▽ふたりと冬と雪しづり

白というより灰色だ。
音と色とが霞んでしまうと、いつもと変わらぬ景色だというに別世界へ迷い込んだ錯覚に陥る。


家のドアを開けた途端に頬を刺す風の冷たさに、ついついは呆然とした。
念入りに想像はしていたものの実際肌で味わうとやはり堪える。
うっとたじろいでいれば、奥から顔を出した母親に、風が入るんだから早く閉めて、転んで怪我してもお母さん迎え行けないわよ、思いやりの籠もっているのかいないのかわからない声を掛けられようやく一歩踏み出した。
出来得る限りの防寒対策をしたつもりであったが、下半身が制服のスカートと靴下のみではどうにもならない。
いっそジャージを穿いていきたかったというのが本音である。
しかし腐っても女子高校生、選択肢から除外せざるを得ず染み入る冷気に無防備な格好となってしまったのだ。
学校中の女子生徒が全員揃ってスカートにジャージと形振り構わぬ姿になってくれるのなら、とて心置きなく着込んで家を出た事だろう。
本来、彼女はそこまで人目を気にする質でなかった。
それでも隣を歩く人物を思い浮かべれば、散々悩んだ上で愚行としか言い様がない真似も冒すのだから、全く思春期の恋心とは恐ろしい。


「……随分無茶をするね、

俺の知らない間に冷え症が治ったのかい。
待ち合わせた場所で開口一番呆れ半分、茶化し半分の声で出迎えられて、手袋に包まれていても尚指先の冷たい少女がマフラーを巻き直しながら不服そうに返す。

「…………治ってない。足寒い」
「うん、見てる俺まで寒くなりそうだもの。女子は大変だ」

まるきり他人事だとそ知らぬ顔をした幸村が語る都度、白く濁った呼吸の跡が空気へ溶けていく。
首都圏で何年か振りの本格的な積雪が観測された。
前日の天気予報曰く、みぞれ混じりの雨となる可能性が高いでしょう。
信じきって眠りについた自分が悪かったのだろうか、と優に数センチは積もっている白色を目にし、起きて早々は昨日の己を呪いたくなった。
降る降らぬは天の采配だ、矮小な人の子風情に出来る事等ないに等しいが、心構えの一つくらいはしておきたかった。
荒天に滅法弱い交通網は麻痺してバスも電車も頼りにならないし、自家用車を出して貰う等と以ての外、両親揃って、今日は買い物に行かないから夕飯に期待をするな、暗澹たる気持ちで朝食を口に運ぶ娘へ向かって告げたのだ。
幸いにも今日は日曜日、仕事のある人もいるかもしれないが、それでも平日に降り積もるよりは被害が少ないに違いない。現に彼女の父親は悠々と構え、常ならば淹れもしないコーヒーをじっくり味わっていた。
私だって休みたい。全然行きたくない。
エアコンの下でセーターを着、ぬくぬくと温まる家族を横目に呟いた所で予定ががらりと変わるわけでもなく、無言で夕べの残りの味噌汁を啜る。あたためられた湯気が肌に染みて、今しがた落とされた卵の風味は優しく舌に転がった。
行かずに済むのならまず外になど一歩も出ないが、こういう時に限って登校せねばならぬ理由があった。
には振替試験日、共に行く約束をしている彼には部活関係と各々目的を持っている。
何も雪の日にやらずとも、という事でも柔軟な対応のまだまだ難しい日本国、特に連絡網の類いが回って来なかったので予定通り執り行われるのだろう。
警報が出ない限りは這ってでも来いとでも言いたいのか。外の気温や寒さを想像して憂鬱に頭を抱えるは、ほうれん草のおひたしを力なく咀嚼した。


