのに、この謎の圧はなんなのか。
「そう。わかった」
 ひょっとしてこれが音に聞く迫力とかオーラとかってやつ、またしても失礼かつ下らない感想に気を取られかけていた私の鼓膜を揺すった声音は、どこをどう切っても絶対的に穏やかだ。横たわっていた濃密な沈黙が嘘のよう。しらずしらず張り詰めていた肩が見る間に脱力していく。
 実際話した回数はそこまでじゃないから考えた事なかったけど、幸村くんの話し方と声ってなんかいいな。
 他のどんな男の子を前にしても抱かなかった感慨を心の淵に寄せながら、再度掌中の鍵を持ち上げたその時である。
 横合いから伸びてきた指が、所々錆びついたそれを音もなく奪い去った。驚きの声を上げる暇もなかった。
 いかにも重たげな錠と向き合い私の役目を取ってしまったその人が、私にこんこんと言い聞かせる口調で声を落とす。
「これは俺が返しておくから、キミは保健室へ行っておいで。そのままじゃ昼ご飯だって食べにくいんじゃないかな」
 がちゃんと施錠された音が私と彼の間で静かに響く。
 幸村くんの広くて大きな手に包まれた鍵は、そんなはずないのに私が握っていた時より一回り縮んで見えた。
「え……ええ? あの、そんな、そこまでして貰う理由」
「俺にはあるよ」
「う、うん? でも幸村くん、私」
「でもはなし。あと、俺の申し出を断るのも今ので最後にしてくれ。あまり謙遜されると嫌われているみたいで悲しいからさ」
 とんでもない、有り得ない仮定が飛び出すので私は史上最大級に慌てふためき否定する。
 嫌いだなんて全然思ってないよ。
 あわあわと震えていてさぞ聞き取り辛かったろうに、幸村くんは変わらずに落ち着いた表情で頷くばかりだ。
「うん、わかってる。単なる例え話だ。しかも俺が勝手に悲しくなってるだけ」
「わ、わかってないよそれ!?」
「ほら早く、昼休みが終わっちゃうよ。食いっぱぐれたくないだろう」
 どうしても気が引けるのなら、本当は俺が鍵当番だった所をキミが代わってくれたって事にでもしておけばいい。ね? 
 などと幸村くんは優しく柔らかく念押ししているけれど、言っている事が無茶苦茶だしかなり強引である。おまけに大雑把。
 初めて間近にした幸村精市という人の本質に近い部分は良くも悪くも心臓を突いてくる。
 納得出来ない上、そうですねそうしますね、とすんなり厚意に乗っかって退場するほど私のメンタルは強くないのだ。
 数秒迷ったあげく、やっとの事で喉を鳴らす。
「わ……わかった……」
「フフ、わかってくれて何よりだ」
 まさしく断腸の思いで絞り出した一声を笑顔でさらりとかわされ、力んでいた肩が外れそうになった。
 なんて男の子だとも思った。
 確かに幸村くんはすごい。こんな人会った事ない。……色んな意味で。
「……とっ、とにかく! ありがとう!」
「うん」
「鍵の返却お願いするね。ごめんね」
「構わないよ。そんなに気にしないで」
 神の子とかいう高校生らしからぬ大層な通り名を持っている人が笑いながら言い重ねる。
 保健室へ行ったら、きちんと消毒液で消毒するように。
 傷の深さもよく確かめないままおざなりな手当てをした私を嗜める響きだった。
 返す言葉があるはずもないのでシンプルに頷き、ただ立っているだけで様になる幸村くんに背を向けて走り出す。
 体育の授業後だというのに疲労感はなく、貧乏くじを引いた悲しみもすっかり消え去っていた。
 大して喋っていないし色々びっくりしたけど、でも幸村くんと話せてよかったな。
 噛み締めるように心の中で呟くとほんの少し息が弾んだ気がして、理由もなく楽しい。心臓がはしゃぎ、駆ける背中を内側からぐいぐい押してくる。
 昼休みのざわめきに埋もれる校舎内。
 空腹と傷の痛みの両方を忘れるくらい浮かれていた私は、ちょうどお昼ご飯中だった保健室の先生に、あなたみたいに上機嫌でここへ来る生徒はそうそういないわよ、と突っ込まれたのであった。







 人差し指から絆創膏が取れて傷口も薄い跡を残すのみとなった頃だ。
「あれ、眼鏡かけてる」
 呼びかけも何もなく声が急に降って来、いつぞやの倉庫前での邂逅と同じく素で驚いてしまう。
 私が幸村くんと名を紡ぐより早く、制服姿の彼はとても自然に私の隣へ腰を下ろす。
 椅子の軋む音すら穏やかに聞こえる資料室内、いくら人気が少ないとはいえ私語厳禁が解除されたわけでもなし、どこにいても超然としているような人と出来が違う私はちょっとばかりうろたえた。
「前から眼鏡だった?」
「……前からじゃ、ないよ。最近視力が落ちてきちゃって。授業中とか本読む時だけかけてるの」
