なみはや事始 「白石君、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」 「おう、おめでとう。なんやえらい丁寧な挨拶おおきに。俺の方こそよろしくな」 待ち合わせ場所に駆け込んだ私が改めて挨拶をすると、背の高い人は微かに白い呼気を散らした。 私だってたまには先に着いて、白石君はまだかな? なんて落ち着かない気持ちで待ってみたいのに、二人で出掛ける時はほぼ100%の確率で遅くなってごめんなさいの一言を口にしている。 俺が早く着いてしもただけや。おかしいなぁ? 完璧に逆算して家出たはずなんやけど。 そういう時、決まってこちらの謝罪を柔らに逸らす彼は、目尻から力を抜いたあたたかな微笑みで私へと声を落とすのだ。 聖書にも筆の誤りて言うやんか。 忍足君や一氏君からは、8割方イマイチ、キレが悪い、純粋におもろない、等々酷い評価を下される白石君流のボケも、私には一等の優しさに見えてしまう。 聞いた事ないよ、そんなの。 笑声を零して告げれば、さんももうちょい厳しめにツッコんでええんやで、と転校して一年にも満たぬ私にアドバイスをくれるのだった。 曰く、大阪や四天宝寺中でその対応はノリが悪いと誤解される可能性が高い。 他意がない事はよく理解している。 別段ノリが悪いわけでもないだろう。 だが、場所や性格を考慮するとオーバーなくらいが私の場合丁度良い、らしい。 白石君は時々、私の事私よりわかっているみたいだね? 事細かな指摘と助言を受けるさ中、内心感嘆しながら、じんわり満ちて来る喜びに唇を溶かして言う。 そんなわけあるかい。いまだに謎だらけや。お陰で俺はいっつも迷っとる。 もうちょい優しくしてくれへん、冗談めかして揺れる声が耳の底まで響き、釣られて頬に笑みが灯る寸前、体ばかりか心にまで触れられ一瞬呼吸が止まった。 せやから俺に教えてな? 何でもええよ。さんの事、知りたい。 密やかに零れた音がいつまでも消えないで、七夕の頃から続く日々は重ねても重ねても色褪せず、とりどりの豊かな幸福が増えていくばかりだ。 そういった私の感慨を、学校内では勿論の事、ひと度外に出たらば最後、たくさんの視線を集めであろう人がそっと打ち砕く。 「こっち」 待ち合わせ場所で余程居た堪れない思いをしたのか、どことなく困り顔である。 女の子から声を掛けられるのが苦手だと言って憚らぬ白石君の事だ、何が起きたのかは想像に難くない。 うん、と頷いて誘われるままに差し出された手に指を置いた。 優しく握り込まれて、その温もりに体の芯がほどかれる錯覚に陥り、息を詰めて耐える。 時に健康オタクとまで揶揄される白石君は、厳冬期に私が手袋をせずとも決して責めない。 言葉という形にはならない、彼らしからぬ行動に纏わる不思議に一層頬が緩んでいく。 触れる熱と肌の感触は特別だった。 他の誰と手を繋いだとしても、ここまで大切に思える瞬間は訪れないに違いない。 だから私は、冷たい北風に吹かれようとも、はたまた大阪では珍しい雪が降ろうとも、指先を温める防寒具の一切を拒んで、白石君をよく知る人からは不可解に映るであろう無駄を味わいたくなってしまうのだ。 「せやけど、ちょっと残念やな」 人通りの多い場所から少し離れた辺りで手を繋ぎ直し、私の指の甲をそっと撫でた白石君が、やっといつもの表情を取り戻して言った。 会話の始まり方が唐突だったので、心当たりのない私はつい小首を傾げる。 「残念?」 「晴れ着で来てや」 「……うん?」 「頼めば良かったなぁ思て」 一言ずつ軽く紡いではいるが若干本気の後悔が感じられ、思わず吹き出した。 薄曇りの空の下、冷えた空気に濁る息が散らばって消える。 「頼まれても無理だよ? 着付けなんか出来ないもの」 「わかっとる。けど言うだけ言ってみたら、自分頑張ってくれたんとちゃうん?」 「私、白石君の中でそんなに健気な子になってるんだ」 「なってます。