この夜の闇路を照らしたもう




すっかり暗くなった後の事だった。
短い冬日が消え失せ、一面の闇に覆われる頃。
唇からこぼれた息の白が、弾んで跳ねて砕けていく。



正月ボケをしないように。立海生らしい振る舞いを心掛けなさい。よいお年を。
SHRがお決まりの挨拶でお開きとなったが早いか、教室内の空気は清々しい解放感に包まれた。
1日だけ来て次の日から冬休みってダルいよね、なんで25日から休みにしてくれないんだろ、はしゃぎながらも口々に不満を連ねる友達やクラスメイトと別れを告げ、図書室と自習室のある棟へと足を向ける。
浮き立つ雰囲気で染まる折角の終業式、自由時間を満喫するでもなく颯爽と家路につくでもなく、何が悲しくて教科書や参考書類の詰まった鞄を抱えなければならないのだろうか。
思いはしたが、結局は自業自得、不徳の致す所です、全面的に反省するべき点なので堪えた。定期試験とは別に受けた実力テストの結果が赤点でないものの芳しくはない、内部進学するには事足りるだろうがお前の場合この先どう転ぶかがわからない、諸先生方の渋い顔の裏に漂う親心に近い心配の気配が胸に刺さり、促される前に答案用紙の見直しと復習をしよう、口に出さぬまま宣言したのである。
正気か、呆れ顔で言い連ねたのは中等部から長く付き合って来た友達だ。
確かにイブが本番という風潮はあるが25日の今日、居残ってまでやり通す事でもないだろう。
懇々と説かれ、思わず苦笑してしまう。

「なんであんたって時々変なとこで真面目になるわけ。真面目成分使うとこ間違えてない?」
「それたまに言われる」
「あわかった、彼氏にでしょ。てーかその彼氏と24日も25日も過ごせないんだから、余計に今日遊んどことか思わないの? 誰も見てないのにきりきり頑張る事ないじゃんクリスマスくらい。どっかでお茶してカラオケ行こうよ」

気遣いが社会人じみている。
優しい友人を笑って茶化せば、

「私からしたらと幸村君のが社会人みたく見えるんだけど。彼が忙しいからクリスマス会えないけど私は私で頑張るーとか思うのやめときなよ、ホント」
「…そこまでは思ってないし、別に社会人っぽくないよ」
「えーそう? 高校生の内からそんな聞き分けいい子になっちゃってマジで大丈夫?」
「いや聞き分けてるんじゃなくて、単純に慣れたっていうか」
「あー…そっちか。確かに言われてみれば無理して頑張ってる感じ、しないもんね、。まああの幸村君と付き合ってれば慣れもするよね」

じゃ気が向いてやっぱカラオケ行こっかなってなったら連絡ちょーだい、後腐れのない誘い文句を置き土産にして去っていく。
軽く手を振って見送るさ中、件の彼に問われ、もう慣れた、簡潔に答えた日を思い出した。
いわゆるお付き合いとやらを始める以前から多忙を極める人だと感じていたし、日常を実際目の当たりにすると、全員に等しく与えられたはずの時間が彼にだけ多めに振られているのではないかと疑いたくなるくらいあれもこれもとこなしてみせるから、何かと要領がいいのだと考え至る。
それでもごく一般的な生徒と比べると会える機会は少なく、一体いつデートしてるの、先刻の友人ばかりか数人のクラスメイトからも尋ねられる始末、日曜日遊べる時もあるよ、すぐには掘り出せず辿らなければ拾えぬ以前の記憶と共に応じ、すごいね、偉いね、大変だね、感心したと嫌味なく紡がれる各々の声に謙遜しつつ、内心首を傾げる他ない。
精市くんと知り合ってすぐ付き合ったのならいざ知らず、それなりに友達の期間を過ごした上で始めれば、だって中学の頃から忙しいじゃん、答えるしかなかった。
選抜合宿や遠方の学校との練習試合、果てには海外遠征までするような人なのだ。そりゃ私だって流石に誕生日くらいは会いたいし、会えないならせめて声を聞きたい、お祝いもしたいけど、やれクリスマスだバレンタンだホワイトデーだ付き合って何ヶ月目だ、四季折々に散りばめられたイベントに逐一対応しろとまでは思わない。
過ごせたら嬉しい事は嬉しいが、何が何でも譲れない、といった不退転の決意が沸かないのだ。
その辺りのある意味女の子らしくない心境を外から覗き込めば、聞き分けのいい子、に映るのかもしれない。
テニスは精市くんにとってなくてはならぬもの。
どんな事があってもラケットを握りコートに立ち続けようとして来た人の、本人は構わないと鷹揚に受け入れそんな事ないよと否定してくれるだろうけど、邪魔だけはしたくなかった。

「それはそれでつまらないなぁ」

12月に暇な日はあるのか何の気無しに尋ね、案の定埋め尽くされた予定を聞かされ、あらかじめ想像していたが為に別段引っ掛かりを覚える事なく頷いたら、苦労かける、とこちらの気軽さに相応しくない大仰な物言いがぽんと転がる。
言葉ばかりが重たげで、伴う響きは穏やかだ。だから私も同程度のものを返す。
かけられてないけど。かけられているとは思わないのかい。思わないけど。だけど、デートどころか一緒に帰る事もしばらく出来ていないだろう。うん、でももう慣れたよ。
体育の授業で遊び半分に打ったバドミンドンのシャトルのよう放り合う言葉が落ちた。
私を見下ろす精市くんの瞳が一瞬丸く開かれ、ものの数秒で優しい光を纏う。
表情は朗らかな春の陽射しめいて柔らかく、しかし空気に溶けた一言はどこかちぐはぐだった。
不機嫌に歪むでも、悲しげに微笑むでもない、彼はただ目尻を緩め慕わしげに囁いたのである。
つまらないなぁ。

「……なんの話」

不可解過ぎて眉間に力が籠もった。
相対する笑みが一層深くなる。

「俺と君の話」
「えーと……精市くんの気持ちの話じゃなくって、私もなの?」
「俺の方はが大人しくてつまらないという事だから俺の気持ちで合っているけれど……きっと誤解されているだろう迂闊な君の話でもあるから、俺と君、二人の話で合ってるんじゃないかな、フフ」