「ホッカイロは?」
「貼ってるし持ってる」

言の葉が紡がれ、唇の周りが薄ら煙った。
何気なく尋ねられて、同様に応じる。
幸村が指摘するまでもなく、は厚着だ。コートは元より下にヒートテックを着込み、カイロを冷えるであろう部分に仕込んで、ポケットの中には振るタイプのものを忍ばせ、下半身以外は万全の態勢、着膨れようが日頃より倍程太って見えようがお構いなしである。
しかしだからこそ、剥き出しとなった両足が珍妙に映ってしまうのであった。
自覚はあるにしろ、今更戻る事が叶うわけでもない。
はむしろ開き直る勢いで幸村の横に立つ。
靴の底で雪を押しつぶすと、独特の感触と音とで踏み固められた様子だった。
滑って転ばないように、と親と同じ注意を口にする幸村はに比べ幾段も薄着だというのに、欠片程も寒がる素振りを見せず、装いは晴れた冬の日とほぼ変わらなかった。

「精市くん寒くないの」

上も下も冷気にまみれ一瞬の熱も存在しない雪の朝だ、見るに見かねた冷え症持ちが早口で問うも、

「寒い事は寒いけど、我慢できないほどじゃないよ」

どうという事のない雑事を語る口調が返り、絶句する。
確かに今まで、基礎代謝が違う、運動部は伊達じゃない、流石の神の子、等々賛美してきたものだが、等しく雪の降らぬ日に限定されていた。
最高気温が一桁に留まり、雨やみぞれではなく真白き結晶の舞い積もった場面で耳にすると、新たな賞賛を加えたくなる。
湿り気を帯びた雪の塊を足先で叩く。
昨日までは視認の叶ったアスファルトの色は、時折見え隠れする程度に収まっており、冷たい純白の下へとすっかり仕舞われていた。無数の足跡に踏み荒らされた道は歩きにくく、常より格段に速度が落ちてしまう。
もたつくの傍、進む道を颯爽と選び、靴底の下ろす先も迷わぬ幸村が歩んでいる。
北の雪国出身というわけでもあるまいに、何故こうも堂々と揺らがずにいられるのかがまるで不明だ。
自宅を出る寸前まで綿に似た大きさで落ちていた雪は、が冷気の詰まった玄関口に向かった頃に小康状態となったらしい。
しかし見上げる空は重暗く薄日すら差していないので、再び降り出すのも時間の問題かと思われた。
身近な物音は一面に敷き詰められた雪片を踏みしだく音のみである。
吸われた生活感、ざわめく街並み、人々の声。
傍らに在る時は何とも思わぬありふれた日常も、なければないで落ち着かない。
はあ、と零れた息は風景へ溶け込む程の雪白で、ろくに見分けもつかぬ内に立ち上っては消えていく。
寒い。
口にすれば余計骨身にこたえるだろう、判断したは胸中でそっと呟き落とし、凍える空気の渦が思い出したよう唐突に吹き荒ぶ度、ごわごわと嵩張ったコート下の肩を竦ませた。鼻で呼吸をすればきん、と奥まった所が痛み、かといって唇からばかりだと前歯が沁みて、凍る喉に釣られ舌も回らなくなる。八歩塞がりだった。
折り重なった六つの花が帯びた低温も舞い上げるのか、這い上がり腿から下に纏わりつく空気もまた恐ろしく冷たい。素肌の部分は尚更で、歩くさ中に擦り合わせては僅かでも暖を取れやしないか画策する。
空の底から沸き出で、天蓋を塞ぎ、しな垂れかかるように立ち込める雲は厚ぼったく低い所で群れを成してい、今にも電柱や街路樹の先に落ちてきそうだ。晴れる気配なき重厚感で以って、寒さ故に無心であろうとするへ圧し掛かった。


雪、降るかな。

言った昨日を思い出す。
出掛けた帰り道の途で、今朝の天気予報を頭の中で再生させながら暗闇に落ちた空を眺めていた。
今日と同じく隣を行く幸村が、さあどうかな、はぐらかす色を濃くして答える。

