ホントに来た。
都市伝説か何かを目撃したような驚きが胸の内でこだまする。

「なんだそのツラは」

右手をポケットに突っ込んで佇む人物は氷帝の生ける伝説と言っても過言ではない存在だから、都市伝説扱いもあながち間違っていないかもしれない、とどうにか動かした頭はすごくだるかった。
ドアノブを背後ろで閉める跡部先輩の、かすかに揺れた前髪の奥、鋭い光を放つ瞳が一瞬伏せられる。
どうという事もない仕草を読み取ってしまうのはここが学校ではないせいだ。
そこまで出来のいい生徒じゃない私だけど、それにしたってもう少しまともな状態というものがあるだろう。
風邪で寝込み、へろへろになっている姿など晒したくはなかった。

「夢かなって思ってました」
「そうかよ。わざわざお前の夢ん中にまで出て来てやった俺様に感謝しな」

半分聞き流していると思われる軽口と共にこちらを見下ろす人が、枕元の端末に連絡を入れて来たのはお昼を少し過ぎた頃。
調子はどうだ、様子を見に行く。
液晶画面に並ぶ簡素な文字に朦朧としていた意識が覚醒した。
イタズラかなりすましか、はたまた迷惑メールの類、それとも熱がおかしな幻覚を呼び込んだのか。
いや大丈夫です全然平気です、動揺に滑る指で打った遠慮は見舞い時刻を告げる画面によって砕かれたのである。

こういう時に嘘をつく人でないと知っていても、本当に言葉通り行動されると恐れ慄くほかなく、普段より弱っている事もあってすんなり二の句が継げない。
間近に立つ人は確かに跡部先輩で、信じられない事だが見慣れた自分の部屋にいる、実際目にしていてもまだ夢か幻かと疑う。
鼻は詰まって喋り辛いし、喉も掠れて痛い。
一番ひどい時よりましになったとはいえ咳は今にも気管を破り溢れてきそうだ。
熱と長時間寝続けていたせいで頭が芯から重く、ぐらついて定まらなかった。
ただでさえ先輩に比べ冴えない私の顔なんて、普段よりもっとぼろっとくたびれているだろう。
悪い事尽くしで悲しいやら情けないやら、不覚にも目の端がじわっと潤む。

「苦しいなら外せ」

氷帝の王様が軽く眉を寄せつつ、簡潔に言い落した。
目元が湿った原因を息苦しさだと考えたのかもしれない。

「……大丈夫です……」
「バカ、説得力がねえ。大体なんでんなぶ厚くなってんだよ」

私の口元を指すその人が、理解出来ないといった声色で益々眉間に皺を刻む。
来訪予定時間の数分前に、まさか来ないよね、まさか本気じゃないよね、思いながらも念のためマスクを着用したのだ。
誰も風邪を移してはならぬと戒めの意味も込め、気合の三枚重ねである。
当然かなり呼吸がし辛かったけれど背に腹は変えられない、首を緩く振る。
片方の手に下げていた荷を下ろし、ベッドの横にしゃがみ込む人の影の濃さが増した。
触れずとも圧倒される気配が近づき、音もなく腕が伸びて来て、遠慮なしにマスクを引っ張られた。
驚き過ぎてろくなリアクションも取れずにいたら、時たま人々に畏怖の念を抱かせる目がゆっくり細められる。

「どうやら本物のバカだったらしいな」
「風邪…移ります…先輩、離して下さい」
「移らねーよ。俺がお前の風邪ごときに負けると思ってんのか、アーン?」

よくわからない根性論みたいな発言が飛び出すので、マスクと口の間に生まれた隙へ差し込んだ掌の下でちょっと笑う。
直後、一枚を残して思いっきり剥ぎ取られた。
口調は乱暴でも無体を働かない生徒会長らしからぬ、雑で無理矢理極まりないやり様である。これは流石にご無体です、キング。

「いたっ」

今度は素直に声が転がる。

「お陰で目が覚めただろ」
「……痛い夢もあるかもしれないじゃないですか」
「ハッ、口の減らない奴だ。マスク何枚重ねたってお前が苦しいだけだろうが、無駄な事してんじゃねえ。黙って言う事を聞け」