誤解ってどこが、とつい先程の会話を顧みる傍から柔らに叩き切られてしまう。

「だっては俺の事どうでも良くないだろ」
「え!?」
「もしかして、違ったかい?」
「ちがっ、違ってない! …けど、でも」
「そう、むしろ逆だ。どうでも良くない俺がずっと近い所為で慣れたんだよね」
「う、うん……ん?」
「君の事を思い遣るのなら言動に気を付けるよう釘を刺す所なんだろうけど、ごめん、皆には誤解されたままでいてくれ」
「ええー……?」

あげくに終着点も行き先も知らされぬ問答に巻き込まれ、ろくな返事も出来ない。
というか結構酷い仕打ちを受けている気さえして来た。
曖昧になる一方の語尾を奏で唸る私を尻目に、どんなに忙しくても自分のペースを崩さず歩む人が肩を揺らしてささめく。

がわかりやすくてわかりにくいお陰で飽きないし、何より楽しいからさ。いつもありがとう」

微妙に面白がられている、あたたかな温度を含んだ声の理由もいまいちピンと来ない、喜んでいいのかどうかさえわからず、相乗効果で返しが非常に冴えないものと化した。

「……どういたしまして……」

だけど当の精市くんはまるで自分が感謝を目一杯浴びたかのよう嬉しそうに、触れたらすぐさまほぐれるに違いない微笑みを両頬へ乗せるだけだ。



そうして和やかに過ごした時間は今や遠く、彼は予定通りに忙しいらしく先週から姿自体見掛けていない。
ただでさえ恐るべき生徒数を誇る我が立海、学年が一緒だろうがタイミングが悪ければ会う事も難しいのに、何校かと合同で練習試合する為の合宿だと校外へ旅立たれては手も足も出なかった。
1年365日テニスへ尽くす人の口からは当然クリスマスのクの字も出て来ず、そもそも気を付けてねと告げた出発の前日は12月もまだ半ばで街並みばかりが聖夜へ急ぐ雰囲気だった、今年の12月24日は日曜日で冬休みは明日から、場合によっては年内会えず仕舞いで新しい年を迎えるかもしれないな、はっきり言われた訳じゃないけど覚悟だけは決めている。
確かに社会人のようだと揶揄されても仕方がない。
しらずしらず竦めていた肩を吐く息と一緒に下ろして、開いた参考書と答案用紙とのにらめっこを開始した。







籠もった自習室は視覚視聴室と似て外の様子を教えてくれる窓もなく、煌々と降る人工の光をあてにし過ぎた所為で、そういえばと現在時刻を確認した時は既に日没の頃合いを回っていた。
荷物をまとめ扉をくぐると、向かいの校舎さえ探せない程の深い暗闇がガラス窓にへばり付き、騒がしさだらけだった昼間と打って変わって耳が痛む沈黙に支配された廊下が端まで続いている。
たくさんの体温が取り除かれた壁の内は凍えてい、蛍光灯が窓の外の暗黒を跳ね返そうと音もなく戦っている。試しに息を吐くも、濁らなかった。
まだ夕方と夜の狭間だ、気温は急降下しても身に染みる冷気といったレベルにまで達していないだろう。
ならば今帰るべきだと即決し、下駄箱の手前でお前こんな日に何やってんだと憐みの眼差しで帰宅を命じる先生とすれ違い、どれだけ寒さが厳しくなったとて凍り付かずに堂々構える校門を抜ける。
ホッカイロを貼り付け、マフラーに手袋と完全装備で立ち向かったが、師走の冬将軍にはどうしても勝てなかった。
指や足元から熱が奪われていく。
毛羽立った頬の皮膚が痛い。
首をすぼめて冷たい空気の流れに耐えて歩く最中、カラオケでクリスマスを謳歌しているはずの気遣い上手な友達へ連絡をする。
時間も時間だし、今日は帰るね。休みの間暇な日に遊んでよ。
1分もしない内に画面が光った。
私はたまにでいーからまず彼氏と遊べ!
率直過ぎるメッセージに一人吹き出し、これじゃあ不審者だとすぐ噛み締める。
会えなくても全然大丈夫なんて嘘はつけない。
道すがら目にするテニスコートにレギュラー陣――頂点に座する人の姿がないと寂しいし、クラスは違うけれど同じ学び舎にいるのだから、と慰めるのも叶わなければ心の真ん中がぐらついてしまう。降る時間は私と彼で変わるはずもないのに、少しずつ遠くなる。

「クリスマスってだけで約束しなくても会えたり、自動的に一緒にいる事になって、特別になれる日じゃん? 、勿体ない事してるって自覚あるわけ」

12月に入って一週間経った頃、煌びやかに色付くショップの並びを横目に友達が奏でた声音と言の葉達が今更強い主張を帯びた。
そうなのかもしれない。
でも私はやっぱり、どうしても、何がなんでも、とは願えないんだ。
会える可能性がゼロだなんて決まってないし、と今朝鞄の内ポケットへ忍ばせた小さな悪あがきに意識を飛ばしつつ、駅前やショッピングモールに満ちるきらきらした眩しさの渦を通り過ぎていく。まるきり他人事のようだ。行き交う人達は一様にはしゃぎ、楽しそうに笑い合っている。
駅のロータリーで時刻表を確認すれば徒歩の方が早く着きそうだったので、脳内計算を信じ青信号の横断歩道目掛けて飛び込む。
なるべく明るい方を選んで通り、日没後の黒を押し退ける綺麗なライトアップが減っていくのを歩くついでにぼんやり眺めた。
自宅の近くまで辿り着けばこの時期特有の華やぎも鳴りを潜め、頭上の電灯や家々の窓から漏れるささやかな灯りばかりが暗い夜道を照らし出す。
頼りないと表現するしかない光が途切れ、ローファーのつま先は闇に飲まれてアスファルトと一体化した。
二つ先の角を曲がれば家はもうすぐそこだ。
孤独に響く足音にバイクや車のエンジン音が時々混ざって、進む度に背後ろへ呼吸のしるしが流れていき、自転車に追い越された時巻き起こった微風で耳朶の冷たさを知る。
何かに唆され首を反らしたら、真っ暗な空に半分の月と他の季節より隅々まで散りばめられた星が見えた。
立ち止まった途端、白く上る息で視界がぼやける。
慎重に肺を萎ませる事を心掛け、小さな星明かりを順繰りに辿ってゆき、一つ一つ結び繋いでいけばオリオン座の形が浮かんで来た。冬の星座なんてそれくらいしか知らないから、後は星が多いな程度の感想しか抱けない。
目先を散らして、分厚い暗幕じみた夜陰と静かにまたたく無数の彼方を見澄ます。
きよしこの夜、星は光り。
頭の中でキャロルが流れた直後、コートのポケットへ落とし込んでいた端末の低い振動で我に返った。ブーッ、と規則正しく繰り返される音源を引き上げ、瞬時に指先が跳ねる。
予想だにせぬ名前が浮かび上がっている所為だった。
‘精市くん’
動揺した喉は思い切りへこんで、見間違いだったらと目を凝らし、けれども一向に消えないので呼吸がひっくり返る。
この世の終わりが迫りでもしたか一刻を争う一大事かといった勢いで冷たい端末へ顔を近付け、耳を当てた瞬時に鼓膜が揺らいだ。

