▽茜さす、こがね色の君 夏が終わったと思うが早いか、日は瞬く間に落ちていく。 時が過ぎる毎に昼は短くなり、夜が長くなるのだ。 日々テニスコートに立ち身を以って実感しているはずの幸村でさえ時折、いつの間にこんなに暗くなるのが早まったのだろうか、と目を見張る時があった。 秋の日はつるべ落としと言うが実際相応しい表現である。 西の空が赤々とした朱色に染まったのを見止めてしばらくしない内に、濃い藍色へと様変わりしてしまう。 棚引く白雲は夕闇の光を帯び、足元の影は細長く描かれ、外灯や職員室から漏れる灯りが目立ち始める。 日中とは異なり冷え冷えとした風が頬を掠める時、下がる一方の気温を肌で感じた時、幸村は決まって一人の少女を心に浮かべた。 共に帰路へつく約束をしていれば外で見ていやしないかと目を配らせ、時間が合わず先に帰らせているのであればこれからの夜がそう寒くならぬよう願う。 精市くんは大抵なんでも来いって感じで構えてるくせに、時々すごく心配性。 こぼしたのはだ。 偶々同席していた柳がその後ろで薄く笑っている。 あまり己を語らぬ男だから断言するには証拠が足りていないが、データが増えたな、等と考えているに違いない。 俺が体調管理に厳しいのは、今に始まった事じゃないだろう。 自分の事に厳しくするのはいいよ、ってかむしろそうして下さいって感じだよ。 自分だけじゃあ意味ないな。俺一人で大会を勝ち進むわけでもないからね。 いっそ淡々と返す幸村の顔を、睨むという程強くはない視線で見詰めるが、私テニス部じゃない、私の事気遣ってる場合じゃない、平気だからテニスに集中して、言わずとも周囲に知れる、渋く苦味のある表情をつくった。こういう所が可愛げがないと揶揄されてしまう所以なのだろう。 (まあ、俺にはそこが可愛いんだからどうでもいいけど) 少女の心境も何のその、平然と惚気た事を思いながら会話を続行させる幸村の面の皮は、人並み外れて厚かった。 「確かにはテニス部じゃないけれど、テニス部主将の俺には関係があるだろ。その俺の為だと思って健康なままでいてよ」 何と言う事だ、部外者にまでテニス部レベルの体調管理を求めるのか。 またしても心の中身がまるごと理解出来る顔つきの少女が、唖然とした眼差しを幸村へぶつけて来た。 彼女の後方に座するテニス部が誇る参謀が、薄い笑みを更に深めて言う。 、諦めろ。 まったく正しい助言だった。 膨大なデータを元にして今の地位を築いた男の言葉に含まれた重みは、流石に一味違ったらしい。は長い溜め息を吐いた後、善処します、と蚊の鳴くような声で答えた。 だからこれも、彼女の体調が気にかかっている証なのかもしれない。 いや、と取り出した携帯電話の画面を目に入れつつ、幸村は自らの思考を否定する。 単に顔が見たかっただけだ。 紙面で覚えるまでもなく脳内にて整えられているスケジュールを確認した所、今朝は早朝練習、昼は昼でレギュラーミーティング、そしてこの後は当然部活と、分刻みとまではいかないにしろ忙しなく詰まってはいた。今会えなければ、今日一日ろくに会話もせぬまま終わってしまう。 ――俺の班は終わったけど、そっちはどう? 目よりも指で覚えたアドレス帳から彼女の名前を引き出して、簡素な文面を送信する。 日の傾く頃合いが始まり、校舎の壁、通路、薄らいだ葉、全てが暮れかかっていた。 掃き清められた道端には、埃や枯れ葉の一つとして舞っていない。 つい先刻までは落葉の山があちらこちらに築かれていたのだが、この数時間で綺麗に片付けられたようだ。 夏に比べてきつくなく、目には優しい西日が、幸村の歩くずっと彼方で大気を橙に濁らせている。