本日はお日柄もよく




足元も見えない暗闇とはこの事か。
とにかく暗い。
暗すぎて何もわからない。
波打ち際と思わしき方角からは絶え間なく潮騒が響き、しかし目を遣った所で全てを覆う黒色があるばかりで砂浜と波の境などまるで掴めなかった。
視線を集中させたが最後、見てはならないものを目撃してしまいそうで恐ろしく、私は頑なに手元の砂の山へガンを飛ばし続けている。
膝をつき、いわゆる四つん這いと呼ばれる体勢で、半分涙目になりつつ、分け入っても分け入っても深い山、もとい、どこまでも砂の粒や貝殻の欠片、小さな木くずしか出てこぬ地面を掻いている。
ない、ないないないないない、ない、どうしてないの。
どこぞの怪談話ばりに一単語のみを繰り返しているのは、通りがかりの人が見れば間違いなくぎょっとしたのち逃げおおせる有様に違いなかったが、この時の私に余裕などありはしなかった。
ひたすら無心で失せ物がありやしないかと捜索しているのには訳があったのだ。

夏休みを目前に控え、ちょうどよく気温も上昇し、浮かれていたのだろう。
塾で知り合った友達同士で模試対策に集まったはいいが、そこは中学生、初めの内は真面目に勉学に励んでいたものの、時間の経過と共に脱線していく。
学校とは違う空間、雰囲気、面子、諸々の要素が絡み合い、夏を先取りしようぜなどという意味不明の理論を元に肝試しをする事となった。
女の子ばかりだったらそんな冒険心溢れる提案はまず成されなかっただろうが、男女入り乱れての勉強会だったので空気を読まずに異を唱える者もおらず、スタート地点の公園から海辺まで行き、きちんと最後まで行ったかどうか確認する意味で砂で小山を作りそこに刺した蝋燭を持ち帰ってくる、というまあまあ本格的なコースが練られる。
練ったのは主に男子だ。
ノリと勢いと、馬鹿を真面目にやる事に関しては引けを取らぬ中学二年生である。
女子側はこの時点で若干気持ちが冷めつつあったとはいえ、今更やっぱやめようと口に出せるわけもない。
わいわいと場は華やぎ、コースを確かめた男の子達が蝋燭のセッティングを終える頃には陽もすっかり落ちていた。
見慣れた風景でも、暗闇に染まれば何か得体の知れぬものが潜んでいそうで恐ろしい。
飲み込んだ唾の音がやけに大きく体を巡る。
さていよいよ始めるか、という所まで来て、順番決めや何人で行くかが大きな問題になった。
特に後者の方は様々な意見が寄せられ、まとめるのにえらく時間がかかったのだ。
二人きりだとどこかの組が三人か一人かになって余りが出、かといって三人での肝試しも肝試しっぽくないと反対意見がのぼり、そもそも三人組と二人組が出ては不公平だとも言い募る子がいて、時間をかければかけるほどに収拾がつかなくなっていく。
もうどっちでもいいから行くなら行くで行こうよ、と空気の全体が緩み始めたその時、痺れを切らした言いだしっぺの男子がキレた。
めんどくせーから一人ずつだ! 順番はじゃんけんで決める!
横暴にも程があったので、女子からは無論ブーイングが巻き起こったが、一度決めると行動力が半端ない彼は頑として引かない。
草食系男子がどうの、と取沙汰される昨今に珍しく日和見と無縁の男子らしい男子である。だけどそれは別の場面で発揮して欲しかった、と女子の誰もが残念に思った事だろう。

スムーズかどうかはともかくとして、一応のスタートを切った先取り納涼肝試しは順調に進んでいく。
今日この日に集っていた女の子達は皆わりと豪胆で、じゃあぱっと行ってぱっと帰ろ、などと男子顔負けの颯爽とした歩みで暗闇に消えていったのも大きい。
運のない私は即興で作ったくじ引きで見事ビリを当て、待ち時間というなんとも言えない空白にじわじわと煽られ、帰って来た子の恐怖に青ざめていたり走ったお陰で赤かったりする顔を眺めてから歩き出した為に、開始前からそこはかとない疲労感を抱いていたが進む内薄れた。緊張の方が勝っていったのである。
とはいえ見慣れた道、幽霊目撃談もなければ変質者が出るという物騒な噂も耳にしない、折り返し地点の海へ着く頃にはどちらとも薄れていた。
ああ、あとは蝋燭を持って帰ればおしまいだな、のん気に散歩かという速度でぶらぶら歩いていたらの事件である。
ない。
海沿いの通りに出てすぐの階段を降り、外灯近くに築かれた砂の山はあっても、そこに刺さっているはずの蝋燭が存在していなかったのだ。
誰かが間違えて二本持ち帰ったのかと記憶を辿れども、帰還した皆は全員一本ずつしか持っていなかったし、ではどこかに転がり落ちているのかと周囲を懐中電灯でくまなく照らした所で見当たらず、悪戯心溢れる子が砂山の中にわざと隠したのかもしれないと崩して探すも成果なし。
ここまでくると完全に我を失っていた私は、なければないで帰って説明すればいいものを、蝋燭がないイコール帰れない、というわけのわからない概念に捕らわれ、潮騒のおどろおどろしく響く浜辺に立ち往生したのであった。
パニクっていたにしてもアホだと思う。
冷静に考えるってとても大事なんだなとのちのち感じ入った。
帰らないにしても携帯電話で誰かに連絡すればよかったのに。
省みる事が出来たのは精神的危機から脱した後の話であって、この時の自分には到底不可能だった。

掻き回して十数分は経っただろうか。
半泣きが全泣きへ進化しかけ、声を出してはいけないと必死に堪えてきたのだが遂に、うう、と涙混じりの呻きが漏れ出たとほぼ同時。


「……どうした」


地を這う囁きが背後、というか微妙に斜め後ろ気味の位置でぽつりと落ちた。
はっと振り返れば、誰かの足。
ちゃんと人間の足だった。
二本ある。
次いで上へ移動していけば当然胴体、胸、肩と続く。
太い首の上に乗っかった顔は、薄く頼りない懐中電灯の明かりの余波でぼんやりと浮かび上がる。その表層を彩る光と影のバランスは恐怖映画も真っ青の出来栄えだ。
要するに怖すぎた。
一瞬で体全部が干上がった私はこの世のものとは思えぬ大絶叫をかます。
ヒギエエエエだとか、ホギャアアアだとか、文字に起こせばそういった感じの悲鳴を上げて尻もちをつき、抜けた腰であわあわと口元を揺らすしかなかった。
目元で耐えていた涙が衝撃の拍子に一粒飛び落ちる。
でた。
おばけ、幽霊、ホンモノ、見た事なかったけどほんとにいた、ごめんなさいふざけてごめんなさいもうしません二度としません許して下さい。
混乱する脳内で駆け巡る言葉の数々がいっぺんに黙ったのは、こちらを見下ろす人物が悲しげに顔を歪めた為である。
広い肩を心持ちしぼませ、わずかな光を吸った瞳はショックという表現の似合う形をしており、恐ろしげなライトアップをまとう顔がしょんぼりしていた。
あ、これ人間だ。
すっ飛んだ自分の懐中電灯を手さぐりで掴み取り、胸前で抱えて悟る。
心霊体験談などに登場する幽霊は、こんな顔つきをしないだろう。
正しい事と判断したのに叱られた大型犬のようなしょげ方だった。
悟った所でよく見遣ればこの幽霊と思いきや生身の人間だった人は男の人で、片手に災害用かというくらい大きな懐中電灯を持っているし、Tシャツに裾をまくったジャージに砂や汚れのついたスニーカーと生活感溢れる出で立ちなのである。
ついでに背が高い。
だいぶ首を傾けないと頭の天辺まで見る事が難しい。

