ひどい話です。




誤解を恐れず言えば、目障りだったから、との表現が正しい。
出された課題に使う本を探していた昼休み、ひと所にて吟味する日吉の視界に人影がちらちらと映り込んだ。
初めは特に気にも留めていなかったが、幾度となく行き来する忙しなさに神経が逆立つ。
私語厳禁、静粛に、との標語が掲げられる図書室である。
一体どこの不届き者だと目を鋭く走らせれば、効率悪く上から下までを順繰りに眺めていく女子生徒がおり、襟元に引っ付いている校章の色で上級生だと知れた。
一学年上の少女はジャンル別に振り分けられた棚から棚へ、顔向きを飛ぶように移していく。
午後のまろやかな光が振れた。
動きに合わせ影と塵が舞う。
しかし足音はそう大きくはない。
辿り辿って日吉の背後ろにある本棚までやって来、突如として立ち止まる。目当ての物が見つかりでもしたのだろうか。
ともかく、日吉は安堵した。
この鬱陶しい気配が目的を達し立ち去ってくれれば、落ち着いて己の欲する事への没頭が叶うというものである。
些か低い位置にある少女の頭へ投げていた横目遣いを元に戻し、手元の本に睫毛を落とした。
と同時、足下の床が微弱な振動で以って異変を訴え出す。
すわ何事かと首を巡らせると、女子制服が限界まで背伸びをしてい、伸びきっていた小さな足の裏が落ちる。
また伸びて、少しでもバランスを崩せば一巻の終わりだろうと思わせる相当な爪先立ちとなり、終いには小刻みに飛び跳ね始めるので、日吉は呆れる以外の感情を失った表情で立ち尽くした。
右の人差し指が、とある一冊の背表紙に届きそうで届かぬ位置にて震えている。
苦悶の声が漏れたとておかしくはない、静かな激闘振りだ。
踏み台か何かを持って来なければ不可能だろうに、手間をかけたくないのかそもそも便利な道具に気付いていないのか、少女は尚も一人上下運動を繰り返す。
元より穏やかなつくりとは言えぬ日吉のかんばせに更なる険しさが上塗りされ、眉間には谷よりも深き皺が刻まれて、大抵の人間なら心底迷惑がっているのだと感じ取る様相と化した。
これ以上余分に時間を割きたくないという精神が、たったの一歩で横たわる距離を超える俊敏さを生む。
音もなく苦闘する背近くに立ち、彼女が目指していたに違いない本をあっという間に引き抜き奪った。
手に入れるべき文字を失った指が惑い、恐ろしげな仏頂面を断じて崩さない日吉の頬へ下方から視線が当たる。
日吉は一言も発しないまま、戦いを思わぬ形で中断させられた少女へぶ厚く硬い紙の束を放るよう手渡す。
その仕草の温もりのなさといったら酷かった。ぞんざいで、乱暴という表現さえ生温い有り様だった。
それを持って早急に失せろ。邪魔だ。
言わんばかりの絶対零度であった。
だが少女は浴びせられた凍てつきを物ともせず、日吉に比べ随分と丸い瞳を輝かせ、唇から朗らかな音を落とす。

「ありがとう」

静寂の詰まった空気を気遣うが如く抑えられた音量である。
会釈も目線も返さなかった日吉は、そういう配慮が出来るのならまず人の気を散らさずに動くよう心掛けて貰えませんか、苛立ち極まる心中にてすげなく零すのみだった。



二度目の邂逅は、放課後よりも往来の多い休憩時間を迎えた昇降口だ。
移動教室の為廊下を歩いていたらば、三年が使用しているロッカー前で蹲る影に一瞬意識が捕らわれる。
一度目と同様に気に留めるまでもない日常絵図であったが、屈んで何事か探していたらしい女子制服の背中が急激に伸び、勢いが死なぬまま開け放たれていたロッカーの扉と激突したので思わず目を剥いた。
結構な快音が響いたので、間違いなく痛みを伴っただろう。
証拠に女子生徒は急所を突かれたようへたり込み、背と腰の間を押さえ悶えている。
また、少女の肩に引っ掛かっていた鞄が弾みで転がり、ノートやファイル、ハンカチに財布に飴の入った袋、それからペンケースと、様々が散らばって前後左右お構いなしにばらまかれた。
女子相手に向けるべき言葉ではないかもしれないが、まさしく阿呆か間抜けの所業だったので日吉は見て見ぬ振りをするつもりで通り抜けようとし、しかしペンケースから無惨にも弾かれた消しゴムが上履きの先端とぶつかった為に足止めを食らう。
何かに引き寄せられるよう視線を這わせれば、シャープペンの替え芯ケースも手の届く位置で誰かの救出を待っている。
どれほどの勢いで衝突すると、ここまで被害が広がるのだろうか。
余程手加減の知らぬ阿呆らしい、ともすれば侮蔑とも言える冷酷な評価を下した日吉は一つ二つ、落し物を拾いあげ、痛みに耐える背へと声を掛けた。
俯いていた黒髪が流れ、やや涙目の少女とかち合う。
おそらく互いに、同じタイミングであっという顔をした。

