入室して早々に目を見張る手塚はこう言っちゃ何だけど面白い。
どうしたと問われる前に、まー待ちたまえ、と右手で制止し、少しだけ外したマスクの隙間から声を上げた。

「か、せ」

風邪、と発音したつもりが掠れに掠れて違う単語になってしまう。
眉を顰めた手塚が風邪か、と正しく返してくるので頷いてみせる。
現在青学で猛威を振るっている風邪も、生徒会長とテニス部部長の兼任者には敵わないらしい。見るからにド健康の手塚が恐ろしく真っ直ぐ伸びた背筋で私が陣取る机傍まで歩き、背負っていた荷を下ろした。眼鏡の奥の瞳はいつもの事ながらきりっとしていて涼やかである。


発端がどこの誰だったのかは知れない。
いつの間にやら忍び込んでいた風邪菌は一人、また一人とその手にかけていき、今や我がクラスは学級閉鎖寸前の有り様だ。そして新学期で何かと仕事の多い生徒会メンバーも例外ではなく、次々と倒れていった。
後は頼む。
こんな時期にごめんなさい。
治ったら二倍働くから。
頼りになりそうでその実不吉漂う台詞を残し、欠席の嵐。ぎりぎり耐えていた私といえば、金土日の三連休で発熱し月曜である本日には諸症状が消えるという、連休の意味ないじゃん的風邪との闘いを繰り広げていたのである。
咳や鼻水、熱も去ったが、ここ三日でゲホゲホし過ぎた所為で喉の異常だけは治りきらなかった。
移る可能性は低いと思うから、念のためのマスク着用だ。
見た目より重症じゃない。
なので大丈夫なのかと尋ねてくる視線に対し、指で丸を作って答える。断じて強がりでも心配させまいという気遣いでもなかったものの、カッスカスの喉で喋るのはやっぱり少々辛かった。
今度の生徒総会で配る冊子作りは至極簡単で、体調不良の皆がなんとか作り上げたプリントを束ねホチキスで止めていく作業なら問題なかろう、と思っての放課後生徒会室お籠もり決意だったけど、手塚が来る事を想定していなかったので間違いだったかもしれない。
手塚は無表情に見えてちょっとずれてはいるけど気を遣う時は遣う性格だし、話がし辛いのはなんだかんだで大変だ。
向かいの椅子に腰を下ろし、先程書類棚から取り出した紙の束に目を通し始める手塚に、部活は平気なの、聞きたくても聞けない。
どうしたものかと思考を巡らせ、あっと鞄の中に突っ込まれたルーズリーフの存在に気がついた。引っこ抜いて机に乗せ、手早くペンを走らせる。

『部活はいいの』

相対する生徒会長へ差し出せば一瞬の間が空いて、硬い声が落ちてきた。

「ああ」

字を書く手間に比べて簡潔極まりない返事である。
うーん手塚だなあ、変に感じ入りながら紙をたぐり寄せてひっくり返し、再び書き記す。

『テニス部の人たちは風邪引いてない?』

書類確認の片手間、投げられる問い掛けを目で受け取った会長が、室内に降る春めいた陽光で濡れる瞳をわずかに細めた。

「問題ない」

多分、怒ってるわけじゃない。
そこそこ顔を突き合わせてきたゆえ身に付いたカンで判断し、いいなあみんな健康そうで、素直に羨ましくて首を振る。

「……

自分の方に引き込んだルーズリーフを脇に置いて、とん、と新たに束ねた紙を整えた所で思いがけず呼ばれた。
なんですかと応じる代わりに視線を放ると、書類へと向けられていたはずの目が私を見据えている。

「無理はするな」

真摯な声と目力に気圧されつつも微笑ましさに胸が揺らされてしまう。
喉が万全だったらえっへっへ、とにやけた笑いが溢れている所だった。
手塚みたいな厳しさと緊張感と生真面目さが同居している人が見せる、たまの優しさや柔らかさは格別に嬉しい。ちょっと得した気分にもなる。
浮かれた私は出たとしても掠れ声だという事を見事に忘れ、ボロボロの喉を働かせた。

