雨に唄えば ……あ、やっぱり、いた。 手元のページに落としていた目線をそろそろと持ち上げて、は心の中で呟く。 悟られぬ程度の眼差しが伸び行く先で、猫背でありながらもしなやかな肉食獣を思わせる風采の男が窓の外を見るでもなく眺めていた。規則的な音を鳴らして進む電車内は、湿気のおかげでしんなりと濡れている。 今日は雨だ。 彼を初めて見た日も雨だった。 中学三年生に進級して間もない季節だと記憶には刻まれている。 の通う学校ならばまずまちがいなくだらしがないと叱責を受けるであろういい加減な制服の着方、ほとんど白に近い髪色、長い前髪の奥に潜む三白眼に、少しでも近寄ったら噛みつかれるのではないかと慄いていた荒天の午後が目の奥で幾度も蘇った。 今でこそそのような考えは持たぬが当時のにしてみればおおよそ出会った事のない、というよりもまず見かけた経験もない種類の人間である、初見のインパクトといったら筆舌に尽くし難い。 斜め前のドア付近に凭れかかり、流れる風景を凝視するその人は、何度考えてみても積極的に関わりたくはない様相だ。 と同じ制服に腕を通した女生徒は車両に足を踏み入れるや否や、驚きに表情筋を強張らせそそくさと隣の号車へ去ってしまい、そうではない他校生の女子はといえば物珍しいのか、他にはない存在感に心惹かれるものがあるのか、横目で視線を送りつつひそひそと色めき立っている。 どちらにも属せずに往生したのがである。 腰かけていた椅子から立ち上がる事も出来ず、ただ自分の降りる駅の前に彼が下車してくれはしないかとひたすら祈るばかりで動けない。 実際に絡まれただとか意地悪をされただとかいう実害を受けてはいないのだから酷い拒絶反応だったとは思うが、元々応用力や柔軟性に欠けると成績表に記される人種なのである、仕方がないと言い切ってしまうのもそれはそれで角が立つものの、しかし他に当てはまる言葉がなかった。 聞き取りにくいアナウンスが頭上から降り注ぎ、外の景色はゆっくりと速度を落としていく。 はたしてその日の彼はの目的としていた駅の二つ手前で音もなく電車を後にし、彼女は一人安堵の息を吐いたのだった。 翌日の空は、美しく晴れ渡っていた。 そのまた次の日、曇天。 夜が明けて霞んだ太陽。 天気予報通り、薄曇りとなった四日目。 あくる日、小雨。 たまたま同じ時間、偶然乗り合わせただけでもう会う事もないだろう、暢気に構えていた脳天へ突き刺さる衝撃のおかげで、両の肩がみっともなくびくりと震えた。 以前と別の駅から乗り込んできた彼は、車輪が回り出す前から自らの陣地だと言わんばかりに結露で滴るドアに体を預け足元を見遣っている。 俯きがちの目蓋は薄く、垂れた前髪の影になっているのに白さが浮き出、ほのかな明暗を生み出す。 ただでさえ外からの明かりが少ない天気だ、の目には恐ろしげに映る容姿がより一層凄みを増した。 どうして、何故、よりにもよって。 開いた本を急に閉じるわけにもいかず、文字など全く追えない状況下で紙を掴む指が怯えてしまい、応じる者なき言葉を所狭しと並べてあの鋭い眼差しに睨まれやしないかと心臓をひくつかせる。 耳に馴染む音色を奏でながら動き始める車体が眠気を誘うリズムを刻むも、今日ばかりは冴えに冴え、気怠い雨の午後を纏う空気だろうが何だろうが効きそうにない。 異色の人物へ向かって全神経が尖り、駅名を告げるいつもの車内放送すら曖昧だ。 そうしてまた長すぎる十数分を超え、彼はの降りる二つ前の駅で消えていった。 乗っている間中、身じろぎひとつしなかったのが恐れを増長させる。 姿勢も変えず、ポケットに仕舞い込んだ両手をついぞ表に出す事なく、常人ならば呼吸に膨らむ胸や、かすかに上下する肩の動きもあまり見えない。 