 平気で会話を続行する彼とあからさまに小声な私、器の大きさの差がもろに出ていて気が引ける。
 そろそろと視線を巡らせると話していて迷惑になる距離に生徒の姿はないので、まあいいかな、と必要以上に正していた背中から力を抜いた。
「そういえば、この間の席替えで前の方に替わって貰っていたね」
「うん。よく見てるね」
「視力はいい方なんだ」
 なんとも羨ましい話だ。
 もっとも私だって中学までは黒板との距離など気にせず席替えに参加していたのだが。
「ん? ていうか幸村くん、部活は?」
 突発的事態にシャットダウンされていた思考回路が徐々に復活し疑問が浮かぶ。
 雨ならまだしも本日は晴天なりとアナウンスされてもおかしくない青空広がる放課後だ、絶好のテニス日和で部活日和に室内でのんびりしている暇が幸村くんにあるとは思えない。
「今日はお休み」
「そうなの。テニス部って厳しそうなのに休みとかあるんだ」
「と、いう名の自主練日かな。顧問の先生は出張でいないし先輩達も遠征でね。別に一年生だけで全体練習してもよかったんだけど、思うように仕切れない内にやってもあんまり意味ないからさ」
「そっ……そうなんだ」
 なごやかに語る内容じゃない気がする。
 組んだ足を両腕で抱える態勢からは実力の伴った年長者の風格が既に漂っていて、こんな一年がいたら二、三年生の人もやりにくいのでは、と顔も知らない諸先輩らの心情を慮ってしまった。
 気を取り直してじゃあ何か見にきたの、問えば、この先対戦する学校の試合をいくつか、返ってくる。
 幸村くんの右手に掲げられたディスクが柔い光を反射して一瞬眩しい。
 本当に休みじゃないんだ。
 感心していたら私が資料室にいる訳を聞かれたので、映画鑑賞のレポートだとありのまま答えた。
 倫理の授業でかつての哲学者達について描かれたショートフィルムを視聴し、感想を書けという課題が出たのだが悲しいかな、再提出を食らってしまったのである。
 資料室内に設けられた簡易パーティションのあるオーディオスペースで居残り再鑑賞をし、赤ペンでチェックされた部分と先生のアドバイスを念頭に置きながらなんとか書き上げた所でやってきたのが彼というわけだ。
「なんで倫理なんか選択しちゃったんだろって後悔したよ……」
「レポートが苦手なのかい」
「ものすごくね。一切! 好きじゃない!」
「あはは、随分力強い即答だ」
「だって本当の事だもん。暗記だけしてればいいなら平気かなって思ってたらこれだよ」
「その辺は先生にもよるんだけれどね。あの先生はレポート提出が多いから」
「…………選択授業決める前に知りたかったなその情報」
「俺と同じ美術史にすればよかったのに」
「ホントだよ。失敗したぁ」
 と言っても春先の新しいクラスに友達がいるはずもなく、幸村くんの事も知らなかったから土台無理な話なのだった。
 私も中等部から立海に通ってたら違ったのかなあ、とどことなくクラスメイトの女の子達が幸村くんの方を見ては嬉しそうにはしゃいでいたのを思い出す。
 今にしてみればあれはかっこいい男子を探し当てた目ではなかった。幸村くんと同じクラスでよかったと手を取り合い喜びを分かち合う、微笑ましいシーンだったのだ。
 ああ、早い所気づきたかった。
 嘆きが零れるのは胸の中ばかりで溜め息も出ない。
「目も悪くなっちゃうしいい事なしだよ、もう。眼鏡なんかかけたくないのに」
「どうしてだい」
「だって……似合わないし。鼻のとこに跡つくのもやだ」
 幼少期より長いお付き合いを続けてきたならまだしも心機一転の高校生活から眼鏡と密に暮らしていかなければならないのは、ほとんどの人が気にしない、そこまで見ていないとわかっていても色々と気にかかってしまう事が多いのだ。
 本当は席替えで黒板近くを希望するのも恥ずかしい。
 しかもそれを幸村くんが覚えているなんて普通にへこむ。どうせならもっとましな記憶として残りたかった。
 そんな私のちっちゃい葛藤を知っているのかいないのか、隣の彼がふっと笑う。
「大丈夫。似合っているよ」
 お世辞だと思ったのに真っ直ぐ投げられる眼差しには嘘が見当たらない。
 書き物を終えお役目御免となった眼鏡を外そうしていたので、指がずれてフレームごとあらぬ方向へ飛んでいく所だった。
「……ありがと」
 首を緩く横に振った幸村くんはより一層唇の笑みを深め、組んでいた足を床へと放つ。何気ない仕草さえいちいち優雅である。
 嫌味でもなく大袈裟にも聞こえない褒め言葉をさらっと口にするから幸村くんて怖い。
 照れ臭いのと居た堪れなさが混ざり処理しきれなくて、椅子の下で無駄につま先を立てて動揺を誤魔化した。