それも、大分前からな。っちゅーか今の、うんそうかも、て言う所やないんかい思います」 こちらの悪ふざけに乗っかってくれる白石君は大阪訛りの敬語を供に、勝手知ったる様子で通行人を避け、私の知らない道を進んでいく。 「私が晴れ着なら、白石君も紋付き袴じゃないとだよ」 「いきなりたっかいハードル出してきよったなぁ、さん」 「だって時期も微妙に過ぎてるのに、私だけばっちりお正月仕様なんて恥ずかしいよ」 「その赤信号皆で渡れば怖くない理論、やめや。危ないで。しかも俺、巻き込まれ事故に誘われとるやん」 「多分、事故は起きません」 「ハイ根拠がありません」 「……白石君の紋付き袴、似合うと思う」 「はは、おーきに」 のんびりとした口調は、陽の光が弱い午後、頬を切る風の冷たさと裏腹にこの上なくあたたかだ。 呼吸に連れ添う薄く濁った白が口元を染め、一秒ほどで消えていく。 目抜き通りから一本外れた路地に入っただけで人影があからさまに減り、賑やかな空気はしんと張り詰めたものへと変化して、二人分の足音が鼓膜を震わせていた。 静かに息を吸い込めば冬の匂いがする。 昨晩の天気予報だと、お日様が出る時間帯はあたたかいでしょう、ただ雲の多い時間帯もありますので防寒対策は万全に、との事だったが、おそらく今の時刻は後者なのだろう。 前日まで悩み迷ったけれど、やはりこの恰好で来て正解だったと独りごちる。 引退したとはいえテニス漬けの白石君に冬休みなどあってないようなもので、私も私で関東地方の祖父母宅で過ごしたから、付き合って初めてのお正月は見事にバラバラだった。大晦日も初詣も、遠く離れた場所で各々迎えたのである。 勿論、連絡はしていたけれど、ほとんど毎日学校で顔を合わせていた日々に比べると格段に味気ない。 家族や親戚と出掛けた真夜中の初詣の途で、全く思い出さなかったと言えば大きな嘘になる。 厳かな雰囲気に耳を澄まし、辺りに散らばったさわさわとした話し声の中で浸っていると、頭上に吊るされた提灯の暖色が目に優しい。 底の見えない暗い夜空に浮かび上がるそれらの光はか弱くとも、不思議と心に残った。 大阪とは質の違う冷気に晒された深夜の神前で、白石君は今頃どうしているかな、と思いを馳せた私は罰当たりの不届き者だ。 わかっているのに考えずにはいられない。 規則正しい生活を送る人だからもう寝ているだろうか、それとも大晦日は特別だと夜更かししているだろうか、部活があってもなくても変わりなく仲良しなテニス部の人達と一緒かな、すぐさま正解の得られぬ疑問を胸の内で揺蕩わせる。 年始の挨拶を気軽に交わせる距離にいない事が淋しくて、だけれどお陰で心の中心にはいつも白石君が居ると思い知らされ、容赦なく鼻腔を凍らせる冬の風の所為で視界が潤んだ。 こんな気持ちで迎える年明けは初めてだった。 学校が始まって、どことなく面映い心地で顔を合わせる。 今ではもうすっかり馴染んだ通学路、冷え冷えとした空気、それらを柔らに切り裂く低い笑い声が耳に甘い。 お互い休みの間何をして過ごしていたかぽつぽつと話し始め、会えなかった分の時間を埋めていくと、さぞ賑やかだったであろう光景が白石君の声を得て瑞々しく蘇った。 実際自分で目にしていないのにもかかわらずやけに鮮明なので少し困って、でも時々我慢の堰を越え笑ってしまう。 良く晴れた新年初めての登校日、穏やかな陽射しを一身に受け、輝きに瞳を染めた人が尋ねる音程で零す。 自分はどうだったん、正月。ゆっくり休めたか。 先生じみた質問にまた頬を緩ませ、うん、お陰さまでね、とくすぐったさを感じながら嘘をついたら、妙に上機嫌に見えたのかもしれない、目を瞬かせた彼はゆっくりと表情を微笑みへと変えた。 いや、俺何もしてへんけど。 そうして白石君の話、声を聞いているだけで満足してしまっていたのだが、私も彼もとっくに済ませていたお詣りを改めてしないかと誘われたのは、三が日どころか1月も半ばに入ろうかという頃だった。 