走っていたら思いきり転んだ。
しかも、障害物も何もないただの道端で。

咄嗟についた手は小石や砂でざらついたコンクリートのお陰ですり剥けて、ヘッドスライディング並に擦った膝小僧から脛にかけては言うまでもない。
痛いと感じる前に熱かった。悲しいを通り越して切なくなって、小さな子供みたいに豪快極まりない転び方だ、と伏して気付いた後の数秒間、情けなさ過ぎて起き上がれなかった。
肉体より精神が受けたダメージの方が数倍大きい。
うぐ、と唇を噛み締めて呻く私の耳に、遠くで盛り上がる歓声が風に乗って届く。
文化祭に続き秋の目玉行事である体育祭の今日、競技中ならまだしも、人影もちらつかない外れにある、平坦な道で負う傷の染みようといったら酷いものだ。普通に転んだ時より余計に泣きたくなってしまう。
嘆いて延々寝転んでいるわけにいかず、お腹に力を入れてよろよろ体を起こすと、曲がった肘や地面と擦れた足が思わず顔を歪めるくらい痛い。
恐々体を見渡せばすり切れた皮膚が真っ白になっていて、その内滲んだ血で滲んで砂や土と混ざり、自分の事なのに、これは大変だ、独りごちる。
顔面が無事だったのは奇跡だ、最早溜め息も出ない。
パァン、と借り物競争が開始された合図だろうか、秋晴れの空へ放たれる破裂音がなんだか恨めしかった。
振り絞って立ち上がる。
時間が経つほどじんじんと響いてくる傷跡を庇いつつ、保健室は閉まっているから救護テントかな、でもどの道洗ってからじゃないと、我ながら冷静な判断を下して歩いてみる。
思った以上に辛い。
ふらつく足取りは戦に巻き込まれ命からがら逃げてきた一般市民のそれである。
ひょっとしたら演技じゃないのかと疑われそうで、だけど周りからどう見えるかを気になんかしていたらたかが一歩進むのにかなりの時間を費やすだろう。
舞台裏もいい所の校舎の陰でよかったのかも、沈む一方の気持ちが少しでも浮くように言い聞かせ、手足を引き摺って水場に辿り着いたのは優に数分後の事。いつもより随分と時間がかかってしまった。
かっこつけるつもりなんかさらさらないけど、にしたってかっこ悪すぎる。
不名誉の負傷だ。
蘇る悲しい気持ちに蓋をして、おばあちゃんみたいな速度で腰を落ち着けた。
熱を増す競技模様を実況する放送委員の声が、さっきより少し近付いている。
中に水道管の走っている鼠色の細い支柱へ手をついて、今朝解けないようにと念入りに結んだ靴紐に指を掛けた、

「……何しとう」

――所で、ふと手元が陰った。
私の頭上にだけ雲が沸いたみたいだった。

「雅治」

誰とも尋ねず真っ先に鼻先を上向かせれば、こちらを覗き込む幼馴染の鋭い目がある。
どうしたの。
問えば、俺が先に聞いとるんじゃ、早う答えんしゃい、至極当然のツッコミを頂戴してしまって、それもそうか、頷いてから口を開いた。

「いや転んじゃって…」
「お前、今ん競技に出とったか?」
「ううん。競技中にじゃなくて、その辺で普通にこけたの」

長々と間が空いた。
ものすごく雄弁な沈黙のせいで、乾いた空気に混ざる歓声が清々しく鼓膜を揺らす。
雅治は口数が多い方じゃないけど、この黙りっぷりは多分呆れからくるものだろう、何とも居た堪れない静寂だ。
すみませんね、どうせ間抜けですよ、と心で毒づき作業を再開した。
滑り落ちかかったハーフパンツの裾をからげ、自ら頑丈にしてしまった靴紐を手繰り、小さな穴から引き抜いていく。スニーカーの上部を寛がせ陽光でほどよく温められた地面を靴下越しに感じた。
幸いにも被害を被っていないスニーカーソックスへ触れると同時、薄い影が消えた代わりに熱源が不意に近付いたので素でびっくりした。
ポケットに両手を突っ込んだまましゃがんだ雅治が、じっと目を凝らすみたいに私、正確には酷い有様の腕や足を見詰めている。
大人しく脈打っていた心臓が一瞬で沸騰した。

