楽あれば苦あり




朝、登校したら膝枕はいいだの悪いだので盛り上がっていた。
予鈴ギリギリの時間に駆け込んだ私でなく、クラスメイトの男子がだ。
誓って盗み聞きではない。
周囲の喧しさに紛れると思いでもしたのか、一切の躊躇を取り払った大音量で騒いでいた彼らがいけないのだ。
私だって聞きたくて聞いたわけじゃないのだから、そこの辺りを責められても困る。いっそ耳を塞ごうかと真面目に考えたくらい。
友達に聞いた所によると、発端は彼女にして欲しい事なるお題だったらしい。
一緒に登下校、どこで待ち合わせるか、手作りのお弁当、夢とロマン溢るる流れを汲んでの山場に出くわしたのが私というわけだ。
いつもなら、男子ってほんまアホやなあ、とツッコむ友達が妙に真面目な表情で、けれど聞き耳を立てている事を気づかれないよう浪速の女スパイになりきっているのは、理想の彼女談義にテニス部の二人が加わっているからだろう。
積極的に案を持ち出しているわけではないものの相槌を打ったり笑い声を立てられたりしては、友達に留まらずクラス中の女子の注目を集めても仕方ない。
渦中の面々に自覚があるのかないのか、いや平然と会話に花を咲かせている所を見るに後者かもしれない、ともかく表情や仕草だけを切り取ったら仲良しこよしにはしゃぐ絵図は、交わされている言葉は別として微笑ましかった。
なあうち思うねんけど、絶対男子のが夢見がちやんね。
ぽつりと呟く友達も、半分呆れた声色と裏腹にものすごい真顔である。
想像するに急速回転させた頭で、自然と耳に入るきらきらしい理想論を真面目に解析し自らのあり様と擦り合わせているのだろう。
せやねと頷いた私はといえば、やけに心に残ってしまった一単語を幾度となく繰り返す。

ふうん、膝枕。
膝枕か。
膝枕ね。



一日中考えっ放しだったわけじゃないけれど、放課後になっても引きずる程度には気にしてしまっていた。
不足している備品の報告に訪れた保健室で、ちょうど出る所だった保健の先生と鉢合わせし、委員として顔を覚えられている私は留守番を頼まれた。
ちょお短い会議あってな、すぐ戻るから誰か来た時相手したって、頼むわ。
はいもいいえも答える隙がなかった。普段は腰が重いくせして、こういう時だけ素早い。
あれ持っていけこれ持ってこい、鍵どこやったっけプリント全部で何枚やったっけ、と保健教諭失格ちゃうかとツッコまれがちな人なのだ、慣れっこだった私は特に抵抗せず人気もなく静まり返った室内へと足を踏み入れる。
こんな事なら教室に鞄を置いてこないで持ってくればよかった、手ぶらだから時間を潰せるものが何もない。
なんとなく腰を落ち着けた長椅子は薄茶色の皮張りで、そこそこ年期が入っている。
白くやわらかなカーテンの向こうに緑の木々と校庭が広がり、少しだけ開いた窓から吹き込む風が部屋の中の空気をわずかに揺らす。
運動部の掛け声の中グラウンドのトラックに沿って走るうっすらとしたシルエットが、五月も半ばの陽射しを受けて光って見えた。
ふと、投げ出した自分の両足が目につく。
やんわり曲げていた膝を伸ばして、腿から上履きの先まで順番に眺めていき、決してというか確実に細くはない肉づきの良さに、胸のど真ん中を射抜かれた心地になった。
痛い。色んな意味で。
ごく真面目な気持ちで再び膝を折り、長椅子の上に正座する形で目には見えぬ敵と向き合ったかのよう背筋を伸ばす。
無駄に脂肪がついているんだから頼みますと自虐を含んで太腿に触れてみたが、枕に出来るほど柔らかくない。やっぱり、と首を傾げた私は余分な肉を虚しく摘む。
前々から思っていたが、人の太腿は頭を預けるのに適していないのではなかろうか。
これなら二の腕の方がずっと柔らかいだろう、ああもしかしたら正座しているから硬いのかもしれない、普通に座っている状態で膝枕した時の事を指していたのか、考えてもまるで身にならない思考に捕らわれ、掌で叩けばぺちぺちと気の抜けた響きを奏でる腿を軽く睨んでいた所為で、突然降って沸いたノック音に反応が出来なかった。
失礼します、戸を開けながら言う人が一瞬動きを止める。
私も固まった。
釣られていたのかもしれないし、言い逃れ叶わぬタイミングで目撃されたショックゆえかもしれなかった。

