▽寒さ募れど春隣

登校に通常の倍は時間を浪費したというのに、歩いている間中雪が止む事はなかった。
無人の昇降口をくぐり校舎内に入った所でも、飽きもせず降り続いている。
溶ける端から重なり、重なる傍から溶け始めと繰り返している内に容赦なく気温や音を奪う白が、幸村の隣を歩む少女の肌を凍りつかせていく。
神奈川の海沿いにも積もる程の雪、一般的には休日である早朝、幾つかの悪条件が並び立った結果、登校している生徒はほとんどいない様子である。
幸村との両名が恐ろしく静まり返る校内に一歩足を踏み入れた時に鉢合わせた教師曰く、お前ら一番乗りじゃないのか、よく来ようと思ったなあ。
先生がこの試験落としたらやばいぞって言ったんじゃないですか。
物言わぬが表情だけでそう詰るので、幸村は笑いを噛み殺すのに些か苦労した。
天気予報士さえ外した荒天だ、先生の方も試験を更に順延させるかどうかの話し合いが始まるらしく、の不得意教科担当である教諭は掌中の鍵の束を見せ、とりあえず試験に使う教室あけてやるからそこで待っておけ、軽快に告げる。
は思い切り項垂れた。
今日の為、自分なりに励んできた時間が無駄になったと落ち込んだようだった。
しかし不平を吐く元気がないのか、それとも度を越した低気温に口をきく余裕もないのか、ただただ黙って頷き先をゆく教師の後を追おうとするので、幸村はまた可笑しくなって口角を持ち上げてしまう。
平素ならば、精市くん部室に行かなくていいの、くらいの問いを投げる、頭が回らぬようで思いがけず回る彼女であるが、一声も掛けずすぐ傍の位置を保ち続けた幸村にも気づかない。寒さと試験延期の可能性が余程身に染みたのだろう。
室内にいたとて呼吸は白く霞む。
窓の外で幾多の雪の欠片が降り散って、慣れ親しんだ学校内の景色を一変させてしまっている。階段を上り高くなった視点で見渡してみても、先の先まで雪化粧だ。
心持伏し目がちになったの唇の端は、彼女自身が零すしっとりとして重たげな吐息で濡れていた。


暖房つけてていいぞ。
さっさと鍵を開け去る教師の背中へ、はい、とだけ答えたが扉に手を掛け、鈍い動作で横に引く。
あまりにもわかりやすくやる気が萎えている。
モチベーションを容易に上げる事の出来る子だが、同時に何かの切欠であっという間に下降の一途を辿りもするのだ。
順延した分だけ勉強時間が増えると前向きに捉えればいいものを、ひと度躓けばなかなか起き上がって来ない。加えて変に意固地な部分があるので誰に何を言われようとも納得せず、己一人で突き詰めるきらいがある為、よく感情が表に出、思った事をすぐさま口にするにも関わらず、幸村の考えもしない所でいらぬ苦役を背負う。
行動パターンが俺にも読めるッスよあの人、と一年後輩の赤也に言わしめる程度には単純なのに扱いは難しいし、一筋縄ではいかない。
何だか俺、柳みたいな分析してるな、と冷え切ったドアのレールを跨いだ幸村は、はっと振り返った二つの眼差しとかち合った。

「……精市くん、部室行かなくていいの?」

現状把握が遅い上、先刻予想した台詞そのものが寄越される。二つの意味で愉快だ。

「今日は鍵当番じゃなくてね、持ってないんだ。こんなに早いと誰も来ていないだろうし、時間までここにいさせて貰おうかな」

後ろ手にドアを閉め、教卓手前で足を止めるを追い越し、壁際に設置されたヒーターへと向かって慣れた手付きでスイッチを押す。温度はあらかじめ設定されていたものより数度高く。室内が暖まったら下げればいいだろう、と教師や風紀委員といった監察役がいなければある程度自由に振る舞うのが幸村の常である。
その彼と彼女の登校時間が重なった時、同じクラスで勉学に励んでいた頃、幾度か取った行動だった。
不意に懐かしさを覚えた幸村は見知らぬ教室でなんとはなしに首を巡らせ、後方にて唇を結び立ち尽くすに辿り着く。
どうしたの。
尋ねておきながら、理由等とうに知っている。