「痛そうじゃのぅ」
「……い、痛い、けど」
「ほんに豪快にこけよったな」
「私だって、こけたくてこけたわけじゃ…」
「知っとうよ」

しどろもどろになるのは、一連の『脱ぐ』動作を散々見られていた、という動かしようもない事実に気付いたからだ。
いちいち気にする事じゃない、いい加減慣れて平気になるべきだ、けれどいくら頑張っても動揺してしまう。
私は雅治の目に自分が映る事が本当に苦手だ。嫌じゃないけど嫌だし、逸らされたら寂しくなるくせに正面から向かうのは得意じゃないし、どうしたらいいのかわからない。

「お前さん自分で見えとるんか、ようけ血出とるし二の腕まで砂まみれだぞ。傷洗うの手伝っちゃる」
「…………い、いい……」

なのに当の雅治はほとんどいつも顔色一つ変えずに、嘘か真か見分けのつかない悪ふざけを投げて来たりして、時々無性にすごく叫び出したくなる。
(私ばっかりドキドキしてるみたい)
思い知らされる度にちょっと悔しい。
長引かせるだけ不利だ、断じるや否やいっそ熱心だとさえ感じるかの視線を振り切り、さっさと素足をさらけ出す。
痛みも吹っ飛ぶ緊張感だったが、負けてたまるかの精神で蛇口を捻れば冷たくもぬるくもない水が流れ始め、耳に届く涼しい音が体の内側に籠もる熱を奪ってくれる気がした。
思い出深い冬の玄関口での情景が脳裏をよぎって、内心慌てふためいた私は傷の程度も忘れて、降り落ちる流水へ見るも無残な脛を勢い良く差し出す。

「い…っ、い、ったぁ!」

当たり前だがとてつもなく染みた。
試す方がバカとしか言い様がない、目に見えすぎた結果である。

「……、おまんはまっことアホじゃ」

反論も出来ない。
雅治の珍しく感情が声に表れた、ほとほと呆れ果てました、言わんばかりの物言いが傷口に宿る熱をより悪化させる。
歯を食い縛って、うう、唸りながら我慢するしかなくなった自業自得の私はもう半泣きだった。
色んな意味で痛い。
足の爪先が苦痛を発散させる為ぎゅうぎゅうに折れ曲がって、でも今更やめた所でどうにもならない、だけど染みて仕方がない、耐えに耐えている内に麻痺して来たのか、拷問ですか何の罰ですかお許しをと信じてもいない神さまに祈るくらいの痛みが徐々に和らいでいく。
目尻に張り付いていた涙のひと欠片を拭い、はあ、と深い息を吐いてから再度吸い直す。
覚悟の方法がわかってしまえば、後は思い切るだけだ。
もう片方の足を細い滝へ突っ込み、女子高生らしからぬ悲鳴を上げつつ洗い終え、よしあとひと息。
謎のやる気を出した私が迅速に右腕の処置を完遂し、あちこちに張り付く水滴を軽く振るった時、どういうつもりか大人しく見守っていた風の幼馴染が低い声で言った。

「見とったな」

すぐには意味が掴めなくて、なんの事、表情に出しながら目線を上げると、雅治は立てた片膝にだらりと腕を掛け、もう片方の足は胡坐をかいた時みたいに地面とくっつけている。
一体いつ座り込んだのか、気配だって全く感じなかった。

「足引き摺って歩いちょるとこ。アイツが」

骨張ってかさついた膝も、筋がくっきり浮かぶ脛も、私とは違う男の子のものだ。

「あいつ?」

誰の事、私の友達とか?
言外に尋ねれば、察した様子の幼馴染がうなじを掻きながら続ける。

「さーて誰だったんじゃろな。名前なんぞ聞いた端から忘れるけん、俺に聞いても仕方なかろ」

投げやりなばかりか煙に巻く口調に眉間へ皺が寄った。
というか一応怪我人なのに思いっきり絡まれている、この状況はどうだろう。
自分から言い出したくせしてこちらの反応を待っているのかいないのか、答えろと望んでいるのか無視しろと弾こうとしているのか、雅治のしたい事はいつだって予測出来ない。

「もう忘れたんか? 薄情な女やの」

謂れなき罵りだ。身に覚えもない。
流石にむっとして結んでいた口を開いた刹那、

「おんなじ委員会の後輩」

低くも高くもない声音がぽんと転がり、所々を黄色や朱の落葉で彩られた道や、流水に晒され濡れたコンクリートへ静かに響いた。
じわじわ這い寄って来ていた痛みが一瞬で消える。
次いで肩が強張った。
薄い唇から奏でられる言葉とは正反対に真っ直ぐで、少し怖いくらいに強い眼差しが肌を焼く。体の芯が熱い。


