ほの明るい光の縞が出来ている。 一瞬、壁が揺らめいて見えたのはカーテンの波打つ影模様の所為だ。 窓はきちんと閉めてられているが、外からの陽射しで特有の明暗に分かれ、薄く煌めいており、無地の床へも流れ落ちていた。 バイクのエンジン音が近づいたと思ったら遠ざかって消える。 幾秒か経ち、何人かの子供たちがはしゃぎ笑いながらばたばたと走ってゆく明るい騒がしさも同様の響き方をした。 被ったブランケットの中はあたたかい。 いまいち目覚めきっていない頭で、そうか、確か今日は日曜日、と昨日の曜日を振り返り、どこへ放ったか定かではない携帯端末を手先のみで探ると、枕を通り越した上側、マットレスとベッドフレームの隙間に挟まっている。少々姿勢を変えなければ思うように掴めない位置だ。乱暴に投げ捨てた覚え等ないのだが、何故こんな所にあるのだろう。 内心首を傾げつつ電源ボタンを押し、表示された時刻に驚愕する。 いつもならまず有り得ない、昼近い時間。完全に寝坊だ。思わずあいた方の腕で目元を覆う。 数件の通知や連絡をとりあえず見なかった事にして、小さな鏡や簡易ライトやらが並ぶサイドチェストへ端末を置き身を起こそうとした時、温い気配に背中が撫でられた。 はっと息が僅かに飛ぶ。 直に触れていないにもかかわらず、穏やかな熱と胸を打つ重みが肌にじんわり染みた。 俺は腹に入れかけていた力を即座に抜き、体を捻って、すぐ傍で眠りこけているを見遣る。 ――左半身を下にして、小さな子供のよう丸まり、健やかな寝息を立てている。 ゆるく握られた右手の甲、薬指の下辺り、本当に近くにいなければわからないくらい淡い茶色のほくろがあって、青く透けた血管の細さに今更気が付いた。 おぼろげにちらつくばかりだった記憶の内から昨夜の暗闇が浮き出、抱えた体温や指で梳いた髪の感触が蘇り、あの後そのまま眠ってしまったのか、とようやく正解の筋道が見えて来る。 終えてからぽつりぽつりと他愛ない話をしていたはずだが、はたして一体どこで意識が途絶えたのやら。さっぱり思い出せそうにない。 加えて、俺と、どちらが先にいわゆる寝落ちをしたのかさえわからないのだからお手上げだ。そんなに無理をしたりさせたりしたつもりはないんだけどな、なるほどこれがたるんどると喝を入れられる状態か、等と馴染み深い旧友の口癖を半分、いや八割以上茶化して使い、重心を移す過程で沈むベッドに肘を付いた。 裸の肩が丸みを帯びてあるかないかの薄光にくるまれ、他は窓辺に背を向けた角度が影響し、ほんの少しだけ暗がりにいるよう柔い影を纏っていて、呼吸の都度、目に毒な程あまい素肌が息の形に揺れて動いてを繰り返す。 隣の俺が散々身じろぎしていても、一向に起きそうにもない。 急に込み上げたよくわからない笑みを噛み殺しつつ、俺からすると頼りないとしか言いようがない二の腕上部にて留まる掛け布を引き上げてやった。規則的に零れていた寝息は衣擦れに掻き消され、しかしすぐさま聞こえ始める。 当分起きないな、これは。 独りごち、今度こそ本懐を遂げる為、腹筋を短く跳ねさせた。足を床へ伸ばし立ち上がる寸前、首から上を捻り確認するも案の定、変わらぬ寝姿がそこにある。健康的で何よりだ。遂に堪え切れず笑ってしまった俺は、脱ぎ捨てて放ったらかしのままだった服を適当に纏う。面倒と言えば面倒だが、仮にも人の部屋を素っ裸で往来するわけにはいかない。 浴室まで歩いて十数秒。 シャワーを借りていたのは精々、五、六分といった所だろう。 置かせて貰っている着替えに腕を通し、うっすら湿り気の残る髪の邪魔くさい箇所を掻き遣って、さっき出て来たばかりの寝室のドアを開けばまるで時間が止まったような わざと賢しらに肩を竦めたくもあり、あたたかな苦笑で口元を緩ませたい気もする。 