雑談しよう あ、ヤバい怒られる。 覚束ない手足にうわんと奇妙にぐらつく頭、ともっと別の事を心配すべき場面で私が思ったのはまずそれだった。 ちょっとした出来心が招いた事態だったのだ。 油断していたと言い換えてもいい。 ご飯を早めに済ませた昼休み、近道最中に通りかかった花壇の傍、誰かが捨てたか落としたのかストローの袋が置き去りにされていた。 見落としかねない細かさが目についてしまうのは、花を愛でるかの人のおかげである。 急ぐ用事もなし、時間もまだある、ごみを拾いに屈むついでに陽の光をたくさん浴びている花びらを眺める事とした。 鮮やかな色彩を追い、教えて貰った花の名を数え上げ、もっと近くで見ようと完全にしゃがみ込む。 ほんのり鼻をくすぐる香りが、季節外れの暑さに参った体を癒してくれるような気がした。 花から連想する一人に思いを巡らせ、とりどりの色合い、輝く緑を次々伝っていく。 端から端まで見渡して、雑草ひとつ生えていない行き届いた手入れに感嘆の溜め息がこぼれる。 本当は雑草なんて名前の植物はないんだよ。 言ったのはいつかの精市くんだった。 自らが世話する庭では容赦なくブチブチ抜いているくせに、語る声音は優しい。 あの時、よく見かける、雑草としか認識していなかったものを彼は何と呼んでいたっけ。 あてもなく思い出している内、私の興味は花からその雑草にまで及び、少しの寄り道が本格的な復習じみた行為へと達してしまった。 初夏らしからぬ陽射しと気温だとは天気予報で知り得ていたが、申し訳ない事に右から左へ流していたのだろう。 というより7月8月ではない、まだまだ夏の遠い、風ゆるやかな季節だと侮っていたのである。 じゃれ合う男子の大きな声と声が背後ろを通り過ぎた所で想像以上の時間の浪費に気づき、立ち上がろうとして不自然によろけた。あれ、声を出そうとして、しかしなかなか出てこず、何度か試すも乱れた呼吸のみが虚しく響く。 そういえば熱い。 汗が気持ち悪い。 手に力が入らない。 著しく判断能力の低下した脳でもマズい状況だというのは分析出来たのだろう、のろのろと緩慢に這い動き、最寄の水道まで何とか辿り着いた私は、ハンカチを濡らして額やら腕やら首の後ろやらを冷やした。 夏に比べたらまだまだ冷たい水を息も絶え絶えに飲んだが効果覿面とは言えず、元の調子は戻ってこない。 最早蛇口を捻って閉める気力すら残っていなかったが、かえって出しっ放しの方が跳ねる水滴で涼しい。 だけどいい加減にしないと先生に叱られるかもしれない。 でも動けそうにない。 ぐだぐだまとまりゼロの思考を放置せざるを得ない現状に、一つの解が見えてきた。 もしかして熱中症。 口を酸っぱくして気をつけなさいと言われた過去が大挙して蘇り、穏やかな顔つきでぴしゃりと注意する人が点滅する目蓋の裏にぽんと浮かんだ。 一息つく間もなく思う。 あ、ヤバい怒られる。 「……?」 ものすごいタイミングだったので、初めは幻聴だと判断した。 首を傾けるのも辛く、目だけで声の方を確認すれば、相手は既に水場前でしゃがみ込む私の隣まで来ており、目線を合わせるように屈んだのが落ちる影でわかった。 そこでようやく、幻じゃないのだと肌で感じる。 「どうしたの。どこか具合でも悪い」 薄い膜がかかって聞こえる声に、恐れていた怒気や呆れはない。 ただ心から他者を案じる優しさだけが滲んでいた為に、応じなければと焦りが生まれる。 精市くん。 自分ではしっかり口にしたつもりだったのに、己の耳に届いたのは呂律の回っていない、舌足らずで不安を煽るものだった。 違う、多分熱中症っぽい、でも大丈夫きっと、と根拠なき自己判断をてんでばらばらに続けていたら、性急の二文字が相応しい速さで腕を掴まれる。 精市くんらしくない、乱暴な振る舞いだ。 痛いと声を上げかけて、目が回る。 