ばん! 4限目の授業は体育館でバスケだった。 高等部に上がって校舎もクラスも真新しくなり、どことなく浮ついた雰囲気が落ち着くまでまだ時間が掛かるだろうという春の半ば、数少ない中等部の頃から同じクラスだった子と話しながら用具を片付けていたら、周囲の空気ごと揺らす破裂音が降ってきたのだ。 声も出なかった。 あまりにも近くで鳴ったせいで耳がばかになる。 あちこちで交わされていた雑談、試合の続きと称しコート内で半分遊んでいる男子達の声、床を滑るボールカゴやバスケットボールを投げて仕舞う音、館内を大いに賑わせていたあらゆるざわめきが一瞬で立ち消えてしまう。 鼓膜は重い響きに痺れ、体が凍りついたみたいに固まって動かせない。 特に右腕が重症で、とてもじゃないが抗えそうもない強さで縛られている。 何に。 真っ白になっていた意識が色を取り戻す。 誰かの手にだ。 加減なしに掴まれているのだと気がついたのは、離れた所からマジでごめん大丈夫だったかと慌てる声が届いた一秒後だった。 びっくりして縮まった肩より上、頭から丸ごと私を包む影が濃い。 「気をつけろ」 聞き覚えのあり過ぎる声なのに、切り捨てられた語尾や低くて温度のない響きには覚えがなかった。 冴えた音を叩き付けられたのは私じゃない。底冷えした切っ先は今立っている場所とまるきり逆の側、斜め横を突いていた。 肺と心臓を酸素が刺す。 ようやくほぐれた目で仰ぐと、嫌でも目立つ銀糸、次に喉仏。それから骨張った顎のラインに黒子と、順番に確認が叶った。 伸びた右腕の先、大きな手にはバスケットボールが収まっている。 さっきと別の意味で声帯が縛られた。 位置と角度の問題で見えないけれど明らかにたじろいだ様子の誰かに向かい、こちらをちらとも見ない人が投げた球体の軌跡は軽やかだ。擬音をつけるとしたら、ひょい、程度でしかない。 差し込む光をとろとろと反射する床へ吐き落とされた一言が冗談だったのではないかと疑うほど、言動と仕草が噛み合っていなかった。 体と同じくらい硬直していた空気がふと和らいで、目が合う。 室内に降る陽射しを増長させる白色に近い銀糸の奥、感情のにおいの削げた瞳孔が音もなく瞬き、眦は頬骨の上を鋭く流れていた。 細い筆で撫で掃いたような形をした下目縁は揺らがない。 睫毛の際が繊細で、まばたきする都度小さな光の粒を弾く。 口元の黒子が傍にいないとわからないくらい少しだけ撓み、薄い唇もまた同様だ。 彼はほんの僅かな間だけこちらを確かめるような素振りを見せ、かと思えばどういう判断かわからないが気が済んだらしく、視線の糸は跡形もなく消えてしまう。 ほどなく腕の拘束も解かれた。 途端に握り締められていた箇所がわっと熱を持ち、過敏になった神経は私のものではない親指から小指までの形や硬さを余す所なく辿り再生する。 まったく気配を消していた心臓が遅れに遅れて激しくわめき出してうるさいくらいだ。 今まで何度も触れた掌の温度が残る自分の二の腕辺りを無意識に左手で摩った時、耳の後ろや首裏の肌が細かく毛羽立っている事に思い至った。頬が熱い。 紡げなかった名前が喉でわだかまるその最中、 「ねえ今のすごかったよ! 見えてた? 仁王君かっこよかったー」 音量を抑えつつはしゃぐ友達のお陰で我に返る。 見慣れた猫背で少し前を歩く雅治が、私を引っ張り直撃間違いなしのボールから庇ってくれたのだ。 息まで詰まってうんともすんとも言えない。 血管がどくどくとがなるから、鼓膜や耳の奥が弱って役に立ってくれなかった。 ただ肌に当たるクラスメイトの声なき声が痛い。絶対に悪目立ちしている。 集まる好奇の視線に耐え切れず俯いた一瞬ののち、急浮上した懸念で指の爪先が動揺してしまう。 テニス。 もし手首を捻ってたら。 はっとして見遣れば体育の先生が雅治に何事かを話している。 かったるそうに軽く頷いた幼馴染は踵を返し入り口の方へと進み始め、無遠慮な眼差しの波を平気な顔で渡っていった。 