 シャーペンと消しゴムをケースに仕舞い、レポート用紙の角を机に当て整える。
 たった一秒がやたらと長く感じられた。
 私達の周りだけ時間の進みが遅いんじゃないか、荒唐無稽な思考に捕らわれお腹の底からにじり寄る緊張に似た何かで手が焦ってしまう。
 誰かの薄い気配だけが耳に障る静寂に、朗らかな陽光の色が滲む。ブレザーを脱いでも寒くなさそうないい天気だった。オーディオ機器のある区画は窓から離れているので陽射しらしい陽射しを直接浴びていないが、室内の空気が快晴っぷりを伝えてくる。
 沈黙に熱があるはずないのに、何故か温かい。
 本来、幸村くんはこんなにテニス向きの陽気の日に室内で過ごす人じゃないと思う。
 きっと外でラケットを握っている方が楽しいに違いない、でもやるべき事をきっちりやる人なのだ。
 ライバル校の情報を仕入れなくちゃいけないのは確かだろうけど、そんなの自分で確認しないでも他の部員やチームメイトがやればいいやと任せちゃう選手だって世の中にはいるはず。他の追随を許さぬ程実力があるのなら尚更だ。だけど彼は休まず怠けず、体を動かすだけじゃなくって頭も働かせている。
 感嘆の溜め息はいくらでも肺を突き上げる。
 すごいとしか言いようがない、もう立海の偉人として学校史に刻まれてもいいんじゃなかろうかと、高等部からの編入組である私でさえごく真面目に考えた。
「……前にさ」
 空気がほんのわずか揺らぐ。
 耳に届いた柔らかな声の持ち主へと目先をやると、光の濃い窓側を見るともなしに見つめる横顔があった。
「あれは……うん、新学期が始まって少し経った頃かな」
 中庭の花壇にいただろう。
 続けられて首を傾げる。断定して話す事の多い幸村くんにしては少々曖昧な語り口だったからだ。
 しばし無言でいたらこちらの理解が及んでいないのを悟ったらしい、今度は少し困ったふうに微笑んで肩を竦めた。
「昼休みに。花壇の前でしゃがんで手を伸ばしてた。そのまま花に触れるのかと思っていたら寸前で止めて、指だけ近づけていたよね」
 耳に触れる心地よい声に導かれて記憶がゆっくりと蘇る。
 机上に掌を差し出し、こうしてさ、と再現してみせる幸村くんの人差し指が長い。先日ざっくり切った私のものとは大違いである。同じ人体でこうも差が出るものなのか。
 何か気になる事でもあった? 
 空中でくるくると指を回しながら尋ねてくる瞳は好奇心に満ちていて、考えを隠すつもりなどこれっぽっちもない事が窺えた。なんでも出来るすごい人というイメージからかけ離れたあどけない仕草に心がほぐれて溶けて、溢れ零れた笑い声を引き止められない。
 すっかり思い出した春の日の事を語らなければいけないと思うが、説明した所で変な空気になりそうで躊躇い、心を落ち着かせる為に軽く息を吸う。
「ええと……テントウムシがいたからちょっと捕まえてみようかと……」
 そうして迷いながら告げてみたものの、案の定幸村くんは軽く目を見開いている。
 そりゃそうだよね、自分で言ってて意味わかんないもん。
 一つ頷いてから補足を試みた。
「私、中学は公立だったんだ。高校から立海で。でも立海は一貫校だから中等部からそのまま持ち上がりの子が多いでしょ? 編入生は珍しいって言われて、なんかレアキャラ扱いされてた時期があったの」
 言いだしっぺが誰だったのかは覚えていない。
 提出期限の迫った課題のプリントに氏名を記入し忘れたとかで、シャーペンを貸したのが始まりだった。まったく意識せず渡した為、後日礼を言われるまで忘れていたくらいだ。
 曰く、なんと満点だった。助かった。あなたのおかげ。
 大袈裟だなあと笑って流していたら、どこをどう通って変化したのか謎だけど私の持ち物を使うとテストでいい点が取れる、なんて眉唾もいい所のジンクスに発展してしまったのである。
 シャーペンの芯やら消しゴムのひと欠片を求められる日々に有名私立へ編入してきた私は困り果て、けど同時に訳の分からない楽しさも感じていた。
 今となっては、この出来事があったからこそクラスに溶け込めたのだと感謝している。
「ああ、それで時々キミの席の周りに人が集まってたのか」
「時々っていうかテスト前ね。しかもホントに一時期だけだったし」
「皆、何をしているのかなっていつも不思議だったんだ。なるほど、謎が一つ解けたよ」
 微笑む声が鼓膜に優しく染みていく。
 私としては持ち物一瞬でいいから貸して触らせてと四方八方から頼まれていた場面を幸村くんに目撃されたあげく、不思議がられていたと知って今更恥ずかしいのだが、楽しげに目尻を緩めている人を間近にするとどうしても話を続けたくなってしまう。この話題やめようとは口が裂けても言えないし、言いたくない。