「ごっごめんなさい、私、ビックリしちゃってつい」

ただの人間だと気づいても尚抜けた腰は戻らず、夜気の所為で湿った砂地にお尻をつけたまま謝罪を口にした。
すると、しょんぼり落ち窪んでいた顔がまっすぐに据えられる。
唇を結んだまま、彼は軽く首を横に振った。
心なしか心霊動画じみた光の加減も緩んだ気がしてほっと安堵の息を吐いた所で、かの眉の下に深く窪む瞳が閉じたままの口元の代わりに、それでどうした、と囁いた。
無口だ。
でなければ、急に声をかけて驚かれた先程の出来事をふまえた上で黙っているのかもしれない。

「あ、ろ、蝋燭……蝋燭を探してたんだけど、見つからなくて、どうしようって思って」

声なき質問に応じると、またしても唇を開かずに彼は頷いた。そうか、わかった、と言っているみたいだった。
釣られて何故か頷いてしまった私は、この人彫が深いんだ、などと無関係な感想を抱く。
眉と目の間が狭いし、その眉が乗っている部分の骨は出っ張っていて、鼻も平均的日本人のものより高い。
だから懐中電灯のか細い灯りを浴びた時、より恐ろしげに映ったのである。
夜に見るマネキンや美術室の彫像が怖いのと一緒だ。
と、場違いに遅れた分析をしていれば、濡れた砂地をうっすら踏む音が聞こえ、スニーカーを履いた大きな足が踵を返そうとしている事に意識が伸びた。

「…ちょっと待て。取ってくる」

何を。
ていうかどこへ。
明らかに説明不足の言葉を残した彼がとうとう背中を向けるので、慌てて呼び止める。
暗闇への溶け込みっぷりが半端じゃなかった。背筋に冷たい汗が流れていく。
待って、とほぼ反射的にこぼれた声にも関わらず、呼び掛けられた方は馬鹿正直に振り返った。朴訥な二つの目が私を見下ろしている。

「わ…私も行く。一人でここにいるのこ、怖いし、行きたいです。ので、すみません……」

すっかり落ち着いたものと脳は判断していたが、肉体の方はそうでもなかったらしい。
行き先や目的を尋ねるとかいう段階を一度に飛ばし、ここが部屋だったらベッドの上で悶えるくらい恥ずかしい願いを口にした。

「お…起こして……。腰が抜けて、立てない」

我ながら情けなさ過ぎる声色である。それでもこの移動さえままならぬ状態で置いていかれるのだけは避けたかったのだ。
あっという間に顔は火照り、全部言ってしまってから猛烈な羞恥が襲ってきた。
バカ、本物のバカ。
天然記念物級のバカ。
初対面の男の人にこんな事頼むなんて頭おかしい、でも今一人置き去りにされたら本当によくないものを見そうで怖いし、次に恐怖体験的な現象に遭遇したら確実に気を失う。
心の中で自らを詰りつつ言い訳をしていると、砂を踏みしだく音。
知らず知らず俯いていた顔を持ち上げ、普通の人より濃い影をまとう瞳と目が合う。
仰ぎ見た彼の背後ろに浮かんだ月は、夜にしてみれば眩い光を帯びていた。
湿気た空気を吸うや否や無造作に腕が捕らわれ心臓がびっくりする。
お世辞にも細いなんて言えない二の腕なのに、彼の指先が余るくらいにひと掴みだった。
狭くなった気管が無音で悲鳴を上げ、それに舌が応じるより早く、ものすごい力で引っ張り上げられる。
本当に一瞬で、周りの景色が移り変わる様だとか腕が痛いだとか覚える暇もなかった。
どういうからくりか気づけば自分の足で立っているとしか言い様がない、曖昧な感覚だった。

「あっ……、りがとう」

驚き顔のままでも、どうにか唇は礼を忘れずに済んだ。
彼は再び口も開かずにただ頷く。
掌が離れた後でその大きさを知った。
というより、だだっ広い。
人の手にそういった表現を使っていいのかどうか国語の苦手な私はいまいちわからなかったけれど、大きいと言うよりも似合っている気はした。
自分ではまったく実感が沸かなかったのだけれど、傍目からだとしっかり立っているように見えたのだろう、私の様子を見届けたかの人は今度こそ背を向けて歩き出す。
一緒に行っちゃいけない場所じゃないはず、だって今追いかけても何も言われてないし。
心の中で呟いて、雛鳥のように後をついて行く。
何がどうとか尋ねる間もない、1分もかからぬ内に海の家らしき建物が暗い景色の中ぼんやり浮かんで、今の今まで少しも気づいていなかった自分がどれだけ焦っていたのか理解した。もしかしてここの管理人さんとか従業員さんとかなのだろうか。
他愛ない推理を知ってか知らずか、背の高い彼は慣れた足取りでその建物へ入り、ものの数秒で戻ってくる。
片手に懐中電灯、片手に蝋燭。
咄嗟に声を上げた。

「あ! それ!」
「やっぱり、これか」

肝試しのスタート前、これと同じの置いてきたからなー、とわざわざホームセンターまで出向き仕入れてきた男の子が説明していたものと同じ型だ。
仏壇用より随分大きく、テレビの心霊番組でしかお目に掛からない、日常生活での使い所が見当たらぬサイズが彼の左手に収まっていた。
バカの一つ覚えみたいに何度も首を縦に振る私へ失せ物が差し出され、丁重に両手でお迎えする。
感謝してもしきれない。
さっきとは違った意味で泣きそうになって、必死で堪えた。
ありがとう、本当にありがとう。
どうして、なんで持ってたの、海の家で働いている人なの、諸々の疑問を踏み越えて真っ先にお礼を言おうとし、

「蝋燭集めて、売ろう即座に」

時が止まる。
感激の涙もいずこかへ消え去った。
どういう意味だ。
何を伝えたいのか不明瞭過ぎる。
投げられた真意の読めぬ言葉を必死に反芻する。
蝋燭を?
集めて?
売ろう即座に?
丁寧に幾度かなぞり、辿り着いた答えにはっと息を吸った。
え……ギャグ……?
何遍考えてみても場にそぐわない。訝しさに眉が寄る。

「………引っ込んだな」

悶々とする私などお構いなしに、彼はまたも真意の読めぬ言をぽつりとこぼし軽く頷き、何にかは知れないが納得した風だ。
他者の反応を置き去りに再度砂を鳴らす大きな影法師のような背を追おうとして、海の方から吹く空気の渦が頬を霞ませる。
その渇いた感触を自覚した途端、喉は止まらないしゃっくりを堪えた時に似た震えを見せた。
声も出ない。
もしかして、と自分に都合のよい解釈をしかけ、でも違うかもしれない、すぐ否定する。
少しずつ遠ざかる黒にまみれた背中が目端に染みて、鼓動が小さな音を立てて速まっていく。