今は高等部に進学したての新入生でも中等部ではめざましい活躍をしたテニスプレイヤーなのだ、念の為保健室へ行くように指示されたのかもしれない。 血の気が引いた。 どうしよう、怪我、私が話に夢中になってたせいで、今日だって部活があるはずなのに。 次々沸き起こって渦巻く良くない想像に暗い眩暈までしてくる。 、お前は大丈夫だったか。 いつまでも呆然と立ち尽くす様子が不穏に見えたのか、気遣う先生の声にも反応出来なかった。 ※ 公園やお花見スポットの桜が淡く色付く四月、通学路を吹き渡る風は温くてぼんやりしている。薄くて柔らかい膜に包まれているみたいだ。その気になればどこかで咲く花の香りまで嗅ぎ分けられるのではと勘違いしそうになる。 初めて袖を通す制服はデザインに大差があるわけでもないのに、新調したせいで心身ともに引き締まりちょっと緊張してしまう。 隣の家の同級生は入学式早々どころの話ではなく、中等部を卒業する以前から一足も二足も早く高等部のテニス部に参加していて、節目であろうとも登校時間は重ならず、淋しくはないけど本当に生活のサイクルが違うんだなあと再認識した。 こんな風にまとめてみると部活動に励む熱心な優等生みたいでおかしい。 あまりにもそれらしく見えないだけで、実際のところテニスに関しては真面目なのかもしれないけれど。 頑張ってるんだね、ちゃんとやってないんじゃないの、試しに脳内で両方をぶつけてみたが想像上の幼馴染はにこりともしないので、余計に笑いが込み上げる。 唇の端が持ち上がって緩み、いや陽気に唆された危ない人になりたくはない、自戒すると共に元通りの形を心掛けた。 どちらにせよ長い付き合いとなった彼は他人の評価に興味がないし、好き放題に噂されるのも多分愉快ではないのだろう。まともに取り合わず、勝手にしろと無視するイメージだ。 雅治って高等部でも、どこに行っても変わらないのかな。 思い描いて、瞬きの為に閉じた瞼をくるむ陽射しが温かい。 などと感慨に耽っていた私は入学式を終えた足で向かった教室内、整然と並んだ椅子に座る周囲から浮いた髪色を見つけて、ものすごく驚く羽目になった。 自然と疎遠になるほどクラスメイトにならぬまま過ごしてきたにもかかわらず、遠くても気の置けない幼馴染という関係が変化して初めて迎える季節になって、わかりやすい接点が出来るとは。果たしてタイミングが良いのか悪いのか、判断に迷ってしまう。 居た堪れないような気恥ずかしいような不思議な心地に陥り、雅治が顔色一つ変えないお陰でこっちが一方的に身の置き場を失ったみたいだ。 「教室入ってびっくりしちゃった」 「……普通入学式ん時の列で気づくじゃろ」 たまたま重なった帰り道で簡潔に交わしたのはいいが、環境に慣れるのに精一杯で熟考する暇もない。 でも見渡せばすぐの所にいつも雅治がいるのは照れるけど嬉しかった。 そっか、好きな人と同じクラスってこういう事、しみじみ浸ったりもした。 幼馴染として接した時間が長すぎて自覚が追いついてこないのだ。 関係が変わらないままであったのなら何も思う事はなく、あれ一緒の教室って何年振りだっけ、独り言を零しておしまい、すんなり通り過ぎていたに決まっている。 本当に不思議だった。 雅治はずっと雅治だし、私もずっと私で、突然中身が違う誰かに入れ替わったわけでもない、なのに胸に沸く感情は初めてのものばかり、目に映る景色さえ違う。 まるで知らない男の子を前にしているならまだしも、相手は他ならぬ幼馴染の雅治だ。 。 家族以外で私を名前で呼ぶ異性はもう一人しかいない。 並び歩いて、雅治また少しだけ背が伸びたのかな、見上げては取り留めもなくなった。ひととき途絶え、けれど今でも続く時間に胸が震える。 春の柔らかい空気はもしや頭の中にまで影響を及ぼすのか、いくらなんでも緩みすぎだ、ネジの外れかけていた思考回路を慌てて戻そうとしたところ、二度目の驚愕が私を襲う。 