宝石の日々 「ずるい聞き方だったな」 静かに熱い声音が耳に溶かされる。 他に誰もいないリビングのソファに腰掛けた佐伯くんが、ちらとこちらを一瞥し、すぐさま目線を落とした。膝上辺りに両肘をつき、手と手をゆるく組み合わせたまま切々と、だけど凪いだ風にも思える様子で続ける。 そこは謝るよ。ごめん。 ささやかに差し込む弱光を背にしている所為で、すっきりとして男の子っぽい輪郭がほのかに縁取られ、少し伏せられた二つの目は何もないはずの床をじっと見詰めていた。 シャワーを借りたのはいいが着替えなど当然なく、また制服に腕を通した私は、うっすら湿り気を帯びた髪や、温まった傍から冷えていく素足を気に留める事も出来ずに、ただ立ち尽くすしかない。 頼りない足元が更に揺らいだ。 「だけど、俺だって男だからさ」 佐伯くんの声が緊張している。 仕草や口調から、明快闊達なのにどうしてか真意が掴み切れない彼特有の分かり難さが消え失せ、露わになっているのだと気づいた瞬間、指先まで余す所なくがたついた。 皮膚の裏側からざわめく。 血がうねり、鼓膜の底を激しく叩いている。 息さえ上手くできない。 前にも言ったろ、と繋がった言葉は心臓に杭を打ち込んだ。 「に触れたい。抱きたいんだ」 まだ人通りの少ない、海沿いの道を行くさ中、つま先をトントンと鳴らし整える。 いつの間にやら靴の中に紛れ込んでいた小石を摘んで放り、背筋を伸ばした後の事だった。 鼻筋を潮の香りがくすぐって、そんなにぼんやりしてたかな、と風になびいた髪を耳にくくり、また歩き出す。 海鳥の鳴き声が頭上高くを渡っていった。 コンクリートで出来た防波堤の向こうには砂浜が広がっており、早くも陽に温められた色合いを見せつけ、波打ち際まで続いている。白波の立つ浜辺がちかちかして眩しい。9月に入ってまだ間もないこの時期、昇った太陽は夏の様相を忘れていないのだ。 シンプルに暑かった。 暦の上では秋という文言と、今にも汗の滲みそうな陽気は食い違っているとしか思えず、どうにもしっくりこない。 ふう、と溜め息じみた呼吸で眉間に寄りつつあった皺をやり過ごし、流した視線の先で丸い水平線を捉える。 8月より少しだけ透けた青空に、飛行機の片側の翼みたいな形をした雲が薄く伸ばされて、陸地から沖の方へゆっくり動いていた。 青々と燃える海の表面をさんざめく光が飛び跳ね、目の奥を焼く。無数の小さな乱反射を浴びているからだろうか、下瞼の辺りが白く染まる感覚を抱いてしまい、軽く首を振るいながらまばたきを素早く繰り返してみる。 瞳をしかと開いたところで、広がる風景に変わりはない。 群青を溶かした海と、季節が進むにつれ高く遠くなる空や掠れ雲、慣れ親しんだ潮のにおいに、体の深くまで響く潮騒。 足先が鈍った。 鼓動がゆるやかに速度を上げていく。 朝の通学路をゆく空気はどこか透き通っており、皮膚が得る残暑とちぐはぐで、先ほどとまるで正反対の感慨を得ている、ちっとも定まらない自分の曖昧加減に内心呆れた。二の腕近くにじんわり沿う汗のような微かな湿気と、髪に絡む海風が混ざって肌を撫でる。 今、目の前に在る海は昨夜と何ら変わりなく同じもののはずなのに、色も音も雰囲気も、香りさえ異なっているのだから、本当に不思議だ。 朝の海は全然違う。佐伯くんは全部の海知ってるんでしょ。 かつて中学生だった私が彼に向けた言葉は、3年という月日を経て帰って来ているのかもしれない。それこそ海のようなものだ。繰り返す波打ち際と月の満ち欠けで変わっては戻る潮位、世界を巡る海流の内の小さすぎる一片が、この朝に繋がっている。 ずっと現実感がなかった。 真っ直ぐに射抜く眼差しや一番傍で感じる体温、掌の信じられない熱さ、しみる声音に誰よりも確かに触れている。 