普段より格段に味気ない文面に幸村は軽く目を見張った。 受信時刻を見遣れば、午前の授業もそろそろ終わる頃に届いた知らせのようだ。 昼休みに沸く教室内、何の気なしに開いた携帯は彼が今まさに連絡を取ろうとしていた相手の名を画面に映し出していたのである。 ごめんなさい。カゼひきました。 記されていたのはたった二言だったが、凡その調子やここに至るまでの経過を幸村は素早く把握する。 元々は熟考や推敲を重ねた長文を打つタイプではない。 それにしても短文に過ぎるのは、すこぶる調子が悪く14字程度が限界だったのだろう。 朝ではなく昼近くになって送られて来たのは、忘れていたか、寝込んでいたか。もしくは両方当てはまるのかもしれない。 学校を休んだか否かまで書かれていなかったものの、幸村相手に無駄や手間をそぎ落とした単語しか送れないのであれば、逐一尋ねずとも理解が叶う。 朦朧とする意識の中で必死に指を動かしたのかと想像すると微笑ましい気もするが、やはり心からは笑えなかった。 それに、の場合は色々と抜け落ちている可能性もあるからな。 騒がしいクラスを抜け、思い思いに昼食の時間を過ごす為散っていく生徒らの波を掻き分けながら口を開かず独りごちる。 幸村が記憶しているは、自らにとって当然の状況であったりすると特別説明はせず、意識して他人に伝える回路等をほとんど繋がぬような子だ。 風邪に冒され本調子ではないとすれば尚の事怪しく、熱があるだとか学校を休んでいるだとか必要事項とも言える情報を忘れてしまったとて不思議ではなかった。 昼日中の光満ちる廊下を進み、階段の踊り場と渡り廊下の入り口が同時に目に映る場所へと辿り着く。 グラウンドや花壇に降る陽光は実に麗らかだ。 風邪を引く要素等見受けられず、昨日会った時は至って平生通りに見えたので、何をどうしたら一夜の内に寝込む羽目になるのかと内心首を傾げる。 伝統ある強豪テニス部で首座に君臨し何かと多忙な幸村にとって、今日は久しぶりに一緒に過ごせる昼休みのはずだった。 大体にして極めて健康体であるは今まで病欠と無関係、皆勤賞を得たとしてもおかしくはない出席率を誇っている上、前兆が一切見受けられなかったとくればさしもの神の子も予測出来ない。 確認する程の事ではなかったのだ。 校舎のどこにも彼女の姿がない日は、これまで一日とてなかったように思う。 無駄になっちゃったな、と惜しむでもなく侘しさを織り交ぜるでもなく、ただ事実として無言のまま呟いた。 続いて、肩から下げた通学用鞄内の弁当をどう片付けるべきか思案する。 何処を通り転がった話だったのか最早不明瞭であるが、料理が得意か不得意かで花を咲かせたのは、数週間前の夕暮れ時だった。 夜の狭間に沈みかけた通学路にて肩を並べ、卵焼きなら自信があると言った幸村をが思い切り訝しんだのだ。 精市くん、卵割る時に殻こっぱ微塵にしそう。 俺の事なんだと思ってるの。 以降話が発展するでもなし、その場は笑ってお終いだったが、目覚ましが騒ぐより早く起きた今朝、交わした会話がふと脳裏を過る。 完全に思いつきでキッチンへ立った為に家人はわけがわからないといった表情を浮かべていたが、今日に限らず常時あるがまま行動する幸村を咎める者はいない。 そもそも病に伏し懸命のリハビリを経て復帰した長男だ、見守る眼差しはいつだって温かかった。 相変わらずの手際の良さを間近で目撃し、息子の気まぐれを許した母が、綻ばせた唇で言う。 ちゃんにあげるつもりなら一番上手に出来たものにしなさいね。 