箱庭のあなた




図書室以外でのは想像し難い。
校舎内外を含め他の場所で一度たりとも見掛けた覚えがなく、学年が二つ程違うので遭遇する機会がないという尤もらしい理由を加味しても、不必要な記憶は認識前に破棄する越前から見ても、彼女は常に本と共にあった。
喧噪から丸ごと切り取られた区画、静寂の内にて睫毛を伏せている。
紙面の上を走るペンの気配、本のページをめくる乾いた音が鼓膜に触れるか触れないかの小ささで空気に染み込み、深い呼吸をすれば埃を交えた独特の匂いが肺にまで落ちた。
空が青々とした色を見せる日は、本ばかりが詰まった部屋もまた麗らかな春の陽気に乾く。
広い窓からの斜光に塵が煌めきながら揺れる。端でまとめられたカーテンへ、窓枠の影がぐにゃりと潰れて透けていた。
ぶ厚い本を持つ薄い手の甲が、陽の光と付随する薄い影とに所々浸食されていて不可思議な模様のようだ。
篠突く雨に街全体が包まれれば、室内の空気は湿気て項垂れる。
窓やら壁やらをしきりに叩く雫の音色にしじまは食まれ、上履きで床を踏む度湿った何かが狭間に滑り込んでくる心地である。
天に暗く濁った雲が蔓延っている所為で陽光が届かず、昼日中だが明かりをつけないと紙面の細かな文字を追うには苦労するらしい。
煌々と降る人工の光に照らされた頬が、病人じみて白かった。
週に一度、当番の日だけが同じ図書委員であるとの接点だ。
しかしそれすらも相手が、

「越前くん、テニス部は大丈夫? 無理しないで、部活を優先していいからね」

等と平気で言ってのけるものだから、なかなかな重ならないのであった。
数少ない図書室での記憶を並べてみても、読書に限り凄まじい集中力を見せる少女が己の担当を疎かにした事はなく、いつも越前より早く着席し最後に鍵を掛けて退室する。
空がどのような機嫌であってもは変わりなく放課後、貸出カウンターの向こう、貧相なパイプ椅子に腰を下ろしていた。
貸出に来る生徒が少ない時は奥まった部屋までがたつく椅子と共に後退し、通じる扉を開け放ったまま好き勝手読書に勤しむ。
職務怠慢。
言ってやれば、一年の頃から図書委員を選び続けたお陰で担当教諭と仲が良く、ある程度の自由を得ているのだそうだ。
いつだって四方を緑や花々でなく本に囲まれた素っ気無い庭にて、幼い子供のような眼差しで整然と、或るいは波打つ文字を追う。
薄い紙を射抜く瞳は明かりや色を吸って底光りしている。
恐ろしく小さな彼女の世界。
晴れがましい空の下コートを自由に駆けてはラケットを振るう越前にとって、図書室というごく限られた部分でしか目にした事のない年嵩の先輩は酷く現実味を欠いていた。
一度だけ、夢にも見た。
夢の中のは本当はどこにも存在しておらず、越前にのみ認識の叶う図書室に住む精霊のようだった。
あまりにも荒唐無稽なので起き抜けに脱力し、馬鹿馬鹿しさの極まった夢想を軽蔑する。
己が生み出したものだと囁く自我を振り払い早々に忘れてやったが、無意識とはいえ夢に見、彼女自体は不快に思わぬのだから、どうも自分はが嫌いではないのだろうとも感じた。好いてはいないものの、当番故に共に過ごさなければならない時間に気が塞いだり退屈で意識が朦朧としたりはせず、楽々と構えていられるのは確かである。
やれきちんと委員の責任を果たせだなんだと小うるさく口を動かさない。
みだりに話しかけてもこず、この年頃の女子特有の色恋に浮かれた話題を含ませてくるわけでもなく、越前が当番を忘れたとて叱責はしないで、むしろ今日は部活はいいのと暗に図書当番の責務を放棄せよ等と勧めてくる。
あからさまに年下扱いされなかった。
かといって異様な程持ち上げられもしない。
特別配慮が必要なく気楽であり、その上彼女は適度に親切でもある為、接しやすかった。

「越前くんどうしたの。顔が変になってるよ」
「言い方おかしいでしょ。せめて変な顔してるって言ってくんない」

帰国子女の越前より、生まれてこの方日本どころか育った街から出た事がないだろうの方が時折妙な言葉遣いをする。
しかも学年が幾つ上だろうが何だろうが敬語を使わぬ後輩に、教育的指導を施すつもりもないらしい。
年齢について縛り多き社会で生きてきたのではないのかと越前は度々怪訝に思った。