ちかちか明滅を繰り返していた視界が隅の方から暗くなっていき、やがて何も見えなくなった。 そこから先、一体何がどうなったのかあまり覚えていない。 ※ 朦朧としていた意識から抜け出し目の前がひらけたのは、鳥肌が立たぬ程度に心地よく冷えた室内だった。 伸びた視線の先に、机の足がある。 その向こうは居並ぶロッカー群と見慣れない床だ。 それらをぼんやり眺めている内、どうやら自分はどこかで寝転がっている事に気がいった。 広がる風景は横向きになっており、視点も低い。 まだ本調子ではない頭で訳を探す為時間を巻き戻すと、水道前でしゃがみ込んでいた頃から今に至るまでおぼろげながらも記憶しているらしく、幾人かの人の声に掌の感触、自らが発したものではない振動と扉の開閉音と額に貼りついた冷たさ、諸々が順繰りに思い出されていく。 決して忘れるべからず、最も重要なのは全てに関連している人についてである。 ゆっくりとではあるが事態の把握をしていくさ中、もしかしてもしかしなくても、と当てたくない正解に近づいて、まず視点を変えようと身じろぎしたら上向いた耳へ想像通りの一声が降った。 「気が付いた?」 思わず固まり、姿を確かめる手前で動きを止めてしまう。 ぎくしゃくと頷けば、密やかに漏れる息の音がした。 「軽い熱中症だろうってさ。まったく、どうしてよりにもよって保健の先生が出張している時に倒れるのかな」 だけど安心していい、柳の見立てだからね、間違ってはいないんじゃない。 なるほど確かにそうだろう、下手な医者より信用出来る気がする。 淡々と紡がれる声音のおかげで妙に落ち着いた返事を胸の中だけにこぼした。 するとここがどこだかわかるかと問われたので、素直にわからないと返す。 普通なら保健室に直行する所を出来なかった理由はわかったが、病人怪我人の運び込まれる代わりの場所なんて思いつかない。いつにも増して呆けた頭なら尚更だ。 ややあって細心の注意を払うような声で、部室、静々と告げられる。 途端、味わった覚えのない空気が鼻を抜けていき、口を開けば異様に渇いていて喋りにくい。 「……精市くんの?」 「俺のっていうか、俺達のだね」 「……じゃあ……テ、テニス部の?」 「俺とが堂々と使えるんだから、他の部のわけないだろ」 語尾に微笑みが追加された物言いだけど、相変わらず、なんというか芯みたいな部分がかすかに張り詰めている。 常に悠然と構える精市くんと結びつかない声色が、私に焦りを生み出してやまない。 いわゆる急病人の特権というやつで禁じられている約束事を打ち破ってしまったのか、それとも昼休みはとっくに終わって授業中で結果としてサボらせた事になったのか、次から次へ沸いては不安を掻き立てた。 一秒ごとに意識がクリアになっていき、はっとして額に指を伸ばせば冷却シートの感触がある。 首の後ろだって涼しい、脇の下にはコンパクトサイズのアイスノンらしきものが挟まっていて、何故今まで気がついていなかったのかが不思議なくらい手厚い看護っぷりである。 そして横向きになった頬の下、つまり私が枕にしているのは誰かの足で、限られた視野ではあるけれど今この場にいるのは一人しかいないはずだから、という所までようやく考え至って血の気が引いた。 とんでもない状況と体勢だ。 「あ、嘘、ごめん!」 下になっている方の肘をつき飛び起きかけて、出来なかった。 少しだけ浮いた私の肩に落ちた手がある。 押さえつけられてはいないけど、同等の威力を持った、重い掌だった。 「…………心配したよ」 水滴る蛇口の前で聞いたものと相違なく、怒気も呆れも含まれていない、静かな響きだ。 ものの数秒で途絶える。 たったの一言だった。 でも、千も万も言いたい事を押し込めているよう聞こえた。 そう大きな声じゃないし、空気を揺する強さがあるわけでもないのがむしろ深く胸に刺さり、肩を包む指先はただ触れているだけと言うのが正しいのに、形にはならない感情を雄弁に語りかけている。 