「またですか」
「ありがとう!」

声の響きさえ重なる。
日吉の方は実際言葉にするつもりはなく、忌々しさと自らの迂闊さに眉を顰めた。
目の縁を濡らす程痛かったはずなのに、日吉を見るや会心の微笑みを見せたのは、図書室で日吉の神経を逆撫でしたあの少女である。
この、進んで先輩と呼びたくはない先輩は、普段からこうなのか。
溜め息が独りでに転がっていく。
後輩の胸中等知る由もない女子生徒は、非常に子供じみた笑顔で続けた。

「うん、まただね。ほんとにありがとね」

周囲に気を配る必要のない廊下で聞く声は、快活そのものだ。



二度ある事は三度ある。
縁がある等と冗談でも思いたくはないが、こうも間を置かず目撃ないし出会ってしまうのは何故なのか。積極的に関わりたくはないはずだというに全く以って理解出来ない。
麗らかな陽射し降る昼休みだ。
腹のふくれた健康優良児ならば一も二もなく眠気に襲われ、人によっては抗いもせず夢の中へ飛び込んでいくであろう陽気だった。
窓の向こうで光る葉の緑が目に眩しく、昨夜遅くから早朝にかけて街を濡らした雨の名残がうっすらと梢に乗っている。
清しい空気が揺れていた。
あるかないかの風に煽られたのか、もしくは小鳥が羽根を休めているのか食事をしているのか、震えるようにして枝葉が僅かに跳ねる。
白塗りの校舎を彩る陽の灯りが諸々に反射され、辺りを満たし、散り散りになった輝く粒子は瞳の奥底まで差し込んでくる。雨に洗い出された空が青い。
昼食を終え、余った時間で本の返却をしようと考えていた日吉は道すがら、自動販売機コーナーを行き掛かった。
問題なく通り過ぎる所、覚えていたくないものの記憶に残ってしまっている背中が目端を掠め、眉の隅がぴくりと毛羽立つ。
一人の少女が首を傾げながら千円札を懸命に伸ばし、投入口へ入れていく。
が、ほんの数秒で押し返され、振り出しに戻る。
また伸ばす。入れる。返される。
飽きもせず、延々と同じ動作を繰り返しているのだ。
あかんべえと舌を出す販売機と向き合い戦っている少女の背後では、飲み物を買おうとしては終わりなき攻防を目にし諦め通り過ぎる、幾人かの生徒達。中にはせせら笑いではないかと思われる表情で眺め去る男子生徒もいた。
別に、名前さえ知らぬ少女の名誉や誇り等、日吉にはどうでも良い事だ。
何の関わりもない。微かな接点とて見つからぬ、顔見知りとも呼べない相手である。
しかし日吉は下剋上と物騒な志を持っておきながらなかなかに清廉潔白だったので、名前も知らぬ少女が名前も知らぬ男に嘲笑を浴びる状況を見過ごせなかった。
確かに阿呆の所業ではあるが、だからといって嘲りと共に捨てゆく程自分は落ちぶれていない。青く、若い矜持かもわからなかった。
音もなく声もなく歩んで、丁度押し出された所の千円札を横合いから掠め取る。
驚きに満ちた眼差しがすぐさま日吉を射抜く。
綺麗に跳ね返して言った。

「邪魔です。つかえてるんですよ、後ろが」

方便だった。
日吉と名もなき少女の背後には、今や誰もいない。
休み時間のみ溢れ返るざわめきのみが漂い、背丈の低い一人は日吉の言葉を確かめるでもなく、ただ彼の手先を見詰めている。
何遍洗濯機にかけたのかという程に縒れ皺の出来た千円札を、稼働の熱で温まった販売機に押し付け、古武術で鍛え上げた掌を駆使し丁寧に伸ばした。
無数の皺を一つ一つ消していき、だが破れぬ程度の手心を加え、小脇に抱えた本も落とさぬよう、少女と違ってあらゆる方面へ気を配る。
薄く透けた偉人の顔が先に比べ幾分ましになり、余計な口出しを与えぬ速さで差込口へと向けた。
吸い込まれる。
ややあって並ぶボタンの内に赤いランプが灯り、途端少女の幼げなかんばせは、ぱっと目にも鮮やかな色味を見せた。

