▽いよいよ深く花開く

今は春。
この世の春だ。


以前から行こうと約束していた映画を観、遅めの昼食をとって、その足で少しばかり並んで歩いた。
川べりの桜はちょうど休日に満開を迎え、舗道には薄紅色のじゅうたんが敷かれている。
降り積もった花びらだった。
何という事はないごく普通の川沿いの道だ、桜の名所でもなければ観光地というわけでもない。
しかし桜だ花だと聞けば集まらずにはいられないのが日本人の性らしく、いつもならば考えられぬ数の人がのんびりと、或いははしゃぎ、もしくは一眼レフを片手に、咲き誇った桜並木の下を行き来している。
ちょっと食べ過ぎたかも、お腹が苦しい、とぼやいたにはちょうど良い腹ごなしだと考え連れ出したのだが、はからずも花見のような雰囲気になってしまった。
桜はいいとして、この人手はどうだろう。
さて、お花見するつもりだったんなら早く言ってよ、等とまた素直な所を隠してむくれでもするのかな、隣の彼女を窺ってみれば一心に頭上を見つめている。
枝をしならせる程咲いた花越しの陽光を浴びる瞳が小さな子供のように輝き止まず、周りの人などは押し退け、目にすら入っていない様子だ。もしかすると俺の存在も忘れているかもしれない。無性に可笑しくなって笑った。

「すごいね。綺麗」
「うん、満開だ」

それを咲き揃った花へ向けたものだと考えたらしく、率直な感想を供にした黒目がこちらを見上げる。当たり障りない相槌で迎えれば、はまた首を反らし、桜でつくられた雲のような枝振りへ視線を注いだ。
いつもなら何がそんなに面白くて笑っているんだくらいの反応を返してくるはずなのだが、なかなかどうして今日は素直に大人しい。
唇の端に浮かぶ笑みが深まった。
花ならなんでも綺麗、と言って憚らぬ大雑把な所のある彼女を、手ずから花々を育てる者としては嗜めたい時もあったが、その気性のおかげで普段は仕舞われている愛らしさが表に出てくるのなら悪くないとも思う。
少し見て行こうか。
誘えば、簡潔な返答。
うん。
頷いた睫毛は柔い陽に透けていた。
薄塗の花の間を縫って落ちてくる光と影が、血色の良い頬を彩る。だけど繋いだ手は思いの外冷たい。相変わらずひどい冷え症である。
いくら春といえども吹く風がひやりとしている事だってある、温めるつもりでしっかり握り直すと、細い指先が俺の肉刺だらけの掌に軽く食い込んだ。
何も考えていないであろう、躊躇いのない仕草。
予想した通り慌てるでもなく恥じらうでもない、ほとんど無に近い反応だ、あまりのわかりやすさにやはり笑ってしまう。の心は春の空に映える桜にすっかり奪われているらしかった。
彼女自身はそういった自分を愚かだと嘆くのかもしれないが、俺にしてみれば素直以外の何ものでもない。
綺麗とひとたび思えばすぐ綺麗だと言い、感心した時は溜め息でもって表現する、怒りや怯え等はもっと如実に顔に出すし、寒ければがちがちと歯を鳴らし震え、うだる暑さにあてられると目に見えて萎れと、良くも悪くも心のままに生きている。
繕う事を知らぬわけではないが、絶望的に下手くそだ。
加えて常に正直であろうとするから余計剥き出しになる。
無論、百ある内の百とも曝け出したりはしていないだろう、けれどもその隠さぬ領分が人より多い。少なくとも俺にはそう見える。
のびやかなのだ。
草木が春に芽吹き、初夏の頃色濃く染まる葉を伸ばすように。
とはいえ彼女は丹精込めて育てる植物とは当然違うので、素直でない部分も持っていた。どんな気持ちもすぐさま口にするかと思えば、好きの一言は俺だってなかなか聞いた覚えがない。だから今日の事は思いがけない収穫だった。
なるほど、花見、特に桜は有効だ。
感嘆の息を漏らすばかりで足元がかなり危うい人の手を引きながら、もう短い付き合いでないにも関わらず今更知った新たな一面を胸に刻んだのであった。