進学して一週間ほど経ちクラスメイトの名前と顔が一致し始めた頃、少しでも早く馴染む為になるべくクラス全員と接するように、の一声で担任教諭が席替えを強行し、ようやく慣れて来ていた席から離れなければならなくなった。 ちょっと横暴な気がしなくもない。 先生はよかれと思ってやっているのだろうが、いまいちずれている。 ぼやきはしても口に出せる親しげな空気はまだ出来ておらず、大人しく従った結果、私の一つ前の席には例の人目を引く色味の髪。 誰かというか、神さま的な何かがわざと引き合わせているんじゃないかと天を仰ぎそうになった。 これは流石に気まずい。 嫌じゃないけど、どういう表情を作ればいいのかわからない。 現実を受け入れる方法が見当たらず戸惑い、それでもなんとか平静を装って席の引っ越しを済ませた私に比べ、雅治はやっぱりいつも通りだった。 鉄仮面とまでいかないにしろ、フェイスパック並に薄い仮面を被っているに違いない。でなくば本当にどうという事でもないと受け流しているのだ。 宇宙人、の一言が脳裏に浮かぶ。 去年の秋頃よりは考えが多少理解出来ていると思うが、依然として全容は掴めない。 むしろわかる日なんて来ないのでは。 幼馴染だったはずの私との関係も秘密にしておきたいのかバレても構わないのか、一体どちらなのか推し量れなかった。 そもそも雅治は自分の事を進んで話すタイプじゃないし、などと人知れず唸りながら前の席を眺める。 頬杖をつく時の、背中の角度。 四角い肩の硬さを私は知っている。 窓側から差す光に照らされたブレザーの縫い目や、下ろし立てだからぴんと張っている襟と、掛かる緩く結ばれた毛先の痛みよう、普段は見詰める機会がない細部を触れない内に確かめた。 かろうじて教科書だけは開いているけど、授業の方はおそらくきちんと聞いていない。 配られたプリントを後ろの私へ回すのは利き手の左だ。 決して短くはない時間を過ごしてきたのに、中途半端に捻られた体の形は目にした覚えがなく珍しい。 ごく薄い白紙を受け取った時、袖口から一瞬だけ覗くパワーリストの黒に気を取られた。 一拍呼吸を取り止めた私を置き去りにして戻った姿勢は、人よりいくらか曲がっている。 見るな。穴があく。 いつか投げられた声音が蘇ったけれど、高校生になった雅治は何も言わなかった。 SHR特有の騒がしさの中で机に肘をついた私は両手で頬を支えつつ、背もたれに寄りかかって黒板と向き合う人の行儀の悪さを見詰める。 きっと先生の話なんて聞いたフリで流し、別の事でも考えているのだろう。 左のくるぶしを右足に乗っけた恰好は頑張ってフォローしようとしても、柄が悪いとしか言えなかった。というか新入生が取る態度じゃない。 何故お叱りを受けないのか。 秀でたテニスプレイヤーの特権か。 実際すごいのは本当だから優遇したっていいけど、公私共に真面目に暮らす生徒もせめて褒めてあげて欲しい。 世の不公平を嘆く私の耳に終業のチャイムが飛び込んで来、室内が解放感に溢れ明るくなる。 微かに背を伸ばして、たらたらと部活へ向かう準備をしているらしい後ろ姿を見遣った。 こうも態度が悪いのに校舎の周りを走り込んで、またある日は筋トレに励み、下手すると自主練までしながら何年間もテニスに打ち込んでいるとは100%、絶対に、雅治を知らない人は信じないだろう。同じ学舎の生徒だって怪しい。噂には聞いていたが本当にテニス部だったとは、と慄く所が容易に想像出来た。 クラスメイトの近さで初めて感じる様々に意識を寄せていると、さっきまでの気怠い雰囲気は何処へやら、猫背が素早く立ち上がる。 覇気がないくせして動作だけは俊敏で、どうしてか圧倒されてしまい喉元や肩先の裏が妙な固まり方をしてしまう。 肩に鞄を引っ掛け椅子の横へ移動した幼馴染がふと、そうして留まる私を見下ろした。 