結構容赦なく言われている気もしたが、声がまとう響きは静かに柔らかなので、すみませんの一言しか返せない。
風邪の症状とはまったく違う苦しさで胸が塞ぐ。
先輩は多忙を極める王様だ。
同じ生徒会の後輩が寝込んだからといっていちいち顔を出すほど暇ではない。
一年間生徒会に身を置いてきたのだ、よくよく理解している。
だからこそ、ぱっと見は暴君っぽい王様のとんでもない優しさが嬉しくて、コンディションもシチュエーションも良いとは言えない、というかほぼ最悪だけど、心があたたまる思いがした。
上に立つ者の温情にしても、民草でしかない私が賜るには度が過ぎているのではないだろうか。
もったいないお言葉、恐悦至極。
芝居がかったセリフが喉で控えており、よっぽど気を張らなければ口からぽろりと出かねない。
堪えようと布団を引き寄せた所で、摘んだ風邪防止フィルターをその辺に放り投げて我が領地であると言わんばかりに堂々腰を落ち着ける先輩を目撃し、大して鍛えてもいないはずの腹筋が自動的に躍動した。
なんたる失態、お客様用のクッションを出し忘れている。
私なんぞには銘柄もわからないような高級感溢るるソファやら椅子やらを愛用している王を硬く冷たいフローリングに直接座らせてしまっては、ありとあらゆる業界からお叱りを受けたとて平謝りの一択だ。全面的に私が悪い。
ごめんなさい今取ってきます、途中まで紡ぎ、しかしあえなく断たれた。

「いいから寝てろ」

上半身を起こした私の目の前に、大きな掌が広がっている。
指先で額を押され、背筋が震えてよろめく。
そう強い力でもなかったというに、大人しく従ってしまうだけの威力があった。
気のせいみたく触れた指は男の人のものでかたく、皮膚は乾いていたように思う。曖昧なのは、熱っぽい体だと正確に感じ取れないからだ。
肩が下がり、言葉もなく背を戻す。
汗でわずかに湿るシーツは不快だったがやはりあたたかいので、知らぬ間に立っていた鳥肌が収まった。
けほ、と今思い出しましたとばかりに零れた咳をなるべく殺し、めくれていた掛布団をたぐり寄せ、マスク一枚では心許ないと顔の下半分が隠れる位置まで持って来る。
のろのろとした一連の動作を跡部先輩はただじっと見守ってくれていて、立てた片膝に腕を乗せ、いつものように私を呼んだ。

「熱は下がったのか」
「……昨日よりは下がったはずだと」
「それは?」
「……お昼に替えた、気がします…」

額にくっついた冷却シートを示して尋ねられ、嘘をついても仕方ないのでありのままを報告する。途端に、表情は怖いけど基本端整な顔が歪められた。
さっき手で額に触れた時、ぬるくなっているのを悟られたのかもしれない。
私は小さな時から滅多に風邪を引かない健康優良児であったし、今頃下でテレビを見ているお母さんもわりと放任主義だ。寝込んでもたまに様子を見に来て来る程度で、甲斐甲斐しい看病をするタイプではない。
先輩のお見舞いを知らせた時など見るからにへたれている娘の心配をするどころか、
「えっ、そうなの!? どんな子、どんな子!」
と瞳を輝かせて根掘り葉掘り聞こうとしてくるような、恋愛事に興味津々な元気いっぱいの母なのである。
心配していないわけではなかろうが、まあ私の娘だから大丈夫、といったポジティブさを全面に出してくるのがほとんどだった。
そういえば跡部先輩をここまで案内したのは間違いなくお母さんだ、声を聞いた覚えがないのは跡部先輩と自分の部屋がミスマッチ過ぎてよそに目がいかなかったせいだと思われる。
余計な事言ったりしてなきゃいいけど、ていうか後で色々聞かれそうで困る、などとつらつら思考を飛ばしていたら、

。前髪をよけろ」

ごく普通の調子で指示を出され、従順に両手で髪を掻き上げた。
再び伸ばされた腕で部屋に差し込む西日が曇る。ほのかに暗い。
影を帯びた人の顔が、真剣だった。
息が止まった。

「…えっ!?」

次の瞬間、額にずっとあった感触がゆっくり消えていくので驚きに声を上げる。
チッ、と舌打ちが聞こえ、髪を巻き込んじまうだろうが動くな、不服そうに言われいっそう驚愕が広がっていった。