春の盛りをお互いに満喫し過ぎた所為で、想像よりも長居してしまったようだ。
駅に着いたのは夕方とは言わないが微妙に昼とも言い切れず、麗らかにぬくい風のそよぐ頃合いで、実に健康的な睡眠時間をとっている自分でさえつい目を閉じたくなる、つまり昼寝に適した時間帯だった。
まず食欲が満たされたのち、適度な運動、散策したおかげで腹の方も食後すぐの重さからは解放されている上、おあつらえの陽気と規則的に揺れる電車とくれば、誰だって眠気に襲われるというものである。
なかでも四季の内、春に最も眠たげな顔をしている事が多いにとっては、拷問に等しい状況だったろう。
初めは懸命に堪え、抵抗し、我慢に我慢を重ねて口を動かしていた様子だったのだが、発したそばから声はぶれて舌ったらずになり、目蓋が落ちている時間が多くなっていく。
夢うつつを行ったり来たりし、覚醒と意識の喪失をひたすら繰り返す、全神経を駆使している事がこちらにも伝わる小さくも壮絶な争いだ。
立っていればまだまだ抗えたかもしれないけれど、電車は座れる程度に空いており、七人掛けの椅子に腰を落ち着けてからは本当に眠そうだった。
見かねて、少し眠ったら、促してみたのだが、いい、大丈夫、としきりに瞬きをする彼女は首を縦に振らない。
また妙な所で意地を張る。
だが苛立ちやもどかしさは抱かなかった。
そう、ならいいよ。
とだけ囁き、後はこちらからは話を振らず相槌を打つに徹していたらば、案の定いとも容易く陥落したのである。
最初からこうすれば良かったかな。
わずかばかりの反省を胸に、斜め下で沈んだ睫毛を見つめる。
並の人よりわかりやすいとは言えども、大声をあげてはしゃいだりするタイプではないから全てが目に見える部分に現れるかといえば必ずしも当てはまるわけじゃなし、出掛ける約束をする時だって、わあ嬉しい、とにっこり微笑むような性格でもない。
でも張り切る時は張り切る子だ。
学科試験に講習、受験対策の模試と精力的に挑む中、久々のデートで気を抜くは想像し難かった。疲れたのだろう。微睡みに落ちやすい状況ではなかったとしても、眠気に勝てたかどうかは怪しいように思う。
太陽をたっぷり含んだ車内は、春独特の温かさに満ちている。
回る車輪が線路を進むごとに揺れて、足元から子守唄にも似た音を奏でた。
背後ろから差す陽射しのおかげで首筋が湯に浸かる感覚に陥って、これじゃあが数分で寝てしまうのも無理はない、いたく実感する。
逆光気味になり薄く影の乗った寝顔が、車両の振動を受ける度にずるずると俯いていく。身長に差がある為表情は窺えなかったのだが、電車の走行音の合間合間で安らかな寝息が微かに聞こえ、確かめずともよくわかった。
駅名を告げるアナウンス。
止める間もなく過ぎ去る一方だった景色はゆっくりと速度を落とす。
停止するや否や、向かいの開かなかった扉前に立っていた女性二人が歓声を上げた。
ドアの開閉音と共に舞い込む空気は些か冷たい。
うわ見て、すごくない?
ホントだぁ綺麗!
辺りを見渡せば窓越しに広がった満開の花へと居合わせた乗客のほとんどが目を向け、場所を忘れて端末で写真まで撮っている人もいる。
線路のある高架下を潜り、こちらから見て奥へ伸びていく道路際、両手では数え切れぬ数の桜の木が居並び、少し前までは頑なだった蕾を綻ばせているのだった。
圧巻の一言だった。
どちらかと言えば樹木は専門外の自分ですら視線を奪われてしまう、眼下で色づく春の風景に、隣で眠る人を起こそうか一瞬迷い、けれど結局黙って見送る。
一遍に味わっては勿体ない。
彼女の心が解ける桜であれば、尚更。
またいつか、巡る春と出会った時、一緒に見に行けばいいだけの話だ。
止まっていた車体が再度揺れ出し、薄紅の花の群れから徐々に遠ざかっていく。あれだけ長い桜のトンネルは遠目にしてもまだ目立つ。
何人かの乗客が綺麗だったねと囁き、そういえばうちの近くの公園にもさあ、等と思い思い桜にまつわる話に花を咲かせた。
後々見事な満開振りだったと聞かせたら、なんで起こしてくれなかったの、恨みがましい視線をぶつけてきそうだと微笑ましくなって、それから春が来たのだとつくづく実感した。
毎年この時期はそこかしこに花の気配がする。
カフェのメニュー、通りすがりに見かける雑貨屋、ショーケースの装飾、大概の店も必ず一つは桜をモチーフにしたものがあるし、テレビや新聞もどこそこで開花しましたと知らせて、桜の名所を紹介する雑誌で本屋の棚は溢れる、電車内に貼り出された旅行の広告は花見ツアーが目玉商品らしいしで、どこへ行っても花尽くしだ。
冬を乗り超えた、香り豊かな季節の訪れだった。
一度、病室で味気ない春を迎えた経験があるからこそ、人より余計に感じ入るのかもしれない。
窓の向こう側で流れる街が緩やかに曲がっていく。
カーブへ差し掛かった車両は大層な音を立てて揺れ始め、その拍子に舟こぎをしていたがかくんと横へ傾きそうになった。
俺の方になら何の問題もないが生憎と真逆だ、咄嗟に肩を抱いて引き止める。

