くらくらしちゃう 二度ある事は三度ある、なんて一体どこの誰が言い出したんだろう。上手い事言う。 でも今はそっちよりも、三度目の正直のほうが来てほしかった。 半ば呪いじみた独り言を腐らせてしまうのは、嫌な出来事が重なったからだ。 突発的なアクシデントではなく、すべてが自分の責任、細かいミスの数々であったのも現実逃避を加速させる理由の一つだった。 気をつけなくちゃと思うそばから、また似たような失態を晒す。 あっと声をあげた瞬間には、もう何もかもが遅い。 相手にしてみればなんでもない事でも私にとっては大きな過ちで、どんなにくだらなくてもできると思っていた事ができなかった時の衝撃たるや凄まじかった。 たかだか十数年しか生きていないからそこまで落ち込むのだ、と大人は評するかもしれないけれど、誰がどう見ていようとも私は私の人生の時間しか知らないから、最大値である15年の中でたくさんのものを計るほかない。 そうすると、今日のミスはなかなかひどいほうに分類されてしまう。 中学生活初めての寝坊をして遅刻、一時間目の授業を間違えて教科書を隣の子に見せてもらって、席順ではなくくじ引きみたいな方法であててくる先生の問いに答えられず、階段を踏み外しかけ、回避したかと思えばなんの変哲もない廊下で盛大に転び、掃除の時間せっかく集めたゴミを蹴っ飛ばして余計な手間が増えた。 部活でも躓きは止まらない。 ドリンクの量を間違えて、なんだよらしくねーな! と嫌味というものが存在していない明るいバネさんに背を叩かれ、レギュラー以外の部員のデータをまとめていたらいくつかの記入漏れ、どうしたの、あんまり無理するなよ、と年中爽やかなサエさんに慰められと、どんどん気持ちが沈んでいく。 うちのテニス部は古豪、公立でも全国大会まで駒を進める実力があるけれど、変にピリピリしてたりやたらと厳しかったりするわけでもなく、皆が皆気の良い優しさを持っている。 だから余計に、くだらないミスをする自分が許せなくなるのだ。 なんでこうなっちゃうんだろう。 なんでこんな簡単な事ができないんだろう。 心配されてしまうほど、気を遣われるにつれ、惨めさが増して泣きたくなる。 ひとつひとつは大したミスではなくても、重なればそれなりの質量を持つ。 そういえば前にも似たような事があった、なんて回想し始めてしまうともうどうしようもない。 連鎖して蘇る情けないエピソードに押し潰されて、負の感情が生んだ渦巻きに引きずり込まれ、喉が震える。 ついに耐えきれず乾いたテニスコートへ涙の粒がこぼれたのは、集め終え後は仕舞うばかりのボールが入ったカゴを見事引っくり返した時だ。 自分のミスで仕事を増やしてしまったのが許せなくて、居残り後片付けを申し出たはいいけど、用具の仕舞い忘れがないか手元のチェック表を見ながら歩いていたのがいけなかった。 カゴの端につま先を引っかけて盛大に転ぶ。 同時に転がったボールは四散し、夕焼けに浸ったコートへぽんぽん音を立てて広がっていった。 しばらく呆然と眺め、声もなく体を起こす。 擦った膝小僧を軽く手で払って、しゃがみながらもう一度集め直し、拾い数える作業を始めるさ中、熱くてしょっぱいものが込み上げた。我慢しろと嗜めるより早く、目の隅から溢れて伝う。 首から上を地面に向けて垂らし、情けない雫を拭うでもなくひたすら隠し、静かに泣いた。 もうやだ。 何度も心で繰り返せば、涙の層がぶ厚くなる。 さいあく。 私のばか。 中学三年生にもなって小さい子みたいな事ばっかして、みんなに迷惑かけて、一年生にだって簡単なボール拾いさえ満足にできないで何が先輩だ。 