「じゃあ、変な顔してるね。何かあった?」

馬鹿正直に訂正する様に躱す気力がみるみる萎えた。
軽い溜め息を吐いて、ラケットバッグを床に下ろしながら手短に事情を話す。
当番の日、手元の本から目線を上げている事の方が少ない人が、今は真っ直ぐにテニス部期待のルーキーを見詰めていた。
どことなく居心地が悪い。
越前が僅かに身じろぎすれば、椅子のパイプがぎしと鳴る。

「テニス部の人に教えてもらえばいいじゃない。手塚くんとか大石くんとか、頭いいよ。貼り出されてるテスト結果で、大体いつも上の方にいるんだから」

現国の抜き打ちテストで壊滅的な点数を取り、成績如何によっては大会出場さえ危ういと聞かされ越前にしては珍しく憂鬱だった。
語りたくはない事情を語らされたあげく、解決法がテニス部の先輩に頼れときては流石に仏頂面にならざるを得ない。
図書室は今日も彼女の庭だ。
変異なく静かで、埃くさい。
図書委員しか独占出来ぬ場にて、眼前のその人がゆっくり笑った。

「部活に行ったら怒られてからかわれそう、越前くん」

何がそんなに愉快なのか。

「……今あんたにからかわれてるけど」
「なんと。そんな事ないよ、私はからかっていません。純粋にアドバイスをしているだけですよ」

とても信用ならないので目を眇めると、気のせいのような笑声が耳につく。

「大石くんは優しそうだけど、手塚くんは怖そうだもんね。聞きにくいか」
先輩、ウチの部の人達知ってるの」
「だって有名人だから」

そういえば名乗る前からこちらの所属部とフルネームを知っていたな、と越前は思い返す。

「悪目立ちしてるだけじゃないっスか」
「悪くても良くても目立ってるのはいいと思うけどな。見つけやすいし、迷わない」

言わんとしている事がいまいち掴めず、自然眉間に皺が寄った。
上機嫌とは言えぬ有様を間近で目にしているはずのは怯みもしないで平然と会話を続けていく。

「ねえ、テスト用紙見せて?」
「ヤダ」
「点数のとこは見ないよ?」
「なんで先輩に見せなきゃいけないわけ」
「私そんなに頭良くないけど、ちょっとくらいなら役に立てるかもしれないから」

常ならば門前払い並にすげなく断る所だが、テニス部で活動出来るか否かがかかっている、おそらくこれが背に腹は変えられないというやつだ。
到底覚えきれない数の諺を復唱しつつ、不本意ながらも丸の少ない用紙を差し出し、不遜な一年生は人の好い三年生の厚意に躊躇いなく乗っかる事としたのだった。

これを機に漢字の小テストや偉人について調べた上発表しろ等といった課題が出される都度、当番の曜日が予習復習、またはテスト対策時間と相成る。
実際の教え方は悪くなかった。海外育ちの越前には難解な日本語遣いは噛み砕いてくれ、説明手法も平易でわかりやすい。
それに部のつわものどもたる先輩らに教えを乞うよりも幾らかましだと一人呟く。
教えてくれはしても、どうせ最終的に茶化されるのだ。
話題は現国から逸れ、勉学からも外れていき、終いには身長について言及されるだろう。
聞く前から越前には解がわかる。
牛乳を飲め。
上から見下ろされ言われるに違いない。
飲めば一週間足らずで伸びるのなら飲んでやってもいいとありもしない未来を楯に心の内で、想像上の諸先輩方へ向かって思いきり舌を出した。

「ところで越前くんって左利きなんだね。私左利きの人こんなに近くで見たのはじめてかも」

今更過ぎる特徴を口にしているのを視界の端で見止め、そういえばとの身長差はどのくらいなのだろうと、取り留めもなく立ち姿を思い起こす。
今は座っている所為で、わかりにくい。かといって隣に立たれた時に目測するのも癪だ。
牛乳、の二文字が一瞬よぎる。
面倒になって思考に割く労力を放棄した越前は結局、の正確な身長を尋ねる事はなかった。