勿論と笑い返した幸村が用意されつつあった弁当に余分なスペースを作って貰い、以前作った時と比べ綺麗に焼けた卵焼きを二人分詰めて来たのは、偏に驚く顔が見たかったからだ。 それから、すごい、美味しい、素直に褒め称えるであろう声も聞きたかった。 望めば際限はなく、たかだか一瞬の思いつきの根源を辿る内にひしと感じる。 奥底に秘められているのは、いつだって自らの手でを喜ばせたいというひどく子供じみた願いだった。 まったく、尽くし甲斐のない子だ。 茶化してみても何か物足りない。 慣れ切っているはずの幸村でさえ時折肩を竦めたくなってしまうがしかし、それがという女の子だと重々承知しているので文句の一つも碌に出て来なかった。 仕方ない、天気が良いから中庭にでも行こうかな、と階段を下り始めた幸村は徐に端末を取り出し、ベッドに伏していても頭に入りやすいようなるべくシンプルに打ち返す。 わかった。お大事に。これ以上悪化しないよう暖かくして寝るんだよ。 ※ 幸村自身、相手とどれだけ親密であろうと四六時中共に過ごす質でないし、の方も密に連絡を取りたがりはしないので、近況が転がり込む事はなかった。 よっていよいよ様子を見に行くべきかと幸村が判じたのは、から風邪だとの知らせが送られて四日目の午後である。 押し掛けた所で快方へ向かう病でもなし、ならばゆっくり養生するのが一番だろうと考えていたのだが、こうも調子の良し悪しが得られないと気の持ちようも取るべき行動もわからない。 昼近くにメールで体調を尋ねたものの梨の礫、携帯電話はぴくりとも震えなかったのだ。 インフルエンザでないとの情報は、たまたま通りがかった教科準備室前にて話し込むの友人達によってもたらされた。 ここ数日で溜まった課題のプリントや配布物、休んでいた間のノート等を誰が届けるか、諸々思い悩む素振りを見せる女子二人は、自宅の方向が正反対の上部活があるからとんでもなく遅い時間になってしまいかねないといった配慮を口にしていたのである。 金曜日の今日を逃せば週明けまで待たなくてはならず、が風邪を退治しつつあった場合、土日のロスは手痛いものとなるだろう。 ただでさえ成績優秀とは言い難い生徒なのだ。 が日頃から渋い顔をしてテスト対策に励んでいるのを、彼女らは近しい距離で目にしているに違いない。 「俺が預かろうか」 今から様子を見に行くつもりだったんだと前触れもなく申し出た為、ああでもないこうでもないと議論していた両名の目は丸く開かれる。 別に盗み聞きするつもりはなかったんだけど、聞こえてしまってね、思わず苦笑した所で幸村をやっと認識したらしいの友人らが、揃って首を振った。 ありがと幸村君、頼んでいいかな。 手渡された紙袋はずっしりと重く、覗いてみればノートやプリント類の他にはちみつ入りの喉飴や数種のビタミンを豊富に含むと謳うゼリー飲料のパッケージが幾つか垣間見える。お見舞い品なのだろう。 幸村が僅かばかり視線を外している間に、今日の朝連絡したらね、と傍らの一人が口火を切る。 「すっげー熱出たらしくてさ、一応検査したみたいなんだけどインフルじゃなかったって。あの子、ほんと意味わかんないタイミングで寝込むよね。今って風邪とか全然流行ってないじゃん?」 「うん。昼間はあったかいし、夜だって別に冷え込んだりしなかったのにね」 「らしいと言えばらしいじゃないか」 思い遣りを見せると同時、長年の友人らしい気安さで明け透けに物を言う様につい笑いを零した幸村が座に加われば、まあねえ、ホントそういうとこがっぽいよ、何故か感慨深げな同意が落ちて空気がほどけた。 病欠がめでたいはずは当然なく、褒められたものでもないのだが、叱責の言葉等は誰からも、常より体調管理にさり気なく目を光らせる幸村からさえも出て来ない。 