やわい夜




まんまるのお月様が夜空の天辺近くへ上る頃、私はやっと退社した。
繁忙期というわけでもないのだが、複数の案件でほぼ同時に細かなトラブルが起き、自分の担当を飛び越え他チームへ駆り出されていたのだ。
今月に入ってからずっとそういう状況が続いていて、今はもう中旬も終わる頃。
実家の家族が電話越しに、かなり疲れてる? と聞いてくるくらいなので、疲労困憊ここに極まれりといった所だろうか。
いわゆる帰宅ラッシュのピーク時間を過ぎているのに人通りはいつもより多めで、どうしてかなとぼんやり考えてみてようやく、そういえば金曜日だったっけ、思い至るのだから相当脳が働いていない。
我が事ながら空恐ろしい、一刻も早い休息が必要である。
ビル風に煽られると少し肌寒く、もう一枚上着を羽織ってくれば良かったと後悔する。
最近はテレビをつけていても流し見るだけで、天気予報をしっかり聞けていなかったから、秋特有の朝夜の冷え込み対策も万全とはいえなかった。
剥き出しの手は徐々に体温を失っていく。
こんな事知られたら怒られそう。
しばらく会っていない恋人の顔を思い浮かべ、ちょっと心が解された。
社内が慌ただしくなり始めた頃、全部終わるまで会えないかもしれない、泣き言混じりの愚痴を零してしまった時が最後だったからいつ振りなんだろう。
簡単な連絡はとっていたが、電話等はする余裕がなく、声さえ長らく耳にしていない。
気付いた途端に恋しくなってしまう。
その直後、ひょっとして私彼女失格なのでは、脳裏をよぎる一言で重い雲が胸を塞ぐ錯覚に陥った。
ほぼ無意識に端末を取り出しかけ、押し留める。
歩きながらはやめなさい。
いつかの物柔らかな叱責が蘇った所為だった。



の彼氏ってどんな人。
尋ねてくる旧友が写真を目にした途端、どこでこんなイケメン捕まえたんだ吐け、と騒ぐ容姿である私の恋人は白石蔵ノ介といい、大学の時の同期だ。
東京にいても訛りが抜けない大阪出身者で、みんなの言う通り整った顔をしている。
同期生といっても別段仲が良かったわけでもなく、取っていた講義も違い、いくつかのゼミが合同で飲み会をした時に何度か顔を合わせた程度の繋がりだった。
白石君の周りには男女問わず人が集まり、更に可愛かったり美人だったりする女の子が必ずと言って良い程控えていて、私は私で同じゼミに仲良しの友達がいたからろくに話した記憶もない。
メニュー表や余分なおしぼりを頼まれて回したら、聞き慣れぬイントネーションでお礼を言われた。
店の狭い通路で行き合って、お互いに譲りながらちょっと笑う。
人一人通るんがやっとやな。
うん、頑張ってもぶつかっちゃう。
お酒の力で答えていたようなもので、内心緊張していたのは白石君と付き合っている今でも内緒のままだ。
特別な何かが重なったりはしていない。
淡い思い出を抱いたまま卒業し、就職後開かれた同窓会で初めてまともに会話をした。
社会人になった白石君は学生の頃よりうんと大人っぽくて、背が高くてスタイルも良いからスーツが似合い過ぎて目立ちまくっているわお陰で一層女の子達からモテているわで、とにかくもうすごかった。
同期の男子は羨ましいと妬むよりも、すげーなおい、とやや引き気味である。
すごいよねえ。私も私で聞こえてくる賞賛に心の中でひたすら同意する。
たくさんの人に囲まれた彼と話す隙等存在するはずもなく、別世界の出来事だと遠巻きに眺めて終わるはずだった。
会の途中で連絡が入って、一旦席を外した私は通話し終えた後で充電が残り少ない事に気付き、これは簡易充電器とか買って来た方がいいかなあ、遠くで盛り上がる声をBGMに考え始め鞄を取りに行こうと――した所で、思いも寄らぬ人物と鉢合わせたのだ。
視線を進行方向へ向けた瞬間、視線が絡む。
びっくりして固まる私の前に、どこか急いでいる風の白石君がいた。
通路は十分な広さだ。
行き交うにも苦労したあの時とは違う。だけど彼はまっすぐ私の方へ歩いてくる。
良かった、もう帰ってしもたんかと思た。
ほっと息を吐いて表情を緩め、俺ずっと聞きたかってんけど、一度耳にすれば忘れようのない声と口調で私の名前を尋ねて来たのだった。