こんなんじゃマネージャーも勤まらない。選手を支えるどころか支えられて、ただのお荷物でしかないじゃん。 重たい声なき声が胸の中を駆けずり回って、あらゆる内面を傷つけてく。 自分なりにできる事とできない事を見極め、可能な限り頑張ってきたつもりだった。 それを、ここにきて全部否定された気分になったのだ。 ちっぽけでも大事にしてきた誇りが軋んで、いっそ退部届でも書くか、などと捨て鉢になってしまう。 後から思い返せば、まあやってしまったものはしょうがないからその分次から頑張ろう、と割り切って終わる話なのだが、この時の私にそんな余裕はなかった。 よん、ご、ろく、と数え泣きながら、ボールに手を伸ばしたちょうどその時、そばでふっと影が降る。 頬を流れるものも忘れ、思わず顔を上げると、やたらと大きな背が目に映った。 見慣れたジャージではなく、制服だ。白いシャツにうっすらと朱が混じり、傾いた陽射しを浴びているおかげで所々が暗い。 ダビデ。 数えきれないくらい口にしてきたあだ名を紡ごうとして、胸の真ん中でつっかえた。 額にわずか浮いた汗を拭くふりをしながら、目元を擦って涙を消す。 しゃがんで丸い背中は振り向かなかったから素直に助かった。 立っている時に比べてずい分短く縮こまった影が、夕焼けに引き伸ばされコートへ垂れている。その色は濃い。 風にゆっくり流される雲の奥、刻一刻と沈んでいく太陽が見事に空を染め上げていた。 においさえ暮れかかる。 私もダビデも、一言だって喋らない。 テニスコートに残っているのは私達だけなので、必然的に沈黙が辺りを支配する。 ひきつる目元に力を入れ、これ以上の涙が出てこないよう死ぬほど踏ん張る私の耳に、スニーカーの底がコートを擦る小さな音が飛び込んだ。 まだ泣き腫らした跡が残ってしまっている。 顔を傾けては見られるかもしれない、そっと目だけを走らせると、専用のラケットと同じく長い腕を伸ばしたダビデが、転がり散らばったボールを集め始めているのだった。 瞬間の、目蓋の裏に籠もった熱といったらない。 喉奥を焼き切らんばかりの熱いかたまりが込み上げて、息もろくにできなくなりそうだ。 目の縁に薄い水の膜がじんわり張って、眉間には途轍もない皺が刻まれ、唇がへの字に曲がって震え出す。 ものすごい不細工になっている自覚はあったけど、それより今泣いたら声を上げてしまいそうなのが怖かった。 いいよ、私一人で大丈夫だから、着替えてきなよ。 今日だけじゃない、ダビデはユニフォーム姿のまま私を手伝ってくれる事が何かと多いから、言った覚えが多々あった。 同じように一声かければいいだけなのに、どうしても言葉が出てこない。 黙々と黄色いボールを拾ってはカゴに入れていく背中が夕日を遮っている。 傾く光の線に象られた体のラインはたくましく、自分より一年遅れで生まれたんだとは思えなかった。 こぼれかけた涙を堪え、拳を握り込みながら、心の中に呟き落とす。 なんでかなあ。 自分が情けなくて情けなくて仕方ない時に、手伝ってくれたりなんかしちゃうのかなあ。 なんでこんなにおっきくなっちゃったのかなあ。私の背なんて、もう1ミリも伸びてくれないのに。 しぼむ一方の気持ちに釣られて、肩と背が縮んだ。 ダビデは中学生男子の平均値をはるかに超える身長だけど、それでも一年生の頃は可愛げが残っていたというか、今思えばまだまだ小さいと言える範囲内だった。 線だって細くて、体の大きさに筋肉がついてきていない、あだ名の原因である彫の深さより初々しさが勝っていた。 幼馴染みたいな関係のみんなと違い、中学に入ってからマネージャーきっかけで交流を持った私なんかは初対面で、ずい分ぬぼっとした新入生だなあと見上げたものだ。 