もしや自分にしか見えぬ幽霊物の怪の類か、などと真面目に分析をし、かつての女生徒達がとった行動を思い出して打ち消した。 生きている人間ならばいい、そう立ち直ろうとするそばから、考えようによっては幽霊の方が無害なのではないか、挫けて萎む。 続く日も街は雨に煙り、いよいよ予感を抱いて乗車したは、想像した通りの未知との遭遇に息を詰めたのだった。 約三年間同じ路線を使用していたけれど彼のような人に出会った経験などない、よって原因は特定出来ないがしかし、共通点は見出せた。 雨だ。 限界まで染め抜いたとしか思えぬ色の頭髪の持ち主は、あらゆる全てが水の粒で覆われる日にだけ現れる。 戦々恐々とするのみであった胸中になんとか現実的分析が可能な点が発生すると、そこそこに落ち着き観察する事が出来るようになった。 白雪じみた髪が人工的な灯りの下でかすかに煌めいており、歩き時や立ち姿はの周囲にはまず存在しない猫背、きちっと結ばれてはいないネクタイを下げ、両手首にはいつも黒く重たげなリストバンドが嵌められている。その重量感からは、彼個人の意志というよりも、何か別の規則的な厳しさが滲み出てやまない。 顔立ちからは年齢を読み取る事が難しく、制服を着用しているおかげでようやっと絞れる程であった。いくつだろう、とりあえず同い年には見えない、高校生くらいといった所か。 車窓の向こうを眺める時の目は硝子玉に似て少し怖い。じっと見澄ましつつ、何も映していないよう感じるからだ。 透明人間ではないのだから瞳に色がついているはずなのに、肝心な色合いを述べる事が叶わなかった。 無言のまま瞑っている横顔のしじまが深く、レールを踏み込む電車のざわめきすら吸い込みかねないその静謐に思わず見惚れてしまう。 とある日、音楽を聴いているのかイヤホンを耳に差したまま乗車し、差したまま下車していく。 またとある日、掌中に読み物を収めてやって来た。 大のとまではいかないにしても読書家であるは心持前のめりになったが、多岐に渡る本の種類に気圧される一方で謎の解決へ至る手がかりにはなり得ない。 そう何度も読む姿を目撃したわけではないが、それにしたって統一性が微塵もなかった。 アガサ・クリスティのそして誰もいなくなった、を読み耽っているので推理小説を好むのかと予想していれば、次いで見た時は横浜ウォーカー。 別の日、吉四六さんのとんち話。 夢十夜、夏目漱石。 成功者が語る百の法則なる自己啓発本。 趣味の園芸に始まり週刊少年ジャンプ、今日の献立、国盗り物語、るるぶ宮崎癒しの旅。 これで系統や傾向を掴めというほうが無茶である。見れば見る分謎が霧を濃くし、彼という人は混迷の闇へ掻き消えていく。 人様の読んでいる本を確かめるなどはしたないとは自戒の意も込めて好奇心を振り払わんと心掛けたが、こうもジャンルがばらばらだと気になるのが人の性というものであろうし、眼前に立たれ、或いはすぐそばのドア近くでページをめくられていてはどうしたって目が向かうものだ。 更に、手にする荷も日によって様変わりするのもまた奇異な事だった。 傘以外は何も持たずして乗り込んで来たり、学校指定らしき鞄をぐっしょり濡らして抱えていたり、そうでなくば実に軽そうなリュックを背負っている、最も驚愕したのは一度ラケットバッグが肩に掛かっていた時だ。 新品ではない、使い込まれた風情は、彼が長らくテニスを嗜んでいる証拠に他ならない。 の思い浮かべるスポーツマンだとか部活に励む男子学生だとかのイメージから程遠い風貌をした人物の背に乗っているととても違和感がある、けれど不自然ではないと感じてしまう自分がわからない、と内心首を傾げた。 それは、親しみやすい容姿をしているわけではないのに馴染めば心惹かれ、目立っているけれども周囲から完全に浮き立たず、ともすれば雨に霞む景色へ溶け込むようなかの人独特の空気に似ている。 