よく考えなくてもあれはナンパじゃないのか。
後々思い出の一つとして振り返ったら、どこか決まりが悪そうに言う。
しゃあない。あん時は焦ってたんや。
周りより先んじて大人になったような彼にも年相応に可愛い所があると知っていけるのは、すごく幸せな事だ。
何より嬉しい。単純明快なことわりで、でも大事にしたい気持ちだった。
時たま、過去をぽつぽつ思い返すようになって、知らずにいた白石君が減っていく。
左利き。
テニスが上手くて、中学生の時には全国大会にも出場しトップ近くまで上り詰める程の実力者だった事。
好きなもの、嫌いなもの。
進む道は違えどかつて鎬を削ったチームメイトとは今でも親交があって仲が良いらしい。
ある意味有名人だった白石君がどうして関わりの薄い私なんかを見初めてくれたのか聞いてみると、なんか気になったから、とたっぷり十数秒考えた割には……な答えが戻り、何にしても迷わず即決して、冗談を交え場を明るくしてくれる人らしからぬ様子に首を傾げる。
単に不思議だっただけなのだが、白石君の目には不審げに映ったのだろう、続けてこう言い添えた。
期待してたんと違ったか? ごめんな。
けど、切っ掛けなんてそんなもんやろ。
聞いて怒るのはナシと前置きをした上で、トイレへ行く時にお手洗いしてくると言う所と飲みの席で割り箸の袋を利用し箸置きを作る所がなんとなく好きだと思った、ととんでもない発言を投下してくる。
しかも名前がわからなかった為に学校内で見掛ける都度、あ、お手洗いしてくるって言う人や、とか、お、箸置きの子、等とあだ名にもなっていないあだ名を思い浮かべていたらしくもう死にたくなった。
声掛けてよ! ていうか普通に名前聞いて!
アホ。普通にて言うけど、どうやって普通に聞くねや。自分お手洗いしてくるて言う人ですよね、なんて話し掛けられてみぃ。ドン引きやろ。俺ただの変態やろ。
それは……でも、別にお手洗いの事は言わないで、名前だけ聞いてくれれば良かったのに。
あのなぁ、そんな簡単なもんちゃうねんで。ええなと思う子に声掛けんの結構、いや相当勇気いるんやからな。
色んな意味で聞き捨てならない台詞の直後に、それともが俺の立場だったらよう知らん人の名前いきなり聞けるんか、と痛い所をついてくるので返す言葉もない。
現に声を掛ける所か近付く事も出来なかったのはこっちの方で、同窓会で白石君が来てくれなければきっと始まる前に終わっていたに違いない。
わかっていても恥ずかしいものは恥ずかしいし、居た堪れなかった。
黙り込んだ私に、何がそんなに嬉しいのか両目を細めた白石君が優しく囁く。
一緒におる内に気付いたんやけど。、酔っ払うと箸置き作り出すんやな。