図書委員会発行の会報に載せるとかで、有志何名かがとある作家へインタビューをし、録音したものを行かなかった者達で分担して文字に起こすと聞かされる。
はやはりというか想像に違わず前者で、越前は後者だった。
面倒だという本音を隠さぬ後輩に咎めもしないで諭す先輩が、カウンター裏の部屋で相当に古めかしい音楽再生機を引っ張り出し、イヤホンを片方ずつ分け、わからぬ単語や漢字があればその都度訂正すると手伝いを申し出た。
図書室に通ずる扉は開け放たれている。
二人きりのようでいてその実異なった、うっすら他に人の気配がするさ中において、一つの音を分け合った。
互いの右と左の耳それぞれを寄せ、ルーズリーフに黒色のペンで記し、数分に一度越前の横合いから少女の指が間に入る。
爪はきちんと切り揃えられて、平たいそれは健康的な薄紅を差しており、甘皮が瑞々しい。
は右利きだった。
僅かに上体を捻り、間違いを見つけては再生機器の停止ボタンを押して、越前の筆跡の上、あいているスペースへ正しい文字を書き連ねていく。
インタビューは一対一の対談というより座談会形式である為幾人もの声が混じり聞き取り難かったが、一人のものにおいては自動的に耳が拾ってしまう。

「ああ、ごめん」

機器に伸びたりペンを握って動かしたりと、交差する指が越前の甲を二度、三度掠める。
素っ気無い謝罪に反し、一瞬の熱は確かに人の温度だった。
律儀に謝るの横顔を目に当ててみたが、一切の変異は表れていない。
別にいいっスよ。間に、どうでも、をあえて挟まず応じた越前の声色もまた常と同様だ。
の声には抑揚があまりないので、かえって聞きやすかった。
イヤホンから届くものも、今実際に鼓膜を打つものも、どちらも変わらずよく通る。
様々な雑音の奥、或いは底からひたと伸びてくる、強弱を平等に含んだ彼女だけの響き。
その人となりによく似て、希薄に過ぎるあまり忘れ去られる程無味に非ず、かといって妙に主張をするでもなし、胸騒ぎを呼び起こしもしなければ脱力する程落ち着くわけではなかった。
ただの声はこういうものなのだと耳が覚えた。
日頃大概平らかな調子だから喜怒哀楽はさぞやわかりやすいだろうと、どこぞの先輩めいた分析結果を弾き出す。
過去と今とで重なる声音が小さな庭へと手招いてい、一秒でも早く先へ先へ進もうとするテニスプレイヤーとしての越前をも僅かとはいえ引き留めた。
何気ない放課後が、長くて短い。



二人が肩を不揃いに並べるカウンターには、時々思い出したように仕事がやってくる。
返却も貸出もそう手間のかかる作業ではなくものの数秒で終わってしまい、こんなものに何故人の手を加えなければならないのか越前には理解出来ない。
借りていくのも返すのも、本人が最後まで責任を持って実行すれば良いだけの話だ。
このように、ひたすら座っているだけの時間に飽いて投げやりになってくると決まって、隣に腰を落ち着ける先輩が本を読破した。驚くべきタイミングの良さである。
パタンと一つの物語の終焉を表す音が立つ度、越前の脳裏には更衣室のロッカーに掛ける簡素な南京錠が浮いて滲んだ。
鍵を差し、捻って外す。
緑の庭ならぬ本の庭で次々と暴かれていく。
子供の目をした二つ年上の人が、熱心に開いて回っているからだ。

「読み終わんの早くないスか、先輩。……ホントに読んでる?」
「読んでるよ。早く読めるのはね、慣れ」
「ふーん。本読むのって楽しいの?」
「楽しくなきゃ好きにならないし、好きじゃなきゃ図書委員を三年間もやったりしないなあ?」

それはなんとなくわかる。自分にとってテニスみたいなものだ。
素直に得心する越前だったが、口には出さなかった。
が席を立つ。
スカートの裾を整え、くるりと背を反転させるように椅子の横をすり抜けて、奥の部屋に置いてある鞄の元へ歩んでいく。
ただ黙って見送った越前の双眸に、少し縒れたセーラー服の襟が映って、思わず笑った。
夢中になりすぎ。
横の席に戻って来たらば口出ししてやると背もたれに寄りかかった初夏の事だった。
風の香が春を過ぎて移ろい、図書室内も外の新緑を反映しているのか、安らかに強い光で満ちている。
の軽い足音が耳裏を優しげに叩いて、無性にくすぐったかった。



