迷うも恋路




夢を見ていた。
夢の中の彼は15歳だった。
今や懐かしき母校、立海大附属中の制服を身に纏っている。
半端に締めたネクタイを首元からぶら下げ、ポケットに両手を突っ込んで、上履きの底を擦るようにして歩き、近かろうと遠かろうと耳目をひく髪色が猫背の上で靡く。
冬生まれだが寒さには弱い様子で、人気のない教室のヒーター前を陣取っていた。
そのくせ大抵薄着だ。
コートすら羽織っていない朝を、幾度となく見掛けた覚えがある。
薄い陽射しが差す廊下の隅、置き忘れられたようなソファによりかかっていて、斜光を浴びた寒々しい色合いの毛先にきらきらしくも儚い粒子が乱れ散り、音もなく大気を揺らす。
通り過ぎるそのさ中、今まで感じた事もない緊張で喉が鳴る。
3年へ進級してからクラスメイトとなった彼は、誰がどう首を捻ってみても、近寄り難い男だった。
仁王雅治という名前だけは知っていた、夢の中では同じく15歳の彼女を指して仁王は、



と、ちょうど本人にのみ届く程度の、単に低いだけではない特徴的な声音を零した。
しかしそう呼ばれたのは数えるほどしかない。
加えて、教科担当の教師が探していただとか課題のプリント提出だとか、事務的な用向きであったから、他愛ない世間話すらほとんど交わさなかった。
ただ、笑うと眦が意外に優しい。
左手を軸に生活している。
しかと見たのはその二つだけだ。
だけど目が合った瞬間は無数に点在した。
朝な夕な、過ごしたたった一度きりの春夏秋冬。
教室、廊下に昇降口や校門前、体育祭のグラウンド、炎天下の通学路で、言葉もなく、ともすれば感情さえ伴わず、視線だけが混ざる。
仁王の不可解なまでに色のない瞳を見通しながら、まだ少女でしかなかった彼女は思った。
自分もきっと同じ目をしている。
刹那の邂逅はいつも儚く、すぐさま逸れた余韻がわななきやまない。



突如として視点が転がる。
真実夢なのか無作為に回想しているだけなのか、境が曖昧になった。
大人の端くれに指の先一つ分踏み入れた頃、数年ぶりの再会から紆余曲折を経て迎えた、霧の立ち込める春だった。
呼ばうかたちが仁王くんから雅治くんへと変わり、己を引き止める声が味気のない苗字からと落とすようになって間もない、何度目かの夜である。
おぼろげな月の滲む雲が黒々としてい、時折吹く風に木立は擦れ、湿気た空気が喉に絡んで、個々の呼吸が重い。
ぼやけた外灯に羽虫が群がっていた。
照らされるコンクリートは寂しげな弱光によって、うっすらとろけている。
ぽつりぽつりと不意に言葉を発する、隣をゆく人が靴底を踏む音すら水気をたらふく含んでいるようだった。
レールに垂れるカーテンは揺れない。
閉め切られており、かそけき灯りの侵入を幾らか阻んだ。

「たしかめる」

常に大人びていた低い声がやたらと幼げに響いたのは、果たしてどちらの所為だったのか。
影が落ちる。
頭の下でベッドのスプリングが鳴いた。
かき乱された胸は上下しているのに、ちっとも酸素を取り込めている気がしない。
春夜と同様にぼやけた思考で問い返そうとしたの腕へ、指が食い込んだ。肩にほど近い、柔らかな肉がきつく歪められる。
あまりの熱さと戒め様にはたまらず苦しみ喘ぎ、呼吸になり損ねた空気を無意に零した。
しかし、どういうわけか、腹をなぞる掌は冷たい。
冷たすぎて、気管と肺が一遍にひっくり返ってしまう。
腕にあったのも腹にあるのも持ち主は同じはずなのに、この違いは一体どういうからくりなのだろう。
本当にここにいるのは仁王かと目蓋の幕を持ち上げると、覚えのある色を映しながらを見下ろす双眸は既になく、息を吸いこんだ瞬時、皮膚を滑る髪の感触に声帯を握られた。
心臓の真上を掠め、従順に掌の後を追っていく。
は待ってと唇を開き、だが悉く押し潰され、それでも尚ままならぬ体に抗おうとする。
鼓動と息ばかりが急いて、なにものにも追いつきはしなかった。
暴虐の限りを尽くさんとする鬼気を殺しながらも隠しきれていない仁王の、掌ばかりが淑やかだ。
いっそ無神経だと感じられるほどに恭しく、辿る仕草は丁寧で、知らぬ間に体温が移りでもしたのか、氷の冷たさが失せている。
潤む瞳はがらんどうの天井だけを映す。
心許ない灯りが絶えず差し込み、ごく薄い縞を作った。通り過ぎていく車の赤いテールランプが、色彩の乏しい部屋をほんの短い間染め上げる。
は益々息苦しさに憑りつかれ、朦朧とする意識と、肌と言わず肉と言わず見境なしに与えられる感覚と双方から責め立てられた。
伝う汗がじわじわと何かを浸食していき、首に張り付く髪の筋を煩わしいと思う暇さえ存在しておらず、気を据えていなければ全てが崩れる不安に駆られ、襲われ、たまらなくなるのだ。
恥じて唇を食んでみた所で、どうしようもなく甘露だった。