「俺以外の男の前で作ったらあかんで」

自分でわかっとるか? その可愛い酒癖。
とんでもない殺し文句を柔らかに叩きつけられた日の事は胸に強く刻まれて離れていかず、いつでも軽々心臓を締め上げるのだ。



本当は電車に乗る前にチェックしようと思ったいたのだけど、ホームに着くや否や長い車列が来てしまい慌ただしく滑り込む。
足ばかりか全身がくたびれている所為で、乗っている間うとうとと浅い眠りと覚醒を繰り返し、鞄を探る余裕が生まれたのは自宅最寄駅で降りた時だった。
階段やエレベータへ向かう人の流れから外れて空っぽになったベンチ付近で立ち止まり、受信ランプの色に期待をしながら見遣れば、仕事終わったか、の一言が目に入る。
もう一時間半も前に送られて来たメッセージだ。
申し訳ないなあと思う一方、小さな画面だろうと何だろうと描かれた名前が心を軽くしてくれた。
ごめんね、今携帯見た。仕事終わったよ。白石君は今どこにいるの、家?
対応していた問題も全てひと段落したし、せっかくの週末だからちょっとだけでも会いたかったけれど、どうせならこんなくたくたになった時じゃなくてメイクや服も万全の時に会いたいな、と思い直す。
忙しくなるかも、伝えれば彼は適度な距離で気遣ってくれる。
一切合財放置はせず、かといって密に連絡を取ってくるのでもない、こちらの調子に合わせて電話なりメールなりで重荷にならない声を寄せてくれるのだ。
それが私にはすごく有り難かった。
すぐ自分の事でいっぱいいっぱいになってしまう私と違って、白石君は自己管理からペース配分、他者への温かな気配りと何もかもが完璧で、好きだというのは勿論だけど尊敬だってしている。時々、なんで私と付き合ってくれているんだろう、本気で悩むくらいだ。
暗がりに煌々と落ちる駅の光の下を歩き、改札口へ向かっていく。
ホームから駅舎内に入ると独特の熱が籠もり、でもまた外へ出たら寒いに違いない、待ち受ける気温差に身構えた。ざわめく人の気配がそこここで往来する。
整然と並ぶコインロッカー前を抜け、人工的な明かりと夜の暗さの境目に近付くにつれ、解放感みたいなものがゆっくりと湧いてきた。
目はしぱしぱしているし疲れも相変わらず滲んでいるが、それでも終わりの見えなかった日に比べれば可愛いものである。
会社で必死になっていた時は気にする余力がなかったのか、今頃お腹が空いてきた。
自分で言うのもなんだが今月家には寝に帰っていただけだ、冷蔵庫の中は大変悲しい事になっているだろう。
とりあえず空腹を満たせるものくらい買っていこうか、考えた所で鞄の外ポケットに落としていた端末が振動する。
さてどこにいるでしょう?
画面を開いたら突然クイズが始まった。
いや、コントかもしれない。
捻った回答をした方をすべきか真っ当に答えるべきか、内心唸ってICカードケースを出そうとし、指がはたと止まってしまう。
え、と声にならない声が喉元で何度も巡り巡る。
改札の向こう、大きな広告の張られた柱の前に佇む、スーツ姿のその人が手元の携帯に視線を投げていた。
白石君。
込み上げる衝動を彼の名前をなぞる事で発散しようとして、上手くいかない。
一瞬で蒸発しかねない熱量を持つ喜びが体を駆け抜け、人目がなければ子供みたいに走り出したかった。
(え、え、え? なんで、なんでどうしているの、もしかして会いに来てくれたの?)
猛スピードで思考が回転する。
小走り寸前の早足に合わせて鼓動は高鳴り、しらずしらず口元が解れかけ、

「……わあ」

思わず声に出た。
私が無事彼の元へと辿り着く前に、以前何度も噂に聞いた光景が繰り広げられ始めたのである。
OLさんらしき二人組が、少しはしゃいだ様子で白石君に話し掛けている。
逆ナンされた瞬間って、初めて見たかも。
怒るより悲しくなるよりまず驚きが先立ち、恋人のモテ具合にいっそ感心してしまう。
なんというか、存在しか認知していない希少動物を目撃したような、そんな感じだ。
ついつい立ち止まって観察してみたらちょっと困り笑顔の白石君は手を横に振っていて、多分人を待っているからと断っているであろう事が窺えた。女の人達も変にしつこくはせず、軽い会釈を最後に離れていく。
私が立ち竦んでいた方向に彼女達の本来の目的地があるのか、傍近くを軽い足音が通る。
すれ違った瞬間上品な香水がふんわり鼻をくすぐって、密やかに笑い合う声が同性の私からしても可愛らしい。
白石君自身がそういった事を一切意識させないお陰で日頃はあまり抱かぬ劣等感が心臓の裏辺りから染み出て来、よれっとしてくたくたになった己の様子をふと省みる。
……別にもう、相応しくないとか似合わないとか気にする段階は過ぎているけれど。
弾みで溜め息が出てきかけたのをぐっと押し留め、さっきまでの嬉しさを優先したい、と自分で区切りをつけて前を向いた。やや下がっていた鼻先を歩き出す為持ち上げたら、吸い寄せられるみたく視線が結ばれる。
いつぞやの再現映像のようだ。
表情はわかっても声までは届かぬ位置の白石君が、唇をごくゆっくり動かした。
こら。
読み取りやすい二文字である。