「なんや、それなんかの修行か

放課後保健室で一人きり、椅子の上で正座をし己の太腿を叩く同級生、という明らかにおかしな場面に遭遇しても笑顔のツッコミを忘れない彼は、だから夢いっぱいの理想論大会に参加していても女子の注目を集めるし、だから恐ろしくモテるのだ。
なにしてんねんと引かれるか、失礼しましたと踵を返されるか、見ないフリをされて居た堪れなくなるか。他の男子なら弁解の余地なく終わる可能性が高い、ここは救われたと感謝すべきなのだろう。
後ろ手に扉を閉めた白石くんがややよれた左手の包帯を整えつつ、明るい日の差す保健室内に割り入ってくる。

「修行ちゃいますー。ちょっと…試してみてたっていうか」
「何を?」

率直な問いに少々迷い、しかし今更誤魔化した所で無意味な気がして、大人しく白状する事にしたのだった。

「膝枕」
「……膝枕?」
「枕みたいに柔らかないし、どこがええのかなて」

撫でようが揉もうが一切ほぐれる気配なき腿が悲しい。
あっさり口を滑らせた私に対し白石くんは、ああ、と納得した表情を浮かべる。
今朝の話やな。
続く声はどこまでも穏やかだ。

「聞いとったんか」
「聞こえてしもたの! あんなおっきな声で話すんやもん、私だけやなくてみんなに聞こえとったよ」

こんな事を誰かに聞かれでもしたらまず間違いなく非難を受けるだろうけど、私にとって白石くんは話しやすい男子だった。彼が持つ雰囲気だとか受け答えとかが、口を軽くさせるのである。まあ元々自分は無口なタイプではないけど。
多分、白石くんは聞き上手なのだ。
でも黙りっ放しというわけでもなくて、適切な相槌を打ったり話題を振ったりしてくれる。
おかげで、気まずい沈黙が落ちた覚えもほとんどない。

「で、そないに言うならどんなもんかーて試してみた、と」
「うん。みんな色々夢があるんやね」

二年生から同じクラスで三年に上がってからは委員会も一緒になったから、余計に馴染みやすいのだろう。
適度なツッコミ、適度な真剣さが、私にはちょうどよかった。
だから白石くんじゃない。
普通なら流してとっくに忘れる話題に引っ張られて、膝枕の是非について熟考する理由は、別にある。

「色んな夢なぁ。にはないん?」
「少なくとも膝枕に夢は見てへん」
「まあ、女の子が見るもんちゃうやろな」
「………白石くんは、見る?」

何かの弾みで生まれた勢いが、勝手に喉を震わせる。
やたら思いつめた響きになったので慌てて、いや一般論としてでええんやけど、なんとなく気になってん、などともろに怪しい付け足しをした。
それまでどこか微笑ましげな眼差しだった人が、コンマ一秒目を丸くして、それからまた似ているようで質の異なる笑みを戻し滲ませる。

「見る見ないで言うたら、そら見てんで」
「ええー……そっかあ……」
「どういう反応なんそれ」
「私の反応はええねん……置いといて」
「俺としては置いときたないねんけど」
「白石くん、よそで言わんでね膝枕の夢。イメージ壊れたー言う子いっぱいおるから、きっと」
「なんやねんイメージて、そこまで責任持てへんわ。おまけにいつの間にか俺へのダメ出しになっとるし、いいとこなしやないかい」