「手を開け、

すると、15の彼がと口にした時とほぼ変わらない、本人にしか届かぬ程度の声音が転げ落ちた。
違ったのは、吐く息の密度くらいだ。湿って重く、みだりに荒れている。
最早抵抗するすべも気力も失っていたは、指摘を受け初めて両の拳を握り込んでいる事に気が付いた。
言われるがままに緩く開けば、右の指何本かを撫で、爪先をちいさく摘み二度三度と摩るのは、仁王の左手だ。
つかの間の児戯めいた仕草に、甚だ場違いであるが、おまじないのようだとは思った。
まもなくして指から指が離れる。
熱が熱に交わる箇所ががらりと様変わりし、残っていた感傷や幼さは焼かれて消えた。
右も左もわからなくなる。上下天地が混ぜこぜになって、15の頃よりよほど無力なが保とうとしてはあえなく崩されていく。
来る来ない。
来ない、来る。
狭間をさ迷い、上擦った。
鼓膜が浸される。
根付く狂おしさを引きずり出され、憚らず触れられ、丹念に噛みしだかれると、恐ろしい震えが腰の奥から這い上がってくるのをは確かに感じた。
跳ねた足裏が窮屈に縮む。
背中のやわい所を、ひた走るものがあった。
とめどなく溢れ零れ、掬いきれずに溶けた。
染められるどころの話ではない。
中身を作り変えられる。冷たい掌に人の体温を灯した仁王が、欠けた年月の上へ積み重ねてきたごと作り変えていく。
声もなかった。
息継ぎすら絶えていた。
あるのはひと時の静寂だけだ。
仁王の気配が不意に失せるので、脆くなった心が揺れ出した。
いよいよ一人きりで体を支えていられなくなったが、追い縋って手を伸ばすと、しっとりと汗を含んだ肌に辿り着く。かたく薄い皮膚のお陰で骨の形が浮き出ているようだ、張って余りのない筋肉を滑り、助けてと懇願した。
祈りに近い、言葉にはならなかった囁きが、聞き届けられたのか否かはわからない。
しかし仁王は正しくの希う所を理解していて、震える手を取り、絡ませた指で握り込んで、頑なに離そうとしなかった。
その力強さや籠もる熱とは裏腹に静かに押し広げられ、は咽喉をひずませる他なく、耐えに耐えて顔を背ける。
露わになった首筋が仄暗い室内にあって艶めかしい。
くぐもった水音は脳髄の痺れを増長させた。
血が巡る。
内から外から脈拍が直に通う。
鋭敏極まる神経は、指や足の先々にまで及んだ。
声をあげる間もなく、合わさっていた掌に春の夜気が触れる。
前後不覚状態に陥ったは漠然と離されてしまった掌へ思いを寄せ、目蓋を下ろし深い息をついた。
手首が浮く。
引かれた腕は仁王の張りしまった、おそらく首の根へだろう、ひどく緩慢に回されるので、求められるがまま絡ませる。1秒と経たずして背と腰に仁王の腕が差し込まれ、どちらのものとも知れぬ息遣いが漏れた。
抱き合って、包まれていると、泣きたくなるほど温かい。
そこここで滲ませていれば、額と鼻筋の間に仁王が優しく唇を落とすから、導かれるようにしてはそっと目を開けた。
裸の胸を隙間なく押し付けられているはずなのに圧迫感はまるでなく、むしろ深いしじまへ沈んでいくようで、芯からの充足にくるまれている。
汗で肌が滑る。
くちづけの後、の耳朶へ鼻先を寄せた仁王が、溜め息に近くも性質の異なる長い息を吐いた。切れ切れに掠れ、静まり返りながらも熱を伴い、切なる響きで訴えかけてくる。
縋っているのか、縋られているのか、にはもうわからなくなっていた。
それでもいいと思う。
それがいいと心が零れる。
軋む音と共に少しだけ体を起こした仁王の揃いの目は、を見ていた。
あの頃のように、あの時と同じに、だけを見詰めていた。
ばらばらに重ねた時間の分だけかたちが変わっても、色褪せてしまっいても、なにかが失われているとしたって、そんな事はこの期に及んでどうでもよかった。
是か非かは問わない。何の意味も成さない。言の葉一つ紡ぐのさえ覚束ない。
ただ、今この充足だけが尽くしても語りきれぬものを埋める。
根源は飽かぬ渇望だ。
濡れた舌は甘く、しかしいっそ苦い。