もしかして。
引っ込んだとはつまり私の涙を指していて、場の空気を断ち切るタイミングでダジャレ口にしたのは泣きそうに見えたからなのだろうか。

今さっき会ったばかりの、名前も知らない男の人なのに、決して親しみやす雰囲気や顔だとは言い切れないのに、警戒心というものが全く沸いてこない。
代わりにゆったりと、しかし確実な質量を帯びた在り処のわからぬ熱が全身を巡って、海風で冷えたはずの頬があたたかい。
物事をなんでもいいように考えるんじゃありません、調子に乗りやすい私を小さな頃から叱り続けてきた両親の声が耳の奥で響いた気がしたけれど、振り払うにはこの状況は甘すぎた。
潮のにおいが鼻をくすぐる。
煽られた髪の一筋が、耳に触れている。
ふいにコンクリートの上とは異なる足音が途絶え、半身のみを傾ける先行く人が立ち止まったままのこちらを不思議そうに見つめてきた。
どうした、ついて来ないのか。
物言わぬ瞳に語り掛けられ、硬直していた両足が動き始める。
さくさくと砂浜に足の裏を沈めちょっとだけ離れていた彼の隣に並び立つと、素っ気無く帰る方向を尋ねられたので求められるがままに答えた。無音の頷き。
寄せては返す波が静かに騒がしく、すべてを包む暗闇は依然として光なき有り様だったが、どういうわけか心強い。
精々懐中電灯が一つ増えたくらいだというに、一寸先の闇ももう怖くはなかった。

「……あの、ちょっと聞いてもいい?」

どうして蝋燭をあそこへ持って行ったの。

「誰かの忘れ物だと思った」

単純な問いにこれまた単純な解が寄越される。低い声が風や潮騒に紛れ掠れていた。
渇いた唇をなんとか湿らせて続ける。

「でもなんでこんな時間に」
「……近くだから。走ってただけだ」

わかるようでわからない返答の上、無駄を削減した簡素っぷりである。
そっとしておくべきかを悩んでいたら、そういうあんたはなんで蝋燭なんか探してたんだ、と逆に尋ねられてしまった。
砂粒を踏む不規則な音と音とが混ざり合う。

「あー…ええと……なんというか、ノリで。友達と肝試ししてて」
「…肝試し?」
「うん。この辺を折り返し地点にして、ちゃんと行きましたよって証拠に蝋燭持って帰るって事にしたんだ。で、私が来たら何もなかったでしょ、すごい慌てちゃったよ」
「……そうか。悪かったな」
「え! ううん、そんな謝ってもらう事じゃないよ!」

しょげた大型犬と再びあいまみえる事態となりそうだったので、急いで否定した。
足底の音色が硬質なものへと変わる。
コンクリートの階段を超え、浜辺の上の道に出た。
外灯がある分先程よりはましだが車一台通らぬ道路はやはり暗く、数十センチ向こうを照らす懐中電灯は手離せそうになかった。
隣を行く人は、そうか、ともう一度さっきとは異なる音程で呟きを漏らし、付け加える。

「普段、あの辺に蝋燭は転がってない。……何事かと」

あの辺というか、常識的に考えれば外で蝋燭なんて滅多に転がってないのでは。

「そ…そうだよね。ちょっと事件っぽいにおい感じるよね」
「それより怖かった」
「だ…だよね……」

どんどんと正論が並べられるので何も言えなくなっていく。
私一人が巻き起こした事じゃないにしても、浅はかさが浮き彫りになっていくようで恥ずかしかった。
周りの人の事を考えて行動しましょう、なんてそれこそ小学生の内から言い聞かされる道徳なのにまるで生かせていない。

「みんなと一緒だとまいっかーってなっちゃうんだよねえ。ダメだなって思うんだけど。そんなに怖いの苦手じゃない方だから余計に気が回らなくって。ごめんなさい」
「…………怖くなかったから、一人で来たのか?」

とっぷりと黒に浸かった周囲に、一段と深みを増した声が含まれた。
不意に横を仰げば、見下ろす揃いの瞳が何かを案じている。

「え? いやいや、そこはみんなで決めたよ。全然知らない場所ってわけじゃないし、とにかく早くスタートしようって事になって……」
「けど普通に危ないぞ。暗いし、人気だってない。次からは誰かと一緒に来た方がいい」

なんと真っ当にまともな心配りか。
ちょっと感動して、それから落ち着き始めていた心臓がにわかに騒いで、嫌じゃないけど身の置き場に困った。
左耳から染みる波音はやや離れつつあり、吹く風がじんわりと湿っている。
歩くごとに少し揺れる足元のライトが古びたコンクリートの道を照らし出し、わずかな隙間に根を張る草が灯りに浮かんでは間もなく暗に沈んだ。遠くの黒い水平線に船の明かりが煌めいている。
うん、そうする。
ややあって何とか返答を絞り出せば、静かに頷く気配。
今日、ついさっき出会ったばかりだけど、どうしてか既視感を覚える動作だ。
癖なのか、無駄口を叩くのを嫌う性分なのか。
いやでもそういう人はダジャレなんて口にしないだろうし、と胸の中で小さく跳ねる心臓に気を配りながら思案していると、前方にちかちか明滅する光が現れ始める。
車のライトではない。
明らかに人がぶら下げた位置で上下する、数個の懐中電灯である。

「あ!」

脳内で結びついたが早いか、迷子の子供が両親を見つけた時のよう一気に駆け出す。
右手に懐中電灯左手に蝋燭と、丑の刻参り損ないかといった様相だ、ここに事情をまるで知らぬ第三者がいればぎょっとするに違いない。
しかし、一つの事に目がいくと他はシャットアウトしてしまう私はそこまで気にする余裕がなかった。
隣を歩いていた人が少しだけ驚いた表情で引き止めようとし、それからはたとその場に留まり友達の元へただただ走る自分を見守っていてくれた事にも気が回らなかった。

「ごめん、探しに来てくれたの!?」

暗がりから走り込んできた人物が私だと途中で察知した何人かが、同じように走って来てくれている。

「あーよかったあ! 、全然帰って来ないんだもん!」
「なんかあったのかなってみんな心配になってさ」
「大丈夫? 変なヤツとかいたりした?」

口々に案じてくれる子達へ礼を言い、これこれこうで、と事情を説明すれば皆一様に納得の表情を滲ませる。
なんだパニクってただけかぁ。いやいやパニクるっしょ普通。やっぱり大人しく二人一組にしとけばよかったね。ま、無事でよかったよかった。
華やぐ場に肩の力が抜けた所で、一人が私の背後ろを眺めて呟きこぼした。

「……で、その蝋燭持っててあんた送ってくれてた人って、どこにいるの?」

言葉の意味も大して吟味しないまま振り返って、揺らめく懐中電灯の明かりもない、しんとした暗闇のみが支配する情景に大口を開けてしまう。
忍んできた空気はやっぱり湿っぽい。
夜に目にする石膏像の恐ろしさ、無口、落ち込んだ大型犬、相槌を打たずに頷く。
この短い時間の中で様々な側面を見せていた人が跡形もなく消え去っていたのだ。
今や遠くなった潮騒がささやかに響き、点々と置き去りにされた電灯の狭い光はいつもと変わらないはずなのに、どことなく寂しげに映った。
ゆるい風が頬を撫でていき、体は海の香りに包まれ、奥深くで波の気配を感じる。