夕映えの光が滲み、すっかり寂しくなった梢を照らし、人、物、草木、それぞれに付随する影を分け隔てなく後ろへ後ろへ伸ばす。 誰かの気配は微かに届くものの遠いざわめきに近い。 知らない場所へ一人きり迷い込んだようだとひどく感傷的な心地に陥ったが、病室で秋の薄暮を眺めていた時を思えばどうという事はない気もして、足を掴むほの昏さから抜け出した。 ジャージのポケットに端末を仕舞い込み、四人分の掃除用具と未使用のごみ袋をいとも簡単に抱える幸村は、倉庫を目指し歩いていく。 平素、学校敷地内の管理をしているのは無論生徒ではない。 専門要員の手によって保たれているものなのだが、秋の美化週間と称して降り積もった落ち葉清掃やら見目麗しくはない野草を引く抜く等々を一学年総出で取り掛かる日があり、今日がその日だった。 先の春進級した幸村らの学年が毎年行う、恒例行事じみた校外清掃である。 男子二人、女子二人で構成された四人一組の班を作り、振り当てられた場所を受け持つ。 幸村が担当する事となったのは、秋風に揺すられる木々の多く植えられた、敷地内でもなかなかに奥まった一帯であった。 くすんだ緑の下草に紛れて、イチョウ、楓、もみじ、とりどりの落ち葉が散らばり、またはフェンスの傍で降り重なっている。屈んでよく見遣ったらばどんぐり等木の実の類いも転がっており、悉く取り除くとなると少々骨が折れそうだ。 うわあ全部取らなきゃだめなのかあ、思わずといった調子でぼやく班の女子の声を背後ろで聞きながら、幸村は手始めに役割を分担させようと口を開いたのだった。 黄色、赤、朱に橙。 一枚一枚を手に取って見れば美しく染め抜かれ、まさしく錦秋の名に相応しい。 ひとまとめにごみ袋へ放ってしまうのも惜しく感じるが、だからといって吹き曝しにしておくわけにもいかないので、考えても詮無い事である。 これだけあれば良い腐葉土になりそうだ、と日々手入れを欠かさぬ庭へ思いを馳せ、竹箒を持つ幸村の横合いで、目にも鮮やかなくれないの葉が風に舞う。 ああちょっと、集めたばっかなのに! こんだけ便利になった世の中なのに、落ち葉は箒で掃くしかねえんだよな。 脱力してる場合じゃないよ。 班員の賑やかなやり取りに温かな苦笑を浮かべる幸村が、ごみ袋をもう少し寄せて置いておこうか、と提案した。 漂う匂いは少しばかり埃と土の色が濃い。 自然と司令塔となった幸村が中等部、高等部と美化委員に属してき、部内でも指示を出す側であったのが幸いしたのだろう、いまだ他班の作業が続く時刻に終わらせる事が叶った。 やった一番乗りじゃない、幸村君のおかげ、ありがとう、達成感に満ちはしゃいだ色を隠さない面々へ笑みかけ、それじゃあここで解散でいいかな、俺ちょっと寄りたい所があって、たおやかな外見と裏腹に思い切りの良い発言をする。 クラスの集合時間までにはまだ間があるといえども、生まれた余白をよそ事に使うと堂々宣言する生徒はそう多くない。 文武両道の名を欲しいままにし、校内でも有名人と言っても過言ではない幸村だったが、時に意外な程周囲からの評価というものを気に掛けぬし、またそういった彼に否と突きつける事が可能な者もほとんど存在していなかった。 どうぞどうぞと頷く班員達を尻目に、嵩張る箒やちりとり類を次々手に取ってゆき、謝罪と感謝を忘れず告げる。 我が侭を言ってすまない、ありがとう。箒は俺が全部片付けるから、ごみの方をお願いしてもいいかい。 明らかに幸村の側が荷が重い、悪いよと引き止める声を制し、そうは言っても女の子二人だけじゃごみ袋を抱えるのも大変だ、君が手伝ってあげてくれないか、強豪テニス部の幸村に比べ細身である、文化部所属の男子生徒へ話を振った。 