▽麗らかに秋 正午を境に傾き始めた日が影を引き伸ばしている。 ほのかな暗はアスファルトへと映り込み、つかず離れずの距離を保つ両名の後を追いつつ、歩く調子に合わせ揺れてもいた。 夏までだったらまだまだ暑さの引かない時間だったが、日一日と朝夕冷え込むようになっていくこの頃、今時分は少々肌寒い。気温云々というより空気自体がひんやりしている。 しかし冬支度には早いのでを含め行き交う人のほとんどが着込んでおらず、頼りに出来る熱源は辺り一面を温める日差しのみであった。 道路の脇に積もり重なった数枚の枯れ葉が、やわ風に翻弄されて寂しげな音を立てる。 もっと秋が深まれば、落葉の小山が至る所に築かれるだろう。 枯れつつある枝葉はほっそりと痩せ、春や夏よりどこかくすんだ色味を纏い、超えねばならぬ冬に備えている様子だった。 駅を目指してはいるが急ぐ理由があるわけじゃなし、はたから見れば非常にのんびりと進む二人だ。 規則正しく揃わぬ靴音、異なる揺れ幅、でこぼこの形になる影。 響きそのものは噛み合っておらずとも、不思議と不協和音にはならず、また並び歩けば大抵この調子なのでは気にかけた事がない。 半歩ほど先をゆく彼ほど人の機微に鋭くなく、というかむしろ人並以下であるけれど、この点に関しては幸村も同じに受け取っているのではないかと考えている。 悠然と構え、急かす事も引き留める事もない。 まるきり同じ振る舞いをしているわけではないのだが、テニスコート内での姿が時折日々の細かな部分に表れているような気がした。 大柄な選手は他にも、それこそ立海にだっているし、実力を知らぬ者が見たらば線の細い方である幸村が不利だと判ずるだろう。その体格差や周囲から数多注がれる視線、もの皆全て跳ね除けず、受け入れるでもなく、ただラケットを握って試合に臨んでいる。 肩に掛けたジャージを風に靡かせ、背中でチームメイト達の声なき信頼を背負い、一人きりの戦いを勝ち続けようとするのだ。 そうした様をすぐ傍で見せつけたかと思えば、試合後は滴る汗を構いもせずに微笑んで手を振られるのだから何も言えなくなってしまう。ふり幅が大きすぎて、彼に見合う対応が出来ない。 コートの中と外で精神だけが入れ代わっているのではないか、と半分冗談半分本気で頭を悩ませた事もあるだったが、学生時代のほとんどを共に過ごす間、ラケットを手にしている時、いない時、確かに重なる面影があるのだとようやく理解し始めてきた。 咎めない。 焦りもしない。 だが居丈高ではなかった。 歩く速度をある程度合わせてくれ、体力不足や暑さにめげそうになると少し先を行きながら頑張れと笑う。 ぴたりと寄り添う程の、あまやかな優しさとは違う。かといって距離を測り、必要以上に近寄るなと拒絶したりはしない。 いつも彼の手の届く側へ穏やかに引き込まれている気がする。 かつて自身が称した通り、やさしい王様なのだ。 豊かな土壌を持ち、富に溢れ、分け隔てなく与えるというよりは踏み入る事を許してくれる。 それも元より存在していたものではない、己で築き、撒いた種を芽吹かせて、手ずから育んできただろうものである。 血筋に恵まれた王たる王に非ず、神の子と呼ばれる才能を磨き続けてき、特有の温情を持ち得る、本人の性根による所が大きかった。 辿れば辿るだけ、過ぎた夏が鮮やかに脳裏に浮かぶ。 大会に沸く季節を遠く感じ、眩しい光の元で目一杯テニスをする姿が見られなくなるから、秋の初めは少しだけ寂しい。 けれど、だからこそ、こうして普段の仕草や纏う空気に強豪運動部の主将然とした所を僅かでも見出す事が叶えば無性に嬉しかった。 