It's Stiff! 色々卑怯だと思った。あんなのは反則だろう。 にはあまり自覚がない。 俺も俺であえて触れずにいた節があるから自業自得と言われたらそれまでの話だけど、ここ最近は後悔する事が多かった。 のんびり眺めている場合じゃなかったのだ。 どこかで線引きをし、嗜めるべきだった。 寒さに弱い。 冬場は特に早起きが苦手になる。 何かに夢中になっている時の瞳は輝きに満ち、驚嘆に値する集中力で周囲の人や物事を綺麗に思考の外へよけてしまい、指摘を受けようやく気付いたのだろう、はっと居住まいを正す。 他愛ない怪談話に怯え、手を貸してと微妙に意地っ張りな助けを求めて来た必死の様相は今思い起こしても可笑しい。 何事も率直に、ありのままを口に出す質で、こちらとしては一度たりとも咎めた記憶等ないのだが、時折心底落ち込んだ表情で謝罪を差し出す。 ほとんどいつもちょっとした菓子を持参してい、何度かご相伴にあずかった。 自分ではなかなか買わないので今となっては懐かしいものとなってしまった、ポッキーやらプリッツやらの類。 練習後の帰り道、コンビニで見つけたのだと揚々と語り、期間限定チョコを分けてくれる。 付き合い始めの頃は手を繋いだだけで過敏に反応していて、本当にびっくりした時に目を閉じ忘れる癖も覚えていった。 真田は年相応の落ち着きを持てと眉間に皺を刻み、柳はといえば少々児戯に走り過ぎるきらいはあるなと一定の距離を保った位置から評価を下す。 だけど皆、知らない。 比喩ではなく周囲の言葉通りに子供っぽい彼女の、意外な程艶やかな指先。 何となくそういう雰囲気がゆるゆると流れ、不意に視線が重なった時の双眸は濡れて瞬く。 息を詰めた唇の音が鼓膜に染みてゆき、浸る間もなく、精市くん? と静かに伝う響きの仄かな甘さ。 鼻先の触れる近さになって落ちる瞼のしなやかに薄い事、瞬間の眦の形や角度、微細に震えなめらかに映える睫毛へ宿った微かな光が美しい。 全てが俺を幸村精市だと認めた上で存在している。 彼女自身頷きもしていないのに、初めから受け入れてしまっている。 無意識であろう産物は心地良く、得も言われぬ高揚を招き、しかし毒でもあった。 境界線が見えない。 どこまで求めていいのか見当もつかず、躊躇った末に手を引く。止めようと自制を試みる時に限っては持ち前の考え無しを発揮して、無遠慮とも言える踏み込み方をした。 この子は俺に同じ態度を取られたら自分がどう感じるのか、まるで考えていないのだ。意識しているか否か以前の問題でそこへ至る道すら開かれていない。 半ば呆れ、ならお望み通り思い知らせてあげようか、自棄気味の感情を持て余すと同時に常のよう口に出せばいいものを出来ない自分に気付いてもいた為、進展は遅かった。 幾度か時を重ねたのち、意を決して、それでも俺にしては遠回しに伝えたものを、彼女が精一杯受け止めてくれる。 そう、随分と真剣に考えてくれたようで何よりだ。ありがとう。 普段はからかってやる所だというに一言も出て来ない。体の芯は高熱を蓄え、先走った思いが勝手に抱き寄せてしまう。お互いチョコもアイスも口にしていなかったにもかかわらず交わした口付けがむやみに甘く、皮膚の表と言わず裏と言わず全てがざわめいた。僅かに身震いし、我ながら情けないと感じる熱を孕む揺らぎが声にまで繋がって空気をじんわり濁らせる。 ごめん、もう限界だ。 口にした途端、腕の中に閉じ込めた柔らかな体温が強張り、しかしすぐさま解け、縮こまっていた冷え症の掌が背に回り、ゆっくり、恐々と抱き返して来る。 