三日四日と雨が続き、梅雨入り発表も間近かと思われた頃だ。
彼女が越前よりも遅れて図書室に来やって来たのは、後にも先にもこの日だけだった。
稀有な事だが非常に追い立てられた顔だったので何事かと尋ねると、

「ごめん、越前くん。ちょっとの間カウンターをお願いしてもらってもいい」

挨拶もそこそこに当番担当者がいる時間以外は管理人代わりの学内関係者が詰めている、例の部屋へと引っ込んでいく。いいも悪いも、大して離れた距離ではない。
しかも返答する以前に決めてかかっているではないか。嫌だと突っ撥ねたらどうするつもりなのだと机上に荷物を置く先輩に視線を寄せ、しかし越前はすぐさま目を剥く羽目となった。
てきぱきと開けた鞄の中から弁当包みを取り出したが、箸を持ち、蓋を払って、もっかいいただきます等と呟いて食事をし始めたのだ。
意味がわからない。

「食いっぱぐれたの」

どういう状況だと目だけで問うた越前に対し、悪びれもせず一部屋まるまる私物化する少女が答える。

「先輩、まだまだだね」
「……面目ありません。ちょっと待っててね、すぐ食べちゃうから」

カウンターに向かって足を放っていた所を横座りの体勢に変えた越前は背もたれに腕と顎を預け、赤塗の箸が口元へ運ばれる様子を訳もなく眺めた。
綺麗に焼けた卵焼き。
ほんのり焦げ目のついたウィンナー。
溶けたチーズのかかったブロッコリーに、ミニトマト。
ふりかけと混ざった白飯。
いつもは薄い紙をめくる指が丁寧な箸使いを見せ、読書時に限り真一文字に閉ざされる唇は柔らに開かれ、とりどりのおかずを静かに食む。
咀嚼ののち嚥下し、またはじめから。
どうせ日がな一日、本でも読んでいるに違いない日焼け知らずの喉が蠢く。
丸みを帯びた頬はゆるゆると張って縮んでを繰り返した。
隙のような甘さを見せる唇より前には、舌は出て来ない。
そう珍しくもないだろうに他人の食事風景をまじまじと見詰めたのは初めてだ。
ぶら下げた腕の先、手の甲や指に感触が蘇ったのを越前は自覚した。
瞬時に生じたので辿る余裕もない。
イヤホンの内と外でかぶさる声に触れ、慣れた箱庭で音と作業の他にも何かを分け合った放課後の、少し手を伸ばせば届いてしまう近さに在った、の指先が持つ温度と柔らかさが、肌のかたい所に今更明瞭に宿る。
ほんの微か、目が眩んだ。



彼女が彼女の庭から抜け出し、図書室ではない場所で暗い空を見上げていたのは、翌日の事。
朝のニュースで梅雨入りが発表され、濡れ煙る街そのものがどことなく鬱々とし始めたような午後だ。
生憎の空模様のお陰で室内練習を余儀なくされた男子テニス部は、通常より早めにトレーニングを切り上げた。コートを使えない日こそが、図書当番より何より人生で最も退屈な時間である。
明日は僅かな晴れ間があるという乾の予報を心から信じたくはないがとりあえず信じ、日本の雨の時期は最低だと背負う鞄と背の間に滲む汗に苛つきながら、越前は昇降口まで踵を返していた。
本当の所は室内練習ののち直帰する者に混ざりたかったが、顧問の竜崎に呼び止められてはそうもいかない。
雑事を押し付けられ、一年生という立場もあって先輩の誰も助けてはくれず、渋々職員室まで使い走りをこなした帰りである。
背中だった。
顔ならばいざ知らず、背中等きちんと見た覚えはなかった。
それでも、彼女だとわかった。

「そこの人、帰んないの」

三年生の使う靴箱が居並ぶ奥、コンクリート部分に足を下ろし、上履きで歩く床にて座り込んでいる。

「越前くん」

紡ぎつつ首から上を後方へ捻るので、もまた声だけで越前だとわかったのだろう。
一連の流れや振る舞いについて特別言及しない後輩が距離を縮め、言葉を交わす前に先輩の隣に腰を下ろした。
ラケットバッグを手近なロッカーに立て掛ける。わざわざ傍らに行かずとも、立ったままでも不足はないのだと、まるで気付いていない。
雨音がどこか遠くで響き、眼前の玄関先にて白糸は天より落とされて、土くれや砂埃と水が混ざった匂いが辺りに漂う。
折り曲げた足を抱えるは微かに濡れていた。