揺れる車内は人それぞれが持つ体温と屋根を叩く水滴の両方に侵され湿気り、閉じ込められた空気の所為で透明な窓はうっすらとした白濁に染まって、常と変わらぬタイミングで流されるアナウンスもどこか滲んで響く。 折り畳んだ傘から零れた雫が、の膝を微かに濡らした。 重力に従い垂れたそれらは靴下へじんわり染み入り、肌が湿ってはり付くのでむず痒く、改札をくぐる手前で少しばかり雨を浴びてしまった髪の毛は重たげにしなる。 カーブを描く車体に合わせ、窓を打つ雨雫の角度が些か鋭利になっていった。 変わらない号車、変わらない位置のドアから乗って、空いていればいつも同じ席に腰を落ち着ける、ルーチンワークじみた繰り返しの中で訪れた異変はの胸中さえも塗り替えてゆく。 後ろから数えて三両目。 曇りよりも暗く、晴れと比べるとなれば尚籠もる。光の薄い天は、なかなかに人の心を好転させやしないだろう。 けれど楽しくなった。 電車は混むし、服が濡れると気持ちが悪いし、荷物は増える。 乾燥機を使えばいいじゃないかと暢気に構える父親に、お日様の光でなければと跳ね返して洗濯物が思うさま干せぬ雨を嫌う母に釣られ、鬱々とした気分を味わわなければならぬ、いい事など一つもないと思っていた雨の日が。 溜め息と共に眺めていた天気予報の傘マークが、好ましいものへと変わる。 ならば明日はお気に入りの傘を持っていこう、早々と前日から用意して、あなた遠足にでも行くつもりなの、浮かれる娘をからかう母の声に恥じ入った。 雨の予報が外れて降らなかった時などは友人に心配されるほど気落ちして、いないとわかっているはずなのに電車の中で目立つ髪色を探したは良いが、案の定発見出来ずに益々心が項垂れた。 降れば嬉しい。 降らなければ寂しい。 小雨、霧雨、大粒の雨、嵐かというくらい激しい降り。 程度は関係なく、雨音を耳にする都度気分は上昇していく。 校外学習や春の催しが中止になって落胆する生徒達を尻目に、一人弾む心地で帰りの電車を待ちわびるばかりだ。 の乗車駅も降車駅も三年間変わらなかったが彼のほうは違うらしい、が乗った時には既にドア付近の手摺へ背を預けていた事もあれば、初めて見掛けた日と異なる駅から乗り込んで来た事もある。 降りる時も同様だ。大概はが降りる場所の二つ前、時折通り過ぎて、ホームから彼を乗せて離れていく電車を見送った。 どうして雨の日だけなのだろう。 どうして乗る駅も降りる駅も、別々なのだろう。 まるで彼の行動、読み耽っている本、恰好のようだった。 知っていくにつれ印象をまとめる事が難しくなっていく。 わからないから気になるのかもしれない。 噛みつかれそうで、全くの無害。 人目を引くはずなのに、注意して見つめていないといつの間にか消えている。 名も知らぬ、顔しか知る事の出来ないその人は、とても不思議な男の子だった。 同年代の異性と触れ合う機会の乏しいからしてみても、希少な種類の人間であろうと思う。 ずっと一人でいる姿しか見た覚えがないので、声も知らない。 誰かに特徴を説明するのが憚られた為、どこの学校かもわからない。 目など合った事もない。彼は油断なく周囲に視線を張り巡らせておきながら、何も意に介していない様子なのだ。 しかしおかげでは読書などというカモフラージュをせずとも自由に眼差しを送り思うさま眺める事が叶ったので、これといった感想は抱かなかった。 下校途中の僅かな時間を、雨だけが繋いでいる。 天の恵みに濡れそぼった彼の髪はシャツにしな垂れかかり、泡に似た雫が穂先でふるりと揺れた。 聞き慣れたアナウンスが入り、半端に開かれていた本をさっと閉じる。 が降りる駅だ。 