初春ままごと 正月早々、というか元日に海辺近くの空き地まで連れ出された私は、腕組みしながら吹き荒ぶ風に耐えている。 「、唇が青ざめてる」 諸悪の根源と言うべき彼は爽やかな笑みをたずさえ隣へやって来るので、文句の一つでもぶつけてやりたい、誰の所為だと思ってるの、等々詰る気概も萎えてやわらかくなっていく。 風がすごいからね。 寒さでがちがち鳴り出しそうな歯を押し留め、手短に応じた。 すると、立派な好青年へと成長した幼馴染が清涼感溢るる表情を崩さぬまま、 「俺、風よけになろうか?」 なんて嫌味がなさ過ぎて逆に嫌味に聞こえる申し出をするものだから、心ばかりか冷気に強張っていた肩までゆるんでしまう。 大丈夫だと辞退するより早く風上に立ったサエが、はいどうぞ、言ってジュースの缶らしきものを差し出した。 「え、どうしたのこれ…いつ買ったの」 「来る途中で買ったんだよ。にあげる」 好きだったよな、との一言に従い手渡された熱源へと視線を落とせば、季節柄自販機でよく見かけるおしるこの四文字と出会う。 ものの一秒も経たず幼い私が今の私に在りし日を語り掛けてくるので、あっと声をこぼす暇もない。 「昔、冬はそればっか飲んでたろ。飽きないのかなあって思って見てたんだ」 サエの言葉と私の記憶が隙間なく合致する。 まだ気まずくなる前、暗くなるまでみんなで遊び回っていた頃、寒い時期はおしるこばかり好んで購入していたのだ。 散々はしゃいだ後で喉が渇いているはずなのにどうしてあたたかくて甘ったるい飲料を飲んでいたのか、当時の自分に尋ねてみたいほどハマっていたのを思い出して今更恥ずかしくなった。 「うん……好きだった。サエ、よく覚えてたね?」 「他でもないの事だからね。そりゃ覚えてるさ」 そうしたらもっと恥ずかしくなる事を涼しげな声色で奏でられて閉口する。 多分サエ自身は小さい頃に比べて目を剥く程の変化はしていないつもりなのだろうけど、私や周りの子にしてみれば、きらきらしい顔立ちと低くなった声にスポーツマンらしい体躯、その他諸々人目を引く要素盛り沢山の美丈夫にしか見えず、そういった思わず目を背けたくなるレベルで眩しい彼の唇が紡ぐのは何事にもストレートで飾らない言葉だから質が悪い。聞いている方の心臓が持たないのである。 しかも、ストレートといっても剛速球では決してない。 恐ろしいまでに真っ直ぐ走って来るものの、とてもやわらかくストライクゾーンに入る。 例えばサエがピッチャーで私がバッターだとすれば、特大ホームランが出るくらいの甘い球だ。 かといって手加減されているわけじゃなく、わざと打たせる球を放って来ているのでもない、抜かりなく且つ確実に自分の考えや気持ちをこちらに悟らせる為の、特別な球種。 私が相手の時だけだなんて口が裂けても言えない、自惚れたくないから言いたくないのに、どうしたって肌で感じ取ってしまう。 嫌でも唯一の解に辿り着かざるを得なくて、サエに勝てる所なんか昔から一個もないと思い知らされる。 まったくいつの間にそんなテンプテーション効果を使いこなすようになったんだ、過去を振り返るや否や、いや幼稚園の時から片鱗は見せていた、等と思い当たる節が浮かんで止まない。 末恐ろしい――というか現時点でもう既に恐ろしいひとへ想いを寄せてしまったものだ。 紆余曲折を経たのち、六角一モテているに違いない幼馴染とお付き合いを始めた私は、最近益々妙な感慨を抱くようになっていた。 隠し通せぬ照れ臭さに影響されたっぷり十数秒は間を置きありがとうと零せば、それってどっちに対して? 俺がずっと覚えてた事? おしるこへの礼? 朗々と問われて顔の隅々まで激流と化した血液が巡る。 「……サエのバカ」 「なんだよいきなり」 「頭いいくせに。勘も察しもいいくせに! 幼馴染なんだよ、聞かなくたってわかるでしょう? だからバカ。もっかい言う、サエのバカ!」 「言ってる事が滅茶苦茶なんだけど」 「…っ全部どっちもだよ! 覚えててくれてありがと! おしるこ買って来てくれてありがとう! サエは頭いいのに時々バカ!」 