「帰ろうとした時はまだ小雨だったの。校門出てちょっとしたら、一気に本降りになっちゃって」

いけるかと思ったけどだめだったから引き返して来た、と傘を忘れたらしい人がすらすら語る。己の愚行に恥じ入る様子はなく、ただ事実のみを述べている口調だ。
越前は溜め息をおくびにも出さず半ば嘲って返した。

「ねえ。先輩ってさ、あんなに本読んでるくせに案外バカで考えなしだよね。それで俺より年上? 生まれた年カンチガイしてるんじゃない」
「正真正銘、越前くんより年上だよ? ……私、傘嫌いなんだ。邪魔だし、荷物になるし。ああけど、それを言うなら雨が嫌いなのかな。本が濡れちゃうから。あ、あと読みながら歩けなくなるのも嫌」

公道を歩く時くらい本から目を離したらどうなのだと、己の活字中毒振りを淡々と晒す先輩へ投げれば曖昧に笑う。
直す気はないようだ。

「だって勿体ないじゃない。ただ歩いてるだけなんて」

図書室でよく見掛ける子供の目が瞬き、細い首が越前へ向けやや傾げられた拍子に、湿り気を帯びているらしい髪がの肩口から零れた。

「別に、先輩がどこで何してようがどうでもいいけど。よそ見して事故んないでよ。知り合いの悪いニュースとか、さすがに俺も聞きたくない」
「うん、大丈夫。ガードレールがあるとこじゃないと読んでないよ」

そういう問題ではないし、越前の苦言が微妙に徒労となっている。
これほどまでに危うい人だったろうか。何故本の庭を抜け外に出て来た、まで考えついて胸が内側から押された。呼吸自体が途切れてしまう。
俄かに雨脚が強まった。
そこら中くまなく打ちつける雫が勢いを増し、砕けた水の玉が飛沫を上げて、地表近くは白い煙で覆われる。
暴雨はけたたましい風にざっと嬲られ、白糸から大粒の透明な石ころにと様相を変えた。
降りしきる水の幕で何も見えない。
硝子扉にまで跳ねた残滓が張り付き伝い、ふるふる流れて消えていく。跡はおびただしいがしかし、あえなく失せる為に数え切れなかった。

「………すごい」

少女の一言がか細く響くのは全てをしとどに濡らす雨雫の所為で、そうして聞き洩らしたとておかしくはない声が最早騒音と呼んでも憚られぬ中を掻い潜り、越前の鼓膜を揺らしたのは誰の所為か知れない。
不意に、雨水と埃以外の空気が柔らかに立ち込める。
おそらく一般的にも越前にしてみても、いい匂い、と称して過分ではない芳しさだ。
濡れて匂い立ち、水気を含んで膨らんだ。
すぐ傍にいなければわからない程おぼろげで、やんわり鼻をくすぐる。
越前は吸い込むのを躊躇した。
体温に混じってより質を浮かび上がらせる芳香は、彼女の髪から漂っている。
シャンプーの残り香だろうと思った。
だったら一体何なのだとも思う。
特別な事ではない。越前自身も風呂上りには漂わせているはずで、何もだけが纏うでなし、いちいち過敏になる事か。
理解しているにもかかわらず収まらない。
雲を裂く雷鳴が轟き、振動は扉や地面を伝って、空気が震える。
耳が馬鹿になりそうだ。
稲光と共に下った衝撃に、隣の少女が首を竦めていた。

「びっくりした。今の、近かった」

少しばかり怯えた目元で語りかけてくる仕草は平生の姿と上手く重ならず、どうしてか挙動に困った越前は無言のまま立てた足へ肘をつき、先端の強張った掌で頬を支える。
緩やかな視線に気付いてはいたが黙殺した。
遅れて溢れてきた知覚に脳が侵されて、腹の淵でのみ反響する罵りを努めて冷静に眺める、箱庭の人がどうして外へ踏み出したのかを考えると同時、そもそも常に一定の場所に居続ける存在ではないのだと思い知る。
己の記憶するはあまりにも端的で、ごく一部を切り取られた面でしかなく、大体にして滑らかな手触りだ。
悪い事ではないだろう。
不快感を抱く隙がないお陰で、鬱陶しく感じずに済むのは有り難い。
だが何故か、心に引っ掛かって仕方なかった。
臍の辺りを氷の手で撫ぜられたあげく、好きに掻き回される感覚に陥ってしまう。
図書室以外で見掛けるのは初めてだった。
だから無意識の内に歩み寄り、あまつさえ隣に座りさえした。
物珍しさと好奇心。猫をも殺すと喩えられるもの。
人間の越前は殺されはしなかった。しなかったが、生き生きとしているとも言えない。
水気が呼ぶ冷たさと人の体温がない交ぜになって、頬や手に触れていく。
肺の奥にまで滑り込んだ、様々を孕む酸素が染みた。
ぶ厚い雨の壁は足元まで辿り着くのではないかと危惧する程で、猛烈な勢いを衰えさせずに迫る。
帰れないなあ。
間延びした声が右耳に吹いた。
優れた動体視力は雨の軌跡さえ追おうとするから、景色が重なり滲んでこの世ならざる有様だ。
香る気配が熱を伴って生々しい。
ここに来てようやっと些か体を離した越前は、思ってもいない事を口にした。

