鈍色 (にびいろ)




通り雨と通り雨の間らしかった。
先刻まで乾いた地面を猛烈な勢いで叩いていた滴りが夢幻の如く一瞬で消え失せたかと思えば、新たな水雲は既にその姿を現しているようで、グラウンドの方で誰かが零した嘆きに自然耳を澄ましてしまう。
鼻腔に雨の気配が薫り立つ。
薄くなっても途切れはしない鈍色の雲は風に吹かれ、遠くの方から更に暗い空が流れて来るのが見える。たっぷり雨粒を含んでいるであろう事は、気象予報士でも何でもない、いち女子生徒でしかない彼女にすら容易く計り知れた。
バケツを引っくり返した、とはよく言ったものだ。
突然の暴雨に逃げ惑った結果、本格的に濡れ鼠と化する一歩手前辺りで駆け込んだ小さな雨宿りスペースから顔を覗かせ、水漬く下草を体育用のスニーカーで踏みしだく。
常ならば在ってもおかしくはない微かな靴音を、耳が拾えない。
震えているはずの鼓膜はごく浅い部分で響きを切り捨ててしまっているらしい。
酷い天気と同様、若しくはそれ以上に重く垂れ込める一方の心が、いざ進まんと試みる肉体の足を引っ張っていた。
葉先を滑る雨の名残に靴が触れる。
紐に吸われるもの、つと足の甲横の部分を落ちて緑眩しい草きれへ混ざっていくもの、膨れて丸いお陰で透明な飴玉みたいに表皮へ乗るもの、様々に分かれて散った。
ただ眺めているだけだというに、胸の内には血液めいた濃い沁みがじわじわ広がってもう消えそうにない。

「お前さ、マジでまだやんの?」

冷えてゆく心をぶら下げる少女が通路に向かって四、五歩ほど近付いた所で、同じく豪雨から避難していた様子の男子生徒は呆れを滲ませながら言った。
元より目立つ赤毛は昼と思えぬ明度の空によく映える。
制服のズボンの両ポケットに手を潜り込ませ、トレードマークたるガムを膨らませる様がお世辞にも感じが良いと言えず、問われた側は少しばかりの苦笑を唇に乗せた。

「うん。だってびしょ濡れになっちゃってると思うから」
「もう手遅れなんじゃね」
「今見つけておけば、とりあえず今以上には酷くならないよ」

語気に力が籠もっていないくせして退こうとしない。
大層問題児扱いされて来た事が窺える色合いの髪の男が、はあ、と立ち込める雲の如く重い溜め息を吐く。

「マジかよ」
「マジです」
「いやダル過ぎだろい」
「丸井くんは部活に行っていいんだよ? 私一人でだって探せるし……」

失せ物探しに励む少女の傍を丸井が通り掛かったのは、遡る事十数分前。
友人の落し物を捜索しているのだと事情を語るクラスメイトに、自分の所有物を自分の所為で失くしたのならまだしも、他人の不注意で取り零した他人の物を懸命に探す理由は一体何だと、当然の疑問をぶつけた丸井に落ち度等ない。
尋ねられた途端花のかんばせから血の気を引かせ、真一文字に口を結んだ少女の方に人知れぬ訳があるだけの話だ。
そこで尚も問い重ねようとせず、信じらんねえ腹減った、とだけ大様らかに返すに留めたのだからむしろ人間が出来ている。

「これからぜってー雨降んの間違いねえっつー状況で女子一人ほっといて行くとか最悪じゃん。いくらなんでもそこまでヒトデナシじゃないっての。つか早く行ってもこの天気じゃやる事ねえよ。どうせ室内で筋トレとかだろ」

天才的妙技を披露する機会がないんじゃ気が乗らない、気分屋そのものの発言を放りながら、素早く走らせる視線はそれなりに油断ない。
思いがけず男子然とした優しさに触れた少女の目の端で、塩辛い水気が俄かに立ち上った。
ぐっと堪え、それこそ目を皿にして、濡れそぼる土草へと落とす。脳裏に浮かべるのは、友人が嘆いていた失くし物の特徴だ。
そうして気を紛らわせていなければ、耐えられないと思ったのだった。
人気の薄い校舎裏へまでは、各運動部が交わす声も届かない。
お陰で隣人の発する気配や音で肌がざわと粟立ってしまう。
誤魔化すよう先程探す途で雨に降られた辺りまで歩を進め、スカートや膝が湿り気を帯びるのもお構いなしでしゃがみ込むと、傾いた頬の傍を髪の一筋が滑り落ちる。
情け容赦ない雨雫の棘に侵された草きれの冷たさは、掌や指先から温度を奪おうとし、爪の端が体内を循環する悲しみの捌け口と化す心地だった。
止める間もなく出ていく。
体裁を保とうとする意気地ごと、暗きも低い空より降る雨に似た涙に混ざって、ほろほろといとも簡単に零れるのではないかという恐れが、血の気がやや失われた彼女の唇を頑なにさせた。
殊更に大人しく、物音一つ立てる事さえ危惧しているような振る舞いに反し、丸井は相も変わらずポケットに手を突っ込んだままで緑の敷地を蹴飛ばしている。
ざ、と草むらが掻き分けられる都度、雲が落とした透明色は四方八方へ散らばった。