「どうもしない…けど、あの、精市くん」
「うん?」

自分はそこまで転んで怪我をすると心配させてしまうような、危なっかしい子供に見えるのだろうか。
本当は早々と登校する予定ではなかったのに、付き合わせてしまったのだろうか。
心中察するにそんな所だ。
切り出し辛そうに手袋の先を摘む表情が面白い。
沈黙が長々と間延びした。

「……なんか……色々ごめん」

選択すべき言葉に迷ったのか、実際は多くの感情が渦巻いていただろうに一まとめされた謝罪のみがしんと冷え込む室内に落ちる。
考えている事はそこまででもないはずだが、肝心な部分で雑なのであった。

「色々って、どれの事だい」

もう短くはない時間を共にしているが故に理解の及ぶ領域は増えてきている、それでも尚わざわざ尋ねるのは直接聞きたいからだ。
顔を見、声を確かめ、仕草の一片も目にしていたい。
例えば彼女は同じ組になれず少々の捻くれを混ぜ落胆をしていたが、幸村の場合は必ずしもその限りではなかった。
同じ区切りの中で共に過ごすのも悪くはない、だが自分の知り得ぬ場面で起きた出来事をああでもないこうでもないと語る声を聞くのが好きなのだ。
起因はどこだと過日を辿れば、やはりいつかの病室が存在している。
学校という日常から長期離脱していた幸村は、離れた教室の様子を離れた狭い部屋で彼女から聞き出しては復帰を望む気持ちに火を入れていた。
何でもない出来事を何でもなく語り、誰もが気遣わしげに触れる自分を病人扱いしなかった無神経な少女。幼さの残る眼差しは、幸村の言葉を容易く信じてしまう。
どうしても薄暗い感情の伴う日々のはずが、彼女に纏わる時間だけは少しばかりの浮上を見せる。
その頃を思い出すからなのかもしれないし、或いは癖なのかもわからない。

「待ち合わせ場所に俺より早く着けなかった事かい。ああ、俺がに合わせて登校時間を早めたと思ってるのか。それとも散々注意されたのに転びかけた事? で、俺に抱っこされて運ば」
「全部! 全部でいいから! い、いちいち言わなくていいよ!」

何でも構わなかった。
そのような些末事は、今更取り上げるべき問題ではない。
幸村の思惑通り頬を朱に染めるが憤慨しながらマフラーを解く。眉間に皺を寄せつつも、迷いのない足取りでヒーター、すなわち幸村の隣までやって来る。客観的に見ても気恥ずかしさを残しているのに距離を置こうとしない事が可笑しかった。
雪が降る程の寒さの所為もあろうがしかし、心の底から拒絶をすれば如何に暖房器具の近くといえども寄っては来ぬだろう。
中学三年生の九月、夏休み明け、物言いたげな顔つきでいながら遠巻きにこちらを眺め、先んじて話しかけては来なかった姿を思い出した幸村は、過去と今との差異に胸を押される。
温かなさざなみが肺の裏辺りに生まれ、腹の底までを覆っていく。
時間をかけ、言葉を尽くし、隠しきれぬ感情で語った甲斐あって取り払われたの垣根が、無性に喜ばしい。

「…………また笑ってる。そんなに私が慌てるのが面白いの?」

ぶ厚い毛糸で織られた手袋を脱いだ指は他の季節よりも一層白く、冴え冴えと視界に映える。

「そうだね、すごく面白いかな」

不満を一切抑えつけぬの顔が、わかりやすくむっと顰められた。
反対に笑みを絶やさず続ける方はといえば付け入る隙を生んでしまう迂闊さに、困ったな、思う。頬の緩みが止められない。
踏み入った問いに見合う返礼等こちらの裁量次第で幾らでも叶えられるというのに、彼女は愚かにも同じ過ちを繰り返す。
面白いのでなく可愛いのだと今返せば100%の確率で言葉を失うくせして、これでは自ら墓穴を掘るのと同等である。相変わらず先々の予測を立てるのが不得手だ。
また柳みたいな事思ってるな俺、独りごちながら、線引きされて退かれては元も子もない、決して指摘すまいと胸の内で呟く幸村の横で、微笑んだきり黙して語らぬ様子に警戒心を露わにするの目付きが鋭くなった。
反比例して幸村の口角が勝手に持ち上がる。
他人がどう捉えるかは知らない。
知る必要もないし、興味だってない。
ただ彼にとっては家族を除き最も身近な女の子で、傍で見詰めていればいるだけ愛らしさの発見がある。
それだけの事だった。勿体ぶって、回りくどく考えるまでもなかった。