「もうあんまりにも貸して貸してって言われるから、色々調べたりしたんだ。いい事起きるジンクスとか言い伝えとか……私のものに頼るよりそっちの方がずっといいじゃん。一応根拠があるんだろうし」
「真面目だなぁ」
「そんな事ないよ。諦めて貰う口実にもなるかなって思ってたんだから」
「嫌だ貸したくないの一言で済む話だろ。それをわざわざ調べるんだから、やっぱりキミは真面目だと思うけれど」
 偉い偉い、のトーンで褒められた。喜んでいいのか怒るべきなのかわからなかったので、とりあえず話を進める。
「テントウムシってね、外国では幸運のしるしなんだって。どの本に書いてあったかな……忘れちゃったけど。ホントかどうか気になって試そうとしたの」
「それで、結果は」
「わかんない。あとちょっとのとこで逃げられて捕まえられなかった」
「はは! そう。残念だったね」
「……面白がってるでしょ、幸村くん」
「いいや?」
「じゃなんで笑ってるの」
「これは嬉しくて笑ってるんだよ。気になっていた事が解決してすっきりしたからさ」
 そこまで珍妙な行動を取っていた自覚はなかったのだが、幸村くんをちょっとでも困らせていたのだとしたらなんだか申し訳ない。
「あそこの花壇は俺も世話していてね。花達に異変があったら事だろう?」
「えっ!? せ、世話?」
 椅子の上で心持ち小さくなっていたら、予想だにしない発言を投げこまれて肩が飛び跳ねた。
 世話って何、幸村くん園芸部にも入ってるの? 兼任? 
 浮かんできた疑問を次々ぶつけてまた笑われる。
「俺が好きでやってるんだ」
「へ……へええ……なんでまた花のお世話を?」
「趣味だから、かな」
「趣味」
「うん。ガーデニングが」
「えっそうなんだ! あっ、じゃあ庭造りとかもするの?」
「キミが想像する庭造りがどういういものなのかわからないけど、とりあえずはするよって答えておこうかな」
 私は音に聞く絶対王者の神の子っぷりなどほとんど知らず、何事にも鷹揚に構える所しか見ていないから当然なのかもしれないが、隣に座って雑談に応じてくれるこの人がスコップやジョウロを持って花壇の前に立つ姿を容易く想像する事が出来た。
 春色の花の傍で穏やかに笑う。嬉しそうに目を細め輝く緑をゆったり眺める。柔らかな髪が風に吹かれればなびいて揺れてさぞ美しいだろう。
 あんなに綺麗な姿勢でハードルを跳ぶくらい運動神経抜群なのに、そういういわば草食系男子っぽい図がすごくしっくりくるのだ。
 変なの、と自分の思考回路がおかしくなって吹き出しかけ、でもよく考えてみればがさつとか乱暴といった言葉が似合わない容姿をしているから当たり前かもしれない、思い直して緩んだ頬を引き締めた。
 それにしたって多才な人である。
 実力に相応しく過酷を極めるであろう練習に励みながらガーデニングにも精を出し、学校の花壇まで手がけるとは。
 そういえば絵を描くのも上手だった、と美術室近くの廊下に貼り出されていた作品を脳裏に浮かべる。
 居並ぶクラスメイトの絵の中でも、淡い水色が印象的な彼の水彩画は異彩を放っていた。夏のそれとは違い薄い色をした空と、なんて事ない学校の風景が繊細なタッチで白紙に浮かび上がっている。私は絵画にはまったく詳しくないけれど好きか嫌いか判断するくらいの感性はあるつもりだ。下にくっついている名札より先に絵に目がいって、存分に眺めてから描いた人を知り、得た驚きは今でも色褪せない。
 つまり、私は幸村くんの描くものが好きだった。
 綿密に描写されてはおらず、かといっていい加減に片付けているのでもない。幸村くんの目を通すと立海の校舎はこんなふうになるんだなと見ている側に教えてくれる、自己紹介カードのような主張が含まれた世界に一枚しかない絵。鮮やかに筆を走らせる技術だけでなく、感じ取ったものを上手に表現する力も持つ人なのだと思った。
 一体この人一人に何人分の才能が詰まっているのだろう。
 さすが神の子だなんてとんでもない通り名をつけられるだけの事はある。
「ガーデニングが趣味ってそんなに意外かい?」
「ううん、幸村くんの趣味って考えるとあんまり意外じゃない。でも普通の……って言うと変だね、同い年の男の子の趣味って考えたらちょっと意外」
 だけどやっぱり幸村くんは不思議な人だ。
 数々の噂やとんでもないエピソードを聞く都度すごいなぁとバカみたいに繰り返し感心する一方なのに、こうして話していると体育会系の運動部に籍を置く人とはとても思えない。