正午を過ぎごく緩やかに傾きつつある陽射しは尚も穏やかで、廊下一面を満遍なく温めており、柱の影に入っても心地良い熱を放つ程だった。 本当に、どうしてこの陽気で風邪を引くのか全く以って理解し難い。 肩を竦めたいような、軽い溜め息を吐きたいような、だけれど彼女の不在を嘆きたいような不可思議極まりない心境に陥った幸村は、気遣いが詰め込まれた紙袋の重みを強く握って確かめた。 幸村を出迎えたのは、もう幾度となく挨拶を交わした彼女の母親だ。 友人が来るとしか知らされていなかったらしく、幸村がインターホン越しにおとないを告げた直後、あら幸村君!? と姿を見ずとも驚いている様子が窺える声を発し、ものの数秒でドアを開けてくれる。 思わず笑声を零してしまった幸村だったが、礼を失する真似はしない。 こんにちは、突然すみません。ノートとプリントと、それから預かったものがいくつかありまして伺いました。さんの具合はどうですか。 物柔らかに、しかし気後れする様子等は一切見せず整然と告げた。無論、規律正しく頭を下げるのも忘れない。 ひょっとするとそこらの新成人より立派な口上を述べる高校生に、ああいいのよ、狭い家だけど上がって上がって、迎え入れる声は実に心安く、玄関へしっかり響き渡る前に奥へと消えていってしまう。 本人が心に書き止めるべしと決めた部分でなければ驚く程拘りを見せないのだ。 想像するに、はどちらかといえば母親に似ているのだろう。 仮にも男の幸村を二階にある娘の寝室へと気兼ねなく招き入れようとする人をやんわり押し留め、学校で預かった見舞い品と道すがら購入したの好むメーカーのプリンとヨーグルト、清涼飲料水のペットボトルを差し出す。 ペットボトルの方は夕方になっても熱があるようなら凍らせて下さいと伝えれば、感心しきりの表情で頷かれた。 流石に玄関先で帰されるとは考えていなかった幸村だが、こうも歓迎の意を全面に出されるとそれはそれで身の置き場に困る。 うちの誰も風邪引いてないのにどっから貰って来たんだか、あっけらかんと語り階段を上る背に向け相槌を打つべきか些か迷い、熱は大分高かったんですかととりあえず尋ねてみれば、一日目は四十℃近い数字を叩き出した事実が発覚し今更ながら肝が冷える。 鼻や喉を冒されても熱は滅多に出さないである、おそらく未経験と思われる高熱はさぞ体に堪えただろう。 だというに、彼女は覚束無い文面とはいえきっちり連絡を寄越して来た。 優先順位が違う。 他人の動向よりまず自分の体調を省みるべきだ。 回復した暁にはよく言い聞かせなければなるまい。 独りでに強張った頬の筋肉へ再び温い血が通ったのは、部屋の扉をノックもせずに開け放った人の明るい声音のお陰だった。 どうぞ幸村君、今寝てるみたいだけどどうせその内起きるでしょ。 言い置いたのち、まさかの展開に面を食らった幸村の返事を待たずして、気なんか遣わなくていいからね、またしても弾んだ調子で告げて去っていく。 そうか。 一人きり廊下に取り残され漠然と理解する。 幸村の恋人が時折ものすごく無警戒で、かと思えば変に警戒し出すのは、遺伝のようなものなのだ。 今朝方友人から連絡を受けた際に見舞いの件を知り得ていただろうし、家族にも伝えていたと思しき対応をされてしまえば、当然本人も起きていると仮定するのが妥当な線だった。幸村でなくとも虚を突かれるに違いない。 それよりも、普通眠っている娘の部屋へ異性を通すだろうか。 苦笑が喉を震わせて転がる。 