初めは氏神様にご挨拶せんと初詣とは言えんやろ、と信仰心の厚い発言をしていた白石君だったが、最終的にはテニス三昧で日頃デートらしいデートが出来ぬ事を気にしてのお誘いなのだと言外に告げてくれる。 そんなの、気にしなくていいのに。 思いがしたが口にはしない。 時間を作ろうとしてくれる白石君の気持ちが嬉しかったし、一緒にいられる休日を無下にする理由なんてこれっぽっちも存在していないからだ。 ふと、好きな人と別れて味わった正月気分を遡って再生する最中、もしかして晴れ着を話題に出したのは一種の気遣いなのだろうか、解に辿り着く。 日本代表に選ばれたあげく海外合宿にまで行く程のプレイヤーである彼は、多くの人が想像する通り忙しい。加えて、テニスに賭ける情熱は大阪一なんじゃないかと私は考えている。卒業を約二ヶ月後に控え、積もり重なる予定もあるだろう。 諸々の事情があり、お正月っぽさを二人きりでは経験せず見送ったので、彼なりに取り返そうとしているのかもわからなかった。 いつかと同様の囁きが胸を濡らす。 そんなの、気にしなくていいのに。 だけど気にしてくれてありがとうとも素直に追従させる。 一歩進む毎に、時が経つにつれ、心の深いところまで染み込んでいく想いで、指の一本一本、爪先もあたたまる感覚を抱いた。 ついさっきは、靴擦れしないように履き慣れたブーツに冬仕様のデニム、厚手のコートにマフラーと着膨れた出で立ちを正解だと信じていたのに、級友曰く健康オタクの白石君に怒られたとしてもスカートを選べば良かった等という後悔が押し寄せて止まない。 折角久しぶりのデートなのに、可愛くない事をしてしまった。 ごめんね、と誰に伝えるでもなく、言葉にもせず呟く。 代わりに繋いだ掌に力を籠めれば、隣を歩く彼が僅かにペースを落として不思議そうに首を傾けた。 「まだ手ぇ寒い?」 直に触れている白石君が私の手の温度を知らないはずがないから、本当に訳を探しているのだろう。 「ううん。寒くないよ。大丈夫。ありがとう」 ともすれば震える声をなるべく大事に発するのが精一杯で、後はもう何も言えなかった。 ※ 一年で最も賑わうに違いない時期を外れた境内は、夢の中みたいに静まり返っている。 社務所に人はいるものの、寒さ対策にか窓はぴったり閉められていて、不意に吹きつける凍った風が二人ぼっちの私と白石君を急き立てた。 相変わらず恩恵の感じられぬ日光がお社までの参道をうっすら照らし、敷き詰められた玉砂利の所々にどこからか飛んで来た枯れ葉が挟まっていて、敷地の隅にてそびえる古木は植物にも厳しい冬にじっと耐えているよう映る。 車の排気音が遠くで走り去っていく。 羽ばたく小鳥の囀りが降り落ち、釣られて見上げるも既に姿はない。 約束をした時、大阪にいなかった私はいいけど、白石君は同じとこにお詣りに行く事になっちゃうんじゃないの? 何事も完璧に、をモットーに企てる人へ疑問をぶつけたらば、その辺は任しとき、俺に抜かりはないで、柔らかく且つ不敵な表情で宣言されたので、ここの神社に決めたのは白石君だ。 先入観込みで受け取るつもりはないが、それでも彼が案内してくれたのだと思うと特別に見えてしまうし、視線は様々へと向けられ休む間がなかった。 仰いだり横へ逸れたり見下ろしたりと、大忙しだ。さながら知らぬ街へやって来た遠足の小学生である。 緊張感も抱かず傍にいる人が誰かも忘れ、眼前に広がる風景を夢中で脳裏に焼き付けていた所、お詣りする直前だというのに思いきり笑われる。 「さっきからどないしてん、さん。神社に初めて来た外人さんやないんやから」 意識外からの指摘に私はみっともなく慌てた。 「えっ! そ、そんなにキョロキョロしてた?」 「しとった。ついでに口も開いとったで」 「うそ、ほんと!?」 「嘘つくとこちゃうやろ。…あ、隠さんでもええのに」 残念そうに言われても己の間抜け面を観察されていた可能性が急浮上した今、そうですねそうします、等と従うわけにはいかない。 