わかりやすい青春劇でなく、些か他と形の異なっているだろうが情熱には変わりない思いを注ぎ、多くの時を費やす姿が目に入る都度、胸の奥は柔らかに綻んだ。 幸村とテニスは切り離せない。 切り離せないから、どういうわけかは自身にも掴めぬものの、安心する。 おそらく、そういう彼が好きなのだ。 何でもない時間、特別ではない日、不意に思う。 秋の陽光を纏う背中がやたらと温かそうだった。の記憶の中に在る柳や真田の背筋と比べれば少々柔らかく見えるが、きちんと伸びている事は確かなので、服に妙な皺は出来ていない。 緩やかな線を描く髪は光を含み、項まで伸びている。第一印象は間違いなく、優しく穏やかな人、という容姿の割に首周りはしっかりとしたつくりで、実に運動部の男子らしい。 並木の下で木影が揺れた。 葉の形のまだらな縞が、幸村の首や背中を彩る。その明暗は淡い。 夏ほど濃くなく、春のようまろやかでもない、乏しい日差ししか降らぬ冬には近いが似ておらず、秋の色をしていた。 長袖から覗く手は緩く開かれており、遠くからだとスポーツ選手のそれとは思えぬ美しさを保っているようでも、傍で見れば節くれ立っている指がの方を向く。 手を繋ぎたいとは言わなかった。 唇を動かすよりも、己の浮かれきった心が気にかかった。 全くもってらしからぬ思考だ、人肌恋しいと言われる秋の所為かもしれない、心の中でかぶりを振って気を散らし羞恥が襲ってくるのを抑え、にしても精市くんと一緒にいると健康になりそう、等と独りごちる。 逐一数え上げた事などないが、病院へ見舞いに行った時から始まり初詣やお礼参り、暗くなった帰り道、どこかへ出掛ける日、なんのかんのと隣で歩く事が多い。 彼自身、四季折々に自分の足で行き進み、肌で感じる事を良しとしているようにも思える。 釣られても移り変わる花々や周りの景色に、以前よりもすっかり敏感になった。 暑い、寒い、何でもいい、季節ごとに訪れる当たり前の感触を言葉にする度、嬉しそうに笑って応じる幸村の所為だった。 秋バラが時期だから。 彼の人と関わっていなければ一生される事などなかっただろう誘い文句を受けて、今日の行き先も決まったのである。 行楽日和の休日、多くの人々を乗せる電車に揺られ、海の傍を通り過ぎる。 目的地が決まっているにも関わらずそぞろ歩きと言うのが相応しい調子で、目当ての花より先に展望灯台へ上った。 坂道を超え続けてきた身には染みたが、傍らの人に行こうと言われればそれまでだ。に断る理由やすべはない。 流石の見晴らしは絶景で、空が近く、切り立った崖の上にびっしりと木々の緑が映えている。 夏や他のどの季節とも異なる青を見せる海は凪ぎ、水平線は遠くに丸く、手前側では白いヨットが穏やかな波を掻き分け進む。 暑い時期であれば灼熱にまず気力が削られ、これほど落ち着いて眺めたりはしなかっただろうな、とはぼんやり過ぎた時に思いを馳せた。 海といえば一つ前の季節が連想されるが、秋は秋でいいものだ。 「夏に来てたら、バテてたね」 と考えていた所、ちょうどのタイミングで幸村がこぼすので、この理解力と外れのない予想はつくづく優秀だと感嘆する。 「夏には来ない。っていうか、来れない」 「無理して出歩いたあげく熱中症で倒れたりしたらダメだよ、」 「…暑い時に無理とかしないし、一人じゃ来ない」 「そうだね、せめて俺と一緒の時にしてくれ」 「そもそもそれなんで今言うの? もう秋なんですけど」 「来年への備えは早い方がいいじゃないか」 等々他愛ない軽口を叩き合いながらその場を後にし、足を踏み入れたバラ園は恐ろしく見事だった。 