それが返事だった。 息継ぎを追い遣って噛み締める他ない。 紆余曲折を経て、一度いいと答えて貰った以上、優しくするつもりだったし自信もあったけれど、やっぱり無理だと拒まれた場合に途中で止められるかどうかはわからず、正直少し怖かった。 ――が、そんなものはベッドの上で素肌を知った時点で吹き飛んだ。 柔らかい。 どこがどうとかよく言う胸や尻やが気にしている太腿に留まらず真実全部としか言い様がなく、俺は急に自分が馬鹿になったよう感じてしまう。 試合中はああも研ぎ澄まされる感覚やあらゆる感情を正しく表現する語彙、窮地へ陥ってもそうそう失わなかった冷静さ、着実に築き上げ得て来たはずの数多の能力がたった一瞬で呆気なく瓦解したのではないだろうか。 丸みを帯びた肩先は事ある毎にびくついて窄んだが、俺の言葉や掌に応じてふやけていく。 指で触れても舌で辿ってもなめらかな肌と同じに下腹や背中がすべすべしているお陰で呼吸が僅かにつかえた。 胸に迫る。心臓が有り触れた血にも燃え狂い、骨や皮膚を内側から焼く。際立つ下腹部に脳髄を揺さぶられ、息を細く吐いて耐える。 耳殻や首筋まで真っ赤にしたが目をぎゅっと瞑って耐えてい、唇の下で強張り震える指筋の一つ一つにも目がいき、剥がれぬまま爪の先まで見尽くした。 柔い肌は汗ばむとしっとりして来、元より柔らかかったものが一層溶けて手に馴染む。腫れぼったいのに潤いを含み、触っていて気持ち良かった。自分のそれとは明らかに違うのだ、いくら汗を掻いた所でこうはならない。 ああ、女の子なんだなあ。 当然わかっていたし変えようのない事実で、男だと認識していたわけでもないのだが、改めて思い返す。 は、俺のものになると頷いてくれた彼女は、幼い子供なんかじゃない。 今までそう交わした事のない深いキスで吐息が混じり合いほぐれ、拍子に零れた声は滲んで揺らめき、そっと撫で擦り慣らした腿の奥が濡れそぼり、膨らみの尖端をゆっくり舐めればびくっと震えながらあまやかに喘ぐ。 全部が俺の所為で、俺のために在る。 実感してしまうと本当にたまらなかった。 緊張で冷え切っていた細い指に温みが通る。全身で恥らっているのが見て取れたが、待ってと引き止めやしない。痛かったろうにやめてとも言わなかった。泣いているのが可哀相だと確かに思っているくせして全く止められないし、何より可愛い。 欲望が嵩を増した分だけ苦しませている。 普段は意地を張る事が多く、素直だけど素直じゃない、恥ずかしがり屋な彼女が俺に向かって腕を伸ばし、縋るのではなくただ抱き締めようとしてくれた。 目の前がちらついてぶれる。徐々に我を失ってゆく事に気付いていたがどうしようもない、言葉どころか息にもならない。 不自然に硬直と弛緩を繰り返す俺の肩に触れ、首の横から項までを滑るよう遡ったいとけないはずの指先が、熱を含みながら艶めかしい辿り方をした。 つい先刻まで、痛い、精市くんのばか、おんなじくらい痛い目に合え、あまりにも率直で子供じみた文句を眦や下瞼に細やかな雫を纏わせながらぶつけ、堪えられず笑った俺をねめつけていた子のものだとは到底思えない、渇いているのに喉が鳴る。 舌が膨れ上がる錯覚にまみれ掠れ尽くした声で呼んだ。 。 組み敷いた体がひくと応じ、瞼の幕の奥から潤んだ瞳が現れ、薄ら開く唇は散々塞いだというにまだ足りないと望んでしまう程、艶然と空気を濾していた。 