▽春衣

春はあけぼの。
春眠暁を覚えず。
あとなんだっけ、何かあったっけ。
段々と濁る意識の所為で言葉が埋もれていく。
窓から陽の光がまろやかに差し込み、机の上に乗っかった指先までをもあたためる。目に映る景色はどこか柔らかく、においさえ春めいている気がした。
目蓋がとてもゆっくりと下がって、持ち上げるのにも一苦労する。まばたきはこんなに億劫なものだったか。自分の体の一部なのに言う事を聞いてくれず、ダメだと己を叱咤すればするほど抗い難い誘惑に負けそうになってしまう。
つまるところ今の私は、

「眠い?」

そういう事だった。
少しの笑みを含んだ問いにも上手く答えられず、ぼんやりと頷く事しか出来ない。
よき彼女を心掛けるのであれば、大丈夫、平気、とでも言うべき場面なのだろうが、元より高性能な頭ではない、そこにまどろみ鈍っている現状が加わるとなると上等な返事はほぼ不可能だ。
向かいの席で書き物をしている人は、さらさらと流れる手つきでペンを進めていく。

「昔から、春になると眠そうにしているものね」

伏せがちになった睫毛が女の子みたいにしなやかだった。
絶え間なく襲う眠気と格闘せんと机上に肘をつき、目尻の皮膚を真横に引っ張っている私とは大違いである。溜め息も出尽くして在庫切れだ。
ものすごい顔になっているであろう私へ目を向けた精市くんが、変顔の練習かい、と笑って言った。
この際極めてやろうか、やけくそになって一瞬真面目に考え、手の力を抜いた。

「…あったかくなると眠い」
「授業中は我慢してたのに?」

相変わらず見てもいないくせして、ぴたりと言い当てる。
いわゆるお付き合いをする前なら超能力者かと恐れた所だけど、そうでない事をもう私は知っていた。
彼はそれだけ物事をよく見た上で理解し、自分自身も相手も等しく信じているのだ。
揺らがないものがあり、その中に抱え込まれる誉れは、どれだけ時間が経っても色褪せない。
昼日中の陽射しに透ける髪が柔らかそうだと思うでもなく思い、病室で会っていた時期やを中学生の頃を振り返ればすっかり男の人らしくなった頬や顎を黙視した後で、ここ最近急に上昇した気温に唆されでもしたのか、珍しく目に見えてゆるんだネクタイと第二ボタンまで開いたシャツの奥、ほのかな影を纏う鎖骨まで視線の先を伸ばす。
ああ、精市くんがいるな。
頭の中で脈略なくふやける声を辿り、それからこみ上げる羞恥に動揺した。
神の子に比べれば取るに足らない人の子が、何をすんなりちゃっかり理解し信頼を置いている、という仮定に己を含んでしまっているんだ、猛烈に気恥ずかしくて、別に授業中だって眠かったけど、と愛想なくこぼしながら両目を掌で隠した。

「ていうか我慢するから眠いんだよね……。そもそも眠くなきゃ我慢する必要だってないのに、眠くなるのが悪いんであって、私も先生も…授業も、悪くないよ」

あれこれ何を言おうとしてたんだっけ、再び霞み始めた頭が微かに重く、こんがらがった思考の紐を手繰っていたらば、紙面に書き記される文字の音が途絶え、顔、ひいてはそこを半分ほど覆った指へと視線が当たっているのに気がついた。なんとなく頬が熱くなる。

、寝惚けてるだろう」

言ってる事が滅茶苦茶だ。
滲んでそこかしこに溢れている笑みが胸に響く。
声音はやたらと甘かった。最後にこぼれた笑声が弾んでいる。
こう表現するのが正しいのかは非常に怪しいけれども、楽しそう、というのが一番相応しい気がした。
したのはいいが、相変わらず理由がわからない。