その切実さが私を引き止めた。 叱責されるより、怒鳴られるより、厳しい注意を受けるより、大いに心を掻き乱された。 「ごめんなさい」 「うん」 自分でも驚く程すんなり謝罪を口に出来た私へ、精市くんはいとも簡単に許しを施す。 時に言葉よりも心に残る指が、鎖骨の辺りから肩口にかけてを撫でる。 一刻も早く退かなければという焦燥は一瞬にして収まり、深呼吸を繰り返す余裕さえ生まれた。 他に動けるわけでなし、なんとなく元通りに体を横たえさせて待つがしかし、何秒経っても掌をどけてくれる気配がないので戸惑った。 優しく触れられているだけだから思い切り払い除ければ済む話なのだろうけど、いつもと少し違う精市くんの振る舞いが抗う気力を根こそぎ取り除いてしまう。 「…あの、それでいつまで」 こうしてればいいの。 柳くんはどれくらい寝てればいいって言ってたの。 聞こうとして、機会を奪われる。 「俺の気が済むまで」 しかもこちらの意を先読みされた上に、どういう事だ、と突っ込まずにはいられない答えである。仮にも病人であるこちらの意志は汲み取ってくれないらしい。 「……助けてくれてありがとう」 「どういたしまして」 「それから、迷惑かけてすいません」 「随分今更だね」 ぐっと堪え、めげずに本題に入る。 「…私もう大丈夫だと思うんだけど、」 「駄目だ」 努力虚しく、きっぱり告げられた。もしかしたら今までで一番強い切り捨てかもしれない。 絶対今の発音字にしたら漢字だった、ダメとかだめとかそういうニュアンスじゃなかった、などと考えながら、右斜め下に生えている精市くんの膝を見るとはなしに眺めてみる。 いわゆる膝枕をされている形だけど、膝はあそこだから、正しくは腿枕なんじゃないか。 手持無沙汰と置かれた状況の不可思議さの所為で、意味のない思考に身を委ねる他ない。 とりあえず脇の下が寒いのでアイスノンを剥がし、今やベッド代わりとなっているイスの上に置いた。 私の諦めが通常に比べ早いのは、やはり本調子じゃないからか。 そうすると精市くんの判断は正しいのかも、無言のまま納得していれば、この体勢では映らない視界の上部でぱらぱらと紙をめくる音がする。 次に、白面にペンを走らせる気配。 左手はそのまま、右手だけで何かしらの作業を開始したようだ。 「大丈夫じゃないから、今日は大人しいんじゃないのかい」 「……そうかな」 「俺はそうだと思うな」 「そっか」 つるつるに磨かれた丸い石が容易く転がされるみたく答えていれば、本当に大丈夫、霧雨に似て肌に染みる声が降った。 まあ確かに普通ならもっと抵抗するし、どれだけ引き止められようとも起き上がって退室を申し出るだろう、精市くんの言う通り今日の自分は大人しいと認めざるを得ない。 今日以外の日は大人しくないとでも言いたいのかと思わなくもないが、あえて口にする事もないように思えた。 制服のシャツ越しに、体温の灯る掌の形が伝わる。 高気温に負けた私は衣替え前にもかかわらずブレザーもベストも着用していない、どこぞの風紀委員がしかめっ面で注意をしてきそうな装いだったが、今日に限れば正解のはずだ。熱が籠もるあまり異常をきたした体だけど、触れる温度はまったく不快ではなかった。 少々重い目蓋を閉じては、ゆっくり開いていく。 「精市くん、仕事中?」 「え?」 「なんか書いてる音がする」 「書いてる音……これの事か。部誌だよ」 放課後、部活中に目を通しても構わないが、時間が惜しい。 細々した雑事よりも練習を優先出来るよう、昼休みに終わらせようとしていた所だった。 教室から部誌や資料のある部室へ向かう途中、外の水道の前でへたり込む背中を見つけて驚いた。 わかりやすく順を追って説明してくれる言葉と言葉の繋ぎ目は滑らかで、彩る音はうんと優しかった。 