辛抱たまらず自爆した私の勢いを見、肩を揺らして笑い出したサエは、明るい陽射しを目いっぱい浴びて嘘みたいに輝いていた。 投げ込まれたボールをかっ飛ばしたのは私のはずなのに、どうして打たれた方が上機嫌なのか不可解極まりない。 購入してからそれなりに時間が経っているのにまだぬくい缶のプルタブを半ばヤケクソ気味に開けると、薄い湯気が立つ。ほのかに鼻腔をくすぐるのは、慣れ親しんだ匂いだ。念入りに息を吹き掛けた後で口をつける。 甘い。 懐かしい。 あの頃と変わらない味。 様々な感情と思い出とが一緒くたになって舌の上を滑り、喉を通って胸の深くまで染み込む。じんわりとした余韻が口内に揺蕩い時と場所を忘れて浸ってしまい、涙が出るまでは到底いかないけれど、瞳の表面や網膜がにわかに潤む心地がした。 そっと奥歯を噛み締めれば、優しい甘味が尚も滲んで溜め息が溢れていく。 「相変わらず美味そうに飲むよなあ」 よく似合う色のコートのポケットに手を突っ込むサエに微笑まれ、容赦なく万人を嬲る北風の所為で冷えた指先で炭酸飲料のものより硬い感触がする缶を握り締めた。 「だって美味しいから」 「言うと思った」 「言っちゃだめな事だった?」 「まさか、そんなわけないだろ。ただ不思議だなと思っただけだって」 1月1日の真昼間、余程正月番組に飽きているのかそれとも一つの行事として地域に根付いているのか、何の変哲もない広いだけの空き地で凧揚げに興じている人は想像以上に多い。 端から端まで青の広がっている空に白と黄の混ざった太陽が主役然と浮かび、時々それらを遮りながらいくつかの凧が行ったり来たりしている。 お雑煮とおせち料理でお腹が満たされた頃合いを見計らったように我が家へ訪れたサエは、家人から上を下への大騒ぎ的歓迎を受けた。 特にお母さんのはしゃぎっぷりはすごくて、実の娘である私でさえひいた。 丁寧に年始の挨拶をした上でご無沙汰しています等と頭を下げる幼馴染がなんだか私の知る幼馴染に見えなくて困っていたところ、背中を小突かれる。 行け! 今だ! 本当に言い出しかねない、無数の期待の眼差しが刺さって最早痛い。 寒いし、出掛ける準備してないし、年賀状のチェックが、と言い訳を並べ服やら髪やらを整える時間を稼ごうとしたら、大して変わんないんだから大丈夫よ、そんな事より待たせたら虎次郎くんに悪いでしょ、おめでたいはずの新年早々に身内から泥を被せられてしまう。 ぐっと言葉に詰まっていた私を助けてくれたのは、中学からの友達よりは近いけれど家族に比べたら遠いはずのサエだった。 俺は気にしないけど、が嫌なら準備をしてからでもいいよ。待ってるからさ。 彼は助け舟のつもりだったのかもしれないが、私からするとトドメの一撃だ。 人が集まり狭苦しく感じられる玄関に響いた、時間にしてわずか数秒間の声によって運命は決まった。 かくして正月仕様の非常に気を抜いた恰好で家を出るはめになった私は、言われるがままされるがまま歩を進め、大昔にみんなで凧揚げをして遊んだ空き地までやって来たのである。 隣をゆくサエが左手を大きく上げ、振り返してくる幾人かを見遣れば、退部して久しい三年生達と、現テニス部を引っ張るダビデや剣太郎だと遠目でもわかってなぜかほっとした。 一定の間隔を空け、透けた青い空を泳ぐ凧糸を引き、ああでもないこうでもないと言い合っているらしい。 頬を切る風は皮膚から潤いを奪い、雲一つない好天が寄越す陽の光は眩しくも温かく、鼻を通して息を吸えば冬の匂いがした。 穏やかな日本晴れに、付き合いの復活した今でもまだ懐かしさが勝るみんなの姿が重なって、幸せな夢を見ているみたいだと胸中で独りごちる。 何年か前にも目にした光景だ。 でも、その頃は私もあちら側に混ざって騒いでいた。 変わった所と変わらない事が、私やサエだけじゃなくてきっとみんなにもあって、それが嬉しい。 同時に、サエの言葉を借りるわけじゃないけれど、とても不思議だった。 