「ふーん。じゃあ先輩はずっとここにいたら。俺は帰るけどね」

の唇が笑う。あの平坦な声で語る。
それもいいかもしれないね。図書室でずっと本でも読んでようかな。







夏が来て、すぐに終わり、短い秋へと変貌を遂げた。
全国大会後渡米した越前は日本の四季とやらを存分に味わわぬまま、今月中に誕生日を迎えようとしている。
年の瀬迫った夕闇の校舎内は人気がなく、静謐に沈んでおり、職員室やまだ人の残っている部屋の所々から蛍光灯が漏れるのみだ。
日本とアメリカを行き来する生活を送る越前を、何かにつけて学校まで呼び出すのは部の先輩や顧問に限らない。
時には自堕落極まりない父親も混ざっては囃し立て、うんざり顔の越前を薄情者の青少年と茶化した。
とはいえ今日は日暮れ後の訪問である、誰にも会わずに用事を終わらせる事が叶ったのは僥倖だ。
来年も青春学園に籍を残すにあたって必要な書類を届け出、口喧しい顧問に見つかるまいと早急に職員室を離れ、もう長く履いていない上靴の感触を確かめるよう歩く。
冷たい廊下を擦る音が、端から端まで響き渡る錯覚に包まれた。乾き切った上に底冷えの空気が鼻に痛い。
息を吐くと屋外程ではないといえ、微かに濁って真冬だった。
邪魔だと鞄を持たずに家を出た越前は身軽である。
両のポケットに入れた手を握り、猫の額程度の暖を得る。五指を折り曲げれば、開いて外気に触れているより幾分ましだ。
窓の外は恐ろしく暗い。
敷地内にそびえる木々の幹が黒に落ち、ほとんど同化して、不気味な影法師と化していた。
まだ夕食も済ませていない、用向きがなくなった今、寄り道せずに帰るべきなのだろう。
一時的な自宅であった寺で久々の和食だ。心躍るとまではいかないものの、一つの楽しみには変わりない。
がらんどうになった昇降口へ至り、妙な逡巡に駆られた。
魔が差したと言っても良かった。
数歩足を返し、外の暗ばかりを映す窓から視線を打つと、独りでに階上の一角を目指していく。
図書室だ。
否、正確には地続きとなっている、カウンター奥の部屋。とっぷりと濃い闇に飲まれる校舎の片隅で、薄い明かりを焚いている。
遠巻きにも判ずる事が叶うのは夜だからで、しかし時刻だけの問題でもなかった。
何を思い感ずるまでもなく、気付いた時には階段へ足裏を掛けていた。
誰にもすれ違わぬまま上り、自らの足音だけがこだまするのを聞くともなしに聞いて、一声も発さず名前すら浮かべず、ひたすら歩を進めゆく。
そこそこの段数を踏み越え突き当たった本の庭は当然施錠されてい、越前は寒さも忘れて両手を布の内から放り出して、図書室横の部屋用出入り口へと向かった。
扉は僅かに開いている。
人工の光が漏れ出、真っ直ぐに黄色がかった線を廊下に描いていた。
躊躇わず押し開いた時、ノブの異様な冷たさで体が震える。

「こんな時間に何してるわけ、先輩」

机とパイプ椅子に比べたら座り心地の良い椅子の並ぶ向こう、どこの誰が据え置いたのか知れない長椅子状のソファの上に、その人は腰を落としていた。
揃いの目を丸く太らせ、ドアのレールを跨いで入室する越前の顔を凝視する。
バタン。やや乱暴な音を立てて扉が閉まって、今度は紛れもなく二人きりだった。