あまり積極的に話しかけてこないから無口な子なのかと思っていたら、唐突にしょうもないダジャレを発し場を凍らせ、バネさんから強烈なツッコミを頂戴する。 甘いものが好きで、子供舌。 部室の屋根やら備品やらが壊れでもしたら、お前得意だろ、と修理を命じられていて、意外や意外器用なのかきっちり直す。 他校との練習試合の為に電車で移動中、ぼけっするあまり降りる駅を通り過ぎてしまい、後で合流した時バネさんに蹴っ飛ばされていた。いくら食らっても怪我一つしないので、体は相当頑丈らしい。 初めは取られていた距離も、時が経つにつれなくなっていく。 私も私で接し方を理解していき、前触れもなくダジャレを言われてもスルーするかツッコむかの判断を下せる程度には慣れた。いちいち困惑していたらキリがないし、何より時間の無駄だ。 高すぎる背や顔立ちに反してこの後輩は健気で可愛いところがあり、基本的にはみんな手伝いを申し出てくれる優しい人達ばかりなのだが、中でもダビデはその回数が多かった。 手伝うか否かは問わずに無言で手を差し出すものだから、私もすぐには気づけない。 作業を始めてしばらく、あれっと目を凝らし、いいよいいよと押し出した。素直なダビデは無言で頷いてから去っていく。 手伝うのも止めるのもこだわりがないのだ。私に対してだけじゃなく、みんなに対して反抗した事などない気がする。 ちょっとあれ取って、と棚の一番上を指せばなんなくこなしてくれた。 一年生の時はまっすぐ伸ばしていた手にも、どんどん余裕が生まれてくる。 首を上向かせる角度があからさまにきつくなっていくので、今身長何センチと聞いたらとんでもない回答を寄越され、どんだけ成長期なのと驚愕した。 目を丸くする私に、整腸剤のせいで超成長、ご清聴に感謝。 などとふざけたダジャレをかますので黙殺してやる。 激しいツッコミにも耐えきってみせるのだ、たとえば私が張り手したところでびくともしないのだろう。 その背中を頼もしいと思う反面、寂しさがつきまとう。 喜ばしい事のはずなのに、手を貸す回数が少なくなって、逆に助けられてばかりで、いつか私という存在はいらなくなるに違いない。 考える都度、胸にぽっかりとした空白地帯が生まれた。 後輩の成長をろくに祝えないようでは、あまり良い先輩と言えない。 やっぱり退部届でも出すかもう、とやけくそ気味に溜め息をついて、十三個めのボールをカゴに放る。 「……ダビデ、ありがと。でもいいよ。あとは私一人でできるから」 喉に涙が絡まず、なんとか体裁をとりつくろえる程度には回復したので、依然としてしゃがみ込む大きな影に声をかけた。 ちらとこちらを振り向く気配がしたが、目が合わないよう横を向いていたので表情まではわからない。 西日に沈黙が走る。 風のない夕闇だった。 ダビデと思わしき影は十数秒間そのまま固まっていて、 「先輩。俺、スランプ」 かなり唐突に言ってのける。 いつもの事だとわかってはいても、今の私は上手く対処ができない。 油断するとすぐさま塩味の水が目から垂れてきそうで、色々な所に力を入れなければならないのだ。 注意に注意を重ねて息を吐く。 「…………何がよ」 ぐっと喉を押さえ、暴発しそうな感情と唾とを飲み込んで、やっとの思いで一言口にする。 ダビデが傾けていた顔の向きを元に戻し、背中を丸めてボールを拾い出すのが視界の端に映っていた。 「このままじゃヤバイ。ダジャレ殺法が使えなくなる」 一生懸命堪えているにもかかわらず寄越されたのは脱力を誘う告白で、親切な後輩は何も悪くないというのに、人の気も知らないで、と恨み言をぶつけたくなってしまう。 