「えええちょっとやめてよ、マジで怖い話になってきてない!?」
「……一応の確認だけど、ほんとに一人じゃなかったんだよね?」

非日常を含んだシチュエーションに震え出す豪胆な女の子達の問い掛けにも、上手に答える事が出来ない。
呆然と立ち尽くし、今まで彼と歩いてきた道ばかりをひたすら見つめる。
馬鹿でもわかる。
友達と合流出来たのを確認して帰ってしまったのだ。
舌の上で音もなく反芻し、その重さに体が心ごと沈む。
胸の真ん中あたりに開いた穴が、今夜の暗さよりも尚暗い色で責め立てている。
一番近い表現は、ショックを受けている、といった所かもしれない。
だって、私、お礼も言っていなければ名前も聞けなかった。

「…………一人じゃなかったよ。それにあの人、幽霊じゃなくって人間だと思う」

何を根拠に、ていうか幽霊って単語口にしないでよリアルな想像しちゃって怖いってば、ほんとのおばけって普通の人みたいに見えるらしいよ、様々に立ち上る小さな反論を心の中で跳ね返す。


腕を掴んだ掌。
砂を踏む力強い足音と意志を持った瞳。
隣を行く時の、かすかな体温。
仮に、もし、彼が幽霊だったらあたたかさなんて感じないはずだ。







家からも学校からも、電車を使わなければあの日の海へは辿り着けない。
唯一近いのは塾だった。
だから補習や模試対策の特別授業がない日は決まって寄り道をした。
海岸沿いの道や通りにあるコンビニ、半泣きになって蝋燭を探していた砂浜へ緊張を供に足を踏み入れても、求めた人影とは一度も出会えず終わる。
散歩をしている人や波打ち際ではしゃぐ子達はいても、上背のある彼の姿は現れない。
小一時間ほど粘って待ってみた日もあったが結果は芳しくなく、意を決して蝋燭が置かれていた海の家らしき建物へも目を向けてみたのだが、清々しいまでに無人。
長居すれば違った結果が得られたのかもしれないけれど、そばに中学校があるから別の制服の私が一人で辺りをふらついていては変に目立つ、周囲の視線を跳ね除けてまで滞在する勇気はなかった。
あんたそれストーカー入ってる。
ざっと経緯を話した学校の友達に笑いながら突っ込まれても、だって気になるんだもん、と答えるしかない私はほとんど子供みたいなものだ。いや今だって中学生、充分に子供だけど。

「なになに、好きになっちゃった? 吊り橋効果ってやつ?」

あからさまに面白がっている友達の両頬を引っ張って反撃すると、弾むような笑い声が転がり落ちた。



探し求めても再会どころか予感のひと欠片も掴めないのは、縁がないんだよ諦めなと窘められて当然といえば当然だ。
名前も知らなければ年もわからず、近くだからと言ったあの夜の言葉だけしか頼れるものはなく、それこそストーカーじみた行為をしなければどうにも進まない、無謀だという自覚はある。
でもじっとしていられない事が誰かを好きになった証だというのなら、そうかもしれないとも思う。
一方で、頭をよぎる。
何も知らないから知りたくなるのだ。
一つでも知ればとりあえずはこの焦れた気持ちも落ち着いて、水平線を見るたびに海鳴りで胸が騒ぐ事もなくなるだろうか。
わからない。
自分がどうしたいのかも、あの人が誰なのかも、何もかもが覚束なく頼りなかった。
水面を渡る光の帯が目の裏を焼いて眩しい。

せめて名前だけでも聞いておけばよかった。
どうして全部忘れて走り出したりしたんだろ。
いっそもいっかい砂山の上に蝋燭でも立ててみようか。

などと思考が迷走し始めた真夏の一歩手前、まったく思いがけないタイミングで思いも寄らぬ優しさに触れたのだった。
くじ運のなさに加えじゃんけんも弱い私は、勉強会にかこつけた皆との集まりで当然必要になってくる飲み物だとかお菓子だとかを買い出しする役目を仰せつかった。
買い物リストから想像する荷物の重さに文句を垂れたくもなったけれど、常日頃、最近は特にくだんの彼を探すにあたってお世話になっている子達が相手だ、迷惑料というかお礼をせねばなるまい、大人しく引き受ける。
いつか覗いた事のあるコンビニではなく、今日の集合場所近くにある店舗へ足を踏み入れ、ついさっき送信されたばかりのメールを見ながらカゴへと品物を放り込んでいく。
つらつらと並ぶ商品名を地道にチェックしていき、冷房の効いた店内を歩き巡った。
店に至るまでの途で噴き出た汗が、ひんやりとした空気に触れて涼しい。
コンビニの奥まった箇所、お腹に力を入れながら、これが一番の強敵だ、と大きなペットボトルの並ぶ陳列棚を前にした。
業務用であろう巨大な冷蔵庫の透明なガラス扉を引こうとし、なかなか開かない事実に足の裏が攣りそうになる。
片手に荷の詰め込まれたカゴがあるおかげで力は左手一本分しか出ないし、どうしても重心がカゴを持つ側に傾いてしまう所為で踏ん張りもきかず、家の冷蔵庫なら難なく開くが、こういった店にありがちななんだか知らないけれどやたらと吸着力があって開けにくい扉相手に苦闘する。
二度三度ぐっと力を籠めては徒労に終わった後で、いやカゴ置いて両手使えばいいだけじゃん、発見された簡単な解決方法に肩の力が抜けた。
バカだ。
相変わらずテンパるときちんとした判断が出来ない。
まあ冷静さを失うからテンパるっていうんだろうけど。
ふうと息を吐いた、その瞬間。
ばくん、独特の開閉音と一緒に扉の取っ手を掴んでいた腕が勢いよく引かれた。
反動でよろめき、背中の方に立つ人の気配を感じる。
薄く白い冷気がペットボトルや紙パックの列の奥から漂いこちらへ流れてきていたが、快いその涼しさに酔っている暇もない。無意識に斜め後ろを仰ぐ。
私を見下ろす二つの目には見覚えがあった。
それはもうありまくりだった。
何度も何度も頭の中で確かめて、ずっと探していた人のもの。

喉を駆けあがった呼吸のなり損ないが、情けなさ過ぎる音で叫ぶけど言葉にならない。
不思議そうな表情を隠さぬ彼が物言わずして問いかけてくる。
どうした、取らないのか。
私と同じ所を掴む掌は大きくて、自分の倍はあるんじゃないかとすら思った。