『もしもし、。もう帰っちゃった?』

――ほんとに精市くんだ!
通知画面で発信相手がわかっているのに叫びかけ、意図せず妙な間を作ってしまった。

「っか、か…えっては、ないです」
『じゃあ帰りがけだ。あと少しで家に着く所だったろう』

何故こうも見事に言い当てるのか。超能力的なものが備わってるんじゃないの、神の子なんだし。
呆気に取られる間にも心臓が速まってうるさい。

「……そこまであと少しって距離じゃないよ」
『フフ…そう。ねえ、これから会えるかい。俺、今駅に着いた所でさ』
「えっ! うん、平気!」
『良かった。転ばないように気を付けておいで』

注意される前から勢い余って転んだ返事を受けてか、少々笑みを秘めた忠告だった。
応じる間もなく待ち合わせの場所を告げられ、待ってるから、何気ない一言を貰って通話を終える。
離したディスプレイが知らせる時刻は6時10分前。
顔の右側が異様に熱い。
いつもと違った近さで届く、電波に乗った精市くんの声は柔らかくて、呼吸の間隔さえ感じ取れた気がする。
破裂寸前まで昂ぶった鼓動に影響された肺と気管が潰れそうだ。辛くはないが苦しい。
嬉しいのに胸が張り裂けるんじゃないかとおののいた。
ほのかに潤む目元と渇いた唇をコートの袖口で軽く拭い、足を迷わず反転させる。
そんなに長い間、聞いていなかったわけじゃない。
でも久しぶりだった。
精市くんが私の名前を呼ぶ声を耳にするのは本当に久しぶりだと錯覚するくらい、きっと会いたかった。クリスマスでもクリスマスじゃなくても、この日だけは絶対にと強く思えなくても。


来た道を一目散に駆けていく。
時間を高速で巻き戻す勢いのままついさっき目にした風景を遡り、大きな通りに出、ちょうどのタイミングでやって来た駅前行きのバスに飛び乗った。
込み合う車内で荒れた息を殺す。全速力で走った末効き過ぎる暖房に当たった為だろう、完全冬仕様の装いが災いと化して暑い。マフラーをほどき、コートの第二ボタン辺りまで外して、本格的な汗なんか絶対かきたくない、と籠もった熱を逃がした。
幾つかの信号機やカーブを通り越し、交通量と光の数が増えるにつれ、丸い円状の吊り革が揺れずにぶら下がっているだけの時間が増える。
停止しては発進しを小刻みに延々と繰り返すので、車酔いしやすい人にとっては地獄だろう。
帰宅ラッシュ、普段は聞き流している単語が頭を叩き、加えて駅近くの道路が工事中だった事を思い出した。まごう事なき工事渋滞だ。
毎年嫌んなるのよ、年末に集中させるの止めてほしいわ、といつかの母のぼやきに猛烈に同意する。
お母さん、言ってる意味がやっとわかりました。
時刻と連絡が来ていないか確認する手間も惜しくて、終点の二つ前の停留所で降り、相変わらず賑やかなクリスマスの光でいっぱいの駅前広場やテナント、ライトアップされたファッションビルを目指し、赤色灯でぼやける道路にぎっしり詰まった車の群れをぐんぐん追い越していく。
常ならば不可能であろう速度で頭をフル回転させ、最短距離を弾き出す。
青になるまで恐ろしく長い幅広の横断歩道を待つより、少し手前の道から駅舎と直通している歩道橋を通った方が早い、脳内ルートを頼りに影にまみれた階段を駆け上がった。
すれ違う人の波を渡り、踏んだ段の数だけ暗い天が近付く。
地上階行きのエレベーター近くにやっとの思いで辿り着いた時、冬の風を力一杯吸い込んだ反動で噎せそうになった。
コンクリート製の大きな橋上を通り過ぎていく大勢の中。
立ち止まったきりの一人が、暗がりに慣れた両目の角膜を淡く染める。
小走りで近付くごとに、闇の中に佇むその人が、灯火を得たよう鮮明になっていく。
高いビルから溢れる光の洪水を浴び、それらが生み出す薄い陰を纏った横顔は、私からして逆側へと傾く。
背をラケットバッグごと欄干に預け、剥き出しの手の甲でショルダーストラップを掛け直す、どうという事もない仕草が自然体で、でも映画のワンシーンみたいに様になっている。
ほんの少しも逸れぬ視線は、一方向へ伸びていくばかり。
刹那、心臓が体の中から強烈なパンチを間断なく叩き込んで来、耐え切れず顔を顰めてしまう。
は、は、とみっともなく乱れた息の音が耳の底まで響き、体の中身がどんどん膨れ上がった。痛い。名前を口に乗せようにも空回って、お腹から頬にかけてがたまらなく熱くて、上手く声に出来ない。
相当酷い有様に違いない己の姿を顧みず踏み出そうとし、いや駄目だと理性を働かせて歩幅を狭め速度を落とす。
せめて髪だけでも整えられないか。無駄な足掻きと理解しながら分厚い防寒具を外した手で跳ねた毛先を撫で付ける途中、まだ距離のある所でふと俯いた綺麗な鼻先に捕らわれた。理由も探せぬまま息を飲んだ。
学校指定のマフラーは合宿先にまで持っていかなかったのだろう、見慣れたコートだけを着込んだ私が一番会いたかった彼は、ポケットから取り出した携帯端末へ目を落とし、かと思えばさっさと元通りに戻す。現在時間か連絡が来ていないかの確認をしたのかもしれない。鼓動がひと際大きな音を立てて暴れた。
待ってくれている。
勘違いじゃない。
(精市くんが私だけを待ってくれてるんだ)
たったそれだけの事なのに胸が詰まって、ともすれば塩辛い涙で喉が湿りそうだ。目一杯かぶりを振り、力ずくで感傷を撃退する。
今まで何度か久しぶりと交わす経験はあったけれどこうも浮ついた覚えはない、クリスマスムードに影響されるにも程がある、振り返れば振り返るだけひたすら恥ずかしい。
二度三度、大きく深呼吸し、渇いた口腔内を喉を鳴らして潤わせ、出来る限りゆっくり、慎重に歩いていく。変に裏返って呼んでしまわないか、きちんと自分の言葉を繋げるだろうか、不安で仕方がなかった。
心拍は激しさを増す。
さっき開け放った襟や胸元に真冬が差し込み、寒くて冷たいはずなのに全く気にならない。
彼の眼差しは柳くんあたりに随分熱心だなと揶揄されかねない程ひたむきで、反対の階段側に固定されっ放しだ、どういう意図があってか動く気配が一切窺えないのである。
私はあえて息を止めぎりぎりまで近付く。
我慢しようと固く誓っても、頬が蕩けるのを止められなかった。