「してないよ。たいしょうぶ」

しかしそれが却ってよくなかったらしく、元々緩みのない眉間を一層険しくした手塚があからさまに目を眇める。
違うとわかっているはずの私ですら、あやっばい怒られる、と肩を竦めそうになるくらいのとんがり具合だ。
いやいやほんとに平気なんだよ、の意を込めて空の左手を激しく振ってみせるも、頑強な表情は崩れない。
仕方がないので隅に追いやっていた紙片に字を連ねた。

『マジで大丈夫だから。喉が掠れてるだけで他はなんともない。問題ない』

さっき手塚が口にした一言を貰っての説得だ。
あなたが言った時の心境と同様ですので信じて下さい、と気持ちを込めて書いたのだが、伝わっているか正直自信がない。だって手塚だし。
などと私が心中でぼやく間にも、向かいの手塚は考える素振りを見せたのち、己の鞄から高そうなボールペンを取り出した。
なんという事でしょう。
うちの父が好んで視聴する番組のナレーションが脳内に挿入される。
端がよれた紙きれの上を、左手が滑っていく。さらさらと響いた文字を書く音にも手塚っぽさが滲み出ていた。

『病み上がりなのだろう。後は俺が引き受けるが』

すっと滑ってきた白面に、几帳面な字が並ぶ。
自分で書いたものの近くで整列している所為でしらずしらず見比べてしまい、出来の違いに悲しくなった。私のより億倍美文字。

『いいよ。冊子作りなんて簡単な仕事だもん。ていうか手塚生徒会の仕事だけじゃなくて部活もあるんだから忙しいでしょ。これくらい私がやるって』
『簡単な仕事ならば尚更俺一人でも充分だ』
『簡単な仕事だからこそ会長一人に任せられないの! こんなの雑用。人もいないんだし、手塚は手塚にしかできない事やってください』
『部活動開始時間前には帰れ』

最後の一文が返ってくるまでにはやや時を要した。
文章と微妙に空いた間からして、手塚が折れた証である。
ちょっとばかし誇らしい気持ちになった私は笑ってピースし、規律に厳しいテニス部部長に怪訝な顔をされてしまう。

『ごめんね』
『何がだ』
『体調はいいのに喉がこんなんだから気遣ってもらっちゃって』
『お前が望んで喉を壊したわけではないだろう』
『まーそうだけど』

というかいつまでも筆談続けなくていいんだよ、手塚。
一度始めたらよっぽどの理由がない限り中途半端にしない性格のお陰で、なんだか愉快な事になっている。
やめないけどね、面白いから。
手塚なりの心配を感じているくせに心の中じゃ満面の笑みの私は、グラウンド100周だ並の雷を一度落とされるべきなのかもしれない。
申し訳ないのだが、同時に嬉しいし楽しい。
私と手塚の間を行き来するルーズリーフに文字の群れ。
書き記す時の、ペンが進む独特の音。
生徒会室という隔離された空間で過ごす放課後は静寂に満ちており、余分に響く。
手塚の生真面目さがふんだんに盛り込まれた文字と、私がさっと刻む綺麗とは言い難い文字の並びが物珍しくて、浮かれ心地になった。
お互い仕事の合間に筆談をする状況もおかしい。絶不調から抜け出せない喉と裏腹に上向く気分はわかりやすく顔に出ていると思うけど、他人の、特に女子の感情の機微などに聡いとは思えない手塚はきっと気づいていないだろう。
真面目一直線の表情は微動だにせず、黙々と書類チェックと筆談を続行するのみだ。
眺めているだけなのにこっちまで背筋を正したくなる手塚だけど、傍にいて気詰まりになったり緊張のあまり汗をかいたりといった経験は不思議と今まで一度もない。
顔が怖いと密かに恐れられている場面に居合わせた事もある。
私に言わせればそれは顔が怖いんじゃなく怖い顔になっているだけだ。
厳しい部長の顔、過ちや規律違反の乱れを許さないと訴えている時、目にしてしまったんだろう。
よくよく観察してみると目鼻立ちは整っているし、眉毛のすぐ下に目があるからひょっとすると外人さんみたいだし、切れ長の瞳だって綺麗だ。おまけに筆談に付き合ってくれる心の余裕も持っている。中学3年にして人間が出来上がっているとしか思えない。
何より一緒にいてなんか面白いしね。
込み上げるあたたかさを噛みしめながら、幾度目かの問いを記して渡す。