真意を裏に含ませる人達ではないとわかっていても、はたして信用されているのか試されているのか、幸村は若干判断に迷った。 妙な真似をする気は更々なく、どうやら嫌われていない事も非常に喜ばしいのだが、何となく申し訳ない。 ごく真面目に付き合いを重ねて来た自負はあれども、公明正大かと詰問されれば胸を張れない部分があるし、人並に手も出しているから指一本触れてません等と口にしたが最後、大嘘吐きの出来上がりだ。 俺が真田みたいな奴だったら何の迷いもなく堂々としていられたんだろうけど、と学生らしからぬ渋味を眉間に纏わせるテニス部の副将を頭の隅に浮かべる。 後ろ手にドアを閉め、しんと静まり返った室内へ踏み入った。 フローリングの床が僅かに撓って耳を突く。 白色の薄いカーテンが陽光を淡くぼかしてい、奥まった位置のベッドから風邪で臥せっている割に健やかな呼吸が届いていた。 肝心の彼女は季節外れのぶ厚い羽毛布団に埋もれている所為で、幸村の立つ場所からは髪の一筋しか視認出来ない。 うちのお母さん、精市くんの事進研ゼミだと思ってるから。 一歩ずつ距離を縮めるさ中、不意にいつぞやの他愛ない会話が自動再生される。 何の事だとかどういう意味だとも返せず目を瞬かせた幸村へ、本日の間食であるポッキーを指先で摘んだが補足した。 お陰で成績が上がりました! 前より忘れ物もしません! 朝寝坊の回数が格段に減った! ……そういうの。 賛辞を受けた所で不服だ、納得がいかない、隠しもしないで顔に映し出している。 得心した幸村は笑って言った。 俺は何もしていないよ。頑張ったのは自身なんじゃない。 冬場は辛いだろうから冷え症を改善すべき、もう少し周りを見てよく考える癖をつけようか、等々言ったもののたとえば真田のように口喧しく注意した覚えはなく、目に見えて以前と生活態度が変わったのだとしたら幸村の成果では決してない。 故に偽りなき本心だったのだが、戻って来たのは、益々赤ペン先生にしか聞こえない、あからさまに膨れた声のみである。 少女らしさ溢るる様相に頬が撓み、唇の端もゆるゆると解ける一方で抗う事すら馬鹿馬鹿しかった。 空気が肌へと染み込む。 在りし日の回想に付随する声より幾段も小さな物音にもかかわらず、鼓膜の奥が丸ごと塗り潰されるのではと危惧する程過敏に拾い集めてしまう。 幸村の胸をひそやかに突く寝息が規則正しく流れて来、ともすれば肺を膨らませる事さえ躊躇うような心地には蓋をする他なく、少々持て余した感情をやや苦い笑みで以って発露させた。 部屋の主が恐ろしい程静寂を保っている所為か、得る感覚の何もかもが違う気がしてならないと幸村は無言でなぞって確かめる。 初めて入った場所ではないし、たとえば病室のよう苦々しい記憶に溢れているわけでもない、ただが日々を過ごす部屋というだけだ。 だがそれこそが、心中を甘く揺する。 クラスメイト兼友人であった頃からどこかの誰かは下らんと一蹴するだろう雑談に花を咲かせ、口元を頑なに引き結んで黙り込む時間の方があからさまに短かった、病院でさえ気安く日常を語ってみせたがこうも大人しいと余計な領域にまで気を回してしまうのだ。 時を会話に割かぬ分、鮮明に浮き立つ。 当然といえば当然で、自ら訪ねておいて間の抜けた話ではあるが、好きな子のにおいがすると思った。 学校や部室、テニスコート上、教室にカフェテリア、どこにも存在しておらず、自分のそれとも他の誰のものとも違うの空気そのもの。 彼女がしとやかな眠りについているお陰で、意識は独りでに幸村の与り知らぬ方へと歩み始める。 幾つかの過去を思い出す。 平然と構えてみせるさ中でも、脈打つ鼓動に胸を押されていた。 