「あの先輩」
「黙ってろ」
「でも先輩」
「うるせえ気が散る」
「だけど、自分でやります」
「今の今までこんなもん付けてたバカが言っていい台詞じゃねえなァ。間抜けは間抜けらしく、俺に従え。少しくらい利口な所を見せてみろよ」

とてつもなく上から目線の、思いやりも何もないような言いざまだったのに、サイドテーブルに放ってあった箱から取り出したと思しき新しい冷却シートを乗せてくれる手つきがあまりにも穏やかなので、なんにもひどい事を言われている気がしない。
ひやりとした冷たさが額を覆う。
その上を、大きくてあったかい手がなぞっていった。
端から端まで丁寧に触れ、空気が入らないよう、すぐに剥がれてこないよう、気遣ってくれているのが嫌でもわかる。
しっかり見えない分鋭敏になって、指や手の形を感覚で受けてしまいどうしようもない。
はやまった心臓が内側から胸を叩き、詰まった喉奥は風邪のせいじゃない熱を帯びて、前髪を上げた格好のまま硬直し動けなくなるのではと本気で危ぶんだ。

「何、泣きそうになってんだ」

目だけで笑った人が、最後に私の額をひと撫でして遠ざかる。
冷却シート越しとはいえ初めてまともに感じる肉刺の出来た掌が、硬さと裏腹にどこまでも優しかった。
――だめだ。
こんなの、万全の私だって、絶対耐えられない。

「……泣いてない、でず……」
「泣いてんじゃねえか」
「ギリギリ、泣いで、まぜん」
「さっさと楽になっちまったらどうだ」

後ろにさあ吐けとついてきそうな悪役じみた事を何故この場面で言うのか、逆に涙腺が刺激されて壊れるじゃないか。
というかもう何を言われても我慢の限界だ。鼻の奥がつんとして痛かった。

「まあ間抜けは間抜けなりによくやったんじゃねえの」

人の悪い笑みを浮かべる先輩が、元の態勢に戻って続ける。
視線で追いかける癖を身に付けていた私は、お世辞にも品の良いとは言えない表情がふと綻ぶ瞬間を、よせばいいのにごく近くで見てしまった。

「頑張ったな、

与えられる響き一つ一つが耳の周りを伝い、鼓膜に滲んでいく。
天井や壁、跡部先輩の輪郭、視界に入る自分の手、全てが一斉に崩れて溶けた。
せり上がる息は熱く、おまけに首の真ん中辺りで詰まるから、舌の根がひくついて苦しい。
ついに溢れた水の粒が、耳横を伝って枕に吸い込まれていった。
マスクの下で鼻をすすると、妙に籠もった音が生まれる。
頭に置きっ放しだった手を力なく下ろして濡れる目元へと持っていけば、擦るなよ、言われてまた込み上げて、それこそホントにバカみたいに頷く事しか出来なかった。