確か二週間ほど前の放課後だったはずだ。
しょっちゅうでないにしろ世間話を交わす程度の仲ではあった、雅治の言う委員会の後輩にたまたますれ違った渡り廊下で告げられた。
先輩が好きです。
初めは冗談かと思ったけれど、本当にテニス部の、あの人と付き合ってるんですか、やけに真剣な面持ちで問われ己の勘違いを悟る。
彼ははっきり名前をあげなかったが、雅治と一緒にいる時に何度か委員会の連絡をした覚えがあったので、あの人、が誰を指しているのか充分理解出来た。
思い至った途端、動転しまくった私はきちんとした返事を作る事が出来なくなってしまったのだ。
そうです、付き合ってます、ごめんなさい、ありがとう。
たったの四つで、後輩が勇気を出してくれたのであろう想いを突っ返した。
今なら何という不義理、不誠実な対応か、後悔しか残らぬ断り方だったとの反省も叶うが、当時は余裕もなかったし頭も気も回らなかった。
おまけにその直後、部活へ向かう途中と思しきレギュラーウェアを着た雅治と鉢合わせたのだから、間が悪いとしか言い様がない。
とりあえず飲み物でも飲んで落ち着つこうとカフェテリアを目指したのが選択ミスだ、相変わらず部活動に励む青少年には全く見えない猫背の人がどうしたとばかりに切れ長の瞳を瞬かせている。
顔赤いぞ。
おそらく他意なく指摘され、元より熱の籠もっていた頬が更に火照った。
行儀悪く両手をポケットに入れた雅治のずっと背後ろ、離れた所にある噴水がもうあと二時間もしない内に沈んでいくだろう陽を反射し煌めく。
中庭に点々と植わっている木々はすっかり秋を纏っていて、紅葉狩り出来そうだよね、今度あっちの木の下でお弁当食べようよ、友達と話した日の穏やかな情景が脳裏に浮かんだ。
そういう関係のない、細かい部分にまで目がいくのに、肝心要たる目の前の人の顔が見られない。
冷や汗に近い得体の知れぬ何かが首筋をそびやかす。
進退窮まり、つい狼狽えた声を零してしまった。
「こ、断ったから!」
「……は?」
幼馴染が何の話だと眉を顰めるのはごく自然な事で、私が雅治の立場でもそうする、どう考えても明らかな失敗を犯したが取り返せるはずもない。
口にした以上は説明しなければならなかった。
誰も傷つけない誤魔化しに長けているでもない、優しい嘘だって上手につけない私はかいつまんで自白する。
完全に挙動不審にだったはずだが、人を食った態度でコート上限定ではあるものの詐欺師呼ばわりされる隣の家の男の子は、からかう所かこちらの慌てた様子に言及さえせずただ黙って耳を傾けている。それが余計に混乱を招いた。
恐る恐る睫毛を持ち上げ窺ってみても、秋晴れが招いた柔らかな陽射しを背にした幼馴染の顔色は何一つ変わらないように思える。
怖気づいた私は続きを失くしてしまう。
謎の気まずさが唇に糊を張り付けて、本当に言いたかった事を閉じ込めた。


「こじゃんとモテるのう、
「………そんなわけないでしょ」

そう遠くもない過去に抱いた感情が胸の内で渦を巻き始めた頃、かったるそうな雅治が嫌味としか受け取れない一言で斬り付けて来る。
だけどひりひり染みるリアルな傷口が投げられた言葉の持つ鋭い切れ味を打ち曲げ、威力を半減させた。
怒りたいのに怒れない、行き場のない分厚いもやがお腹の中で腫れ上がっていく。
雅治の方が100倍モテるくせに。私なんか雅治以外の男の子に好きだって言われたのは初めてだった。
何回繰り返したって、すんなり断れる自分の姿を想像出来ない。絶対に慣れないだろう。とてもじゃないけど雅治みたいに振る舞えない。
付き合ってる子がいてもいなくても関係なく告白されて、テニス部の練習中にたくさんの女の子が送る視線や声援を平然と躱し、バレンタインだって誕生日だってわかりやすく盛大にじゃないけど、静々としつつどこかに熱っぽさを含んだ雰囲気の中心にいるし、でもどれもこれも平気な顔で猫のしっぽに似た襟足を揺らしながら掻き分けていくのだ。
誰にもぶつからないように、誰からも引き止められないように、器用に避け続けて一向に捕まらない。
だから余計にみんな追いかけるのをやめられないんだよ。
大きな声でいっそ糾弾してやりたかった。
そもそもあの日自爆した私を一瞥するに留め、だからどうした興味を持てませんといった表情のままフーンの一言を簡素に零し、断ったんならなんの問題もなかろと手短に終わらせたのはそっちじゃないか。