「明日は登校するんだろ。降ったら困るんじゃないの」

笑う横顔のラインが、闇とのあわいに浮かび上がった。
どことなく言い聞かせる調子を感じ取ったは、無闇に反抗したくなってしまう。

「……積もらないんだったら困らないよ」
「積もらないにしろ雪が降るなら、は布団から出られないと思うな」

寒くて。
と最後に付け加える彼は余地なくという人物を理解し切っている。
悉く理解し尽くされた方はといえば言わなきゃ良かったと早速後悔し、相も変わらず迂闊な己を心の内で叱り飛ばした。
一向に改善されぬ冷え症のは、冬が嫌いだ。
気温が下がれば下がるだけ朝の訪れは憎らしい。
布団の中で丸まって、ダンゴ虫かと母に詰られ、可能な限り温もりを逃がさぬように閉じ込める。
だけれど雪は別だった。
今よりもっと子供の時分、積もっていると知るや否や家を飛び出し、雪だるま作りに熱中したものだし、遊んでいる間は体も温かかったような記憶がある。
年に数える程しか積雪のない地域に住んでいる所為かもしれない。
日に三度は雪かきしなければならない地に生まれていたら、特別なイベントを待つ感覚で天を見遣る事もなかっただろう。
これで寒くなかったら、いや末端冷え症でなかったら、素直に可愛らしくテレビ画面の雪マークに心躍らせていたに違いない、と氷のような指を揉み独りごちた。


薄明るい灰じみた色と無音に侵された辺りを、不意に切り裂く爆音。
他愛ない回想を繰っていた頭が覚醒する。
突然鼓膜を破く騒々しさの在り処を視線で辿れば、側から見て奥へと続く坂道を、曲がりくねったタイヤ跡を伸ばす車が何とかよじ登ろうとしている所だった。
空回るエンジンやタイヤの悲鳴が、休日の早朝、人気も絶えた雪の街に響いていて、未成年であるし、運転免許も持っていないではあったが率直に思った。
それは無茶だ。
単純に歩いているだけでも滑りやすさを感じるというのに、察するに雪国仕様でない車で、しかも坂を越えよう等と無謀にも程があるだろう。どこかの壁や家の門にぶつかりかねない。いくら寒さが厳しかろうとあの車には乗りたくない、と想像上の恐怖に体を震わせていたらば、

。よそ見をしない」

優しく、けれど確実に叱咤の意味合いを含んだ声色に咎められてしまう。
慌てて前方に赤らんだ鼻先を向けると、厳しい語尾の割に緩んだ目元の幸村が数歩先で佇んでいる。物言いは小学生相手の教師か親かといった風情であったが、余所事に思考力を奪われていた為、は反応するという事自体をそっくりそのまま見送った。

「あ、うん、ごめん」

易々と紡いだ謝罪も済まぬ内、離れた分を取り戻さんと歩みを早めかけた所、押し留められる。

「ついでに急がない。本当に転んでしまうだろう」

余程注意力散漫だと思われているらしい。
が、自らの迂闊さをよくよく知っているは反せず、大人しく足を留めた。晴天ならまだしも完全な雪道、助言を突っ撥ねる程の気概や自信は持ち得ていないのだ。
こと己の不足している部分において奢った評価等は下さぬ、妙な所で従順になる少女を、相対する幸村がじっと見詰めている。
煙に似た呼気が風に靡き、揺らぎ、段々と薄くなった。
曇天に抱え込まれた風景は灰。降り落ち、重なり、路面を覆い尽くした雪は真白。
ほんの一秒、神の子と尊称される少年はあるかなきかの時、瞳の中を凝らしていた。
冬の透明な空気を掌中に収め、ひと息に掴むような熱がある。
観察というには感情的で、足元の覚束なさを心配してというには剣呑だ。押しもせず、かといって引くでもない。ただひたむきに眼差しを傾ける。
そうして、が異変に気付くよりもずっと早く目元から力を抜く。
抜いた途端、川をゆく水のよう清く、自然の摂理のよう当たり前に、呼吸をするのと同様に微笑むのだった。