揺り動かされている所為でちぐはぐに響き上擦った息に俺の名前が混じって途切れる。ついぞ聞いた覚えのない声音だった。脳や連なる神経がぶつぶつと焼き切れ煮溶けて沈んで掻き回されてしまう。 俺のものになる。いいや、もう俺のだ。誰も知らないは俺が貰う。 剥き出しの感情が喚いてうるさい。 汗が噴き出て伝い落ち、背骨を割らんばかりに駆け上がる情動で皮膚という皮膚がざわめいて、一秒でも気を抜いたが最後易々と果ててしまいそうだった。 腹の底が、ぐ、と下がる。 腰下の裏から欲の飛沫が急速にせり上がり、怖気に近い、しかし際限知らずの快楽を伴った震えが走る。 俺はこの日、自ら呼吸を手放す瞬間がある事を初めて知った。 ※ 本当に余裕がなかったのだと脳の芯から理解したのは、皮肉にも事を終えた翌日、何も変わらぬまま流れる日常の最たる象徴、慣れ親しんだ学び舎の一角でだった。 「うわ、ごめんなさ…いっ!」 つつがなく授業を終え、部活の前に提出しようと書類片手に教科担任の元へ歩を進めていたら、通り掛かった階段の踊り場から誰かが飛び出して来た。 衝突寸前で素早く退き、見事回避したのは俺じゃない。 「あ、精市くん……」 びっくりした、と顔全体で語る彼女の方である。 まともに目が合うと空気がにわかに固まった。 一秒触れた視線は絡んでほどける。 飛びのいた際に軽く乱れた髪の筋を戻すの仕草に、今日一日中隠していた苦笑に似た何かや照れ臭さが呼び起こされてしまい、気恥ずかしさで胸がむず痒くなるのを堪え、とりあえず肩を竦めたのち笑う。 肺の中が不自然に縮こまって窮屈だった。 「やあ、。随分元気が良いね」 「……すみません」 「どうして謝るんだい。俺はまだ何も言っていないよ」 「だって、前見て歩けとか廊下は走るなって怒られそうだったから」 「フフ、もしかして怒られたかった?」 「怒られたくないから先に謝ったんですけど!?」 ただでさえ朝に強くないを昨日の今日で叩き起こしては可哀相だ、純粋な気遣いのつもりで特に連絡もせず朝練に出、いつも通り学業に励んだのだが、あらゆる覆いを取り除いた本心は違ったのかもしれない。 証拠に、指一本触れていないにもかかわらず体を打つ拍が密かに速くなっている。 「そう。俺に怒られるかもしれないと怯えながら、わざわざ校則を破ってまで急いでいた理由が気になる所だけれど……先手を打たれてしまっては仕方ないかな」 「仕方ないって思ってないでしょそれ」 ブレザーとシャツを被った背中の筋が熱い。 遅れに遅れて気付くだなんて失態と言っても過言ではないだろう。溜め息の一つも吐きたくなるというもの、だがここで零す訳にはいかない。 立て直すまでの僅かな間を次の攻撃の為の準備期間とでも受け取ったのか、は胸元に留めていた掌をぎゅっと握り込む。 身構えたというよりは隠すような手付きに、乾きつつあった唇をすかさず開いた。 「大丈夫。もし持って来てはいけないものだったとしても、風紀委員には黙っておいてあげるとしよう」 「え!?」 「君の手の中の物について。どこへ向かうつもりだったんだい?」 こういう、丸わかりの隙が憎らしくて愛おしい。 しかしこの恐るべきわかりやすさは時々俺を困らせる。 かといって何度か助けられたのもまた事実、今回も例によって悟られぬよう便乗した。 極限まで小さくなったまるい肩を何とはなしに見詰めてみる。 「………こ、購買に…」 恐る恐る、といった調子で紡がれた声は非常に頼りなかった。 