鍵爪




「一緒に帰らんか」

誰、なんて聞き返す必要はなかった。
なんで、とは尋ねてみたかったけれど、彼の気まぐれが今に始まった事でないのを知っている私は、特に異を唱えなかった。

「うん、いーよ」
「そーか」

どうというふうでもない返事と返事が行き交う。
すっかり身軽になった肩を目端に捕らえて、夏の終わりを知る。
部活はどうしたのという話の種をひとつ失った事実は、結構寂しいものなのだ。近頃、じんわり気づいてきた。
隣を歩く少し猫背の男は仁王雅治といって、ちょっと前まで強豪テニス部でレギュラーを張っていた大変目立つ、私の幼馴染だ。
とは言うがいまだに家を行き来するだとかべったり仲が良いだとか、一緒に遊んだりするだとか微笑ましい関係性ではなく、昔々そんな時期がありましたねと遠い目になる程度のもので、実際中学に進学してからは会話らしい会話だってしていなかった。
お隣さんだから会えば挨拶はするけれど、本当にそのくらいの接点しかなく、どういうわけか登下校を共にする時が多々あるここ最近の現状へ疑問符を投げつける毎日である。
けれど、小さい頃みたいにとまではいかなくとも、それなりの言葉を交わすようになった切っ掛けも唐突、前触れのひとつも寄越さず降って沸いたので、考えるだけ無駄だと悟りだいぶ前から訳を探すのを止めてしまった。
どうせ気が向いたか、部活を引退して時間を持て余しているかのどちらかだろう。どちらでなくとも、大した理由なんてないと思う。
自分で言うのもなんだが、私と雅治は本当に大雑把な間柄だった。
二人だけの秘密を共有しているわけじゃなく、特別仲良しだった過去があるでもない、ごく普通の幼馴染。
互いが成長するにつれ顔を合わせる回数も減っていく、一般的な隣の男の子。
思えば女子扱いされた経験だってない。
たとえば同年代の子がしていた可愛らしい遊びなど、記憶を漁れど一度も覚えがなかった。
無作為に辺りを駆け回り、なわとびを何回飛べるか競走したり、親が見ていたら慌てて止めるであろう乗り方をしたブランコで暮れまでの時間を潰し、時には立ち入り禁止の看板さえ無視して忍び入った。
背丈の高い草で足やら指やらを幾度となく切りもしたけれど、雅治の心配やら気遣いやらの言葉をまるで思い出せないから、多分そういう事だろう。
スカートを泥まみれにして帰っては、しこたま怒られる。
あんたはなんでもっと女の子らしくできないの。
母親曰く、私の方がどうしても雅治についていきたがった、らしく酷い有様と化している自分の娘を差し置いて、汚れてはいるものの常識の範囲内に収まっている様相の雅治に迷惑かけてごめんねえ、とよく謝っていた。
私に優しいのは雅治のお姉ちゃんとお母さんくらいで、無茶苦茶な所をわざわざ通って行く当の雅治はそ知らぬ顔だ。
今冷静になってみると、あいつ絶対私を撒こうとしてた。
じゃなきゃ、ついて来られるかどうか試してた。
その証拠に、何かに引っ掛かれたり転んだりしながらも最後までやり遂げた私を見ては、ちょっと唇の端をあげて笑っていたのをなんとなく覚えている。この上なく嫌な子供である。
だけど懲りずについていった私も私なので仕方がない。
あまりよく思い出せないけれど、あの頃はそれで楽しかったのだ。細かい事をあれこれ考える必要がなかった。まあ、今だってそんな熟考する方ではないけれど。

「……長い沈黙じゃのー」

独り言のようでいて、話しかけている音程だった。
なんだ、何か面白い話題でも提供しろってか。
不服が声に出、実に愛想のない返答と相成ってしまう。

「雅治、うるさいの嫌いでしょ」

だから静かにしてたんですよとばかりに跳ね除けてやると、意に介さぬ様子で打ち返される。

「そうでもなか」
「うっそだあ。前、女の子にきゃあきゃあ言われてうざったそうにせからしかーとかぼやいてたじゃん」
「いつの話か言うてみぃ」
「…………小学校…低学年くらい?」

