ぬばたまの夜を除けよ新しき 全くの偶然だった。 「あ」 目が勝手に予想外の人物を捕らえてしまい、声もぽろっと落ちて転がる。 見慣れているようないないようなその集団は異様に目立つので、黒山の人だかりの中にあっても恐ろしくわかりやすい。 緩いウェーブのかかった髪が白色に濁り、話す横顔が穏やかだ。 黒目が真冬の凍える空気を吸い込んでいる。 肌に乗った影は濃いようで薄く、唇の端がしとやかに上向いていて、見ているだけのこちらの目元にほんのり温もりが宿るようだった。 零れては上る吐息の形を追いかけるだけで、彼の笑い声まで聞こえてきそうだ。 距離があっても光源が乏しくても、表情や纏う雰囲気の細部までどうしてか感じ取ってしまった。雑踏に紛れかねない私の呟きを、耳ざとい友達の一人が丁寧に拾う。 え、何? 問われて初めて失敗に気付き、なんでもない、答えるより早く別の友達が視線の先を合わせてきた。 「アレ? テニス部じゃん!」 「ホントだ! ……うっわ目立つー」 「なんだろねあの派手さは」 左右と前方から沸き立つ明るい響きとは裏腹に、投げ寄越されるであろう攻撃に警戒する私のテンションはやや下がり気味だ。 「あー…ああ、そういう事。よく見っけたねえ?」 ほら来た。 想像通りの展開に抗うべく、ぐっと身構える。 「ヤダヤダ、これだから彼氏持ちは!」 「行かなくていいの? てかむしろ行ってきなよ!」 「なんで!? ていうか責められる意味がわかんないし!」 四方から突っつかれて、思わず大きめの声を出した。 人ごみに揉まれていようがなんだろうがお構いなしで騒ぎ立てられ二重に肩身が狭い。 誰も私達なんか視界に入れちゃいないとわかっていても、なんとなく恥ずかしいのだ。 軽く、でも思いきりからかいながら背中を推してくる友達の手が嫌味なくらい柔らかかった。 あと十数分後に控えた新年に向けてなのか、神社へ続く道はいつもと違った照明にうすぼんやり照らし出されている。 夏のお盆の時期や秋のお祭りの時とも印象の異なる光が大晦日の闇夜を彩り、たくさんの人のざわめきに話す声が掻き消されて、口を開く都度立ち上る息は白く、実に忙しない。 いまだ視界の先の先にある沿道に立ち並ぶ屋台の赤い色が、夜の暗さに慣れた目をつついた。 精市くん率いる立海テニス部は、長期休みなど関係ないとばかりにいつだって練習続きである。 中等部の頃からずっと変わらないので最早一種のしきたりと受け取り、付き合っていても大晦日や元日に会うような約束は一度だってした事がない。 だから今年もそのつもりだった。年賀状やメールのやり取りをするだけで、顔を見るどころか声すら聞かずにお正月休みが明ける。 登校途中、朝一番に精市くんに会って、あけましておめでとう、言えばいつかのよう笑われるに違いない。 それ、年賀状とメールでもう済ませただろう。 そして私もあの日と同じに返すのだ。 でも直接言ってなかったから。 家族が紅白歌合戦を流し見ている横で友達から、そういえば一回も行った事なかったから今年は夜の初詣行かない? 混みそうなおっきな神社じゃないとこにしようよ、とのメールを受信しノリで馳せ参じた私の行動や予定なんか精市くんが知るはずもないし、その逆も然り。 精市くん――ひいてはテニス部が、私がいつ何時どこへ赴くなど把握しているわけがなかった。 そりゃ一人でいたって目立つ人ではあるけれど、中等部時代からのレギュラー陣とまとまっていられたら嫌でも見つけてしまう。 よって、大好きな彼氏の事だけは気付いちゃうんだよね、といった色々とあからさまな揶揄を投げつけられる謂れはないのだ。 「あのね! みんな好き勝手言うけど!」 首を何度も巡らせたおかげでずれたイヤーマフを直しつつ、反論の第一手を破裂させたものの、 「あ、幸村君こっちに気付いた」 一秒で萎む。 