やんわりと唇を閉ざしたきり語ろうとしない終わりなき対峙に根負けしたのか、ややあっては目元から力を抜いた。
逸らした目線で己の指先を見、外した手袋をコートのポケットへ仕舞い込む。
ほとんど同じタイミングで幸村が着ていたコートを脱ぎ、手近な机上に置いた鞄へと掛けた。
真冬の中では生命線に等しい温風に当たっている掌から、色が抜け落ちている。
よく確かめてみれば爪にも普段の健康的な薄桃色はなく、長い間冷水に浸かった様相と化していた。
そういえばと回想をする幸村の脳裏に、腰から下のみが驚くべき薄着としか言い様のない恰好で待ち合わせた場所に現れたが蘇る。
多少の気温低下にも寒い、凍える、手が冷たいとぼやき、入念な対策を欠かさぬ冷え症であるから雪の今日、てっきり完全防備で来るものだと思っていたのだ。
だから上半身はともかくとして手薄にも程がある足元を目にした瞬間、幸村は正直言って呆れた。いよいよこの子はアホだとすら思った。
しかしながらニュース映像やかつて雪の積もった情景を思い出せば、確かに全身着込んでいる女子学生は見当たらなかったので、そう非常識な装いではないのかもしれないと考え直す。
女子は大変だ。
不満げな彼女へ手向けたものは本心だった。
俺は男で良かった。
続けて零れるはずだった偽りなき本音は胸中で留めておく。
雪白の背景に滲んだ吐息が、の唇や頬を掠めて消える。立ち上る呼気の跡にまみれた睫毛に霜が下りそうだ等と非現実的な感想を抱いた。
何の防備もされず、露わになった部分の皮膚が寒々しい。痛ましくすら感じ、視界に入れているだけで身震いが込み上げる。
両頬、鼻の頭、丸い膝小僧が赤に染まっていた。
腰上は厚着なのだが、少しも暖かそうでない。
さぞ冷え切っているに違いないと心して触れた剥き出しの腿は、雪になぶられたお陰で想像通り凍りついてい、幸村の手から熱を奪う。
それでも伝う感触は下がる所まで下がった体温と結びつかぬ柔らかさで、じっと触れていれば薄皮の下、冷気を纏う表層の奥、芯に潜む体温が感じられる。
力を籠めて抱え直すと、隠れた熱が滲んで零れるようだった。

彼女は大抵足に触れられるのを嫌がるが、幸村はその逆である。
じゃれ合う時は今やお決まりのパターンだ。コンプレックスがあるらしいが触るなと怒り出し、はなから聞いてやるつもりのない幸村がふざけて笑う。
滑るマンホールから脱する為の緊急策だったはずなのに、毛色の異なる感情が心の隅に生まれ、出来ればこのままでいたいなと時も場所も場合も置き去りにした思考に支配されてしまい、思わず素直に口走った幸村の腕の中、抱え上げられたが羞恥の色を持て余しながら微笑む彼を見下ろしていた。



そうして静寂を跳ね除ける騒々しい朝を過ごした相手は、熱を孕んだ人工的な風に当てていた掌を返し、学校に向かう途で降り始めた雪に侵された頭頂部を撫でつける。
予想より大幅に湿っていたのか、つめた、と短い悲鳴を上げてその濡れ髪を掻き分けた。
肩先へ落ちていたひと流れを両手で掴み、反対側へと寄せて、緩くまとめる。
艶々とした黒髪の狭間、所々で白い指先が閃き、覆われ隠れていた耳が露わになった。やはりというか当然というか、寒さに耐えた証に薄ら赤い。
集めきれなかったか細い幾筋かが耳殻に降りかかり、ゆっくり辿ると冬場はマフラーに埋もれがちな首筋へと通ずる。
実際伝わったわけではないのに、匂い立つ仄かな熱を幸村は感じ取った。
他愛ない仕草の一つ一つに、自分とは違う異性が宿っている。
屋外のそれよりも透明に近づいた白い吐息を落とすは、心持しなる髪に指先を通して柔らかく梳き、タオルを使う程でもないと判断したのだろう、冷たい髪の毛を触った所為でまた冷たくなったじゃないかと言わんばかりに掌を合わせ擦り、ヒーターへ向き合わせた。
丁寧に、つぶさにあまねく見詰めていた幸村が組んでいた腕を外す。
音もない。
窓枠の端で吹き寄せられた雪が固まり、張り付いて、重さに耐えきれなくなったものから滑り落ちていく。
蛍光灯をつけていない室内は、快晴の日に比べ薄暗かった。雪の反射のみが僅かな灯りだ。温風の当らぬ床や天井から冷気が漂う。