「人の足跡の上を歩くんだ。でこぼこになっている所は滑って危ないからね。ああ、あとマンホールの上も避けて」

的確な指示を下され、サーイエッサー、とばかりに真面目くさった顔で首肯するは今さっき出来たばかりの、幸村の靴跡を踏み追う事とした。
司令官の訴え無き変異には気づかない。
雪の積もった道路だと、普段はあまり実感する機会のない歩幅の差というものが顕著に現れる。
飛び石を超える時に似た足さばきを見せるに、幸村が弾む声を転がした。
零れた吐息は微笑みの形をしてい、大きなだまとなっていて、ごく真剣であった方はといえば不服そうに眉を歪め、精市くん、と棘のある呼び掛けをする。

「ごめんごめん、もう少し小さく歩くよ」
「……ぜひそうして。足の長さが違うんだし」
「それは身長差があるんだから、当然じゃないか」

何とも無難な回答を寄越す。
反論の余地のなさには俯き、足元のみを注視せんと眉間に力を入れた。
近くでは水気を孕む雪を踏みしだく音が再び響き出して、例の空転する車の呻きは遠巻きになり、耳の奥を打つ鼓動や静かな息遣いが聞こえてくる。
幸村は己の言葉に則って速度と歩幅の両方を落としている様子だ、その証拠としての足取りは先程に比べ段違いに軽い。
刻まれたしるべを辿って進めば何の問題もなく、雪へ対する恐れもほとんどなくなった。
埋もれかけているものには目もくれず、この場へ踏み入る前につけられたものを打ち消すよう、たおやかな見目とは裏腹に力強く歩む人の跡は頼もしい。言葉にするまでもない異様な安心感があって、自分の足で選ぶより数段信を置ける。
細かな雪の結晶を纏うの靴は、かの足跡内にすっぽりを収まってしまい、やや不格好に映る位余りが目立つ。
殊更性差や大きさの違いを取り上げ驚くという事も少なくなっていた近頃であったが、ふとした折、心に入り込むものがあるのも確かだった。
凡そ、でかい、強そう、いかつい、といった筋骨隆々の様を連想させる表現の似合わぬ人だが、だからといって対義語が当てはまるわけでもない。
穏やかな声音や物言い、ともすれば儚げと評される外見と結びつけるのが難儀な程、幸村のつくりはしっかりとしている。
明確な分類が出来、異なる生き物であると認識が叶う。
それを足の底で感じる事は、なかなかに稀有であり、わけもなく胸の弾む心地がする。
彼の靴の形に固められた跡の丁度中心を踏むようにしてみたり、自身の足先を右端や左端にぴたりと寄せてみたり、もしくは踵や爪先に合わせてみたりとは名付けられもしない遊びに興じながら、そういえば身長は知っていても足のサイズは知らなかったな、浮かんだ微かな疑問を何の気なしに口にしかけ、すぐさま閉じる羽目となった。
顔に当たった冷たい粒のお陰で掻き消えたのだ。
反射的に天を見遣ると、広がる重たげな色のパノラマから白い欠片が降り落ちてきている。あっと思う間もなく、

「降ってきたね」

首から上のみで振り返る幸村に先を越された。

「まだ積もるかな?」
「雲がぶ厚くて晴れそうにないし、昼までこの調子なら積もるんじゃないかな。それよりも、積もったら困るんじゃなかったのかい」

頬で水と化した雪の成れの果てを手袋で拭うに、透ける空気へと白濁した息を流す幸村の目が笑んでいる。言葉の調子から感じられるものがどことなく陽性だったからだろう。

「積もられた後じゃ、もう困るとか困らないとか関係ないもん。どうせ降るならでっかい雪だるま作れるくらい降ってこいーって感じ」
「フフ…ダメだよ、やけになったら」
「そりゃなるよ……朝起きて窓見た時、全部が雪景色だったらやけくそにもなるよ……」
「よりにもよって登校日に、だものね。は運がない」