いつの間にやら背後ろに回った友達全員がぐいぐい押してくる所為で先頭者となった私は、振り返って眉間に皺を寄せていたのだが、反射的に鼻先を真っ直ぐ戻してしまった。 瞬間、転ばない程度の力強さで背を叩かれる。 私が精市くんの姿をちゃんと確認するより速かった。神の一手かと思った。 弾き出された方向が主な人の流れと逆だったのであっという間に揉みくちゃにされて、抗議声明を喉から振り絞る。 「ちょ…、ちょっ……とぉ!?」 どんどん離れていくみんなの言葉が、微かに耳まで届いた。 「頑張れーー!」 「私らは私らで行ってくるねー!」 「今年もよろしくー! あ、まだ日付変わってないか来年もよろしくー!」 嘘でしょ。どんだけ自由。ていうか私の意志は。友情ってなんだっけ。 愕然としながら、両足へ力を籠めて押し寄せる波に耐える。 こんな所で行けと言われても行けるわけがない。一体何をどうしろと。 気を遣ってくれたのかもしれないが、酷い仕打ちを受けている気がしてきて素直に喜べないし、何より一人放り出されたのが切なかった。 一年の最後にこれって結構な悲劇ではなかろうか。 冷たい風も入り込む隙がない人の渦が、胸の中を掻き回して不安を煽る。 誰かの肩に当たって再びずれたイヤーマフを押さえ、道の真ん中で立ち止まっていたら迷惑だ、ともかく端っこに避難しよう、心に決めて足を進めた。 一歩ずつではあるが蠢く壁を越えていく。 すみませんの一声を相棒にして波を割り、深夜らしい黒に塗りたくられたコートやら何やらの防寒具の急流を避けていく内に、さっき精市くん達がいたと思しき場所からはぐれているのがなんとなくわかった。 でもどうする事も出来ない。 さながら激流に飲まれた枯れ葉だ。無力である。 もういい、精市くんにも友達にも会えないのは仕方ないとする、とりあえず人ごみのない所まで出て家に帰ろう。速攻帰ろう。 ヤケクソ気味の目標をお腹の底に巻き付け力んだ所で、もう何度目かわからないけど、押されてよろけて知らない人の二の腕にぶつかってしまい呻く。 イヤーマフについては語るべくもなかった。視界の邪魔になる程ずれにずれ、直そうにもそのスペースが与えられていない。 「ご、ごめん、なさい」 「大丈夫ですか?」 こちらの謝罪と親切な誰かの一言がほぼ同時に重なる。 何せ目の前が見えないので断言は叶わぬが、声からして私よりちょっと年上の男の人みたいだった。 思いっきり舌打ちしてくる人やなんなの邪魔なんですけどとご立腹の人とエンカウントしてきた身としては優しい対応に泣けてくる。 どう考えても自分が悪いのはわかっていたから、ちくちく心を刺されてもひたすら謝罪の繰り返しだったのだ。 せめて顔を見て謝りお礼を言わねば、と半ばアイマスクと化した耳の防寒具に手をかけようとして、あえなく頓挫した。 後ろの方から腕を掴まれたのだ。 しかもかなり力強く。 ひいっと転がりかけた悲鳴が舌の根を震わせ、血の気が引いた。肩は恐怖に竦む。 だけど次の瞬間、何もかもが安堵で緩んだ。 「すみません」 見えなくても、たった一言しか聞こえなくても、すぐにわかる。 相変わらず目を塞がれたままの私を無遠慮に引っ張った彼に、心優しき通りすがりの人が会釈をし去っていくのを気配で悟った。 ぶ厚いコート越しでも体温の高さが伝わる掌に、三、四歩ほど後ろ向きで歩かされ、今まで埋もれていた場所に比べたらいくらかスペースが出来たな、という辺りで目の前がぱっと開ける。 「こら、方向が違うよ。どうしてどんどん離れていくの」 乱れに乱れた私の髪を丁寧に避け、本来あるべき箇所へとイヤーマフを戻してくれる右手が、信じられない事に素肌の感触だ。 