「怖い顔して黙りなさんな」

もしかしてわざと怒らせたいんですか、胸やけしそうな憤りが口から出かかった。
喉元でつかえたから一瞬息が止まる。

「…そりゃ怖い顔にもなるよね、誰かのせいで」
「ほー、誰のせいかの、見当もつかんぜよ」

やはり平然と返して来るので、はっきり言ってもうムカつく。ほんとになんなのと心底思う。よく知る幼馴染はいつの間にかこんなに性格も根性も悪くなってしまった。
別に私を見ていたからって何かがどうこうなる話でもない。
きっと心配してくれただけだし、誰だって怪我人を見掛けたら注目するものだろう。
ずっと素知らぬ様子で流していたくせして、どうして今になって器用に避けるのをやめちゃうの。
ちょっとわかりにくいけど雅治なりに情熱を傾けるのはテニスだけと言っても過言ではなく、その他ほとんどについては興味が及ばぬ限り無関心。
幼馴染の性で感じ取る私が例外を信じてしまいたくなるくらい、平坦な声の裏側に苛立ちを滲ませたりするのやめて欲しい。
(最低)
人からの想いを上手くきちんと受け取れなかった、にもかかわらず雅治が『いつも通り』に躱さない事が嬉しくて、速まる一方の鼓動を抑えきれないでいる私がだ。
付き合い始めて以降、余裕なんてついぞ持てた事がない。
単なる幼馴染だった頃には目にもつかなかった様々を気にしてしまい、どんどん嫌な子になっていく。
だけど誰にも言えない。軽蔑されたくない。
誰かから想いを告げられても感情の一切が消えた眼差しで見遣るだけ、光を反射していても輝いてはいない硝子玉みたいな瞳が、いつまでも私の中に残っている。
知られたくない気持ちだらけで苦しかった。
そんな風によっぽど気を張っていなければばらばらになりそうな私を引き寄せ、強く握り込み、支えているのはたった一つ、確かなもの。
肌を滑る水の粒や傷が放つ熱も押し退け、深く息を吸う。

「私、雅治しか好きじゃないよ」

脈略も会話の流れも見て見ぬフリをした。
いやに響いた語尾を追うようにして、グラウンドの方からひと際華やかな喝采が沸く。
静寂のさ中を泳ぐ音はフィルターで丁寧にこしたみたいに透き通り、だけど麗らかな晴天が注ぐ日の目に包まれているからどことなくぼんやりもしていた。離れた場所を賑々しく盛り立てる空気は、最終走者がゴールテープを切った事が所以かもしれない。
ふと、またしても余所へ向いた意識が揺り戻される。
一拍後で猛烈な後悔が頭の天辺まで駆け上がった。言わなきゃ良かったと秒刻みで取り消しを願う。伝えてしまってからが一番恥ずかしい。
裸足の擦り傷だらけでやってる場合か。
というか体育祭を無視し過ぎだろう、一刻も早く手当てをして貰って応援席へ戻った方がいい。



瞬間の呼び掛けで呼吸が出来なくなる。
途方もない静けさを帯びた声だった。

「俺も好き。お前ん事が。他はどうでもええよ」

かっと羞恥の音が辺り一面へあからさまに鳴り響いたのかと危ぶむほど体全部に熱が発生して痛い。脈打つ血管という血管が急激に膨れ上がり、厚いまな板みたいな質量で内側から破裂させてやるとばかりに叩かれて、擦り傷を負った部位ばかりか頭から足のつま先までを包む皮膚が燃えるようだ。
耐えられない。いまだに染みる傷跡も忘れて掌をぎゅっと丸めた。
つい膝を抱えた体育座りの姿勢を取ってしまう。
これじゃあいつかの冬の再生だ。