「いいよ別に滅茶苦茶でも。外に出てちょっと冷えれば目も覚めるし、平気」

わからない事を今、この状態で突き詰めようとしたって無意味だろう。
何にせよ眠いのは本当だ。刃向かい、抵抗した所で体が芯から重くなるほどの眠気が消え去るわけでもないし、精市くんの時に鋭すぎる眼を欺けるわけでもない。
今しがた回答を打ち返したのは自分自身だというのに正解か不正解か判断がつかず、すべてがゆったり霞むような空気を食んでいる内に諦めの境地へと達し、そろそろと目の前の手檻を外せばこちらを見澄ます眼差しとかち合った。
指と指の隙間から見える精市くんは、剥がれない視線の強さとは似ても似つかぬ優しい色をした瞳を細め、音もなく微笑んでいる。
頬杖をついたおかげで傾いた顔の角度が柔く、やけに胸を打って、余波か何かだろうか、ものすごく居心地が悪い。何も変わっていないはずの椅子がいきなり座りにくくなった。

「……何がそんなに面白いの」
「面白くはないよ」

よどみなく答えを降らせる人はまなじりの力をいっそう緩めつつ、その視野から私を外そうともしない。おかしい。この上なく穏やかに笑っているのに、押しても引いてもびくともしない力強さが一挙一動に宿っているよう見える。
普通、どっちか分かれるものじゃない?
喉元まで出かかった声を飲むと、一緒に唾が胃の中まで落ちていく。
目を合わせていられなくなって、心持俯いた。
この人の柔らかな部分と折れずにまっすぐ伸びるところは、二つで一つ、合わさって現れがちなのだった。優しい時も、怖いくらい真剣な面持ちでいる時も、どちらも同じ精市くんで、だから私はいつも少しだけ迷ってしまう。
返す言葉を探すのに手間取るのだ。
まず、どの方へ反応すればいいのかがわからない。
放課後の食堂に人気はなく、グラウンドの方から運動部が発端の残響が聞こえてくる。かけ声が遠い。不思議なこだまだった。

学年が上がるごとに多忙を極めていく彼は、引く手数多の有名人だ。
生徒だけに限らず教師からもお声のかかる事打ち寄せる波の如し、華々しい経歴と本人にとっては苦いものであろう過去が彼を放っておかない。勿論、それだけじゃなくて、数えたらきりがないほど理由があるのはわかっているけども。
ともかく精市くんを気にかける人はたくさんいて、その証拠が真白いテーブルに置かれたプリントだった。
テニス部の遠征やら代表合宿やら病院の検査やらで公欠が多く、比例して足りなくなる出席日数と抜け落ちる授業内容を埋める為、提出しなければならない書類が人並以上にあるのだ。なんとか免除だの、補習の申し込みだの、難しい言葉が羅列した同意書だの、見ているだけで頭の痛くなってくる私は、社会人か、とツッコミたくなる。
今日も今日とて昇降口を抜け、本屋に行きたいから寄り道してもいいかと彼が聞いてきた所、下駄箱の向こうから引き止める声がしたおかげで、こうして時間を食っているわけである。
ちょうどよかった、悪いんだがこれとこれに記入しといてくれないか。
わかる箇所だけでいいからな。
申し訳なさそうに笑う先生は今日中にとは言わなかったが、持ち越せばやらなくてはならない事が明日明後日に増えるだけだ、こちらとしては別段早く帰宅する必要もない、書いてっちゃえばいいじゃん、薦める私に精市くんはじゃあそうしようかなと頷き、待っていて、言い置くのではなく、廊下の奥から来客用のスリッパを二人分拝借して来て、同行せよと言外に訴える。
問答無用、有無を言わさず。
二単語ほど脳裏を駆けたが了解致しました以外の選択肢を選べるはずもない、黙って靴を脱いだ。
来客用のものに足を這わせるのは気が咎めたけれど、言っても少しだけだから大丈夫とたおやかな微笑みに封じられるだけだとわかっていたので、色々と放棄した。
どうせ自分のロッカーまで行って上履きに履き替えるのが面倒くさかったに違いない。
毎日様子を見る必要のある植物を育てるのは好きなのに、どうしてこう、ものぐさというか雑というか、男の子っぽいんだろう。いや男の子だからか。でもA型なのに。
つらつら他愛ない思考を巡らせ、春の光の降る外廊下を行き進み、教室へ行くのかと思っていたら違うと言う。予感を抱きながらも尋ねてみた。なんで。歩幅に合わせて揺れる背中が喋る。食堂が一番近いだろ。
(やっぱり)
前を歩くブレザーの肩先に、なめらかな光が乗っかっていた。
校舎と校舎の間に植えられた木々は薄い緑の葉をしならせ、来るべき本格的な春に備えて佇む。夏よりは心許なく、冬に比べれば生き生きとしている草木が風を受けて揺れる。