悪い意味じゃなく、かといって良い意味でもないが、ともかくぞっとした。 この寒さで手袋なしとか絶対おかしい。 場違いな感想に気を取られたばかりか、触れた熱があまりにも温かい所為で、息が詰まって言葉を返せない。 「精市くん」 彼の名前以外は、何も。 「行こう。ここで話していたら、周りに迷惑だ」 離れていた右手が再度私の腕へと戻った。 次いで、もう一方の掌に肩を抱かれて引き寄せられる。 この状況下ではまず間違いない対処法で、精市くんに他意なんかないのはわかっていたけれど、私の頬は一瞬でいとも容易く熱を帯びてしまう。 さぞや見事な紅が皮膚の奥から溢れ滲んでいる事だろう。 自分の顔を確認するすべがなくたって明白だ、世界がどれほどの暗闇に閉ざされていようともきっとすれ違う人のほとんどに気付かれる。 どうか精市くんが寒さの所為だと思ってくれますように。 見込みの薄い願いを籠め、何度も心の中で唱えた。 前後不覚状態で歩かされているのに私の足は迷わない。触れる温度がしっかりと導いてくれている。 いよいよ羞恥でこめかみに汗が伝うかという段階まで来た所で、一つの目的に向かって流れる人達から抜け出す。 手を引いて助けてくれた人にありがとうと伝えた途端、冷気が肺を掬い上げてツンとした。酸素の質が変わった気さえする。 鼻の奥が痛い。 毛糸に覆われた掌で押さえて、息をゆっくり吹きかけ暖を取ろうと試みたら、目の端っこの方が涙で滲んだ。冬らしからぬ熱気漂う空間から突然夜更けの低気温に晒された所為だった。油断したが最後、鼻水まで出てきかねない。 それだけは避けなくては、とすっかり氷の温度となった鼻の筋を摘むと同時、うっすら濡れた目尻を拭われて心臓が跳ねる。 「い、いや…あの、これは……さ、寒くって」 別に言い訳なんてする必要ないと思うのに、口が独りでに回り出す。 人差し指の甲で睫毛の際を優しく撫でて退かせた人が、白濁とした息を暗中で弾けさせながら笑って言った。 「わかってる。まさかが俺に無理矢理連れて来られたくらいで泣くはずないものね」 この期に及んで、と付け加えてきそうな彼は、かつて死ぬほど嫌がる私を力技でテニス部主催の焼肉会へ連れ込んだ事を暗に示している。 よく言う。 喉元までせり上ってきた反抗を必死に抑えた。 何重にも恥ずかしい思いをして、だけど絶対に忘れられない日が鮮明に蘇り、これはやはり頬の異常を見抜かれてしまうのでは、観念と諦めが混ざった心地に陥ってどうしようもない。 「それで? こんな夜遅くにどうして外に一人でいるのかな。危ないじゃないか」 語尾が笑んでいるものの、言葉自体は生活指導の先生みたいだ。というより、小学校か幼稚園の先生じみている。 不本意過ぎてしかめっ面をしてしまった。 「……精市くんだって今一人じゃん」 「俺はいいんだよ。男だし、君みたいにフラフラしていたわけじゃないから」 「好きでフラフラしてたんじゃない! ていうかさっきまで友達と一緒だったの!」 「ああ、やっぱりそうだったんだ。人がすごくてさ、君の後ろにいた子達がよく見えなかったんだけど……フフ」 「…その笑いは何……」 「いや。きっとからかわれたんだろうなぁと思って」 私が単独行動ではなかった事をわかった上で尋問したのか、じゃあややこしい話の始め方をしないで欲しい、人の小さな不幸をおかしそうに笑うとは何事だ、是非とも言ってやりたい諸々が込み上げては霧のような呼吸の跡に溶けて薄れていく。 縒れたマフラーを手繰り寄せ、口元と首周りにいっそう強く巻きつけた。 だからといって私の顔色や表情を隠せるわけじゃないけれど、対策の一つもしないで突っ立っているのは不安だ。これ以上心臓に悪い目に遭いたくない。 ぼおん、とどこかのお寺から響いた鐘の音に耳が揺れる。 