ずいぶんと大きな溜め息と共に、そういうんは前とは言わんぜよ、大昔じゃ、と雅治はぼやいた。確かにその通りだったので反撃のすべも見つからない。今度こそ私は本当の意味で黙った。
帰り道には段々とかつて駆けた風景が溶け込んで来、ただ歩いているだけで不思議な気持ちに胸をちいさく叩かれる。
隣をゆくのは5年、10年前と同じ人なのに、中身はまるで異質に思えた。
あの日並んで渡った横断歩道を、そっくりそのままなぞり歩いていても、これっぽっちも郷愁を誘わないのだ。
背が伸びたり髪色が奇抜になったり、声も低くなったり目つきが更に悪くなったりしているので、外見も変わったと言えるが、それ以上に今の雅治という人はわけがわからない。
何を考えているかなんて、おそらく1ミリほども理解出来ていないだろう。
昔はわからないなりに感じ取っていたものだが、現在の彼は真意を見せぬ詐欺師などと呼ばれてしまっており、私にとって最早宇宙人に近かった。
けれどもその隣の家の地球外生命体は、変わらぬままで気安く名を呼んでくる。
だから不思議なのだ。
嫌なのではなく、同一人物からの言葉とどうしても信じられないのがむず痒い。
だって雅治は雅治で、心の中が覗けなくても幼馴染に違いはない。
わけのわからない雅治の事を考えていると、自分が何をどうしたいのかまでわけがわからなくなる、故の沈黙だった。

「……大昔から女子に騒がれてたうえに、それを鬱陶しがるってほんとヤな子供だよね…」

といっても黙りっ放しも気詰まりなので、とりあえず抱いた感想をオブラートなどには包まず口にすれば、こちらを見遣った雅治の目が陽光を反射してまるく光った。

「なんじゃ、急に」
「話題提供?」
「つまらん提供するもんじゃなか」

じゃあ、面白い提供って何。
言ってから、そんな事までいちいち聞かなければわからないのかとちょっと悲しくなった。長らく会話のなかった幼馴染って、初対面の人より厄介だ。

「お前さんの話をしんしゃい」

思春期じみた呟きでいっぱいの胸中へ、解読不能な問いが投げ落とされた。
顔をあげても視線は合わない。聞いたくせして大して興味のなさそうな横顔が、電信柱を後ろへ置き去りにさっさと突き進んでいく。
じゃあなんで聞いてきた、この宇宙人。

「私の話って、何? 近況報告とかすればいいの?」
「何でもええよ」
「そういうの一番困る。お題を出して、お題を」

はからずも眉間に皺を寄せる破目になってしまった私が即座に歯向かえば、再びのでかい溜め息。
例外だらけの幼馴染に当てはまるかどうかは謎だが、世間一般的観念からすると、あからさまに面倒臭がっているようにしか受け取られない気だるげな相好だった。
猫背が余計に曲がって、短いとは言い難い前髪に顔が隠れてよく見えない。
私の側に垂れていた左手が乱雑に後頭部を掻く。
引退をしたはずなのに相変わらず鎮座する黒いリストバンドが、腕の動きに釣られてわずかに上下している。
締まった筋肉の筋。骨っぽくて硬そう。手首が太かった。
ちらりと己のそれを視界に入れるが、いつかは同じくらいだったのに到底似ても似つかない。

「…さっきから溜め息ばっか。私も溜め息し返していい?」

半ばふざけて言葉を打った。
あげていた左手をポケットまで潜り込ませた雅治が、元の白けた表情を浮かべて言う。
子供の頃なら、ここで唇の端をにやりと歪めていたところだろう。

「その溜め息分、会話の労力に回せ。ほれ、近況報告するんじゃろ」
「えー! なんで私が報告したいですってお願いしたみたいになってんの!?」
「なら俺がお願いするかの。近況報告してくれ、

喉元まで上がっていた反論がひゅっと音を立てかねない速さで引っ込んだ。
ぐ。息が詰まる。相手の顔色を窺う間も失せた。
思わず背けた顔が下を向く。

「………ハンバーグ」

俯いたまま転がした声は何かで引き絞られており、みっともなく地に落ちていった。

「食いたいんか」

雅治の平坦極まりない返答が耳に痛い。
しょうもないと思っているのならいっそ無視して欲しいのに、こういう時は必ずと言って良いほど逐一拾い上げるのだから、詐欺師の異名を持つ彼の性格には難ありと評する他なかった。