「なんでそないなとこで見てんねん。いたんなら声掛けなさい」

叱責になっていない叱責に引っ張られて距離を縮め終えた直後、茶化しながらも優しさに満ちた声が頭を撫でる。

「うん…えーと、でも声掛けにくかったよ」

私の一言で察したらしい。
綺麗な眉間に薄い皺を刻んだ白石君が、小さく息を吐いた。

「割って入って来ぃや」

なんと無茶を言う。

、じっくり観察しとったやろ。彼氏のピンチなんやから助けてくれたってええやんか」
「ピンチだったの?」
「ピンチもピンチ、大ピンチや」

薄情者と言葉ばかりが責めて来て、響きは変わらず私を甘やかす。
勝手に温まった頬が笑いを零してしまうと、笑とる場合ちゃう、素早くツッコまれてしまう。

「そもそもや。なんで明らかに人待ち風の俺に声掛けてくるん? 男より女のがよっぽどチャレンジャーやて、時々思い知らされるわ」
「男友達と家で飲む感じに見えたんじゃないかな」

白石君の片手にぶら下がったスーパーの袋を指すと、これか、と長い指がひょいと掲げられる。

「こんな食材やら生活用品やら持ち寄って家飲みせえへん」
「ていうか、それ何? 今食材って言ってたけど…」

結構な大きさの袋を覗き込もうとして、あえなく潰えた。
荷を背後ろ側に隠した白石君が、良い事を思いついた子供みたいな表情を浮かべるので、不覚にも言葉を見失ってしまったのだ。
ぐっと詰まる胸の中身が骨を叩く。

「内緒」
「……ないしょ」

その所為で実にたどたどしいオウム返しとなった。

「あーあ、ほんまはが改札から出て来た瞬間に俺から声掛けて驚かそ思うててんけどな。いまいち決まらん」
「充分びっくりしたよ。えっと、白石君見つけた時……すごく嬉しかった」
「ん…そか。なら良かった」

自然と喧噪が遠のいて気にならなくなる程の、良かったという呟きが嘘じゃないとすぐわかるくらいの、柔らかな笑顔だ。
一日酷使した目には毒になり得る人工の光を消し去ってくれるから、瞳と言わず心と言わず、私の全部が滲んでぼやける。疲れているから余計に、かもしれない。
気を抜くと涙だって零れかねないと本気で危ぶむ。
会いに来てくれてありがとうを言わなきゃいけないのにうんと答えるだけで精一杯の私に、そしたら概ね成功て事でええか、と白石君が笑みを重ねて続けた。

「ちゅーわけで、俺が何しに来たか聞いてくれへんかな」

日なたの温もりを全部集めたような声色に釣られて求められるがまま尋ねれば、返答に困る悪ふざけが放り込まれる。

「可哀相なちゃんの為に、押し掛け女房しに来ました」
「…………」
「いやツッコんでぇや。スルーされんのめっちゃ悲しい」
「……女房じゃなくて旦那なんじゃ?」
「ツッコミ所そこでええんか」