空気を伝って届いているはずの音色は、不思議と体の内側からこだましているようだった。 「精市くんは、テニス部の人達といたんでしょ?」 「うん。なんだ、見ていたのかい」 「だって目立つんだもん」 「声を掛けてくれれば良かったのに」 「そんな勇気ない」 「今更勇気なんて必要ないだろう」 「じゃあ人ごみ掻き分けて精市くんの所まで行く元気がない」 「あはは! 酷いな、愛が感じられない言い草だ」 酷いとこちらを罵っておきながらちっともダメージを受けていないのが丸わかりの、穏やかな顔つきである。 電柱の外灯から降るぼけた光を纏って淡い。 「それに、の場合はやる気がないって言うんじゃない」 神の子に攻撃の手を緩める様子はなく、にこやかに重いパンチを繰り出してくる。 「そこまでないない尽くしじゃないし。第一、やる気がなかったら家にいたのにわざわざ着替えて外に出て来ません」 「そうだね。だから珍しいなと思ったんだ。君は寒いと急に全部が億劫になるタイプだろ。たまたま気が向いた?」 精市くんの方がよっぽど酷い事を言ってるんじゃ……と返したい衝動に駆られたが、あながち間違っていない、というか驚異の的中率なのでぐうの音も出なかった。 「気が向いたっていうか…夜の初詣って行った事ないから行ってみようよって誘われて。見たいテレビもなかったし、眠くもなかったから」 「家族団らんの時間はどうしたの」 「……精市くんの中で私んちってどんだけアットホームになってるの? ちっちゃい頃ならまだわかるけど、高校生にもなって家族団らんとかないよ」 「フフ、そっか。それはそれは。子供扱いしたつもりはないんだけど、そう聞こえてしまったのなら謝るよ。ごめんね、?」 「…………今のが一番子供扱いなんですけど」 からかいの色が濃くなってきた辺りで眉間に皺を寄せたら思いきり笑われた。 その声の形と勢いが薄白のだまとなって、暗い夜空と混じり合う。 私と彼の間で急激に気温が変化するわけでもなし、同等の冷気に纏わりつかれているはずだというに、まるで違う季節にいるみたいだ。 冬の精市くんはいつも全然寒そうじゃないし、ひょっとするとホッカイロと張るくらいの熱源なのではとすら思う。 何度目にしてきても、私が彼に抱くあたたかなイメージは変わらない。 「テニス部って仲良いよね」 「ん?」 どんな厳しい環境下にあっても不変でいる人が羨ましい気もして、だけど素直に羨望の眼差しを向けていいものかと迷う。 「みんな趣味とか好みとか全っ然違ってそうなのに、結構一緒にいるじゃん。プライベートには干渉しませんって感じなのかと思ってた」 「の中のテニス部ってどれだけ殺伐としているんだい」 さっき私が口にした言葉をわざわざなぞって打ち返す人の顔色は、暗がりでも明るかった。 「殺伐っていうか厳しそう。ちょっとでもミスしたら怒られそう」 「真田の所為だな、君のその偏ったイメージは」 「かもしれないけど、でも一応言っとくと精市くんの所為でもあるからね」 「え、俺?」 「なんで俺関係ないしみたいな顔してるの……そんなわけないじゃない。真田くんより精市くんと一緒にいる時間の方が長いんだから、どっちに影響受けるかなんてすぐわかるでしょ、部長!」 「に部長って言われるとおかしな感じがするなぁ」 「……私の話聞いてた?」 「最後までちゃんと聞いてたからこそのコメントだったろ」 張り詰める冬の空気も緩やか且つたおやかに押し退ける精市くんが、君の言う通りもう随分長い事一緒にいるんだからテニス部の実像くらいわかってくれてもいいんじゃないか、目の縁を滲ませながら微笑む。 ぼやける明かりがいやに目に染みた。 少し離れた場所で流れ続けている人の川はうっすらとした騒がしさを運び、深まる夜と一年の終わりが音もなく近づいて来る気配で胸がささめく。