それを言ったら精市くんだってそうでしょ。
楽しげな声を間髪入れずに打ち返せば、俺は雪も寒いのも苦じゃないから、すげなく断言されて言葉に詰まった。
強靭な肉体と心の持ち主だという事を忘れていた己の分が圧倒的に悪く、少しの反論も口に出来ぬ代わりに、元通り前を向いた背を睨んでみる。
つらつらと散り続ける雪花に掠れ、冬の薄い幕で白んだ後ろ姿は歩調に合わせ揺れており、上着に隠れた髪の端には息の形をした煙が触れて流れていった。
先程視認の出来た頬や、今垣間見える耳殻の皮膚は微かに赤みを帯びているのに、彼の唇は寒い、冷たい、等という弱音をけして紡がない。その気配さえ感じさせない。
なるほどさすがは神の子。
一人不可思議な納得をし、自らの真っ赤になった腿が何か情けなくなったは、無意味にスカートの裾を引っ張って伸ばした。
空からの冬の象徴が肌に当たる都度、凍りつく思いがする。払っても払っても濡れた感触は取れず、染み込み、体の芯から熱を奪い取っていくのだ。
等間隔につけられた足跡の強さは変わらない。
歩幅は宣言に違わず、の歩きやすい程度に合わせられている。
水分の多い雪が、ぎゅ、と踏み固められ、凹凸のある模様に様変わりした。
視線を下へ下へとさげる途中、保った距離の先、白雪と引っ付いては離れていく大きな踵を見出し、次いで違和も抱く。
彼の足元を彩るのは常日頃から覚えのあるスニーカーでなく、の記憶にはない、やたらと値の張りそうな靴だった。雪にも雨にも滑る地面にも強いと目にしただけでわかったので、おそらく、首都圏では大なり小なり事故の多発する積雪量を見越しての事だろうと予想したがしかし、思い切り校則に反している。
良く捉えると柔軟な対応、臨機応変。
悪しざまに言えば、和を乱す違反者だ。
どちらにもなれぬは、ただひたすらに感心するのみだった。私も色々振り切ってブーツとか履いてくればよかったと、恋人の有り様に便乗し後悔さえした。
いつから立て掛けられているのか、ひったくりに注意、の古びた看板横を通り、一面の白に埋もれたレンガ造りの砂場やブランコがある公園に差し掛かって、敷地に沿ってそびえる木々の下をゆき進む。
雪の重みでしなる枝葉が、今にも震えて跳ね上がりそうだ。見え隠れする枯れた茶、艶々とした濃い緑が、の目線まで下がってきている。
と、幸村の靴が横へやや逸れた。
何事かと思いながらも従い追うと、全部ではないにしろ雪白にまみれたマンホールを躱す為だったらしい。
丁寧な水先案内人がいたものである。仕事振りは正しく、且つ真面目だ。
ふざける時だっていっぱいあるくせに、精市くんは基本的に優等生だから困る。
自分へ向けられた心遣いを確かな形として感じてどうしても嬉しくなる気持ちのまま、雪道を行くがマンホール隣を越え、続くしるしを一つ辿った瞬間、すぐそばで不可解な音がした。
葉擦れでもなく、風の囁きでもない。
では何かと首を巡らせ、ほぼ真上でしな垂れかかっていた葉先からぱらぱらと雪の礫が下ってきている瞬間を目視し、欠片程の危機意識も抱かずに歩を緩めてしまった辺りが、が考えなしで注意力散漫と揶揄される所以であろう。
お辞儀するように俯いていた木の枝が、勢いよく上を向く。
ドサッ、どころではない、ガンッだとかドカッだとかいった、雪という儚げな言葉からは想像だにせぬ轟音を立てて、枝葉に降りかかっていた塊が一気に落下した所為だった。
すわ直撃かと声を上げるより早く退いたに、幸村が振り返る。
少女の歩いていた数センチ先、通行に難儀する雪だまりが築かれていた。慌てふためいた息が弾む。空気を切った頬が冷たい。着地した後ろ足が面白い程に滑って、視界が転がった。
背筋を走る嫌な浮遊感に翻弄されるでもなく、
(あっ、マンホール踏んだな私)
等と冷静に分析してしまう少女の手が不自然に宙を掴む。
降りしきる無数の雪が仰のく顔にぶつかった。
最悪の結果を描いた脳裏に、手首を捕らわれた刺激が走る。
は理由を知っていた。後方へ傾く目端に、レスキュー隊レベルの俊敏さで以って例の小山を飛び越えた幸村のお陰だ。
恐怖は遅れてやってきた。
腕を引かれ、テニスコート内では強力なスマッシュを繰り出す右手に揺らいでいた体を食い止められてからようやく息を吸い、そこで初めて呼吸が止まっていた事を知る。