わかっていても昨日から所々で夢だと思う。 けれど口にしたら最後、熱意を持って否定されるだろう、尚のこと口元を引き締めるしかない。 何故って、想像の百倍すごい言葉で打ちのめされるに決まっているから。 佐伯くんに悪気が全くない事はよく知っている、それこそ死ぬほど理解しているが、じゃあ私が上手く返せたり、素直に可愛らしく頷けるかというと否定せざるを得ないし、いっそ息の根を止めてくれと本気で願う羞恥心に埋もれる未来しか見えないので、選択肢は一つしかなかった。 ただでさえ夕べの事で胸がいっぱいなのに、これ以上何か起きたら本格的にどうにかなってしまいそうだ。 頭の端で考え至った途端、いくつかの断片が淡くよぎりお腹の奥が撓む。きゅうと締め付けられて甘くなる。心臓に火が足され、脈がはやまった。 あっという間に頬へ高熱が駆け上り、うう、と呻りたい気持ちを堪え、丸めた拳で額をぐいぐい押す。 なんだかよくわからない感情で視界が潤み、ものすごく恥ずかしいのに嬉しいような気もして、とにかく困った。 朝からこんな調子で私は今日という日を無事に乗り越えられるのか。懸念材料すぎる。というかむしろ不安しかない。 早くも挫けかけた時、 「おはよ、」 ぽんと軽やかに背を叩かれ、覚えのある手の広さに気づく。 咄嗟に腕を下ろした。 見上げると、隅から隅まで整い尽くしていながら力強くもある瞳に楽しげな光を宿した佐伯くんがいて、視線が交わってすぐ、いつもみたいにニコッと笑いかけてくれる。 思わず引き上げた息がたまらなく熱い。 「……びっくりした」 密かに震えてしまった声は我ながらかなり情けないと思ったのに、彼の笑声はこだわりなくさっぱりとしていた。 「気づかなかった?」 「全然わかんなかったよ」 「ハハッ、全然か! みたいに気配消すの上手くなったかな、俺」 カレンダーの月表記も蹴飛ばす勢いの目映い陽射しを浴びた横顔は、朗らかに語る。 よく見ると思いのほか骨っぽい顎が生む影に紛れ、出っ張った喉仏が上下に揺れていた。無意識の内に自分の喉を確かめそうになり、力ずくで引き止める。 8月が去ろうとも夏らしさを忘れていないのか、佐伯くんは制服のシャツを第2ボタンまで外していて、風を受ける襟元の白がやたらと澄み渡って映った。 爽やか。 出会う前から折に触れ描いていた4文字が今日も変わらず脳裏に浮かび、ほんのちょっとだけ逸らした視界の隅では波飛沫が砂浜を飲み込んでいる。なだらかな海の音に胸の中身を攫われる寸前、戻して返した。 「おはよう佐伯くん」 うん、と返事をするみたいに頷いた人が笑みを深くし、私はその何気ない振る舞いにさえ息を潜ませてしまう。隣に並んだ高い体温はやわらかく空気を伝って、体の軸にほの甘い熱がもたらされる。 何を言われたわけでもない、でも急に呼吸があやふやになった。 気を抜くとすぐ俯く鼻先を持ち上げ、横目を走らせた先で、同い年の男の子はしっかり前を向いて歩き、秋と呼ぶにはきつい陽光を浴びた茶色の髪をたなびかせている。青い波に運ばれて来るのだろうか、時々びゅうと打ちつける風で襟足が浮いて、垣間見えるのは張り締まったうなじだ。 硬く渇いた肌の滑りが指の腹に蘇る。 慌てふためいた目尻がひくつき、次いで瞳孔もさ迷った。 無理くり引き戻した末にどうする事も出来ないと悟り、とりあえず前方注意を心掛け真っ直ぐ歩を進めるしかない。首から上に猛烈な勢いで血液が集まったみたいだった。暑いし熱い。 顔赤くなってたら困る、早く冷えて、こんなに意識してるの私だけだったらどうしよう、だって私自慢じゃないけど思い込み激しいし、わけわかんなくなるとわけわかんない事言っちゃうんだもん。 ぐるぐる空回り始めたのを何とか嗜めようとした直後、手の甲を淡く掠める。 