「」 呼んだはいいが返事がない。 明日はここに行きたい、こないだのお店でご飯食べよう、昨日楽しげに語っていたはどこの誰だい。 心の内で面白おかしく詰ってやり、ベッドの端へ腰を下ろした。 何かの漫画かドラマでなら本当に息をしているのかと確かめるシーンかもしれないが、生憎彼女はその必要が一切ない、呆れるくらい健やかに寝入っているだけ。溜め息も逃げ出す暢気っぷりに言いたい事がなくもないけれど、それが俺の好きな子なのだから仕方ない。 閉じられた瞼に生え揃う睫毛は、呼吸に合わせそよぐ。 すっぽり肩までブランケットに覆われている姿が本当に子供みたいだ。 (まあ、そうしたのは俺なんだけどね) まるい片耳に降りかかる幾筋かの髪をうなじの側へ丁寧に流し、人差し指と中指の甲で頬骨の辺りを撫でてみる。ぴくりともせず、戻るはたおやかな呼吸のみ。いよいよ本格的に面白くなって来た。 さて、どうやって起こしてあげようか。 温かくつやつやとした額へ手を滑らせ、後頭部にかけてまでを出来るだけ優しく撫でさする。 1、肩を揺する。 2、耳元で名前を呼ぶ。 3、カーテンを思いっきり開けて眩しくしてやる。 どれも大変愉快そうだが、第4の選択肢として、このままそっと寝かせておき、何時間後かは知れないが目覚めたその時の悲鳴を聞くのも良いかもしれない。いや悲鳴じゃなく俺が罵られるかな、なんで起こしてくれなかったの有り得ない意味わかんない精市くんのバカ、想像に難くない台詞の数々、が抱くであろう怒りすら愛おしかった。 やや前屈みの姿勢を取り、半端に乗っけた左膝ら辺へ肘を遣って頬杖を付き、眠る人を眺める。 貴重な休みのほぼ半日を棒に振ったのかもわからない、けれどどうしてか俺はちっとも惜しくなかった。 よく考えてみたらおはようを一番に言えるのも俺が持つ数ある特権の一つだろう、予定を狂わせる朝寝坊だって贅沢なものだ、彼女にとっては信じられない悲劇だとしても。 唇の隅が緩やかに滲み、口の中が不可思議に甘くなる。 直接見てはいないがカーテンの向こうに広がる空は晴れ渡っている事だろう。布越しに差し込む陽の光の柔らかさでなんとなくわかる。自分の肌や髪の毛から時々水っぽい匂いが漂い、しかし今着ているTシャツはといえば俺の物とは違う、が愛用している洗濯洗剤の香りがした。 有り触れた日常は、いつだって彼女と共に。 おもむろに背筋を伸ばすと同時、ひたすらに惰眠を貪っていた恋人が軽く腕を動かすので、おや、と瞬きを止める。微かな空白ののち、語尾が疑問形の可愛らしい唸り声が鼓膜を揺らして来、やっとお目覚めかな、俺は笑いながら首を傾かせた。 散々撫であげた前髪に埋もれた眉間へ皺が寄る。 昨夜、何度も掠めた睫毛がたじろぐよう震えて俄かに固まる。 掌に収め閉じ込め口づけた頬はぴくりとひくついている。 飽きもせず塞いだ唇が、喩えるのならそう、むにゃむにゃと形を変え、短い吐息が漏れた。 ッは、はは! と俺はとうとう吹き出してしまい、開かずの扉と化していた瞼がゆっくりと開かれてゆく。初めは焦点の合っていない様子で惚け、ぼうっとした表情は虚空へ向けられており、意味もなく瞬きを繰り返していて、やがてこちらを見上げたそのあどけなさ。 指一本触れていないのにどうしようもなく満たされる感覚は、幾度味わっても全く慣れない。 慣れない幸せを、心から本当に大切だと思う。 「おはよう、。ところで今何時かわかっているかい?」 ややあって見開かれる両の瞳が息を呑んだのが見て取れた。わかりやすいにも程があるだろう、また声を上げて笑った俺を追い掛けるようにして、がブランケットを引っ手繰りながら飛び起きる。 うん、今日も幸先の良いスタートを切れそうだ。 凍える風の吹き荒ぶ屋外と打って変わって、アトリエの中は暖かい。 