ちょっとうんざりした表情を見るに、整った顔立ちのおかげで色々とままならぬ事があるのだろうなと思う。だが、今の私にそこまでのフォローをする余裕はなかった。
理知的、理性の人、暴れん坊だらけのテニス部をまとめるしっかり部長、そういった言葉が似合いの白石くんでさえ膝枕を好意的に受け入れるのなら、他の男子だってほとんどそうに違いない。
絶望だ。
どんなに小さな事でも、たった一人の希望や願いから外れてしまうのなら、向こう三ヶ月はへこみ続ける材料になり得る。
心に重りがついたみたく、体の中心から地底に沈み込んでいくようだった。

「……。いっこ余計な世話焼かせてな」

テニスウェア姿の白石くんが囁きに近い声をいまだ正座したまんまの私に降らせてき、その優しい音に思わず顔を上げたら、同じくらい優しい笑顔とかち合う。
にっこりと目を細くさせたその人の、唇が開きかけたと同時。

「おうコラ白石! お前バンソーコー持ってくんのにどんだけ時間かかっとんねん!」

ノックも何もなく、バン、とあたかも破裂したかのような開閉音と共に一気に開け放たれた扉から、今の今まで名前を思い浮かべていた人が現れて肩といわず全身が跳ね上がった。

「珍しくナイスタイミングや、謙也」
「あ?」

何言うて、まで声にした忍足くんの目線が白石くんから私へ移動する。
今度は心臓が高々飛び跳ねた。
太腿の上に置いていた両手を無意味に握り込む。こめかみでどくどくがなる血管がうるさい。唇が急に渇いていく。
目が合っただけで何も話せる気がしなくなってくるのだから、本当に絶望だ。

「…とおったんか」

状況を確かめるだけの音程にさえ心が躍り、聞き慣れたはずである自分の名字が鼓膜にはりついた。
扉に掛けていないほうの左手をポケットに突っ込む忍足くんを横目で見た白石くんが、突然の乱入者にも顔色ひとつ変えないでさらりと続ける。

「膝枕について意見交換しててん」
「ハァ!?」
「し、白石くん!」

まさか堂々バラされるとは思っておらず、不意打ちを食らい声が裏返ってしまい、忍足くんの素っ頓狂な叫びに身が凍った。
絶対変に思われる。
男子と膝枕談義する女子なんてどう考えてもおかしい。

「……おい白石、お前」
「はいはい。顔怖なってんで」
「誰の所為じゃボケ!」
「俺か」
「他に誰がおんねんアホか!」
「せやなぁ。ほな責任取って退室します」

止めようもない、というか止めるべきなのかもわからない、テンポの速い会話と展開についていけず、ただアホの子みたいに二人のやり取りを眺めていたら、いくら詰め寄られても柔らかな微笑みを絶やさぬ白石くんがくるりと私に背を向けた。
おい、と尚も追及の構えを見せる忍足くんの顔は険しく、さっきの言葉をなぞるわけじゃないが少し怖い。
そうしてドアのレール上に立ったままの彼とすれ違いざま、白石くんが事も無げに言い渡す。

「続き、しっかりやりや」

言うが早いか、呆気に取られた表情のチームメイトの二の腕を包帯色した拳骨でどついた。なかなかの思いきりの良さだ。勢いに押された忍足くんが、一歩二歩、保健室内へとよろめく。

「は…ハァ!?」
「わかっとる。金ちゃんは毒手やないと抑えきれへんからな。わざわざ呼びに来たんやろ、おおきにお疲れご苦労さん」
「いやおま、ちょっと待てや」
「お返しに、遅うなっても大目に見たる」