極めて真っ当な指示であるのと同時に、優しいながらも有無を言わさぬ調子であった。 幸村精市という男は他意なくそうした振る舞いを兼ね備えているが為に、神の子等と常人離れした異名で呼ばれ続けているのかもわからない。 かくして自由時間を手に入れた彼は、数人分ともなればそれなりの重量となる用具を持ち上げ、羨望と尊敬の眼差しを背に受けてその場を後にしたのである。 方々で響く清掃に励む声の合間を縫い、鍵の開いた倉庫へ到着し、用具を元の位置へ戻してから、余ったごみ袋を備品入れに仕舞った。 スニーカーの底ですり潰される砂利の音が耳につく。 どこから舞い込んだのか細い枝と赤茶けた枯れ葉が、灰色をしたコンクリートの床にぽつんと落ち転がっている。 と、独特の震えが布を通し伝わった。 画面へ目先を向ければ、心に浮かべていた名が記されていたので、新着メールをごく自然に開く。 ――ちょっと待ッテて! 居間い藻がいいと頃だから 暗号めいた文章に、噛み殺しきれぬ笑いが漏れる。 何を慌てているのか知れないが随分な焦り様だ。 そういえば前にも日本語の怪しい、変換が無茶苦茶なメールを貰ったな、と在りし日を思い返しながら、了承の意と自分が待つ場所とを打って返信した。 今追求した所で、しっかりとした回答は寄越されないだろう。 気になりはするが、一人推測するよりも本人の口から聞いた方が愉快であるし、何より好ましい。 あっさりと思考放棄をした幸村は、どういう訳でどういう意味なのかもわからない、彼女にしか理解出来ない謎をひとまず置いておく事とし、外より余程埃にまみれた倉庫を出た。 暮れ方の哀愁を帯びる景色が目蓋の奥、柔らかに刺さる。 西に沈みゆく太陽はまた一段と傾いたように見え、夕影の眩さについ顔を顰めてしまい、テニスに熱中している間は気に留めぬ、ごく当たり前の自然現象が、何故こうも身に染みるのかが幸村には不思議だった。 普段は目を配る暇もないという事なのだろうか。それはそれで己の不足を暗に訴えられているようで、なんとなく面白くない。 取るに足らない思索に耽り、昇降口の方へ向かっていたさ中。 「あ、いた!」 雑音を掻き分けた声が鼓膜を揺すり、反射的に顔を傾げれば、幸村と同じく学校指定ジャージに身を包んだがコンビニの袋を片手に駆けてくる所だった。 「やあ、。早かったね」 唇の端を上向かせた幸村は、傍近くまでやって来た少女へ言葉を落とす。 昨日ぶりに間近で見る顔色はすこぶる良く、走った事と下がりつつある気温のお陰でうっすらと赤みを帯びていた。やや乱れた髪の毛がジャージの肩にしな垂れかかり、夕時色の細やかな光の粒を反射する。 ひと呼吸置き、が口を開いた。 「だって待たせちゃだめだと思ったし」 「それで、居間がどうかした?」 殊勝な言葉を間髪入れず断ち切る幸村の顔には、喜色と僅かなからかいの色とが滲んでい、唐突に無関係な単語を持ち出された側はといえば困惑に眉をひそめている。 「……えーと……何の話?」 「聞いているのは俺の方なんだけどな」 「…………すいません、意味が」 わかりません。 工夫もなく音を上げられ、しかし咎めるつもりは爪先程もない幸村が、黙って携帯端末を指し示す。 きっちり二秒後に思い当たったらしいは自らの手中にあった端末で何事かを確認し、怪訝だった表情をあっと声を出しかける寸前のものへと変えた。 「ご、ごめん…変換ミス」 「うん、そうだろうね」 「……じゃあなんでわざわざ聞いたの」 「わざわざ答えてくれるが見たかったからに決まってるじゃないか」 始めから最後まで微笑みを絶やさず言い切った恋人を見、少女は色々と諦めた様子で、覇気なく幸村の求めに応じるのだった。