そもそも自宅に専用のアトリエがある時点で、どういう事? と問い詰めたい衝動に駆られるが、この人と一緒にいていちいち突っ込んでいては身が持たないので、近頃は色々と諦めている。 神の子を通り越し鬼神の如き強さを見せる事もあるらしい現役テニスプレイヤーの彼は、趣味や特技が驚く程穏やかな人柄を思わせる類のものだ。ギャップが良いと世の人は囁くけれど、私は時々その差に心底首を傾げてしまう。 テニスと絵やガーデニング、どっちを先に好きになったの? いつか聞いてみたい疑問の一つを今日の所は胸に秘め、イーゼルとキャンバスへ向き合う横顔をちょっと離れた位置から眺めた。 正直邪魔にしかならないんじゃ……と心配した私を、招き入れた張本人がたおやかな微笑みで封じ込めたのはもう随分前の事だ。 「邪魔だと思っていたら、わざわざ君を呼んだりしないよ。むしろいてくれた方が捗る日だってあるしね」 「……そういうもの?」 「フフ、難しく考えない。俺がいいと言っているんだから、気にしなくていいんだよ」 おいで、と優しく手を引かれたいつかの冬の午後、指先と物言いの柔らかさ、温もりが冷え切った肌に染みた。 口調と声色でかなり誤魔化されているものの、言っている事自体はなかなかに乱暴だと思う。 俺が是といえば是。 堂々たる王様発言である。領主様のお言葉だ、そして私はしがない一般庶民。 ――と、ありし日の心情を辿りながら、貸して貰った花の図鑑を開く。最初に渡された時は、さぁこれでお勉強をしましょう、と子供扱いされたのかと微妙な気持ちになったものの、 「知っていた方が楽しいだろう?」 悪意など到底窺えぬ、日向みたいな笑顔で伝えられ、つまりまぁなんというか、ほだされた。 だって精市くんの言葉の最後にはこうくっついて来る。 ‘この先、一緒に花を見る機会がたくさんあるからさ’ そんな風に、何よりも強かな光を奥底で閃かせる瞳で告げられては、直接的に言われるより却って心に響いてしまう。 「ありがとう……。でも私、多分覚えられないよ。ていうかかろうじて覚えられてもすぐ忘れちゃう予感しかしない」 「大丈夫、何度忘れてしまっても、その度に俺が教えてあげるよ。君は安心して忘れればいい」 「逆に安心出来ないんだけど!?」 楽しげに声を立てて笑った人は今、普段の柔和な雰囲気を放り投げ真剣な表情で筆をとっている。 端で騒がずじっとしていろなんて注意された覚えは一度もない、ないけれど何となく静かにしていなくちゃ駄目な気がして、入り口近くに幾つか並んでいる、可愛らしい花が植えられたプランターの前で腰を下ろし、開いていたページの続きへ目を落とす。手渡された当初はずしりとした図鑑の重さに謎の責任を感じたものだが意外や意外、読み進めていくと結構楽しいものなのだ。 黙々と熟読してしまい、そろそろ休憩にしよう、と精市くんの方から声を掛けられた時もある。 目の前の一点しか視界に入らないタイプなのだろう、我ながら残念な子過ぎると申し訳なくなってしまうが、当の領主様はといえばお咎めなし。 繰り返しになるが、俺が是といえば是。 しかし甘えてばかりもいられない私は今度こそ時間を忘れないよう気を配りつつ、分厚い背表紙を支え直して、この間の続きの箇所へと視線を走らせた。 ※ はっと呼吸が不意に弾み、流れで時計を確認すればちょうど小腹がすいてくる頃合いだ。 待ってましたとばかりに素早く立ち上がり、今日は何だか荷物が多いね、少し目を丸くした精市くんが半分持とうかと手を差し出してくれたシーンを思い起こしつつ、横に置いた鞄まで数歩足を動かして、またしゃがむ。 再びアトリエへ招かれる機会があったら私から休憩に誘う。以前からしかと決めていた事だ。 