「精市くん、私こっち」

フルスピードでダッシュにはこれが一番だと右肩に引っ掛け抱えていた鞄を下ろし、後ろ手に回して、たった一人を呼んでみる。



はっとこちらを向いた彼が目を見開いたのはほんの一瞬だけ、数える間もなしに優しい声音と笑みほぐれた表情に様変わりした。
釣られて余計笑いそうになる。たるんで緩みきった私を咎める事なく、精市くんは目尻に温もりを湛えていた。
目線が移り変わる速さに、灯りと暗色とをひと息に吸う瞳の振れ方、手摺へ預けていた背中を起こす時微かに揺れた前髪、実感を伴う余韻を味わいながら口を開く。

「改札の前って言ったの精市くんなのに、なんでこんなとこで待ってるの」

不思議と力の抜けた肩で息をつくと、走る最中はまるで頭になかった細事が気に掛かり始め、率直に尋ねる。
駅の出入り口、ビルの無数の窓や外装から届く輝きは少々遠く、私が別ルートを選び改札口を目指していたら会えなかった可能性が高い。

「君が慌てて走って来る所を見てやろうと思ってさ」

すると、とんでもなくいい笑顔と一緒にともすれば意地が悪いと受け取られてしまうだろう返事が戻った。
何がしたいの、どんな根性してるんだ、面白がってくれてどうもありがとう、普段はツッコむか跳ねのけるか打ち返している所だが、今日の私はやっぱりどこかおかしいのかもしれない、これまた締まらない声を転がし笑ってしまった。

「珍しく外したね?」
「はは! 本当、外しちゃった。俺もまだまだ精進しないといけないなぁ」
「…なんの精進」
「いい加減予想外の展開には慣れたつもりだったんだけど、慢心していたのかもしれないって事だよ。なかなかやるね、も」

自省じみた台詞を紡いでおきながらのんびり揺れる微笑みを間近で見、はたと呼吸に間が落ちる。
関連づけず目に入れて来た行動の一つ一つが収束してゆき、全身の血が首から上へ集まって塊になった。
これではほとんど暴力だ。重過ぎる質量で両頬が熱っぽく強張ってしまう。
気のせいだと振り切り納得出来るだけの訳が見つからない。
精市くんが眺めていたのは、私がここの駅での待ち合わせによく使う通り道だった。
南口の改札へ向かう場合、バスターミナルから階段を上った先、四方八方へ別れる歩道橋のひと筋。
精市くんは私を見つけるのが上手くて、学校の外で会う時にこっちだよと手を振られるのはまずこちらの方、声を掛ける前に気付かれるのが常だ。
第六感や超能力、或いは神がかった予知能力の持ち主ではないか、本気で訝しんだ日の情景が脳裏で瑞々しい色彩を得る。
でも多分違う。殊の外丁寧に見ているから、人より先に気付くのだろう。
今日だけじゃなくて、いつもいつもあんな風に、私を待ってくれていたのかもしれない。
考え至り、勝手に睫毛が下向く。
喉がきゅうと締め付けられ、まともに息継ぎが出来なくなった。
平静を取り戻しつつあった心臓が再び腫れ上がり、肺が破れるのではと危惧する。指先に力を入れると、握り込んだ爪の表層が冷たい。悲しくもないのに目の端がしっとりと水気を帯びた。
独りでに震える呼吸をなんとか正し、意識しつつ声帯を動かしてみる。

「…………あの」
「うん?」
「……お疲れ様、精市くん」
「うん。と言っても特に疲れてはいないんだ、むしろもっとテニスがしたくて物足りないくらい」

子供のよう嬉しそうな笑顔でこぼすので体に起きた異変が悪化し、黙っていれば良かった、だけど今唇を縛ったら一歩も動けなくなる、思考が行ったり来たり惑う。高鳴りを抑えられないままおたつく私を知ってか知らずか、目の前で笑んだ形に跳ねて立ち上る白い息は、なんだか俺達仕事終わりの大人みたいだ、楽しげに語った。
社会人みたく見えるんだけど、と指摘する友達の声色が再生されたのち、無闇に火照った体を持て余し二の句を浮かべられずにいた脳内を、不意に以前組み交わされた会話が駆け抜けていく。
喉奥がうねった。