繋いでいた手をぱっと離し、片方だけで押さえていた唇を両の掌で覆い、背の高い影を睨む。 「……もっと早く教えて欲しかったです」 「そか。ごめんな、言うんが遅うて。さんの事になるとのんびり屋になってまうねん」 俺としては別になりたないんやけど、と事も無げに続ける人の髪や頬、輪郭が建物の下に踏み入った所為で陰った。 目の下に伸びる、睫毛がどれだけ長いかを語るしるしが憎らしい。 さんといつも品の良い音を紡ぐ唇は柔らに曲がっていて、こちらを見遣る視線が自惚れるなと幾度となく戒めても格別あたたかく感じられるから、私の心はあっという間にふやけてしまう。 「じゃあ、白石君、スピードスターの忍足君を見習わないとね?」 紡いだ声は、吐息で湿る指でくぐもって響く。 「なんや、俺にあない気ぃ短い男になって欲しいんか」 返す白石君は目元から力を抜き、いかにも愉快げに肩を竦めた。 「それを言うなら、私、そもそも白石君をのんびりって思った事ないけど」 「そやなぁ。のんびり屋さんは俺やない、自分の方やしな」 「………そんな事ないもん。普通だよ」 「さん、眉間に皺が寄ってます」 「寄せてるの! もう…時々そうやって面白がって敬語使うの、やめてって言ってるのに」 思わず塞いでいた手を除け、やや気色ばんだ声を上げたのち、はっとする。 他愛ないやり取りが嫌いなわけではないが、神さまの前でやる事ではなかったかもしれない。 私のひと睨みや抗議を物ともせずやんわり笑う白石君を置いて、小ぢんまりとした、でも荘厳な雰囲気を纏った拝殿と意図的に伸ばした背筋で向き合った。 咳払い代わりに深呼吸をすると同時、白石君が忍ばせていた手をポケットから抜いたのを視界の端で確認する。 「ほな、真面目なさんに嫌われたないから正直に言おか」 「…そこまで真面目じゃないし、嫌いになったりなんてしないけど聞こうかな」 「はは! わかった、降参や。俺の負け。負けでええから聞いたって」 人っ子一人いない境内で良かった。お陰でどれだけ長話を繰り広げようと叱責を受ける事はない。全てを見通す神さまには、顔を顰められているかもしれないけど。 ちらと目線を走らせ様子を窺えば、真っ直ぐ前を向いた横顔が角膜へと滑り込んで来た。 「俺、前にな、のんびりし過ぎで後悔してん。…暢気に待ってる場合ちゃうかったて、何度も。あれもっぺん繰り返せー言われたらめっちゃキツイけど、そやかて焦っとるとことか見せたない。かっこ悪いやろ」 私の方を向かずに呟き落とす白石君越しに、冴えない空模様を思わせる情景が垣間見える。 「のんびりのさんを急かすつもりもほんまにないねや。さんはさんのまんま、俺の傍におって」 丈の低い、冬枯れの草木が冷たい風に揺れていた。 弱い陽射しを玉砂利の白が反射する。 淡い光の揺蕩う様が、目の薄い膜を通り越して網膜を焼いた。お社がつくる柔らかで儚い影を被った人の唇からすぐ消えてなくなる吐息が零れて、どうしてか胸が締め付けられてしまう。 「その為に、これからも精一杯頑張ります」 真剣味を帯びた声音が凛と奏でられ、 「…っちゅう、新年の抱負?」 嘘のよう溶ける。 気を抜いたのだと嫌でもわかる解けに解けたかんばせが、その場に縫い止められたみたいに動けない私へと向けられた。 「…だから……お詣りしようって、言ったの?」 高鳴る鼓動に気圧されもたついた声帯でやっと尋ね返す。 「んー、まぁそれもあるな。神前で口にした方が俺の本気が伝わるかな思て」 「………神社に来なくたって、白石君の言う事が嘘かほんとかなんて…私、わかるよ」 「そっか。そら嬉しい限りや。ありがとう。けど今回はさんがどうこうっちゅう話やなくて、俺がしたかってん」 「……神さまの前で新年の抱負を言う事を?」 「それとさんの前で。あ、正確には横か。…いや隣て言い方のがええな」 私には想像もつかぬタイミングでよくわからない細かい拘りを見せ出すから、緩む頬をどうする事も出来ない。 