「怒られるよ」

手伝ってくれているのは間違いない、故に有り難いのも有り難いのだが、やり口が少々乱雑である。
つい口が出た。

「ハ? なんでだよ? そこは探してくれてありがとうだろい」
「風紀委員とか園芸部の人に、いくら雑草ぽいからって蹴っちゃダメって言われるんじゃないかな」
「知るかメンドクセエ」
「あと私の友達に」
「落としたクセに自分で探さねー方が悪ィだろ」
「……探してなくないよ。別の場所を…探してるんだよ」
「彼氏と二人でな。で、お前は一人。全っ然関係ねえのに。ひとっつも得しねえのに。もうちょい見ないフリとかするんじゃねえの、普通」

予想以上に鋭く切り返されて、押し黙る他ない。
丸井くんとはよく話すけど、それでもバレちゃうような事は言ってないつもりだったのに、どうして全部見破られちゃってるんだろう。
目には見えぬ血を吹き零し始めた胸が堪らなく痛み、少女は誰に告げるでもない囁きを頭の中で滲ませ、か細い呼吸にそっと潜ませる事でやり過ごそうと試みた。
丸井の足は、ざくざくといった風の騒々しい音を無遠慮に発している。
時たま、蹴飛ばされ弾かれた青草の一片が宙を舞った。太陽も遠のかせるぶ厚い雲はどんよりと天を塞ぎ、光と色の両方とも吸い取っていく。
風が吹いた。
不意の事だった。
木々は一様にざわめき、根元の緑陰にて紛れる二人をも揺らす。
葉先に宿っていた水の粒が扇がれ、わっと散り、ぱたぱたと音を立てて滴って、夏服の純白に跡をつけた。初めは灰色じみてい、そののち濃く深く染みていく。
たった数滴の飛沫が、どうしてか強烈に目の奥を焼いた。
わき上がった熱に揺らぐ。視界が灯りを失ったようふっと暗くなる。
人差し指の爪の上を、丸々とした水の珠が伝い滑っていった。
その刹那だ。
魂をよそに預けた少女の記憶が過日へ遡る。
いつの間にか恐ろしい程静かに佇んでいる丸井の、ごくゆっくり腰を下ろす影に触れながら、しらずしらず手繰り寄せている。

クラス一、ともすれば学校一の大食漢であるから、あちこちに食糧確保の伝手がある。
菓子の類をせがまれた事は一度や二度ではない。渡せばとびきりの笑顔を他意なく寄越す。その所為で彼を悪しざまに言う輩はそうそうおらず、明るい髪色を差し、太陽みたいな奴だな、表現する者がいたくらいだ。
頑張ってね。
腐る程聞いたであろうエールにも、任せとけい、歯を見せて笑った。
クラスメイトの何人かと連れ立って応援しに行けば、こちらをしっかり見据えた上で指を向けて来る。
せっかくだからよく見てけよ。
自信に溢れる様は、部外者だろうが誰だろうが構わず巻き込んで惹き付けた。
窓辺から見るともなしに眺めていた放課後、噴水近くを横切った丸井のポケットから飴玉らしきものが落ちた瞬間の様相が視界の下方に入って、慌てて名前を呼んだ。
丸井くん落としてる、後ろ!
呼ばれた彼はすぐさま身を翻し、重要なエネルギー源と言って憚らぬ菓子の包みを拾い上げる。それから地面へ伸ばしていた腕を掲げ、親切な助言者を仰いだ。
ワリィ! 気づかなかった!
やり取りは見事辺り一面に響いていて、十数秒は好奇心に満ちた視線の束に晒され恥じ入った、取るに足らぬ日々。
そういった他愛ない出来事が、無性に思い出されて仕方がない。


隣の丸井が胡坐をかいて座ったのがわかった。
しかしかの鼻先は正面へ傾けられている。
眼差しのぶつかるにおいが感じられない。
見詰められてはいない事を肌で知りながら、少女はすっかり色を失くした掌を握り締めた。濡れちゃうよと咎めるべきだと理性が喚いているのに、声どころか息が詰まって出てこない。
なあ、と低い呼び掛けが降る。
前へと落ち伸びてゆく音に、名前を紡がれた。

「泣くなよ」

途端に眼前が歪んだ。
何もかもがあっけなく壊れてしまう。
耐えに耐えていた堤防が崩れ、涙が溢れ零れどうする事も出来ない。
異様な熱さを帯びた空知らぬ雨が彼女の頬をおびただしく濡らし、しゃくり上げる喉元にまで届き、シャツの襟元へ吸われて消える。
二人の髪を揺らす風は水気を多分に含み、いよいよ遠雷まで轟き始めた。
荒天の走りだ。
齎す黒い雲の群れは待ってくれない。
一刻も早く屋根の下にでも逃れなければならないというに、座り込むどちらとも動く気配等なく、無為に時が過ぎる。
ややあって、嗚咽を懸命に押し殺す細い背に、丸井の広い掌が重なった。
布越しに伝わるじんわりとした温もりの所為で、喉が張り裂けそうに切ないと彼女は喘ぐ。
戸惑い躊躇う間を置きつつも、確かに情に満ちた撫で方だった。
ぽん、と軽々乗った感触に彼の密やかな慰めを見出した少女が心中で首を横に振る。
違う。
違うの。
否定に否定を絡ませ、力一杯目元を拭った。
(これは、悲しいんじゃない。
……丸井くんのせい。
丸井くんがそんなだから、そんな風に優しくするから、苦しいんだよ……)
幾度となく伝えようとし、しかし唇が零すのはひずみが滲んだ言葉の成り損ないばかりだ。
いつまでも進めない。過去にだって戻れはしないだろう。
空が泣いている。