今さっきの轟音とは打って変わって静かにドアを動かす白石くんは、左手をひらひらとしなやかに振るいながら去っていった。
聞こえてくるはずの足音も本当にかすかなもので、息を潜めていなければわからないほどである。
上手いツッコミどころか、一言も発する事の出来なかった私は、ただただ呆然と男友達の消えていった扉を見つめるしかない。
ここで置いていくって、どういう事。
余計な世話ってなに。
無茶振りすぎる。
次々浮かぶ声なき声が胸の中で大暴れをかまし、変な汗が出てきそうな気がして、喉の奥が痛む。
落ち着け、とりあえず落ち着け落ち着け、と全く落ち着けなさそうな呪文を唱えつつ、不自然だった正座を崩して足裏を床につける。
そのまま奈落まで踏み抜くかと思いきや意外にしっかりした感触が伝わってくるので、そういえば絆創膏を取りに来たと言っていやしなかったか、と確かな発言を元にした分析が叶い、忍足くんと二人きりの現状については深く考えず任された留守役に徹しようと一呼吸ののち口元を緩めたら、

「なんやねん膝枕て。ほんまに白石とそんな話しとったんか」
「え!?」

ネタ振りにしても白石くんのそれは正直雑だったから、わけわからんわ、とか何とか言って流すものだろうと見ていた人からツッコミを受け思いきり動揺してしまう。
吸い込みかけの息がしゃっくりみたく突っ掛かった。
己のテリトリーへの侵入者を発見した犬の如き素早さで首を持ち上げると、襟足の辺りを無作為に掻く少々仏頂面の忍足くんがいた。
鼓動が嫌な音を立てて速まっていく。
嘘も方便も使う間もなく、唇は反射的に事実を紡いだ。

「ちょ、ちょっと。ほんまにちょっとだけ。朝、話聞こえてしもて……き、気になったから」


これだ。
だから私はあまり上手く言葉を繋げられないのだ。
忍足くんは決して愛想の悪い男の子じゃない。
どちらかといえば常に人の輪の中に入って笑ったり笑わせたりと明るいイメージの纏う人だというに、私相手の時は口数が減り、表情もかたく強張っている気がしてならない。
初めは女子が苦手なのかと思った。
けれど私以外のクラスの女の子とは普通に話しているから、そういうわけでもないのかと考えを改めた。
じゃあ次に辿り着く所といったら自然私個人の話になるわけで、女子ではなく私が問題なのか、苦手意識を持たれた日はどこだと顧みていれば忍足くんのほうから話しかけてくれて、いよいよわけがわからなくなる。
体育の用具準備中、移動教室の廊下、放課後のロッカー前、食堂でたまたま会ったお昼時。
やっぱりあのお日様みたいな笑顔はなかなか現れなかったけど、それでもただのクラスメイトよりは半歩くらい進んだ数の会話を交わし、バイバイと声を掛ければおう、と短い挨拶の届く距離にはいた。
いつもは離れている席がテスト中だけは近くなって、落とした消しゴムを拾ってくれた事もある。全員が目の前の白紙に向かう中で会釈をし合ったのが、私達だけの秘密ごとみたいでこそばゆかった。
黒板の高い所に手が届かず四苦八苦していたら、俺がやった方が百倍速いわ、と本当に凄まじい速さで消してくれた。
あまりのスピードに空中を舞ったチョークの粉がこちらにうっすらかかり、こらスピードスター、速さばっか追っかけとったらあかんで、近くで見ていたらしい白石くんからやんわりお叱りを受け、ものすごくまずい事したとばかりに慌てて謝ってくれたのだが、いつもほとんど無愛想と言っても過言ではない表情が崩れた事のほうにこそ込み上げるものがあって、場違いかつ失礼な事に笑ってしまった日の記憶が今でも薄れない。
いや今笑うとこちゃうやろ。のツボどこやねん。
初めて貰ったツッコミだった。
100メートル走は抜群に速い。
ご飯を食べるのも速い。
着替えるのも速くて、体育の授業の後に遅刻なんか一度もしていないように思う。
大混雑の購買で目的の物を手に颯爽と戻ってくるのが誰よりも上手だ。
一度、校内のどこで走ったのかは知れないけれど、夏服のシャツを引っ掛けたらしく盛大に破いた状態で朝のHRに出席していた。
クラスメイトばかりか先生にまで、おー謙也朝からセクシーやんな、などとからかわれ、アホぬかせ名誉の負傷っちゅー話や、間髪入れずに取って返す。
言葉の通りに服だけでなく右腕にかすり傷を作っていた忍足くんの為、クラスの女子が絆創膏を持っている人はいないかと呼び掛け、微力ながら協力した。
すまんな、おおきに。
たったの二言がとてつもない質量を持ち、心の中を占めていく。
汗だくになって校舎の外周を走っているのを見た。
たまたま呼び止められて、数学の先生に教材やらプリントやらを持っていけと揃って仕事を押し付けられた時、手伝い料発生すんでこの量、真顔でふざけてどつかれる。
しょっぱい事言うてないでお前がきっちり余分に持ちや男やねんから、去り際の先生の言いつけを守り、申し付けられた量の半分以上を請け負ってくれた。
私にとっては軽いと断言出来ぬ荷を抱えたまますたすた普通に歩くので素直にびっくりして、忍足くん力持ち、こぼせば、そーか、別に人並やと思うけどな、素っ気無い返事に断ち切られてしまう。