昼時ではあるまいし、放課後の今、走って買い求める程の物があるとは思えない。人気商品の類はとうに売り切れているだろう。 「購買?」 「……うん。あの…なんていうか、別に大した事じゃないんだけどテンション上がっちゃって」 「何か良い事があったの」 「…………三角くじチョコの当たりが出たからもう一個貰いに行こうとしてました!」 さあ存分に斬り捨てるがいい。 言わんばかりの潔い告白と勢いに呆気に取られた。 つまり彼女は当たりのくじを握り締め販売元である購買へ駆け足で向かうさ中、運悪く俺と出会ってしまったのだ。 昨日とは異なる羞恥に頬を赤く染めているのは己の行動を振り返った末、自覚したからに違いない。 真田と柳の論評が頭をよぎる。 「なるほど。運が良いね、。おめでとう」 「……そうやってすぐ馬鹿にするから言いたくなかったのに……」 「嫌だな、人聞きの悪い事を言わないでくれ。おめでとうと祝ったじゃないか、馬鹿になんてしていないよ」 「笑いながら言ってる時点で説得力ない!」 まるきり子供。 年相応の落ち着き等なく、時として児戯に走り過ぎる。 「俺も同じ方に用事があったんだ。途中まで一緒に行こう」 「部活は?」 「勿論、出るさ。これを提出してからね」 「あ、この課題うちのクラスでも出た。精市くんなのに期限ギリギリなの珍しいね」 「あはは。俺なのに、ってどういう事だい」 「さっさと片付けてさっさと提出しちゃいそうだし。もしかしてこないだ遠征と合宿行ってた所為で遅れちゃったの?」 子供じゃない事は俺が一番よく知っている。 泣いた赤子がもう笑う、を地で行く彼女が平生の顔色を取り戻し、先に歩き始めたこちらを追うよう二、三歩の間のみ小走りになった。 空っぽの教室を何個か通り過ぎる途で、階下か階上か、ざわめきや幾人かの気配が遠くから響いてすぐ失せる。 硝子窓から斜めに降り注ぐ温い陽射しは細かな塵や埃を浮かび上がらせ、空気もどことなく淡く色付いており、床を彩る光のじゅうたんは窓枠型に区切られ、大きめの飛び石のよう点在しながら行く道を穏やかに照らしていた。 窓を開ければ緩い風に乗り梢の緑が薫って来るに違いない。 土も花壇も遠いのに、たおやかに開いた花の色彩や落ちる陰影が傍近くに在る気がした。 欲目か願望か、はたまた舞い上がった心が、どうという事もない日常をこうも美しく匂い立たせているのだろうか。 今月購買で駄菓子フェアやってるんだよ、と隣で語る人の頬の血色の良さ、唇の形。見上げて来る瞳の角度や眦にも表れる感情の粒が、午後の陽光と溶け合い揺蕩って映る。 (本当は……顔を合わせたくなかったんだ) 会いたくなかったのではなく。 どんな表情を心掛ければ良いのかわからなかった。 俺の下で横たわる体のやわらかい所、温もり、懸命に俺を呼ぶ声、揺らめきながらも熱に濡れた双眸、纏わる全てを思い出すだけで何も言えなくなるのが恥ずかしいから、避けられるものならば上手く避けたかった。 断じて悔いていないが、手加減なしに触れて見澄まし、叶う限り近くでもっと弄ったりしたかった、そういう意味では惜しがってしまう、深まる一方の欲を飼い慣らすには時間が必要だ。 色々やり過ぎて嫌われたくはないし、もうしたくない、なんて万が一にも言って欲しくない。強がりや意地を張ってだとかいわゆる羞恥心が所以だとしても聞きたくないなと願う、余裕のない男だとこれ以上悟られるわけにはいかなかった。 そんな風に今更取り繕った所で意味等なく、つまらない矜持だと自分でもわかっている。 