小さな頃に幾度か出会った不思議そうな目がなんだと囁いている気がして、ほとんど反射的に首を振るう。 「な…なんでも……」 ようやっと返せば、そうか、言わんばかりの素っ気無い目線を置いて行ってしまった。 喧噪のさ中を突っ切って、振り返らずに教室から出ていく。 (……変なの) 変わらず宇宙人な部分があるのに、尋ねられた事はなんとなくわかった。 声のない会話がふわふわとした緊張感を招き、ゆっくり上がる心拍数に溜め息が出る。 落ち着かない。 あとどれくらいこの席で過ごすのかは先生次第だけれど、これから私自身耐えられるのかどうか不安になった。 ※ 申し訳ないと思いつつ、足首を捻ったかもしれないから保健室へ行きます、といかにもな理由をつけて授業終わりの総括を免除して貰う。 一緒に行こうか、友達の優しい気遣いを丁重に断って、重くて冷たい鉄製の扉を抜けるや否や駆け出した。 今この時に限り不気味にそびえて見える5号館と体育館の間を進んでいく。 チャイムが鳴る前の敷地内は静まり返っていて、足音に気をつけなければ騒々しいと注意されてしまうだろう。わかっていてもすごく焦った。 少しの間とはいえ嘘をついて授業をサボるなんて初めてだ。悪い事をしている。でもじっとしていられない。 重なってさざめく得体の知れぬ胸騒ぎが靴の裏を滑らせる。 校舎の壁や煉瓦道、傍の花壇に降る春の陽射しは麗らかだ。 緩く漂う風の内には少しの冷たさが残っているが、暖かな陽のお陰で薄着でも寒くない。 教室で授業を受けていたらまず間違いなく眠気に打ち負かされただろう。一面に広がる光の帯が眩しかった。 裏腹に首元は締め上げられて、呼吸が危うくなり、酸素不足に陥った脳が白ばむ。 不吉な予感がすぐ後ろから迫ってきているようで心臓がもがいていた。 今になって右腕が痛い。 日頃から優しいとは言い切れない、ちょっと乱暴に引き寄せられた日もあるし、女の子に比べたらどうしたって力はある。 だけどあんなに強く掴まれた事はなかった。 いわば衝突事故を避ける為、瞬時に手を出されたのだ。 雅治が取った咄嗟の行動に胸が詰まり、いつも手加減されていたと思い知って苦しい。 宇宙人なんかじゃないのに宇宙人呼ばわりしてごめんなさい、本人に伝えた所でなんの話じゃと返されるだけの謝罪を繰り返す。ない交ぜになった感情が反響し続けてきりがなかった。 保健室、保健室、夢中で唱えながら人気のない中庭を横切り、吹き抜け廊下が視界に割り込んで来た直後、細長く伸びたほのかな影のさ中で浮いている髪色に舌の根を鷲掴みにされる。 「ま…っさ、はる!」 配慮も忘れて叫び掛けた所を目一杯抑え潜め、勢い余って転びそうになりながら駆け寄ると、同い年の幼馴染が軽く目を見開いた。 「だ、大丈夫だった!?」 ろくに息もつかずに問い質す。 1号館と2号館を繋ぐ廊下が作り出す日陰に立つ私達を避けるよう、空の天辺から落ちて来る陽光がひたすら明るかった。 微かに細められた雅治の目元は印象的なのに、どうしてか怖くない。 「何が」 「なに、なにがって、怪我…保健室」 「ああ、行っちょらん」 息せき切って投げ掛けた心配をばっさり裂かれて、喉元どころか顔全体がひくついた。 「なんで!?」 「、声がデカい。うるさいのに見つかったら敵わんぜよ」 「あ、ご、ごめん……。でも、先生に保健室行けって言われたんじゃないの…さっき」 「言っとったな」 「じゃあ行かないと、もうすぐお昼休みだし、保健の先生お昼食べに行っちゃうかも」 「いい。なんもなか」 平然と打ち返されて絶句する。 大丈夫の基準はどこ、体育の先生だって心配したから保健室へ行けって言ったんじゃないの、本当に何もないならその場で断ればいい、雅治だって念の為を考えて授業抜けてったんでしょ。 脳内をぐるぐる回る一方で、声の形を作れない。 ひとまず引き攣れた喉を湿らせなければ。 唾を飲み込んで、唇にゆっくり力を籠める。 