 相応の厳しさや堂々たる態度が垣間見えはしても、いちクラスメイトでしかない、いわば脇役中の脇役である私との雑談に付き合ってくれるのだから元々の気性が穏やかなんだとつい勝手に断じてしまう。
「偏見だよ。男にだって花を愛でる感性くらい備わっているだろう」
「そうかもしれないけど、私の中の男子イメージって花とか大体全部一緒じゃん似てるしよくわかんねって言ってる感じだから」
「おまけに暴論だ」
「そうかなぁ。私は幸村くんが例外で飛び抜けてるように見えるけど」
「俺が?」
「だって一から十まで厳しそうなテニス部にいるのに優しいもん。おっきな声出さないし、体育会系の人みたく誰かにああしろこうしろって厳しく言わないじゃない。あ、こないだの倉庫の鍵、ホントありがとう。……あの時とか、毎日お手入れが必要な植物育てるのって優しくないと出来ないよ!」
「褒めてくれるのは有り難いけれど、俺は自分がそこまでいい奴だと思わないな」
 私が机上に散らばっていた私物をまとめ、メガネケースと共に鞄へ入れたと同時、爽やかな微笑を添えて謙遜した人がゆっくり立ち上がる。
 肩から引っかけた鞄の紐を握り締めた私も隣人に倣い、背筋と膝裏を伸ばした。
「優しい人といい人って似てるように見えて微妙に違うでしょう。だから幸村くんは優しいって事でいいの!」
「俺の事なのにキミが断言するの」
「あくまでも私から見た幸村くんの話だもん」
「フフ……そう。優しい人といい人は似て非なるもの、ね。急に深い話をし出すからびっくりしたじゃないか」
「深いかなぁ? 辞書引いたら一発で違う意味だってすぐわかるのに。そもそもいい人っていうのはさ…………あ!」
「どうかした?」
「ごめん! 今普通に失礼だったね。別に幸村くんの事いい人って思ってないわけじゃないから!」
「ああ……うん、わかってるよ。キミが俺を悪人だって思っていたらそんなに屈託のない目で見つめてこないもの」
「……わ、私どんな目で幸村くんの事見てた?」
「鏡、見てみるかい」
 いいえ遠慮します、と丁重にお断りしつつカウンターに使用許可証と貸出用のヘッドフォンを返却する。
 目は口ほどに物を言うと故事にもあるし気をつけなければ。具体的に何をどう気をつけるのかはわからないけども。
 密かな決意を胸に秘め資料室のドアをくぐり抜けると、明るい光が目の底にまで差し込んできた。画面を見やすくする為に陽射しの侵入を防ぐ工夫をしてある室内と違って、廊下は目いっぱい太陽光を受け入れている。窓枠の影が反対側の壁まで伸びて、床には長い四角形の模様が出来上がった。
 引き伸ばされた陰影を飛び越えたり踏み入ったりしながら、どちらからともなく階段を目指す。
「それで、他にはどんなジンクスがあるの。キミの持ち物を借りて得る幸運に勝るものはあった?」
「からかわないでよ……私のなんかジンクス以下の嘘っぱち都市伝説だってば」
 ねえ絶対面白がってるでしょうと付け加えたら、隣を行く彼は首を横に振るでもなしにただ笑うだけなのでそういう事なのだろう。
 騙された。嘘つき。
 なじっても許される騙し討ちをされたわけだけど、ちっとも恨めしい気持ちにならず、むしろ仲良しの友達みたいでなんだか嬉しかった。
 全部、幸村くんがすごいだけの人じゃなくって話しやすさも兼ね備えているせいだ。
 お互いの事をよくは知らないけど全くの初対面じゃあないかな? 程度の関係なのに、二人きりでいても会話に困らない。私が人見知りしない性格だというのも多少はあるだろうが、一番の理由は幸村くんのまとう雰囲気が柔らかいからだった。
 私は高校からの幸村くんしか知らない。
 中学の頃、どんな事があったのか――彼が背負わなければならなかったものや、半ば伝説的な出来事として語り継がれている夏を、何も知らない。
 ああだったこうだったと当時の様子を人から伝えられるばかりで、私自身が見聞きした事なんて数えるほどしかなかった。
 だけどきっとそれでよかったのだ。
 知ったふうな顔で話しかけたり、根掘り葉掘り尋ねてみたり、中等部から立海に行っておけばと後悔するより、こうしてなんでもない話を気楽に続けられる方がよほど有意義で大切な事だと心から思う。
 私の知ってる幸村くんは、なんでも出来るすごい人で、運動神経がよく、力持ちだし優しいし、大抵穏やかに笑っていて、テニスが強くてガーデニングが趣味で絵心もあるマルチな才能の持ち主で、でも時々人をからかって面白がるような普通の男の子っぽさもある、立海一のテニスプレイヤー。
 ――うん、充分だよ。
 心でそっと呟き噛み締めると、ぬくい余韻が体中へ染み渡ってくすぐったかった。
「なんだ、テントウムシと違って他は試さなかったのかい」