「ダビデーっ! 置いてくよー!?」

そう広々とした面積ではない店内に元気な男の子の声が響き、幾人かの視線が一箇所へ集中するがしかし、背後ろの彼は何も意に介さぬ様子で素朴に応じる。

「うぃ」

驚いたのは私だ。
返事した!
ダビデってあだ名!?
それとも 本名なの!?
おたついた思考に振り回され若干しがみつく形となっている掌をきつく握っていれば、入口へと向かっていたかの視線が再びこちらへ舞い戻った。
首を振るまでもなく瞳が頷いている。
もう大丈夫だろ、開けたから手を離すぞ。
一秒と経たない間に左手へドアの重みが圧し掛かって半身が思い切り傾いてしまう。
首のあたりを腕が横切っていく。
背中で息づいていた気配も少しずつ遠ざかった。
うわ、ちょっと、ちょっとでいいから待って下さい、ごめんなさい、色々ありがとうございます。
そう伝えたかったのだけれど、唇からこぼれるのは声とも呼べぬ音ばかりだ。
う、あ、あ、と某カオナシのように不気味極まりない言葉を並べる自分に頭の中は余計混乱する。
どう考えても気持ち悪い女子である。
そもそも出会いからしてろくでもない、半泣きで蝋燭を探しているシーンを見られているし、彼からは声をかけた途端奇声を発した相手として認識されている可能性が高い、これ以上失態を晒すのは避けたいと願うのは当たり前だろう。
なんて考えたはいいけれど悲しいかな、行動が追いつかない。
ぴったり床と張り付いた足をそのままにしていたら、三歩は離れた所、菓子類が詰まった棚と棚の間に高い位置で抜き出ていた後頭部が振り返る。私を見つめる二つの瞳はまっすぐだった。
そうして彼は、軽くではなく、しっかりと首を縦に振った。
うむ、わかっている。苦しゅうない。
実際に言ったわけでなく、私が勝手にアテレコした台詞だったけれど、時代劇じみた雰囲気がかなり似合う仕草だった。
やや大げさだと言える頷きは、こちらの慌てようを汲んでの事だと嫌でもわかる。
喉の奥が干上がって乾き、突然の日照りにうろたえた心臓は慌てふためき血液を送り出す。
こめかみが熱い。
取っ手を握り込んだ手の内はかすかに震えていた。
やがて広く大きな肩が店の外へと消えてゆき、後には余韻も何も残らない。
ありがとーございましたー、と間延びした店員の声がいやに耳につく。
冷気に晒された汗が肌を伝い、濡れたのはわずかな面積だというのに全身が粟立った。

それから我に返った私の行動は実に迅速だった。

頼まれた飲み物類を冷静にカゴへ放り、颯爽と会計を済ませ、じわじわと熱の迫る外へと飛び出す。
走るごとに重くなっていくビニール袋を引き千切らんばかりに持ち上げて、きつい日差しに照らされた坂をひたすら上った。時間が過ぎれば過ぎる分だけ、胸の早鐘が骨を打つ。痛いくらいに鳴り響いて、体の全部が心を急かす。
木陰に守られた公園の一角、ベンチやブランコに腰かける皆の姿が視界に入った途端、堪えきれなくなった私は叫ぶように懇願した。


「――ごめん! わ、私、抜けてもいい!?」


色んな意味でひどい形相だったのだろう、なになにどうしたのと説明を求められて大事な所だけ箇条書きするみたいに答えれば、一も二もなく早く行けと頼もしい回答に背中を押される。

「バカ、律儀に買ったもの持ってきてる場合じゃないし!」
「早く追いかけなって!!」
「てか大丈夫? どっちの方に歩いてったかとかわかるの? 間に合うかな!?」

それぞれの気遣いに胸中で目一杯、心づくしの礼を述べ何度も頷いてから、わかんないけどとりあえず追っかける、言い置き身軽になった体でのっけからフルスピードで走り始めた。
風でなびくシャツの背へ、明るさに満ちた応援が投げられる。
上手くいったらちゃんと教えなよ!
いかなくても連絡しなよ!
のろけでも愚痴でも聞くからね!
元から弾んでいた足元が更に勢いづいて、溢れた気持ちが右腕を掲げさせた。頑張る、の一言を籠め手を振って今さっき来た道を転がり戻る。
足がもつれ、両肩の関節は外れそうになり、焼け焦げる寸前の熱を含む喉が苦しい。
ぐんぐん過ぎ去っていく景色を置いて待ち望んだ再会の果たされたコンビニまで辿り着く、赤信号にぶち当たって発生した待ち時間がもどかしかった。
何台かの車を見送って横断歩道を駆け抜け、海かそうでない方角か一瞬迷い、また一瞬で前者を選ぶ。
ほとんど勘だったが、初めて会った場所を思えば圧倒的に正しい直感のはずだ。
進行方向左手側を光輝く海の色と砂浜が占め出し、潮騒が鼓膜の在り処にまで差し込んだ。
散歩をしているおじいちゃん、休日に相応しい家族連れ、仲睦まじく歩くカップル、すれ違った人達は思い思いに日曜の午後を過ごしている。
穏やかな海辺に似つかわしくない速さで通り抜け、自分が浮いていようがいまいが関係なしにただただ足を動かした。
額に滲んだ汗を拭い、擦り切れた喉へ熱を帯びた空気を取り込み、慣れぬ全力疾走で早くも悲鳴を上げつつある両手足に活を入れる。具合の悪い事に横腹まで痛くなってきた。
はぁふ、となんとも間の抜けた短い溜め息を吐いて、赤信号を守り立ち止まる。
目の前を吹いていく車のエンジン音。
日差しを浴びた車体の照り返しに、視界が一瞬白く染まった。
ぽつぽつと浮き出始めた玉のような汗が首筋を滑る。
荒くなった呼吸を整えて持ち上げた鼻先のちょうど真正面、近いとは言えない距離、ちょっとだけ遠くに背の高い後ろ姿を見、息苦しさで曲がっていた背筋を垂直に伸ばす。
いた、ほんとにいた、方向こっちで合ってた!
噛み締めて実感するとこみ上げる喜びに胸の奥が震えて仕方がない。
急いで歩行者用の信号を見上げても、そういう事情でしたかではどうぞどうぞ、なんて物分りのいい対応をしてくれるわけでもない、棒立ちになった赤い人影が渡るんじゃねえよときつく押し留めてくる。
地団駄を踏みかけた。
あーもう! と叫んだかもしれない。
ウィンカーを出す車が爪先のすぐ前を行き来しているから、呼び止めてみた所で届かないだろう。お腹の下を突き上げる焦燥で頭がおかしくなりそうだ。
いつもより5分は長く感じられた待ち時間をなんとか耐え忍び、無慈悲な停止の合図が青に変わったと同時に飛び出した。世界新も夢じゃないスタートダッシュだった。
きしむ体に鞭打って、どこかのんびり歩いているよう目に映る背中へ一直線に走っていく。
待って、待ってお願い待って。

「待っ……そ…っこの、その……!」

引き止めたくとも呼ぶべき名前がわからない。

「蝋燭の人、待って!」

一体どこに潜んでいたのかという程大きな声が、肺の底を蹴って飛び出した。
その声量自体にびっくり顔の人が一人二人。
言葉が持つ意味に反応して振り返っているわけじゃない。
あの日とは違う色のTシャツに裾をまくったジャージ、あの日と同じスニーカーを履いた彼だけが唯一理解した上で私を見ている。
視線の行き先について考えた途端、心臓が軽く一回りは巨大化した気分になった。
内側から肋骨や筋肉を叩きつける脈が痛いくらいだ。
水中でもがいているみたく思う通りに走れない私をじっと確認したらしいその人は、一緒にいた坊主頭の男の子に何か話しかけた後でこちらへと歩いてくる。
友達であろう相手と別行動をさせてしまった罪悪感で申し訳なさが募ったものの、距離が近づくにつれ高揚の方に傾いていった。
半袖のシャツから伸びた腕が日に焼けている。
暗い所で見なくてもやっぱり彫が深い、長い眉のすぐ下にたくさんの言葉を含む目があって、海風に揺れる前髪で隠れたり露わになったりを繰り返す。
肌を刺す太陽の光がぎゅうぎゅうに敷き詰められた道で、ようやく声の届く近さまでやって来た。
瞳ではなく唇が、どうした、の一言を紡ごうとする前に遮ってみせる。