「……じゃあ…なんでさっき、先生の言う事聞いて…」 言い終わらぬ内に続きを失った。 雅治の左手首の辺りにビニール袋が引っ掛かっていて、はっきりとは窺えなかったものの察するに本日の昼食。 つまり先生の配慮を良い事に休み時間は恐ろしく混み合う購買へ赴き、大勢の生徒を出し抜いて一足先にお昼を始めるつもりだったのだ。 「………サボりじゃん!」 私の比ではない、詐欺師と呼ばれて当然の紛う事なき嘘つきである。 何よりあの状況でこの始末とは質が悪すぎるだろう。 「ヒドい言い掛かりやのう。サボるっちゅうのは、授業まるごと出ん事を言うんじゃ。俺真面目にバスケしとったろ」 全身が脱力して倒れそうだった。というかいっそ倒れたい。貧血を起こした時みたいにくらくらする。 息の塊が気管の底で一気に膨れ上がり、一秒も経たずして爆発した。 「ばか! 心配したのに! ほんとにどうしようって思って…私……。お願いだからああいう時普通に手を出したりしないで」 「んじゃあのまんま顔面直撃して良かったんかの」 「雅治が怪我してテニス出来なくなるよりましだよ!」 「加減なしに投げられたボールがどんなもんかわかっとらんな、。甘いぜよ。まともに当たったら鼻血出るぞ」 「…………それはやだ」 「そしたらそがいに騒がんでもええじゃろ」 「や…っだけど嫌じゃない! ……から、死にそうなくらい危ない時以外、放っといていい……」 「……おまん、何言っとう」 幼馴染の呆れ顔にまったく納得がいかない。呆れたいのはこっちだ。 大丈夫なら大丈夫だとあの場で言って欲しかったし、早めに買い物を済ませたかったのだとしても別の方法を取って下さいと心底思う。 しかめっ面に近い表情を乗せた雅治が、よう見てみんしゃい、ボール受けたんは利き手と逆やき、乱雑にポケットへ突っ込まれていた右手を差し出してくる。 乞われるまま覗くと、相当の衝撃だったのかなかなか真っ赤に染め上げられおり、親指の付け根の下、やんわり盛り上がった部分などほんの少しといえども内出血を起こしているようで、頬や唇、上半身の心臓辺りまでが強張った。 大事には至っていない証拠にと見せてくれたのだろうが、逆効果だ。 強豪テニス部に所属し、厳しい練習や試合、過酷なトレーニング等々に耐え続け、擦り傷打撲程度の負傷なら経験済みとなった結果、痛みの認定基準が一般生徒と比べおかしくなっているに違いない。 今は平気でもボールを弾いた瞬間は無痛とはいかなかったはず、想像してしまって眉が情けなく下がっていく。 「………本当に大丈夫?」 「大丈夫じゃないように見えるんか」 「見えない…けど、でも……嘘ついてない?」 「あのな……ついてどーする」 「手首とか足首捻ったりは」 「しちょらん」 手首から先をぷらぷら揺らす雅治の両目には、呆れを通り越した諦めに似た色が宿っていた。 庇って貰った私にむっとする権利はないとわかっていても、じゃあ心配させないでよ、詰りたくなっていつの間にか渇いていた唇を結ぶ。 仕舞い切れなかった感情の余波が眉間へ及び、堪えられず睨めば、そう膨れっ面しなさんな、先ほどと違いちょっと面白がっている響きが鼓膜を爪弾くので益々後に引けない。 誰のせいだとお思いで、とこうなったら力一杯叩き付けてやろうか、口を開く瞬間阻まれてしまう。 私に向かって仰のいていた右手が翻り、指先を伸ばされる。 (え?) たった一言紡ぐ間もなく、べしっとおでこを叩かれた。 一連の動作は目が追う速度より格段に早い。 反射神経が閉じさせた瞼の裏で低い笑い声を聞く。 触れる指や掌はひんやりしていて、纏わり付いていた腫れぼったい薄赤に相応しくない温度だ。 もしかしたら雅治が言う通り平気だったのかも、考えを改め、しかし遠慮なしにぐいと押されて省みている場合ではなくなった。無理矢理反らされた喉が苦しくて、前髪の中に滑り込んで来る骨張った指に撫で付けられ、う、と微かな唸り声が零れる寸前、雅治によってしっかり固定されていた視界が激しく左右に乱れ出す。 