むしろどこが正解なのか教えて欲しい。
率直に述べると、のそういうとこ俺好きやな、向けられているだけで恥ずかしい眼差しで微笑まれた。







まだまだ賑わう週末のターミナルを横目に灯りの乏しい路地へ入っていく。
駅から徒歩で20分程要する私の家へはバスで行っても良いのだけど、確認したら歩いて向かうよりバス停で待つ時間の方が長い時刻にしか来ないので諦めた。
近道にと比較的大きな通りから逸れていくので、白石君は私が夜に歩いて帰る事についてあまり良い顔をしない。
誰かに追われていると考え最大限に警戒せよ、との指示を受けたのはもう随分と前になる。
口にしたらきっと怒られるだろうけど、彼が心配してくれる都度、季節によっては凍える程冷たい、暗く寂しい夜道であっても胸の内にほのかな火が灯るのだ。
嬉しくて、くすぐったい。
私は嘘をつくのも下手なので、渋い顔や真剣な声で諭す白石君を前にして堪えるのは至難の業だった。
等間隔に設置された外灯がアスファルトの紺色を闇に浮かび上がらせている。
車が排気を吐く音は段々と遠ざかり、二人分の足音が住宅街の静けさと混ざり合って、やけに丁寧に耳たぶ辺りを触った。
雲一つない夜空だけど、人が作った光の反射で星がよく見えない。
暗闇の主役は月だけで、ぽっかり浮かぶ様は明るい色の穴があいたみたいだ。
どちらからともなく手を繋いだ私達は、深い黒に薄い黄色とオレンジを垂らす灯りを頼りにして歩く。
肌で感じ取る白石君の掌は温かいというより最早熱い。私の手が冷えているのか、基礎体温や体の作りが違うのか。
包み込んでくれる長い指とぶ厚い手の腹に思いを馳せてみても、一分刻みで疲労感が薄れていく事しかわからなかった。
ずっと張り詰め通しだった体が和らぎ、不思議と息もしやすい。
(そっか。私、本当に疲れてたんだな)
しみじみ実感していたら隣の白石君が、忙しい言うてどうせろくなもん食ってないんやろ、鋭い一言を手始めにダメな生活振りを次々当てていくので、呆けかけていた意識が引き戻されてしまう。
ごめんなさいと答える他なく普通に困った。
家へは寝に帰っているだけ、冷蔵庫はほぼ空、一日二食で取る時間も不規則、お風呂は湯船につからずシャワーのみ。
正解続出でぐうの音も出ないとはこの事だ。
そして指摘のどれもが彼氏というかお母さんじみている。ひょっとしたら実の母以上かもわからない。
あのね、一応言わせて貰うけど私だっていつもひっどい生活してるわけじゃないから!
強力なサポーターっぷりに気圧されつつ、自分の名誉の為に主張する。
断っておかなければ色々残念な彼女になってしまいそうで怖かったのだ。
と、私の浅はかな思惑を蹴飛ばすある種の起爆スイッチを握った白石君が、和やかに肩を揺らす。
知っとる。
一生懸命になり過ぎてよそに気ぃ回らんようなるだけや、の場合は。
あからさまに宥められているのにちっとも嫌な気持ちにならず、静かで柔らかな音が耳から伝って順に沁み渡っていく。
白石君は優しいから、ほんま頑張り屋さんやな、なんて言ってくれるけど、つまり私の要領が悪いだけである。
あと少しでいいからやらなければならない事を上手く回せるようになればいいのに、反省した夜は数知れず、疲労も相まって自己嫌悪に沈んだ日もある。
一人きりでいるのが辛くて、でも迷惑をかけたくないからと我慢した。
そういう、ありとあらゆる煩いをまるごとくるむ手が愛しい。
思いが詰まってすぐ傍の人を見上げられずにいると、更けゆく夜を揺らす言葉がそっと落ち始めた。
そろそろ忙しさも一段落つくであろう事を交わした短い連絡の中から読み取り、同時に体にあまりよろしくない生活も極まる頃合いだと予想して、今までの帰宅時間を思い出しながら駅に着く時刻に合わせ買い物をした事。
メニューはやっぱりまだ内緒だけど、夜ご飯を作ってくれると言う。
もう本当にどっちが彼女なのかという話だ。
ジェンダー論について目にする機会が以前に比べ増えた昨今、それでもこういう事は普通彼女である私がやるべきで、白石君だって仕事帰りで疲れているはずなのに、と思い悩んでしまう。
だけど聞いてみた所で先手を打たれる予感もする。
気にするなと、ありとあらゆる語句を操る白石君の手管に結局は頷いてしまう未来が見えた。
甘やかされていると思う。
それも特別に。
自惚れだと否定する間も与えてくれない。
今まで彼と付き合った女の子もこんなに優しくして貰ったのかな、ふとした瞬間どうしようもないヤキモチを焼くくらいには。
墨色の空が刻一刻と深まる夜を告げている。
降る外灯と人家から漏れる光の所為で、足元に伸びる影が二重三重に散らばった。
私は白石君の手に下がった二つの袋を盗み見、替えの服の類は入っていないと確認してから、いつだったか買っておいた着替えの収納場所を頭の中で探してみる。
変な所で真面目な白石君は、突然部屋に来るなんて事はほとんどしない。今日みたいに約束せず会う方がレアなのだ。
いわゆる珍事、万が一の事態にもかかわらずしっかり備えているのを、どんだけ用意周到だ、言われたり思われたりしたら恥ずかしい。
それこそ顔から火が出るに違いないとわかっているが、私にだって朝まで一緒にいたい時はある。立ち寄った量販店で自分用にしては大きすぎる部屋着を手に取ったのは、多分そういう気持ちが脳を麻痺させていたんだろう。
使い所のなかった頃は時々思い出しては恥じ入っていたけれど、今となっては過去の自分を褒め称えてやりたかった。備えあれば憂いなしとはこの事だ。
ただ問題は、悲しいかな、大企業に勤めているわけでも何でもない一会社員である私の部屋は、人様をお招きしても大丈夫ととてもじゃないが判を押せぬ程狭いのである。
何しろ今時ベッドではなく布団を上げ下ろししなくてはならず、お客様用のものなどは仕舞うスペースがない。
狭苦しい室内に一枚だけの布団、二人で眠ればもうぎゅうぎゅうだ。おまけに白石君は日本人男性の平均身長を優に超えているので、普通よりずっと寝にくいだろう。
でも私はそうやってくっついて眠るのが好きだった。
真っ暗闇の中で自分以外の人の心臓が動く音を聞くと、なんだか安心する。
それが白石君のものというなら尚更だ。
狭い、いやでもなんとかいけるかもしれない、ギリ寝返り打てる、声を潜めて笑い合った夜が楽しかった事をいまだに覚えている。