 校舎ごと私達を温めるような陽の光に滲んだ幸村くんが、唇の端をやんわり持ち上げながら言う。
「他のジンクスは調べてみただけだよ! そこまで必死に幸運手に入れようとしてないから! まあ、確かに人より詳しくなっちゃったけど……。テントウムシは、その、魔が差したっていうか」
「そう。あの時は葉をひっくり返してまで探していたようだったし、何事にも手を抜かない子なのかと思っていたよ」
 そこまで見られていたのか、と軽く衝撃を受ける。
 あの時、すんでの所で飛び立たれてしまったので尚更気になり、別の花にテントウムシがいないか結構念入りに探していたのだった。
「……どんだけ必死に幸せを求めてるの、私?」
 恥ずかしさをぐっと飲み込んでなんとか会話を続ける為の努力をする。
「嫌だな、そういう差し迫った空気を感じなかったから不思議に思って聞いているんじゃないか」
 よく晴れた日の中庭、咲き誇る花を愛でるといった情緒を含まぬ真剣な眼差しで、葉の裏を一つ一つ丁寧に確かめる女子。
 誰がどう見てもまるきり奇行である。
 本当に幸村くんには変な場面を目撃されてばかりで、数ヶ月遅れの羞恥心が身を焼いた。
 違うんです、いつもはもっとまともなんです普通なんです、言葉を重ね彼の中に定着してしまったかもしれない変人のイメージを拭い去りたかったが、今ここで行動に移しても逆効果のような気がする。
「恥ずかしがらないで。聞いた俺も恥ずかしくなってきちゃうから」
 迷いながら次の一声を模索していたら、無言の意味を正しく理解したらしい人に先回りされた。完全に出鼻を挫かれている。
 彼が私に気にするなと伝えるつもりだったのはわかったけれど、言われた所で余計に恥ずかしい。言葉の選び方が常人のそれではない。珍発言じゃないし会話が噛み合っていないわけでもないのに、こちらが予想も出来ぬ角度から剛速球を放られた気分に陥ってしまう。
 鼓動の軸がぶれて胸が詰まった。
「…………普通言う? そういう事」
「普通がどういう事なのかは知らないけど俺は言うよ」
 なんと堂々たる身構えか。
 少しだけ私の方に傾く顔に恥のはの字も窺えず、そうですかとしか返事のしようがない。いっそ清々しく、ずれ始めていた心臓の音も彼の態度に引きずられて静まっていく。
 一瞬だけ止まった呼吸が戻ってどっと溢れ流れ、溜め息ついてる、と笑われた。
 これはほっと一息とかそういうので溜め息じゃない、否定すれば一層の微笑みが降って私の目を和らげる。
 人気のない廊下に足音が響く。
 窓の向こうには見事な青空が広がっていて、ふと視線を下へ落とすと陽に輝く煉瓦道と花壇のいくつかが見えた。幸村くんがお世話をしている花壇は、と探しかけて諦める。中庭に面している方の階段を目指せばよかった。今私達が歩く位置からでは渡り廊下の屋根が、一番わかりやすく視界に映り込んでくるオブジェだ。
 それにしたってあの時――テントウムシ捜索に励んでいた時、近くに誰かの気配なんてしなかった。
 お前が鈍いだけじゃんなどとツッコまれればそれまでの話だが、幸村くんは一体どこから私の珍妙な行動を眺めていたのだろう。すぐ傍ならなんで気づかなかったかなと反省するし、遠くからだった場合は目撃者が他にもいる可能性が高いのでより深く反省しなければならない。幸村くん一人に知られているだけならまだしも、多数の人に首を傾げられでもしていたらと考えるだけで身が竦む。
 まあ、どちらにせよ彼に対しては賛辞しか浮かんでこないのだけれど。
「でも幸村くん、本当に目がいいんだねぇ」
 近かろうが遠かろうが、よく人を見ている証拠だ。
 中等部の頃に強豪テニス部の部長を務めていたらしいから、自然とそういうスキルが身についているのかもしれない。日常生活にも表れるなんてよっぽど努力しているのだろう。やっぱり幸村くんはすごい人だと素直に思った。
「……え?」
 賞賛を込めて口にしたつもりだったのに、返ってきたのは気の抜けた声のみだった。
 幸村くんがきょとんとした顔で私を見下ろす。
 ちょっと可愛い表情に頬が独りでに緩んだ。
「私、テントウムシ探してるとこなんか誰も見てないって思ってたよ。ほっぽってある用具も見つけるし、私の絆創膏とか傷口開いちゃって血が出てるとかも気づくから。あ、視力がいいってだけじゃなくて……なんだろう、気配りも出来るんだなぁって」
 話す途中で言葉足らずを自覚し付け加えたのだが、対する幸村くんはなんとも言えない面持ちで瞬きをしている。
 そして一秒と経たぬ内に苦笑した。
 かすかに震えた空気が混ざり、私の肌へとても静かに触れ、まさか嫌味に聞こえたのかと心配になってしまう。