「……えっ? あれ? 越前くん?」
「他の誰に見えたんスか」

相変わらずふてぶてしい後輩に、の方は珍しく狼狽しており、身動き一つ出来ていない。瞬く睫毛だけが生きている。
まさしく、固まった、といった体の先輩を差し置いた越前が、音もなく距離を詰めどっかとソファに座り込んだ。
首の角度を越前に合わせて変える少女は、そこに来てやっと硬直を解く。

「違うよ、見間違えてないよ。本当にいきなりで、驚いた……」

表情はまさに呆然といった所か。
かと思えば、逆立っていた肩が落ちて強張りのあった頬も緩み、相当気が抜けている様子だというのに越前が応じるより先に続けた。

「久しぶりだね? 越前くん、夏休み明けにはもう学校にいなかったから…何ヶ月ぶりかな」

元気だった、等と問わずに、元気みたい、断定の口調で仄かに微笑む。

「前よりもテニス漬けの毎日?」
「あんたこそ相変わらずここで本ばっか読んでるんだ?」
「うん、そうだね。相変わらず。本ばかり読んでるよ、ふふ」

大して凹凸の感じられなかった声音が、柔らかに弾んでいる。彼女の言葉通り久しかったので思い違いかもわからない。

「で、答えは?」
「答え」
「何してんのって今聞いたでしょ」
「ああ、あのね、お昼休みにバレーボールに誘われたんだけど、その時ちょっと」

突き指をしたらしい。痛みも腫れもなかったのでわざわざ保健室には行かなかったのだが時間を経る毎に悪化し、放課後本を読み終える頃には負傷した人差し指が上手く動かなくなった。

「へえ。余裕じゃん、受験生」
「受験生だけど、推薦組の私はもう気楽なんだよねえ」

保健室を尋ねようにも閉まっているし、ならばと思いついたのがこの部屋だったと言う。
施錠はされていたがお得意の三年間図書委員を続けた特権を駆使し、鍵を借りてきたのだそうだ。
不必要且つ不可思議な物置でもあるここには、湿布や絆創膏の詰まった簡易救急箱が埋まっている。
僅か数ヶ月の図書委員でしかなかった越前が知り得ているのは、ひとえに彼女のお陰だった。

「先輩手当てはもうしたの」
「ううん今から。指どこまで動くかなあって試してたとこに、越前くんが来て」
「……さっさとしてよ。俺が邪魔したみたいじゃん」
「そんなに痛くないの。平気だよ」

軽く言ってのけたが腰を持ち上げて、スカートの裾を整えながら雑多と言う他ない惨状の棚へと歩み寄っていく。
あれだけ物が散乱していても、何がどこにあるのか把握しているのだ。三年間通い続けた者は一味違う。
言葉の末尾に、心配しなくても、の意を感じた越前はどことなく座り心地が悪くなる。
していないわけではないが、直裁に伝える以前に悟られては面白くない。
加えて、やんわり釘を刺されたのも気に食わなかった。
言葉が上手い事出て来ず、どうとも感じていなかった二年の差が会わずにいた間急激に現れでもしたかのようだ。
雨降りの変異を超えたのちも、との関係性は延々と平坦であった。
図書当番をこなし、気まぐれに降る会話の機を経て、感慨を得るでもなく過ぎて行った季節だった。
昇降口での邂逅が例外だっただけで、あれから図書室以外で見掛けた事はない。
今日だって、越前の気が向かなければ通り過ぎていた、僅かの出会いでしかないのだ。
希薄な繋がりを辿った所で一体どんな成果を得られると問われれば、ひたすら沈黙を走らせるだろう。
何もない。
自分と彼女の間には、名付けるに値するもの等存在していないのである。
離れた位置でいつかの音楽再生機と同じくらい年季の入った薬箱を手前に引きずり出す制服の背中が、蛍光灯を浴びてつるりと光っていた。
完全に手持無沙汰となった越前は所以の知れぬ諦観にも似た思いに苛まれ、天井から降り落ちる光を無為に吸う。虹彩はただそれらを表面的に反射しているに過ぎず、濡れ羽色だ。窓越しに広がる冬の闇に近かった。
一寸、膝のくずおれる疲労感に似た衝動が突き抜け、彼にしては行儀よく立てていた足を放る。ついでに身動きの都度軋むソファに両手をついて、猫背気味だった上体を反らすと、無防備な右手の内へ合成皮革の安っぽい感触と仄かな温もりが伝わった。
今度ばかりは越前も素早く理解し、ついてすぐの手を離す。
元の姿勢に戻り、利き手で以って右手首を握り締める。
全身が皮膚の下から打ち震えるようだった。
ソファに残っていた小さな温みは、冬場等痛々しくさえ映るスカートとそれに包まれた柔らかさが源だ。
の座っていた箇所のみに宿っている。現に誰もいなかった左手側はしんと冷え切っており、越前の手から体温を奪った。
熱を覚えてしまいかねない過敏さがとてつもなく不愉快で、そんなのは自分ではないと強く否定する。
だって俺、ヘンタイじゃないし。
残り香のようなものを意識して何になる。
実に変質的で、健全と言い難い。
叶うならばタオルか何かで拭いたい程だったがしかし、たとえ拭った所で落ちやしない事もどこかで悟っていた。