、大分疲れとるやろ。俺に気ぃ遣わんでええから、今日はもうダラダラしとき」
「…そんな顔に出てる?」
「いいえぇ、とんでもありません。……指まで冷たいからな。手握るとすぐわかる。しんどいてほっとんど口にせえへんくせに体は正直とか、わかりやすいんかわかりにくいんかどっちやねん」

ふざけたと思えば急に真面目な声音が零れ、そうしてまた明るさを取り戻す。
言葉の一つ一つに気持ちが呼び起こされ、鼓動がまた早まった。
それもこれも全部好きだからだ。
私は白石君が大好きで、その白石君は言葉でも言葉以外でも気持ちを伝えてくれる人だった。
友達に話せば最後、それがどうした惚気か当てつけか、と突っつかれるに決まっているから口には出さないけど、好きな人に好きだと言って貰えたり思われたりする事ってとんでもない奇跡なんじゃないかと時々本気で考える。
反動でものすごい不幸が待っているのでは、その内バチが当たりそうで怖い、等と非科学的で根拠の薄い妄想に憑りつかれもする。
どうしてもこの人が大切なのだと思い知らされる度に、切ない。
この上なく優しく触れてくる手を少し強めに握り締めた。
組み合った長くて骨っぽい指が私の手の甲を滑るように撫で、それからゆっくり同じ分だけ返される。
自ら吐き出している息が、一秒も経ず甘くなった錯覚に酔った。
構わないと思う。

