やってしまった、とは己の手抜かりを恥じる他ない。
相変わらず会えるかどうかも定かではない相手を待って、荒天に冷える空気の中、時間を潰し過ぎた所為だ。
せめて駅舎内にいれば良かったものを、だけどいつもこの辺りで会うよね、などと拘ったのがいけない。
また秋口だった事も関係するだろう。
これが夏ならいざしらず残暑厳しい昨今といえどもやはり秋は秋、台風の影響で猛烈な勢いとなった雨と夕刻へ近付けば近付く程低下していく気温を軽視するべきではなかった。
駅へ辿り着く間までに浴びた恐ろしい量の雨雫、濡れて染みになった制服、奪われていく体温、極めつけに長時間半屋外のホームに留まる。

これで風邪を引かぬ程、は強靭な肉体の持ち主でなかった。

結局雨の日にのみ現れる彼と相見える事も叶わず意気消沈し、ほぼ濡れ鼠状態で帰宅した娘を見た母親は、あなた傘を持っていったんじゃなかったの、と目を瞬かせたのである。
答える気力も失くした少女がどうなったかなど、委細を語るべくもない。
当然熱が出た。二日程ベッドの中で過ごし、まともに登校出来るだけの体調を取り戻したのは寝込んでから四日目の夜だった。
明日は行けそうね、体温計を片手に微笑む母へと上手く返せないは、無言の内に頷く。
ここ数日間、高熱のお陰で意識が朦朧としていたにもかかわらず、響いてきた音があった。
雨だ。
天気予報で耳にする都度心待ちにし、降れば垂れ込める雲の色と相反して気持ちの明るくなる、特別な天気。
どうして、何故、よりにもよって家から一歩も出られぬ時に限って、傘の日が続くのだろうか。
完治した体は軽いはずなのに、零れる呼気が恐ろしく重かった。自らの軽挙が原因と理解してはいても、病を得、少しばかり痩せた肩は落ち窪むばかりである。
最早出尽くしたかと思われた溜め息が、また一つフローリングの床へと転がっていく。
足先で触れる秋の夜気は、想像以上に冷たい。



風邪と戦う間中、携帯電話があれば、と強烈に幾度となく悔やんだであるが、復帰するや否や一切を些末事として片付けられる精神を取り戻した。
授業終了を告げる鐘とほぼ同時に机上の整理を始め、掃除当番でない事を感謝しつつ一目散に校門をくぐり抜ける。
アスファルトを蹴飛ばす勢いで駆け、泥や水滴が撥ね返ろうともお構いなしだ。
流れる景色は灰色がかって濡れている。
様々に開いた傘を尻目に駅までの道を急ぐ少女の表情は、憂鬱極まりない天候と切り離されたよう生き生きと輝き、天から下る霧じみた落し物など関係がないと言わんばかりであった。
次々発生した台風に刺激を受けた秋雨前線が、気象予報士の顔すら曇らせるほどの長雨をもたらし、が登校するに至った日も青空は一切見えなかったのである。
物憂げな人々や街を差し置いて、だけは気力に満ち溢れていた。
息せき切って改札口に飛び込む。
濡れはしたものの雨音さえ聞こえて来ぬ程度の降り具合、予め用意していたハンドタオルで足を軽く拭けばそれで済んだ。
改札上にぶら下がった大時計と己の腕時計とを見合い、間違いがない事を丁寧に確かめる。この時刻ならまだ仁王は来ていないものと思われた。
ふう、と呼吸を落ち着かせる。
冴えない天候のお陰で日頃より些か仄暗い駅舎内を進み、心なしか撓っている気もするコンクリートの階段へ足を掛けると、久々の感触に胸が躍ってしまう。
弾む鼓動を抑えながら上った段上のホームは、電車が出たばかりなのだろう、閑散としていた。
そぼ降る雨の気配だけが残り、空気は煙っているよう視界に映える。
走った事で乱れた髪を手で撫でつけ、慣れ親しんだ場所へと向かう。
後ろから数えて三両目。車両編成によって変わる扉の開く位置すらすっかり記憶しているので、どの発車時刻、車両でも対応出来るベンチの設置個所は言わずもがな、目を瞑っていたとて間違わない自信があった。
腰を落とし、どこか悠々とした気持ちで座る。
鞄から取り出した手鏡が反射する己の姿を見、少し撥ねた毛先を摘んで整えた。
もう一度時計を確認し、よし、と心中で意気込む。小さな盤上の針は常より早い時刻を示している。
向かいのホームにはもうすぐ滑り込んでくるであろう電車を待つ人達が思い思いに散らばっていた。
今か今かと構えているのも、幼子のようで気恥ずかしい。
周囲に何者の気配もない事を目配せして確かめたのち、はいつもと変わらぬ姿勢で通学鞄に忍ばせた文庫本を読み始めたのだった。