髪の毛ごと頭をぐしゃぐしゃに掻き回されているのだ。しかも、下手すると犬に対するそれより雑なのではと思わせるほど手荒かった。 目での確認が叶わぬ部分を掴まれているせいで、無体を働く掌を捕まえる事が出来ない。 「ちょ…っと、やめ、……っ雅治!」 「ほれ問題なかろ」 抵抗らしい抵抗を打ち出すと同時、最後のおまけのつもりかは知れぬが指の腹でひと押しされ、実にあっさり離される。背筋が戻る反動で若干つんのめった。 体勢を整えた時にはもう犯人は一歩後ろに下がっていて、バスケットボールや私の頭を楽々掴む掌もポケットに潜っており、日なたがあって初めて生まれる影に混じる瞳が静かに息づく。 やけに凪いだ奥底の透明な光のせいで、きっと酷い有様になっているであろう髪を押さえ手櫛で梳かすくらいの事はしておきたかったのに、最初の一手で止まってしまった。 付き合い出してからというもの、雅治は時々こんな風に私を見るのだ。 とことん目付きが悪いくせして不意に緩める。 睨むよう細めるから機嫌を損ねる何かがあったのかと思えば違うらしい。 普段は尖った目尻が滲んで淡くぼやけて、怖いくらい透き通る眼差しに二の句を奪われてしまう。 とても見詰めてなんかいられない、大抵私が先に逸らし、その度に悪役じみた笑い方でからかわれた。 日々をどうやって過ごしたら、こうも人の悪い笑みを浮かべるようになれるのか。 上下する喉仏を目に当てても答えは出て来ず、恨めしさが募るばかりだ。 「打ち所が悪くて死ぬのもぶつけてほんに膨れっ面んなるのもどっちもなしじゃ。…困る。お前も、俺もな。そんでおあいこじゃろ。わかったか、わかったら周り見て歩け」 気ィつけんしゃい。 意外なほど真摯な声だった。 過去をだぶらせていた私がはっとして手を離すのと同じタイミングで低体温の顕れが額の辺りを掠めてく。 優しく撫でられたのでも、髪を丁寧に梳かれたのでもない。 大きな手がぽんと乗せられた、なんて甘い展開などあるはずもなく、大分雑に頭の天辺が払われただけ。 あまりにも軽い仕草に特別な意味があるとは露ほども思わない。 去年までの私だったら、そうして思考の隅に追いやっていただろう。 鼓動が跳ねた。 つかえた息が熱を帯びて膨れ上がり、狭苦しい器官をどうにか通り抜けようと暴れ回っている。 おかしい。 泡を食って心配していたのは私だったはずなのに、今や完全に逆転してしまっているじゃないか。 突然、小学生の時に負かされ続けたオセロが脳裏をよぎった。些細な切っ掛けで裏返る白と黒。勝ったと浮かれた途端、突き崩されて惨敗する。 いつの間にやら私を置いて歩き始めた雅治の、子供の頃に比べてずっと立派になった肩をうらうらとした春の灯りが包む。 冷たい冬を忘れさせる季節だろうが耳をつんざく蝉の声にぐったりする夏だろうが関係なしに、背筋を曲げて進む幼馴染がどんどん遠ざかっていく。 まどろむ風に背を押され一歩踏み出したら終業を知らせるチャイムが鳴り響き、学校中を支配していた静寂が塗り替えられた。 方々のざわめきが空気に伝染し、大事な人に何一つ伝えていない事に気づいた私は迷わず走り出す。 盤上で勝者を讃える黒白とあらゆる勝負事に強かった幼馴染の実力は衰えていないかもしれない、でも負けたって構わない。 なんならボード丸ごと引っくり返そう、掟破りの計画を一瞬本気で企てた。 毎日は流れて、季節も変わらず巡るけど、同じ春はやって来ないから。 単なる幼馴染じゃなくなった私達が迎えた、においさえ綻ぶ一年目の春を、ありきたりな言葉で始めるのもらしくていいと思うのだ。 私も雅治が死んじゃったら困るし、死ななくても怪我したら困る。 だから引き分けにしよう。 ごめんね。言われた通りに気をつけるから、嘘つくのもうナシだよ。 ――心配してくれて、庇ってくれて、ありがとう、雅治。 |