佐伯くんの骨張った指筋。 余裕を失った脳みそでも知覚した。 多分というか確実にわざとじゃなかった。歩くにあたっていつも通り腕を振っていたから、自然とぶつかっただけ。しかもあからさまな接触ではなく、ちょっと交差したくらいだ。 一瞬触れて離れた温もりがいつ戻ったのかわからず、どちらが先に小さく震わせたのかも判断出来ない。 指の甲が寄り添って、爪先のわずかな箇所が擦れた。人差し指と中指の内側同士がそろそろと絡み、胸の芯は熱を籠もらせると同時、穏やかに高鳴っている。やがてゆっくり全部の指が繋がっていき、掌は貝殻みたいに合わさった。 直に感じる体温がいつも通りに高い。 とくとくと脈打つ音のあたたかさに口の中まで甘く溶かされそうだ。 幅広の手は全体的に私のより平べったいけれど、親指の付け根辺りはしっかりと分厚かった。かさついた肉刺の跡のおかげで、一度も触れられた事のないところを辿った皮膚の感触をまざまざと思い出してしまう。 突かれた胸の奥はざわめき、血が騒いで、喉元も腫れた空気の塊で塞がれたのに苦しくない。 もうじっとしていられなくなって、手首から下を滑らせくっつけようと――――した所で、いっそう強く握り込まれた。 いつもなら心臓が破れるほど狂い始めるはず、けど今は不思議なくらい落ち着いて正しく鳴り響き、とても自然に馴染むから、体の内側はむやみに熱くなっていく一方だ。 視線の行く先がぶれる。 零れた吐息が細まり掠れた。 普通に一緒にいるだけだとあまり意識する機会のない掌の大きさも、こうしてくるまれると確かなものになって、訳もなく嬉しくなる。 勝手にたわんだ唇の端や頬を抑え切れぬまま目が合い、佐伯くんはまたあの煌めく笑顔と凛々しく光る瞳を覗かせるのだろうと予測していたら、へにゃと崩れた笑み方をした。 照れている。収まり悪く気恥ずかしそうにも見える。 それで、色々ほどけた。 「……昨日は…あの、ありがと」 せっかく妙な強張りが抜けたというに、言葉が上手に出てきてくれない。 呼吸を引き締め、送ってくれて、と付け足せば、思い至ったらしい人が、ああ、と顎で頷く。 「いいよ、気にするなって。大した距離じゃないんだし」 「…うん。でも、ほんとに遅くなっちゃって真っ暗だったから」 「それ俺の方が気にしなくちゃダメなとこだろ?」 なんでが俺の帰り道の心配するんだよ。 私の手を包む強さに変わりはなく、声音ばかりが涼やかだ。 「暗いと足元よく見えなくてケガしちゃうかもしれないのは、私も佐伯くんも同じでしょ」 「俺ってそんな危なっかしく見えるのか」 「あんまり見えない」 「じゃあいいじゃん」 「よくない! ケガしてテニスできなくなったらどうするの?」 「アハハ、なんだか話がデカくなって来たぞ」 のん気に揺れる肩と背中には、ずっとあるのが当たり前だったラケットバッグが乗っかっていない。 高校最後のインターハイを終え身軽になったと言えばそうなのかもしれないが、ひと言で終わらせられる簡単な話でもないだろう。 いよいよ新しい道筋を決めていかなければならないのだから、中学から高校へ進学した時と同じに過ごせるはずもない、しばらくお預けだな、と零した人の眼差しをふと思い出す。利き手に携えたラケットのグリップを一旦強く握り、放した傍から器用にもくるんと回してまた掴んでいた。 私も私で志望校の判定とにらめっこを重ね、ひたすら机に向かい、進路についてああでもないこうでもないと友達と話したり、時たま佐伯くんとも膝を突き合わせて受験勉強に励んだ。 望んでしている事だ、家を出て早く自立したいと目論んでいるのも確かなのに、みんな離れ離れになる準備の真っ最中みたい、と急に寂しくなった放課後。 迷ってはいなくとも、溜め息を吐きたい瞬間があった。 (……全部どっかいっちゃった) 引くほど単純である。 家族や友達に先生、誰にも、佐伯くんにだって言えない。 自分が出来た人だとか、頭の回転が速い、冷静に作戦を立てるタイプ、だなんて1ミリも考えていないけれど、それにしたって限度というものがある。流石にここまで単細胞とは自己分析していなかった、見合った勉強法やら入試対策やらを見直した方が良いのでは、とわりと本気で不安を覚えてしまう。 「あのまま一人で帰したくなくて、心配だったのはホントだけど」 佐伯くんが空の左手を制服のポケットへ突っ込んで、なんて事ない調子で口火を切った。 波と波の間に生まれる不可思議な反響は遠のいて耳にしみる。 錆び付いたガードレールと並び続く県道を車が一台、二台、通り抜けてゆき、エンジン音の余韻だけが長く残った。 「…ちょっとでも一緒にいたかったってのもあって……、いい口実ってヤツ? が礼言う事ないよ。逆に俺の立場なくなっちゃうじゃん!」 一度聞けば忘れられない声の降り様は甘く、真っ直ぐに優しい。 繋いだ手を軽く持ち上げこちらを軽く覗き込む仕草に、太陽から溢れる光の粒が散り落ちる。さら、と朝日に透ける前髪が額や頬を流れた音まで聞こえてきそう。 聴覚が鈍り、心臓の動く気配だけ際立った。 破顔と呼ぶに相応しい表情が私に向けられるのが、嬉しくて切ない。 お腹の底から駆け上がった衝動に急いで蓋をし、指先へありったけの想いを籠めると、佐伯くんはぎゅっと握り返してくれた。私と違う男の子の力だと感じるのにちっとも痛くない。おへその裏の、窪みのような部分がとろけて撓る。 「……じゃあもう言うのやめる」 途端に零れた、海鳴りと混ぜこぜの低い笑い声は、空気と肌の両方を伝い通って届いた。 熱っぽく上擦っていた昨日の響きと上手く結び付けられないから、尚のこと胸に迫り、肺の中があまやかなもので侵されている気がしてならない。 (ちょっとでも一緒にいたかったのは私もおんなじ。だけど本当は、できるなら朝まで傍にいたかった。なんでもいいから、ずっと話していたかったよ。ここまででいいよって家の近くで別れるんじゃなくて、引き止めて思いっきり抱きついて、佐伯くんをびっくりさせてやりたかったし、大好きなんだよって言いたかった。何回も。何度でも) 折り重なる感情のひとつひとつが胸の裡で静かに光を帯び、目には見えないのに眩しくて綺麗だ。 厳重に仕舞い込んだそれをきつく結んだ唇の奥で呟く代わりに、舌には別のものを用意した。 「佐伯くん、きっと夜目も利くんだね」 「えっ? なんだよ、急に」 「暗くてなんにも見えないって経験なさそうだなーって」 「そんなわけないだろ、普通によく見えない時もあるさ。けど……そうだな、言われてみれば、夜でも道間違えたり目印見失ったりってのは人よりなかったかもな」 「視力おばけ」 「ストレートな悪口放って来るなよ」 「悪口じゃないー事実を述べているまでですー」 「ポケモン扱いより酷いぞ」 「酷くないよ。全部佐伯くんの特技じゃない」 「…なんか俺ダメ出しされてるみたいじゃないか。あ、そういや前から思ってたんだけどさ、って俺の事あんま褒めてくんないよなぁ、なんで?」 「……言い掛かり!」 「先におばけ呼ばわりして来たのはそっち」 べー、と小さな子と同じに舌でも出しかねない物言いで笑う横顔が、潮風に吹かれてまっさらになる。少なくとも私の目にはそういう風に映った。 洗い立てのシャツみたい。 試しに喩えてみれば太陽を浴びた洗濯物のいいにおいまで薫って来る気がして、爽やかさを擬人化したらこうなります、の見本を間近で眺めた心地だ。 「俺がおばけかポケモンかはとりあえず置いといて、は目がいいよな」 しかしその実、見た目通りに爽やか一辺倒ではない人が、矛盾に満ちた発言をする。 