この間は二つ前で車内を後にしていたが今日はまだ先へ行くらしい、やはり扉近くにぼんやり立っている人影へ向かい、足を進めていく。 かの人の場合、乗車駅に比べて降車する駅はそう変わらないから、これは珍しい事なのだった。 姿だけは両手で数え切れぬ程見つめてきたとはいえ、隣と言っても過言ではない位置に並び立てばどうしても緊張する。 飽かずに眺めていたくせして、近づけば近づくだけ視線が落ち転がり持ち上がらない。 緩やかに速度を上げる心臓と反対に、電車はスピードを落としていった。かたたん、かたたん、と走行中より軽い音が足の下を這う。 次の雨はいつ降るのだろうか。 詰まった距離に胸を抑え、同時に落胆も覚えてしまう。 こればかり祈るか天に頼るしかないのだ。人間の力ではどうする事も出来ない。 そうして空と同じくらい重く垂れ込める心地を戒めなかったのが、神の怒りに触れたのやもしれなかった。 目の前の扉が腑抜けた音を立てて開いた途端、携帯電話を片手に何事かを話すサラリーマンが横を猛烈な速さで通り抜け、呆け気味だったは避けられず思い切り弾き飛ばされてしまう。小さな悲鳴を上げた気もするが、実の所あまり覚えていない。 衝撃の強さに体を支えられなくなった足がふらついて、バランスを失った頭が傾いで倒れ込みかけた。 ――隣にいた彼へと。 次いで、片耳と後頭部に硬い感触。 この硬度は一体なんだと脳が自動的に検索をし始める。 経験になく、記憶にもない。 困惑し最終的に、人の温もりを持った壁という奇妙な結論がはじき出され、更にわけがわからなくなる。 肩甲骨から二の腕にかけてを包む、誰かの掌が大きかった。 視界の端に手の甲が映り込んだ。 女の子とは違う、すっきりとした筋肉が張り、薄い色の血管が浮き出た肌と、骨の形がわかる指。ほのかに濡れたシャツが香り、まくられた袖から伸びているらしい手首は自力で立っておらぬを支えても尚、微動だにしない。 血の気が引いたのか上ったのかすら掴み取れず、ふっと瞳の行く先をずらせば襟が見えた。そこからだらりと下がるネクタイの色も鮮明だ。 は確かに転ぶ寸前だった。 仕事に追われるサラリーマンに弾かれ、哀れ汚れた電車の床へと転倒し頭か腰をしたたかに打ち付けている所だった。 ――でも無事だ。 一瞬の出来事にも関わらず対応し、よろけた体を掴んでくれた人がいたおかげで。 途端、肋骨を割らんばかりの勢いで心臓がわなないた。 「ご、ごめんなさいっ!」 普段のには到底真似出来ぬ速度で体勢を立て直し、捕食者から逃げ出す兎かガゼルかシマウマかというくらいの俊敏さで以って距離を開ける。 慌てふためく彼女と対照的に、しかし腕を抱いていたままの形で止めている雨の日だけの彼が、そっと唇を震わせた。 「……いや。大丈夫か?」 低い声だった。 そして、雑踏の中に紛れてしまいかねない静かな音だった。 「だ、だい、だいじょうぶ、です。はい。すみません、ありがとう、ございました!」 初めて声を耳にし初めて言葉を交わしたというのに、感慨に浸る暇もじっくり聞いている余裕も何もない。 発車ベルが鳴り響き、は半ば転がるようにしてホームへと降りた。 背後でドアが閉まる。振り返って、曇る窓の向こうに佇む彼に深々と頭を下げる。 つい先刻と同じく、かたたん、かたたん、と軽やかに去りゆく音色がした時ようやく顔を上げた。 待つ人も降りた人の数も少ない床が、電車の名残だけを奏でている。 雨粒は屋根と茶こけたレールに当たって砕け、露となり飛沫となり薄れていく。誰かの足音はしない。のそれすら鳴り出さない。 数秒にも満たない邂逅を、ただただ呆然と思い返していた。 呼吸が定まらず苦しい。 締めつけられた喉は、掠れて痛む。 次に雨が降ったのは、三日と間を置いてからだった。 