胸を打つ心臓の音が心地良かった。 温もりを失った指先は冷えた風に嬲られているはずなのに、ちっとも寒くないのが不思議だった。 人がいないとはいえ、神前で長々と立ち話をし浮ついた心持を正せずにいる私は、誰がどう見ても礼を欠いた不埒な輩だ。本格的に罰が当たるかもしれない。 脳は新年早々おめでたくない事を連想しているのにもかかわらず、心の方は今にも飛び立ちそうなくらい軽やかに彼の言葉を追い掛ける。 噛み締めると、体の奥に落ちていく。 光薄き冬の午後が白石君を境に輝いて、瞳一面に眩く映えた。 「…あのね。それ、神さまにお願いしないでね」 叶わなかったら嫌だから。 堪え切れなくなって、大好きな人の目を見詰める為に捻っていた首を真っ直ぐ戻す。 再度、拝殿と向き合い、心新たに気構えをした。たとえ形ばかりといえども、白石君と初めての初詣だ。私なりに気合を入れて取り掛かりたい。 呟いた一声は聞こえるか聞こえないかが怪しい線の音量だったのに、隣の彼は余す所なく聞き届けたらしい。 ん、わかった。誰にも言わへん。 甘い返事が片耳に触れてよろめきかけたのを必死に留める。 「けど一つ条件出さして貰うで」 不穏な物言いに目だけを滑らせると、似通った姿勢で私を見る横顔の白石君がいた。 「俺の神頼み封じるんやったら、代わりにさんがちゃんと聞いとかなあかん。どや、プレッシャー半端ないやろ? 大丈夫か?」 私が何と答えるかわかった上でのからかいとしか思えない。 むっと眉間を強張らせ、随分手心の加えられた挑戦状を受け取ってみる。 「私、白石君の神さまじゃないよ。白石君こそ私にお願いしちゃっていいの?」 「構へん。第一、さんは神様以上にえげつない強さで俺の心抉るやんか。お願いかて叶えてくれるんちゃうかな」 どういう意味、我を忘れて反射的に返そうとしたその時。 「……あの時みたいに」 穏やかな声に見事射られ、喉元辺りでくすぶっていた息と言葉がたちまち蒸発してしまう。 「俺の願い事叶えんのは神様やない。頼まれてくれるのも、聞いてくれるのも、七夕からずっと一人だけなんや。覚えといてくれへんか。これもついでの、お願い。まぁ神社に来てまで言う事とちゃうけど。流石に罰当たるか」 しもた口滑ったわ、等と平然と続ける人だ、心の底から神罰を信じているようにはとても見えない。 「それに、基本に忠実な四天宝寺中の聖書やからな。なんにしても確実にほんまの事にしたいねん。……なぁ、せやからいつもの口癖言うてや」 何故か込み上げる涙で視界が透明に濁る。 木柱や冬景色、眼下のお賽銭箱、錆び色の大きな鈴と朱と白に染め上げられた太い紐、頼りない影、いつの間にか体ごとを立ち尽くす私に向けた白石君の輪郭、全部がぐにゃと曲がってぼやけた。 目元にありとあらゆる力を注いで、絶対に泣かないで最後まで言う、強く言い聞かせながら決壊寸前の唇を開く。 「…………うそ、ほんと?」 「うん、ほんま」 間髪入れずに戻る言葉と綻んだ笑顔が、そんな私の痩せ我慢をいとも容易く打ち砕いた。ぽろと伝ったひと雫が頬に熱く、拭って擦ったらやんわり宥められる。 顔真っ赤にして泣く事ないやんか、ほんま頼むわ。さん、俺の神様やねんから。 だから神さまじゃないって言ったじゃない。さっきと言ってる事微妙に違うよ。 涙で濡れそぼりたわむ声で跳ね除けたはいいが大した攻撃にはならなかったのだろう、相も変わらず優しく微笑む白石君が少し屈んで囁き零した。 「俺ティッシュ持ってんで。鼻水出てもうたら恥ずかしがらんと、きちんと申告してな」 「……出てないもん」 「出てきよったらの話や」 「……出さないもん」 「そんなら万が一」 「臆が一にも出さないよ!」 羞恥心を刺激するイジリとやらに憤慨し結構な音を立てて鼻をすすると、近頃、時たま悪戯っ子の眼差しで私を見るようになった人が声をあげて笑う。 