「きょ、今日も、こないだも、全部ありがとう! あとごめんなさい! それからなまっ……」

ずっと体の中に溜めていた、伝えたくてしょうがなかった言葉を形にしのたはいいが、最後の最後で噎せてしまった。
本当は名前を教えて下さいと続けるはずだったのに、最早何の事だかまるでわからない。
ゲッホゲホと病人じみた咳をほぼ初対面の女子にされては困るしかないだろう、引き止めた声に戻ってきた人は静かに案じてくれている様子で、右腕に引っ掛かったコンビニ袋がかさつく音の中に低い声が混ざる。
大丈夫か、水飲むか。
呼吸が荒れた所為で著しく機能低下した耳はそう受け取った。
でも都合のいいように解釈しているかもしれず、軽々しく受け取れやしない。
大丈夫ですの代わりに必死で首を振り、二度ほど深呼吸して咳払いする。

「……はあ、うん、大丈夫。ほんとにありがとう」

喉にものがつかえた時のよう握り拳で胸を叩く私を見、今日も今日とて夏真っ盛りの服装である彼が真面目な顔で呟いた。

「イラン人が言った、礼はいらん」

ダジャレ、健在。
全身脱力しそうになって、だけど他にこんな事を言う人を知らないから、人違いなんかじゃない証拠だから、どうしても嬉しくなる。
相反する気持ちと普通ならときめき溢るる場面でギャグをかましてくるパンチ力に気力を削られ、どう反応すべきか判断が下せない。
用意していた選択肢が無惨に砕け散り、灰となって風に流れていく。
何が何だか自分でもわからない現状と心境に思わず無言になっていたら、高い影が不思議そうに首を傾げた。

「…………面白くなかった?」

そういう問題じゃない。

「うん……いやちがくて! ううん、面白いとか面白くないとかじゃなく」
「そうか」
「そ…そうです。……えと、あの……私、わかる?」

突っ込んだ批評を求めてくるのかと思いきや、意外なくらいあっさり頷かれて何故だか焦りが生まれる。
そもそも認識されていなかったらどうしよう。
根本的な、まず手始めに越えなければならないハードルだ。
しかしその懸念もまた同様に砕かれた。

「蝋燭の人」
「え! あ、ええ……そっか、私からしてみたらあなたが蝋燭の人だけど、ぎゃ、逆か、逆になるのか……」
「逆さまで上る坂、サマー。……プッ」
「うん、今夏だからね、暑いもんね……」
「そういうあんたが一番暑そうだ。やっぱり水、飲むか?」
「だ……っ! 大丈夫!」

ダメだ。
この真面目とダジャレの入り混じった独特のテンポに身を任せていたら、いつまで経っても本題や聞きたい事に辿り着けない。

「本当に、色々ありがとう。蝋燭拾ってもらった時も思ってたのに、お礼も言えなくって。ずっと言いたかったの」

区切りをつける意と感謝の心を込めて、なるべく丁寧に頭を下げる。
彼は一般的日本人よりも窪んでいる所で開く揃いの瞳をふいに逸らし、いっそ素っ気無いくらいの音程を放り投げた。

「礼を言われるほどの事はしてない。……だからさっきもいらんって言った。気にするな」

突然降る雨みたく突き放され、言葉に詰まる。
どうしよう、しつこくしちゃったのかな。それとも追いかけたのはやり過ぎだったのかな。
不安でいっぱいになっていた所、空を掻いてポケットへと仕舞われる大きな左手がなんとなく所在なさげに見えて、はっと息をついた。
芯から体がかすかに震え始める。
私には掴めないタイミングでこぼれたダジャレも、急に目が合わなくなったのも、初めて会った時以上に抑揚が失せて聞こえる声色も。

「……じゃあもう言わない。でも代わりに、名前を聞いてもいい?」

照れ隠しというやつで、嫌がられてないのだとしたら。
心で呟くと同時、例の頷く仕草を忘れずに彼が口を開く。
天根ヒカル。
手短にも程がある自己紹介だったけれど、私には充分で、もうそれだけで頬が緩んでいく。
頭の天辺から順に広がっていく、暗く長いトンネルを抜けた時のような開放感でなんでも出来る気がした。独りでに微笑む唇が止められない。

「私、! ねえ、近くだから走ってたって言ってたけど、近いって家が近いの? あとどうして夜に走ってたりしてたの? 鍛えてるの?」

今の今まで宙ぶらりんになっていた疑問の数々が溢れ出し、理性で留める間もなく言葉として外へと押し流されている。
ハトが豆鉄砲食らった顔とはこういう事か、という表情の人を目の当たりにし、初めて前のめりな自分に意識が向いた。

「………とか、あの……色んな事聞いても……」

意気込んだわりに言葉尻が弱々しく掻き消える。
いつもこうなんだ、私はちょっと嬉しい事があるとすぐ調子に乗って、我慢するとか冷静に考えてみるだとか、理性的な対応が出来なくなってしまう。
一人気まずさに負け、やっぱなんでもないですごめんなさい、言い掛けて、相対する人の静かな頷きに断ち切られた。

「銅像に聞くように、いくらでもどうぞぅ。……プッ」

ダジャレが混じると本当にどっちなのかわかりにくいけれど、心底嫌だったら多分返答にギャグなんて織り交ぜないはず、というかぜひそういう事にしておきたい。
自分で分析しておいてなんだが推測の域を出ないにも程があった。
会ったのは二回目、口をきいたのなんてまとめてみても十数分に満たないというのに、ポジティブに考えすぎかとも思うがこの際隅っこの方に置いておこう。

「ほんと?」
「ああ」
「そっか! ありがとう! あの時私なんにも聞かないままだったから、わかんない事だらけで。海の家の人なのかなとか思ってたんだけど、関係ないの?」
「……あるけど、微妙に違う。あれは海の家じゃない。部室だ」
「えっ部室!? なんで海の近くに? マリンスポーツ系の部活なの? ていうかそもそも学生だったの?」
「……部活はテニス」
「テニス!」
「……そもそも学生。ついでに中2。夢中になる年頃だっちゅうに。……プッ」
「中2!」

まさかの同い年。
予想もしない部活動。
更に次々と明かされる意外な事実に、ピックアップした単語をアホのようにおうむ返しするので精一杯だった。
そんな私の反応がおかしかったのか、天根君は数度まばたきを繰り返したのち尋ねてくる。