週間天気予報では曇りであったのが、前日になって急な変化を遂げたのだ。思わぬ幸いに常ならば喜ぶ場面でも、は表情を濁らせテレビ画面を凝視するほかない。 先日の混乱しきったものを訂正せねばあまりにも情けないし、助けてもらったからには今一度感謝を伝えたい、だとすれば第一声はなんとすべきか。 そもそも向こうがこちらを覚えているかどうか怪しいのである。 天気がぐずつく日、電車内で偶然乗り合わせるだけの相手に声を掛けられたとて、どちらさまでしたか、首を傾げられる可能性が高く、あの特徴的な雰囲気と容姿の持ち主を前にし、自ら話しかける勇気があるかは非常に曖昧だ。 初歩的な戸惑いに思考の足が鈍って空回る。 幾度も踏みしめてしまったおかげで足元は撓み、ちょうど雨上がりの地面のようにぬかるんで、前にも後ろにも進めずにいた。 結局迷い通しのまま帰宅の途につく羽目と相成り、比喩でなくは軽い頭痛を覚えてしまう。 湿った傘を手にホームへ続く階段を切々と上りきって、短い猶予でなんとか対策を練らんと脳内が目一杯回転し始めた瞬時、螺子が切れたような音を立てて停止する。 十数メートル先のベンチに、遠くからでもわかる、目立つ容姿の人が座っていたのだ。 白色に近い髪、だらりとした背筋、両手首のリストバンドに縒れた制服。 まじまじ確かめるまでもない、先日転びそうになったを支えてくれた彼だった。 この駅で見かけた覚えなど一度たりともなかった、どうして、とものの一秒で肩が凍りつき、ものの一秒で融解する。 まだ少々残っているはずだった猶予期間はあえなく終了したが、礼を言うのには良い機会とも考えられる、他の人の目がある車内では言い難くなっていたかもしれない。 まごつく両足を奮い立たせ、晴れぬ天気の所為でどことなく湿ったコンクリートの床を踏み込み、一歩ずつ近づいていった。 緊張で胸が鳴る。 脈略もなく小さな頃のピアノの発表会を思い出し、余計強張りが増した。 しかし目的地まであと数歩という所で、雨霧に煙ったホームを機械的な声が引き裂く。 ……二番線に、まもなく電車が参ります。白い線の内側までおさがり下さい。 構内にいた人々がばらばらと動き、線路沿いへ並び始め、力んだ肩が抜けた。にしては珍しく即決断をしたというのに、運のない事もあるものだ。 再度及び腰になる少女の数メートル先、ベンチにいた彼がのろのろと重い尻を持ち上げて、同様の速度で歩を進めていく。 まさか後退するわけにも、電車の形がはっきり確認出来る程差し迫っているさ中あえて遠くの扉を目指すわけにもいかず、図らずも近くの列に立つ流れと相成った。 鈍色に濡れて輝く車体が風を巻き起こし、段々とそのスピードを緩めていって、中の様子を窺わせつつ微かに反射する窓に自身と彼の姿が映るので、は心許なさに俯いた。 けれど今日伝えなければ、次にいつ幸運が降るかどうかまったくもって不明なのだ。 臆している場合ではない、膝前に下げた鞄を固く握り締めながら復唱する。 この間はありがとうございました、助かりました、ご迷惑をおかけしたあげく、きちんとお礼も言わずにごめんなさい。 それだけだ。 それだけ済むのならそう難しくはない、ないはず、塗り重ね土台を築いていく。 と名も知れぬ彼は、一枚の扉に対し左右に別れて並んでいた。 実際口にする前から噛みそうになる舌をなめし、意気込んで空気の漏れるような音と共に開くドアと向き合う。 次いでがたごとと無骨な開閉音が鳴り、ひとまずはと降車する人を待った。 湿り籠もる場から抜け出す無数の足、ざわめきが溢れ、雨の壁をも追いやる質量の響き。 ――と、眼前の乗り物がやや揺れる。 急に現れた弾丸めいた勢いでホームに飛び込む低く小さな頭に、踏み入りかけの足が戸惑った。