辿り着く前にバラ以外の秋の花々を見、本格的な写真を撮る人に気圧され、鮮やかな色彩に散々目を奪われている。 ダリア、マリーゴールド、ベゴニア、ツワブキ。 幸村の口から語られ、或いは花の名が記された立て札に教えられ、そういえば聞いた事があるかも、一つ一つを丁寧に確かめてきたのだ。 加えて極めつけにとばかりにバラにも咲き誇られては、綺麗とすごいを交互に並べていくしかない。 語彙の乏しさに悲しくもなったが、さっきからそればっかりだ、と彼が笑うのでは気にかけるのを止めた。 綺麗なものは綺麗だし、すごいと思うものはすごいのだから仕方がない。ある種の開き直りである。 さて、詳しい人間が近くにいる為ある程度花については知識を増やしてきたであったが、流石にバラは馴染みが薄かった。 見聞きした所で脳内のデースベータと合致せず、その上名前も覚えにくいのだ。 長いわ舌を噛みそうになるわ、名にプリンスだのプリンセスだの実生活では凡そ聞き及ばぬ冠を頂いているものがあるわで、漂う優雅さからあなたはお呼びじゃないのよと門前払いされている心地に陥ってしまう。 それでも、ただ見ている分には目に楽しいのも確かであった。 一重のバラがある事を知らなかった。己だけでは見過ごしていただろう。 ピンク、薄い朱色、まっさらな白。ひとつの色に染まりきり深みを帯びているものもあれば、茎の方は白く、花の先へゆくほどに赤へと変わり、美しいグラデーションを見せるものもある。 綻んだ花弁は柔らかく、光を浴びて艶めいており、さながら絹のようだ。 やや小ぶりだが一点の曇りもなく咲くもの、大輪と言うに見合ったもの。 視界に入った途端、真紅、という言葉が真っ先に浮かぶ鮮烈な色合い。 「ハリウッドみたい」 「え?」 唐突且つ色々と事欠いた少女の言に、幸村が小首を傾げた。 「なんだっけ……偉い人とか、ハリウッドスターとかが歩いてるとこによくあるやつ」 「ああ、レッドカーペットか」 読み取ったのちに微笑みを含ませ、それ! と意気込んで返事をするを見遣る、その眼差しが大層甘い事に、眼前の花に神経を傾ける彼女は気づかない。 「赤ってひと口に言っても全然違うし、ちょっとどっかが薄くなってたりもしないし、全部が綺麗だね。絵具みたい…っていうのも違くて、もっとつやつやしてる気がする」 あとなんかいい香り、僅かに鼻先を寄せる仕草は幼い子供そのものだ。幸村が再び唇に笑みを佩いて言う。 「気に入ったなら、育て方から教えてあげようか」 「無茶言わないで下さい。絶対無理。精市くんみたいなお手入れなんて出来ません」 「フフ、諦めるのが早いなあ」 「諦めるとかじゃなくて、自分の身の程をよーく知ってるだけ」 その内この人手作り温室の類いに手をつけるんじゃ、と常々危ぶんでいるにとっては、笑えないお誘いだ。 合宿中だろうが何だろうが水遣りや世話を人に頼み、抜かりなく管理をする幸村の植物への愛情は事実深いに違いない。その域にまで達せる気がしないのだった。 やるからにはきちんと腹を据え、至極真面目に取り組むべきであり、でなければ幸村に失礼だと考えている。 よって花は好きなものの自ら育むとなると腰が引けてしまっているのだが、何せ年若い少女、己の恋人が花を育てる事に関しては多くを求めていない事までは察せない。 低めの笑声が、秋の日をくぐり抜けて降った。 「それなら……花を見たくなったら、俺の家においで。一番手近でいいと思うよ」 即座に答えられないは俯く。 幸村は一切を気にしない。 