「ありがとう!」

手品でも間近にしたかのような表情に日吉は毒気を抜かれたが、お礼に一つどうぞ、何がいい、と無邪気に奢ろうとする明け透けな少女によって正気付く。

「結構です」
「まあそう言わずに! だって三度目だもん、お礼しなきゃダメだよ。何がいいかな、お茶がいい? なんか君ってそんな雰囲気だよね」

容赦なく切り捨てたにもかかわらず、聞く耳持ずといった調子で話が進められている。
そんな雰囲気ってなんだ、あんたのは礼じゃなく単なる優しさの押し売りだ、と日吉は思ったが、口を挟む前に喜色に染まりきった微笑みによって封殺される。
強引に触れさせられた烏龍茶の缶はひやりと手に冷たかった。
図書室でなければ饒舌らしい少女はと名乗り、日吉と同じく本を返却しに行く所だと語る。仮にも先輩だ、黙っているわけにもいかず学年と名前のみの簡素な自己紹介をしたら、そっかだから見た事ない人だと思ったよ、二年生じゃわかんないよね、二年生なのにしっかりしてるんだね、等と驚かれたり感心されたり納得されたり、忙しない反応を返された。
どうにも彼女は思った通りの事をそのまま口にする性質のようで、やはり積極的に関わりたい人種ではない、と日吉は己の直感を反芻し、雫滴る缶を握り締めた。
こうして二人は知己となったのである。



話す機会はそう多くはなかった。
何せ学年が違うし、委員会や部活動が同じというわけでもない、だが不思議とが困窮する場面に出くわす事が度々あった。
もしや怠けて人様に助けて貰う魂胆なのかと思いきや、彼女の振る舞いは誰かが傍にいようといまいと変わらない。
一度、理科室で講義を受けていた時、体育の授業中らしきが派手な音とカラーコーンとをまき散らしていたのを見た。
室内まで届くのだからそれ相応の事故である。
倒れ込んで起き上がるあの背中へ、わらわらと生徒や教師が集まるのを尻目に、やはり阿呆だと日吉は心でのみ呟いた。
最早感服すべき要領の悪さを所構わず発揮するかの人が、意外にも本の虫なのだと知っていく。
何度か本を抱える姿とすれ違った。
会う度に日吉くんだと笑い掛けられるので、年上の女子を相手に一切無視するわけにもいかなかった。
時折訪れるだけの日吉と異なり、はほぼ日毎図書室へ通っている様子で、ついでに手にする本のジャンルは見事にばらついていたのだ。
弁当のレシピブック、枕草子、少女小説、動物図鑑に数独問題集、歴史小説やSFやファンタジー、とにかく幅広い。
現代の怪談逸話なる本を持っていた時等は、さしもの日吉も常よりきっちり伸ばした背筋を崩し心持前のめりにならざるを得なかった。
校内新聞の片隅に載っている、読書感想文の受賞者名に彼女を見かける。
ゴールデンウィーク中、最も多く冊数を読み込んだ者として小さく取り上げられていた事もあった。
おーいと右手を大きく振る人に呼び止められ、部室へ向かう途の日吉が何の気なしに話題に出せば、あっけらかんと笑い飛ばされる。
この日の空は晴れ晴れと広がっていた。

「私、それでなんとか氷帝に入学したようなものだから。一発芸入学?」

速読に優れ、ひと度読んだ本の内容は完全に記憶しているわけではないにしても、それなりに覚えているらしい。
日吉がその能力を何故他の部分に回さぬのかと率直に申し立て、は悪びれもなく笑い返す。

「わかんない。でも思う通りに自分の特技生かせたら、きっと気持ちいいよね。マリオでスター取った時の気分になるよ。まあでも、出来ないから私こんなんで、日吉くんに助けて貰ったんだけど! 何回もありがとう」

己の欠点を認め、人に礼を尽くす事をごく当たり前に受け入れている彼女は、厭わず後ろめたさも見せず、いつも感謝を口にした。
その声が発する、清々しさ。
短所も突き抜ければ長所に成り得るのかもしれない、と日頃厳しい鍛錬を重ねる日吉に思わせる、いっそ小気味良いまでの愚昧。
浅慮甚だしく、周囲を見渡す思慮深さからは程遠い。
年齢に付随する力関係に比較的従順だった日吉は、どちらが年嵩かわかったものではないと感じつつも、十人中六、七人は愚かだと判ずるであろうを先輩と尊称し、尊称するがゆえ無視はせず、折に触れては言葉を交わした。
春から移ろう季節は、初夏の匂いを深めていく。
空に重たげな雲の蓋が被さる日、部室を目指す足を引き止められる。
聞き覚えのある声に名を呼ばれたのだ。
首を傾けると、彼女だった。

「よかっ、た! 間に、合った! あのっね! これ、これをっね!」

息がつかえているのは、走った所為ではない。
飴かクッキーかは知らないが、菓子の類いが詰め込まれた袋を左右に引っ張り力を籠めているからだった。
今日は一体何だ、と日吉は遠慮なしに顔を歪める。

「……先輩。俺は暇じゃないんですが」
「だよね! だからっ、いそ、急いでるっ、んだけども!」

ぐぎぎと女らしさの欠片もない声をあげかねない形相で、開かぬ袋と格闘するの頬が僅かに紅潮してい、如何に懸命であるかは聞かずともわかった。
長い溜め息を吐く。
もう何度目かわからないがまたしても素早く歩み寄り、日吉のものより細く頼りない指から取り上げて口の部分を広げ引けば、どうしたらあんなにも苦闘するのかという程いとも簡単にぺりりと糊が剥がれた。
おお、の形に少女の唇があく。
今更褒められた所で感ずるでもない、日吉は冷たさを取り払わぬ眼差しだ。