ぐるぐる回る気持ちをまたしても飲む。 耐えて続ける。 「使えてる時だって大して効いてないってば」 「そうでもない」 「そうでもある」 「早々に結論を出すのはそうそうある事じゃなさそう……プッ」 「ツッコまないからね」 無慈悲な返しに一瞬怯んだ様子を見せるダビデだけど、すぐさま頷くのだった。 「うぃ」 回復が早い。 その証拠に背中を私へ向けたまま、踵の後ろ辺りにあるカゴを見もしないで引き摺り動かす。 私の分とダビデの分、年季の入った二つのカゴは、ボールを拾っている内徐々に離れていく。 腕を動かしながら丸まっている大きな背を盗み見、もう少しましな対応がどうしてできないんだろう、歯噛みした。 心のささくれだった部分がなめらかにならず、いつまでも喉をつっついてくる。 私だってそこまでばかじゃない。 ダビデに限らず、みんなが気を遣ってくれている事くらいわかる。 それを大事にしたいのに、できない。 素直に受け取って、ありがとうと返して、ごめんなさいと一言声に出すだけでいいのに、どうしても唇から奥の全てが固まってしまう。 私は人の優しさを無下にするばかりで、だったらいっそいなくなったほうがいいんだなんて子供じみた癇癪に捕らわれてどうしようもなかった。 引っ込みかけていた涙が復活のきざしを見せ、唇の裏を噛んで抑えていると、いつの頃からかうんと低くなった声が夕焼けのコートに落ちる。 「りんご」 は? と聞き返すより早く、ダビデはやたらといい声で続けていく。 ゴリラ。ラッパ。パラオ。オレンジ。自転車。 あまりにも淡々かつ平然としているので、反応の類いが求められていないのはわかっていても、言わずにいられなかった。 「……今度は何」 「しりとり」 「いやなんでよ…っていうか一人でする意味あるの」 「ある。トレーニングだから」 「ト、トレーニング?」 「単語を言っていれば、その内思いつくかもしれない」 何を、と問う必要はもはやなかった。 察した私の肩から力が抜ける。ついでに涙腺の強張りも失せた。 「………で、思いついたの?」 「俺んちのオレンジ、俺レンジであっためる」 「苦しくない?」 「ぐっ…だから、スランプ中」 物理的な痛みは伴わないものの辛いツッコミに唸るダジャレ魔は、再び一人しりとりの世界へと旅立つ。 車庫。コアラ。またラか。ランプ、プリン体糖質ゼロ。 最後のはなんか違う。 ついつい口を出せば、また振り向きもしないで頷く、襟足とシャツが夕日に焼かれている。 ダメ出しに律儀に応じた後輩はプから始まる単語を編み直し、言葉と言葉を繋げ始めた。 続く単語の並びが何故かきっちり整っているように聞こえてしまう。 コートを擦る音、ボールがカゴに放られてひしめき、かかる橙色の陽射しに溶ける声が深い。 弾力のある黄色い球体を拾いながら耳を澄ませ、時々見つかる間違いを指摘する。 それ前にも言った。 二回目。 名詞じゃないとだめでしょ。 何度か繰り返していたら、 「先輩、混ざって」 そっけないながらも要請を受けたので、言葉尻を取って打ち返した。返された無駄に大きい後輩は、私の声の最後を掴んで投げてくる。 一人遊びから二人遊びになった、昔懐かしいじゃれ合いが目に、耳に、胸の奥にと沁みていって、荒れに荒れた体の内側を静めてくれた。 声に温度はないはずなのに、あたたかい。ダビデの何でもない一言が、なんでか無性に大切なもののように思えた。 伸ばしていた手を引っ込ませ、屈んでいるからいつもより縮こまった後ろ姿をじっと見つめる。 太い首筋が右から左へぐるりと巡り、続いてボールが放られる。 