「せやからちゃんと言ってや。遠慮せんと、して欲しい事あったらなんでも。俺が間違わんようにが助けてな。頼んだで?」

もし天罰が下っても、例えば不運に打ちのめされたとしても、今白石君がいてくれるならそれでいい。
充分過ぎる程充分だ。

「……なんでも」
「おう、なんでも。なんや珍しく乗り気やんか」

低い笑い声が胸の奥深くへ沁みていく。
込み上げる衝動を喉元で押さえつけながらはたと立ち止まれば、隣の彼も足を留めた。
不意に吹き流れた風に、金木犀のにおいが混ざっている。暗くてどこから香ってきたかは知れないが、この深い夜陰に紛れて花を咲かせているのだろう。
絡めたばかりの手を離す。
白石君は不思議そうな目でじっとこちらを見ていた。
私はそう器用ではないし、突出した才能があるわけでもない。
人に誇れる部分の方が少なく、取り柄といえば真面目に頑張る事くらいだ。

「じゃあ、私に白石君の時間をちょうだい。うん…2分、2分だけでいいよ。そこでじっとしたまま立っていて?」

だからつい忘れてしまう。
見失い、取りこぼして後悔する。もっと良いやり方があったはずなのに、と全て終わってから落ち込む不毛な自分が嫌いだった。
そんな風に逆立ちしても花丸はつけられない不出来な私を、受け入れてくれる人がいる。
一人じゃ絶対にわからない所を見つけて拾い上げ、好きだと言ってくれる。
白石君に大事にして貰って初めて、私は私自身を気にする事が出来た。普段は通り過ぎてしまう些末な引っ掛かりも、気を付けなければと心に書き止めるようになる。
同じくらい返せているのかな。
白石君は白石君を大事にしてくれているのだろうか。
私の気持ちがしっかり伝わっていて、彼に少しでも良い影響をもたらしていたらもう何もいらないくらい幸せなのにと切に願った。



わけがわからない、といった表情を浮かべつつも白石君は了承してくれるつもりらしい。
さっき歩みを止めたきり、本当にじっとしている。
独りでに頬がたわんだ。
目の端は悲しい涙とは違う水気でふやける。
肌寒い夜でもあたたかい。
外灯と外灯の間に生まれた暗がりで佇む人の形が滲む。
夜の濃さに隠れていて、しかし暗いからこそ余計目立つ部分もある、大好きな彼を見上げた。
一歩近付く。
バッグを肩に掛け直し、両腕を伸ばす。
白石君の唇が何事か紡ごうとする前に思い切って飛び込んだ。
私一人程度軽々抱えられるはずの人が一瞬体を震わせるも、構わず広い胸元におでこをくっつける。歯ぎしりするくらい無駄な肉がついていない腰に腕を回し、同じく贅肉とは無関係なすっきりとした背中で組む形にして這わせた。
スーツに皺が残らぬよう心掛けながら、指先を丸め小さく掴んでみる。
目を閉じきってしまうと夜の闇は一層濃くなった。
失せた視界の代わりなのか、過敏になった聴覚が虫の音を拾い集め、鼓膜を弾く。
頬をぴったり寄せれば、それらに穏やかな心音が加わった。
突然の行動に驚いたと思われる白石君はぎゅっとくっついた瞬間肩を強張らせたけれど、すぐさま力を抜いたので、不躾なスキンシップに応じるつもりらしい。
視線が旋毛辺りに降っているのが気配でわかった。
下の方からスーパーの袋がかさつく音がして、私以外の体温がほんのり空気に移り、荷のない腕が僅かに持ち上がった事を知らせてくれる。
動いちゃだめ。
微かに開いた視界には、覚えのあるネクタイとシャツの白が暗さで濁って映っていた。
いっそ冷徹に響いた私の一言に対し、白石君は不満を隠さない。

「ヒドい事言うなぁ。こんなん生殺しやろ」

中途半端な位置で止まった彼の片腕が行き場を失くしている。
見えなくても想像出来るから、いけないと言い聞かせた所で笑む唇は止められなかった。

「さっきなんでもって言ったでしょう」
「……せやな、言うた」
「うん。だから、2分このままね」
「アカンもう気ぃ遠くなってきよった。1分に短縮したって」
「しません」
「即答かい」