「すみません」

すんでのところで間に合わせ、彼女が凭れかけた人へ頭を下げれば、いえいえ、と言わんばかりの笑顔で首を振られた。品のよいおばあさんの目には、仲が良いのね、の一言がありありと浮かんでいる。
そう受け取られて悪い気はしないけれど、今の状態は恋人同士というより親子やら兄弟やらに近いだろう、苦笑混じりの会釈を返す。
周囲で何が起ころうとも、はちっとも目覚める気配を見せない。
とりあえず半端な位置で留まっていた頭を抱き、椅子から離れていた肩も背もたれへと落ち着かせてから、あまり心地よい枕ではないだろうなと思ったが、二の腕あたりにこめかみを引き寄せる。
触れる肩先が丸っこい。
なだれる髪からほのかな花の香が立ち上った。真白い光を浴びた頬に窓枠の影が伸びて、閉じたきりの目蓋の皮膚は薄く、下を向く睫毛は震えない。
精市くん、と日々俺の名を紡ぐ唇がかすかに開いて、けれど何の声も聞こえてこなかった。
彼女の全ては深い眠りに支配されている。
肩に遣っていた左手を外し、投げ出されたままの細い右腕を掴んだ。
起きない。
絡め取り、わずかばかり手繰って、指を繋ぐ。柔らかいだけでなくやたらと温かい事が知れて、こぼれそうになる笑みを堪える。
子供と一緒だ。
寝入り始めや眠い時手足に体温が集まるのは、冷え症でもそうでなくとも万人共通で変わらないらしい。
まるで力の抜けた彼女は何もかもが容易い。
頬をつねっても眠り続けていそうな気さえする、自分を守るという事を知らないのか。
そこまで危機意識の薄いタイプではないのに、時折こうして自己防衛機能を切ってしまう。
けど俺は、そういう時のが好きだった。
授業中、教壇から目を走らせれば一発で見出されてしまう程、眠そうな顔をしている。
微睡み、少し喉にからんだ声。
歪められる事のない寝顔の緩さ。
気持ちよさそうに呼吸を繰り返し、正しく上下する胸と、ささめきごとのような寝息が耳に優しい。
健やかに眠る人を見ると、悪夢に荒れた心も凪いだ。
たるんでいても構わない。取り繕う必要も正さなければならない理由もない。
のんびり寝こけたあげく、良い夢を見ているであろう君が君のまま、傍にいてくれるなら。

窓の形に切り取られた一瞬一瞬の風景が、春光に染まって眩い。
込み上げた欠伸を密かに噛み殺し、の眠気がうつった、等と俺も俺で子供じみた呟きを胸中に落とす。
左半身に凭れている温もりを確かに感じながら目を閉じてゆけば、揺れる車両に益々眠気を誘われて、夢見心地で咲き散る桜を思い浮かべた。
目蓋の裏に描かれた花は、一つも褪せずに鮮やかだった。

今は春。
俺も彼女も、この世の春を生きている。