楽しんでくれたみたいで、どうもありがとう。 「どういたしまして」 悪びれもせず返す幸村に対し、最早睨むという些細な抵抗も手放したようだ、ちょっとクラスのみんなで色々焼いてて、と話を続ける。 「色々……かい?」 「うん。あ、でも最初はさつまいもだけにするって話だったんだけど、その内どんどん脱線してって」 欠けて抜け落ちた情報を整理すると、つまりはこういう事だった。 のクラスは四人一組体制を取りつつ、班同士が密接に動き回り、ほぼ全員で落ち葉拾いを始めたのだ。 また幸村の担当した区域と違い木の少ない場所だったので、そう時間はかからなかったらしい。クラス担任があらかじめ許可を取り、拾い集めた落ち葉で焼き芋を製作すると以前から決めていたので、掃除後の食へ対する思い入れ故にどこよりも早く作業を終わらせた彼女達は、颯爽と準備に取り掛かった。 「フフ、闇鍋みたいな状況になったんだろう」 「そう! よくわかるね?」 「大体の想像はつくさ」 「なんで男の子ってああいう意味わかんない事するんだろ…」 「好奇心旺盛なんだよ」 「……それ自分にも当てはまる言葉だってわかって言ってる?」 「どうして。から見て、俺は好奇心の枯れた人に見えるの?」 「見えない……けど、焼き芋大会なのに野菜とか他のもの持ってきて大騒ぎする人には見えない」 「そうでもないよ」 「え、ないの!?」 「自分からはやらないけどね、止めはしないな。テニス部の連中だって、似たような悪ふざけをする事もあるから」 どこかに思い当たる節を見つけでもしたのか、言われてみれば、とが神妙に首肯する。 相も変わらず人の言を容易く信じる少女だ。微笑ましくもあり歯痒くもあるので、幸村は微苦笑する他ない。 会話の軸を元へ戻し続けていくと、さつまいも以外に様々な食材が煙る火の中へ加えられていったのだと当事者は語った。 栗やじゃがいもはまだ良い、長芋、林檎、蜜柑、とくれば不安になる者も出てくるだろう。 果ては調理実習室から七輪まで持ち出す自由人が現れて、集めた落ち葉で焼き芋を作るという当初の目的から大きく逸れる事態となった、との事だった。 質実剛健、文武両道、掲げる理想は高けれど、立海は意外に自由な校風である。 他校生が抱くイメージと程遠い振る舞いをしたとて、規定範囲内であれば認知されてしまうのだ。 そうでないとテニス部のように奇抜な髪色など許されやしないだろう。 普段意識する事は少ないにしろ、よく見ればなかなか面白味のある学校だと幸村は考えている。真田や柳生あたりがいたら、一喝もしくは注意が飛んで来るに違いないが、幸いにもは両名ともクラスが違うので事なきを得たのだ。 「だからさっきのメール、本当は、今芋がいい所だから、って書きたかったんだけど」 なるほど、謎が解けた。 しかし返す返すも、どれほど慌てふためいていたらあのような変換になるのかは不明である。 「そう。芋のいい所は無事終わった?」 幸村が笑いながら尋ねると、 「多分…無事。でも割ってみないとわかんない」 芋だけを注視し他の野菜や果物がどうなったかはあえて見ないと決め、届いたメールに応えようと場を抜けて来たは顛末を知らないと言う。 とりあえずろくでもない事になってると思うよ、遠い目で呟き、それから手元のビニール袋からさつまいも型のアルミホイルを取り出した。 火傷するよ、言えば、大丈夫、力の籠もった返事と同時に袋の内から新聞紙の束を引き抜き、くるりと持ち手側に巻いていく。準備の良い事だ。 秋や冬、手袋をしていなければ寒々しく目に映る指先がアルミ箔を恐々剥がし、次いで中から現れたしんなり湿る新聞紙もむいていくと、やや焦げた芋の皮が垣間見えた。 