「ええと、だから羨ましいなって……私目悪いし、そういうとこにまで気づけないから……」
「そうかな。ありがとう」
 礼を口にしておきながら、どことなく困ったふうなのは気のせいだろうか。
 え? と問いたいのは私の方だ。何度振り返ってみても、そこまで妙な、場にそぐわぬ発言をしたとは思えない。
 思考が空回っていくのを感じつつ懲りずに今さっきの会話を脳内で繰り返し再生をしていたら、頬を打つ視線に気がつく。
 顔を上げる。歩くスピードがゆるゆる落ちているのを数歩遅れで知ったが、どうする事も出来ない。
 幸村くんはただじっとこちらを見ていた。
 おとなしやかな笑顔でも、困り顔でもなく、だからといって無表情では決してない、私が持つ言葉だけだと表現出来ない澄んだ視線で、私を見ていた。
 ほんのわずかな間の事。でも何故だかとてつもなく長く感じられた。
 不意に幸村くんが目元を滲ませて、穏やか極まりない声を零す。
「眼鏡の跡がついてる」
 私は大いに慌てた。
「えっ嘘!?」
「うん、嘘」
 あっけなく言い捨てられ顔を覆い隠そうとした手が行き先に迷う。お、おのれ……と時代劇じみた反応をしてしまう所だった。
 幸村くんの軽い冗談だと理解したものの、念には念を入れて鼻のつけ根あたりをさすってみる。皮膚を摘んで離し、撫でたり指先をぐるぐる回したり、考えられる限りの方法を試し、万に一つの事態を回避せんと没頭した。
 そういえば流れで一緒に資料室から出てきたけど、相変わらず悠然と歩く隣の人はどこまで行くのだろう。
 自主練日って言っていたからミーティングでもするのかな。
 目頭にも及ぶマッサージを続けるさ中、階段傍の防火扉が近づいてくる。階段を上がれば屋上に続いているが、はたして彼は下るのか否か。
 尋ねようとして、吸った空気を断ち切られた。
「単に見ていたわけじゃないんだ」
 主語がない。しかし、聞き返す前に微笑まれて息を飲む。
「キミの事。昔、聞いた話を思い出していた。緑の指って知ってるかい?」
 わかりませんの意で首を振るも、幸村くんは柔らかな表情を崩さない。無知を責めるような人ではないのだ。
 逆に居た堪れなくなった私は、世界中のどんな場所でも植物を上手に育てられる人の事を言うんだけどね、と続いた説明に目を見張った。どこをどうしたら私の奇行と幸村くんが語る美しき逸話が結びつくんだとも思った。
 いやいや、そんなまさか、私に花々を育む才能があるとでも? というか育ててないし。育ててるのは幸村くんだし。
 混乱のあまり目が回りそうだ。
「あのぅ……その話と私にどんな関係が……」
「あ、信じてないだろう。酷いなぁ、真面目な話をしているのに。あの後、花達も綺麗に咲いていたんだよ」
「…………冗談だよね?」
「フフ、本当」
 掴もうとしても掴み所のまったく見当たらぬ様子に、二の句も浮かんでこない。捕まえにくさはテントウムシの比じゃなかった。神の子を虫と比較するとは何事かと叱責する声が頭のどこかで響いているが、どうしても他の表現が出てこず唇も固まったままだ。
 やがて辿り着いた踊り場を幸村くんは悠々と過ぎ、初めから決まっていた事のよう段を下っていく。
 一拍遅れてついていくしかない私の心臓は、思いきり握られたみたいに縮こまっていた。
 階段は上部に取りつけられた窓から注ぐ陽射しに満ち、明るい光の絨毯が敷かれたみたいだ。見慣れた風景のはず、でも足を下ろす位置に戸惑うほど今の私にとっては非日常だった。何もかもが夢のよう。
「俺の花に触れる指が綺麗だったから、つい見惚れてしまってさ」
 もののついでのように言い渡され喉がひっくり返りそうになる。
 今、口を開いたら裏声が飛び出ていくのは確実だったので、ひたすら押し黙ったまま幸村くんの言葉を聞いた。
「だから俺は群を抜いて目がいいわけでも、特に気が利く奴でもないんだ。勿論、キミがそう思ってくれるのは嬉しいんだけど」
 ちょっと困る。
 階段を踏む音と声とが溶け合って鼓膜を弾く。
 私の胸の中、暴れてもいいはずの心臓は不気味なくらい黙り込んでいて、この反動がきた時の事を考えるだけで恐ろしい。舌の根っこが異様に渇いた。
「でも嫌じゃないから。責めてはいないよ」
 話の内容にそぐわぬ朗らかさで幸村くんが笑う。
「本当はずっと、こうしてキミと話してみたかったんだ。ありがとう」
「……い、いいえ……どう、いたしまし、て……?」
 人生の岐路なんじゃないかレベルの重大場面だというに冴えないお返ししか出てこず歯噛みする。視線を合わせるのも俯くのも間違っている気がして、かなり目が泳いだ自覚はあった。だけど少しだけ先を行く彼は気にする素振りを一切見せない。