ややあってから、手近じゃないと思うけど、精市くんが来てもいいよって時に行く、と些か小さくなった声が辺りに落ちた。 アキアカネが薄い色をした空を行き交っている。 園の外、ぽっかりと出来上がった日向で眠る猫は、訪れた人達に撫でられては目を細めていた。 太陽を避け、天高く貼りついた鰯雲が風に吹かれ、悠然として青の中を泳ぐ。 前方から飼い主と共に軽快な調子で歩く犬とすれ違って、はたと回想が途切れた。 舞い戻った意識で後ろの毛並を見遣れば、もこもこと膨れていてとても温かそうだ。 あの茶色い被毛は柴犬だろうか、リードを引っ張る事もなく人の足元から離れていないからきちんと躾けられた子だ、もっと早く発見していれば撫でてみたかった、さぞかし柔らかく温かかった事だろう、等という考えに没頭し、はつい歩みを疎かにした。 踏みしめていた枯れ葉の音も消え始め、前をゆく人がそれに振り返らぬわけもなく、しかし変わらず視線を伸ばし続けている。 そうして後方に気取られ多大なる隙の生まれた体に熱が灯ったのは、数瞬後の事だ。 「そんなに犬が好きだったっけ、は」 繋がれた掌の温度に、は言葉を詰まらせた。 だがあくまでも一瞬でしかなく、緩く力を籠めて握る。 「いやそこまでは……まあ好きは好きだけど」 「花なら何でも綺麗、動物なら何でも可愛い?」 「……イヤミ言われてるの、私」 「まさか。単純に知りたいから聞いているだけさ」 指先を絡ませてくるので、なるべく同じように返す。幸村の手は大抵のそれよりも高い熱を持ち、少しばかり乾いている。ほぼ一年中ラケットを掴んでいる証が刻まれていて、他の誰に触れた時とも違う、彼だけの手だ。 組み交わし、隙間を埋めてしまうと、とても心地がいい。 ひたすら沈める事を心掛けていたとて、独りでに浮かび上がる感情はにも抑えきれなかった。 嬉しい気持ちの半分も口にしない代わりに、突如として与えられた体温に驚きつつも決して振り払わず、ただただ握り締める。 「毛がふわふわしてて、撫でたら柔らかくてあったかいんだろうなって思ってただけ」 「寒い?」 「ううん、大丈夫」 「けど指が冷たいよ」 「それは……冷え症だし」 「まだ秋なのにね。本当に重症だ」 「私の冷え症がひどいのは前からじゃん」 「俺は前から体質改善しようって言わなかったかい」 籠めれば籠める分だけ、幸村が返してくれる。 絡んだ指と指とが触れ合い、一人では抱えきれない温もりを生んだ。 は顔がふやける所をなんとか留まらせながら、やはり秋の所為かもしれない、けれど秋で良かった、誰に伝えるでもなく胸中で呟くのであった。 益々もって胸弾ませる彼女の内に去来するのは、花園で咲く甲乙つけ難いバラの中でも、最も印象に残った一輪だ。 幾重にもかさなり、ふんわりと開いた、黄色の花びら。 あでやかな真紅を目にした時と同様、脈略もなく呟く。 「あ、ジャージの色」 二度目で慣れていたのだろう、今度はなんだと幸村は鷹揚に構えていた。 「テニス部の。精市くんが着てるジャージに似てる」 促される前に答えたが、確信を持った口調で言い切った。 言い切られた方は目端を緩ませ、 「丹精込めて育てた人が聞いたら、怒り出しそうな事を平気で言うね」 怒りという単語を使っておきながら、声音では全く咎めていない。 「え! でもあの、別に悪く言ってるつもりじゃ…あそっか、折角綺麗に咲いてるバラにジャージとか言ったらダメだよね、ごめんなさい」 「感想なんて人それぞれだよ、いいんじゃない。それに俺は今の嬉しかったな」 「それは精市くんだからでしょ……」 「まあ、確かに育てた人がどう思うかは別としてだけど……フフ。