思わず眉を顰めた私は何ぞ面白いものでも見出したような色合いの瞳に見澄まされ、たじろぎ困り果てた末に首を傾げるしかない。 「………今の流れでそれを佐伯くんが言う?」 「俺のは視力がいいって言うんだよ。だからかな、時々油断する。舐めてかかっちゃうんだよな。なんでも見えるって侮ってさ」 佐伯くんと私の掌の間に2人分の熱が溶けて混ざって、区別がつけられなくなってゆく。 「それで結構すぐ周りが見えなくなっちゃうんだ。オジイとかバネとか…それと亮、はちょっと違うか、あれは呆れられた感じだったし……、うーん、ま、ひと通り全員に叱られたかな」 「え、佐伯くんが!?」 「ハハ、いい反応するよね、って。意外だった?」 「しっかり者の副部長で生徒会副会長だった人が言う事じゃないよ……」 「そうでもないさ。だってほら、現に彼女にもダメ出しされたばっかだし?」 「いやダメ出しは、し、してない、濡れ衣、」 言い差して、封じられる。 手の内側だけじゃない、指先同士が組み合わされて、もっとくっついた所為だった。 「は何か追っ掛けていても周りが見えててさ。付き合う前からすごいと思ってたよ。なんていうか……俺は視野が狭くなる方なんだ、多分」 だからごめんな。 誠実に奏でられた続きが腑に落ちない。 大好きな温もりは離れ遠ざかる予兆もなく、むしろ近付く一方で、謝罪している人のものとは思えない。 陽の光を吸い込んだ佐伯くんの双眸から、いつの間にか、あんなにも楽しげだった彩りが消えている。 「嫌なら出来るだけ早く言えよって言われても、ああなってからじゃ普通言えないよな。無理強いしたくなかったのは本当の事だけど、よく考えてみたら強引だった気もするし。……俺は…正直キツい時もあった。でもどうしてもしないと死ぬって訳じゃないじゃん? だったら、まだ待つべきだったのかもしれない」 実直極まりない声音で大真面目につらつら語る人を、呆気に取られつつすぐ傍から見詰めた。 イメージばかりか実際の所も鈍い方じゃない、観察眼も鋭いくせして、どうして時々平気で外すのだろうか。彼自身、微妙にズレている事に無自覚なのだとわかるから、こちらの態度や伝え方に問題があったのでは、思わず自省しかけて、違う、と考え直す。 私が本当は嫌だったのに無理矢理されただとか、後悔していたら、初めての朝、手を繋いで歩き、握られたのを想いを折り籠めて返して、嬉しさに我慢出来ず笑ったりするわけがない。 よく見ているなと感心する日もあれば、見事言い当てられ言葉に詰まる時だってある、にもかかわらず、よりにもよって今日に限ってこれだ。私が関西の人だったらなんでやねんとツッコミを入れていたと思う。彼のこういう部分は、最早不可解と評しても良いかもしれない。 「………ずっとそんな事、考えてたの?」 くい、と心持ち手を引く。 佐伯くんが目を斜め上へと一瞬寄せたのち、首を振って否定した。 「いや。今朝になって昨日の事色々思い出してて……、それで、と話している内に段々そんな気がして来た」 溜め息を吐かなかっただけ私は偉いと自画自賛する。 ところが呆れた末の脱力や六角の皆と同じお叱りの言葉は浮かんで来ず、込み上げたのはどうする事も出来ない愛しさだったので、賛辞は即取り下げるしかない。 「ならもう一回、昨日と同じ事聞く。嫌そうに見えた?」 今度は二、三回に分け、指で指を挟んでたぐる。 軽く腕を引っ張られる恰好となった佐伯くんはされるがまま、 「…………見えなかったな」 ろくな抵抗もせず、私の方へちょっとだけ背を屈め、話す途中で耐え切れなくなったように笑い零した。綺麗な目尻や整った唇の端がじんわり滲んで、かつて六角中のロミオとまで称された類い稀なる顔立ちは緩みきっている。 