どうにも夢は地続きらしく、終わらなかった。
ろくに会話もしないで、うとうとと微睡んでいた時である。
枕に添えてあった手が違和を訴え、の意識は浮上する。
闇慣れした瞳に、反り返って仰のく己の掌や付け根のあたりが映って、心中で首を傾げた。体はいまだ完全に目覚めていないようだ。の思い通りに動いてくれない。
ゆえに、右手が引かれているのは、他ならぬ仁王の仕業だった。
利き手でのそれを下から包み、指で指を弄んでいる。
初めは親指、次いで人差し指と一本一本を数え上げている様子は、ごく控え目に言っても幼子の仕草そのものだ。
爪を撫でる。
甘皮を摩り、指の腹を揉む。
すっかり乾いた肌もそれはそれで心地よく、掌全部で指のひとつをくいと引かれた時など、唇の端が安らかに緩んだくらいであった。

「……なあに?」

か細く密やかに問うへ答える代わりだろうか、仁王は揃いの目の行く先で以って語った。
深夜の灯火に降られた所為で、流れた前髪の奥、虹彩が濡れたように光っている。
伏せがちの睫毛には陽の下で見られぬ影が宿り、精悍な頬へと僅かに伸びて、仄かに明るい光の当たる部分を浸食した。
薄暗がりに身を横たえる仁王はこの上なく無防備で、ひと欠片も警戒しておらず、中学生の時分の方が余程近寄り難かったとは思うでもなく思う。
この気難しそうな男が時たま、全てを投げ出す瞬間があるのだと、20歳とほんの数年を越えてから初めて知った。
箸を持つ左手が意外なほど綺麗なのだと見惚れた日を振り返っていれば、全く力の抜けたの掌をいっそう己の側へと引き込んでから、指先から付け根あたりまでを頬と枕の間に敷いた仁王がゆっくり目を閉じる。
睫毛が落とす黒が濃くなった。
仁王の髪が肌に触れて、はくすぐったい。
身をよじろうとすると、まるで猫さながら、仁王は頬を掌へとすり寄せた。
擦れれば面映く、微かな熱を生む。
遂にが吐息じみた笑声を零し、もう一度、なあに、尋ねかけた所で、寝惚けているのかそうでないのか判別のつけ辛い男が、敷いていた指を取り出して本当に前触れもなく、ぺろとちいさく舐めた。
驚いたのはだ。
突拍子のない行動は勿論だが、今の今まで忘れきっていた、痛みというには大袈裟で、無傷とするにはざらついている、剥がれかけた薄皮の存在を突きつけられた事にこそ驚きを隠せなかった。
喉奥にて呼吸を一旦詰まらせたなど意に介さず、虹彩を閉じきったままの仁王は、ごく薄い傷跡の残る指先に唇を落としたのち、全身をシーツに沈ませる。目に見えて脱力弛緩した様子だ。
それからほどなくして健やか極まりない寝息が耳に馴染み、浅いものではない真の眠りが彼を連れ去ったのだと知れた。
子供のよう寝こける人を間近にして、の胸奥はとりとめもなく揺蕩っている。
いつ切ったのかなど自分でも覚えていない。チラシを捨てようとして、人差し指に真一文字の傷を作った。
数日は紙独特の切り口に顔を顰めていたが、以降は一切の不便もなく、平生と相違なく過ごす事が出来た。
自身も失念していたものを仁王が知るわけがない、そのはずだった。
痛みとは呼べぬもののそれでも痛いとしか言い様のない感覚が、今になって傷跡に湧く。
落とされたくちづけがあんまり穏やかから、はいつも信じたくなってしまう。