寸前になって駆けたらしい、小学生だろうか。 やばい、急げ、わあわあと騒ぐ男子二人組の素早い影に呆気を取られていれば、視界の隅にそれまではなかった異物が跳ねる。加減なしに振り回された手提げ袋からハンカチとメモの切れ端、子供用らしき携帯電話が飛び落ちたのだった。 ドアやエスカレーターへ向かう人の波は留まる事を知らない。 咄嗟に転々と散らばった落し物を拾い顔を上げると、遠く走り去る背の低い影が二つ。 一層焦った。 「あ…っ、ま、待って!」 出来得る限り大きな声を出したつもりだったのだが、一つの渦になった雑踏に紛れて至近距離までしか届かず、無関係の通行人に怪訝な顔をされるのみだ。 深く考えるより先に、足が床を蹴っていく。 後方の彼へ注意を払う余裕もなかった。高らかに響き渡るベルののち、レール上を回る発車音が真横でわめいている。 人と人の間を縫い、先程上がったばかりの階段を下りて、改札口まで全速力を振り絞った。 微かに濡れた床が滑って走りにくい。 結果から言うと、間に合った。 最悪駅員に託すしかないと覚悟していたが、の追った子供達は急ぐあまり改札手前で定期券を出すのに手間取っており、無事届ける事が叶ったのだ。 髪は乱れ、肩で息を繰り返し、必死一色の表情に我ながら恥を覚えたのだけれど、感謝の念で満ちた瞳に見上げられてしまえばどうという事もない。 ありがとう、お姉さん! 電車を降りた時と同様、元気一杯に告げられ思わず破顔した。 こう素直な様子を目にすると、自分の行動が誇らしくなるのだから不思議だとは独りごちる。 他に落し物はないか尋ねて、手提げ袋に留まらずランドセルの中身までしっかり確認し始める光景を微笑ましく眺め、大丈夫、という頼もしい返事に安堵の息を吐く。 幾度も礼を重ねる子供達に手を振って、元来た道を戻った。 温かな胸中がはたと悟ったのは、階段下まで辿り着いた時だ。 ――あの人はもう行ってしまっただろう。 追いかけなければ良かったなどと自分本位に過ぎる考えには及ばぬけれど、落胆の境地はそう簡単に覆せない。 折角の機会だったのに、諦め悪く引き摺ってしまう事くらい見逃して欲しいと誰に叱責を受けたでもないが許しを乞うた。 今日一番重い両足を持ち上げ、気力の萎えた動作で長い段を超えていく。 壁を伝わり聞こえる雨音がいやに遠く、物寂しい。 電車が行ったばかりで静けさに包まれたホームが近づき、どことなく透き通る空気に触れた喉は落ち着きを取り戻している。 切れ切れだった呼吸もすっかり鳴りを潜め、凪いだ有様だ。 そうして時間を掛けつつ階段制覇まであと一段というまさにその時、 「間に合ったんか?」 聞き慣れていないものの耳は覚えていた声に降られて目が覚めた。 銀糸のように細い髪、猫背、ラケットバッグに三白眼。 間違えるはずがない人物が地を擦る足取りで段上へと歩いて来ていたのだ。 言葉が出ない。 己に向けられた問いなのかと視線を泳がせれば、背後には人っ子一人おらず、他に誰がと訴える眼差しと鉢合わせてしまう。続いて、どうして、と疑問を解決せんと試みた所で、ひょいと軽い仕草で左腕が掲げられた。 自然と目線が傾く。 初めて間近で見つめる彼の人差し指には傘の柄が引っ掛かっており、中指と薬指の間にはパスケースが挟まれている。 あまりにもすんなりとした所作にマジシャンかという印象を抱いた次の瞬間、即座に血の気が引いた。 先程、小学生の転がった持ち物を取りに屈んだ拍子だ、右腕に掛けた傘を置き去りにし、鞄の外ポケットへ仕舞っていた定期券を落としていたに違いない。 「嘘、ごめんなさい!」 自らの状態に意識を割く暇がなかったとはいえ迂闊、加えて人様に迷惑を掛けてしまっている現状に泡を吹いて謝るしか出来ない。 「気にしなさんな。