あなたの朝がつくる魔法 毎週火曜日と金曜日。 早朝の水やりと花壇の手入れ当番は、週に二日回ってくる。 私が所属する園芸部は部員が少ないわけじゃないけれど、でもやっぱり全国で活躍する運動部なんかに比べると地味だ。 花を育てるといえば聞こえはいいものの、その実活動内容は土いじり時々力仕事、365日欠かせぬ世話、長期の休みだろうが何だろうが登校、となかなかハードなので人気を集める部では決してなかった。 よって仕事量にしては不足気味の人数で運営していかなければならず、イメージより微妙に肉体労働していたり当番の日数が増えたりする。 植物とはいえ相手は生き物だ、適当な事は出来ないし、他にもっと過酷な部だってあるだろう。何より、種を捲いた花々が時間を経て咲き誇っていくのを間近で観察できるのは楽しい。 だから私は園芸部の仕事が好きだった。 というより色んな意味で嫌いになりようがない。 今日も今日とて水遣りを終え、どこからか飛んできたごみやたくましい雑草を除けていると、視界の端に見落とす事なんてできない人影が写った。 折り畳んでいた膝を瞬時に伸ばして立ち上がった私へ向かって、その人は春みたいな笑顔で言う。 「やあ、おはよう。今日も早いね」 「おはようございます」 幸村先輩は一つ上の三年生で、強豪テニス部の部長だ。 今はもう秋なので部長だった、が正しいのかもしれないが、先輩と退くという単語がしっくり当てはまらず私の中ではずっと部長のままでいる。 ごめん切原くん、と隣のクラスのテニス部新部長へ心の中で謝っておいた。 私が任される花壇の場所と先輩が朝練の為行き来するルートは重なっているらしく、この挨拶を交わすようになってから大分経つ。 「相変わらず、見事にコスモスばかりだ」 「うちの副部長の好きな花ですから」 「元副部長だろう」 「そうなんですけど…引退してもほとんど毎日部に顔を出してくれるので、まだ実感が沸かなくて」 幸村先輩と初めて会ったのは私が一年で先輩が二年の時だった。 当時入部したての私は水遣りくらいなら大丈夫だろうと制服で朝当番をこなしていて、如雨露を用具倉庫へ持っていった帰り、たまたま鉢合わせた顧問の先生に土運びを命じられたのである。 手押し車に袋詰めされた用土を三つほど乗せられ、ひょっとしてこの部活はなかなか大変なのでは、と心配になったのを今でも覚えている。 結果として、植物の世話も土いじりの経験もほとんどなかった私は思いっきり転んだ。 使い慣れていない手押し車のバランスを崩して膝小僧を打ち、用土袋は落とした際どこかに引っ掛けてしまったのか中身が散乱し、真新しいスカートは土をもろに被った所為で焦げ茶色に染めたんですか? と問いたくなるほど悲惨極まりない状態である。 呆然とするしかない。 逆さまになった手押し車のタイヤがするすると虚しく空回っているのを見るともなく見て、コンクリートについた掌が小石を巻き込んで地味に痛かった。 幸村先輩の声を初めて聞いたのは、そんな情けない場面だった。 「かなり派手に引っくり返したね。大丈夫かい?」 どう考えても美しい出会いじゃない。 先輩はちょっと笑いをこらえていたし、後から思い出してみると己の失敗っぷりはかなり恥ずかしかった。 だけど、なおも呆ける私を立たせ怪我はないか確認し、散らばった土を集め片付けるのを手伝ってくれた人の優しさを簡単に忘れられるはずがない。 ランニングの途中にもかかわらず私の面倒を見てくれた人がテニス部の強者だと伝え聞いた時は、本当に驚いたものだ。落ち着きっぷりからして上級生だと感じてはいたが、立海が誇る傑物だなんて予想もしなかった。 だって、普通声はかけても念の為にと保健室まで付き添ってくれたりはしないと思う。 日々トレーニングに励む一級アスリートというなら尚更、見ず知らずの間抜けな新入生の為に時間を割かないだろう。 後日謝罪と御礼をしにいった私にかの人はゆっくり微笑む。 慣れていないようだったし、あんまりにも呆然としていたからさ。 つい、余計なお世話を焼いちゃったんだよ。 親も手を焼く暴れん坊系男子の兄がいた為、男の子は乱暴だと思い込んでいた私の脳が意識改革を断行した瞬間だった。 