「どうぞ」
「ありがとう! はい、これ!」

手ずから渡してやるや否や、中身の何個かを突っ返される。
手触りから察するに安価なセロファンに包まれた飴だ。
頑として顔色を変えぬ日吉が、に無理矢理握らされた掌中を見下した。

「意味がわかりません」
「あげる」
「頂く理由がありません」
「私にはあるよ。いつもありがとう。の意味! それ美味しいんだ、ずっと舐めてても溶けないし、お買い得。そこまで甘くないから、部活終わって疲れた時とかにいいと思う」

わざと慇懃に振る舞う日吉の顔色を窺いもせず、全くの善意のみで行動している少女は、小さな親切も見逃さないでいちいち返礼する。
本の間に挟まっていた栞を拾ってやったつい先日の事を思い返し、日吉は再び長い長い息を吐いた。

「…………どうも」

誰がどう見ても苦々しい表情をとった自覚が日吉にはあったが、寄越されるのは初めて会った時から変わらぬ笑顔だ。
決まりきった能天気な反応に、先輩の頭に詰まっているのは軽石ですか、と悪態をつく。
だけれど何くれと手を貸し、悪口雑言を心の中だけに留める日吉も日吉で十二分に人が好いのであった。



日吉自ら声を掛ける事はほとんどなく、すれ違うにしても、図書室で鉢合わせるにしても、いつだって彼女が先んじて名を口にした。
例外は間抜けを晒している時のみである。目前の困難に意識の全てを取られているから、この時ばかりは日吉から声を発し助け舟を出すのだ。
は美点の目立つ生徒ではないが、友人は決して少なくない。
ふざけ合う輪の中で笑い、日吉に限らず大抵誰かに助けられており、ごめんねと謝罪するよりありがとうと微笑む。
分け隔てなく健やかで明朗、それから要領の悪さも如何なく発揮し、誰に対しても己を偽る事はしなかった。
本のひっつき虫だが、特に現代文の成績が良いわけでもないと言う。
ついでに悪筆だ。ノートは付き合いの長い友人や家族にしか解読出来ぬらしい。
思春期に芽生えて然るべき羞恥心も薄い。
生徒が大勢いようとも大きな声で人を呼ぶし、気にする素振りもないまま会話を続けようとする。
幾度も通っているくせしていまだに本の並びを把握していないから、物覚えも悪いのだろう。
かと思えば時々、山勘が当たったテストで凄まじい高得点を叩き出す。
しかし安定してはおらず、成績優秀者として名を轟かせたのちの小テストでは下から数えた方が早い順位にまで落ち込んだ。ムラッ気とかいうレベルではない。
学年の異なる日吉が何故そこまで知り得ているのかといえば、聞きたくもないのに本人自ら話し始めるからなのであった。
これは違う。
ある日ふと、日吉は独りごちた。
先輩と後輩といった枠に分類されるものではない。
動物か何かに懐かれているのと同じだ。
との関係性はつまる所、そういう位置に収まっている。

「日吉くんてすごいんだねえ」

いつだったか、どういうわけだったか、委細は覚えていないが、話の流れで日吉が二百人を誇る男子テニス部にて準レギュラーの地位を獲得していると知った少女が、心からの感嘆を零した。
レギュラーと言っても正ではない。準なのだ。
普通は純粋に嫌味かとにかく無難に褒めときゃいいじゃんと煽てているだけだろうと突っ撥ねる所だが、生憎どちらにも当てはまらず、本心に違いなかった。
何故ならは一学年下の日吉が呆れる程愚かで、阿呆で、周りに向ける目を持たぬ、騒がしい子供のようなものだからだ。でなくば動物である。
彼女という人を理解しながら時折、本当にこの人は俺より先輩なのかと本気で危ぶんだ。
賞賛にまんじりと耳を傾ける日吉を前に、が笑って言い重ねる。

「ねえ、覚えてる? 思う通りに特技生かせたら気持ちいいっていう話。日吉くんは生かせてるんだよね。私日吉くんのテニス見た事ないけど、なんとなくそんな気がする。だからたっくさん部員がいる部なのに、上の方まで登っていけるんじゃない? いいな、羨ましいなあ」

私もなんか生かせる部活とかないかな。あっ速読部とかいいんじゃ?
ふざけているのか真面目なのか判断の下せぬ言に、思いも寄らない方向から鳩尾を突かれた気分に陥った日吉は僅か言葉を詰まらせ、そののちに研いだ刃の鋭さで取って返した。