頼りっぱなしの甘え続きで図鑑片手に一人楽しんでいるわけにもいかない、引率の美術の先生と小学生かという話である、大した差し入れ叶わずともちょっとしたお茶の時間を提供するくらいなら私にだって出来る。はず。……多分。 保温性の水筒と使い捨てのコップ、ティーマットとチョコレート等々のお菓子、詰め込んできたものを目視し、とりあえず水筒とコップを先に取り出す。ピクニックみたいでなんだか楽しくなってきた。誰にも内緒で準備したのが余計に心を浮き立たせる。元はと言えばせめてものお返しにと決めた事、本末転倒というやつかもしれない、きもち背筋を正し、 「精市くんて紅茶に砂糖とミルクは」 膝を曲げた格好のまま荷物とは逆側を見上げると、イーゼルの前のソファは空っぽになっていた。びっくりして踵が浮く。 えっうそいつの間に、ていうか気づかなかったんだけど、一体どこへ。 混乱しきりの脳を必死に回転させ、首をぐるりと巡らせたその先。 座り込んだままでも見通せる場所に、いた。 やっと二人座れる程度の、庭園に設置されていそうな質素だけどお洒落なベンチへ背を預け、私の見間違いじゃなければ驚くべき事に、精市くんは眠っていた。 条件反射的に息を潜め、そろりそろりと僅かな物音さえ立たぬよう忍び足で、ひだまりの庭と化しているそこへ近付いていく。ちょうど陽の光が降り落ちて来る位置だから外の冷気も何のその、春みたいにあたたかかった。元々温室内が花と緑に埋もれている所為で、余計春めいてまばゆい。 「……精市くん? 寝ちゃったの?」 小さく呼び掛けてみたけれどぴくりともしない。 一歩、距離を詰める。 軽く腕を組んだ人のほのかに焼けた頬の血色は良く、耳を澄ませば微かな寝息が聞こえて来、静かな呼吸に合わせてゆっくり上下する肩や胸の形がちゃんとわかった。 まさかの熟睡。 一分少々待ってみても、タヌキ寝入りの可能性は浮上して来ない。予期せぬ展開に心臓が逸り、何故だか薄い緊張を覚える。 癖のある髪は陽光を浴びつやつやとしており、いわゆる天使の輪っかが出来ていて、私が自制心のない人間だったら畏れ多くもそっと撫でている所だ。伏せられた睫毛のお陰で、目の下は淡く細かな影で彩られている。組まれた足の長さが上から見下ろしていてもしみじみと感じられ、居た堪れない気持ちにもなって来た。 いやそんな事をしている場合ではない、とこれまた予め用意しておいた薄手のブランケットを鞄から持ち出し、テニスをしている男の子らしい肩へ掛けてみると、自分用に買った物だからかサイズや色合いが微妙に似合っていなくて、堪え切れず笑ってしまう。絶対に怒られるから言わないけど、なんだか精市くんが可愛かった。 触れられても身じろぎひとつしないのは、よっぽど疲れている証拠だ。 おやすみなさい、心の内で囁きかけて、くるりと体を半回転させる。 禁じられたわけではないが一応完成するまで見ないでおこうと思っていた、描き途中の絵につま先を向ける。人様のテリトリーへお邪魔するような、敬虔な気持ちで精市くんが座っていたソファへ腰掛け、美術の授業でもなかなかお目にかからない大きさのキャンバスを大事に見詰めた。 精市くんが得意な水彩画なのだろう、手前にほんのりと色付く花が描かれていて、奥はというとこちらはまた下書きらしい、鉛筆の線が画用紙にうっすら乗っかっている。なんとなくだけど見覚えがある気がする、前かがみになって観察していく内に、薄れていても迷いのないタッチがとある建物を象っている事に気が付いた。 立海の校舎。 それもおそらく中等部の方のものだ。 いつかだったか突然の雨に降り籠められ、途方に暮れた昇降口が懐かしい。しかし植物や人物だけではなく構造物を描くのも上手なのか、天井知らずの才能にいたく感心するさ中、ふとわかりにくい不自然さが瞼の裏をやんわり押す。 