気負わず、押し付けがましくもなく、怪我しなくてよかったね、と柔らかく言い落としてくれる先輩の後ろから光が差しているみたいだ。 私は衝撃を受けた。 同時に、多分人生で初めて家族以外の、年上の異性に尊敬の念を抱く。 幸村先輩はすごい人なんだ。 穏やかで優しくて、お兄ちゃんと同じ性別だなんて全然思えない。 それからというもの、私が朝当番に励む度に先輩は声を掛けてくれるようになった。 もう転ばないように。制服ではなくTシャツとジャージを装備し始めた私をからかって笑う。 今はまだ大丈夫だけど、夏の時期この辺りはかなり熱くなるから気を付けて。先輩の右肩に乗るラケットバッグがとても大きく見えて、なんとなく緊張した。 水遣りのタイミングや一度にあげる水の量、その花に合う土の種類、気温の変化等々、専門家か何かかと目を剥くくらいの知識を授けてくれる。 ガーデニングが趣味なのだと知って深く納得し、もしかして部長より詳しいんじゃ、背筋が伸びる思いだった。 交わす挨拶はずっと変わらない。 おはよう。 先輩の声で告げられてようやく本当の朝が来たような気持ちになるのが不思議で、でもどこか嬉しかった。 何気ない、火曜日と金曜日に訪れる僅かな時間に、その日一日の元気を貰っている。 「じゃあまだ決まってないんだ?」 足元で揺れるとりどりの花を視界に写しながら過去に意識を飛ばしていた私は、おかしそうな声に釣られ目先をちらと隣にずらす。 小首を傾げて佇む人の目元が、じんわり淡くなっていた。足のつま先が何故だかそわそわしてどうしようもない。 小さく息を吸ってから答えを探す。 部長副部長ら三年生のいなくなった園芸部の新人事がちっとも進んでいない事は、先々週の金曜日に暴露したばかりだ。 「決まってないです。言い訳になっちゃいますけど、先生もまあ追々自然と決まっていくだろ、って言ってて……」 「必要な届け出はどうしてるの」 「暫定的に副部長は私の、部長は前野くん…えっと、同じ二年の男子の名前を書いてます」 「それ、決まってるって言うんじゃない」 「書類上の話だけですもん。実際やってる事は前となんにも変わっていませんから」 いまいちこれが新生園芸部だと胸を張れず、話す相手がテニス部の元部長だから余計にこんな有り様の部ですみませんと頭を下げたくなってしまう。 だけど先輩は今までだって一度も、かなり緩く見えるだろう園芸部を悪しざまに言った事はなかった。 そして、今も。 「さんは謙虚だね。まったく、うちの赤也にも見習って欲しいくらいだ」 あたたかな日差しにそっくりの声音が耳を撫でていく。 軍手の両手を後ろに回した私は、ばれないようそっとジャージの裾を掴んだ。 「私のは…謙虚とはちょっと違うと思います。単にのんびりし過ぎてるってだけですし。……あと、もし切原くんが謙虚だったら、多分みんな困るんじゃないでしょうか」 「あはは! 普通、謙虚さがないから困るって言わない?」 「謙虚な切原くんって立海のテニス部って感じ、しないです」 「それはまあ、君の言う通りかもしれないね」 初めて会った時に比べ低くなった笑い声がいつまでも胸をついて仕方がない。 空を上っていく途中の太陽が、私と先輩の影を花壇やコンクリート上に薄く描いている。 気温が上がる前の涼しい風に頬と首筋をくすぐられ、今更自分が汗くさくないか気になってきた。夏場じゃないし、重いものを運んだわけでもないから大丈夫なはずだ、と必死で言い聞かせても高鳴り始めた心臓は落ち着いてくれない。 とうとう幸村先輩の顔を真正面から見る事が難しくなって、動かしたばかりの目線をまた花壇に戻す。 朝日を浴びる花びらは瑞々しく、葉や茎にこぼれる淡くてまっすぐな光の粒子がやけに眩しかった。 花々が根を張る土は湿った色をしている。 時々、思い出したみたく吹く風はゆるやかに秋のにおいをどこからか運んできては去っていく。 入部して以来ずっとここの花壇をコスモス専用にするくらい、副部長はかの花を愛している。 いつどこでどういった配置に花植えるのか計画するのが好きだと言って憚らない部長がお気に入りなのは、マーガレット。 