「ハハ、照れとる」
「…………うるさいな」

だけど、心を溶かす気持ちと行き来する言葉や、以前は出来なかった分と今だからこそ言えないもどかしさ、お互いの心臓を通してわかるたくさんの事、色も形も在り処ももう同じじゃない。
座り込んでいても猫背の幼馴染は目元を淡くぼかしながら笑う。うっすら上がった口角に、高等部へ進学して初めて気付いた甘さを見た。

変わっていく。
多分、一緒にいればいるだけ、私も雅治も。

熱射を含み湿気た夏風と違い少し冷たく渇いた空気の流れが、コンクリートの細かい凸凹でみじん切りにされた薄皮に障る。
本格的に行動しないと完全にサボりだ、と隅に除けておいたスニーカーへ手を伸ばしたら、あと少しの所で横から素早く攫われた。
全く予想だにせぬ事態である、呆気にとられた私の視界に犯人の指先が映り込む。
太い手首には、体育祭でも鉄の掟を守り通さなくちゃいけないのだろうか、見慣れたリストバンドがはめられておりいかにも重たげだ。
利き手で私の歩くすべを奪った幼馴染が淡々とした仕草で事を進めていった。
膝を伸ばし、すぐに折る。
くるりと反転した背中が広い。
あの、靴返して。ていうか一緒に靴下も詰めちゃってるからほんとに困るんだけど。流石に素足のまま帰れないよ。
訴えのことごとくが出遅れたせいで、雅治の行動が示す解決法を言われずとも把握してしまった。
おぶされ。
無言で語る視線は、それなりに筋肉が乗った肩の向こうから私を射抜く。

「…えっ!? なんで、どういう事?」
「プピーナ。どーもこーもなか。こうすんのが一番手っ取り早い」
「そ、そうかもしれないけど……嫌だよ、恥ずかしいし」
「なんもないとこですっ転んだヤツのセリフとは思えんのう」
「……それは、確かに、こけた時点でもう既に恥ずかしかったけど!」
「ならさっさと諦めんしゃい」

特別おかしな事を求められていないのが困った。断る理由が見つからない。

「………でも雅治、嫌でしょ? 多分ていうか絶対すごく目立つよ」
「んー、好きこのんでやりたくはないが、仕方なかろ」

まさかの冷静な大人発言に目を剥く。
やりたくなければあれこれ代案やペテンを差し出し、上手く丸め込んで回避するのが幼馴染の常だと思っていたのに。
前進も後退も出来ずに迷っていたら、早く、と実に落ち着いた声音で促されたので、私は腹を括った。
確かに怪我をしたからといって行事の真っ最中、学校の外れでうだうだしている暇はない。
擦れて赤みがかった肌を庇いつつ、しゃがんでいる雅治の傍まで近付く。おんぶのされ方って一体どうすれば、戸惑いが生まれたもののおたつく手足を無理矢理急かして、待ってくれている両肩に触れた。
びくともしない。
う、と怖気づいた声を必死に引き戻し体ごと寄せていくも、私の体温の方が高いと確実に伝わってしまうほどくっついた所で悔いる。
やっぱりダメだ。
高校生にもなって同い年の異性におんぶされるのって、下手すると抱き締められるより数段気恥ずかしい。