己のものより一回りは細い手首を掴んだ。
が一秒、息を詰めて、横合いを見上げる。
その眼差しを黙って受け止めた幸村は、手の甲から指を滑らせ覆い被さるように包む。
人差し指と親指で挟み、やわく揉んだ掌の肉が積もりゆく一方の雪の冷たさを連想させた。


「…うん、やっぱり冷たいや」

すっかり幸村の思うがままにされた右手はまさしく凍った温度である。
曲げていた指をずらし、ヒーターが発する熱に赤らむ爪の先まで伸ばしていく。利き手ではない方で触れるのは少々勝手が違い、余す所なく望みを叶えるには不適当だったが、ほんのひと摘み程度のもどかしさなら毒にはならない。むしろ何故か心地良く感じてしまった幸村が、笑みを零した。

「……そんなにすぐあったかくなるわけないじゃん。私がどんだけ冷え症かなんて、もう精市くん知ってるでしょ」

突然の事態に動揺し身の置き場に困った様子を上手く繕えぬは、残った意地で投げられた指摘を打ち返してくる。

「俺が一番?」
「え?」
がひどい冷え症だって、一番よく知っているのは俺だと思う?」

思考回路と共に体の動きも止めたらしい彼女のもう一方の手も握り、引き寄せ、一台詞言い終わらぬ内、些か強引に向かい合わせの形へと持っていった幸村が眦に甘さを宿らせた。

「……な、何、急に」
「まあいいじゃない。急でも、急じゃなくても」
「いや私は全然よくないんだけど…」
「少なくとも男だったら一番知ってるのは俺だよね」
「何事もなく続ける普通!?」

慌てふためき退こうとする所を引き留め、握り込んだ両の掌を自らの頬へ当てる。
うわあこれはないよ、本当冷たすぎ、再度同じ意の呟きを漏らしたのは幸村で、掴まれた指先に釣られて一歩足を動かすのがだ。見開かれた瞳は驚愕、唇には動揺が浮かび、さっと赤の差した頬が羞恥を語っていた。
手の下から何とか抜け出そうと蠢く指がくすぐったい、まだ笑声は転がすまいと堪える幸村は指先をしっかり捕え、一つ一つ重ね合わせ、の冷たい肌を温める。

「それなら何事か起こしてから続けようか」
「い、言ってる意味がわからない……」
「大丈夫、すぐにわかるさ」
「いい! わかんないままでいい! 何事もなく続けて下さい!」

本格的な焦りを見せ、快諾に近い返答を寄越す有り様に、先程耐えようと決意したばかりの笑む声が溢れてしまった。
途端、の顔つきが険しくなる。
一種の悪ふざけだとようやく気付いたらしい。

「…………はっきり言ってもいい、精市くん」
「どうぞ?」
「ムカつく」
「はは!」
「はは、じゃないよ! 人の反応見て面白がるのやめて。今日会った時からずっとそんな感じなのなんで?」

やにわに落ちた妙な空白が弾む。

は俺の好きな子で、その君がどうしても可愛いから」

言わないでおこうと思ったけどやっぱりやめた。
先を見越しての我慢をあっさり手放した幸村が、後も振り返らぬ軽い音程で胸中に零す。
彼女も自分も、もう中学三年生ではない。
はただの友達やただのクラスメイトといった、味気ない分け方の出来る場所にはいない。
万が一境界線を描かれ身を引かれたとしても、こうして捕まえて、引き寄せればいいだけの話だ。
前触れなき率直な告白に強張っていたは、多少の時間をかけながら、呆けた表情からどこかに緩みを残すしかめっ面へと顔色を変えてゆき、先程の比じゃなく、寒さの所為でもなく、頬や耳朶を赤々と染め上げた。
心なしか頬に接している手も熱くなった気がする。
触れる指に力を加え、すべらかな手の甲を緩やかに撫ぜる幸村に対し、が唇をきつく引き結ぶ。口にすべき感情を選ぼうとして迷い、喉奥であらゆる言葉を唸らせているのだろう。
ふと白みを帯びる呼気が漏れた。
俯きがちになっていた視線が幸村に向けられ、渾身の思いが籠もった一声が誰もいない教室に響く。