『手塚も充分気をつけてよ。手塚までダウンしちゃったら大変だよ。生徒会もなんにも回んなくなる』

私も心配しちゃうからさ、との文末下に手慰みで書いた猫のラクガキを添えたのは、一種の照れ隠しだった。手塚みたいに真っ向から無理はするなと言えたらいいけど、相手は完全無欠感を纏う会長兼部長である、言われるまでもない、心配には及ばない、跳ね除けられたら、そっすね、とすごすご引っ込むしかない。あえて口にする意味があるのかわからなかったのだ。
私の書いた字をゆっくりと確かめた手塚が、片手に持っていた書類を心持下げる。
陽の光が照らす頬は血色が良く、風邪なんかとは無縁のようだった。
もしかして一生縁がないままなのではと思う程、強くたくましく見える。

「ああ。気を付けよう」

おや筆談は終わりか。
若干久しぶりに聞いた声での答えに、プリントを重ねる途中だった手が止まった。

。お前も風邪をぶり返さないよう、体調には充分気を配れ」

うんわかってる、紙がないので書く事も出来ず、話したら話したでまた眉を顰められると思ったから頷くだけに留めておく。
相変わらずの硬い声色で、小さい子なら叱責を食らうかと怯えかねない口調だったけど、そこは厳しさの中に優しさと見守り態勢を隠す手塚国光、私は緩く笑う以外の表情を選べない。
さぞやへらへら見えただろう生徒会書記の態度を目にしたはずの手塚は、やっぱり叱る事なく静かに呟き落とした。

「……妙だからな」

何が?
首を傾げて促すと、眼鏡のブリッジを長い指で押し上げた堅物が答えてくれる。

「お前が静かだと調子が狂う。何故かはわからないが」

あっほんと、私そんなにおしゃべりだったかな。まー生徒会メンバーの中じゃ喋る方だもんね。ただでさえ欠席者が多くて静かだから余計にってやつ?
書こうとして、制された。
手塚の元にて鎮座するルーズリーフへ手を伸ばしかけた所で、自分のものより倍広くて大きそうな掌が、待て、と言わんばかりに立てられたのだ。
本格的に筆談は仕舞いという事だろうか。
大人しく引いた腕をそのままケータイにと伸ばし、時間を確認すれば手塚が最初に示した帰宅時間までもう間もない。
確かに紙面上とはいえ喋っている場合ではないかもしれない、と観念した私は作業に戻る。
手の中のプリントをホチキスでまとめ、また右端からプリントを一枚取っていく。
ふと正面から小さな咳払いの音がして、下がりつつあった鼻先を持ち上げた。
他の誰でもなく、口元辺りに握り拳を当てた手塚が発したものだった。
え、まさか風邪?
斜めにした首と目のみで問うと、

「………違う」

どうしてか言い辛そうで、加えて変に間の置かれた答えが寄越されるので、疑念が深まる。
ちょっとリアルに肝が冷えて、つい自ら禁じていた声を出してしまう。

「ほんと? ほんとにかせ、ひいてないよね?」
「いい。お前は喋るな」

ひどい言い草だ。
静かだと妙だと言ったり喋るなと言ったりどっちだよとも思う。
だけど意地悪や注意といった意味じゃなくて、一つの心遣いだとわかっているから従うしかない。
もういいや。よくわかんないけど手塚の言う通り早く終わらせて帰ろ。元気になってから聞けばいっか。
心に決めた私は冊子作りの手を早め、ぴしゃりと言ったきり唇を引き結んだ手塚もまた、必要書類に目を走らせ始めている。
怖い顔、とまではいかないものの雑談に応じてくれる雰囲気は既に失せ、それ貸して、と手塚の手元に置かれたままのルーズリーフを貰い受ける隙が見つからない。
でも後で言わなきゃ。
持って帰って取っておくんだ。
珍しいし、なんかご利益がありそう。
声も筆談に伴う音も響かなくなった室内は春にまどろみ、決して張り詰める事なき静寂に包まれている。
己の仕事に没頭する私と手塚の手の甲を、窓から斜めに差し込む光が柔らかく照らし出していた。


それは、私達がこの先ずっと長い間、国と国をまたぐエアメールでもって言葉を交わす仲になろうとは想像もしていなかった、中学3年の春のこと。