「違う。昨日の晩ご飯。つけあわせは、にんじん甘く煮たやつとアスパラガスのバター炒めで、シーザーサラダとコーンスープ」

相槌は聞こえてこなかった。
あえて視線を外しているので、雅治がどんな表情なのかはわからない。
私は、彼に名前を呼ばれるのに、弱い。
動揺するだとか、急所であるだとかいう意味でなく、どうにも応えなくてはならぬ気持ちにさせられるのだ。早くしろ、とせっつかれている時に感じる焦りにも似ている。
足元が覚束なくなり、腹がぞわぞわ浮いて、背筋はぴんと張り詰めてしまう。
苦手だと言っても良いかもしれない。
子供の頃はなんと呼ばれようが構わなかったのに、ブランクを経た今、正直呼び捨てられるとぎょっとする。

「ほー。で、食ったもん並べてどうする」
「近況報告」
「……は?」
「しろって言ったじゃん。だから報告! 地理の小テストが最低の出来だった! 掃除当番だったから昇降口掃除したけど砂埃で目が痛かった! 今日出た宿題がめんどくさい! もう9月なのにまだ暑いからさっさと涼しくなって欲しい! CMでやってた新発売のお菓子が食べたい!」

手当たり次第に浮かんだ心情を吐き出していく。ほぼやけくそだった。
重たい沈黙を味わっていたくなくて、ええと、あとなにかあったかな、と必死に脳を働かせて考えていれば、隣のかすかな上空から呼吸のひと粒がふるい落ちてきた。

「日記」

笑みを含んだそれに条件反射してぱっと顔を上げる、こちらを見下ろす雅治の瞳がやんわり端をふくませていた。
伸びた前髪の合間合間から覗く眼差しは、形ばかりが鋭い。
よろしくない目付きに伴う柔らかさなど、似つかわしくないほどだった。
近況報告じゃないだろ。お前さんの言っちょる事は、ただの日記。
鞄を背負い直した四角い肩が歩幅と同じに揺れ動く。
私は、それもそうか、と腑に落ちてつい頷いてしまう。
感情が連鎖して記憶を掘り起こす。
堂々と詐欺師なんて呼ばれる彼に、ただ騙されているだけなのかもしれないが、雅治は私を納得させるのが上手だった。
言葉のあるなしに関わらず、異論を唱える回数などほとんどない。
小さな頃から馬鹿のひとつ覚えとはよく言ったもので、そうなんだ、とうんうん首を縦に振っていた事の方が多かったように思う。
だから腹立たしい思い出もないのだ。
擦り傷だらけの泥まみれになっても、だって雅治が、なんて押し付けなかったし、雅治もこいつが勝手についてきた、と自らの無罪を証明する為に弁明したりしなかった。
ひどい悪路を行きはしても、置き去りにはされない。
いつだって付かず離れずのところにいて変わらない距離を保ち、今も昔も混ざりながら、来た道を戻り、行く道を共にしている。
名前の呼び方を変える機会は、いくらでもあった。
宇宙人になる前の、彼の初恋を間近で見ていた。
はっきり口にしなかったし、詳しい話を聞いたわけでもなかったけれど、多分この子を好きなんだろうな、気づいた瞬間。
携帯電話を買って貰ったけれど、番号もアドレスも知らない時。
中学にあがってテニス部に入った雅治とは生活サイクルが合わなくなった頃。
廊下ですれ違い、背がうんと伸びて知らない人の顔をしているのにびっくりした休み時間。
多数のクラスに点々と、雅治と付き合った事がある女子がいると知った驚愕。
仁王くんと幼馴染って聞いたんだけど本当? と絶対に会話しないであろうタイプの子に問い詰められ頬が引き攣った。雅治などと一度でも口にしようものなら、現代にあるまじき屋上呼び出しなどを食らうのではないかと一瞬真面目に考えるほどだった。
全国覇者たる立海テニス部でレギュラーを勝ち取り、女の子から色んな意味で騒がれている放課後。
数え上げるときりがない。
そんな溢れるほどの機会を見送ったのは、他ならぬ雅治が私を呼び捨てるからだ。
年単位で会話どころか顔さえ合わなかったくせして、なんでもない事のように、
随分声が低くなっていたし、後ろから呼びかけられたものだから、誰だかすぐにわからなかった。
目線が交じり彼だとわかってからは、そっか、じゃあ私も呼び捨てだ、と、雅治。
以前に比べたら、たぶん会話はぎこちない。
だんだんとあの声で呼ばれるのが気恥ずかしくなっているのも確かだ。
そのわりに何も拒否しなかった。
傍にいるのが好ましいかと問われれば、ギリギリで正直遠慮したい方に傾く。
こういうの、雅治ならなんて説明するんだろう。もししてくれたら、私もすんなり納得が出来るのかな。