「来週には開花しそうだね」

室内にいても肌で感じる陽気に押し流されて、ついさっきの出来事をぼうっと手繰っていた私の耳へと語る声が届いた。
ふいに目先を上げると、精市くんは教室とは段違いに大きな窓を見遣っている。
つられて鼻先をずらし、敷地内の端に並ぶ、こじんまりとした桜並木を目に入れた。
この距離では幹がこげ茶色だという事くらいしかわからないのだが、屋上でごく個人的に花壇を世話する人にしてみると違うものが見えているらしい。

「わかるの?」
「桜前線北上中です、ってニュースでやってるじゃないか」
「ああ……そっち」
「そっちって?」
「こっから見ていつ咲くのかとかがわかるのかと思った」
「まさか、わからないよ。そこまで詳しくないさ」

屈託ない笑顔を覗かせた彼はひとしきり肩を震わせ、それから静かに唇を結んだ。
優しい沈黙の染みた空気が伝わる。
わずかながら去っていた、眠さの気配が再びとろとろと覆いかぶさって来、目蓋も自然落ちていく。
昔から春になると眠そうにしているものね。
体の全部から力が抜けていくさ中、真実をついた声が再生された。
本当にどういうわけか、よく知り得ているものだ。母親などは寒さの所為でなかなか布団から出られない冬にこそいつまでも寝てるんじゃない、ほぼうんざり顔で嗜めるのに、家族よりも圧倒的に短い時間しか過ごしていない人が、何故。
これも、理解した上で信頼している、の内に入るのだろうか。
先程の羞恥も忘れて不遜を繰り返す。
(うん、そうなんだよね。なんでかわかんないけど、春が一番眠くなる)
続きざまに遅すぎる返事を心中で響かせた。
目を閉じていても見える、なだらかな光の粒があたたかい。
どうしてだろう。
どうしてなんだろう。
ただでさえ眠いのに、精市くんがそばにいると何の不安も感じないから、もっと眠たくなってしまう。


はっ。
息が転がり出た。
顎を支えていた手が滑り、首が抜け落ちかけたからだ。
崩れたも同然の体勢を整えるついでにきちんと座り直そうと身じろぎしたら、膝が精市くんの足にぶつかった。布地の下のかたく骨ばった脛の感触も、一瞬だったにも関わらず鋭敏に感じ取る。

「あ、ごめん」

咄嗟の謝罪は実に呆けた音を帯びてい、自分で言ったくせして恥ずかしい。
頬と言わず首から上全部が熱くなってきた。背の裏が張る。ついていた肘をテーブルから外す。
当初、顔の角度はそのまま目先のみで私を見た精市くんだったが、わかりやすく居住まいを正す様子が愉快だったのか何なのか、正面で向き合う位置に体を戻した。
形だけは和らぐ瞳に、物騒な、と表すべき光が宿っている。
もう絶対によからぬ事を思いついた顔つきだ。
たとえそれが子供のいたずらじみた戯れだとしても私には一大事なので、どうか気の所為であって欲しい。
しかし願い虚しく、眠気と争っている間に突き出してしまった所為で接触した両足を引く途中、ひっ捕らえられて呼吸が止まった。