「どんなヤツだと思ってたんだ」
「どんなっていうか、ほんとに何も知らなかったから想像する段階まで届かなかったっていうか…。でも、テニスやってまーすって感じには見えなかった! ビックリしたー。あ、じゃあ今忙しい時期だね、大会とかあるもんね、夏は」
「早々に早退するからそうでもない。……プッ」
「ウソ。しないんじゃない、早退」
「まあ、しない」
「だって暗くなってからもランニングするくらいだもんね。実は結構真面目でしょ! ダジャレばっか言ってると見せかけて!」
「別に真面目じゃないし、見せかけてもないぞ」
「じゃあテニス限定で真面目なの? 私軟式も硬式もやった事ないんだけど、テニスって楽しい?」

いや真面目から離れてくれ、半分ぼやくように呟いたかと思えば、しばし思考を巡らせる仕草を見せながら沈黙を落とした。
さっきの照れ隠しとは違う、かといって怒気を感じるわけでもない、心の読めない無言の時間だった。
どうしたの、素直に問うと、返ってくるのは素直な頷きと飾った所のない声音。

「……見に来る?」

何をだろう。
彼がよくそうするみたいに、小首を傾げる。

「テニス。すぐそこだから、学校」
「え……いいの!? 見たい見たい!」

断る理由など1ミリも見当たらぬ申し出に、じりじりと肌に染み入るきつい日差しも跳ね除けたあげく、恥も外聞もそっちのけで食いついた。
耳を浸食する波の音が止まず、アスファルトの照り返しが目に眩しい。
しょっぱいにおいのする風に煽られたこめかみあたりの髪を掻き上げた時、ちょっとだけ、本当にちょっとだけ、天根君が笑った。
初めて目にする表情に嬉しくなってしまった私は、倍の笑顔でありがとうを目一杯伝える。







……などと舞い上がりきった心地で足を進めたはいいが、言葉通りすぐそこの校舎まで辿り着けば現実的な問題に気がついた。
道中、どうしてダビデって呼ばれてたの、ダビデ像に似てるからってつけられた、ああー彫深いもんねえ外人さんっぽいなって私も最初思った、幽霊と間違えたんじゃないのか、すみませんその節はご迷惑を、なんて他愛ない言葉達を交わしていた時は気がつかなかった。
私、思いっきり制服じゃん。
本日は紛れもなく日曜日であるが、午前中に学校の用事を片付けた足で友達と集合していた所為で着替えていないのだ。
第一、私服だったとしても勝手に部外者が入れるものかどうか怪しい。他校の敷地に許可なしでお邪魔していいものなのか。
そんな冒険をした事がないのでとても迷ったし、困った。
類い稀なる達筆で、六角中学校、と記された校門前で立ち止まる私を横目に、天根君が上半身だけで振り返る。
どうかしたのか。
例の物言わぬ瞳が語りかけるから、答えないわけにはいかない。

「う、うん……あの、私他校生なんだけど、いいのかなって」
「いいんじゃないのか」
「決断はやっ!」
「みんな気にしない。バレて誰かに怒られたら、謝ればいい」
「え、ええー…そ、そうかなあ……」
「俺も一緒に謝ってやる。侵入者が進入して神妙に、ご面倒をおかけしてごめんなさい。……イマイチ」
「イマイチじゃやばいんじゃないの!?」

たちまち不安になった私を置き去りに、ビニール袋を揺らす大きな背中は動作に似合わぬ早さで進んでいってしまう。
そう急いでいるような雰囲気でもないのにさっさと距離があくのは、ひとえにコンパスが違う所為だろう。
背が高ければ、準じて足も長くなる。天根君が歩幅を合わせてくれなければあっという間に突き放され、追いかけるのもやっとというレベルになってしまうのだ。
ここまで来て立ち尽くしているわけにもいかずに待って待ってと慌てつつ、周囲の視線へ目を遣りながら気持ち縮こまって後をついていくと、金網に囲まれたテニスコートが視界の先に現れ出した。
そうなったらなったで、わあ本当にテニスやるんだ、などと他校の敷地にいる事を忘れて浮き足立つ私は色々な意味で子供っぽい。
自省するより先に天根君が出入り口へと手をかけ、誰もいないコートに通じる道が開かれる一瞬前、斜め後ろからどやどやという表現が相応しい声と声が持ち上がり私の首を引っ込ませるのであった。

「あ、いやがったなダビデ! 剣太郎に聞いたぞ、蝋燭の子見つかったんだって?」
「バネさん、そうかもしれないってだけでまだわかんないよ!」
「ちょっと待った、一番騒いでた剣太郎が言う事じゃないだろ」
「みんなして先走りすぎなのね」

テニスのテの字に触れたか触れないかの段階でバレた!
急激に心細く、悪戯をして見つかった小さな子の気持ちに襲われ、ついつい天根君の広く大きな背中の裏へと逃げ込んでしまう。これじゃあ比喩でなく本物の子供だ。
やらかしてから失敗に気づき、しまったと体を固くする私とは異なり、天根君は特に謝罪を口にする素振りも見せず平然とした態度で構えた。

「……お喋りな剣太郎はシャベル片手に喋り倒す。プッ」
「ええー! ボクはお喋りじゃないしシャベルも持ってないよ! 訂正してダビデ!」
「お前ほんとつまんねぇ。ツッコむ気も失せるぜ、ったく!」

後ろに隠れているとはいえ部外者、それも他校の制服というわかりやすい異変が目に入っていないわけではないだろう、でも天根君と親しげに話す人達は怒っている様子もなく、和気藹々と言えなくもない雰囲気をまとっているしで、なかなか状況把握が出来ない私は戸惑うばかりだった。
どういう反応をすればいいのか、眼前の背中とその向こうにいる何人かの男の子とを交互に見ていれば、輪になっている一人とふいに目が合う。
怖くはなかったけれど驚きに肩が竦み、ああ失礼かもしれないと後悔し、だけれどその人は気にも留めていない事が窺えるさっぱりとした口調で言い切った。

「おう、悪かったな、うちのバカがビビらしちまって! 暗ぇとこで見たい顔じゃないもんな、ダビデの顔は」
「暗ぇ所で見るクレートはどんくれぇ? こんくれぇ。……プッ」

どんな場面でもダジャレ精神を忘れない様子の天根君が言い終わったか終わらないかの、ものすごいぴったりのタイミングでものすごい蹴りを伴うツッコミが飛びこんでくる。

「だからつっまんねえんだよ!!」
「どわっ! バネさんタンマ、マジ危ないって!」

間一髪の所で避けて私の近くから転がるように後退した天根君は、とんでもない打点で足蹴りをかました人ともみくちゃの攻防を繰り広げた。
天根君も相当背が高いと思ったけれど、このツッコミ役らしき人は更に上を行く。
上背のある二人が非常に可愛らしくなく大騒ぎで絡んでいると、迫力がすごい。
なんというか、超大型犬が遊び回っている場面を目撃している心境になるというか……そんな感じだ。

「お前がバッチリ避けりゃ問題ねえよ!」
「ある。あるある大辞典。万が一こいつに当ったらヤバイ」
「かーっ! 相変わらずつまんねえし、かっこつけてんじゃねーっての。お前だってこの子の事初めは幽霊かと思ってビビってたくせによ!」
「ビビッと来てもビビッてはない、今日のメニューはビビンバ。……プッ」