この部屋に招かれる時、本当はいつも少し緊張している事を知っているのだろうか。 埒もない思考に捕らわれ、辛抱強く待った所で決して得られはしない返答にどこかで安堵し、掛布団上の毛布とぶ厚い枕の狭間にて伏せられた睫毛を見出した幸村の眦は優しげな丸みを帯びる。 見舞いに来る友人達の為に用意したのか、床に二つ並べられたクッションの片方へ腰を下ろし、ひとまず預かって来たノート類を横に置いた。 幸村が胡坐をかいたままでベッドへ鼻先を遣れば、相も変わらずこんこんと眠るかんばせが垣間見える。 唇を覆うようにして掛かった布団の横に、おそらく朝触ったきり放置されたと思しき携帯端末が転がっており、反対側の枕にはというとかつては額にて役目を果たしていたに違いないアイスノンがずり落ちていた。 柔らかなシーツの上で仰向く右の掌は空っぽだがしかし、何を握っていたかの予想はつく。友人と連絡を取り力尽きたのだろう。 小作りな爪の薄紅色が網膜を刺激する。 釣られそうになる腕に些か力を籠め、の頬に端のみが引っ掛かっていたアイスノンへと逸らせば、想像に違わぬ腑抜けた感触と温さが幸村の指を迎え入れた。 一体何時間放置したのか、どうせ長い事冷却材の意味を成していないだろう、この分では汗を掻くだけ掻いてで水分補給をしているのか怪しいものだ、いわゆる小言が次から次へ沸いて止まない。 だけどこれは、が悪い。 胸の内に零しながらも唇は薄い笑みを象り、苛立ちの類はちらとも片鱗を見せなかった。 丸いサイドテーブルへ数時間前に役割を終えたであろうアイスノンを引き下がらせた幸村が、取って返した手で躊躇いもなくの額に触れる。 深い眠りに沈む少女は微動だにせず、殊更丁寧に前髪を避ける硬い指をただただ受け入れていた。 幸村は不意に呼吸すら堪えるように押し黙り、両の目に静けさを灯らせる。 生え際をゆっくり撫で、指の甲で流れた髪を挟み、耳の方へと持っていった所で、掌全体を皮膚の薄い額に乗せた。 少々熱っぽいが高くはない。 判断を下し、一つ息をつく。 このままぶり返さなければ彼女は土日を遅れた勉学に費やせるだろうし、来週は月曜日から登校出来るはずだ。 腕を引く途で掌をくるりと翻し、人差し指の背を柔い頬に伝わせた。 ……ちょっと痩せたかな。 気づいたとてどうする事も出来ないのだから触れずにいれば良い。 病を得、どことなく白さの増した細面が痛ましくなるだけだとわかっているのに、己の意志を己で無視するが如く数日前と今の差異を探ってしまう。 芯から安心したいのかあえて不安を煽りたいのか、相反する感情は胸の内を巡って混ざり、久しぶりに触れる肌が乾いていながらそれでもなめらかで余計に痛む。 だけれど爪の色は健康を取り戻しているようだし、考え至ったと同時、目下の皮膚に影を降らせていた睫毛がふっと持ち上がった。 ほんの一瞬前まで瞼に隠れていた虹彩がにわかに光を反射する。 皮膚に流れる体温がその質を変化させたようだ。 幸村は指先での微かな身じろぎを感じ取り、予兆なき目覚めに思わず手を引いたが、焦点の合っていない瞳は後を追わず虚空へ放られている。 寝入った証たる呼吸が途切れた為に真の静寂が訪れた。 と呼ぼうとしたが、喉元からは何の音も生まれて来ない。 不測の事態と言えば事態だが、幸村は焦らなかった。理由は知れず、何故だと我が事ながら疑問すら感じた。 いまだ夢の中に留まりこちら側へ戻らぬ双眸がなめらかに横滑りする。 目がかち合った。 家の前を通ったのだろう、バイクのエンジン音が近付きすぐさま消える。窓越しの生活音はどこか別世界の話じみて遠い。 