「それ」

またしても簡潔極まりない一単語が耳を打ち、知らず知らず黙り込んでいたのを知らされる。
それ、オウム返しに呟けば、雅治の左人差し指が下方を指し示していた。
行く先を探ろうと視線も落とす。初めはスカートに汚れでもついているのかと気をつけてみたのだが、その類いのものは見当たらない。
うろうろと惑っている内に、すごく似合わない表現だけど、しびれを切らした、と表現するのが一番正しい様子の雅治がまた一単語。
ゆび。
いやに滑らかな発音だった。
ゆび?
あ、指か。
頭の中で繰り返し再生させ自らの右手を持ち上げた所で、ようやく思い至る。

「これかー。これはね、友達にやられた」

薄いピンク色に染まった爪の在り処、薬指を立ててみせた。
丁寧にグラデーションが重ねられ、つやつやとまろやかな光を帯びている。
当然、大昔とはいえ女の子らしくない遊びばかりしていた私の作品ではない。昼休み、新色を買ったという友達が、発色を見たいだのにはこれが可愛いんじゃないだのと話題を持ち出した流れで、試しにひとつ塗ってくれたのだった。

「器用だよね。見てて1コ塗るのだけでも大変そうなのに、全部の指やるの私無理って思った」
「フーン」
「ちなみに校則違反っぽいんだけど、風紀委員長さんには言わないでね。今日だけだから」
「言わん。興味ない」

それはマニキュアになのか、校則違反をしている事にか、どちらなのだろう。
先ほどの緩やかな眼差しを消し、色のない表情を浮かべる雅治に聞く勇気はない。なんとなく。
なので、もしかしてどっちもか、と己一人で片付けようとしていると、また声が転がされた。

「……なんで薬指?」
「え? 知らない。その子が薬指やりやすかったんじゃない?」

思うままを言葉にする。
わずかな静寂を間に置き、私の指を一瞥した雅治は、そーか、と呟いた。
落ち着いたトーンに、近況報告ってこういう事を話せばよかったのかも、でも日記っちゃ日記だしなあ、小さな反省を促されて他にすべき報告がないか頭の中を巡り始め、

「お前、なんも変わっとらんのう。

すぐさま中断し、何の気なしに続ける。
雅治は唇の裾を上げて笑っていた。

「そう? でも背はね、伸びたよ」
「おー、ほんの少しな」
「雅治に比べれば、そりゃ少しだよ」

それまで一切震えなかった眉が、ぴくりと動く。雅治の眉間に、よく見なければそれと気づかぬ皺が出来ていた。
驚いて、息を吸ったと同時に唇を引き結ぶ。

「俺も変わらん。おんなじ事の繰り返しやけん」

傾きつつある日差しが、締まった顎のラインを筆でひと塗りしたように、染め上げている。
彼の唇がわななく都度、口元近くのほくろも揺れた。ゆるい光を浴びた髪は、常よりも柔らかになびく。目端と頬に出来たうすい影がひどく頼りない。雑音が遠のいた。
なんの話をしているの。
たった一言が出てこない。

「いつも後んなって気付いて、そんでおしまい。だったら、気付かん方がましだと思わんか。一つも変わらんのに、意味ないじゃろ。どうでもええ事ばっかに目がいく。いきっ放しで見落とす。俺にはなんも残らん」

のう、。お前さんはどう思う。
尋ねられているはずなのに、ちっともそんな気がしない。
雅治は私じゃなく、自分自身と話しているみたいだった。
ろくな息継ぎの間もなく語る声音が硬い。
何ものもおくびに出さない表情を目の当たりにすると否定したくなるのだが、何故だか苦しそうに見えた。
いつの間にか足は止まっている。
私も雅治も、変わらない景色の中に取り残されていた。

