まったくタチの悪い風邪だった。
少し喉がおかしいかな? と思った数時間後には熱が出始めそのまま倒れ込むコースへご案内、である。
軽い異変が起きて即発熱するのでほぼステルス攻撃を受けたに近い。おかげで、家族の誰が風邪菌を持ち込んだのかわからず仕舞いだ。
一時期は一家全滅か、なんて朦朧とした頭で心配したものの、発熱期間が短かった為に皆数日で立ち直ったのは不幸中の幸いというやつだろう。
私としても、早い内に登校出来るようになったのはありがたかった。
立海は進学校だし、3年の今長々と休んでは勉強や受験に影響が出てしまう。
2日ぶりに顔を見合わせた友達が、9月は秋っちゃ秋だけどまだ暑いじゃん、なに風邪引いてんの、とからかってきた時は、言っておきますけどあなた方この風邪甘く見過ぎていますからね、能面顔の丁寧語で返してやりたくて仕方なかった。
だけど、放課後になるまで特に問題なく過ごし、病み上がり特有の気だるさみたいなものも感じなかったので、友達が軽く受け取るのも当然かもしれない。
無理するなよと担任の先生からは心配されたが、もうすぐ引き継ぎだしなあ、と美化委員会の定例会には出席する事にした。
病院へ行った発熱初日にインフルエンザではないと診断されたから、とりあえずは大丈夫だろう。と思う。思いたい。


いつもの教室に入ると、もう既に集まり始めている幾人かの生徒のさわさわとした雑談が耳を揺らす。
時計を見遣る。
定例会開始まで、あと10分ほどといった所か。
えーとなんだっけ、今日は美化週間ポスターの話し合いと制作だっけ。
前回決まった議題を回想しながらなんとなくここがいいと決めている椅子を目指して進んだ。
夏休みが終わってもうすぐ1ヶ月、秋といえども残暑は厳しい。
半分以上開いた窓からは風が吹き込み、カーテンが大きく膨らんでいる。
波打つ布には影と光が交互に広がって、ガラスの向こうで降り注ぐ陽の光は見ているだけで体温が1℃上がりそうなくらいきつい。委員会後は夏より衰えたとはいえあの熱射の中を帰るのか……と一気に精神力が減った。
校舎の外へ向けていた視線を戻す途中、腕を組みながら長机上に並んだ前回と前々回の美化週間ポスターを眺める人に気づいて、でもこっちが反応する前に目が合って微笑みかけられてしまう。

「久しぶり、さん」
「幸村君」

今月初めにあった定例会以来だった。
住んでいる世界が違っていそうなのに当たり前みたいに立つ相手は、委員会なんか免除してくれよと発言しても許されてもおかしくない、全国区テニス部の元主将だ。
おまけについこの間まで闘病生活を送っていた、時の人というやつである。

「来るの早いね。テニス部の引き継ぎは大丈夫なの? 忙しくない?」
「問題ないよ。大体はもう赤也に……ああ後輩なんだけど、任せてあるから」

知ってる、って言えないのが私のダメな所なのかも。
2年生の切原君どころかテニス部のレギュラー陣ならばっちり把握しているのに、口に出す勇気がない。
試合を見に行く内に、自然と覚えてしまったのだ。
入院する前から美化委員だった幸村君とは、定例会で何回か話した事がある。
クラスも端と端に分かれ、運動部の彼と文化部の私とでは活動範囲が重ならず、委員会が同じでなかったらすれ違う事もなく卒業していただろう。
今より少し幼い顔立ちだった幸村君は常に穏やかで、だけどどっしり構えているような人だった。
部の遠征で委員会を欠席した時はその次の集まりで、前は何を話したんだい、きちんと尋ねてきて、求められるがまま教えれば必ずありがとうと返してくれる。
ポスター制作週間ともなれば、絵心がある彼の周囲はすごいすごいの大合唱で埋まった。
他愛ない世間話や何度も耳にしたであろう賞賛一つ一つに嫌な顔せず応じ、空気がほんのり緩む笑みをこぼす。

校庭近くの花壇前に座り込み、熱心に花を見ていた。
委員会の集まり以外で幸村君と鉢合わせるのはとても珍しくてつい立ち止まったら、振り向いた目が柔らかく細められて呼ばれる。
さん。
幸村君が言うと私の苗字も上品に聞こえるから不思議だ。
部室に置き忘れたと言うのでボールペンを貸した。他に椅子が空いていなくて、時々席が隣になった。偶然でも嬉しかった。
くじ引きの結果ポスターを貼って回る係に任命され、校舎内を歩いて回った放課後。
当時から既に私より身長のあった幸村君は、何を言うでもなく率先して高い所の画鋲を剥がし、貼りつける役を買って出てくれた。
渡されたポスターを抱えるだけとなった私が、なんだか私あんまり仕事してないねごめんね、こうべを垂れると、充分しているじゃないか、朗らかに笑い飛ばした。