バラを見て綺麗だとかすごいだとか言う前に、テニス部のジャージだって言うんだもの。は本当にロマンチックな雰囲気と縁がない」 「…………すみませんね、色々足りてなくって」 目に見えて悪態をつくに、幸村が今日一番の美しく、温もりに満ちた微笑みを贈った。 「足りてるよ」 眦が底なしに穏やかに滲む。 「俺には、充分」 だからと花を見るのが好きなんだ、ありがとう。 真に気持ちの籠められた囁きだった。 「それにしても、なかなか言われる機会のない喩えだね。ジャージを着ている時ならまだしも、全然関係のない時にまで思い出して貰えて嬉しい限りだよ」 「…………なんでそうなるの。別に褒めてないし、ただ似てるなって思っただけなのに」 止めておけばいいものを、が微妙に食ってかかる。 対するは、無類の笑顔。 「よっぽど俺を見ていてくれてる証拠だろ」 からかいの色が見えているなら反撃のしようもあるが、当の幸村が心底嬉しげなので打ち返された彼女の方は何も言えなくなってしまう。息すら慌てて転んだ。紛れもない事実だから頷くのさえ躊躇われる程恥ずかしい。 無言を貫く旋毛を見た上で、尚も続ける幸村は喜びと追撃を取りやめず、また隠しもしなかった。 「エスペシャリーフォーユー」 つい数秒前まで日本語を受け入れていた鼓膜が、今度は英語を聞き取ったのでは思わず目線を持ち上げる。 顔と顔とが向き合うと、幸村の瞳に映り込んだ日差しがなだらかに煌めいていた。 「このバラの名前」 はっきり言葉にされぬまま、導かれている思いがした。 続きはこうだ。 これくらいの英単語くらいならわかるだろう。 実際理解が出来た為に、は黙って頷いてみせる。 直訳すれば、特別にあなたのために、といった所だろうか。頭の中で和訳を二度程辿り、なるほどしっくりくる、と妙な素直さを発揮し納得したのだった。 バラの由来は知らない。 名に籠められた意味も、が考えつくようなものではないのかもしれない。 心を傾けて育てた人に失礼だと叱責されても言い逃れは出来ない。 それでも、自らがテニス部のジャージの色だと喩えた事と、花開くバラの名が重なった事に、深い感慨を覚えたのだ。 咲きこぼれるバラも、幸村の羽織るジャージも 『特別にあなたのために』作られた事に変わりはない。 同じ花でも一つ一つ色合いが異なり、咲き方に違いがあって、同じジャージでも一枚一枚それぞれの身長やサイズに合わせており、強豪部のレギュラーという限られた花を咲かせた者の証というように、共通点が浮かび上がる。 特別だった。 にとっては、同じ色の、同じつくりのジャージでも、幸村のものだけは特別に見えていた。 だから、その名を持つバラとそれを繋ぎ示したのは、間違いではないと思った。 「精市くんにぴったりだと思う」 「お礼を言うべきなのかな、それって」 揃って笑うと、秋の日差しが溶かされた飴のように甘く緩む。 お陰では浮足立った心を持て余し、らしくもない思考へ気を取られたのだが、本人が秋だからいいや等と適当極まりない理由で片付けてしまおうとしているのだから、誰にもどうも出来ない。 足取り軽く、舌の根も小気味よく回り、繋いだ手は遠くに駅舎が見えてきても離れなかった。弾み、機嫌の良さを如実に表した声がこぼれて跳ねる。 「今日見たの以外で、秋の花って他にどんなのがあるの?」 今はもう過ぎ去った中学生の頃、がよく口にしていた台詞である。 まだクラスメイト、もしくは友人でしかなかった彼女は会話の種を探そうとしていたのか、テニス以外で幸村が熱を傾けている花々を話題にする事が多かったのだ。 