「ああ、答えんでいい。にはわからん。わかっちょったら、逆立ちしておまんの言う事なんでも聞くぜよ。……昔っから騙されやすいの、自分でもわかってるか」

連なる言葉の端々に、どうしようもない自嘲が滲んでいる。
突き放す口調なのに、乱暴に投げ寄越す視線は熱を帯びていた。
普段はきちんと分かれている外と中、表と裏がないまぜになってこぼれ出しているようだった。
彼の言う通り、どちらなのかがまるでわからない。困惑する脳内の片隅で、少しだけ冷静な部分がふと囁く。性懲りもなく納得させられているのだ。
私、子どもの頃よりずっと馬鹿になったみたい。
実体の掴めない宇宙人がいきなり人間の男の子になったのを前にしてどうでもいい感想を抱き、それだけはこの雅治と同じだと思った。
今、重要でない事に目がいってしまって離れない。

「その代わり、俺にもわからんからの。おあいこじゃ」

ちゃり、と金属音が鼓膜を通過した。雅治のポケットからだった。
家の鍵だろうか、それとも違う鍵だろうか。
急に日が暮れた心境に陥って焦る。
早く、なにか言わないと。
早く。
帰らなければならなくなる前に。
昼か夕方かなんて、太陽の輝きを見さえすればわかるのに、判別がつかないくらい急き立てられていた。
息を吸って軽く吐く。

「まさは」
「呼ぶな」

全部を切り捨てる音だった。
私は呼気まで止まりそうになる。
彼がしてみせた初めての拒絶だった。

「…………お前の声で、呼ぶな」

じゃあ誰の声ならいいの、どうかしたの、何かあったの、私が何かしちゃったの。
いくらでも聞きたい事はあったし、無茶苦茶な扱いを受けている自覚はあったが、それ以上に雅治の様子が気にかかって一つも形にならない。
声色が歪んでいる。
なにか棘でもある、痛々しいものをどうにかして吐いたみたいに、いびつな傷のついた言葉だった。
そのくせ双眸はじっと動かず、私を見つめているのだから、呼ばずにはいられない気持ちになってしまう。繰り返し、幾度も、今日まで何千回と紡いできた名前が止まない。

――雅治。

胸の私のささやきを悟ったらしい彼が、顔色を崩した。
笑っているような、泣き出しそうな、それとも怒っているような、何にも属さない表情だった。


「……嫌にならんかったか?」

え。尋ねたかもしれない。
あ、と意味のない声をあげたかもしれない。
その響きは果たして喉から出ているのか、頭の中だけで発しているのか、まるで判断がつかなかった。
薄白い皮膚を張り詰めさせた雅治が、顎を斜めにしゃくる。散漫な動作に力はなく、傾いだ瞳が淡々と流れていた。

「俺なんぞと幼馴染やけ、そこらの小うるさい女どもにあーだこーだ言われたじゃろ。なんも関係ないのに苦労したな、可哀相に。幼馴染じゃなきゃ良かったのぅ」
「う…い…っ、そんなの、思ってないよ!」

こればかりは承服出来ない、深く考える前にあらん限りの否定をした。
忘れかけていた声を振り絞り、大慌てで首を左右に動かす。
確かにどんだけ熱狂的なファンがいるんだ、恐れたり、全然知らない子にあなたただの幼馴染でしょと念押しされたりと、面識のない他人であれば経験し得ないシーンと対面してきたが、だからといって幼馴染でなければ良かったなんて後ろ暗い仮定を考えつくはずがない。
それはもう、生まれた時からやり直したいと言っているのと同義だ。
私にとって雅治は、底の底までネガティブに陥る要因たりえない。
自らの意志とは正反対の決めつけに肝が冷えたのは、マイナスイメージを植えつけやしないか心配だからだった。
ちょっと会話が気詰まりだとか、わけわかんない気まぐれだなぁとか、100%肯定してはいない気持ちを見破られ、私の中の雅治を誤解されたら困る。
それだけだった。
しかし、返された低い言葉が牙を剥く。

「俺は今、思っとるよ」

かつての苦しみは消えていた。自嘲するでもない。
いっそ不自然なくらい、平坦な声色だった。
なんの感情も滲んでいない。
血の気が引く。
頭の天辺から足先までが冷たくなるのに、1秒もかからなかったのではないだろうか。
肩は重く、腕は垂れ下がり、文字通り言葉を失った。
思考すら覚束ない。
どういう意味、などと聞くまでもなかった。ついさっき、私が私に説明した通りだった。
生まれた時からやり直したいほど、幼馴染でいる事が耐え難いのだ。
数分前まで暢気に構えていた自分を呪ってやりたい。
幼い思い出をすんなり受け入れていたのは片方だけだったなどと、惨めすぎてお話にもならない。
無意味だと知りながら脳裏をよぎる、ごめんなさい、の一文を口にし始めたとほぼ同時、