3年の2学期に入って初めての定例会、久々に会った幸村君は長い時間を病院で過ごしたにもかかわらずブランクなんか感じさせない、記憶していた通りの笑顔で続々かけられるねぎらいに答えていて、言葉じゃ表せないくらい大変だったろうに私にも気さくに接してくれたのだ。
普通なら気後れする所、なんとか話せているのは全部幸村君のおかげだと心から思う。
話したり一緒に委員の仕事をこなしたのはほんの数回なのに、過ごした日々は今でも鮮明に色づいている。


「そういえば俺、さんに聞きたい事があってさ」
「なあに?」

事前に美化委員に配られたプリントを手に、幸村君が一歩距離を詰めてきた。
物思いを捨て、ここなんだけど、と女子の私より骨ばっている指で示された文字列を視界に入れた直後、全身が硬直する。
唯一震えたのは喉だけだ。

「あっ、近寄らないで!」

風邪は誰にだって移しちゃいけないものとわかっているけれど、優先順位というものがある。
私の中で第一位に輝くのはもちろん幸村君で、夏で引退したとはいえ今もテニス部のトップと言うべき存在だし、退院して間もない人なのだ、恐怖のステルス兵器と遭遇させるわけにはいかない。
完治の自信はあったものの、それでも万が一移ったら、想像するだけで恐ろしかった。
今の今まで気づかなかったなんて、色々とひどい。
よってお腹から飛び出ていった一声は拒絶ではなくいわば警告音に近い――のだが、自分で想定していた以上に大きな声となってしまい、周りで雑談していた生徒がしんと静まり返った。
目の前の幸村君は、開きかけていた唇もそのままに動きを止めている。
私は慌てた。

「違っ……ごめん、なさい。私昨日まで休んでて、学校、風邪」

慌てるあまり後半部は単語の羅列と化してしまい、幸村君に移したらどうしようと恐怖に縮こまっていた心臓が一気に破裂寸前まで膨れ上がっている。
どくどくと騒ぎ立て、音が外に漏れるんじゃないかと本気で心配になるほどだった。
舌がからまって上手く回らない。
汗の噴き出る錯覚に陥る。
喋る時どのタイミングで息継ぎをしていたのかわからなくなって、苦しかった。

「だから、ええと…移ったら大変じゃない。あっ、別に咳とか鼻水とかないけど、もしかしたらって事もあるでしょ。そばに来ない方がいいかもって、それで…」

でも、みっともなくてもしどろもどろになっても、必死に続けたのはどうしてか。
目にした瞬間はとっさの事で意識が及ばず、当てはまる表現は遅れて浮かんできた。

「そうだったんだ。何日くらい休んでいたの」

もう大丈夫?
気遣わしげに尋ねてくる声や表情から感じ取れるのは、『いつもの幸村君』だ。
2日。ありがとう、平気。
答えたはいいが、まともに発音出来ているのかどうにも怪しい。
跳ね上がりっぱなしの鼓動はうるさいし、視線の先をどこに落ち着かせればいいのかもわからなかった。自惚れだと叱咤する声が脳内に響いている。
だって、信じられない。

「フフ…だろうね。休養十分のようだし、顔色も悪くない」

少しだけからかいの色を混ぜる、いつだって悠々と構え、穏やかに笑い、どんな事にも揺らがないような幸村君が、あの一瞬。
人をまっすぐ見る瞳を凍りつかせていた。
望みを失い、光を反射する事も止めてしまって、まばたきより早くすっと色が消えていく。

「そ…うだよね、うん、私も大丈夫とは思ったんだけど、万が一って事も」
「ないよ。大丈夫だ。確かに俺はこの間退院したばかりだけど……こう見えて夏の大会にも出ていたんだ、そんなにやわじゃないさ」

近寄らないでと私が放った一言で、すごく傷ついたみたいだったなんて。
口にするどころか思う事すら躊躇われる。
可能性の一部に組み込むのだって、しちゃいけない気がした。

「でも移ったら大変だと思うよ。ちょっと調子が変だなって思ったその日に熱が出て、熱出る前の症状ほとんどなかったんだから。気をつけようがないじゃん、そんなの」
「周りで風邪引いてる人、いなかった?」
「うーん…私は思い当たらないな。お父さんとかには聞いてないからわからないけど」

話す内にも何かが背中をうっすら撫でていき、妙な気分にさせる。
一向に落ち着かない。
不快感のない気持ちの悪さみたいな、どう言えばいいのか言葉が見つからない感覚が体の中で渦巻いていた。