新年始まったばっかで元気なさん見れてなんや安心してもうた。 冗談抜きで不届き者の罰当たりかもしれない。私も白石君も拝殿を目前にして好き勝手振る舞い過ぎだ。ろくでもない輩だと叩き出されたとて反論は出来ないだろう。 どうやら白石君は聖書だなんて尊称されているのに、信心深い方ではないらしいから構わないのかもしれないが、ごく平均的に信じている部分もある私としては揃って天罰に苦しみ喘ぐ、という類の悲劇等とは無縁でいたいのである。 もし天罰が不可避と言うなら、せめて将来有望なテニスプレイヤーである彼にだけは御慈悲を。 混乱のさ中決意した私は最後に目元を一拭きし、失礼な事をしてしまってごめんなさい、二人分謝りますからどうか許して下さい、と鎮座する神さまへ一心に祈りを捧げるのだった。 ※ なんとか落ち着きを取り戻し、色々な意味で乱れた心を整えたのち、初詣と呼んでいいのか判ずる事の叶わぬ初詣を済ませた。 熱意を持って許しを乞うあまり白石君には、自分どんだけ無茶な願掛けしたん、ツッコまれたけれど内緒の一言で封じる。人に話して叶わなくなったら困るからだ。 それから、居並ぶお守りや根付を眺めつつ、おみくじを引いた。 結果や記されている内容を肩寄せ合い見比べ、一喜一憂する。 半月遅れで正月行事を執り行っているようだ、場違いだし空気を読めていない気もするがどこか面映く心躍る。 そうしてはしゃぐ内に、塩辛い涙の跡もすっかり乾いてわからなくなった頃。 朱塗りの鳥居をくぐり抜けた辺りで隣をゆく白石君が、 「よし。次行こか」 仕切り直しや、言わんばかりに宣言するので思わず目を丸くしながら問うた。 「どこ行くの?」 「さん、昼飯は?」 「えっと、食べてないけど……」 「なら決まりやな。オススメのお好み焼き屋、教えたる」 なるほど、今日のデートコースはそういう事になっているらしい。 自分俺の腕前知らんやろ、言うとくけど作るんめっちゃ上手いで? 行きに辿って来た道とは別方向へ歩を進めながら誇らしげに語る、罰当たりかもしれないけど私にとってはとても大切な人の薄い目蓋の奥、さやかな光が差したまなこが綺麗だ。 見上げ捕らわれる私は隠さずに笑う。 「もう、私が本当に着物で来たらどうするつもりだったの? 晴れ着でもお好み焼き?」 「アホ言いなや、ケースバイケースで対応するに決まっとるやん。さんが何着て来ても、バッチリ合うコース考えるわ」 おそらく、今の言葉を文字に起こしただけでは不遜に聞こえるのだろう。 だけど白石君の言い草や声音が加わると途端に優しくスマートに響くのだから、全くもって油断ならない聖書である。 普通でもいい、完璧じゃなくてもいい、とあれだけ心を伝えたのに。 前に私が言った事、覚えてる? からかいの色を混ぜ、つい先刻の白石君の言葉通り『えげつない強さで抉って』みようかと一瞬考えてけれど、やめておく。 自分のそれよりずっと大きくて、日がな一日ラケットを握っているから凹凸の消えない、テニスをする為に在る掌が差し出されたからだ。 求められるがままに重ねる。 触れるとかさついていて熱っぽい。 固く引き締まった指の付け根が外気に晒され温度が失われた私の手に沿って滑り、やがて丸ごと包まれた。 やっぱり白石君は何も言わない。 絶対に責めない。 黙して冷えた肌を握り込むばかり。 今でこそ自然に繋いでいるが、妙な緊張感が消えるまで相応の時間を要した。 意識するからおかしな空気になるのだとわかっているのに、タイミングが掴めない。 口にするのが先か、はたまた行動に移す方が手っ取り早いのか、悩んだあげく機を逃す。じいと見詰めるだけで精一杯、指先を絡める事すら躊躇ってしまう。 だけれど触れ合う瞬間が訪れないのかと問われれば否、男の子と付き合うなんて初めての私は当然色々と不慣れで、大抵想像だにせぬシーンで掴まれ捕らわれ心臓の震えに脅かされた。 たった一人の熱を感じる時間はいつ来るとも知れず、故に貴重なのだ。 