脈略がねえ! そんでいつも以上に冴えてねえぞ!
再び始まった蹴りと紙一重での防御に気圧され、話題が自分の方へと振られていると知るのに些かの時間を要した。
よっぽど、あの私大丈夫です、口を挟もうとしたのだが隙が見つからない。

「コラ、女の子に幽霊かと思ったとか言っちゃダメだよ、バネ」
「おっ、俺かあ? 最初言ったのダビデだぜ!」
「ダビデは本人がいる所で言ったわけじゃないだろ」
「……バネさんの援護射撃にはバネがあり、サエさんの援護射撃は冴えている、でも俺は今背後から撃たれてる気分。……ヒドいと思う」
「ヒデエのはお前のダジャレだ」
「ごめんね、暗かったからって事で許してやって。ええと……」

忙しなく流れる一方の空気に追いつけないどころか、話題や視点があっちこっちに飛び交って本当に声を発するタイミングが掴めずにいたけれど、アイドルかというくらい綺麗な顔立ちをした人がこちらの名前を求めているのはかろうじて察したので、居住まいを正し答える。

です」
「うん、さん。ホント騒がしくって悪いね」
「い…いえ大丈夫です。あの、私こそ勝手に入ってごめんなさい」
「なんだ、そんな事。いいんだよ、俺達みんなダビデが君を連れて来るの待ってたんだから」
「おっ、そうそう! さっさと見つけて来いつってたのにうだうだしてたから、見ててストレス溜まったんだぜ。今日も今日でおっせーから首藤と亮は海の方まで探してみるっつって行っちまうしよ。後で謝っとけよダビデ!」
「……うぃ」
「バカだけど悪い奴じゃないから、呆れないでやって欲しいのねー」
「あーっ、ほらぁ! 騒いでたのボク一人だけみたいな言い方したクセに、みんなも騒いでるじゃないか!」

楽しいばかりの空気に少し笑いそうになり、やり取りの端々から天根君が私をどんな風に仲間に話していたのかなんとなくわかって、でも全部はわからないから気になってしまう。
都合の良い方向へと流れる思考に釘も差したい。
誰一人として否定を浮かべない賑やかな場が気恥ずかしい。
夏の太陽がもたらす暑さにやられただけじゃない、どんどん存在感を増していく胸の中心、心臓が苦しいのに心地よかった。
二人でいる時は落ち着いて、それなりにしっかりしているように思えた天根君も先輩らしき人と一緒だとちょっと幼く、或いは年相応に見えるのがなんだかおかしくて、どういうわけか嬉しいのだ。
いつかの友達の言葉が、唐突に脳裏に焼き付く。

――うん。多分、吊り橋効果じゃない。
そうじゃなくて、もっと強い気持ちが、私の中にあったんだ。

こちらの葛藤も絶え間なく跳ね舞う言葉の応酬も何のその、先程名前を尋ねて来た人が爽やかに続けた。

「練習見て行くんだろう? はい、どうぞ」

一流ホテルのドアマンよろしく金網製の扉を片手で開いた仕草は、柔らかに優しい。
うーん、これはすごい、きっとモテモテな先輩に違いない、なんて考えながら少し離れた所に立つ天根君を見ようとし、

「サエ、ダメなのね、それはダビデの役目」
「あそっか。ごめんごめん」

益々都合良く解釈したくなる方へ傾く流れに息が詰まる。
頬が赤くなっていやしないか、確かめるのも恐ろしい。
あっけらかんとした謝罪を口にしたサエと呼ばれるその人は素早く、けれど乱暴ではない速度と身のこなしで体を引いて、一連の展開を眺めていた残りの二方がうんうん感心したと言わんばかりに言いこぼす。

「さらっとやるよなぁ、サエは! あれが女子ウケの秘訣だ、見習え剣太郎」
「女の子ウケ……!? ボクに出来るかなあ」
「出来なかったらあれだろ、ほらいつもやってるヤツ」
「……三年間彼女ナシ!! よーし頑張るぞ!」

方々でばらつき芽吹く会話の種も確かめる余裕がない。
緊張は遅れてやってきた。
耳の奥で皮膚を打つ脈がうるさくて痛む。
天根君の大きな体が所在なさげに佇んでいる。
必要以上に感情を失くそうとしているような瞳、微妙に視線が合わず、常にダジャレを生み出す唇は拒絶反応かと間違うくらい引き結ばれていて、この上なく無表情だ。
でも怖くないし、心配にもならなかった。
ちっとも隠れていない、照れ隠しの証拠。

うわあもう、なんかもう、今すぐ走ってそばに行って、手とか引っ張ってテニスコートの中に行きたいなあ!

堪え切れない感情の泡が膨れ上がって、どうしようもない。
うずうずと足元が浮くし、頬は余す所なく緩み切って、さぞや変な顔になっている事だろう。
一歩、二歩。
三歩と四歩。
着実に距離を縮める天根君が、年月を感じさせる金網扉に触れる。
わずかに錆びた、開閉音。前触れなく目がかち合った。

「俺を銅像だと思って」

おい何を言い出すんだあのバカ。
声なき総ツッコミを背後から感じる。
次の言葉に予想がついていた私は、上向く一方の唇を止めもしないで続きを待った。

「聞きたい事があるんなら、いくらでも、なんでもどうぞぅ。……プッ」

自分だけが知っている、暗号めいた言葉が胸に響いて苦しいほどだ。
真面目でもない、かっこいいセリフでもない、正直しょうもねえと突っ込まれても反論の出来ないダジャレなのに、すごく心に取り置きしておきたくなってしまう。
天根君のわかりにくいわかりやすさに満面の笑みを浮かべていると、あちらこちらで抗議の声が沸き始める。

「こんな時までダジャレなの!?」
「……溜め息が出そうなのね」
「ハハ、ダビデらしいなあ」

くるりと首から上だけを捻ったダジャレ魔が真面目な顔で親指を立ててみせると、渾身のグーパンチに等しい、いやそれを上回る飛び蹴りが彼を襲い、辺りは盛大な騒がしさに包まれた。
底抜けに明るい騒音は空を駆け、蝉の鳴き声も超えて、天高くのぼっていく。
太陽の光の量自体はそう変わっていないはずでも、目に映る景色すべてがきらきらと輝いて、潮の香りはしなくても海が近い。
だからバネさん危ないってマジで!
うるっせえよこのダビデが! いい加減にしろ!
追う人と逃げる人の濃い影が砂地のグラウンドを回り回る。雲一つない晴れ渡った青さの下、私は遂に声をあげて笑った。

「うんっ! よろしく、天根君!」

はしゃぎ転がる大型犬よろしくじゃれていた二人が、ぴたっと動きを止めている。
これが驚いた時の表情ですとお手本のようなびっくり顔をしていた天根君だったが、ややあって既に見慣れつつあるあの頷き方をしてみせ、それからゆっくりと唇で弧を描いた。
何度見ても、まだ二回目だけど、彼の笑顔はやっぱり嬉しくて、自分の気持ちを再確認する材料にしかならない。
釣られてふやける私の後ろ、モテ街道を邁進しているであろう例の先輩が穏やかな声で、雨が降らなくても地固まる…ってとこかな、と締まらずゆるむ空気に見事なオチをつけたのだった。
天高く、果てまで広がる空は、濃く青い。