「あっ、そうだ!」
「今度はなんだい」
「渡したいものがあったんだ、忘れない内に渡し……たいんだけど、ちょっと待って」

クリスマス仕様の雑貨が見たいと言い出したクラスの友人に連れられ、とりどりの商品を追っていく内に輪から逸れてしまい、付き合うだけだったはずの私が手に取ったのは女の子が使うにはシンプル過ぎるデザインのもの。
イメージはこれなんだけど、渡したい相手の好みとは違うかも。
立ち尽くし真剣に悩んでいたら思い切りからかわれた放課後が、連想ゲームの如く鞄の中と繋がった。
取り払ったマフラーや手袋を雑に放り込んだ事が災いし、ごそごそと漁らなければ目的の包みまで辿り着けない。おまけに余分な勉強道具類を入れてしまっている、自ら心掛けた事とはいえ、何故今日に限って持って来た、ガラにもない事するんじゃなかった、などと支離滅裂な文句が頭の内を駆け巡る。
あれ? なんで? 絶対あるはずなのに。
幾度か繰り返していれば、遮る建物の少ない橋上を底冷えする北風が猛スピードで渡り、煽られた前髪や胸元へ寒気で作られたみたいな大きいボールが当たって砕け、みっしり詰まっていた凍れる中身で濡れそぼった心地に陥った。
堪えられず瞼をきつく閉じ身震いすると、見るに見かねたらしい精市くんが優しく、けれど有無を言わさぬ強さも含む仕草で以って、大きな通路の端を貫く太い支柱の辺りへ要領の悪い私を導いていく。
スクールバッグを半端に開いた状態で腕を引かれつつ尚も探り、人々が生み出す潮流から離れた強烈な日光や雨避けの庇の下まで移動し終えたのとほぼ同時、暗闇を吸い尽くした目と温度を奪われた指先が大事に仕舞っておいた贈り物を見出した。
当たりくじを引いた子供もそこまで喜ぶか怪しいというくらい、

「良かったあった! はい、これ!」

はしゃいで飛ぶ声と共に食らえとばかりに突き付ける。
完全に勢いを持て余している、気付いた時には遅かった。精市くんは目を丸くしてびっくりしているみたいだ。ぴんと伸ばしていた腕がしなしなと萎える。

「ええと、プレゼント…クリスマスだから。大したものじゃないんだけど」

しどろもどろの、実に冴えない渡し方であったにもかかわらず、合宿から帰って来たばかりでそれなりに疲れているはずの人はゆっくりと、まるで眩しいものを見詰めるように目元を緩め、ありがとう、雑踏の中でも確かに響く声音で紡いだ。
なんとなく身の置き所に困って、無意味に唇を引き結ぶ。
レジへ持っていくまでに時間を要し、ラッピングを決めるのも相当悩んだので、自分では飽きる程確かめた包みだったが、精市くんの節くれだった指に触れている様を間近にした途端、全くの新品に思えて来るのだから不思議だった。
開けてもいいか聞きもしないで包装紙を剥がしていく人相手に異議は唱えない。とうの昔に無駄だと悟ったからだ。付き合う前、中学3年のバレンタインの頃から、あなた周りの人が見えてないんじゃないですか、とぶつけたくなる状況に放り込まれていればいちいち気にしてもいられないのだった。

「へえ……キーケースか」

物言い自体は大人びていたものの、底に流れる音や大きな掌上へと傾く揃いの瞳がきらきらと輝いている。ほっとして言い連ねた。

「精市くん、家の鍵もロッカーの鍵も部活関係の鍵も全部一緒くたにしてポケットとか鞄とかに適当に入れてるでしょ。あとたまに自転車の鍵も。いつか絶対どれがどれだかわかんなくなるし、探すのも時間掛かっちゃうんだろうなって思って」

会計を済ませてすぐは、いくら何でも大人っぽいのを選んじゃったかな、渋過ぎたかもしれない、不安を覚えたものだが実際にこうして彼の手の内へ収まっている所を見ると、年齢にはそぐわぬ落ち着いた色味がシックな雰囲気を醸し出してい、己の審美眼というやつを信じたくなった。
自画自賛に近いけれど、やっぱり似合ってると独りごちる。

ってさ、俺の事よく見てるね?」
「いや笑ってる場合じゃないから。成績もテニスも優秀な優等生なのに、なんでそこでちゃんとしないの?」
「ごめんごめん。ちゃんとしないというか、単に気付かないんだ。どうでもいいわけじゃないんだけどさ」
「男子ってそういうとこあるよね……」
「あはは、苦労かける」
「…かけてるって本気で思ってないでしょ。嬉しそうに言って、説得力全然ないよ」
「でもまあ、君がこうしてちゃんとしてくれるからいいかな。ありがとう、大事に使わせて頂くよ」
「よくないし私別にちゃんとしてないし、人の言ってる事聞き流すのやめて!」

薄く濁る息を弾ませ詰め寄ったのもつかの間、ところで俺も渡したいものがあってね、鮮やかにも程がある話題転換に話の腰を折られてしまう。
果たしてこれまでどこに仕舞われていたのか、或いは手にぶら下げていたのを私が見落としていたのか、目と鼻の先へたおやかに突き付けられた小さめの紙袋には可愛らしいクリスマスカラーがあしらわれている。
えっ、とひっくり返って漏れた一言が闇と光の混ざる夜空に溶けた。

「どうして驚いてるの。君だって今、俺にクリスマスプレゼントをくれたじゃないか」
「そうだけど…でも、あの」

特別、約束してはいない。
会えない可能性が高いとも考えていたし、何より自分自身、イベント事に喜び勇んで参加するタイプではないのだ。
華やぐ街の雰囲気を感じはしても淡泊に眺めるタイプとされても仕方がなく、24日と25日について口の端にも持ち出さなかった今年は予定に組み込んでいないのだろうと受け取られて当然で、大体私はともかく精市くんにそんな浮ついた時間があると思えなかった。
様々を併せて有り得ないと断じていた所、想定外の贈り物が届けられ上手く言葉が出て来ない。

「ひょっとして、俺を貰う一方でろくにお返しもしない男だと思っていたのかい。傷付くなぁ、そんな風に見られていたなんて。自信をなくしそうだ。いや、もうなくしたよ。、ちょっと取り戻して来て」
「ど、どういう話の流れ!? ていうか精市くんの事そんな人だって思ってない!」
「じゃあ早く受け取ってくれ。はい」