「越前くんはさ」

後輩に背を向けたまま、薬箱の内の湿布を取り出しているがふと零す。
問い掛けられた方は沈黙を返答とし、言葉では応じない。
そうして密かに否定に否定を重ね、毛羽立つ肌を抑え込み、脳の内から追い出そうとしながらも、一瞬の温もりを思い出していた。
たった三度程、表皮を掠めた細い指。
爪の色と、抑揚のない謝罪。
全てこの部屋で感じ見聞きした、彼女の一片だ。

「……またすぐ、アメリカに行くの?」

紡がれる声は常と変わらず静かで、喉の奥が押される。

「…そうだけど。それが何」

蘇る記憶と現在に翻弄されつつある越前がゆったりと渦巻く内情を隠そうとした所、変に突き放した言い方になった。
悔いはしない。その余裕もない。
背を翻し、部屋の中心に据え置かれたテーブルの上へ湿布薬を広げ、指に巻き付けたは頼りなげに頷く。
目線を落としたきり頑なに持ち上げず、

「そっか…元気で。向こうでも、頑張ってね」

言う時だけ、僅かに睫毛が上向いて震えた。
笑おうとしてしくじったよう、半端な表情で越前を迎えてい、唇から転がったのは聞いた事もない音色だった。悲しみを堪え、哀切に凍えている。
ヒーターをつけていない部屋は極寒だ。
吐く息さえ冷えて遠い。
越前が愛用しているラケット等掴み切れぬのではないかと見立ててしまう細い指が、白い湿布をしきりに纏わり付かせていた。
越前の掌からはつい先刻得た温もりが既に失われていて、自身のものしか残っておらず、感じ至るや否や無意識に追った。
思いを起こす。
紙にじゃない。
文字にでもない。
呼び覚まし、震わせて、ひと息に飲み干した。
恐れと熱情が入り乱れるばかりでどうしようもなかった。

先輩」

立ち上がった足は即座に萎えかけるが、数瞬ののち元の調子を取り戻す。
刻一刻と彼女が過去になっていく。
越前の中から失われ、損なわれ欠けていき、遂には何も残らなくなるのだろう。
箱庭の人は永遠に箱庭の人と成り得るのだ。過ぎた日が変わらないのと同じように。
そのくせ声や表情、温もりは消え失せて思い返しもしなくなる。たった数十秒前の体温がもう感じられないように。

だから今、この時でなければ忘れてしまうと思った。
記憶にだけ頼る虚しさを捨ててしまいたいと願った。
初めて寂しげに笑い損ねた人が夢でなければいいと、狭苦しい庭なんかにずっといないで俺の傍に来ればいいと、祈るよりも余程したたかに強請った。
人差し指をもう片方の手で掴んでいた彼女が越前を見遣る。
人工の光に照らされた顔色は雪白で、黒い瞳がかなしそうに揺れていた。
この場所とすぐ隣の図書室で、いつからか小さな欲を植え付けられた。種は水なしでも育ちゆき、芽吹いて、青々と葉を伸ばし、花開いた今や重たげに撓っている。
雨に濡れても、陽に晒されたとて、湿気で滲んだとしても、乾き凍えて尚、匂い立つ。
(あんたに触れたい)
望みを形にした余波で足がわななき、武者震いだと越前は自らに言い聞かせてやった。
彼女の庭へと踏み入れる一歩は、冬の空気同様に張り詰める。
はうっすら和らいだ唇で、なにかな越前くん、淡く微笑みながらも切なる響きを隠さず零した。確かに浮沈があり、平坦ではない。
血が海鳴りのようにざわめいていた。