昇り始めた陽射しが、青い海を渡って流れる風が、乾いた砂と塩っぽいにおいが、たくさんの記憶とない交ぜになって優しく揺らめき、表層から奥底までの全部を温めてくれた。 私の体の一部が私に断りもなく潤み、熱を帯びて、溶け崩れてゆく。 目が眩みかけた。 「佐伯くんて器用貧乏なとこあるでしょ」 「急に痛いとこ突くなって、相変わらず容赦ないなは」 「ちなみに先に言っておくとダメ出しじゃないからね」 「ハハ! そっか。じゃ、真摯な態度で聞けって事?」 脈打つ鼓動と一緒に煌めき出す。 頭の中で鮮やかに蘇る。 ‘これからは俺と一緒にいる時か、俺の事追っ掛けてる時に見つけてよ。それで見つけたら必ず俺に教えて?’ 私はいつも、誰にも何も言わずに答えるのだ。 「大体、ほんとはやだったとかまだ待って欲しかったって言われたらどうしてたの、佐伯くん」 「うん。そうだよな、ごめん」 「ていうか私がそんな風に、昨日の事…考えてるような子だって思われてた方がよっぽど嫌だよ。佐伯くんのバカ」 「言葉もないよ」 「真摯な態度!」 「真面目に聞いてるだろ」 「…ニコニコしながら?」 もういっぱい見つけてるよ。でも、大切にしまって取っておきたい気持ちもあるんだ。私ひとりだけの秘密にしたい。 「ホントって、たまにビックリするくらい冷静な時があるよな」 「……別に…冷静なんかじゃないし」 「そう? 情けない話だけど、俺としては助けられてると思うからさ。これからもそうやって俺を見張っておいて」 「ま…っ、た、そんな事言って! その内ほんとに尾行して行動パターン読むからね!?」 「アハハッ! どんな脅し文句だよ!」 「笑いごとじゃないんだからね、マジでやるから!」 「ああ。俺の事もっと知って、尾行でも張り込みでも何でもしてさ? いつでも会いに来てくれよ」 恥ずかしいのと嬉しいのと照れてしまう憤りのようなものが一気に噴き出、返すべき言葉が綺麗さっぱり消えた。 佐伯くんは何も言わずに自然体な笑顔のまま、繋いだ手を小さな子がするみたいにゆっくり揺らし始める。 のんびりとした歩調と、遠くの横合いで繰り返される波の音が、振られる腕の感覚と一緒になって、心地好い重なり方をしていく。 眠気を誘う日なたのよう心を満たすあたたかさに、やっぱりまだ夢の中にいるみたい、と独りごちた。 のクラスは今日一限目なんだっけ、体育? 何気なく放られる声を大事に聞き入れ、指先から離さず応じる。 ううん。体育なのは木曜日で、今日は現国。 朝イチそれってなかなか辛いよな、あ、けど眠くなっても寝ちゃダメだぞ、と冗談めかして笑う人の背後ろに、昨夜の月が差しかかる幻を見た。 朝に注ぐ太陽と混ざって、優しい光の交差が起きる。 記憶と今とが潤んで溶ける途中、 (夢より綺麗なのかもしれない) 胸の内に呟き落として、真っ暗の帰り道を頭の奥深くでそっと辿った。 大好きな人の隣で抱いた気持ちと声なき声を、丁寧にかたどる。 きっとじゃなくて絶対、一生忘れない。 闇に包まれた海岸沿いの通りに、夜特有の潮騒が打ち響いていた。掌を重ね合わせて歩いて、二人きりで話した事。脈略もなしに子供の頃の怖かった思い出をふと語ってみて、どうしてかいつもより静かに空気を振るわす佐伯くんの笑い声に寄り掛かりたくなった。 乾いた肌のにおいと熱の籠もった体温が緩やかな曲がり道を進む時、気の所為みたいに近付いて、じんわり馴染んだ後でひとつになる。 佐伯くんが私の名前を呼んで、穏やかな眼差しで他愛ない話を続けてくれるものだから、唇が甘い切なさに濡れた。 薄まった雲の流れる空には細い月が昇り、ぞっとする黒と深い青に染まった海にひと筋の道が通る。 季節ごと真白に映える月の光が降った跡だ。 音もなく水面を滑り、宝石みたいに輝き揺れている。 ゆらゆら。きらきら。 |