踏み込めない。
けれど目は独りでに彼を探す。
だって忍足くんは、ぶっきらぼうに見えてもいつだって優しい。
直前までは1分だってまともに話せないかもと悩んでいたって、声を掛けて貰えればたちまち、どうにかしてこの時間を引き伸ばせないか必死になった。
時々笑ってくれれば、それだけで嬉しかった。
あれ、と気づいた時にはもう始まった後だった。


「あ、ひ! 膝枕、膝枕な、私が思うにそこまで柔らかないし、せやからみんなそんなええなあ思うもんなのかなて、ちょうど白石くんが来はったから、それで」

沈黙を恐れるあまり舌が回りに回る。
そろそろ黙っておけよと脳は懸命に指令を出すのだが、神経回路が切り離されでもしたのかというくらい頭と体がバラバラに動き止まらない。
扉前に陣取っていた忍足くんがウェアの襟を軽く整えながら距離を縮め、無駄に慌てた私は失敗すれば転びかねない速さで立ち上がった。

「単純に一般論やろ。今朝のは…その場のノリっちゅーか、そんなんでしかないわ。がマジメに考えてどないすんねん」

低く響いて聞こえる、妙に四角四面なツッコミに気圧され芸もなく頷く。
すると、ええなあ思うちゅーか別に悪いもんでもないんと違うか、先程の白石くんに引き続き肯定の意を含む続きが寄越された。
一瞬心臓が破裂しそうに膨らむ。

「……男の子はして貰うほうやからええよ。けどあれ、してあげるほうは結構大変やん、足痺れそうやし。それからずっと背中伸ばしてな」

経験なんて一度もないくせしてもっともらしい反論を重ねるのは、悪くはない、と語る人に膝枕をしてあげる権利を持つであろう子を思い浮かべしまい、胸の奥から噴き出した重いモヤが全身を侵していったからだ。
誰かは知らないけれど、まず間違いなく私ではない。
自分勝手なヤキモチに気づきながら目を背け、大体私だったらはいどうぞなんて簡単に差し出さない、肌のお手入れが完璧な時でなければ嫌だ、スカートかそうでないか生足かそうでないかで色々変わってきそうでなんかもう考えるだけで色々無理、一方は寝転がるだけ、楽、もう一方はかなりの準備をしたあげくにひたすら耐えているだけなんて不公平、ありもしない仮定を立てる事で逃避した。
ぐるぐる唸って喧しい感情をどうにか押し込めようとしたがしかし、無理がたたって顔に出る。
頬の硬直と眉間の皺を感覚で理解して、ううん、と考え込む演技でもって誤魔化しを試みた。我ながらアホだとわかっていても他にどうしようもない。
はたして目論見が成功したかは別として、腕組みする私を目にした忍足くんが首元や肩にはりつくウェアを掻き遣り、