私はあなたの特別なのかな。
もし、そうだとしたら、それはいつから。







つんつんと地肌が毛羽立っている。
夢とうつつを行きつ戻りつ翻弄されていたは、不可思議な感覚でようやっと目覚めた。
回顧に近い夢をさ迷っていたお陰で一寸どこからが現実か区別出来なかったが、かろうじて記憶同士が繋がった為に、どうやら夢ではないらしい、気付く。
しかしながら、状況把握は実に難儀であった。
まず、誰かの気配がする。
後頭部に当たる枕らしきものは硬い。おそらくが想像した枕でないだろう。
今日は朝から珍しく雲がなく、梅雨の貴重な晴れ間だった。
溜まっていたり部屋干しで我慢していた洗濯物を片付け、軽い朝食をとり、さて休日をどう過ごそうかと雑誌に目を通していた所までは覚えているものの、一人掛けのソファに寄りかかりクッションを抱えながら、よく寝たはずなのになんで眠くなるかな、独り言を呟いた後の記憶はない。
おそらく座り寝をしてしまったものと思われたが、それが今一体どうしてラグマットの上で寝転がっているのか。
ええと、と右へ幾らか傾いていた首を真っ直ぐに戻すと、

「おう。起きよったか」

半ば、いや8割方は解決する。

「……雅治くん?」
「他の誰に見えるんかのー」

口元とほくろが口調通りにのんびり撓み、眦は淡くなっていた。
仰向けになった恋人の目が開かれたのを見届けた仁王は、降り落とす眼差しを少しばかり中心からずらし、ちょうど側頭部あたりへと定める。
引っ張られる、という程強くはないが、それでも何がしかの感触を覚えたが、ある種の熱意を含んで注がれる視線に問うた。

「何してるの」
「ん。じゃれとるんじゃ。可愛かろ?」

それはどうだろう。
可愛い、の対象を確かめるより早く、疑問に思う。
申し訳ない事だが、仁王にそういった単語は似合わない。
眉間に皺を寄せる一歩手前のような表情を浮かべていたら、は、と呼吸じみた微笑みを零した仁王が掌中にあったものを掴み、の目の端でちらつかせた。
どうしてか慎重になってしまう手を這わせる。
指が髪に触れた。
崩さぬよう伝わせると、仁王の掌が退いていく。
目に入れずとも手触りだけでわかる、それはそれは見事な編み込みである。
は呆れた。
おしまい、と低い声が呟いて毛先は解放され、さぞ美しかったであろう三つ編みはあえなくほどけた。

「……雅治くん、上手だね」
「そうでもなか」
「でも、私、ここまで綺麗に出来るかどうか」

最早残骸となりかけた編み込み跡に触れつつ、優しげな外見とはお世辞にも言えぬ男が自分の寝ている間にせっせと編んでいる情景を思い浮かべ、なんとも表し難い笑みに唇が捕らわれる。
微笑ましいような、そうでないような心地だ。
先程まで摘まれていた髪の先を梳いて、は今一度睫毛を上向かせた。
の頭を腿に乗せた仁王はテーブルに肘を付いているのか、すっきりと無駄肉のない腕が伸びている。
ぺら、と時折ページのめくられる音がするので、雑誌か何かを読んでいるのだと思われた。
そういえば自分の読みかけはと可能な限り首を巡らせてみたが、見つからず仕舞いだ、持ち主は今や仁王となっているに違いない。
テーブルの手前側、端ぎりぎりに見慣れたマグカップが置いてある。
勝手気ままな振る舞いに、住人は誰だという至極真っ当に問い質す気力も起きない。
一人暮らしのの部屋へ、仁王は歯ブラシやら飲み物のストックやら調味料やら、果ては着替えの類いまでと様々に持ち込むので、いちいち取り上げてもいられないのだ。
今日だって約束はしていない。
連絡を受けた覚えもないから、ふと気が向いて来たのだろうとは予測の筋道を立てた。
生活サイクルが違うからと渡した合鍵を、彼らしく活用している。
髪を結わえたのも、指を摘み引いたのも、どちらも同じ人だ。
お陰であのような夢を見たのかもしれない、ぼんやりまばたきを繰り返すの頬に、春より強く夏より柔らかな陽射しが降り落ちた。
カーテンが揺れる。
風に煽られ、膨らみ、波打って、吹き込む涼やかな空気は前髪に触れ消えていく。
部屋は日向の色に染まっていた。
アパートの敷地内に植えられた立派な木から、鳥の鳴き声が聞こえる。鼓膜の震えは優しいものだった。
光溢れ、目蓋を重くする陽気は、胸の中にまで差し込んでやわく溶かす。
首をほんの少々左に傾けるだけで額が仁王の腹と腰の中間あたりについてしまい、ベルトが掠って不快な事もなかったが、黙ってそのままにしていた。
きっちり鍛え上げているわけでもないだろうに、仁王はそこかしこが張っており、どこをとっても柔らかさを見出せると異なり硬質だ。
だから時々痛い。
優しくされても、ひどくされても、触れられると息が詰まる。
痛むのは心か体か、はたまたその両方かはわからない。わからないが、わからないままでも、は触れていたかった。