会わずにはいられなくて想うだけでは収まらないし、忘れて気付かない振りを続けるのにも限度がある、いい加減ボロが出そうだ。 諸々の、ありとあらゆる恐れや見境のない願望を飛び越して、ひと際強い自覚だけを得る。 ただどうしても好きなんだと、誰にともなく乞う。 「……体は大丈夫?」 渡り廊下へ続く扉の片側が閉め切られているのを視界の先にて認めた辺りで、何の捻りも工夫もなしに尋ねた。 え、何が? 言って素直にまばたきを繰り返す様が目を焼き、即座に干上がってしまい、反動で角膜が水気でうっすら曇る。 どうすればこの子を傷付けずに大事に出来るだろう。俺の傍で、いつまで笑っていてくれるのだろうか。 「痛がっていたし、あの後しばらく歩き辛そうにもしていたからさ」 の眉間へ寄りつつあった皺がぱっと消え失せ、陽光を浴びたかんばせが瞬く間に薄赤く染まる。こちらの言わんとする事を理解した証だった。 俺は歩調を緩めず足音を鳴らす。 「あぁ……うん、えーと……。…へ、平気………」 末尾へ行くにつれか細くなる声が、こう表現するのも何だが愉快で仕方がない。 逸らされ俯いてしまった眼差しを惜しみながら、そう、なら良かった、と手短に答え返した。簡潔に終えたひと言はしかし、良いも悪いもひっくるめて多分に気持ちを含んでいたので、素っ気無く響かなかったはずだ。 の足を動かす速度があからさまに落ちた事については言及せず、向けていた鼻先を真っ直ぐ持ち直す。 気の所為みたいに場を包む沈黙は柔く、何故か肩の裏があたたかかった。独りでに右の指先が小さく跳ねて空気を叩く。 もう少しやり方があったのかもしれない。 胸の内で呟いた途端に真実味を醸し、当然ながら実感も嵩を増した。 全てを性別で区別するつもりはないけれど、女の子は大変だ。男は気持ちいいだけだもの。 一人きりであれば息をついたであろう所、口を結ぶに留める。だが苦しくはなかった。 脳裏ではなくまばたきの隙間に昨日の光景が浮かび、意識と思考にぶれが生じ腹の中が熱い。炙られた火箸で乱暴に掻き回された心地だ。通じる喉が焼けた燃えたと騒ぎ出すので、腹筋に力を入れ呼気を絞る。 と、控えめに引き止められたのは、渡り廊下前最後の窓を行き過ぎ一歩踏み出したのと同じ頃合いだったと思う。 じんわりせり上がった情動と懺悔めいた揺らぎに気を取られていたお陰で、不覚にも反応が遅れた。 「あのね、嫌じゃないから」 ブレザーの袖下から潜り込んで来た俺のものより細い指筋が、リストバンドに覆われていない部分の手首を軽く掴んでいる。 驚いて足を止めた。 見下ろされていると気付いたらしい、やわい感触が小さく滑り、手と腕の境にある出っ張った骨とぶつかった。 たったそれだけの事に肌が粟立ち、嘘ついたりしてない、と零された囁きめいた音もろくに飲み込めない。まるで薄布にくるまれたよう、ぼやけて鼓膜へ染みる。 「痛かったかって聞かれたら、それは…まあほんとに痛かったけど、死ぬほどじゃなかったよ。大丈夫」 なよやかな人差し指と中指が、掌の内側、親指の根元の膨らんだ箇所を撫で掠めていく。 「精市くん、あの時自分ばっか嬉しいって言ってたでしょ。そんな事ない。……私だって嬉しかった」 理解した瞬時に頬や顔に留まらず体の至る箇所へ熱が奔った。 堪らず自由が利く左手で口元を覆う。 右巻きの旋毛が見えなくなる代わりに上目遣いの瞳が現れたので、いや、とかろうじて紡いだのかもわからない。