「う、あ、あぶ、あぶな……った、ご、ごめ…」
「どういたしまして。わかってるから、先にちゃんと立とうか」

一瞬で爆発したかのような速さで体を叩く心臓を抑え、がくがくと震える口元でどうにか話し、礼を言おうとしただったが、驚くべき先回りをされ唇を噤む他ない。
だがその点について言及する余力もなく、言い渡された通りに崩れている体勢を整えようとし、両足ともマンホール上に着地している厳しい現状に気が付いた。
踏ん張りが利かず、一歩でも動こうものなら滑って幸村まで巻き添えにするのではないかという二重の恐れが頭をもたげる。
よく吟味してみれば、テニス部の絶対王者、神の子が同い年の女子に引きずられるはず等ないのだが、困窮したの脳はそこまで及ばなかったので、非常に珍妙な格好での立ち往生と相成った。
しっかり己の足のみで立つ方法が不明となり、順序すらわからなくなって、困り果てたが少しばかり足先に力を入れた所で、またもや盛大に滑りかける。
呼気の尾が浮く。
ひ、とか細い悲鳴が漏れた。
今度は後ろにではなくつんのめったは、支えとなっていた幸村の右腕に不可抗力でしがみついてしまう。
先刻とは別の意味で唇を震わせた。

「うわ…ご、ごめん! わ、わざと、」
「フフ、わざと?」
「じゃない! じゃないって言おうとしたの、今!」

間近で呼吸し合っている所為で、白濁が重なって一つの円になる。
幸村の胸元は笑みに揺れていて、直に触れるの頬へ染み入った。

「ていうかそんな事言ってる場合じゃない…んだって、せ、精市くん滑る、ほんとに滑る、マジで滑っちゃう歩けない」
「大丈夫。慌てないで、ゆっくり踵を下ろせば何とかなるよ。ちゃんと足の裏に力を入れてね」
「ど……っどう、どうやって!? どこから!?」
「踵から」
「そ、その時、このつま先どうしたらいいの!?」

混乱の滲み出た問いは、問いの意味を成していない。
自分でも何を口走っているか理解していない様子のは半ば涙声で助けを求めながら、両の足を震わせている。さながら生まれたての小鹿だ。
数度マンホールの表層を掻き滑って前のめりになり、爪先のみで体を立たせているのと等しい体勢は大変に不安定で、いつ転んだとておかしくはなかった。幸村の支えがあるからこそ、寸での所で堪えているも同然である。
後にも引けず前にも進めぬを下目遣いに見た幸村は、馬鹿馬鹿しいと呆れるどころか微笑みさえ浮かべて息をつく。
散る雪も溶かせぬ程の小さな吐息だ。
しがみつかれている右の掌を伸ばし、あいている逆の腕も同じく懸命に耐える少女の背中側へと回して、少々屈んでみせるのだった。
そしてが異変を察知する前に、

「…っわあ!?」

一気に抱き上げる。
素っ頓狂な声を浴びた幸村が弾む吐息を靡かせつつ笑ったものの、雪に吸われて響きはしない。
抱えられた方はたまったものではなかった。
予告があったとてそうそう受け入れられぬ行為であるのに、何の声掛けもなくいきなりでは尚更だ。
足がぶらりと宙を舞う途中で慌てて離した腕の行方が定まらず、かといってどこにも掴まらずいては恐ろしいので、傍にあった幸村の肩にと指先を下ろす。
丁度腿裏に触れる、大きな掌が熱い。
そういえば会った時から手袋をしていなかった事に今更気がいって、真実冷え症と縁遠い人物なのだと思い知った。
雪中のトラップと化したマンホールから遠のき、一歩。
常とは異なる足音が、常とは異なる距離から響く。
よくよく考えてみなくともこの状況は死ぬほどの羞恥を呼び覚ます。
寒さが所以のものではない頬の赤らみを実際見ずとも感じ取ったは、無謀にもどうにか逃れようと画策して身じろぎ、だがそうすると幸村の指が直視したくない己の贅肉に食い込んだ気がして余計恥ずかしい。
呼吸になり損ねた、空気の塊が喉で詰まった。心臓は早鐘を打つ。
湯たんぽのように温かいのは触れている部分だけで、その他は相変わらず凍りついた温度だ。
毛羽立った幸村のコートはくすぐったく、雪で濡れている箇所に当たれば冷たい。