描き方は人によって違うのだろうが、本当に下書きの下書き程度の校舎とほとんど完成に近いような白い花弁の精緻な描写が、私にはどこかちぐはぐに映ったのだ。 色合いとかのバランスを見ながら両方をちょっとずつ描いていくタイプじゃないのかな、単純な疑問を持て余し、想いが直に伝わって来るようなすごく丁寧な筆づかいを追い、零れんばかりに綻ぶ花の柔らかな事、だけれど画用紙の右から左下の方へ伸びる枝へ一つ二つささやかに咲く姿の凛としている事、ひと口で言えば単なる白色にもかかわらず幾重にも塗りかさねられた色彩がとてもとても綺麗な事、隅々までを見尽くす。 (図鑑……) 繊細でも儚くはない、命の強さを思わせる画用紙の中で咲き誇る花に圧倒されながら、瞬時に思い立って席を離れた。 途中、自分で自分の足を引っ掛けて小さくはない音を発してしまい肝が冷える。油断なく走らせた目線の行く先、精市くんはまだ眠っていて、一人胸を撫で下ろした。 取って返し、重みのある図鑑を手に戻りページをめくる。 眼前のキャンバスに咲く美しい花は、よく確かめずともアトリエ内には存在していない。何の見本もなくここまで見事に描くなんて、普通出来るものなのだろうか。 とはいえ彼は何もかもが規格外なので有り得るのかもしれないが、脳裏には予感がよぎっていた。 いかにも精市くんらしい謎かけ、宿題、課題、問題、わざと。 考えれば考えるだけ確信が増し指の速度を速める。夢中になって読み進めていたお陰なのか案外知識は保たれたまま、闇雲に探す必要はなく、索引から辿るだけ済んで、手間はそうかからなかった。 アトリエへ招かれたこの間の記憶が不意に蘇る。 手入れの行き届いた花々と図鑑の間を両目で行き来し、今日と同じにしゃがみ込んだまま忙しなくにらめっこしていたら、精市くんと目が合った。さっきまでは真正面から向き合っていたはずのキャンパスから目を外し、体の角度も少しずらした状態で私の方を眺め、おかしそうに微笑んでいた。 また子供扱いされると警戒し身構える、もっと笑われて眉間に皺が寄る、緩んだ唇の端を隠そうともしない人が筆を置くので休憩かと問えば、いや、そうじゃない、こっちにおいで、少し話そう、穏やか極まりない物腰にやっぱり休憩じゃん、と返した後で距離を埋めていった所でぶら下げていた右手を軽く持ち上げられ、終いに下側から優しく包み込まれてしまえば、体温がことことと煮え始める。 苦し紛れに、なんの話をするの、不躾に聞いた。 精市くんがこちらを仰ぎながら、笑みを深くする。何でもいいよ。本当の事しか言っていない声音だった。 目当ての項目が開かれる。 図鑑と絵を見比べて、どうしても彼の描くものの方が綺麗に見える自分が恥ずかしくて俯いた。写真の下に綴られた小さな文字の群れが瞳の中を泳ぎ、行き着いた果てで息継ぎをしておきたかったのに、胸がいっぱいになって呼吸の欠片も出て来ない。 首筋を伸ばし、健やかに目を閉じている姿を見澄ました。陽の当たるあたたかな場所で、それこそ天使みたいにすやすやと眠っている。 自分の考え過ぎだったらとんだ自惚れもいい所、だけど考え過ぎじゃない方がいいに決まっている、もし当たっていたら恥ずかしさのあまり死ぬ、おんなじくらい嬉しいから嫌だなんて口が裂けたって言えない。 精市くんがその手で描いた写真よりも色鮮やかで美しい、触れたら溶けてしまいそうなのに力強くも瑞々しく開いた白い花は、ハナミズキ。 花言葉は――私の想いを受け止めて下さい。 窓に暗闇が映し出されていた。 黒々と塗りたくられた街並みへ、時折ぽつぽつと灯りが混ざり込み、目だけで追ってもさっさと消えてしまう速さで通り過ぎていく。 微かな尾を引く無数の光は遠くの方まで連なり続く。一定のリズムで振動する床に眠気を覚えるが、座っていないだけましだ。