秋の氷帝学園は行事が目白押しで、必然的に生徒会の仕事量も増える。
運動会に文化祭、記念式典、冬季交換留学の受付、数え上げればきりがない。
他の学校なら管轄外であろう事も、氷帝では生徒会に託されてしまう。何もそこまでやらんでも、と教師ですら引く始末だ。
私もそう思います、何度も同調しかけ、何度も引き戻された。
生徒会の頂点に座する人を思い浮かべ、萎えそうになる気力に鞭打って、やれるだけの事はやりたいと甘えを振り払う。
全部が全部、ひとえに跡部会長という型にはまらぬキングがいるからこそだった。
二年生で経験の浅い私はあちこち駆けずり回って、必死の思いで任された仕事を終えた。
秋の終わり、一大イベントとも呼べる文化祭を超えるとひと息つけて自分のペースがわかるようになる、同じく会長の下で働く先輩の助言を信じ、もう無理ですと零れかける弱音ごと振り絞りながら駆け抜けた。
何より、後夜祭の翌日には生徒会メンバーのみで行う打ち上げみたいなものがあって、三年の先輩達は最後だから内緒で何かお祝いしようね、と数少ない下級生同士で話し合い生徒会の仕事とは別で準備を進めていたのだ。
春にはいなくなってしまう人達を思い、寂しさを堪え、自分なりに華々しく送り出そうと心に決めていた。
でも跡部先輩の言う通り間抜けな私は後夜祭の後片付けを終えた途端に熱を出し、そのまま何日も休む破目となり、当然打ち上げも欠席。
友達や秘密のお祝いを企画した生徒会の面々から心配と気遣いの連絡を貰い、感謝の気持ちを抱きながらも心は晴れない。
上手くいったよ、先輩達喜んでくれたから大丈夫。
報告を目にする度、嬉しいはずなのに唇が情けなくひん曲がった。
どうして肝心な所でこうなるんだろう。
最後だったのに。
まだ二年の私がじゃない。先輩達――跡部先輩と一緒の、最後の文化祭で、最後の打ち上げだったのに。
とにかく悲しくて、風邪で弱ってもいたし、考えれば考えるだけだめになっていくみたいだった。貧乏神的なものが憑いているんじゃないかと、突拍子のない現実逃避もした。そう誤魔化しでもしなければ、人目も憚らず大泣きする事間違いなしの自分が嫌だった。
そんなわけないのに、今までの頑張りが跡形もなく打ち消された心地に陥っていたのだ。
なりふり構わずやった分最後くらいしっかりしたかったという思いが強すぎるあまり一人置いていかれた気がして悔しくて、それからとてもとても寂しかった。
体は現実で横たわっていても、心は奈落の底である。
だけど。


「お前は大丈夫じゃない時ほど大丈夫だって言いやがる。わかりやすいんだよ、半人前が。俺には見破れないとでも思ったのか? だったらとんだ思い違いだ、意識を改めろ」

だけど、真っ暗闇から私を引き上げるのはいつもこの人だ。
つくづくバカだ大バカだと散々な言われようにもかかわらず、怒りも悲しみも沸いて来ない。すみませんです、と日本語の怪しい返事をすれば、かざした手のずっと向こうでわずかに笑う気配がした。

「他の事は人並なくせして痩せ我慢は一流のにしちゃ、珍しく殊勝なようで何より。これに懲りたら人前でへらへら笑っておきながら陰で泣く、なんて真似はやめるんだな。湿っぽい。おまけに古臭いんだよ」

わかったかバカ。
こき下ろされたあげくバカとまで付け加えられて、あんまりじゃないですかと詰め寄っても許される程度には暴言だ、でもちっとも異議を申し立てる気になんてならない。なれない。
この先もずっと変わらない不文律なのだろう。

「……あの、先輩」
「なんだ」

しゃくり上げる寸前だった呼吸を整え、ぐずぐずの鼻をすすり、目の周りを隠していた手をどけて呼べば、さっきまで荒い物言いをしていたとは信じられないくらい凪いだ瞳が私の方へ向けられていた。
土壇場で力を発揮出来ない、最後まで締まらない、可哀相な下級生を見る温度ではない。
もう一度溢れ零れかける所をぐっと引き縛り、お腹の底から出すよう心掛ける。

「お疲れ様でした。今までたくさん、ありがとうございました。お世話になりっ放しで、なんにもお返し出来なくて、ごめんなさい。これからも頑張ります」

途中、若干声に涙がまじったものの、予想以上に淀みなく言い切れたから及第点とする。
聞き届けた様子の跡部先輩はほんの一秒目を開き、すぐさま頬を笑み崩してくれた。

「俺が生徒会から退くのはまだ先だったと思うが」
「一区切りつきましたから。本当は打ち上げの時に、言おうと思ってたんです」

そうかいありがとよ、と答える人の目元がじんわり和らぐ。
それだけで部屋の空気があたたまっていくような心地良さに包まれて、吐いた息がほどける。風邪のあらゆる症状も鎮まるようだった。
あちこちが緩み、たわんで、つい笑ってしまう。
目蓋を閉じた拍子に、流れ損ねていたらしい涙が下って落ちた。
落ち切ったと同時衣擦れの音がして、先輩が立った事を知る。
口を動かす前に起き上がらなくていいと釘を刺されたので、言われた通り横になったままで開いていく距離を眺めた。
間をあけずいとまを告げる声が降り、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
慰められて甘やかされて褒められて、私ばかりがいい目に合っている。