「暴れると落ちるよ。まあ、俺は落としたりしないけど」
「……どっち」
「あれ、落とされたかったの?」
「ほ、欲しくない! なんでそうなるのか全然わかんない!」

を見上げる幸村のまなこは朗らかそのもので、無邪気ですらあった。
目元が淡く滲んでいる。笑えば笑うだけ薄い色の吐息が零れた。

「違った、落とされたくはないね。は早く下ろして欲しいだけだ」

恥ずかしいから、と続ける様は一つとして平時と相違なく落ち着き払ってい、腕に抱えた人の分慎重に進む足音だけが違和を生む。
歩みに合わせての振動が、体を通じてにまで伝わってきていた。

「……この状況で恥ずかしくない人なんて、いないと思う……」

わかってるなら下ろしてください、助かりました、本当にありがとうございました。
淡々と並べられた言葉に対し、一向に下ろす気を見せぬ幸村が美しく微笑する。

「俺は恥ずかしくないなあ」

優しい掌にぐっと抱え直され、は返す声を失った。
心の内で、そういう問題じゃない精市くんのバカ、と散々罵倒はした。
留まる事を知らぬ羞恥が後から後から込み上げる。その溢れんばかりの勢いを殺せぬまま、ひと息に言い切った。

「わかった、わかりました、油断してたるんでた私が悪かったですごめんなさい気をつけるからもう大丈夫です下ろしてお願い」

両腕を限界まで張り、抗議のつもりで押した双肩はしかしびくともしない。
制服やコートに包まれていても尚、硬い骨や筋肉の感触がわかってしまうばかりで、どうしようもなかった。
唇で半月を描き、瞳に柔らかな光を宿らせる幸村が降り散る雪の中、冗談なのだろうが冗談のにおいがあまり感じられぬ囁きで空気を湿らせる。

「このまま抱えていった方が安全に学校まで行けそうだね」
「やめて! それただの罰ゲーム!」



後生ですから思い直して下さいと心からの拒絶を訴えるの懇願が叶ったのは結局、幾らか人影や車の数が増え始める大きなバス通りまで数メートルとない地点だった。
晴天時は数え切れぬ車体が行き交う道だ、濡れ光る黒いアスファルトは雪に埋もれていない。次々走るタイヤが、積もる前に押し潰してしまうのだろう。
ぶら下がるばかりであった両足が地について、水気を含む路面を踏む。
安堵の溜め息を吐きながらも、少女は忘れず礼を口にした。
受け取った幸村が、いいえ礼には及びません、と癪に障る位の馬鹿丁寧な仕草で離れて首を振る。
微笑みをかたどる唇が、ごくゆっくりと開き、小さな霧を生んだ。積もってる。声が終わるか終わらぬかの内、何も纏っていないのにも関わらず温い素手がの髪を掻き撫でていく。
自ら歩かずにいた所為で、より頭に降り重なった雪を差していたのだ。
黙って突っ立っているわけにもいかないと上げてしまった両腕は半端な位置で留まり、にはありがとうと告げる以外に場を繋ぐすべがない。
粗方払い終えたらしい幸村は頷き、さぞや冷たいであろう髪の波間に指を滑らせ、梳かすよう離していった。
さらさらと落ちる雪の音が耳に近い。
沈黙にあてられたはつい、先の丸まった棘を含んだお陰で柔くなった意地を吐く。