「んむぐ!?」

鼻を摘まれ謝罪は醜い悲鳴に成り代わる。
眼下にせり出した手の甲は左、雅治のものだ。
口を押さえられているわけではない、普通に呼吸は出来るはずなのだがあまりの事態にそこまで気が回らず、頭に血が上るのを感じながらくぐもった音を喉から出し、かといってやめてと彼の手を払い除ける意気地もなく、棒立ちでされるがままになっていた。
目の前の人の顔を見る余裕さえ見つからない。
酸欠状態はいよいよ切羽詰ってきている。

「ほいじゃ、また明日」

そうこうしている内に普段と変わらぬ音程が聞こえ、鼻腔へ清々しい開放感が一気に満ちた。咳き込むんじゃないかという量の空気を吸い込み、一歩後退りしてようやく、摘まれたところが元に戻っている事に気がつく。
うんと小さな頃だって鼻を摘むなどという真似はしなかった雅治はというと、さっさと門なんかを開けている。
はっとして周囲をよく見渡せば慣れた屋根と壁の色、そこそこ年季の入った開閉音が微かに耳たぶへ当たって砕けた。
表札には仁王。すぐ隣へと視線を伸ばすと私の家。
一体いつの間に自宅の前まで来ていたのか顧みたが、ここまでの道筋を覚えていない事に愕然とするばかりだ。
おかしい、途中までは確かにいつもの風景を歩いている自覚があったのに。
荒れた息も落ち着いた頃合、大通りまで伸びている道を振り返り――、そこでわずかに肩が震えた。

首から上のみを横向きにした、頬。
その下の顎のライン。
所々髪の毛から覗く耳。異なる方を眺める眦。
捻った首筋と、シャツの襟。
目で確認するより先に感じ取った肌が鋭い。
私の方々にぶつかり、いつまでも消えない。
張り付いた視線が孕む温度に背をくすぐられ、わざわざ確かめなくたって結末は同じものを、ひき寄せられるように顔が傾いた。
幼馴染の片目が映る。
どこでなのか位置は掴めないけれど、かち合う。
以前は身長よりも高かったはずの門と、チャイムを鳴らす都度見上げた玄関扉の間、雅治はこちらに背を向けて立っていた。
姿勢の悪い、少し丸まった角度で、両手をポケットへ突っ込み、振り返っている半端な横顔。隠れた奥の瞳を染める色は当然掴めないが、見えているほうのそれは彼の表裏が混じった声と比べ、ずっとしたたかで雄弁だった。
眼孔の上にうすい目蓋が乗っかっている。
目頭から眦までは一筆で通って、つり目気味の線を描いており、睫毛の生え際とその影が落ちる狭間が淡く彩られた。
灯を吸う瞳孔が濡れているのが美しい。
覗けども底の掴めぬ深さと、ほのかに燈る色とがじっと私を見澄めていた。
ふる、とちいさく揺れた眼差しで瞬きの予兆を知ったがしかし、閉じられる前にスポーツ選手とは思えぬ白さを保つかんばせ自体が失せてしまう。
瞳が消える。
消えるそばまでこちらを見詰めていた尊い光の最後は、持ち得る強さと違って切なくなるほどあっけない。
親しんだお隣さんの玄関が音を立てて閉まった。
主のいない庭はしんと静まり返っている。


幼馴染どころじゃない、あんな風に誰かに見つめられたことなんて、一度もなかった。
今更名前を呼ぼうとし、喉が焼けつくように熱い、声が出ない。
呼吸すらままならない。
最後、視野に映り込んだ雅治の背中は無言のままだった。
人をあれだけ触れないままで粒さに確かめていたくせに、寄るなと言わんばかりの胡乱な仕草だ、そんなはずないと否定をするそばから、意地悪されたみたいに思えて泣きそうになる。

知らない雅治を引き止めたかったのか、よく知る雅治に引き止められたかったのか、私にはわからなかった。
荒れる心臓の喧しさを蹴っ飛ばして、猫の爪でちいさく裂かれたよう、ただ胸がひりひりと痛い。