――が、ほんの数分も経たぬ内だろうか。
数えて3ページ目辺りをめくろうかという丁度その時、ど、とが腰を落ち着けるベンチが震えた。
誰かが歩いてきた勢いを殺さぬまま、乱暴に座り込んだらしい。
突然の異変に驚くあまり思わず横を見遣ったは手に抱えた本を取り落とす所だった。

「仁王君!」

恐ろしく浮かれた声になったのを、数拍遅れで自覚する。
ぱっと陽光の差すが如く明るさで呼ばれるまでは線路の方にと視線を預け、片手はベンチの背側へ引っ掛けたあげく右の踵を左膝上に乗せ、と足癖と柄の悪さを発揮していた男も、あからさまな歓迎の意を向けられてはたと表情を止めた。
時に野生動物に似て鋭い目も丸く見開かれ、呼び掛けに釣られたのだろうか、そっぽを向いていた顔は揚々と本を閉じた少女とお見合い状態となっている。
大体にして薄く笑っているか、真意の掴めぬ表情を滲ませるのみの仁王にしては珍しい。
何やら希少生物を間近にしたような気分でじっと見るの様子に気付いたのか、すぐさま普段通りの表情を取り戻した仁王が、大概の人間は積極的に近寄ってこようとはしないであろう態度のままで呟き落とした。

「……随分、機嫌がいいのう」

先程まで、呆気に取られた、という表現が相応しい色の垣間見えていた瞳は今や硝子玉の如く透明だ。
しかしは、己の心を見通された事に気がいくばかりで察せない。

「そうかな」
「鏡見てみんしゃい」

言うだけ言って目線を切った仁王が、霧雨の薫る線路に鼻先を向ける。
音はほとんど響いていなかった。
雨に閉じ込められたよう、世界が遠のいている。
膝上に置き去りだった本をようやく仕舞うの耳に、

「で、何しちょった」

低い声だけがそろそろと潜むので、鞄を閉める指が一瞬留まった。
不意に視線を投げると相変わらずどこを眺めているのか見当のつかぬ横顔が、大層つまらなそうに続ける。
小さな溜め息が転がったのかもしれなかった。

「ここんとこ駅におらんかったじゃろ。雨ん中、他にどんな行く当てがあるんかと思うての」

久々に会うてみれば、楽しそうやき。俺にも教えて欲しいくらいじゃ。
淡々と紡がれたからこそ、は問われている意味を理解するが事が叶った。
遂に顎を付いた左手へ預け出した仁王の背中が、丸まって眠る猫のようだ。

「何もしてないの。どこにも行ってない」
「……どこにも」

どうしてか慌ててしまった所為で言葉足らずとなるに対し、何とも味気ないおうむ返しで応じる仁王は目だけを滑らかに動かす。

「うん。あの…何日か前、すごい雨が降ったでしょう。あの日に私、ずぶ濡れになっちゃって……風邪引いて寝込んでたんだ」

自らの醜態をむざむざ晒すようで羞恥が生まれたが、背に腹は変えられない。嘘を吐いた所でどうなる話でもないし、と肩を縮めながらはここ数日の顛末を話す。
骨の浮き出た顎を手から浮かせ、心持背筋を戻した仁王が、またしても珍しく見開かれた瞳で言った。

「風邪」
「そう。やっと今日から登校出来て」

続けるさ中に、頬やら首元やらを目でなぞられる気配を肌に感じる。
いつの間にか首を捻り、がらんどうで雨一色の線路にぶつけていた目先もへと鞍替えした仁王に、ごく丁寧に、つぶさに確かめられているのがわかって、は声を失った。
失ったそばからはっとして、蘇る。
数ミリではあるものの退き、隣人から距離を取った。