語尾にハートマークの一つでも付いて来そうな調子である。
どうして仮にも差し出す側が微妙に偉そうなのか。
ツッコんでやりたかったが、再度速まりじんわり沸く体の中心が余裕を奪うので黙り込むしかない。
不思議な緊張感と嬉しくて滲む高揚を抑え、なるべく丁寧にプレゼントを賜ってから、開けてみてもいい、前もって尋ねる。私は神の子と違い人の子で鋼じみた心臓だって持っていないのだ、逐一怒る精市くんではないとわかっていても許可を得ず包装を開く事は出来なかった。
どうぞ、と想像に違わぬ穏やかな返事が耳を撫で、背を押される形で取り出し、集中させた視線の先にはうっすら見覚えのあるもの。

「あっ、知ってるこれ。けど…あれ、確か限定品じゃなかった?」

立ち並ぶショップへ寄っては季節ごとに生まれ変わる商品チェックに情熱を注ぐ友人らと集まった放課後、クリスマス向けのカタログにああだこうだと言い合っていた事が幸いし、流行に敏感とまではいかぬレベルの私でも記憶に留めていた。
これが欲しい、あれがいい、各々指差す中、私が惹かれたものは支店ごとに分けて記された2ページ目の右端、と細部まで覚えている。我ながら優れた記憶力だ。勉強でも発揮されるのであれば尚良かったのだが。
綺麗で可愛いラッピングを施されたチューブ型のハンドクリームのパッケージを目に当て、毎年冬に泣かされる身として、冷えと乾燥は大いに関係しています、との売り文句に身を乗り出し買いに行くかどうか真剣に悩んだはいいけれど、東京店限定、の注釈で諦めた事を思い出す。

「ふうん、見ただけでよくわかるね。俺全然違いがわからないや。もやっぱり女の子なんだな」
「……やっぱりって何」
「折角褒めたんだから揚げ足取らない」

まず褒め言葉に聞こえないと訴えるべき機会を、喉の奥で渋滞した呼吸の所為で逃してしまう。
むくれて映ってもおかしくない私を見下ろす一対の瞳は笑み崩れ、誠実な光を宿しながらまたたいている。足の裏がたわみ、居ても立ってもいられず咄嗟に口を開いた。

「合宿先、東京だって言ってたっけ?」

本当に言いたかった事、聞きたかった事ほどすんなり出て来てくれない。

「最初は千葉で、途中から東京。移動中に少し時間が取れてね、ついでに寄ったんだ。ああ、ついでって言い方は良くなかったかな、訂正しよう。を見習って‘一生懸命’店まで行ったよ、フフ」

練習試合はトーナメント制でなかなか有意義だったと語る音には張りがあって、彼がかつて味わったはずの痛みは欠片も窺えず、本当に心から望みテニス漬けの日々を送ったのだと知る。

「一通り見て回ったけど俺は化粧品とかケア用品に詳しいわけじゃないからさ、とりあえずこれかなってほとんど直感で決めたんだ。君の好みを外しちゃってたら……どうしようか。うーん、謝るしかないかな」
「……ううん。外してない」

何も含んでいないのに舌の上が甘い。欲しかったものだよと伝えなくてはならない、でも口元が痺れてなめらかには動かなかった。
休憩時間中か帰りがけか、一体どのタイミングで買ったのかわからないが、ラケットバッグを背負った精市くんが日頃近寄りもしないだろう、縁遠いはずの店内にいる図を勝手に思い浮かべて、なんともくすぐったい気持ちに襲われる。こう言っては怒られるかもしれないが、ちょっとだけ可愛い。
だらしなく緩む顔の筋肉を必死で整え、心だけは後から後から込み上げる喜びに委ねた。

「………お店、女の子ばっかで恥ずかしかったでしょ」
「まあ多少はね。けど店員さんも普通に接してくれたし、真面目に選び出してからは気にならなくなったよ」
「そっか。…ていうか合宿中なのに寄り道して平気だったの?」
「さあ。知らないけどいいんじゃない?」
「えええ!? 確認しなよ!」
「今更だろ。それに、腑抜けたツラしてんじゃねえ、いつまでも浮かれていやがったら足元すくわれるぜ精々気を付けな、と正面切って言われたんだもの、お叱りを受けたも同然だからそれで帳消しだ」
「いやそれ同然っていうか確実に怒られてる……」
「フフ、そう思うだろう? ところが言動と本心が一致しているようでしていない奴なんだ、彼は大して目くじらなど立てていないよ」

じゃねえとかいやがったらとか精々気を付けなとか、普段の精市くんが絶対口にしない乱暴な響きが新鮮だ。その実は優しいらしい彼とやらがどんな人なのか知りようがないけど、きっと私が感謝しなくてはいけない相手なのだろうとは思う。
だって胸がいっぱいだった。
視界の隅から潤んで和らぐ。
放っておけば日がな一日テニスに励んでいるかもしれない精市くんが忙しい合間を縫い、クリスマスの事を考えて、天罰が下りそうな自惚れを軸にして言い表せば、私の為に時間をかけてくれたのだ。
それが嬉しかった。25日に会えたのも心が弾んだけれど、想いや時を費やしてくれたという事が何よりも嬉しかった。
みっともなく震えそうな息をしっかと縄でくくる要領で押し殺し、細心の注意を払って吐き出してみる。

「……ありが」

とう。
全て伝え終わるより先に掌に在った贈り物を持って行かれてしまい、あまりの軽々しい仕草に声を失い表情も砕けた。
限定品と通年置いてあるスタンダード商品、二つを掲げた人が息を白く燃え上がらせ、

「どちらをお試しになりますか?」

売上ナンバーワンの凄腕店員も参りましたと膝を折る程、全開満開の気持ちのいい笑顔で問い掛けて来る。
またよくわからない事をし始めたな、この人。
心中にて悪態をつきつつ、反論したり退ける気力や理由がない、柔らかに温い衝動に唆されて、じゃあこっち、欲しくても諦めた方を指差すと、精市くんは事もあろうに先端のキャップをくるくる回して取っ払ってしまう。
お試しになりますかと尋ねられはしたが、まさかこの場で実行するなんて。
流石に慌てていつの間にやら取られていた手を引こうとする。