だからひと欠片も零したくない。 遮るものは出来得る限り取り除き、直に触れたい。 願いの芯は太く、私の決意も硬かった。 広葉樹が秋に染まり、やがて灰色じみた冬が来て最低気温を更新する寒さが続いても、私は手袋をして来なかった。 勿論、気付かず過ごす白石君ではない。 度々、指摘を受ける。その都度頭を働かせてすり抜けを試みる。 玄関に用意までしていたけど忘れた、そこまで寒くないと思った、夜に雨が降るから濡らしたくない、手を変え品を変え、やんわりとした攻防が数週間と続き、いよいよ痺れを切らしたらしい彼が私の剥き出しになった手を指してひと息に言い放った。 コラ、ええ加減にしなさい。手袋の何がそんなに嫌なんや。 我ながら苦しい言い訳だとわかっていたので、気分は断崖絶壁へと追い遣られた犯人である。 嫌じゃないだのなくても大丈夫だの寒くないだの散々言い淀み、ならば原因は何処かと追及する白石君が学校の先生を通り越してお母さんに見えて来た頃、私は観念し自白した。 手を繋ぐ時、手袋していたくないの。だって滅多に繋げないから、勿体なくて。 他人からすれば馬鹿馬鹿しさの極みたる告解をし、気まずさに下へと落ち窪んでいた目線を恐る恐る上げると、ぽかんと大口を開けた白石君とかち合う。居た堪れない。 ごめんなさい、と蚊の鳴くような声で付け加え、冷気と沈黙の積もった廊下の窓際で佇んでいた。 これなら、しばらくそこで立っとれ、わかりやすく叱責を受けた方がまだましだと思い始めた時、不意に眼前の人が身じろぎする気配が頬を撫でる。 「………アホ……」 彼らしからぬ弱り果てた声だった。 意識の及ばぬ部分で引き寄せられた私はいとも簡単に頭を持ち上げてしまう。 包帯の巻かれた握り拳に額を当てた白石君の頬と言わず耳と言わず、太く筋張った首にまで赤が広がっている。 左手に隠れているから表情は読めない。 二文字を溢れさせたきり閉じた唇が、掌の傘の下で影を帯びていた。 先程の白石君の真似ではないが、今度ぽかんと大口を開けるのは私だった。 何度目を瞬かせても、黒の学ランに首から上を真っ赤に染め上げた人の色彩は消えていかず、鼓膜を静かに弾く空気の音が白昼夢ではなく現実だと語り掛けてくる。 完璧なテニスを目指し聖書とまで呼ばれるようになった彼の象徴たる、いつ見ても真白い包帯が数センチずれて、露わになった片目と出会う。形の良い眉は上がるか下がるかを迷っているらしい。 どこか拗ねた風にこちらを見遣る瞳が、窓から差す陽射しを反射している。 綺麗な眦は一等朱に塗れ、我知らず見入ってしまい、私の中で長い尾を引いて残った。 瞬間、体の奥を暴力的なまでの熱に焼かれ、あ、とまるで意味のない言葉を零しかけたら、目の前の彼が降らせる頼りなげな声に呼吸ごと断ち切られてしまう。 急に反則技出してくんのやめてや。心臓に悪い。 私は、白石君の方がよっぽど反則だ、沸騰する胸の内で呟いてただただ赤面したのだった。 思い出すだけでこそばゆくなる記憶と一緒に、完璧じゃなくても神さまじゃなくたって私の取るに足らない願いを聞き届けてくれる、『普通に普通の事を考える』白石君の手をぎゅっと握り返す。 弾む息が風に流れて棚引いた。 視界が薄く濁ってすぐさま晴れる。 天気はいまいちでも、どんなに寒くても、上向く一方の気持ちは何よりも強い。 押し殺せない喜びをそのままに半歩分近付き、心を籠めて背の高い人を見上げ、何か言われる前に笑ってみせれば同じように綻ばせた表情を返してくれる。 映画の美しいワンシーンめいた煌めきに彩られた情景を見、天啓に打たれたよう突如として考え至った。 私の一月一日は今日だ。 また頬がだらしなく緩む。 訳もなくおめでとうと口にしたい衝動に駆られる。 のんびりとした二人分の足音が耳に好く、少しずつ速度を上げる鼓動に一切苦はなく只管喜ばしい。 騒がしくも愛おしい、私と白石君の真新しき一年は、こんな風にゆっくり始まっていくのだろう。 |