覇気なくぼんやりしている私にも理解出来るよう、気を遣ってくれているのだ。 肩の縮こまる思いが走るのと同時、確かにいつも以上に穏やかだと感じているのに、聞き取れないくらい奥底では強張ったままの声に胸が詰まった。 ごめんなさい。 もう一度言おうとして、潰える。 伝えた所で、どうしたんだい、笑われるに違いない。 普段は本当にNOと言えない日本人かという程はっきり口にするくせして、精市くんはこういう時心の内を表に出さない。 大体何に対してのごめんなさいなのか、許して欲しいだけというなら不必要だ、怒りを買ったわけでも許されていないわけでもない、いやそこが心苦しいからこその衝動か、だとしたら自分の気持ちを楽にしたい為に謝るのは違うだろう、様々を巡らせていれば唇が張り付いていく。 頼りのない、小さな子供に還った気分だった。 どうしようもなくなって何もかもを持て余した私は、片頬さえどこに置いていればいいのかわからずに恐々身じろぎする。 ほとんど無意識に精市くんを枕同然に扱ってしまったので、支えにした左手は腿の形を正しく感じ取ってしまった。 膝枕という状況を綺麗さっぱり忘れていたので、当然だが自室の枕から程遠い感触に驚く。あまりの違いに心の中で、怖っ、と呟きすらした。 すると、紙の上でも縦横無尽という具合に走っていたペンの音が止まる。 「……、指が熱い」 肩で静止していた掌がシャツ越しに肌を少しばかり撫でていく。 視界の端に映る手の甲は、どうしても強靭に見えた。 「精市くんは足がかたい」 「そこは、テニスプレイヤーの足が柔らかかったら問題だと思ってくれないか」 思ったままを返せば、手と右頬の下にある枕だけど枕じゃないものが揺れて、遠慮や強張りの取り除かれた笑い声が鼓膜に降り落ちてくる。 そこでようやく、私の体から力が抜けたのだった。 しらずしらず思いつめていた呼吸も元通りになり、ひんやり涼しい額や首の後ろ、クーラーの風を存分に味わう事が出来る。 夏本番を前にしてこの厚遇、贅沢以外の何ものでもない。 細く長い、安堵に染まった息を吐くと、触れ通しだった精市くんの手が首筋へと滑り、こめかみをくすぐって、冷却シートの上に散る前髪を丁寧に掻き分けた。 耐え難い眠気と似て非なる感覚が、元々重たげだった目蓋を更に重くする。 払われ、流し、それでも余った髪を耳にかける指は優しい。小さな子供の次は、猫か何かか動物になった気分だ。 一瞬ぬくもりが離れ、すぐに戻る。 人差し指の甲で額とこめかみの間を掠める精市くんは、私の体に残る熱を確かめているようだった。 予想もしない心地よさに両目を細め、でもこんな所誰かに見られでもしたら怖すぎ、頭の中でぼやき、はっとする。 やわらに狭まっていた視界が開かれ、脱力の限りを尽くしていた掌で握り拳を作る。 「……ちょっと待って」 「うん?」 大量の冷や汗を溢れさせんばかりに震える思考回路へ、どこまでもたおやかで棘の見つからぬ応えが差し込まれた。 だけど生憎、この嫌な予感を消し去ってくれる類いのものではない。 「せ、精市くん。まさかとは思うけど、私ここまで自力で歩けた?」 「そんな記憶があるんだ、には」 「……ない……ないから聞いてる……」 「歩けてないよ。歩く以前に一人で立てそうになかったし、第一、意識だってはっきりしていなかったみたいだしね」 「…だよね」 「ああ」 「……精市くん」 「なんだい」 「まさかとは思うけど。まさかとは思うけど、私誰かに運ばれたりした?」 「俺が運んだよ。抱っこして。ああ……フフ、人目もたくさんあったけれど、緊急時だから皆気にしていないさ。誰が見たって君は急病人だ」 真実に気づきたくないが為に回りくどくなった問いかけへ、一足飛びに正解が投げられて精神が沼に沈没した。 知ってか知らずか精市くんは、よしよし、と言わんばかりに私の旋毛辺りを撫でつけている。