星のない、月も雲に隠れた大つごもりだ。 一瞬強く吹いた北風に前髪が煽られて冷たい。 同じように髪を揺すられた精市くんは、微かな光も吸収し糧にしてしまうに違いない両の瞳で私を優しく見下ろす。 「一つ訂正させてくれ。俺達は仲が良いというより、そうだな……今日に限っての話をすると、赤也が羽目を外さないように見張っているんだよ。主に真田がだけど」 こうして団体行動をしていれば嫌でも目が届くし、自主性を重んじて放っておくより安心だからさ。 続く音色が健やか極まりない。 それってつまり仲が良いって事なんじゃないの。 声には出さずに呟いた。 代わりに部全体の苦労を背負いこんでいるであろう人への賛辞が自然と生まれる。 「真田くん、いつもすごいよね……。時々切原くんのお父さんみたいだし、怖いけど立派な人って言葉がほんと似合うよ」 「それ、本人に言うなよ。ショックで泣くかもしれないから」 「え、なんで!? あっ老けてるって意味じゃないよ!? 同い年なのにしっかりしててすごいなって意味だよ!」 「はは! 俺まだ何も言ってないのに、老けてるって言っちゃってるじゃないか」 ボリュームアップした話し声が弾んで黒一色の天まで飛んでいった。 普段なら周囲を気にして音を絞る所だが、今日ばかりは捨て置く。 無礼講とまではいかないにしろ一年が終わる日、少しくらい騒ぎ立てても許されるだろう。 「ち、違う今の…っ誘導尋問!」 「はい、人の所為にしない」 「…ねえ、私が言った事真田くんに話したりしないでよ? せめてすごいとか立派ってとこだけにして」 「うーんどうしようかな」 「ちょっとほんとにやめてお願い」 「そう必死になられると、益々悩ましいね」 「ひ…他人事みたいに……! 変な事言って怒られるの私なんだからね!? 真田くんだって可哀相でしょ! てかなんでそんな意地悪言うのか意味わかんない」 「意地悪って言うなら、彼氏の前で他の男を褒めるの方がずっと意地悪だ」 「…………。え、ええー……」 予想外も予想外、必死の懇願も遙か彼方へ放り投げられる程の反撃を食らい、ぱっとしない、防御にもなっていない一言が転がって砕けた。ぽかんと間抜け面になる暇もない。 そうして散らばった欠片を丁寧に拾い集めるような含み笑いの精市くんが、悲しいなぁ、等と表情とちぐはぐのぼやきを零す。 「大晦日は家族と過ごすだろうと思って連絡しないでおいたのに。その上、部の皆といた所をわざわざ抜け出してまで人ごみに難儀していた君を助けた俺より真田を褒めるなんて。涙が出そうだよ。悲し過ぎて倒れちゃうかも。そうしたら、。責任取って俺を家まで運んでくれ」 年の瀬ギリギリになっての無茶振りである。 口を挟む隙を一切与えられず、清らかな流水の如し言葉に翻弄されるばかりだった。 体中から力が抜けていってしまう。 「……精市くんふざけてる」 「俺は至って真面目だけれど」 「笑い堪えながら言っても説得力ない!」 「っはは! 、顔が真っ赤だ、あはは!」 「…………誰の所為だと思っておいでで?」 「俺のお陰だね。少しは温まっただろう」 微妙に誤変換された。 しかも本当に体が温まっているから、付け入る弱味なんか微塵も見せない人に言い返したいのに言い返せない。 ぐっと喉が詰まり、呼吸が一秒途絶えた。 「どうしたんだい。君の方が倒れそうじゃないか。困るよ、俺を助けてくれる人がいなくなったら」 誰の所為だと繰り返しかけ、すんでの所で押し留める。 私の顔は熱を帯びてどんどん険しくなっていっているのに、対する精市くんは実に楽しげで目尻と唇が微笑みっ放しだ。 「…私が元気でも一人じゃ精市くんを助けられないよ。そもそもどうやって運べばいいの」 「おんぶとか?」 