「あんたの一発芸と一緒にしないで下さい」
「あは! そうだよね、ごめんごめん」

どこを切り捨てたとてぐにゃぐにゃと掴めず、攻撃の意もなさぬような声と笑顔は日吉の絶対零度にも傷つかない。
だから幾らでも切っ先を翻した。
取り付く島のない言葉を連ね、跳ね除け、けんもほろろに追い返した。
それでもはのんびり笑っている。
嘘なき瞳で日吉を見上げ、氷帝の頂点がどれほど尊く得難いものなのか知りもせず、表情を輝かせては思い感じるままを口にする。
阿呆も突き抜ければ、穏やかな気性だと賞されるのかもしれなかった。



そういう人を前にしたから、この日だけは平時と同じに見落とせなかったのだろう。
つまらぬ事だ。
ただ己の実力が足りぬが為生まれた年と籍を並べるチームメイトに先を越され、要するに面白くなかった。
正と準、たった一文字の違いにとんでもない差が生まれたような気持ちに蝕まれた。
憤りを持て余し、暗き胸の内で吹き溜まりとなって、まだ出来上がっていない心の軟な部分が荒れている。
天にも近き座から見下ろせば石ころに少し躓いたのと相違ない、光満ちる玉座を手にする道程にあって、真実つまらぬ事であった。
逐一立ち止まり、感傷に浸って不甲斐なさを嘆いている暇等見つけていないで、現状をさっさと受諾しすぐさま上り詰めれば良い、単純な話だった。

「日吉くん!」

階段を下っていた背に降る声が、相変わらずとしか言い様のない響きで日吉の鼓膜を揺する。
緩慢に顔を上向かせると、階上の手摺に該当する部分から身を乗り出したが、艶やかな黒髪を投げ出して日吉を見下ろしていた。
二つの視線が交わる。
動物に似て無邪気で人の内情等鑑みやしない少女は、心からの笑顔を浮かべて、笑声を漏らした。
一度引っ込んで、胸の前に本を抱き、軽やかに段を跨いでくる。
踊り場から些か下がった位置で留まっていた日吉は、彼女の二の句を待たずして口火を切った。

「前にも言いましたが、先輩と違って俺は暇じゃないんですよ。構わないで貰えますか」

本当に人間が発したものかと怪しむくらい、温度のない声音だった。
手加減なしに斬り刻み、吐き捨てるような言葉だった。
日吉の背後ろ、ごく近しい距離ではっと動きの止まった気配がする。
そう確かに頭の中で感じているのに、どこか遠い箇所で感知しているような、気持ちの悪さに胃が浮く。
何を言ったのか、本当は何を伝えたいのか、実の所日吉自身にすら理解出来ていない。
無性に、日吉くんてすごいんだねえ、羨ましいなあ、いつかの明るい声ばかりが思い出されてやまなかった。

「いい加減、付き合いきれない」

言うだけ言って、階段を下りた。
完全な八つ当たりで、大人げない事をしたのだと誰よりも日吉がわかっていたから、一つ年上である先輩の顔は見なかった。







己の振る舞いが己に返ってくるとは言ったものだが、まさかこうも痛感するとは思わなかったと悔いるのが中学二年生、良くも悪くも発展途上なのである。
その日の夜を待たずして日吉は、伝えるでもなくコミュニケーションの一つでもない、ただただ身勝手に吐いただけの言葉に押し潰されそうになった。
生まれ続ける罪悪感は恐ろしく重く、腹にしかと据えているプライドがぎしぎし軋み、貰い事故に等しい経験を味わわされたであろうを思うと、それこそ阿呆のように心が沈んだ。
見た覚えもない少女の傷ついた瞳を想像しては、後悔に苛まれもした。
悔いるあまり、濃い墨を流した宵が来て、裏腹に透き通る朝が訪れても、険しさを貼りつけた表情は昨日のまま凍りついている。
家人は流石に大人ばかりで何も尋ねて来なかったが、学園に通う同級生はそうもいかない。気遣わしげに、腫れ物に触るよう、視線だけでどうした一体何があったと問い掛けて来た。
だがしかしあくまでも遠巻き、一向に近づいては来ないのでとっとと放り、鬱々とした光しか灯さぬ両目で事あるごとに間抜けを晒していた、ただ一人を静かに探す。
非は己にある。
彼女はこちらの事情等知り得ないし、何よりああも無邪気で、ほとんど子供か動物に近く、道理のわからぬ阿呆なのだ。
ここで折れるべきは明らかに自分の方であり、引き摺って解けなくなるまで紐を絡ませる事もない。
すみませんでした。
あんな事を言うつもりはなかったんです。
忘れて下さい。
たったそれだけ言えば済むだろう。呑気極まりないは、また例のふやけた笑顔で頷いてくれるように思えた。
冷静になれ。大人になれ。
唱えている内に、荒れては傷を生み暗がりへ転がり落ちていくばかりの心は凪いだ。
袋小路へ迷いかけた思案にやや光が差すと、あらゆる事に対して余裕が生まれ、今朝方からずっと恐ろしげであった表情も幾らか和らぐ。
毎日顔を合わせているわけではなかったので、謝罪すると方針を決めものの運よく出会えはしなかったが、別段気にならなかった。
どうせいつかどこかでかち合うだろうし、あの迂闊な先輩が人の手を借りずに日々を無事に過ごせるわけがない。
根拠なき仮定を打ち据えて寄りかかった日吉は、稽古中ならば隙ありとばかりに転がされかねない温さで構えていた。
油断大敵。持ち上げて落とされる。
不穏な先々は、彼の甘さが生んだようなものであった。