己の声と思しきものがやたらと籠もって聞こえる。ラケットを振るい硬くなった指の腹が少しばかり頬骨へ食い込んで来、痛むはずもないのに軽い眩暈を覚えた。 膨れ上がった心臓が肺や気道を押す。 ……いや。これは――駄目だ。 初めから無い物を空回しする一方の胸の内で言い抑える。 待ってくれ本当に駄目だ、いくら俺でもこんなのは予想していない。 舌の根っこから先までが痺れて震え始め、声に出そうと急いたがなかなか続かない。 どくどくと脈打つ血管が疎ましく、にもかかわらず後から後から振るえて沸いて一向に締まらなかった。 遂に視界を閉ざすしかなくなった俺はきつく目を瞑り、掌を口から目の辺りへと移す。 たじろぐの気配が肌に障った。 「あの…精市くん」 「…………うん」 思い切り間があいた上、実に情けない声で頷いてしまい、この場においては自分の方が余程子供だと他人事のように批評する。 幸か不幸か視覚を遮った分だけ触覚が研ぎ澄まされてい、温もりの触れた僅かな面積がざわめきやまず、我慢し続けた溜め息が漏れ伝い皮膚を湿らせた。考えていた以上の熱を帯びており益々以って思い知らされる。 「なんか…空気読んでなかったらごめんなさいって感じなんだけど……だ、大丈夫?」 「ああ……うん。大丈夫……」 「……じゃあ、その…私また何か間違えちゃったの?」 「…いいや。君は間違えていやしないよ。ただ、俺が……、」 詰まった言葉が拗れて止んだ。 宿った炎はいつまでも引いていかない。 さぞ赤らんでいるだろう自らの顔を想像し一層恥じる。 勘違いしている可能性が高い彼女を正し否定しなければならない、頭ではしかと理解していたが指先ひとつ動かせなかった。 ままならない事ばかり起きている、だというにほんの少しも嫌じゃないのだ。 「……参ったな…」 滲んだ笑みを殺し切れず、しかしやはり頬は熱いままで、転がる呟きも縒れてふやけている。 神の子が聞いて呆れる。 どこぞで浴びた揶揄が不意に蘇ったが露程の威力もなかった。 過った解釈を固めた様子のが怯んだのを見ずとも把握し、掴まれていた手首を翻して逆手を取ると、いとも簡単に収める事が叶う。 一瞬の出来事に反応らしい反応は出来なかったのであろう彼女は、えっ、と動揺する暇もなく俺に引っ張られたあげく抱き込まれた。 首を下げればシャンプーの香りが鼻腔を撫で、艶のある髪の通りが顔の側面や首に滑り、ぬくい体温を直に感じる。腕の中で強張ろうが何だろうが最早関係ない。強い衝動が全てを追い抜き塗り替えた。 胸元に添えられた五指と掌の形が更なる高熱を生み、名を呼ぼうとしたがしかし、声にならない。 昨日知ったばかりのほくろのある背中が撓んで少しのけ反っている。 俺のものではない呼吸がブレザーの襟の間、ワイシャツを微かに濡らすからたまらない。 間近に迫っていた渡り廊下の扉へ柔らかな体を押し当てて、表情の一端すら確かめぬまま細い首筋に唇を寄せた。 軽く吸うや否や、ひゅ、っと喉を勢い良く擦る息の音が耳のすぐ横で落ちた、その一瞬後。 「ひはい」 ものすごく気の抜けたひと言が、仕切りの影にぽろっと転がる。 不思議に思い身を引くと、涙目になっているが唇をおかしな風に曲げていた。 「ひた、はんだ……」 痛い。ガリッて音がした。舌噛んだ。ほんとに痛い。 不連続に繰り返される訴えがあまりにも悲壮且つ深刻なので、俺は堪え切れず吹き出した。 「笑いごとじゃないんですけど…」 「あはは! ごめん、でも…はっ、は!」 