「掴まったか」
「うん。ありがとう」

近いのに遠いような一音の響きが不思議だ、雅治の低い声が後ろ姿から聞こえて来るなんて初めてかもしれない、逆だったらあったかも、感慨に浸る間もなく一気にぐんと視点が高くなった。薄い青に染まった秋の空が雅治の身長分落ちて来たのかと錯覚してしまう。
突然立ち上がり伸びた背中にびっくりしていれば、膝裏の少し上辺りにあった硬くて分厚い掌が滑って下りていき、ほんの僅かに触れただけでも肉刺だらけなのがわかった。
雅治の体温は大概平均以下の数値をうろつく低空飛行だけど、ちゃんと生きている人の熱が灯ってあたたかい。
感触から察するに腰の周囲で右手首をもう片方で掴み組んで、空いた左手に私が脱いだスニーカーをぶら下げているのだろう。
がっつり握られているわけでも何でもない、まあされたとしても嫌悪感は抱かないと思うが、多少なりとも幼馴染の手にお尻が当たってしまっているのはどうにも居心地が悪かった。
スポーツ選手らしからぬ白さの首筋と、相当痛めつけたに違いない髪色の後頭部しか窺えないとはいえ、雅治は私をおんぶしていても平気そうだから尚の事。
などとあてどなく目先を宙に浮かせるが早いか、軽く背負い直されて視界ごと体が弾み、息つく間もなく歩き始められ驚くしかない。いつもと変わらぬ足取りは怪我人という荷物の存在を無きもの扱いしている。飄々としたイメージと裏腹に力持ちなのだ。
あえなく置き去りにされていく風景が、雅治に乗っかって眺めているせいだろうか、まるで違ったものに見える。
お父さんやお兄ちゃん、誰の背とも重ならない。
贅肉なんか一切ついていないし、硬い板が入っているみたいで、知っているのに知らない男の子だなぁなどと不思議な心地に陥ってしまう。
制服のブレザーを羽織った恰好を頭の中で浮かべては、本当の背中の広さを思い知る。
元から猫背の上にたらたら歩くから普段はあまり大きく感じられないのだ。
触れればすぐにわかる。
骨張っている所や意外なほどしっかりついた筋肉、出っ張った背骨の数と、肩甲骨の動き方。
近道と称してとんでもない悪路を突き進み、つかず離れずの距離で左右にぶれる、今と比べてうんと小さかった背を回顧せずにはいられない。
およそ女の子がするものと言えぬ遊びに耽っていた頃の私には考えつかない、思いも寄らぬ事だった。
過ごした時間のそれぞれが重なり、瑞々しい色や音を得て、穏やかな波のよう打ち寄せる。
始点すら曖昧な古くからの記憶に織り込まれた彩で胸を打たれる都度、どうしてか喉の奥が切なく締め付けられて仕方ない。
言葉だけじゃ追いつかない。時折私を振り回す気持ちに名前がつけられない。
好き。
口にしてしまえばたったの二文字の単語は、その短さに反して数え切れない種類に枝分かれしていくのだと、他の誰でもない雅治が教えてくれた。
けど当の本人は十中八九自覚しておらず気付いてもいないだろうから、今はまだ私だけの秘密だ。
種明かし、もしくはお披露目出来る日が来るかどうかは自分自身の問題なのは大前提として、雅治次第な部分もある為に何とも答えられないのが正直な所だった。

「…あのね、おんぶして貰ってる身ですごく申し訳ないんだけど……いい?」
「なんじゃ」
「グラウンドまでじゃなくていーよ。近くまで行ったら、その辺で下ろして」
「わかっちょる。茶化されて面倒なんは俺もじゃき」

別に、からかわれたら面倒、が第一の理由ではないのだけれど、いちいち訂正するほどでもない、ひとまずうんと頷いておく。
相変わらず人の気配はなかった。
健闘を讃える拍手と次の競技を案内するアナウンスはまだ遠い。
すっかり乾き切った肌に差す痛みの度合いが収まって来た、独りごちる私の頭上を小鳥のさやかな囀りが渡り過ぎていき、のどかな秋景色に和まされてしまう。
微かに顎を逸らしながら羽ばたく音を追い掛ける途中、不意に高く澄んだ空の流れる速度が落ちた。首の角度を元に戻せば、目的地へ続く道筋を外れている気がする。
はたと気付き直感を舌に乗せた。

「……ちょっと雅治、もしかして私をサボりの言い訳にしようとしてない?」
「もう気付きよったか…ま、ええ。ちゃあんとおぶって運んでやるき、ちっとばかし見逃せ」

こちらを振り仰ぎもせず言ってのけた声には否定のひも字もない。
誤魔化すつもりゼロだ、取り繕う素振りすらない、というか普通は堂々宣言しないだろう。
開いた口が塞がらない、の手本じみた感情を味わわされ、二秒ほど黙る以外の選択肢を奪われた。
とはいえ悪事の口実にされて大人しくしているわけにもいかず、抗議の意を籠め誰にも捕まらないはずだった銀のしっぽを摘んで引っ張ったら、おい、ガキみたいな真似しなさんな、気ィ取られた俺がおまんを落とすかもしれんぞ、お世辞にも上品といった表現の叶わぬ、詐欺師の異名に相応しい低く揺れる笑い声でいなされたので、益々放っておけない。

これは長期戦になる。
一層の覚悟を決めた私は凭れ掛かるばかりだった体の真ん中を奮い立たせ、幼馴染の恋人がとてつもなくわかりにくい所に隠している優しさを、どうしたら素直に出してくれるようになるのか、どうすれば壊さずに触れられるのか、ゆっくり揺れる背中の上でごく真面目に考え始めたのだった。