「あっなあ、日吉日吉」

同じレギュラーといえども頭につくのが正か準かの違いだけで、練習メニューに差が出る。
正レギュラーがコートを使った練習をするさ中、外周を命じられた日吉含む準レギュラーらはそれこそ馬車馬の如く走らされ、僅かな休憩を挟んでいる所だった。
気安く日吉の名を呼んだのは、若干空気の読めぬ、いかにも軽そうな見目の男子部員だ。
大した用もないのに話しかけるんじゃねーよと語らずして語る日吉の態度も意に介さず、己の興が乗った時のみこうして不用意に距離を縮めてくるのである。
最早口も開かず目だけで用向きを問う日吉に対し、人好きのする、だが軽薄な印象も与える笑顔の男子が息を吸うように話し始めた。

「今日俺、あの人と話したぜ。たまにお前と一緒にいるセンパイ」

間髪入れず返せなかったのは、日吉の落ち度か否か。
短いキーワードを集めるまでもない。
浮かぶのは一人しかいなかった。
降り落ちる汗を拭っていたタオルが止まり、そういえば彼女が人目を気にしなさ過ぎる性質なので、二年生のみでランニングしていた時に声を掛けられた日があったのを今更思い出してしまう。
遅い。不覚である。

「よく知んねーけど面白い人だよな。元気で可愛いし。あとって名前もまたそんな顔してんなーって感じでウケたわ、俺」

悪気はなく、この男にしてみればおそらく褒めているのであろうと理解していた。
していたが、言葉にしようのない強烈な弾みが胸を蹴り上げ、呼吸の速度をも超越し飛び出していく。

「……おい、口の利き方に気をつけろ」

地獄の使者かという程低い声だ。
ともすれば閻魔より迫力があるかもしれない。
だが空気の読めぬ男には通じず、何が、言わんばかりにきょとんとしている。
眉間に正体不明の熱が籠もるのを感じながら日吉は淡々と続けた。

「相手は先輩だ」
「あそっか、ワリ。なんか年上って感じしなくてさっ! どっちかっつーと日吉のが年上っぽくね? センパイ、絶対お前よりしっかりしてねーもん」

言いたい事を言い尽くし気が済んだのか、爽やかな笑い声を置き土産にチームメイトは水場の方へと去っていった。
不本意にも取り残される形となった日吉はといえば、手どころか一切の動きを止めてしまっている。
垂れ下がったタオルが虚しく風に吹かれ、揺れる前髪の向こうから、部活動に励む幾つもの声が響き聞こえた。
こめかみを通り伝う汗がいやに冷たい。
だのに体の芯は燃え立つようなうねりによって、今にも破れそうだった。
今日だ。
よりにもよって会わずに過ごした今日、己の与り知らぬ所で彼女はテニス部部員と親交を深めていたのだ。
見るからに軽い男ではあるが、絶対零度の上、寄るな触るな二度と話しかけるな、拒絶したも同然の日吉に比べ、どちらが話しやすいかは論じるまでもないだろう。
虚弱か元気かと問われれば、間違いなく後者だと思っていた。
名字だけでなく、下の名前も知っていた。
だけど、ただの一度も声に出した事はなかった。
他者には口の利き方に気をつけろと咎めておきながら、他者の何倍もを阿呆だ間抜けだ本当に年上かと侮り、呆れ、彼女ではなく自分こそがしっかりしていなければと奢っていたのである。
それを踏み躙られたと憤るのは、許し難い行為だと拳を握り締めてしまうのは、勝手以外の何ものでもない。
深く長く、途切れぬのではないかといった呼気が、渇いた唇を割って流れていく。
内に籠もり行き場所のない、怒りのようでまるで似ていない感情は、息を吐いても吐いても出ていかずに日吉を毒する。
自らを見失いそうな、得体の知れない質量に、体内の隅々までを巡る血が病んだ。
心が重い。
足の裏が、グラウンドにのめり込んでいく心地だった。
歯噛みする思いが勝ってタオルの所在も失念し、くそ、と腕で額を拭い払うと、勢いに乗った汗の数滴が砂地に散って染みを作る。
目にも気にも障ったので、スニーカーの底を滑らせ念入りに掻き消した。
跡を消してもなくならないのは、笑顔がやたらと喧しく慕わしい、彼女の面影だ。