「えっちょっと…い、いいよ、自分でやる!」

結構な勢いで後退させたつもりだったにもかかわらず、神の子は遙か上をいく素早さと抜け目のなさで私の左手を捕らえ、相変わらずのにこにこ顔で決して人様に見せたくない潤い不足の手の甲へハンドクリームを少しだけ絞って付けた。
何がそんなに楽しいのか。
怪訝に眉を顰める間もなく、節々の際立つ指が肌を滑り出していく。
うう、と羞恥の呻きが自然に飛び出、色んな意味で恥ずかしかった。
通路の端っこの方だし誰も見ちゃいないだろうけど、こんな人通りがある場所で始める事じゃない。
精市くんは左の手指でこちらのそれを支え、利き手で以ってクリームを伸ばす。
もやっぱり女の子だなどと言っておいて、私なんかよりよっぽど丁寧な手付きだった。
巡る脈が激しくがなっているのに何故だか心地いい。うんと優しく触れられ頬に火がくべられてゆき、意識せずとも、むしろ抗っているのに、敏感に探そうとしてしまう。
高い体温と、骨の硬い部分。
自分のものより長い指はたくましくて太いけれど、肉付きが良いというよりラケットを振り抜いているから。
爪は伸びていない。健康的な色で艶めき甘皮まで瑞々しく、仮にも女子の私より手袋をしている日などほぼないに違いない彼の方が綺麗なのは最早呪いだ、恨めしくなった。
空の紙袋が下がって肘に引っ掛かっている。
大きな掌はゆっくり、殊更丹念に手の甲を撫で付け、ほっとする香りをもたらし、肉刺が出来ては潰れを繰り返した所為だ、でこぼこの指の根元に緊張を覚えていた私をさすり、不自然に力んだ肩から強張りを取り除いていってくれた。
親指に始まり、最後は小指、やんわり包みながら指の腹で押し辿る精市くんに爪の先まで余す所なく触れられ、体の奥から湧き出る熱で打たれて詰まる。
付け根、第二関節、第一関節、戻って水かきの薄い皮膚。
なんでもない箇所だろうが全部確かめたいのだと強く、だけれど優しげに反響する声なき声で告げて来るものだから、とにかく困った。
座り込むのも立ち続けているのもどちらにせよ違う気がして居た堪れない。
どんどん深まる闇夜に今は隠せてもいつか限度を越えてしまうに違いない、さぞ見事な赤に染まっているであろう頬が強烈な熱を帯びる。
血液に乗って流れる恥ずかしさの顕れは心臓へ引き戻され、一秒と経たず乱暴に押し出される。くまなく侵された全身が揺らぐ幻覚に目が眩んだ。
私じゃない人が持つ熱や肌の感触、過ごしたいつかの夜から体深くに刻まれた触れ方、指の一つ一つ、感じる都度どうしてか泣き出したくなった。
溢れこぼれて一度決壊したが最後、止められる気がしない。途方もない切なさが胸底で小さく鳴いている。
そういった癇癪を起こす子供じみた感傷を、鼻腔をほのかにくすぐる芳しさが宥めすかす。
変に甘ったるくもなくすっきりと目が覚める柑橘系の香りでもない、当てはまる表現を私程度の脳みそでは掬えなかったが、芯から落ち着く香りだという事だけは断言出来た。
元々自分好みだったのか、精市くんがくれたものだからなのかはわからない。
静かに息を吸って吐くと、か細い靄がかかる。
下がる一方の気温に晒されていても温かかった。
酷い冷え症で日々凍える指先に、体温が緩やかに移って来ているのだ。私の冷えっぷりでは誰に触れられてもそう大差なく熱を貰い受けるのではないか、指摘されたとしても、好きな人がくれるものには敵わないと跳ね返した上で蹴飛ばしてやろうと思う。
密かに決意していたらば、左から右手へ順調に進み、遂には両の手に香り豊かなクリームを塗り終えた精市くんが穏やかな微笑みを描いた。

「温まったかい」

見透かす瞳はいまだに少々恐ろしい。が、彼はいつでも正直だし、私も私で嘘をつく必要性が感じられなかったので素直に頷く。

「うん。あといいにおい。ありがとう精市くん」
「お気に召しましたか。よろしければこちらもお使い下さい」
「……いつまでも店員ごっこしないでいいよ」
「はは! 懐かしいなぁ。俺昔よく妹に付き合わされたんだ」

爽やかな笑い声が作る呼吸の形は二つ三つの丸に分かれ、煌々とした駅舎の灯りで溶かされたのち、残った薄い蒸気が天から降りる黒色に掴まれ吸い込まれていった。
抜かりなくキャップを閉めた広い掌が私の腕に下がる紙袋を引き、生まれた隙からハンドクリームを落とし込む。そこの所はあまり丁寧じゃなかったので、基準はどこなんだと問うてみたくなった。
不意に己が手をさするとすべすべとして柔らかく、おまけに大層あたたかい。自分のものじゃないみたいだ。全部が全部、精市くんのお陰だった。
左右それぞれの五指を組んで揉み、ふっと落ち転がった僅かな沈黙に舌を伸ばしかけ、すぐさま取り止める。離れていても唯一の熱が近い。尽くしても尽くし切れぬ、繊細な色彩を湛えながらも揺るぎない感情が、うねる脈拍と重なり明滅していた。
どうかした。
時に言葉より雄弁な眼差しがいっぱいになった胸を貫き、どうもしないと答える代わりに首を振った後で空気を繋げる。

「嬉しいし、嬉しかったけど…ここまでしてくれなくていいのに。だって絶対いつもよりは疲れてるでしょ? 精市くんが無理してたら、私そっちのが嫌なんだけど」
「しばらく会わない内に心配性になったんじゃないか、。特に疲れてないって言っただろ。それとも聞いていなかったのかい」
「……違います。ちゃんと聞いてました」
「そう。だったら信じて貰えなかったという事なのかな。あーあ、本格的に自信をなくしてしまいそうだ」
「ち、違うってば、違う! 私が言いたかったのはそうじゃなくて、」