睨み付けて来る下睫毛にはよく見なければ気付かぬ微細な雫が宿っており、込み上げた愛しさで口の端が勝手に上向いてしまう。 「平気かい」 「平気じゃない……久しぶりに本気で痛かった……」 「それはそれは。慌ててしまったのかな、フフ。気を付けないと駄目じゃないか」 「いや誰のせいだと」 「俺かな」 「かなじゃないよ、もう!」 「そうだね、ごめん。だから責任を取ろう。…見せて?」 は、と息継ぎの形に開いた唇の向こう、歯列と舌の膨らみを視線が通り越す。塞ぐとやはりしっとりとして柔らかい所為で体の内奥が震える。僅かに潤んであたたかく、表情を見たかったのに目を開け忘れた。 上唇も下唇も噛まずに口付けていても、抵抗らしい抵抗を感じない。 力なくあいた隙間から舌を潜り込ませなぞるよう滑らせていれば、とある一点に這わせた途端、おかしなくらい大人しかったが肩を弾ませるので、今さっき噛んでしまったらしい箇所を自ずと知る。 なるべく避けて舐め摩り、どちらのものかわからない温い唾液を飲んで、角度を変えながら続けていく。 ゆっくり惜しむよう、慈しむみたいに繰り返す内、何故か却って苛烈に攻め立てたい衝動も加わり、全てがない交ぜとなって大層甘い渦を巻いた。 痛みを覚えているはずの彼女は抗わず、濡れた舌を引く所か俺に合わせて弱々しくではあるけれど触れ返そうとしているのだ、なめらかな肉の動きのお陰で気付くや否や、背筋が高熱に打たれ密に燻る。 少々恥らっている程度で普段通りに近い様子だったも、どうにかして取り繕った俺と同じに本当は違ったのかもしれない。 それでいいと思った。跳ねる心臓を抑える胸の内で、それがいい、と深い感慨も抱く。 いつ誰が通るやもしれぬ廊下の隅、白昼の学校で、俺の無理無体をされるがままに受け入れるおとなしやかな子ではない、むしろ顔を赤く染め上げ時と場所を考えろと激しく抗議する質だ、だというにこの従順としか言えぬ様は、相応しい言葉を探そうとすればするだけ足りなくなった。 もどかしさばかりが募りどうしようもなく、俺とした事が途方に暮れそうだ等と唇の裏で独りごち、しかしその実確かなものを掴んでいる。 そろそろ苦しくなる頃だろうと重なり合っていた所を離し、一寸顔を引いた。 腕を緩めず抱き寄せてまた鼻先を埋めれば、おそらく俺と鉢合わせになる寸前まで緑風豊かな屋上か穏やかな明るさの差す窓際にでもいたのだろう、すべらかな肌合いの肩筋を包む制服から日なたの匂いがする。 決して薄くはない布越しでも得てしまう背中の形や感触が、昨日の汗ばんだそれと重なりそうで重ならない。 不自然に黙り通すが大概は子供のようで時に艶めかしい掌で、俺の二の腕を優しく辿り触れてゆき、やがて肩へ移ろうとし、手幅が足りず肩甲骨の辺りで留まった。 眦が滲んで口の両端も緩み切ってしまい、喉を低く鳴らしたら、俺のものになってくれた人はどうやら馬鹿にされたと勘違いしたらしく、迫力のない握り拳で無遠慮に肩後ろをドンッと叩いて来る。 爽快とも言える衝撃と振動に勝手に笑い声が転げ落ちていく。 それでも尚、離して、やめて、ここどこだと思ってるの、なんでいきなりするの、とは一切聞こえて来ないだから止まらない。 こんなに可愛い事をほとんどの男が知らないのだ。 可哀相に、と同情さえ沸いて来るし、幸福を味わうにつれいっそ哀れに思った。 見る目がなくて残念だったね。 けれど知っているのは俺だけでいいから、ずっと黙っておく事にしよう。 |