翌日、暇さえあれば図書室に通い詰め、本の世界に埋没しているはずの少女の姿はなかった。
次の日も、そのまた次の日も、見出す事は出来なかった。
意識していない時は、またか、うんざりするくらい目撃していたというのに、一体どういった法則が働いているのか。
そこまで考え、日吉は悟った。
――避けられている。
これまでの経緯を振り返れば自明の理であった。
冗談の匂いが感じられぬ声で、構わないで貰えますか、付き合いきれない、暇じゃないんです、告げられも尚態度が変わらなかったらそれはそれで問題だ。空気が読めないとかいう枠に収まらない。
むしろ日吉の言葉を律儀に守っているは、至って真面目な模範的女子と言えよう。
その女子に、自分が斬って投げつけた言葉を思い出す。
何を言っても傷つかない等とどうして信じ込んでいたのだろう。
平然としているように映ったとて、周りには常と変わらぬように見えたとて、心の中までは誰にもわからないのに。
日が経つにつれ後悔は焼け爛れてゆき、最早名付ける事も叶わぬ感情と成り果てた。
荒々しい炎のうねりにまかれた残骸だった。
燃え落ちかけた胸の洞を、それでも捨てられず、胆力のみで以って抱える日吉は、に纏わる全てを後生大事に取っていると同義の現状や理由にまるで気付いていない。
汲み上げても尽きぬ思いの所以等、ここに来ては一つしかないのというに、見向きもしなかった。


いっそ一度真正面から鉢合わせて、露骨に避けられでもした方が気楽だろう。諦めもつくというものだ。
日吉にしては珍しくやや投げやりな心持で、自習室とは名ばかりのいわば自由室にて数学の課題と向き合っていた時である。
図書室よりも微かに話し声が漏れ聞こえ、図書室のようにきんと張り詰める空気ではない、生来騒々しさを嫌う日吉が何故ここを選んだのかというと、彼もまた避けていたからかもしれなかった。
提出期限はまだ先だが部活動と両立するにあたって早急に片付けておくべきだと判じたはずなのに、ペンを握る指は冴えない。
開かれた教科書のページは先刻とそう変わらず、時間ばかりが無情に過ぎていく。
これではいけないと己を律すればする程、深みにはまり捕らわれてしまう。
眉と眉の間に丸めた拳をついて、顔を伏せる。
本当にどうかしている、自覚があるのに矯正出来ないとはかくも苦しいものなのか。
込み上げる苦味を稽古の度に重ねてきた精神統一で乗り切ろうと試み、にわかに沸いた誰かの気配で挫かれた。

「日吉くん日吉くん」

潜められた声がこそばゆい。
ぎょっとして発生源を見遣れば、いつの間に腰を下ろしたのか全く謎の、日吉の隣に座ったあげくに椅子ごと移動し身を寄せる少女が、一向に進まぬ真白きノートを無遠慮に覗き込んでいる。
先輩。
驚きは口から零れなかった。
胸の内のみで呟くと途端に現実味を帯び熱を孕む。
日吉が何かを言うより早く、しい、とは人差し指を唇の前で立てた。

「あのね、毎日ご飯食べてる?」

思いも寄らぬ再会にぐっと詰まった息と胸が、揃って萎んだ。
意図が掴めない。

「ストレッチも馬鹿にしちゃいけないんだって。めんどくさいけどやった方がいいって書いてあった。こないだ読んだ本に。それでね、あとはビタミンとカルシウム。でもこれはご飯食べてればいいよね。日吉くんちすごいちゃんとしたご飯出そうだもん。爪とか手のツボ押すのもいいみたい。お風呂もシャワーだけじゃダメでね、ガム噛むとか、飴舐めるとか……あ、課題図書じゃなくって気分転換に読書とか。私、学校にある本ならオススメ出来るよ?」

ひそひそと内緒話のトーンで耳に触れる彼女の声は心地好いと言えなくもなかったが、語られる内容が意味不明なので帳消しだと日吉は断じた。
何より困惑が勝る。返すべき答えもわからず、途方に暮れた。

「……先輩」
「うん、なに? 読みたい本決まった?」
「いえ……そうではなく」

彼女に合わせて日吉もまた声量を抑えたが、余計に狭間の距離が濃くなった気がして落ち着かない。
近いと思う以上に近い。
我ながら何を思い言いたいのか見失っていると気付きつつも、他に適当な表現が浮かばなかった。

「ストレス溜まってるなって思ってからじゃ遅いんだって、自覚症状ない内から自分で息抜きとかリラックス出来る時間を作った方がいいんだって」

終わりなき困惑に解決の糸が垂らされ、日吉は迷わずの顔を見る。
至って生真面目に続ける人の真意をうっすら感じ、全身虚脱という珍妙な現象を味わう羽目となった。
つまり彼女は、日吉が疲労に負け、ストレスを発散出来ず、ぴりぴりと張り詰め通しであった為に、他者を遠ざける発言をしたと思っているのである。
己に非があると責めぬあたりが、まさにだ。
それとも日吉が訳もなく人を蔑み、突き放す真似はしないと全面的に信頼しているのか。
日吉にはわからなかった。
がしかし、眼前で言い募る先輩が案じてやらなければならぬ程軟弱な精神の持ち主ではない事だけは理解した。
なんだこの起き上がり小法師は。どれだけめげないんだ。
捨て去ったはずの呆れが蘇りかけている。