触れるどこもかしこも温かい。
会ってからじわじわ解れていた疲れの一切が、遂に全て消えていく。
白石君の熱とにおいに包まれて、疲ればかりか私ごとなくなっちゃうんじゃないかと思った。
ぬばたまの闇が静謐に拍車をかけ、夜霧めいた空気さえ運んでくる。
どんなに嫌な思いをしても、こうして一日の最後に一緒にいれば今日はいい日だったと締めくくる事が可能なのだから、私って本当にどうしようもない。
というか何よりも白石君の存在が大き過ぎるのだ。
あれだけ思い悩んでいたのに、辛くて苦しくて、でも頑張る事しか出来ずそれでまた気落ちしていたのに、全部が全部無駄じゃない、等と調子に乗ってしまう。
怖いな。
訪れるやもしれぬ不吉に慄くと同時、胸の内でのみ呟き落とす。
だけど終わりよければ全て良しって言うし。

都合の良い解釈を噛み締めるみたいに辿っていたら、不意に夜風とは別種の流れが肌を突く。
再び閉じた瞼の裏が揺れ、制止の声を出す寸前、肩に熱が触れてあっという間にくるまれた。
もっと近くにと私を抱き寄せたのは右手だ。
静けさを伴う呼吸が耳にかかってくすぐったい。
よれよれになっているに違いない肩を優しく抱く掌は確かに先程繋いでいたもので、まるで宥めるよう、ぽん、ぽん、と二度三度叩いてはよくやったと語り、時々引っ掛かる腕時計の感触が少し痛いはずだというに心地良かった。
離れずに服の上を伝った指先が、うなじをさすってから髪に触れる。
差し込まれた皮膚の硬さと熱っぽさに胸が打ち震え、毛先まで丁寧に梳かれると瞼で閉じ込めていた瞳も潤み滲んだ。
私の願いを破っておきながらどこまでも甘やかしてくる指が、離れたと思った直後に戻る。
やや俯いた頭の天辺へ落ち、後頭部側にとずれていく。繰り返し、繰り返し。
小さな子供に還った気分だった。

「…よしよし。お疲れさん」

囁きがあまりにも近い。
不意打ちだ。
人に頭を撫でられ、こんなに嬉しくて、体中に沁みて、泣きたくなる事は今まで一度だってなかった。
口にすべきなのはありがとうの一言なのだが、涙を堪える為捻り曲がった唇がわななき言葉の暴投を仕掛ける。

「………まだ、2分経って、ない……」

じっとしたままって言ったのに。
告げれば、白石君が笑う振動で心臓が握り込まれた。
直に感じる、白石蔵ノ介という人の温度はいとも容易く私に響く。太刀打ち出来る気がまるでしない。

「せやった、2分縛りの事忘れとった。がせっかくしてくれたお願い、無駄にしてしもたな。すまん」

お詫びに延長受け付けるで。いくらでも。何なら、朝まででも。
鼓膜を揺する声音はすぐ傍で奏でられている。
柔らかに押された体の芯が情けなく曲がって、何もかもを手放したくなる衝動に駆られ、しかし突き抜けてしまえば喜びしか残らない。
強く抱き締められて私は今ちょっと呼吸がし辛いはずだ、にもかかわらず、片方でも尚広さを誇る腕の中で今日一番落ち着く深呼吸をした。

「…そこまで付き合って貰えるなら、私箸置き職人になるって言うよ、もう」
「はは! そん時は後援会会長になって支援したるから、決心ついたら真っ先に俺に教えてや」

強張りが抜ける。
そうしたらこの先ずっと一緒にいてくれるの、声という形にはしないで問い掛ければ、心得ているとばかりのタイミングで更に抱き寄せられた。
解けた呼気で唇がしっとりと湿って、手の爪先までもが痺れてしまう。
白石君が連れて来た夜に、心が溶けていく。
とても幸福な事に嫌という程自覚した。
何気なく飲んだ息が、甘ったるくて柔らかい。