まああえて言うなら、もうちょい落ち着きんしゃい。お前さんの為にも」 残っていた段を駆け、捧げられていた落し物を受け取るさ中、薄い唇が紡ぐ言葉につい目を剥いた。 標準語ではない。 どこのものかはわからないが、方言だ。 まさか地方出身者だとは考え付かなかった、単に同じ電車に乗っているというだけで神奈川県民だと思い込んでいたらしい。 丸々太った眼孔を縮めずにいると、筋張った指先がひらめく。 「なんじゃ、珍しいモン見つけたよーな顔して」 笑む口元の傍近くに、印象的な黒子がある。 今日急遽浮き上がったものではかなろう、これまで散々眺めてきたというのに知らなかった。 声も上げず、何でもありません、の意思表示を表す為首を左右に振り、どちらからでもなく歩む途で呼気を飲んだ。 「……あの、ありがとうございました。この間も助けて頂いたのに、今日またお世話になってしまって」 「ん」 肯定か否定か判じられぬ短い応答だったが、怒気は感じられない。 ついでに認知されている様子で、ひとまずほっと肩を撫で下ろす。 問題はこの後である。 聞くべきか、否か。 不躾な上、失礼に値するかもしれず、雨音の陰で数瞬気を揉んだ。 こちらにも向かいのホームにも、人気はなく静寂が支配している。 しかし常々謎めいた点の多い人だと思いつつ尋ねる勇気や機会に恵まれて来なかった、今この時が山場かもしれない、惑いながら決意を固めて口火を切った。 「………それであの、同じ電車でお会いしますよね? 雨の日だけ、ですけど……」 萎れる語尾が消えていく瀬戸際、ふっと柔らかく鼻を鳴らし笑んだ声音があたりに零れる。 のものではない。 だとすれば、該当するのは一人だった。 「なんで敬語」 遠くからだと恐ろしげに映っていた双眸も、緩いカーブを描けばとても穏やかに映える。 その落差に圧倒される己を押し込み、は続けた。 「え、だって」 年上の方ですよね。 用意していた言葉は、あえなく塗り替えられてしまう。 「同い年じゃろ。百合乃丘女子、三年?」 驚愕の事実に加え、話してはいない母校の名まで飛び出すのだから黙っていられない。 「ええっ!? な、なん、どうして、でも、だって年上」 要領を得ない単語の羅列にも余裕の人が、喉仏を上下させてまた笑った。 「年上じゃなか。あんたと変わらん、中学三年生。学校名はこん近くでセーラー服っちゅうとそこかと思って鎌かけただけ。年はそれに書いてあったぜよ」 はっと息が途切れた。 仕舞い損ねていたパスケースを指されたは羞恥にまみれ、両頬を薄赤に染める。 家人に言われるがまま、定期にきっちり年齢を記していた事をすっかり忘れていたのだ。 拾ってくれたのだから、当然確認するだろう。知っていて何らおかしくない。 更に、見た目のみで勝手に同じ中学生ではないと除外していたのもまた恥ずかしかった。 「…ごめんなさい…。大人っぽいから、高校生の人かと思ってて……」 「別に構わん。何歳に見えようが、どうでもいいしの」 あっさりとした返答に相応しい台詞が見つけられない。徐に絶えた足音が耳に重く、なんとはなしに眺めれば先刻並んでいた時と同じ位置までやって来ていた。 「あなたは、どこの学校?」 「立海大附属」 本日何度目か知れぬ驚きに目をしばたたかせる。文武両道の有名私立高だ、名を耳にした記憶はあったがしかし、ここからおいそれと伺える距離の学校ではない。 「え、あれ…少し遠い、よね」 「そうやのぅ、通学にはこっちの路線使わんし」 「……ええと」 じゃあどうして、是非連ねたい所だったけれど、どこまで踏み込んで良いのかが曖昧で些か困った。 ここまで聞いて撤回するのも妙だし、かといって不快感を抱かせてしまっては元も子もない、無意味にぱくつく唇を持て余し眼前の彼へと視線を飛ばしてみれば、大人しやかに滲んだ眦。 ――それで、続きは。 音もなく促している。 釣られた舌が滑り出した。 「…どうして雨が降ると、こっちの路線を使うの?」 ひっそりと高鳴る鼓動は胸に染み、緊張にしては甘く渇く喉奥が焦燥を煽ってい、長らく謎を謎のまま保有していたその人が、に向けて解決の糸口を投げ寄越す。 お前さん、俺が帰宅部に見えるか。 ラケットバッグを背負っておきながら口にする事ではないだろう。否定した。 ……テニス部? 無言の首肯。 雨やと外に出られん。基本は中で筋トレするんじゃが、ボール打っちょらんといけん日もあるじゃろ。んで、この辺の屋内コート使っとる。 感嘆に似た納得ののち、新たな疑問が浮かんで弾ける。 でも乗る駅も降りる駅も、ばらばらだよね。 笑声は雨と同じく低い所に落ちていく。 よう見とるの。 突かれたくない弱みのような部分を突かれ俯いた。頼りない物言いで応じる他ない。 …その、いつも不思議だなって思ってたから。すごく目立つし、つい見ちゃってごめんなさい。 一瞬の風になぶられた数多の雫が張り出すホームの屋根を強く叩き、不意の沈黙を生む。幾許も無い静けさを送って、形容し難い声色で鼓膜が濡れた。 毒気が抜けよる。ちっとは嘘で防げ。 には難解な言に小首を傾げると、首の後ろを掻く人が眉を下げて苦笑し、やがて淡々とした調子で話を戻す。 あんたみたいに毎日毎日同じ行動すんのが苦手なだけじゃ。気が乗らなけりゃ電車は使わんし、一駅二駅歩いて気が向いた時に手近なとこから乗っとる。降りる駅は……ああ、男のくせに花が好きな奴がいるんじゃけど、ちょっかいかけにな。たまに行く。そんだけ。 二度目の納得と共に、不可思議で訳の知れぬ笑みが胸底から溢れて止まない。緩む一方の唇が弧を描いていった。 「男の人で花が好きだと、だめなの?」 「ほー、お前さんは構わんのか?」 「花が好きか嫌いかでいいとか悪いとか、決めた事はないけれど」 「……ま、そうやの。見るからにそういうタイプじゃ」 一切の詳細が不明であった彼と埒もない会話を交わしているのが信じられず、夢を見ているようだとは思った。 初対面ではないにしろこうして向き合った事はなく、同年代の男子と話すのもいつ振りかといった具合だ、にも関わらずすらすらと言葉が形になっていく。 知らぬ間に己に度胸がついたのか、それとも彼の手によるものなのか。 どちらも混ざった結果かもしれないし、どちらでも良かった。悪天候と裏腹に上向くばかりの気分が混ざる心音は、ひたすらに心地よさを歌う。 「で、他はないんか」 自らのそれとそぼ降る雨雫の合奏を避け、湿る床へと問いかけるものが放られた。 聞きたい事。 付け加えた人の睫毛も濡れて見え、前髪を超えた向こうで黒目は僅かな光を吸っている。 たわんだ白皙。 少々屈んだ所為で、より丸みを帯びる背中は、その角度と異なり硬そうだった。 襟元を掠める伸びた髪に、雨の景色に揺れ動くかのような黒子。 読んでいる本が見る都度違う、持っている鞄とて違う、どんな音楽を聴くのかも知らなければ、何故空いているのにドア付近やこちらの傍に立ち、座らないのかもわからない。 あげればきりのない疑問が脳裏を巡り、隅々をくまなく駆けていく。 だが、今最も尋ねなければならぬ、重要事項が数ある問いを跳ね除けて浮上した。 「えっと、あの…私はです。あなたの名前は?」 いつ止むのかも知れない雨が降る。 と彼の繋ぎ手たる音は連なり重なって、地を這い、駅を濡らして流れゆく。 まるでずっと待っていたと言うかのように、先刻まで正体不明であった人物は唇の端を持ち上げ笑った。 「仁王雅治」 硝子玉に似ているとかつてのが恐れた瞳には火が灯り、好奇心に満ちた猫と評すべき鮮やかな色彩で染まっている。 |