大概ふざけていても、ダジャレ殺法が得意だなんてのたまったりしても、基本は真面目なのだ。 口を動かすのにだけ夢中になって、手元足元が疎かになる事はない。 コンビニの前で座り込んでいるガラの悪い人達みたいな座り方をしているくせに、その所作からは単純作業をまっとうに繰り返す生真面目さが滲む。 忘れたはずの塩辛い水が、胸底から沸き上がり、喉を駆けて頬のずっと裏を通り、目蓋やら目の下やらに溜まり始めた。 今言えばいいのに、いつものくだらないダジャレ。言ってよ。そしたらもう泣かないで済むかもしれないのに。 身勝手極まりない呟きに押さえ、舌の根が痺れ震える。 ただの名詞の羅列は、相も変わらず終わる気配を見せない。 堪えて付き合う私の目の縁に、腫れぼったい雫の気配が満ちている。 「パンダ」 「ダーツ」 「ツアー」 「朝日」 「膝枕」 「ラッコ。……いやちょっと待って、タンマ」 掴んだボールに目線を落としているのが見て取れる。こちらからは日本人離れして通った鼻筋が窺えた。 黙っていればかっこいい、時たま噂されている横顔が考え事に耽っている。 だけど私にはわかるのだ。 これは難解な思考を張り巡らせているわけじゃないな、絶対に、断じて。 「楽々膝枕でリラックス……プッ」 ほらきた。 予想通りの展開に溜め息さえ出て来ない。 願いが叶ったはずなのに、なんとなく素直に喜べなかった。 やっぱり私は自分勝手だ。 目の奥に涙がうっすら戻りゆき、代わりにツッコミが生まれ出た。 「ビミョー」 「……くらくら膝枕で真っ暗」 「そうだね私眩暈がしてきたよ。ほんとお先真っ暗だよ」 「倒れそうですか」 「もし倒れたら責任取ってね、ダビデ」 「……じゃあ、する?」 倒れる前に。 私とだいぶ音階の異なる声はそっと、という表現がお似合いの慎重さをお供に、二人の間に響く。 整った横顔が僅かに動いた。 彫の深い顔立ちは完全に隠れてしまい、後ろ髪と首しか見えない。 「何を?」 「膝枕」 さっきまでのしりとりみたいに軽く投げたら、ほとんど同じ調子で投げ寄越された。 ぽかんと口が勝手に開き、しかし慌てて閉じさせ、また冗談だろう、笑えないダジャレでもかましてくるのだろう、続きを待ったはいいものの、いつまで経っても返されない。 それでも諦めずにダビデの背中を見つめ、穴があくほど視線を注いだけれど、一切振り返る気配がなかった。 長い腕が伸びる。 黄に朱の光が混ざったボールを握って、離す。 カゴの中で積み重なった山が、少しだけ崩れ音を立てた。 じわじわと得体の知れない熱が這い上がり、両頬に伝わり染まって、口の中から水分が吸われて渇く。 爆発寸前まで高まった、たった一瞬の感情に押された喉はつっけんどんな声を繰り出した。 「何言ってんのばか。しないよばか」 「うぃ」 首から上にだけ妙な汗を掻く心地だ。 すんなり退いたダビデは寡黙なボール拾いマシンと化している。 初めはよくわからなかったけど、状況と台詞を反芻している間に気がついた。 私は今焦っている。ものすごく焦っている。おまけにとてつもなく恥ずかしい。 待って意味がわからない、なんでこの流れでそうなったの、脈略ないし、いやもしかして私が変に受け止めちゃっただけで冗談だったのかも、ものの数秒で目まぐるしく可能性の芽を見つけては余計に混乱していく。 わけがわからなくなって、校庭とフェンスから緑のテニスコート、ボールにカゴにそれからダビデ、順番に凝視するさ中、とある一点で目の二つともを縫いつけられてしまう。 尚もボール拾いに精を出す後輩が、ちらと見せた横顔が真っ赤なのだ。 少しだけ垣間見える首の後ろや耳までもが染まりきっていて、もはやフォローや言い訳は不可能な域にまで達していた。 