これで椅子に腰を下ろしていたら、問答無用で重くなる瞼に負けていただろう。 「子供みたいだね」 熱心に外を見つめている様が面白かったらしい、左肩をドアに預けたまま腕を組む幸村がやんわりとした口調で呟いた。 次の停車駅までにはまだ間があるので、独特のアナウンスは流れてこない。たたん、たたん、音と共に電車が夜を走る。他に立っている人がいないから大混雑というほどでもないのだが、二人が座れない程度に車内は行く人と帰る人で埋まっていた。 「どう見ても真っ暗だし、夜景が綺麗なわけでもないのに、見ていて楽しい?」 「大きい駅の近くだと明るいよ。ていうか精市くんだって一緒に見てたじゃん、今」 「俺はつられただけ。あんまり一生懸命眺めているからさ、なにか面白いものでもあるのかなと思ってね」 「……別に、わざわざ報告するほどのことはないよ」 「そう」 じゃあ、何かあったらいつでも報告してくれ。 笑って聞き流している素振りをしながら、彼の視線も窓の向こうへ届いている。人工的な光が皓々と天井から注ぎ落ち、鉄製の壁を挟んだ外の闇を打ち払う。頬にかかる睫毛の影が嫌味なくらい長い。 心持ち斜めがかったかんばせをしばし見詰め、彼女もまた夜陰の降りる街に目を遣った。戸袋に手を引き込まれないよう、注意喚起の為ドアに貼られたシールがくたびれ縒れている。 あぶない! 開くドアに注意! と本来は書かれていたのだろうが、しっかり読めるのは‘ぶない、くアに注’くらいで何の事だかさっぱりわからない。 たたん、たたん。 進むごとに暗がりは醒めて、ゆっくりと見慣れた風景に馴染んでいく。移り変わる流れが今日の終わりを示していた。帰らなければならない。まもなく降車駅に着く事を知らせる、降って湧いたアナウンス。 開くドアは右側です。 移動するまでもない、よく利用する路線。暗闇とドア近くに張り付いているおかげで、鏡のように背後ろの様子がうっすらと見え、細長い電光掲示板が今も頭上で響くアナウンスと同じ内容を流す。 楽しかったけれど、足はくたくただ。鞄を提げた肩も落ち込む。腕が重い。 帰りの電車に乗るまでは気にならなかった事が、肌の下、内側からどんどん体を叩きつけた。 もう少し一緒にいたいと我が侭を口にした所ですんなり叶うはずもないし、明日は平日、予定や現在時刻を考えてみるとどうしても躊躇ってしまう。 一生会えなくなるわけじゃないのに、どうしてこんなに寂しくなるんだろう。 胸中で言葉にすれば、尚の事寂しさが増す。 どんよりと曇った溜め息まで飛び出てきそうな面持ちが、しっかり窓に反射されてしまっているのだけれど、過ぎ去る景色を目に入れているようでその実何も見ていない彼女は気づかない。 依然としてドアの向こうを眺める幸村がふっと名前を口にした。ごく優しい声色だった。呼ばれた方は当然、相槌を打つ。 「家まで送るよ」 思わず見上げ、ちょうど余所から戻ってくる視線とかち合い、滲んだ眦に胸を掴まれる。 「え、でも」 「でももだってもなし。俺が君を、こんなに暗い中一人で帰らせるわけないじゃないか」 「だけど、別に平気だと思」 「だけど、も駄目。こういう時はありがとうとだけ言ってくれ」 「…………」 さあどうぞ。言わんばかりに可愛らしく小首を傾げ、強引な催促をするあたりなどちっとも可愛らしくない幸村はたおやかに微笑んでいた。 日々を過ごす内に、色々と学んで来た彼女がとる道は一つ。 わずかに迷った唇が開く。 「……ありがとう」 「いいよ、気にしないで」 呆れてはいたが、言葉の裏には安堵と感謝の両方が籠められている。 隣に居る時間が少しでも増えた事、いかなる時も優しさを忘れない出来た人への気持ちが、下へ下へと沈んでいく重心を軽くしたがしかし、浸ったのもつかの間だった。 