「ほんとタチのわっるいやつだった」
「あはは、うん。そこまで強く言えるなら、本当にもう大丈夫だね。誰かに移るほどの威力はないんじゃないかな」
「……だといいけど」
「じゃあ俺が保証しよう。さんの風邪は治っているよ」

足の裏がぐにゃぐにゃして立てないような不安感を堪えながら、なんとか会話続行を試みるさ中、機会が掴めなくて少しの焦りが生まれる。
近寄らないでなんて言ったりしてごめんね。
口にすればこの名付けられない気持ちが解消されるのではと期待もあった。
だけど言ったが最後カンチガイ系女子と認定されても黙るしかないとも思う。
何より、一秒にも満たないだろう、瞬間の幸村君が瞼の裏に焼きついて消えてくれない。
謝った所で薄れるのかと問われると違う気もするから、もうどうしたらいいのか本当にわからなかった。
あんな表情、二度と見たくないのに。
原因と方法が掴めなければ、進むべき初めの一歩だって決められない。

「それに風邪なんて可愛いものだ」

自然と音を拾えなくなっていた耳が、天の声と等しい響きに覚醒する。
一方、静まりつつあった心臓はわずかに脈打つ速度を上げた。
見上げた先の幸村君は、一瞬とはいえさっきまで感情を失くしていた瞳に明るい光を湛えて微笑んでいる。何が何だか理解しないままに、うん、と頷いてしまいそうな強さだった。

「俺はもっとタチの悪いやつだからね」

でも首は縦に振れない。

「…えええ?」

柔和な笑顔の人らしからぬちょっと物騒な物言いに、疑問いっぱいの返事が飛び出た。
眉間に皺が寄っているよと益々笑みを深める幸村君は、想像するに不可解だと顔に書いてある状態らしい私を見、柔らかく目尻を緩め、それからおでこ辺りの前髪を拳でよけながら小さな息をつく。

「……近寄らないで、か」

鋭い刃を喉元に突きつけられたみたいに息が引っ込んだ。

「流石にちょっと効いたな」
「ご…っごめん! あの、言い方間違えて、私そんなつもり」
「なかった。わかっていても、聞きたくない言葉ってあるだろう?」

決して怒っている声色じゃないのに、目の前が真っ暗になる。
頭の天辺からあっという間に血の気が引いて足のつま先まで全部が冷たい。
気管が狭まった所為で呼吸するのに必要な幅も失せ、息が続かずに途絶えてしまう。
ごめん。
たったの三文字ももう出てきそうになかった。
視界の下が捻じれて潤む。
無理矢理閉じた唇はどう頑張ってもかすかに震えてしまった。
這い上がってきた涙の気配を振り切ろうと、目のふちへ懸命に力をこめる。

「だから二度と言って欲しくない」

おかげで幸村君が発した言葉の意味を受け取るのに余計時間がかかった。

「近寄らないで…なんて、聞きたくないな。さんには言われたくないんだ。特別、君にだけは」

そう大きな声量じゃない。
だけど、いつの間にか再開されていたらしい雑談に伴う周りの音を割って、誰のものより鮮烈に響く。
意味を噛み砕くために飲み込もうとして、喉に詰まった。
胸が熱い何かでいっぱいになっているから入っていかないのだ。
鼓動は高鳴り、苦しいを通り越して痛い。
今、たとえば誰かに後ろから膝かっくんされたら、そのまま崩れ落ちて立ち上がれないと思う。
干上がった唇では簡単なはずの、待って、という意思表示もろくに紡げなかった。
急すぎる環境変化に置いていかれた私のすぐそばで、幸村君が綺麗に口角を持ち上げる。細められた両の目は、大切なものを包むようなあたたかさに満ちていた。

「俺が今言った事、よく考えておいて。そして出来れば、うん、と言ってくれないか」

思わず見惚れるくらい美しく、しかし確かに男の子だと感じさせる笑顔の人が唇を閉じるや否や、教室前方側の扉を開けて先生が姿を現す。
雑談に花開かせていた生徒が話を切り上げ、めいめい席に着き出した。椅子やら机やらが床とこすれ合う音をBGMに、わざとなのだろう、やや厳めしい振る舞いの幸村君は、よろしく頼む、と微笑みをたずさえ言い置いていく。
ごく控え目に言って、とても楽しそうだ。
強靭な肩が笑いを堪えるみたく心なしか小刻みに揺れている。
私はといえば流れと空気に合わせふらふら歩く。肩に引っ掛けた鞄が嘘のように軽い。あまりにも現実味がなさすぎる。
もしかして夢なのかな。
呆然とするしかない脳みそは普段以上に働いてくれないので、現実逃避ですかとツッコまれて当然のタイミングだと理解しつつ、そういえば聞きたい事ってなんだったの、とばら撒かれた謎とひとまず向き合ってみるのだった。