「…………先輩、もういいですから」
「そんで私、昨日テレビで見たの。癒しの膝枕!」

人の制止を聞かぬ少女がとんでもない事を言い出すので、日吉は飲み物を口に含んでいたらまず噴いていただろうというくらいの勢いで口腔内を暴発させた。

「何言ってるんですか!」
「あれ? 知らない? そういうバイトあるんだよね? 膝枕しながら耳かきするお店」

誰だ!
この馬鹿に馬鹿な事を教えた大馬鹿は!
テレビで見た、というついさっきの発言を忘れた日吉が怒りに拳を震わし、普段と少々意味の異なる眉間の皺を刻んだ所で、は机上に置いてあった自らの手を下ろした。
行き先は自習室の硬い椅子ではない。
制服のスカートの上にゆっくり落ちて、丁度腿のあたりに滑り込んだ。
手の甲が白い。
ガラス窓越しに差す陽射しと机の影と隣り合い、いよいよ生々しかった。
得体の知れぬ生き物のようなそれがスカートへ押し付けられて、足の形が布越しに浮き上がる。間に出来た細い影が一層色を含み、皺の一つ一つに灯っていった。
剥き出しの膝は丸く、本当に同じ骨が入っているのかと思う。返す返すも距離を詰められているので、彼女の外腿は今にも日吉の足に触れそうだ。
ぱしと何事か確かめるように太腿を叩き、頷く瞳があからさまにいとけない。
そこでようやく無意識に目で追っていた事を知った日吉は、慌てて視線を外し大いに動揺した。
意識すればする分、心臓が指示を無視し始め、最末端の血管までもが膨れてがなるのだから手に負えない。
こういう形の枕も売ってるらしいよ。
と、ひたすら耐え忍んでいるような人の気も知らないで囁くので、顔面を一瞬にして凍てつかせた。
駄目だ。この人はやはり阿呆だ。
考えなしだ、他人を一切合切疑わぬ間抜けだ、しぶとい馬鹿だつくづくだ。
無言のままで散々に罵った。
少々行儀の悪い言葉を好きなだけぶつけている内に、調子が戻ってくる。

「本当にわけがわからない人ですね。あんた俺に馬鹿だと思って欲しいんですか」

そうして切れ味の良い包丁でばっさり叩き落とすが如く、いつものよう、ひと息に言いきったのである。
冷めた物言いは数秒遅れで日吉自身の脳へ届き、そこでやっと後悔が走った。
変わらない。
同じだ。
これでは、以前と何も。また繰り返し。
ぶつ切りとなった言葉を繋ぎ合わせる前に、日吉は隣の少女を見遣った。
失言を悟り、色合いの失せた顔で息を止めた。
するとほんの一秒後、別の意味合いで息継ぎが出来なくなる。
幾度となく頭をよぎった想像上の傷を負った表情等はどこにも見当たらず、驚き目を丸くしているでもない、ごめんなさいと謝罪を口にする構えから程遠く、微笑む人がそこにいた。
世の暢気という暢気を寄せ集めた、あの笑顔ではない。
爛々と輝き、素直に人を見上げ称える快活さもない。
やんわり滲んだ眦は薄く、笑んだ睫毛のか細さ、宿った光の粒が美しい、瞳の真ん中に温もりがあって、そんなはずはないと思うのに、何もかもを見透かしたような眼差しはひたむきに優しかった。
緩んだ頬へ、唇がたおやかに食い込む。
囁く声は甘く残る。

「……元気、出た?」

子供じゃなかった。
当然、動物でもなかった。
彼女は確かに日吉より一年先に生まれつき、一年多く年を重ねた、年上の女の人だった。
図書室で雑に本を手渡したはじまりの日から今の今までが巡り、向けてきたあらゆる罵りの言葉を逆に叩きつけられ、己が未熟さが浮き彫りとなったあげく、思い上がりに頬を打たれる。
とんでもない破壊力だ。
到底敵わない。
後輩が沈んでいるように見えたから道化を演じたのか、もしかして、彼女はわざと。
思い至った瞬間、かっと首から上へ全身の血液が集まりわなないて煮えるものだから、日吉は大人しく座っている事が出来なくなった。

「出……っません!!」

勢いよく立ち上がった弾みで後ろに倒れた椅子が、そこらじゅうをけたたましくかき鳴らす。几帳面に並び開かれていたノートと教科書、ペンも盛大に跳ね動いた。
そこまで静寂に包まれていないとはいえども自習室、声の大きさと併せてなかなかの騒音だ、無数の視線が一点に重なる。
それらが集約された先には、正しい判断力を失った日吉が耳朶と首筋を真っ赤にしながら仁王立ちしていた。


かくして、冷静沈着、虎視眈々と上を狙う食えない二年生と評判だった彼は、ご乱心のレッテルを貼られる運びと相成ったのである。