のん気な事だ。 残念ながらこの場面ではいくら指遣いが優しかろうと癒されるはずもなく、ちょっと想像しただけで頭を掻き毟りたくなった私は、空気を限界まで握り潰した拳をそのまま顔面に当て文字通り身悶えた。 急病人だ緊急時だと言ったって、そんなの注目を浴びるだけ浴びまくったに違いない。 目撃した人から人へ伝わり、実際目にしていない人にだって遠くない未来知れ渡るだろう。 顔と言わず全身から火が出そうだ。 バカ。 前からずっと思ってたし言ってきたけど私ほんとバカ。 もうだめ明日から学校行ける気がしない、ていうか今日この後どんな顔して授業に出ればいいのかがまずわかんない恥ずかしすぎる気が遠くなりそう。 先程まで呆けていた頭が途端にフル回転し、居た堪れなさや羞恥が発端となって己への罵倒を繰り返す。 「大丈夫。今日はもう早退だから、は」 「え!?」 そうやって延々過去の自分にダメ出しをしていたら、思いがけない一言に小さくなっていた意識を呼び戻された。 脊髄反射的に起き上がろうとして、いつの間にやら移動していた掌がまたしても初動を挫く。 肩があたたかい。 「鞄はクラスの子が持って来てくれたよ」 「え…いや、あの」 「あとは、そうだな……先生が大事を取って帰れって」 「ちょ、待っ」 「家の人に連絡をしたら、昼休みが終わる頃迎えに来るってさ。電話に出たのはお母様かな」 「お、おか……ええ!?」 息つく間もなしに続けられる決定事項は、私の方から返すべき言葉を奪う。 軽い熱中症という診断はどこへ行った、軽いのなら早退する事もないだろう。 先生という頼るべき第三者が一言とはいえ登場しているのに、すべての決定を彼が下したような気がするのは私だけか。 家の人に連絡。誰がした。どうか先生であって欲しい。 怖くて聞けない、聞かなくとも怖い。 冬の寒い朝など攻防を繰り広げる、親しみきった母親を様付けで呼ばれるとは、凄まじい違和感だ。 脳内を駆ける突っ込みの数々が儚く消えていった。 「だから、あともう少し」 振りかかる急展開に動転しきりの私をとらえる声は、涼しい室内を静かに割る。伴う響きが甘い。 肩先に置かれていた掌が油断なく伝い、横向きの顎から左頬に掛けてを包んだ。 優しく導くよう、無理のない角度まで捻られ、目と目が合った。 「このままでいて。何でもいい、何か話していよう」 俯く精市くんの顔が窓から差し込む陽射しによって陰り、瞳の中をたゆたう光ばかりが浮き立つ。 和らいだ目元は穏やかで、私に向かう睫毛さえ優しく、半月型をした唇が目に留まった。 声は奥の奥まで安らかだ。 強張りも、何もなかった。 でも、だからこそ観念した私は、パイプイスを並べて作られた仮のベッドで首を捻り、横たえていた体を仰向ける。 イスの足と床がわずかに擦れる音がした。 一旦離れた私のものではない掌は、そのまま取り除かれるかと思いきや、首の上で伸び右肩を包む。 「……何かって、なに?」 「何でもいいよ」 おかしそうに笑う頬が、手や足と違って柔らかに曲がる。 どうでもいい、興味がない、決める意志がない。 そういった意味を持つ何でもいい、ではなく、どんな事でも構わない、と懐広く許すあたたかさの感じられる、何でもいい、だった。 「……それ、一番困る」 一つの言葉に二つの思いを籠めて答える。 精市くんは尚も微笑んで、目蓋を緩ませるばかりだ。 「なら、寝ていてくれても構わないよ。時間になったら起こしてあげるから、安心してくれ」 この状態で無茶言わないで下さい。 言い募ろうとして、視界の上半分がなくなった。テニスラケットを握り締めてきて十数年、しっかりたくましくかたくなった掌が、前髪の生え際に触れて滑る。 ほのかな暗闇が降りる中頭上から、ねんねんころりよおころりよ、と上機嫌な歌声が涼風を渡ってくるので、私はもう脱力した。 |