予想外の方へ墜落していく展開に慌てふためき半歩踏み出した時、力んで訴える為にお腹の前で握っていた左の拳をぐっと掴まれたあげく引き寄せられた。

「心配してくれるのは有り難いよ。でも本当に気にしなくていい。そんな事はどうでもいいから、少しは俺に彼氏面させてよ」

人生でベスト3に入るくらい思いっきりぽかんとしてしまった。かなり呆気に取られた。
渦巻いていた感情が呼吸ごと打ち消され、紡ぐ寸前だった続きさえ蒸発したらしく、意味は違うけれどあいた口が塞がらない。
は? と色気も何もない一言が飛び出なかっただけ上出来である。
唇に釣られて開かれた目に映る精市くんはお世辞にも可愛いとは言えないだろう私の表情をからかいもせず、いつだって強い意志をなくさない眦を緩め、淡い光を大事に閉じ込めるようゆったりと細めていく。
それから、ちょっとだけ困った風に笑って囁き落とした。

「……ごめんね。今日、遅くなって」

身に覚えがない。
ゆえに答えられない。

「君にそういう意図はない事ぐらい知っているし、実際俺も喜んでしまったからどうこう言う権利がないのもわかってる。でもきっと、どんな事情があっても、言わせちゃいけない事だろう? もう慣れた、なんてさ」

ひたすら柔らかな語り口なのに背骨と心臓を一気に鷲掴みにされた。
あ、と意味のない呟きが舌の根を焼き、腫れ膨らんで空気の通り道に蓋をする。
行き場をなくした高熱が暴れ回り、皮膚を上から下から叩かれるので強烈に痛み、いよいよ涙がこぼれそうになるものだから、全力で絶対に引き止めてやると瞳の際まで固く張り詰めさせた。
バカ、と何度も繰り返す。
私のバカ。本物のバカ、バカもいいとこの大バカ。考えなしもいい加減にしろ、もう何回同じ反省してるの、学習能力はどこへ行った、なんでもかんでも気安く放り投げる癖をいい加減どうにかしたい。
心の中に浮かべた自分の顔をボコボコに殴り、荒れた気持ちを落ち着かせようと試みつつ、眩暈がするくらい首を左右に振って否定する。

「そ…っんなの、そんなの、別にいい」
が良くても俺は良くない」
「私気にしてないよ、ほんとに平気、てか精市くんこそ気にしなくていいから!」
「それはそれで寂しいな。何事も拘らないのが君の長所だと思うけれど、俺の事だけは気にして拘ってますって所をもっと見せてくれないか」
「……気にしてなく見えるの?」
「あはは、、曲解し過ぎ。大丈夫、勿論気にして拘っているように見えるよ。俺の事どうでも良くないだろって前にも言ったじゃない」

艶と温みを得た私の左手をすっぽり包むばかりか、固く握り込まれていた指をほどいていく温度がどこまでも優しい。
気管を下る酸素はかさつき冷え切っている。
笑声のやわい気配に後押しされ、ふうと息を吐いた。
体を置き去りにして先走る心が呟く。
(もう十分なのに)
彼氏じゃないように見えた事なんかないし、あれからずっと精市くんは私の好きな人だ。
淋しくて気落ちする日がたまにあっても、会えた時の喜びには敵わない。
思い遣って貰い優しくされる一方で、謝らなければならないのはこちらだと痛感する。
無意識に発した言葉が自分にとっては何でもない、気軽なものだとしたって、受け取る人がどう感じるかはまた別の問題で、見えない心を思えば気遣うべき所だったのに。
限界まで絞られた咽喉と胸が痛んで仕方がない。
ごめんねなんて、私の方こそ一番言わせたらいけない事だ。

「……じゃあ、ほんとに全然疲れてない?」
「前から思っていたんだけどさ、ってめげないよね。頼もしい限りだ。 ……本当に全然疲れていないから安心して」
「ならいいけど。…言いだしっぺはそっちなんだから、めげない私にめげないでちゃんと付き合って!」
「ああ、構わないよ。どこまで?」
「電車に乗って遠くまで」
「遠くまで、か。随分と曖昧だ、フフ」
「だってどこの駅だったか覚えてないし。あのね、見に行きたいなって思ってたイルミネーションがあるんだ」

なるほど、と楽しげな響きを含んだ相槌の持ち主が私の手を引いて歩き出す。

「急に素直になったけど、どうしたんだい。何か思う所でもあったのかな」
「……別に。今日くらいは私も彼女面しようと思っただけ」
「っは! はは、あはは! うん、わかった、付き合うよ。君の言う彼女面がどれほどのものなのか、お手並み拝見といこうか」

珍しく大口開けて笑う精市くんは、同い年の男の子の顔をしていた。
甘く映える表情をまともに見ていられなくなってしまい、何とか誤魔化そうと胸をつく鼓動の速度を測ってみる。
歩むごとに灯りが近付き、暗闇は後ずさりしていって光の濃さが増す。本来なら流されるままに明るい洪水へ巻き込まれてもおかしくないが、道を選ぶ人が頼もし過ぎる所為で迷う気配が一切ない。
駅との距離がなくなっていくにつれ、大勢の靴音や話し声、笑い合うさざめきで漆黒の冬の街が塗り替えられていく。聞き覚えのあるクリスマスソングが耳に飛び込んで来、横を見上げると視線が交わった。

「ところで精市くん、彼氏面じゃなかったらいつも何面なの?」
「そうだな、幸村精市面?」
「…意味わかんないんですけど」
「ところで、君はいつも可愛い彼女面をしているからそのままでいてくれ」
「ひ、人のセリフ取ったあげくふざけて返すのやめてよ!」

手酷い仕返しに踏ん張って立ち止まり、繋がれた手を振り解こうとして、肩越しに爽快な笑顔を垣間見せる人に阻まれる。力比べでは勝ち目なんかないのだ。わかっていても抵抗したかった。
ぐいと引かれたお陰で体勢の崩れた私を受け止める、精市くんの張り締まった腕が笑って震えている。
異議を唱えたくても彼女面をすると言った手前怒れない私は、重なり組まれた指を押し潰すつもりで握る他なかった。
痛い、文字にすれば悲鳴と成り得る訴えも、ふやけた笑いにまみれた声で辿られては信ずるに値しない。
こうなったら爪で引っ掻いてやる。言葉の棘を突き立てると、じゃあ俺は君の指先やつま先まで撫でてあげよう、大丈夫、手加減なしで優しくするから、平然と返されあえなく撃沈した。
暗がりに沈む歩道橋が遠のいて、視界の端にさえ掛からなくなる。
足先を照らし導く光はいっとう強く煌めき、滴り溢れ、眩いばかりに輝いてやまない。