そうして再びしじまに支配されれば、室内が陽射しの積もる音さえ響きかねない空気で満ちた。 眠たげな眼差しはしかし確実に幸村を捉え、ぴたりと定まり離れていかない。 おや、と目を瞬かせる。 珍しいな、とも胸中で言い落した。 こうも至近距離でまじまじ見詰められる経験の少ない幸村はしばし黙って返すに徹していたのだが、そう時を経ずして耐えられなくなってしまい年端もいかぬ少年のように笑う。 「やあ、具合はどうかな」 味わった覚えのない気恥ずかしさに根負けしたのだ。 寝惚けたがごく近い距離で正面から真っ直ぐ伸ばして来る視線は、容易に受け取り続けられるものでなかった。言葉を交わしながらならまだしも、無言の応酬が出来る程大人びた性格ではないと幸村は自らを評している。 「………あれ…?」 風邪特有の掠れているかと思いきや、普段と相違ないの声だった。 ほっとする。 「今、何時かわかるかい?」 息を吐き切ったのち脱力とも言える感覚を悟り、どこかで気を張っていたのだと思い知らされ自嘲が胸に根付いた。 等々、顔には微塵も出さぬ幸村を見遣る瞳が徐々に色づき変化し開かれていき、遂にはすわ一大事だとばかりにとんでもない瞬発力を駆使し跳ね起きるので、あんまり急に起きると目を回すよ、自然と微笑みが滲んでしまう声音で告げてやる。 「え、え!? あれ、なんで、う…嘘?」 「嫌だな。俺は嘘じゃないし夢でもないさ」 「だ…って、え? だって、精市くんから連絡」 「それ、見てごらん」 幸村に指し示され慌てふためいたは右に左に体を捻り、数秒無駄にしてからようやく転げ落ちたものを発見したらしい、すぐさま飛びついて危なげなく画面を操作し始めた。 昼頃送った体調を尋ねたメールに辿り着いたのだろう、見る間に顔色を変えるので幸村は内から込み上げる笑いを押さえ込むのに必死だ。 「ご……ごめん、寝てた……」 「フフ、だろうね」 「…ほんとすみません……」 「帰りに寄ろうかと考えていた所で君の友達に会ってさ。俺が代表して、お見舞いにね。思ったより元気そうで何よりだ」 心からの言葉だったのだが、は妙な方向へ捻り解釈しているに違いない微妙な表情を浮かべ、勢い良く起き上がった所為で縒れたパジャマの襟元を手繰り寄せている。 剥き出しの鎖骨が幸村にしてみれば折れそうな程細く映り、色々な意味で気にかかっていたのは確かだったので、うん、隠して正解だ、と声には出さずに褒め称えた。 だけどちょっと残念でもあるな、またしても心の中で正直に付け加えたのち、寒くはないか尋ねる。 「うん。平気、ありがとう。もう大分いいんだけど、念の為に今週いっぱい休めってお母さんが」 「……熱が高かったんだろう?」 「初日だけね。もうこのまま死ぬのかな……って思ったよ。しんどくてびっくりした。ていうか、意識が朦朧としてて他何考えてたかとかよく覚えてない」 「覚えていたって辛いだけだから、いいんじゃない? 忘れたままでも」 あまりにも配慮の損なわれた発言に古傷が疼く間もない。 いっそ小気味良いくらいだ。 快癒したとは断言出来ぬが限りなくいつも通りの様子に近いといると、怒りや陰りといった仄暗い感情が蹴飛ばされて消えていく。 考えなしも突き抜ければ才能、一種の長所にも成り得る事を幸村は誰よりも切実なまでに知っていた。 「うん…けど、精市くんに返さなかったのは、忘れてたわけじゃないんだけどごめんなさい」 「いいよ。そんな元気ないんだろうなって思っていたからね。むしろ、熱が一番高い時になんで俺に連絡なんかしたんだい。余計な気を回さないで、寝てなきゃ駄目じゃないか」 「……ええー…なんか理不尽に怒られてる…」 「怒ってはいないよ。