私は今年、ウィンターコスモスを育ててみたいと決めていた。 以前なら繋げられた話題がばらばらになって流れをうまく作ることができず、幸村先輩は何の花がいいと思いますかの肝心な一言が喉に詰まってで出てこないのだ。 話し始めはよくても、そう長くは目を合わせていられない。 言葉だけじゃ追いつかない気持ちに振り回されて、自分の声が消えてなくなってしまう。 先輩は三年生で今はもう秋だから卒業式なんかすぐ来ちゃうのに、なんて事ない時間でも大切にしたいと思っているのに、交わすのも残り僅かであろうやり取りを噛み締めるどころか前と同じようにお話しできないのがすごくもどかしかった。 (淋しかったのに) いまだ生々しく蘇る喪失感が体の柔らかい部分を刺激し、息が徐々に細くなっていく。 幸村先輩が病気で入院したと聞いた時、週に二回のあいさつがぱったり途絶えてしまった朝、いつとも知れぬ復帰を待った日々、全部が悲しくて辛かった。 もちろんそういう感情を一番味わっていたのは先輩だけど、部外者の私も私で泣きたい時があったから、その分今を大事にしたいのに。 どうして、あの日の朝みたく素直になれないんだろう。 「ここの花壇がどうなっていくのか、新副部長のお手並み拝見、かな」 「……仮の副部長ですけど、プレッシャー半端ないです」 「フフ、大丈夫。さんはさんらしくやればいいんだよ」 こんな風に優しくしてもらえる度に、心臓と肺が一気に掴まれた心地になる。 夏休み中の朝当番も、基本的に学校があった時と曜日を変えないでこなしていた。 金曜日だった。 蝉の声が降りしきるさ中、今日と同様に花壇の前でしゃがみ込んで作業をする私の頭上がふと曇る。 影が差して初めて人が近くにいたのに気がいった。 早朝とはいえ熱の籠もる季節、額にじわと浮き出た汗の粒を拭いつつ、鼻先を上向ける。 おはよう。それから、久しぶりだね。 夢にまで見た先輩の元気な姿と奏でられる一言に、私の涙腺はいともたやすく崩壊した。 込み上げる様々を自分一人で片付けられず、こぼれる涙に溶けて出ていく。大泣きしながらおかえりなさいを言った私に幸村先輩は肩を揺らして笑い、うん、ありがとう、と心の深い場所にまでしみる声で受け取ってくれたのだ。 その時は確かに喜びしか存在していなかったというに、どこをどうしたら私にさえわからない感情を抱いてしまうのか。 この表現は日本語としておかしいってわかっているけど、頭の中や心を変に捻ったみたいだ。いつまで経っても治らない。 「やれるだけやってみます」 「そう」 「はい。……幸村先輩、今日もテニス部に顔を出すんですよね?」 「ああ。引退したとはいえ、まだまだやる事が残っているからね」 たおやかに頷く様子の中にも芯の強さが感じられて、いつだったか幸村先輩ってすごく優しいよねと言った私に対し信じられないものを見る目で、ありえねえ、シンプルに返してきた切原くんを思い出す。 見かける度に真田先輩の雷を食らっている二年生エースへ、心の中でエールを贈った。 「そうですか…。あの、頑張って下さい」 「ありがとう。さんも、遅刻しないように気を付けて」 返事と一緒に頭を下げて、響き始めた軽い靴音を聞く。 段々と薄れていく気配を合図にするよう、私は再び膝を曲げた。 軍手の端を引っ張ってみる。指先までぶ厚い布が行き渡った所で、部室棟へと赴く背中を視界にとらえた。 意志の通った目から逃げるばかりとなってしまった今、私が落ち着いて見つめられるのは先輩の後ろ姿だけだ。 幸村先輩と同じテニス部の真田先輩を思えばそこまで体格のいい方じゃないのに、歩幅は私のそれよりずっと広い。一歩で進む距離が全然違う。 音もなく差す朝の光が肩や背中のそれぞれに降って眩しかった。 知る限り常に背負っているラケットバッグが重厚に感じられ、私じゃ抱えるのにも一苦労するんじゃないか、なんてもし先輩に聞かれたらそんなはずないだろうと笑われそうな事を意味もなく想像してみる。 半袖のシャツから伸びる腕はしっかりとしたつくりに見えた。 ついこの間まで入院していた人のものとは到底思えない、先輩がテニスコートに帰ってくるまでどれだけの努力と時間を積み重ねてきたのか考えてみては切なくて胸が詰まってしまう。 