「あ…ごめんなさい私、気付かなかった」
「……ハ?」

口元を抑えともすれば立ち上がりかねないの頭からは血の気が若干引いており、素っ頓狂な声を漏らした仁王の変異を悟れない。

「もう治ってるから、大丈夫とは思うけれど。もし移しちゃったら大変だものね。ごめんね、仁王君」

熱はおろか咳や鼻水、風邪の諸症状は体から消え去っているが、万が一という事もある。
強豪校テニスプレイヤーにあのような高熱を伴う病にかかる可能性を与えては一大事だ、と鞄の紐を引っ掴み、快癒の爽快感と特別な雨の所為で浮かれて忘れていたが、もしかして今日は一緒の車両に乗らない方がいいのかな、提案しようとした所で、今度ははっきり響いた深い呼気に待ったをかけられた。
重い反響の根源を見遣った先、握った左拳を眉間に押し当てる仁王の様に呆れを感じ取り、は益々小さくなってしまう。

「移らんよ」
「…え?」
「だから、風邪。平気じゃ」
「でも……仁王君、風邪引いたら困る、よね?」
「そんなもん誰だって困るじゃろ」
「なら余計に」
「引いちょらん俺の話やない。実際困ってたのはお前さんの方。何日も寝込んで、病み上がりにここで座っとる場合じゃなか」

無理しなさんな、えーとこ育ちの優等生。
今日はラケットバッグではない、学生鞄をさっと引っ掛けた肩が立ち上がるので、は唐突な雨に降りこめられた時のよう慌てふためき後を追う。
先を行く人の背に、アナウンスが降ってきた。
まもなく電車が参ります、白線の内側までお下がりください。
どうやら話している間に、いつも乗る電車の到着時刻になっていたらしい。
飽きる程眺めても飽きない号車番号の描かれた線へ並び、緩んだネクタイを直そうともしない、両手をポケットに突っ込んだまま猫背で立つ人をちらと見る。
霧の雨に湿気た空気に晒された横顔にはもう、先刻のつまらなそうな感情は浮かんでいなかった。
ざわざわと増え始める雑踏は皆、やがて滑り込んでくる列車を待ち望んでいる。
音のない世界は終わりを告げ、風邪を退治したは有り触れた日常を全身に浴びた。
黙りこくっているのも変に胸騒ぎがし、引き結んでいた唇をこじ開け、呟く。

「無理、していないけれど」
「俺がしとう」
「えっ!?」

思いも寄らぬ一言に周囲の二、三人は振り返る大きさの声を上げたしまったの傍で、くっく、と今時読み物でも見かけない悪役じみた笑みを堪える仁王が、口の横に手を当てていた。微かに傾き露わになった首筋は、ひどく低い笑声が響く都度、引き攣り揺らめく。
黒いリストバンドで包まれた左手首に引っ掛かった傘が、なんとも半端に傾いている。
からかわれたのだと、悟った瞬間にはもう遅かった。
頬が熱い。

「……びっくりさせないで、仁王君」

せめてもの意趣返しに咎めると、凡そテニスプレイヤーとは思えぬ相好の男は、が知り得えない凄みのある眼差しで静かに言い落す。

「ほんじゃ、あんたも人ビビらすのやめるって約束してくれんか」

車輪がレールを滑る音は、刻一刻と大きくなっている。
返す言葉も紡ぐ声も忘れたの目の前で、人を斜めに見下ろす角度の首をそのままにした仁王が、その薄い唇をほんの僅かばかり震わせた。
ごう、といった突風と共に電車がホームへ侵入して来、の髪を盛大に揺らす。
ブレーキと車輪の回る轟音で鼓膜が騒ぎ、声など一切届いてこない。
耐え切れず瞑りかけた目で必死に追い掛けた唇の動きは、途切れ途切れでよくわからなかった。
俺は。
もう。
ない。
思った。
に理解出来たのはたったの四つだけで、繋ぎ合わせようにも不足しており、そもそも読み取れたそれらも合っているのか曖昧だ。
ドアの開く音がして、降車する人達の足音が続く。ばらばらと、いつかの雨のように。
に押さえていた髪を整える間も与えず乗り込んだ仁王は、元から伝える気などなかったのだろう。

「ん。まぁ俺にも聞こえんかったしのぅ」

仁王君なんて言ったの、聞こえなかったよ。
訴えるへ実に素っ気無く返したのである。
しかしどういう事だと追求する気力は、混雑する車内にて挫かれた。
満席となった椅子を尻目に雨雫で滴る扉近くに立ち、口を開こうとした寸前、吊革を掴んだ仁王がふと体の角度を変える。頭上の送風機から送られていた流れが断たれ、の肩にはぬくい空気のだまのみが残った。
小さな、一目ではそれとわからぬ優しさに指先まで痺れて、何も言えなくなってしまったのだ。