「無理。絶対出来ない。私潰れて精市くんに怪我させちゃうから!」 「フフ、気にするのそこなんだ。別に運び方なんて何でもいいよ。そうだな、肩でも貸してくれればそれでいいさ」 「そ、それくらいならなんとか……。……ところで倒れるの前提で話してるのおかしくない?」 「うん、おかしい。冗談だったのに、君、真面目に返してくるんだもの」 「ちょ…わ、わかってたなら止めてよ!」 「嫌だ」 「なんで!?」 「面白かったからに決まってるじゃないか」 なんだか前にも似たようなやり取りをした気がする。 「私は面白くない……」 「まあいいじゃない。今日は今年最後の日だし、ふざけ納めだと思ってよ」 「そ――」 んな言葉聞いた事ないよ、と終いまで紡げられなかったのは、鋭い破裂音じみた衝撃が鼓膜を一瞬にして震わせたからだった。 私と精市くんの二人揃って音の源を探す。 すると、私達が並んでいる道路から数メートル下にあるちょっとしたスペースで、真冬らしからぬ様々な色が花開く様が視界に映った。 火の散る音と特有の煙が低気温時の呼吸じみて白く流れ、彩り豊かな光が膝横辺りのガードレールまでをも鮮やかに染め上げている。 呆気にとられた私が季節外れの手持ち花火を馬鹿みたいに眺めている間に、行き交う人が口々に交わす言葉がわっと華やぐ空気に乗って届く。 あけましておめでとう、おめでとうございます、ハッピーニューイヤー。 それぞれの形に制限はない。新年を言祝ぐ雰囲気がやたらと浮かれており、持参の花火を手にした幾人かも大いに盛り上がっているようだ。距離がある為聞き取れはしないが、とても楽しそうに花火を囲んでいる。 「……新年のお祝いだと思うんだけど、ああいう事もたるんどるって言うの?」 「真田がいたら言うかもしれないね」 そろそろと顔を見合わせ私達は、話の腰を折られたにもかかわらずどちらからともなく笑い出した。 精市くんはこちらの訴えを軽くいなす為に口にしたのだろうけど、本当にふざけ納めになったようだ。 厳かでも神妙でもなく、おめでたい空気や賑わいに満ちているわけでもない、さらっとした年明けだった。 日常の延長線上で迎えてしまった私の新しい一年は盛り上がりに欠けていまいち締まらない。 「あけましておめでとう、精市くん」 でも、隣にいるのが彼というだけであっという間に特別なものになる。 「おめでとう。今年もよろしく頼む」 朗らかで柔らかい笑みと裏腹にしっかりとした口調で告げられ、年越しでは得られなかった身の引き締まる思いとやらを体全部で感じる。 はしゃいでいいはずのカウントダウンも、煩悩の数だけ撞かれる鐘の音も、精市くんが零す一言には敵わない。 文句を言いたくなったり、呆れたり、そんな馬鹿な嘘でしょと現実を疑ったりする事があっても、私はなんだかんだでこの人に何かを頼まれるのが好きなのだ。 自ずと背筋が伸びる。実現させる為にどうしたらいいかを考えずにはいられなくなる。 草木も茹だる夏の暑さも家の壁まで凍るような冬の寒さも跳ね除け、他愛ない会話を続けるさ中でさえ打ち返す隙や弱味を見せずいつも鷹揚に笑っている強い人に、頼んだよ、言われたら嫌だなんて絶対に口に出来ない。したくない。 数え切れないくらいたくさんの事を、自分の力で乗り越えてきた人だから。 羨ましいな、なんて軽々しく声に出したりしないと心に決めて、任せてよとは言えない代わりにずっと前から根付く思いと共に頷いた。 「うん、よろしくお願いします」 「随分丁寧な挨拶だ」 でも、いかにも愉快そうに吐息を落とした彼は確実にからかってくるだろうし、それに本当に叶って欲しいから、精市くんが今年一年健康で無事に過ごせますように、と初詣で神様にお祈りするつもりだった事は私だけの秘密にしておく。 |