だけど悲しいんじゃなく、苦しいわけでもない。 尊敬と憧れが混ざる中、きゅうと心の真ん中を締めつける何かのひと雫が落ちるのだ。 最近、幸村先輩の事を考える時はいつもそうだった。 やめればいいのかもしれない。 気にするのも、あれこれ自分の心を掻き分けるのも、理由を探してみるのも、すべて放っておけば楽になるのかもしれない。 朝日に照らされた背中が白く映える。 一歩、また一歩遠くなっていく。 先輩は一度だって振り返った事がない。 ただひたすらにまっすぐ進んで、私と季節の花に彩られた花壇を後にする。 何が起きようとびくともしなさそうな背が角を曲がって消えるまでが、私に与えられたひと時だった。 一緒にいるとごちゃまぜになってわからなくなる気持ちの輪郭が、うっすらとではあるものの浮かび上がる。 見つめる事の叶わぬ姿を思うさま追いかけ、声には出さないで先輩に言いたかった事を頭に描く。 もうほぼストーカーじゃん、非難されるのが怖くて一番仲がいい友達にも告げていない私の秘密。 ――それがこうもあっさり暴かれるなんて、どうして想像できよう。 突如として行方を変えた私より大きくて長い足に驚きの声も出なかった。 そう大して離れていない位置でくるりと身を反転させ、立ち止まる。 下手な言い訳さえ通用しないくらい思いきり目が合った。合ってしまった。 逸らす間もなく丁寧に交わる。 喉で熱いかたまりが膨れ上がった。 しゃがんだ私を見下ろす形となった幸村先輩は一瞬びっくりした顔になって、でもすぐさま笑み崩し目を細める。 全部を間近で見てしまった瞬間の、苦しさ。 眩暈すら覚えてしまう。息がなくなって、鼻の奥が痛んで、指先ひとつ満足に動かせない。 頑張って控えめに解釈しようとしたけれど、先輩はすごく嬉しそうだと言うしかないあまやかな表情をしていた。 「良かった、やっと俺を見てくれたね」 光が舞う。 朝の新しい太陽に、微笑む人の柔らかそうな髪が透けていた。 「なかなか目が合わないんだもの。俺、何かしたのかと思ったよ」 遅れに遅れて事態を把握した私は慌てて立ち上がり、目いっぱい首を横に振る。 力の限りを尽くした否定に、うん知ってる、と益々笑みを深めた先輩が靴一足分ほど、今さっき進んでいた道を戻った。 「さんを困らせたいわけじゃない。だから、黙っておこうと思っていたんだ」 でも、もうそういうのはやめた。 待っているだけの時間が勿体ないと思うようになった。 続く声色はどこまでも優しく、穏やかだ。 なのに私の心臓は直に握り込まれたよう縮まって、同時に破裂寸前まで膨れ上がろうとする。 「前みたいに話して欲しいな。出来れば、俺の目を見て。難しいようなら少しずつで構わないからさ」 余波で干上がった唇が開いていき、呼吸の通り道ができていく。 また一歩近づく幸村先輩は何の迷いも抱いていないらしい。 涼やかな空気はぶれず、微かな風と明るい光のみがささめいている。 掴まれていた心臓が唐突に解放され、一瞬でものすごく大きな音で鳴り響き出した。 だけど不思議と苦しくない。先輩の最早魔法じみた力を持った言葉にするすると導かれたおかげで、わだかまっていたありとあらゆるものが今にも飛んでいってしまいそうだ。 冷静になればとんでもない発言をしようとしていると、頭の隅でわかっていた。 気持ちばかり先走って体がついていけなくて、やっとの事で頷いた私を先輩が笑う。 いつかからかわれた時のよう、はたまたありがとうと呟いた朝のように。 「はい、じゃあ。という事を踏まえて? 何か俺に言いたい事はないかい」 遠慮せずどうぞと手を広げでもするんじゃないかというくらいの、歓迎姿勢だ。 釣られて私も笑いそうになる。 何故だか視界が潤んでぼやける。 絶対確実にこれはとんでもなく嬉しい事だと思うのに、どうして泣けてくるんだろう。 せんぱい、とやたらゆっくり響いて聞こえる声が自分のものじゃないみたいだった。 先輩。 幸村先輩。私多分、ずっとあなたの事が好きでした。 今日生まれたばかりの光と朝に微笑む人が気付かせてくれたたった一つの答えが、言葉という形で世界に溢れていく。 |