「ちょ、ちょっ…!」
「そう、ちょっと足が触れただけだ。何がそんなに恥ずかしかったの?」

最後まで言い切る前に被せて言葉を紡ぐ人は、とてもとても楽しげに微笑んでいる。
テーブルの下で私の足が離れていかぬよう固定しているとは思えない柔和な雰囲気。握った掌があっという間に汗をかく。

「ちょ……ちょっと、ちょっとじゃない!」

腰まで引けてきた私の膝の少し横、曲がり窪んでいる部分の上あたりを、彼の膝と思わしきものが押さえつけていた。それも両足でだ。完全に精市くんの足と足の間に挟まれており、身動きもとれない。

「さっきはね」

なんでもない風に囁いたと思ったら、あろう事か精市くんは自由のきく膝から下を絡ませ、より自分の側に引き寄せようとする。
体が竦んだ。喉で細い悲鳴も上がった気がした。学校でやる悪ふざけにしては行き過ぎている。
学校じゃなかったらいいのかとか言われそうだけど、学校じゃなくたってダメだし!
そうじゃない、そうじゃなくって!
大いにうろたえる脳みそでは上手い具合に物事を進められない。

「は、離してよ……」
「まあ待って。あと少し」

何が、どうして、なんで!
叫ぶ代わりにじたばたと足を踏み鳴らしてみても、肝心の膝小僧あたりから枷が外れないので全く意味がなかった。
座ったまま動かした所為でスカートの端がやや捲れてしまい、慌てて押さえると、堪えきれないといった様子で精市くんが声をあげて笑う。どんないじめっ子だ。
誰かこの人なんとかして下さい先生助けて、心の中で通報ボタンを連打しつつ、ここでくじけてなるものかと抵抗を試みる。
上下に揺すってもダメなら今度は横だと渾身の力を籠めた。
大股開きがなんだどうせ見えていないのだから知るものか、と内から精市くんの足ごと開き隙間が生まれた所で逃げようという腹積もりだったのだが、全然、まったくもって、1ミリも、動かない。
ぐぎぎと敗者じみた呻きが肺の底からよじ登ってくる。
スカートを握っているからテーブルに手がつけないおかげで踏ん張りがきかないのだ。
精市くんは益々笑い囃し、しまいには頑張れ頑張れなんてふざけ出す。通報ボタンが砕けて壊れた。こんな悪戯なんにも可愛くない。
とにかくなんとかしてこの状況を脱しなくてはならない、気を逸らせやしないかと必死に言い連ねる。

「せ、精市くん、はや…っ早く書こう、プリント」
「先生には今日中に書けなんて言われてないなあ」
「じゃ…じゃあ、じゃあ、本屋行くんでしょ!?」
「今すぐにじゃなくたっていいよ」
「だって、それじゃ……帰るの遅くなる」
「早く帰る必要、ないんだろう?」

何の気なしにこぼした発言を逆手に取られたあげく、くるりと捻られたスリッパの爪先部分でふくらはぎを小突かれて声が途切れた。
意識しないよう気を散らしたけど、肌がざわつくのがどうしてもわかってしまう。
胸が震え、心臓もがなる。
本当に目で確認出来ないから、肌や感触を頼りにするほかなく、それもまた不安や言いしれぬ感情を生む原因の一つであった。してはいけない事をしているみたいで落ち着かない。
複雑な色合いに染まっていく心境をよそに、日が当たる真っ白なテーブルの下での攻防を仕掛けた張本人は、心から楽しいとばかりに笑っている。

「大分眠そうにしていたから、目を覚まさせてあげようと思ってさ」
「覚めた! 覚めましたもういいよ!」

悲鳴に近い回答を得た精市くんが朗らかな笑声をこぼし、重なった反響はがらんとした食堂内に打ち響く。
花が吹きこぼれる前の、早春に揺れる午後だった。