注意しているだけだ」 「…私、病み上がりなんだけど」 「何言ってるの、まだ完治してないだろ」 「余計におかしくない!?」 精市くんの言う通りなら今弱ってるんだから手加減してよ、不満を訴える目も唇も、大きな窓から入り込む暖かな陽射しを浴びに浴びて輝いている。 病のやの字も見当たらず、軽口を叩く余裕すらたっぷり蓄えていそうで頼もしい。 つい先刻まで部屋中に広がっていた静寂をものの見事打ち砕いた張本人は、存在の全てで幸村に実感を与えた。 「心外だな。俺はいつだってに優しいのに」 「………精市くん、普通そういう事自分で言う、って発言多すぎるよ…」 人は、目の前で生き生きと表情を様変わりさせるは、そう簡単にいなくなったりしない。 わかっていても、時々怖くなる。 一寸先は闇だ等としたり顔で論ずるつもりは更々ないが、懸命に手を伸ばしたにもかかわらず輝かしい明日に届かない時もあれば、弛まぬ努力を重ねた分だけ確かな幸福が在るのかと問われると否定せざるを得ない、絶対という言葉が時としてどれだけ残酷な刃と化すのか。 幸村は痛みと共に覚えた。もう二度と取り消せぬ程、心の深い場所で理解してしまった。 でもだからこそ、大事にしようと決意を重ねて来たのだ。 何があっても諦められなかったテニスや、気の置けないチームメイトも幸福な事に有り触れた他愛ない日々も、誰がどう見ても薄着の、油断しきりで風邪なんかにつけ込まれたあげく突然倒れるような隙だらけの女の子も、自身を取り巻く何もかもをふいにせず抱えて生きていく。 たまらず身震いする恐れに支配されたとしても、無明の闇で全てが見えなくなったとしたって、俺はもう迷いたくない。 何度でも確かめるよ。うんざりされても関係ないな。 今ここに、一番近くに君がいる事を君だけに思い知らされたいんだ。 だからまあ追々でも構わない、覚悟してくれ。 胸の淵に浮かぶ言の葉が幸村の表情にまで影響を及ぼし、余程にこやかな笑顔として映るのだろうかが訝しげな皺を眉間に刻んだ。 かと思いきやたちまちはっと凍り付く。 ここまでわかりやすい七変化もなかなかないだろう。 「あ!」 「うん?」 「のん気に話してる場合じゃない、精市くんなんでマスクしてないの!? 移ったらやばいじゃん!」 「あはは、今頃気付いたのか」 「笑うとこおかしい!」 本棚の空きスペースに置かれたマスクの箱を指されても一切動こうとしない幸村に、いよいよ気色ばんだが口元を手と引っ手繰った布団で覆いながら言い募る。 私今風邪菌、離れてすぐに、もうばい菌扱いしていいから! わけのわからぬ無茶苦茶な言いざまに幸村が腹から笑声を弾いて溢れさせ、必死の形相で他人の健康面を案じるを煽った。 ちょっとふざけて爆笑するのやめて、と怒りを滲ませる声に、、マスクは予防にするものじゃなくて風邪を引いた側が人に移さないようにする為のものだよ、幸村が所々に楽しげな笑みを滲ませて説く。 手遅れだねともう一つ悪ふざけを加えれば、ずるずる壁際まで後退した少女がぶ厚い布団に包まれたお陰で籠もる音を打ち鳴らした。 それでも一応マスクして。 近くにいけないから私の分も取って。 一歩も引かぬとばかりの勇ましさに満ちた顔である。 幸村はまた頬に微笑みを描いて、無駄だとわかっていながら大人しく従う事にした。 戻って来た、と密かに噛み締めれば甘い。 これだから確かめたくなるんだと一人笑った。 が目覚めた途端一秒も要さずに、我知らず追い求めていたものが。 幸村の中へ、馬鹿馬鹿しくも愛しい、かけがえのない日常が帰って来たのだ。 |