「なんで笑う」

声色がどこか面白くなさそうに投げ寄越されるので、いっそう笑みは深くなる。
目を閉じ、仁王の腹に鼻先を寄せながら、この冷たく恐ろしげな印象を人に与える男が、ソファに凭れ寝息を立てる自分をどのようにして抱えたのか、は想像していたのだった。
眠りはうたた寝程度の浅さであったから、そう深かったわけではない。
けれど目覚めなかったという事は、余程静かに動かしたのだろう。
膝上のクッションをどかし、抱え起こして、横たえさせる。それから想像するに、丁寧に頭を持ち上げ自らの足に乗せた。
至れり尽くせりの膝枕である。
加えてあの手触りの良い編み込みときては、部屋を包む日向に負けず劣らずの温もりが胸に宿るのを感じる他ない。
15歳の、再会した頃の、今すぐそばにいる仁王のそれぞれを脳裏に蘇らせて、噛みしめる。
顔は多分、怖い。
近寄り難かった。
信じられないくらい冷たい硝子の温度で、人を見下ろす。
同じ夜の中にあって、穏やかな寝顔と宵を吸う爛々とした双眸とを併せ持つ。
本当の事はなにもわからない、悟らせぬよう撥ねつけ、音も立てずに去っていってしまう。低い声のそのまた奥で、口にする言葉とはまるで食い違う真意が蠢いているのではないかと、かつて詐欺師呼ばわりをし恐れた誰かが噂していた。
そういう彼の、この一連の振る舞いは、とても愛おしい事のように思えたのだ。

「陽気のせい?」
「しっかりしんしゃい。お前、またチェーン掛けんの忘れとったじゃろ」

掛かっていなかったから仁王は部屋に上がる事が叶ったわけなのだが、そのあたりはいいのか。
と、は反論しかけたが、心だけに留める。
感触は硬くとも、優しくあたたかい膝枕だ。無粋に散らして失うのは勿体ない気がしていた。
うん、ごめんなさい、額を預けて以来目を閉じたきりのが悪びれもせず呟き、仁王は頭の重み分沈む足を揺すり、言葉にせずして起きろと詰る。
たまらず首を捻り戻し、笑い声を弾ませながら目蓋を持ち上げたへ、突然の二択が寄越された。

「中華と和食、どっちがええ」

しかし慌てず騒がず、そういう事かと得心する。
久しぶりに顔を合わせての本題にしては色気がないのだが、は全く気にならなかった。

あの日は、義理かお情けで交換しただけの連絡先を、実際辿りはしないだろうと他人事のように眺めていた。
幾らか経って掛かってきた電話の、なんでもない声を今でも覚えている。
飯、食いに行かんか。
まだ寒さ尾を引く夜だった。
動転したは、今から、と尋ね、そんなわけなかろ、今何時だと思っとる、笑われた。
だがその何時だと思うと揶揄するような時間に電話を掛けてくる理由は聞けずに終わり、わけもわからぬまま約束を交わしたのだ。
続いている。
途切れかけ、もしくは一時断たれていた所を繋ぎ合わせて、縫い寄せ、傍にいた。
万事が大概遠回りなのである。
伝えたい事、その心を直裁に紡げばいいものを、も仁王もあまり口にしない。
わざわざ遠くを通って迷う。途方に暮れて、立ち竦む。
持て余し癇癪を起こしもした。
溢れた涙は塩辛い。
どうしてもっと早く気付かなかったのだろうと零し、ずっとこうしたかったと零された。
でもそうして人より余分に時間がかかって、随分回り道をしてしまうから、その分長く一緒にいられるのかもしれない。

は思いを馳せて、微睡むように微笑んだ。
それから雅治くんは何が食べたいの、と尋ね、着ていく服について思考を走らせ始める。
気軽な距離に飲食店はないが歩いていくのもいいだろう。
遠回りだとしても、それが二人の常だ。