「サエはおしるこが美味しいと不思議なの?」 そんな事を頭の片隅に漂わせつつ首を傾げる。 違う違う、と笑声を足元へ転がしたサエは、淡くぼかしていた目尻を浮き立たせ私を優しげに見遣った。 「実は昔、があんまり美味そうに飲むから試しに買ってみた事があってさ」 「え、おしるこ好きだったっけ?」 「いいや、普通かな。というか自分で買ってまで飲もうとは思わないって事は、むしろ好きじゃないのかもしれない」 「…そうだよね? 私、サエがおしるこ飲んでるイメージ全然ないよ」 「ま、実際飲んでないしね」 凧揚げに奮闘するチームメイト兼昔馴染みの面々へ向いた真っ直ぐ通る鼻筋が、海からやって来る風に長い事当たった所為でわずかに赤くなっている。 夏場など日がな一日外で活動していて色白の印象を抱けぬ人なのに、今は透き通る肌、と表するのが正しい気がしてならない。元の皮膚が薄いのだろうか。 日焼けで剥けてしまった部分を指し、見て、ヒドいだろこれ、しみて痛いんだ、言っておきながら笑っていたいつかの少年めいた顔が心にするりと入り込む。 たちまち熱っぽい息苦しさを感じ、躱そうと深呼吸を試みたが、少しずつスピードを上げる鼓動が邪魔をして来た。 行き場も失い、ぬくい缶を強く掴む。 拠り所が他にない故、ほぼ縋る形である。 急なお誘いでマフラーさえ忘れた私は、酷く頼りない心地に揺れていた。 精々口元辺りまでしか隠せないたかが布でも、なければないで不在を嘆かざるを得ない。普段は有無を考えもしないのに有難みが増す一方なのだ。 「サエの言おうとしてた事当ててあげよっか」 残り少ないおしるこを口に含み、ゆっくり慎重に飲み下したのち、自分で自分をけしかける。 さもなくば訳知れぬ羞恥と呼吸困難の初期症状に振り回され、まともに会話を続ける事すら怪しくなるかもしれなかった。 「別にマズくはないけど毎日飲むほどじゃないんじゃない。、よっぽど好きなんだな」 甘味の絡んだ舌に声を滑らせ、サエの真似をしてみる。 わざと低く響くよう心掛けたら咳き込みそうになって、最後に舌の奥の方で息を払った。 「ハハッ、正解! にしてもよくわかったな。もしかして、昔俺がおしるこ買うとこ見てた?」 「見てないよ。見てないけど、なんとなく想像がつくの」 一度離れてしまってもどこかで繋がっているのが、私とこの幼馴染の特色だ。 小さい頃の異性の友達なんて、中学も最高学年となれば自然と疎遠になっていってもおかしくないだろうに、そうはならなかった。 瞳の底が遠のく。 新しい一年の始まりに差す陽の光に埋もれ、眩い。 たまらず目蓋を下ろしそうになってしまい、だけど見覚えのある、あり過ぎるみんなが過日と同じに凧揚げをしている、今の光景をずっと見ていたくて必死に我慢した。 サエのバカ、と本日何度目かの罵りを言葉に出さず意識へ浮かべる。 大雑把のO型らしく適当なところもあるくせに、俺そんな事言ったっけ? と首を傾げてこちらが投げ掛けた言葉を無下にしたりするくせに、手渡されるまで私自身も記憶の内から落としていた嗜好品をきっちり記憶しているのだから、やっぱり頭いいのに時々バカ。 でもきっとその何倍も私の方がバカだ。 なんて事ない思い出やサエのちっちゃな仕草の一つ一つ、忘れる事ができないでいる。 大気をやわらに切り裂く風が唸り、煽りを受けた髪の毛はばらばらと宙を舞う。 渦巻く空気で頬がかすかに痛い。 最後のひと口を飲み干すところだった私は、甘くあたたかな懐かしさを喉奥へ送りながら乱れた髪を整えた。毛羽立った部分を軽く撫でつけ、邪魔にならないよう耳にかける。 お腹の中からあたたまったお陰で、少し前まで全身で感じ取っていた晴れ晴れしい元日の冷気など、すっかり気にならなくなっていた。 空っぽの缶の行く先を考え始め、どこかにゴミ箱あったよね、何の気なしに尋ねようとした寸前だ。 ふと陽射しが和らぐ。 仰のいて雲を探してもいつまもで行き当たらないほどの晴天だったのに。 訝しく思うや否や薫りを濃くする体温に声帯がひくついた。 