「………今日は優しいね?」

自身の頭上にも触れていった、溶けかけの雪の粒を除けていた幸村が静かにゆるく、目を細めた。

「それじゃあまるで、俺がいつも厳しい人みたいじゃないか」
「…たしかに真田くんみたいな厳しさはないかもだけど、でも無意味に優しくはないじゃん」
「そう?」
「そう」
「なら今日は、無意味に優しくしてしまったかもしれないな」

どうして。
当然の疑問をが口にするまでもない。
粉砂糖に似た冷たい欠片をコートからはたき落とす幸村は、全て心得ているとしか思えぬ様子で事も無げにこう言った。

「だって、恥ずかしがるが可愛かったしね」

どうして。
ついさっき抱いたものと字面は同じだが、意味合いは全く異なるものを浮かべては歯噛みする。
どうして余計な一言をいつも言っちゃうんだ。言わなきゃよかった。何度目だバカ。学習能力ゼロバカ。本当にバカ。なかった事にしたい。神様助けて下さい。
どれほど唱えた所で取り戻せる時間でもなかった。

「もっと俺を喜ばせてよ。その分、お返しは保証するからさ」

恋人が羞恥のあまり俯むこうともお構いなしである幸村の表情はこの上なくしとやかで、今の力強いにも程がある発言をした人物と同一とはとても考えられない。
答えに窮し、嫌だともいいよとも言えぬが目線だけを持ち上げれば、可愛らしく小首を傾げる人がいる。
悪ふざけの色とそれでも嘘は言っていない色とをない交ぜにし携え見詰められると、首から上、冷たいはずの指先、耳朶、あらゆるパーツに熱が走るのを抑えられなくなってしまう。マフラーで覆い隠した唇を引き結び、これ以上の失策は繰り返すまいと耐え忍ぶ鼓膜に触れるか触れないかの声が吸い込まれた。



一等あまやかに呼ばれ、乞われ、引き寄せられる。
本当に雪に紛れてもおかしくはない音量だったのに、何故だかきっちり響くのだ。
全身の血が煮え立つ。
喉奥に得体の知れぬものが這い上がる。

堪らなくなった少女はらしからぬ暴挙に出た。
籠もった空模様の及ぼす白色を物ともしない赤に顔一面を染め上げて、眉間に寄った皺を直さず、声もなく腕を伸ばす。幸村の首後ろまで颯爽と突き進み、手袋に守られた指先でコートのフードを引っ掴み、その勢いのまま思い切り乱暴に被せたのである。
滑りやすい足元等は眼中にないようで、背伸びする格好でやり遂げた。
まんまと完遂された側の幸村は、碌な抵抗もしない。
むしろ自ら首を曲げ、大した威力だとは受け取っていないであろうの手に、わざわざ引きずられようとしている節がある。
耐えていたのにどうしても零れた、といった調子で踊った息の音に、フードを掴む小さな掌に力が籠もった。

「わ…笑わないでよ、喜ばせようとしてやってるんじゃないのに! ていうかなんで怒んないの?」

幸村は遂に遠慮のえの字も窺えぬ笑声を転がした。
転がすついで、それは出来ない、と言ったのかもしれなかった。手加減してくれ、とも聞こえた気がする。楽しげに震える肩と弾み泳ぐ息にまみれた声音は判別し辛く、にははっきりと断言する事が叶わない。
フードの下から透明な空気を濁らせる神の子が、何の衒いもなく破顔している。
大層な名称に相応しくない、少年の笑みだった。


周囲からすればじゃれ合っているようにしか見えぬ二人の後方、重みにしなる電線から一本繋がった形の雪塊がまとまって落ちた。釣られたのか、その下に植わっていた木の葉が枝もろとも震え、同じく凍てつく白色を払い落とす。
音は遠い。
街を埋め尽くす冷たさに抱え込まれて、余韻もなく絶えた。
落ちた白も、隅に吹き溜まった白も、道路という道路に蔓延る白も、しんしんと降り続く雪に掻き消えていく。同じものになっていく。
ようやっと歩き始めた二人の遙か上空で、鈍色の曇天がまんじりともせず冬を告げている。