要するに照れている。 だったら言うな! 思いっきりツッコみたかったのに、う、と呻く程に呼吸の元を締め上げられているので叶わない。 誰か助けて、バネさんダッシュで踵落とししに来て、切実に祈り神頼みすらしたが、そんなに都合よく事が運ぶわけはなかった。 さっきっまでの泣きたくて仕方なかった時間が蘇るやら、恥ずかしいやら、走って逃げたい気持ちやら、色んなものが混ぜこぜになった所為で、作り上げた堤がどかんと盛大に破られる。 こぼれた涙が肌を滑り、テニスコートに吸われて染みを作った。 私自身の影が落ちているのもあって、濃い色はすぐわからなくなっていく。 後から後から溢れる水の粒が熱く、散々隠し通そうと我慢していたのも忘れて鼻をすすったら、かたくなに振り返らなかった眼前の背中がぐわっと捻られた。 当然思いっきり目が合って、合うや否やダビデがぎょっと目を見開く。 お腹の下から頭のてっぺんまでをくまなく衝動は一気に駆け上がった。 この図体のでかい後輩をよく知らなければ、膝枕から連なる一連の発言で泣かせたと思い焦ったのかと予測するだろう。 だけど、それなりに一緒の時間を重ねてきた私には正しい理解ができた。 このやろう。 汚い罵りの言葉が危うく飛び出る所だった。 「今気づいたんかい!」 「おわっ…ちょ、先輩タンマ!」 我を失いカゴに掴みかかった私を目にして、ダビデが不思議な体勢のまま膝をつきながら、両手で以って制止しようとしてくる。 しょうもない失敗に泣いている所を見逃せず、てっきり彼なりに慰めようとしてくれているものだと思っていたのに、泣いているのを薄々感づいていたから私のほうを見ようとしなかったんだと思っていたのに、当の本人は気づいてもいなかったのだ。 憤りの勢いたるや凄まじかった。 脳天を突き抜け、薄墨の混じり始めた空へと上っていきかねない程である。 だけど過ぎてしまえば清々しくもからっぽになった心しか残らず、何故だか笑いが込み上がる。口の端からは呼吸と弾む笑声が漏れ、表情をどちらに寄せればいいのかもわからなくなり、濡れた目を拭って言葉になっていない声を無意味に並べた。 泣きながらも唇に笑みを浮かべる私を前にして、ダビデはあからさまに困っているようだった。 漫画だったらハテナマークが頭上に浮かんでいるに違いない表情がいっそう面白くて、益々笑いが止まらない。 拍子に涙が振るえて顎を濡らす。 「……先輩。俺は、」 「いいよ平気! もういいの。私がばかだった。ダビデもばかだった!」 普通なら罵りにしか聞こえない台詞だけど、頬が緩んでいるからそう受け取れないのだろう。 ダビデはいよいよ本気でうろたえ始めて、半端に浮いた手をどこに置けばいいのか迷っている。 おかしくって、可愛い。 大きく強い掌は一度だって私を乱暴に扱った事がないのを、身を持って思い知っている。 ダビデはダビデで、背が伸びても、時々びっくりする程優しくても、くだらないダジャレばかり言っていても、一番大事な所はきっとずっと変わらないのだ。 結構泣いたお陰で頭は痛いし、ぼやけて重いから調子は正直調子はよくなかったが、不快感は気にならなかった。 ばかみたい。 心のささくれも、捨て鉢になっていた事も、やけになって脳内で書き起こしていた退部届の文面も、全部ひっくるめてどうでもよくなっていく。 ああ本当にばかみたい。 あんまり馬鹿馬鹿しいから、お礼とお詫びを兼ねてコンビニでダビデ好みのデザートをごちそうしてやろう、予算は設けない大盤振る舞いだ。 心に決めた私は目元を擦っては、やはり笑ってしまうのだった。 |