ゆるみきっていた唇で自分以外のひとの温度を味わう。ごく優しい触れ方だった。 キスされたと気づいたのは、目の前が先程と同じく晴れ渡って後の事だった。 「うわ甘い、よくこんなの毎日飲んでたな」 子供の頃のお前の味覚どうなってたんだよ。下手したら病気になるぞ。 いつも通りの爽やかな笑い声がすぐ傍で零れ、鼓膜にじんわり響いている。 でも薄いベールで包まれたようにぼやけて聞こえ、遠い。 ありえないほど直に伝わった感触や背の高いサエが屈んだ時に鳴った衣擦れの音、降り散った影の薄いところと濃いところ、たった今頭の天辺から足の爪先までの全身で感じ取ったものを、数秒遅れで無意識に反芻してしまう。 羞恥の汗がどっと噴き出る錯覚が私を襲う。 早鐘を打つ心臓に急かされる。 衝動のままに口を開けば何が飛び出るかわかったものではない。 一度引き結び、音が立たぬよう唾を飲んでから、やっとの事で言葉を足元辺りに転がした。 「………缶、捨ててくる」 言うが早いか体を反転させ、さっき歩いてきた道の方へと急ぐ。 見ていられないくらい赤々染まっていると思しき顔も、流石に空き缶を捨てて戻ってくる間に落ち着くだろう。 空いた左手を軽く握り、無駄だと悟りつつ化粧要らずの天然紅を消そうと頬から鼻にかけてを拭って、おしるこを飲んでいる最中より三割増しで甘い口の中で咳払いした。 鼓動の速さに追い詰められたくなかったので意識をよそへ散らそうとしたら、 「待った」 思わぬ近さから掛けられた声に邪魔された。 「、怒った?」 つい先ほど決死の覚悟で進んだ距離を数歩で飛び越えさっさと並行してくるサエが、顔の下半分を手で隠す私を覗き込みながら子供じみた音色を奏でる。 「怒ってない」 「じゃ照れてる」 「…今怒ったもう怒ったからね!」 そんな風に聞かれては激怒したなどと嘘でも言えるはずもなく、正直に答えたのだが、今度はからかいを含んだ調子で返球されて胸の内が膨張した何かで破裂した。 あらん限りの力を振り絞って睨みつけてやったのに、攻撃されている側のはずであるサエはどうしてか嬉しげに笑声を立てるだけだ。 笑みに閉じられた目蓋に映える睫毛は、下手すると私のそれより長いかもしれない。 色素の薄い髪が陽に透けて綺麗だった。 家の中じゃなくてここ外だよ、みんながいるところでしないで、あとおしるこバカにするのやめて、ぶつけてやったとて許されるであろう文句の数々を空気と一緒に吸い込み、耐え切れずスタートから全速力で駆け出そうとした。 「逃げないでよ。は足が速いから、俺じゃ追いつけない」 ――ら、手加減なしのダッシュに備え引いた腕を捕らえられてしまう。 サエの、ラケットを握り続けたお陰でででこぼこになった掌はそのままするする下へ落ちていき、私の握り拳をほどいて優しく撫でる。 絡む指のあたたかさと感触に声を上げられずにいると、反対の手で掴んでいた空き缶が音も障りもなく抜かれて奪われた。荷物というほど重くはないけれど、持ってくれるつもりのようだ。 「……なんでそんな嘘つくの」 「嘘って?」 「今のサエ、私なんかよりずっと足速いでしょ。簡単に追いつけちゃうくせに」 「そんな事ないさ。確かに俺は足が速い方かもしれないけど、陸上部のエースにいきなり全力で走られたら無理だ。追いつけないって」 「元、陸上部」 「あそっか。悪い、引退しても自主練続けてるの見てるとカンチガイしちゃうな」 あとエースってほどすごくない、言い加え一定の距離を保とうと歩幅の調整を試みるも、冬だというにしっとりとして滑らかな体温の高い手に引き寄せられてあえなく頓挫する。 サエが私に幼馴染の顔しか見せていなかった頃はわからなかったけど、この六角随一の王子様はくっつきたがりだ。 さっきみたいに周りの目があろうと、もしくは一切なかろうと、あまり関係がないらしい。 堂々イチャつくな、とバネさんや剣太郎に窘められたのは数知れず。 こっちだって困ってる、私に言わないでよ。 一生懸命訴えても梨の礫、サエに言ったって聞きやしないのだから仕方がない、いわゆる門前払いをされておしまいだ。 