普通は軍手を使うと思うけどな。 よぎった助言を胸中のみに留めて沈黙を守る幸村にも気づかず、は眼前の秋の味覚と真剣に向き合う。 案の定熱いだなんだと慌しく口にし、それでも何とか芋を包んでいない未使用の新聞紙を駆使しながら、薄く白煙を纏う身を真ん中辺りで慎重に折った。 途端、表皮から立ち上っていた量の比ではない湯気が沸き、黄金色の煌めきが姿を露わにする。 蜂蜜を満遍なく染み渡らせたが如し色合いに、無意識にだろう、が小さな歓声を上げた。良い具合に焼けた、芳ばしい香がこちらにまで届く。幸村自身特別好物というわけでもないが、確かに美味そうではある。 いただきます、律儀に呟き、熱を冷まそうと息を吹きかけてから、一口かぶりつく。 食に懸命な者をもう一人、幸村はよく知り得ているが、その男と当然異なる仕草だ、差異が見て取れ何やら可笑しい。強烈な比較対象があるからこそ、愛らしく映るのかもしれなかった。 告げれば機嫌を損ねるとわかっていたので、庇護欲をかき立てられた一瞬は言葉にせず、しかし黙ってはいられなかった為にこう言った。 「おいしい?」 子供に尋ねる音程とかなり似通っていた。 が、口腔内の熱さと戦うは気づかない。頬張ったまま答えるわけには、と舌上で芋を転がし飲み込もうと試みつつ、首を縦に振るのみだ。 余計幼さが強調されて、面映くなった幸村は眦をゆるゆると解いていく。 目を剥く程の量をたいらげるわけでもなく、無尽蔵の食欲というのも勿論違う、持ち歩いてはいても常に間食を欠かさぬ子ではない。 しかしは食に対する欲をわかせるのが上手だった。幸村の個人的な見解である為、他人にも通用するかどうかは不明瞭だが。 美味いものは美味そうに、そうでないものでも不味そうには食さず、気を散らす事なく無心で口へと運ぶ。 傍にいればいる程、自分一人では興味が引かれぬであろう、大して美味そうに思わないものでも目に止まった。 幸村が言おうと言うまいと、大抵は食べるか否かを尋ねてくるから、意図せず御相伴に預かる事が多い。 流石に、君といると何でも美味しい、等と感ずるまでのロマンチシズムは持ち合わせていないので食しても想像通りの味しかせず、どうして彼女と自分とではこうも違うのだろうか、本当に同じものを口にしているのか。 内心首を傾げたりもしたが、解決するまでには至らなかった。 解決したのは、根源を辿れば食べ物自体ではなく、それを食する彼女にこそ意識が向かっている、という部分についてのみである。 美味しそうに、或いは黙々と食べているから気にかかるのではない。 他の誰がそうした仕草を見せていたとて、心惹かれはしないだろう。 だから。 が手にし、口にしているものだから、美味しそうに見えるのだ。 連鎖し、はじまりを振り返ろうとする時、真っ先に浮かぶのは病室だった。 もう少しましな場所であればと思わなくもないが、そもそも彼女と初めて一緒にものを食べたのがあの忌まわしい白い箱の中なので致し方ない。 ケーキやクッキー、ドーナツにフィナンシェと見舞いの品は有り難かったものの、自分を含めた家族だけでは食べ切れず誰かに頼まざるを得なかった。 大方は例の赤毛の男に任せてい、それでも追い付かぬ日があって、そういった時に限って狙い澄ましたよう偶然が顔を出す。 ノートやプリント、花束を抱え、教室と相違ない態度で以って、幸村を見遣る。 冷蔵庫内にある貰い物のケーキを引っ張り出した幸村へ対し、流されたけどよく考えたら、と声もなく表情でで語りながら椅子の上にて体をやや強張らせていた。 「……やばい。これ絶対高いやつ」 室内に閉じ込められた幸村のそれより幾らか色の濃い手は、丸い紙皿へ恭しく添えられている。