「すみません、なんのお構いもせず」
「病人に構われた所で嬉しかねえな」

余計な気遣いは無用という事なのだろうか。

「でも、せっかくわざわざ来てくれたのに……。こんなんじゃなきゃ、お茶でも飲んでいって下さいって言うんですけど」

高貴な王の口に合うかどうかは別として、それが礼儀というものだろう。
だが来訪者は思いがけず真面目な顔で呟いた。
いや、遠慮しておく。

「元々長居する気はなかったぜ。顔見たら帰るつもりだった」
「え、そうだったんですか」

この王様はどれだけ臣下を大事にする王様か、見上げても見上げてもてっぺんに辿り着けない。
こんなにも才能に溢れ、輝かしく、自信に満ちた人間っているんだなあと最早感動を覚えてしまう有り様である。
隠しもせず声と態度に出した私を見た先輩がやや難しい顔つきをする。呆れも半分入っているようだ。

「知らねえ男に留守中に上がり込まれたら、親父さんも気分悪ィだろ」
「そうなんですか?」

本当に、はあ……さようで? と首を傾げるしかない発言だったので深く考えず聞き返しただけなのだが、私の一声で先輩の呆れは半分をゆうに超え、あっという間に許容量を突破したらしい。
脱力とも諦めとも区別がつけられぬ、見た事のない表情だった。
口にすべきか迷っている、と言うのが一番近いかもしれない。
溜め息よりも小さな呼気が零れた音が、フローリングの床に放られた。

「…お前の親御さんの話だバカ。娘の父親ってのはそういうもんじゃねえのか」
「うちのは平気ですよ」
「……だといいがな」

肩を竦めて踵を返す現生徒会会長は、私の庶民部屋にいても決して風格を損なわない、本物のキングだ。
弘法筆を選ばずってこういう時使うのかも、でもちょっと意味が違うかな。
泣いたせいで余計ぼやける頭で見送る。
マスクは湿り気を多分に含み、息がし難い。
吸って吐いて、単純に繰り返すだけで、また涙が目の下の方で盛り上がる気配がした。
違いを数え並べてみると共通点などないに等しい、まさしく雲の上の人だろうに、跡部先輩は天高く上り詰めるのも同じくらいの位置でこちらへ意識を向けてくれるのも軽々やってみせる。
なんでもない事みたく平然と、常に『跡部様』らしく在り続けて、でも間抜けな私なんかのために足を運んでくれるのだ。
ともすれば憧れや尊敬からはみ出しそうになる気持ちをどうにか抑え込み、濡れて聞こえぬよう細心の注意を払って、尊い名前を唇でなぞった。
日暮れの部屋がしんと詰まる。
柔らかな沈黙だ。
響いた声は、自分のものじゃないみたいだった。
ちょうどドアノブを掴む所だった先輩が立ち止まり、無言のままで振り返る。
音の消えた、長い一瞬だった。
目が合う。
視線だけで訳を問われるより早く、私は一生懸命に笑顔をつくって心を伝える事にした。

「お見舞いに来てくれて、ありがとうございます」

びっくりしたのもあるけど本当に嬉しかった。

「先輩の最後の文化祭、ちゃんと出来なくてごめんなさい」

でも忘れない。
きっと一生、大人になっても、跡部先輩に気に掛けて貰えて、優しくして貰った事は。
形に出来ない気持ちの分も込めて紡ぎ、笑んで閉じていた睫毛を浮かせ、またぐずつき始める鼻をすすっていたら、すっかり体ごと向き直った人がにやりと唇の端を持ち上げて促した。

「へえ?」

目に宿る光がなめらかだから悪人めいた微笑みにもかかわらず怖くなくて、どうしてだろう、困る。
だけど嫌な困惑じゃない。

「…今後は、気をつけます」
「それで?」
「えっと、風邪が移ったら大変なので先輩も気をつけて下さい」
「……もう終わりか?」

言いたい事は。
言葉以外の何かで尋ねられ、まばたきを一つ。
それからちらと迷いもせず口を開く。

「しっかり休んで早く復帰します」
「よし。それでいい」

跡部先輩の大抵尖って見える目のふちが甘く滲むので、私は泣きたいのか笑いたいのか自分でもわからなくなってしまった。