許してあげて欲しいのね。 眉間に深い皺を刻んだ私を宥めたのは樹っちゃんだった。 ウカレてんだよ。ったく、おい、お前サエの手綱しっかり握っとけよ。 しゃーねえなあ、言わんばかりの表情でバネさんに付け加えられたら黙るしかない。 そうして、ずっと前から好きだったのだとサエ自身の声や態度ばかりじゃなく当時を知る幼馴染達の言い草からも思い知らされ、時たまどうしたらいいのかわからなくなる。 与えられる気持ちも、知らない内に生まれる自分自身の感情も、今の私には大き過ぎるんじゃないかと戸惑ってしまうのだ。 だけど、絶対に、言い切れるけど、決して嫌なんかじゃない。 むしろその逆だった。 だから困る。 サエが私にくれるたくさんのものを、上手に返せているのだろうか。 気持ちの上で負けているつもりはまるでないのだが、何せ伝える方法や手練に私とサエで差がありすぎる。 灼熱の夏が終わり、うら寂しい秋を過ぎ、海風厳しい冬がやってきても、一向に進歩していない気がして何か切ない。 彼ばかりが相手を気遣い、想い続けてきたようで釈然としないのだ。 私だって、と数え切れぬくらいの思い出を脳裏に蘇らせ、一つ一つを丁寧になぞって突きつけてやりたい衝動に駆られた。 どうせだから新年の抱負にしようかな。 私がどれだけ寂しかったか、後悔の日々を送ったのか、何年も引き摺っていたのにサエの一言でバカみたいに安心して、こうして手を繋いで歩く時間がいまだに信じられないくらい嬉しい事を、思い知って欲しい。 「ところで今を追いかけている時に思い出したんだけどさ」 ちょっとずつでも伝える為にはどうすればいいか、などと一人密やかに決意を固めた上で模索し始めていたら、進行方向を先ほど辿ってきた道路と反対へと変えるひとが、もののついでのよう打ち明け始めた。 「追いかけられてる感じなんか、しなかったよ」 追ったとしても精々数歩だ。 些か大仰ではないのか。 訴えを込めて言い返したのだが、そっか、まあ俺はいつだって追いかけてる気分になっちゃうんだけど、軽々いなされ私の声は地に落ちていく。 先が思いやられるとはこの事だ。 これは心して今年の目標達成に向かって励まねばなるまい。 「昔も似たような事があったなと思ってね」 「…似たような事?」 「全速力のを追っかけたよ。何度か呼んだのに、俺に気づいてくれなかった」 「……いつの話?」 「そうだな……あれは、うん。段々ちゃんと思い出してきたぞ。が帰らないって言い張って、真っ暗になるまで公園にいてさ」 覚えてる、と問われて呼吸が止まりかけた。 忘れるはずがない。あんなにも思い出深い夜を、記憶の海から蹴飛ばす事なんてできなかったから。 滑り台とベンチ、それから小さな家に似た遊具があるだけの、ささやかな空間。 真っ先に隠れ場所となり得るプラスチック材で作られた家の中へと進んで座り込む。 正式な名称は知らないが、今にしてみればダンボールハウスに近いものがあった。 遠い過去とは思えぬほど鮮明に目蓋の裏へ映りこむ風景が、私の心を乱暴に掴んで離してくれず、瞬きする間もなく猛烈なスピードであの夕暮れに連れていこうとする。 「何があったか知らないけど、もうあんな事しちゃダメだ」 「………お化けが出るから?」 「は幽霊の類を信じてないんだろ? 人間のヘンタイが出るからだって!」 私の物言いで幼い日々を共有していると確信したのか、間髪入れず笑顔を見せながらサエが言う。 繋いだ手を握り直されて、元よりほとんど存在していなかった距離が更に縮んでなくなった。 「隠れてるから危なくない」 「いや、隠れてたって危ない」 一方の私も唇がゆるむのを止められない。 危急の事態だとばかりにがなっていた心臓は今や心地よい音を奏で、二人分の体温で籠もる掌の熱をずっと味わっていたいとそっと願い、耐え難いはずだった真冬の風も気にならなくなっていた。 防寒具の上からなので触っている実感は薄いが、お腹辺りを押さえてみる。 