「……つねるよ」
「いいよ」

分け与える程の余裕を持つ側が間髪入れずに承諾してやると、少女は半ばやけくそ気味に恋人の皮膚を摘み、眉と眉の間で深い谷底じみた皺を刻んだ。
平らだった冷たい手は隆起し、幸村のそれもまた同じよう準じる。
たおやかに掴み、しかし手放す気はないと暗に語り捕らえておきながらに自由を許す幸村が、くすぐったい、と細めた目で笑う。
抓ると豪語したのはいいものの、目一杯の力では出来ないらしい、指の第一関節分だけ摘んでは放しを繰り返すばかりで、痛みの類いはいつまでもやって来ない為だった。
冷え込んだ鉄に似て氷じみた温度であった小さな掌に、温かな血が通い始めている。

「指がこれじゃあ、足先も相当冷たそうだ」
「え、うん、すごく冷たい。靴から雪染みてちょっと濡れちゃったし」

聞かれたので答えましたといった調子である、何の拘りもない声音が鼓膜を震わすのを、幸村は進んで甘受した。
抵抗する気力が湧かない。追求する余力は既に失せ、掌中の体温が移り変わっていくのを見過ごすまいと抱き締めるつもりで優しく握るばかりだ。
すると温い熱がじんわりの指から染み出で、皮膚の上側を包んでいた冷たさは徐々に流れ消えた。
幸村の掌に吸い込まれたのが大きいのかもしれないが、自身が元から持ち得ていたあたたかさによって溶かされたというのも要因の一つだろう。さながら雪解けのようだった。ゆっくりと、確実に冷たい感触は消え、ぬくもりが蘇ってくる。
窓の向こうは一面の銀世界、骨の髄から震えてしまう凍てつく要素で溢れているが、この雪は冬の名残だと幸村は思った。
あとひと月もしない内にカレンダーは春を謳い、の手袋もおそらく冬用のものから春物へと様変わりして、花開く季節を迎えるのだ。

「そのまま放っておいて、風邪なんか引いたりしないようにね」
「あ、大丈夫。靴下の替え持ってきてるから」

気合を入れるべき所を間違えている。
濡れた場合を考慮し荷を増やすくらいなら、最初から濡れないような恰好をするべきであって、幸村にしてみれば全くの無駄としか思えない。果たしてこれは気が回ると言うべきなのか否か。
無意識に黙り込んでしまった恋人の顔色を窺うように、がおずおずと言葉を紡いだ。
あの…タオルも持ってるから大丈夫だよ。精市くんの借りなくても平気。
彼女なりに深読みをした結果の発言なのだろうが、読んでいる部分が明後日にも程がある方向だったが為に幸村は吹き出した。
すっかり熱を取り戻した掌がひたすらに柔らかい。

「そう。今靴下を替えるなら手伝ってあげるよ」
「…………セクハラだ」
「俺以外の男に言われたらそう言おうか」
「……間違った、セクハラじゃない。精市くんはふざけてる!」
「フフ、ひどいなあ。彼女の可愛い顔が見たいだけなのに」
「い…っ、いい、いいから! そういうのほんともういいから!」

言わないでと口にしつつ離してとは懇願しないが幸村の頬を薄く摘むのを取り止め、焦りや羞恥を誤魔化すように指先までぴんと伸ばしきった。
対する幸村は解放する気がないので、手首ごと手の甲を包んだまま笑っている。
の指先は爪の先端までもが、控えめに言って温かさしか感じない。
冬の冷気は失せており、赤らんだ頬の色味は寒さが所以のものではないよう幸村の目には映った。
雪のもたらす静けさ等、最早存在していないも同然だ。
今はが防寒に気を回せばならぬ程寒くとも、冷たい雪花が降っていようとも、春は意外な位すぐ傍まで来ているのかもしれない。