「ついでにもう一つ聞いてみようかな。ねえ、この後何か用事はあるかい。なければ一緒に帰ろう」
 手品みたいにするすると紡がれる文句に圧倒されてしまう。
 唇が中途半端に開いて、うんいいよと隙間から漏れた声は明らかに細くて小さかった。
 幸村くんが尚深く微笑む。
 そうか、よかった。
 しつこいくらい何度も私の思い違いだと言い聞かせたけど、自惚れて後で泣きを見るのは自分だけだと戒めたけど、これ以上ない安堵が滲んだ一言だった。
 辺りの空気に落ちた響きが柔らかくて、今度は私が困った。
 彼が何を恐れ、どうして安らいだ息をついたのか。
 無闇に理由を追い求める本能を、なけなしの理性がいや待て今はやめようせめて家に帰ってからにするんだと引き止める。冷静さを保とうとすればするだけ取り落としているのではと不安でならない。
「じゃあ俺、鞄を取ってくるよ。キミは昇降口で待っていて」
 言うが早いか幸村くんはもたつく私を置き去りに颯爽と階段を下り始めた。つくづく足が長い。
 そして、今の今までこちらのペースに合わせてくれていたのだと思い知る。本当はいくらでも早く歩けるのに、時間を費やしてくれたのだ。
 息の根がどこに存在しているのかなんて具体的にはわからないけど、ともかくあっという間に握り潰された。血が首から上へ集まって煮立つようで呼吸もままならない。力尽きて止まった足が情けなく震えてしまう。限界まで縮んだ心臓はしぶとく生きているらしく、胸のあたりが死ぬほど苦しかった。
 次の階まであと数段という所で幸村くんが私を振り返る。
 不思議そうな眼差しで見上げ、それから小首を傾げて笑った。
「慌てないでゆっくり下りてくるように。でないと、この間サッカーボールを蹴ろうとして空ぶった時みたいに転ぶだろう、キミは」
 走馬灯の速さで時間が巻き戻り、正解と思しき場面に辿り着く。
 体育の授業で幸村くんがずば抜けて美しいフォームで跳んだ日。散々見入って感嘆の息に胸を濡らしていた私はあの後、パス練習でボールを蹴り損ない尻餅をついたのである。
 あっと口が間抜けそのものの形で開き、瞬間湯沸かし器並のスピードで両頬に熱が溜まったのが自分でもわかった。
 当時味わったものと比べようもないほどの恥ずかしさが込み上げ爆発する。
「こ、転ばない! もう、変なとこばっか見てないでよ!」
 下の段から見ても真っ赤になっているのが見て取れるだろう私の勢いに、彼はついに隠し立てせず声を上げて大笑いした。
「それはしょうがない。わざとじゃないんだ、許してくれ。何せ俺の目はキミがいるとよくなるようだしね」
 そうして最後に捨て置けない言葉を放り、春の風の如く爽やかに去っていく。足音もなかった。踊り場を抜け、私達の教室がある方へ姿を消されては、追いかける言葉だって間に合わない。
 放課後の校舎が元の静けさを取り戻す。
 遠くから誰かの気配が届き、扉の開閉音や部活動に励む生徒のかけ声もちらほら聞こえ出した。だけどぼんやり薄い膜が張ったみたいに現実味がない。背中側から降る陽光は、これから行く道を温かに照らしていた。
 一人取り残された私は呆然と立ち尽くし、自分で言ったくせしてどこか照れたようだった人の顔を思い返す。
「……えええ……?」
 風邪でもないのに熱っぽい顔に手を当て、戸惑いを漏らしてみるもあまり意味をなさなかった。
 彼がいなくなった途端解放されたらしい心臓が一気に脈動し始め、もはやドキドキとかいう段階をすっ飛ばしてどかどかとダイレクトに肋骨を叩いてくる。
 痛い。苦しい。おかしい。そのはずなのに、何一つ嫌じゃないのがまた変だ。
 私はいよいよ本格的に白昼夢を疑った。目を開けて寝ているんじゃないか。もしくは現実の自分は家のベッドで眠っているのではないのか。考えても考えても明確な答えに出会わない。
 先ほど止まったきり張りついていた足の裏を剥がし恐る恐る一段下ったら、しっかりとした感触が上履き越しに伝わるので、どうやら都合のいい夢想に目が眩んでいるわけではなさそうだ。見るも無残に階段が崩れ奈落の底に落ちていくだとか、悲しくも恐ろしい夢オチを迎えたらどうしようと不安だったからひとまずほっとした。
 しかし相も変わらず私が置かれた状況には説得力が不足していると思う。資料室からさっきまでの幸村くんの全部を繰り返し思い出してみても、展開が急すぎて嘘みたいだ。とてもじゃないが信じられない。
 なんだかすごい事を言われた気がする。やっぱ夢かも。幻なのかも。
 だけど何もかもが本当だったら眼鏡の跡をつけたままじゃいられない、心に決めた私は殊更念入りに鼻のつけ根を揉みほぐすのだった。