タルトを一口程食した唇が慄きつつも緩みを見せているので、彼女にとって美味であっただろう事は窺い知れた。 「そうなんだ?」 「いやそうなんだって…幸村くんが貰ったものでしょ」 「値段まではわからないよ、お見舞いの品だもの」 「……もったいないお化けが出る……」 「それは、俺が手をつけずに残した時言ってくれ」 「そういうのとは別の意味でもったいないよ! そこら辺のコンビニで売ってるやつと違うんだからね!?」 「へえ」 「一個400円とか500円とかする、絶対、確実に」 「よくわかるね」 聞く人が聞けば下世話だと眉をひそめるだろう、人様の持ってきた品物を値踏みするような発言を後先考えず放り投げる少女が、ものの価値のわからん奴だとばかりに気色ばむ。 プラスチックで出来たフォークをわざとらしい程丁寧に口元まで運び、先端に乗ったタルトをごくゆっくり噛み締め、甘いものが染み渡る、という心の声が聞こえかねない、見るからに満足げな表情だ。 そういえば、教室で何人かの友人と調理実習で作ったカップケーキを食べている時も似たような顔をしていたな。 過ぎた過去でありながら、その気になれば引き出しを開け手に取る事が出来るひと時を脳裏で辿った幸村は、こぼさないでね、と手元の皿を無心に見つめるを茶化したのであった。 「…おいしいんだけど、もうちょっとこう……ほくほくしてるものだと思ってた」 ようやく咥えた芋を飲み込んだが、真面目くさった声音で評価を下す。 焼くだけじゃなくて蒸す時間が必要だったのかも、なんとなくパサつてるし、勉強に励んでいる時よりも、ひょっとするとテニスコートに立つ幸村を見守る時よりも、険しく真剣な表情で続けた。 たかが焼き芋、されど焼き芋、彼女にとっては死活問題のようだ。 「あとはやっぱりバターが欲しいな、マーガリンでもいいけど」 「つけて食べるのかい」 「うん。それと牛乳飲みたい」 完全に小さな子供のおやつである。 それも随分と素朴、より突き詰めれば、古き良き懐かしい、という表現が相応だろう。 幸村は口角を上げ、また別の機会にしたら、肩を叩く声色で以って納得はしていないらしいを宥めた。 味の薄い病院食を、砂を噛む心地で飲み下していた日が不意に蘇る。 生の匂い乏しく、消毒液の香が漂い、白色に柔らかく押し込められるばかりの日々。 解放された後で気がついた。 共に過ごす時間が積み重なれば重なるだけ、知っていく。 他の誰でもない、というただ一人の少女が口にするものを美味しそうに感じ、つまんでみたくなる理由を、張本人たる幸村だけが正しく理解している。 俺は、人が思うよりずっと子供っぽい。 鷹揚に、しかしどこか冷静に、胸の内で独りごちた。 の視線は掌中のこがね色へと縫いつけられている。 ほろと崩さず綺麗に食す為には、どこから口をつければ良いものか思案しているようだった。 西に集束されていく光は傾ぐ一方だ。 秋は深まり、やがて夜の帳を迎え、緑から赤に色を変えた葉も長い宵に溶けていく。 常ならば心を配り、案じる対象のはずの冷えた指先が、幸村は時たま無性に恋しくなる。 茜色に染まった眼下の頬を人さし指の背で撫ぜると、開きかけていたの唇がさっと閉じられた。 揃いの目は丸く見開かれ、何事かと異変を探し始めている。猫の額よりも小さな面積で触れる肌は温く、柔らかい。 なんでもないよ。伝えるつもりで二度三度掠めて触れたが、察しの悪いは明後日の方角へ結論を蹴飛ばしてしまった様子で芋を掲げる。 精市くん、食べる? 邪気なく問われた幸村が少々困り顔で小首を傾げ、それでも瞳に宿る淡い灯りをこぼさず、 「じゃあ、お言葉に甘えていただこうかな」 言って笑った。 |