「いや待て、そもそも前提間違えてんねやお前」

尚も議論を続けようとしてくれる。
白石くんからのネタ振りを拾ってあげているのなら、なんとも律儀な人である。
前提てどれ、聞こうとして床に落としていた視線を戻せば、少しだけ焦った表情と向き合う形となって驚く。珍しい。忍足くんがいつものちょっと仏頂面を忘れているなんて、数えるほどしかないのでは。
どんなに重いものを持っていても顔色が変わらない。
時たまの笑顔、おはようと言った時の、おう早いやんけ、男の子らしい乱暴な返事。
そういった触れ合いの中蓄積してきた彼に対する私のイメージから、一歩半逸れた数秒の異変だった。

「誰でもいいわけちゃうし、好きな子にして貰うんが一番に決まっとる」

突然沸いた不可思議の種を突き詰める前に、好きな子、の一言で心臓とそれに繋がる血管全てが凍りつく。
好きな子。
胸の内で繰り返せば繰り返すほど、どこに繋がっているかもわからない大穴が広がっていく。最早痛むなどというレベルではない。感知するより先に裂けて何もかもを失くした心地だ。
忍足くんにしてみれば誰彼かまわずではなくたった一人にしか望まないという誠意の顕れだったのだろうけど、私には死刑宣告にしか聞こえない、暗闇に飲まれていっそ消えてしまいたくなった。断頭台の露となるでもいい。
とにかく立っているのもやっとで、さっき散々叩いた枕に適さない腿が憎々しくて仕方がなかった。
抓って、引っ掻いて、ボコボコにしてやりたい。

「……そう。なんや」

つっかえた声と我慢ならなくて握り込んだ掌を背中に隠し、なんとか口にする。

「お、おお。そうや。せやけど別に、二番三番はないで。言葉のアヤってやつで一番しかおらん」
「うん」

あからさまに表情が曇り、声色から色の抜けた私だ。
私が一番しかないという言葉を、信ずるに値せず、と評価したが為そのような態度を取っていると思ったらしい忍足くんはフォローにフォローを重ねるけれど、重ねられるだけ斬りつけられているのと同じだった。
そうか、様子がちょっと違ったのは、私が陰鬱な雰囲気を放っていたからなのだ。
頑張って覆い隠そうとした所でそう器用でもない、見破られていたに違いなく、忍足くんは親切で優しいから気を遣ってくれたのだろう。
ありがとうと呟く心と明かせぬ気持ちに苛立ってもう放っといてやと呟く心が混ざり、区別が出来なくなって、どうしようもなくなって、視界が勝手に潤む。
アホ泣くな、泣いたらもっとブサイクになる、ストップ涙、こらえろ私。
力いっぱい唱えていると、私のものではない細い息遣いが鼓膜に染みた。
彼にしてはひどく頼りないものだった。

「あー…あのな。そやから俺はがええねん」

吸い込んだのち、一気に告げられる。
結構な空白が生まれた。
単語の意味はわかるのに言っている事がわからない。

「えっ、うん」

混乱する脳内の騒がしさに揉まれてつい首を振ったが、心の声だけは即座に応じる。
うん?
え?
なにが? どういう事?

「……ホイホイ頷くなや。意味わかっとんのか、わかっとらんやろアホ。ほんまにアホや、意味がわからん。なんで平気な顔して男相手に膝枕がどうとか話すねんな」

さっきから変だ。
おかしい。拗ねたとしか表現しようのない顔と声の忍足くんなんて、一度たりとも見た覚えがない。
容量を超えた状況に思考を右往左往させるばかりの私が、待って忍足くん、と謂れなきアホ認定の訳やら今の言葉の意味やらを尋ねようとした瞬間、短く息を切った彼が右手で自分の前髪を引っ掴み揉みくちゃにした。