その他愛ない問いが懐かしく愉快だったらしい幸村は、微笑みを絶やさず取って返した。 「何があると思う? が思う秋の花の名前、言ってみて」 率直には答えないで、やや難ありの質問で以って返礼するのも、かつての幸村がよくしていた事だった。正確には今も使用するやり口なのだが、頻度自体は落ちている。 「わかんないから聞いたんですけど……」 「そうやって何でも聞いてばかりだから、覚えるのに時間がかかるんじゃないか。大体、俺が嘘を教えていたらどうするつもりだい? もっと人の事疑って、もっとよく考えてみよう」 「……なんかいつかどっかで聞いたような……」 「あれ、珍しい。これは覚えてたんだ?」 「………言ってる事にトゲがある」 「ないよ」 「ある」 不毛な言葉の応酬になりかねないと流石に悟っていたはある程度言い連ねたのち、断ち切らんと息を吸って吐いた。 眉間に皺を寄せ、視線を巡らせ、懸命に思案している。 「えー…えーと……なんだろ……。……撫子?」 「正解。秋の七草だね」 「あっなんか聞いた事ある」 しどろもどろ捻り出した答えの割に、一発正解だ。 教鞭を振るう教師の如く余裕のある笑みで迎える幸村が、空いている方の指先で空中に丸を描き、ほとんど子供扱いされているというのに気づかぬままでは言った。 「七草粥とか言う?」 「、花を煮てご飯と食べるつもりかい」 「………言われてみればおかしいね」 「七草粥を食べるのは春。ついでに秋の七草と春の七草は別のものだよ」 「ごめんなさい…すごいアホみたいな事言った今……」 「いいよ、面白かったから。本気でボケる人っていそうでいないしね」 「…………物知らずって罵られた方がずっと楽」 「あはは、罵られたかったの?」 「……ぜひ遠慮します」 並木道を秋風が通り抜けていく。 随分と寂しくなった梢がささめき、影が震え、幾筋もの光の線は揺らめいた。 「精市くんは、七草粥ちゃんと作って食べたりする?」 「俺は作らないけど、家族が作ったものは食べるよ」 「そうなんだ。私食べた事ないんだけど、あれっていつ食べるの?」 「正月休み明けた頃…かな。そういえば毎年食べているかもしれない」 「え、そうなの。もっとあったかい時期に食べるのかと思ってた」 「春の七草には大根が入っているし、大根の旬は寒い時期だろう。そうやって覚えていれば、暖かい頃に食べるものじゃないって自然とわかるさ」 「……先生みたい」 「はは! 前にも言っていたね、それ。聞きたい事があれば何でもどうぞ? さん」 わざと教師然とした態度を取る幸村を少しだけじと目で睨み、しかしすぐさま切り替えたが唇を動かす。 「…じゃあ……七草粥ってなんとなく苦いイメージがあるんだけど、美味しい?」 「俺は嫌いじゃないけど、苦手だっていう人もいるな。本当に七草しか入っていなかったら、も苦いって言うかもね」 「他に何か入れていいの?」 「君には卵がいいんじゃない。七草の香りは消えてしまっても食べやすくはなるし」 「……邪道って言われない、その初心者向けの食べ方」 「何事も、はじめの一歩が大切だよ。まずは踏み込みやすいものを選んでみたらどう?」 「…そっか。食わず嫌いよりはいっか」 「そういう事。あとは、余った正月の餅やとろろ昆布を入れてもいいね。好きだろう、」 「うん、美味しそう!」 留まる事なく続いてきた会話がふと途切れ、見計らったように二人して黙り込む。 奇妙な沈黙だった。 結ばれた手と手が、歩く毎微かに揺れ動く。 たっぷりと考え、一つの答えに行き着いたのは、駅が間近に迫ってからの事だった。 「……なんかおかゆ食べたくなってきた」 「あ、俺も」 |