「その代わり、お茶が飲みたいなぁ」 「…………はい?」 意味がわかりません、といった声色が幸村のものとなって久しいやわい唇からこぼれる。 「というわけだから、よろしく頼むよ」 「何がどうしてそういうわけ」 「ああ、小腹が空いたらコンビニに寄ってもいいな。確か、途中にあったよね。ほら、駅からちょっと行ったところの交差点」 「いや、うん、コンビニはあるよ、あるけど、あのね精市くん」 「大丈夫、君一人に何でもやらせたりしないさ、お湯を沸かすくらいは手伝うから」 「それはどうもありがとう……っじゃなくって、ちょっと私の話聞いてお願いします」 「だから今日は、俺と一緒にいて」 電車がゆるゆると速度を落とし、光の尾は呼応するように短くなっていった。降車駅のアナウンス。一定だったリズムが徐々に大人しくなる。黒い影のかたまりが消えるのと同時に、駅の照明が窓の外いっぱいに広がる。 心を読まれたのかと危ぶんだり恥ずかしいやら、彼女の喉からはなかなか声が出てこない。 ぱらぱらと席を立つ人影が増えた。と、小さな改札口がちらと視界を掠め始める。 「精市くん」 「なんだい?」 「…順番が違う。わけわかんなくて慌てた私がバカみたいじゃん、最初からはっきり言ってよ」 「君が素直に頷いてくれるのなら、そうしようかな」 「う、うな、頷くよ」 「フフ、そこで噛むんだ」 幸村が預けていた左肩を起こすと同時に、停止した電車は気の抜けた音を鳴らし、がこんと決してスムーズでない開き方をするドアが眼前から戸袋へ仕舞われていった。 微妙な段差を乗り越え、ホームに足を降ろす。 「精市くんって普段は引くほどストレートなくせに、なんでたまにまわりくどいの?」 「まわりくどい俺は嫌?」 「……嫌じゃないけど」 「うん」 「…………」 「…………」 「…なんか言ってよ」 「あはは、俺が黙っていると気まずいんだろう。可愛いね」 「今のところでまわりくどいの発揮して!」 雑踏に紛れながら会話を重ね、その間に手と手が自然と繋がった。電車の発車を知らせるベルが鳴り、速度をあげていく車体が空を切る音はホーム中に反響する。 お互いに、一緒にいたいと思っていてもそう易々と口にはしない。 けれど手間をかけて言葉をつくさずとも、通じるものが確かにあった。 指が重なる。 足音は途切れず、軽やかなものだ。 出口へ通じる階段に差し掛かったあたりで、言っておくけど部屋あんまり綺麗じゃないからね、と彼女はどこか睨むような眼差しで言い落とす。肩を揺らして笑う幸村が返す。知ってるよ。ほらまたまわりくどくない、使い所がおかしい。非難をぶつけてくる恋人をよそに、ところで俺今ほうじ茶が飲みたいんだけど、等と注文をつけ始め、そ知らぬ顔でコンクリートの段を上がっていく。 有り難い注文を悲しいくらい実直に承るしかない彼女は釈然としないながらも、紅茶がいいと言われなかった事に若干驚きの表情を浮かべた。 長々と列を伸ばし、暗いさなかにその身を投じる電車の音はもう聞こえない。 乗っている内に生まれた先程の寂しさと一緒に、遠くの街までたたん、たたんと車輪を鳴らし遠ざかっていく。 彼女が階段を越える都度不安定に揺れる掌を握り締めていると、仮定の話だったはずなのにすっかりコンビニに寄るつもりらしい隣の人が商品名を挙げつらね、しまいには欲しいものがないかどうかを尋ねてきた。着いたら考える、曖昧な返答をした直後、またしても順番が違っている事に思い至った。優しい所や、気遣う方法、そのやり方、大体において常人と異なるのだから困りものだ。 わかりにくくても、嬉しいのは間違っていない。 であれば、返礼には手抜かりなく。 しっかりと胸中で頷く彼女は、キッチンの戸棚に仕舞ってある茶葉の種類を頭の中で探り、彼がいつも使うカップの場所を確かめるのだった。 |