「あの時みたいに鳴ったりしないから、やっぱり空気読んでくれないね」 「そこまで忠実に再現しようとするなよ」 「サエ、今日の晩御飯は湯豆腐?」 「さては俺んちまで巻き込むつもりか。随分粘るなあ、」 どうしたの。 やわらかな声色が鼓膜を押す。 「そういえば今日は昔の話ばっかしてるもんな。懐かしくなっちゃった?」 「…そうなのかも」 「じゃあ行ってみない?」 「え?」 前後が繋がっていると見せかけておいて断ち切る、あっさりした口調だった。 思わず聞き返すと、少々背を屈めたサエの綺麗な瞳とかち合う。 陽光を吸って反射する様は、語らずして慶事を祝うよう。眩い輝きに満ちている。 「俺、ディフェンディングチャンピオンなんだ。トーナメント制で、今年はみんなが勝ち上がってくるのを待つだけでね」 「チャンピオンって…一体なんの?」 「凧揚げ」 「あのね、凧揚げでどうやって優勝者決めるの? 審査員もいないのに。もう、相変わらず意味わかんない遊びしてる!」 下手すると負けたら寒中水泳だなどと言い出しかねない面子が勢揃いなので、私は9月からこちら、彼らが集まって大はしゃぎする都度気が気じゃない。 TPOをきちんと弁えているようで実際のところ怪しい時もあるサエは、私の心配を知ってか知らずか屈託なく笑い出す。 それからまた触れるだけのキスを落として来、今度は甘いと騒ぎ立てず、とても近い距離のまま静かに囁くのだった。 「今年も勝って、みんなに祝って貰うつもり。けどは参加者じゃないじゃん? だからはで別に祝ってくれよ。夕方、陽が暮れてから。あの公園でさ」 「……サエの方こそ懐かしくなっちゃったみたいなんだけど」 「あれ、バレたか」 「バレバレだよ! あと今の……外でいきなりするのやめて!」 「今のって、何が」 「だ、だからそれは…キスとか。他に誰かいるとこでするの、なしだよ」 「なら隠れてする?」 「え!?」 「あの時、夜まで二人でいたとこだったらちょうどいいんじゃないか」 「…バカ。何言ってるの」 「ハハ! うん冗談。今一緒に入ったら潰れちゃうもんな」 問題はそこじゃない。 声にするだけの気力は残されておらず、言いだしっぺのくせして後腐れなく退くサエの爽やかさがなんだか憎らしかった。 年明け早々、今となっては遙か昔の思い出話に感化され、心が幼い頃に戻っているのかもしれない。 馬鹿馬鹿しいやり取りだとわかっているのに、ずっとこんな風にぐだぐだと話し続けていたいだなんてどうかしている。 本当にバカみたいだ。 子供っぽいし、気を引き締めるべき元日に交わす言葉でもないだろう。 容姿からは想像がつかぬほど力強く私の手を引くサエが、いつの間にやら辿り着いていたゴミ捨て場前で立ち止まり、専用の箱へおしるこの空き缶を放った。 何から何まで主導権は彼にある。 この世話の焼かれようは、彼女として真剣に向き合わなくてはならない重要事項だ。 手始めに、六角テニス部による凧揚げ大会に飛び入り参加し、サエが持つ前年度優勝者という称号を奪おうか。 一等特別な私の幼馴染は、それでも尚笑顔のままかもしれない。 優勝賞品を考えないとな。 悔しさなんて1ミリも垣間見せずにさらっと言ってのける可能性だって大いにあり得る。 そうしたら言ってやるんだ。いつもみたいに先回りなんてさせない。自分だけが覚えているだなんて思ったら大間違いだ。 私の言う事を絶対聞くように。 サエ。 さっき言ってた公園に行こう。できたら夜まで一緒にいて。 サエが私を受け止められるくらい大きくなったのだとしたら、私だって簡単に潰れたりしない程度には成長したはずだから。 でも潰れたっていいよ。あの頃より体も心も大人に近づいた私とサエで、ちょっとだけ入ってみようよ。 小さな、おままごと用みたいな家に、冴え冴えとした星が夜空を彩るまで。 あの日、二人で過ごした宵に還るまで。 何でもいい。たくさん話したい。キスだってしよう。 そういうお正月だって、たまにはいいよね? それで私に、私だけにしか聞こえない声で囁いて。 ほら、。一緒に帰ろうよ。 |