「…っだああああ! ちゃう、今のナシや! ええな忘れろ、綺麗さっぱり忘れろ!」

頷こうとし、ホイホイ頷くな、つい数秒前の声が再生されて首筋が固まり動けない。
ゆえに、目線を外す事も叶わない。
叶わないから、視界にはずっと忍足くんだけが存在していた。
陽射しよりも眩しい色の髪が光を散らす。
額の辺りを離れた掌の奥から、まっすぐこちらを見据えた瞳が揺れる。
強張った表情はいつもと同じに見えて、でもどこかが違った。
絶対的に、何かが違ったのだ。

「嫌やったら、これもすぐ忘れて構へん。聞いた後で捨てとけ。穴掘ったるからさっさと埋めてなかった事にしとけ。俺はが好きや」

その違いを確かめる余裕も与えられず、連なる真剣な声が耳に当たって言葉も呼吸も失った。体の機能がおかしくなったか、もしくは死んだのかと思った。
目が逸れない。
恐るべき速さで脈打つ心臓の音だけが鮮明だ。

「そういうこっちゃ。聞こえたか?」

ちゃんと聞いたな、と暗に返事を求める忍足くんの少し掠れた声色に、同じだけ掠れた音で、うん、答える。
自ら頷いておきながら何がうんなのか意味不明だし、言われた言葉も深く理解していない気がした。
ただ何か、とてつもなく、とんでもない事を告げられたのはわかる。
唇がおろおろとまごついた。

「……えっと、あ、あんな忍足くん、私」
「せやから!」

どうにもならない現状を懸命に整理しようとしたのだが、ひと際大きな声に遮られてしまう。
誰がどう見ても私は明らかに続きを紡ごうとしていた、しかし響き渡るくっきりとした発声はといえば思いっきり食い気味だった。
驚き反射的に開いた両目が、保健室へ来た時に比べあからさまに赤くなっている忍足くんの頬を捉えた。
次いで、自分のそれが火照るのを感じる。
ブワッとかドッとか、そういう現実には有り得ない音が聞こえてきそうな凄まじい熱量と速度だった。
手で覆いたい衝動に駆られる私と対照的に、彼は一つも隠さず、臆さず、瞳に宿らせた灯りを色濃くして絶やさない。

「け、検討してくれ」
「け…っんとう」
「検討」
「検討……な、何を?」

アホそのものたる問答を繰り返している間にも、どんどん顔が熱くなっていく。
鼓動の震えに合わせて校舎ごと揺れる錯覚も増すばかりで色々とひどい。
ぐっと吐く息を堪えた忍足くんが、いっそう強く私を見つめた。
続きを待つしかない私の心臓が竦み上がる。
引き結ばれていた唇が開き、そして。

「膝枕を!」
「膝枕を!?」

まさかの願いに返す声が裏返った。
え、検討てそっち!?
遅れて浮かんだツッコミを入れるより早く、来た時みたく轟音を立てて忍足くんがまさしく脱兎の如く走り出していく。
見間違えじゃなければ、一秒垣間見えた横顔は耳まで真っ赤だった。
ばたばたと忙しない足音が消え去った後には何も残らず、元通りに遠くの掛け声や人の気配のみがうっすら耳に届く、静かな放課後が戻ってくる。
すごい。本当にスピードスターだ。

目まぐるしく二転三転した展開に追いつけずぽかんと大口を開け、ゆうに数十秒経過したのちゆっくり閉じて、それから断りもなくこぼれた涙を拭った。
払い終わった傍からどうしようもない衝動が込み上げる。
言葉に出来ないほど嬉しいはずなのに、なんでか無性に大泣きしたい。
そうして笑顔になりたかった。
自分史上一番の、最大級の微笑みを添えて伝えたいのだ。
閉じた唇がまた開く。
堪え切れない喜びに溢れた呼吸が、笑い声と混じって漏れる。
体が弾けてばらばらになってもいいから暴れて、はしゃいで、大声を出したかった。

「あら? もしかして誰か来てしもた?」

開け放たれた扉からひょいと顔を覗かせた保健の先生に笑いながら、はい、でも平気です、口では答え、心で目いっぱい叫ぶ。

ああもう、私忍足くんが好き、大好きや!