色は匂へどまほろばの君




昔から追われるのは仁王の方だった。
が待って、とも、どこへ行くの、とも聞かずに、ひたすら追うてくるものだから、ろくに目を配りもしなかった。
わずか確認した記憶を探れば、時折気まぐれに振り向いた時の、真正面から見た顔が浮かぶ。少し俯きがちな額。何か用かと尋ねてくる瞳。ぐだぐだと文句を連ねない唇が、引き絞られた形からやんわり緩んだ。
実際、気楽に感じていたのは確かである。
は背後ろからついてくる、気が向いたらそちらを見遣れば良い。
仁王が確かめようとする時、大抵彼女はそこにいて、何事もない表情で黙々と歩いていた。
歩幅を合わせる必要などない。
機嫌取りに無駄口を叩く理由もない。
が己の背を目印として雛鳥のように足跡をなぞってくるのは、最早自明の理だ。
仁王はただ好きに歩けば良かった。あてどなく、訳もなく。

ふらふらと巡り、目指すものが見つかれば駆け、草の道へも踏み入った。
わざわざついてきた物好きな幼馴染は猫の散歩と喩え、笑いもせず怒りもせずに斜め後ろあたりで服に乗っかった葉を蹴散らしている。なるほど一理ある。仁王が平坦な事実として受け取って、のんびりとした欠伸で応じた。


それが一体、いつから見つめるばかりになったのだろうか。
あの日ほど幼さの残らぬはすぐ後ろにいる少女ではなくなっている。
仁王も仁王で、子供じみた無意味な遊びなど繰り返さない。
見慣れていたはずの顔を探すのに苦心していると気づいた瞬間の、圧倒される驚愕。
一日とて飽かずに眼差しがさ迷った。
会わなければ、余計な領分にまで思考を奪われ気が滅入る。
ようやく視界に吸いついてきたと小さな歓喜を迎え、しかし大概は後ろ姿だった為落胆を隠せない。
幸と不幸を幾度となく味わったおかげか、仁王は己を呼ばう声に加えて、の背の形もしっかり覚えてしまった。目の端にひょいと入り込んだだけでも、すぐさま判別できるだろう。
丸みを帯びた肩と、筋の通っていない二の腕。
頼りない首、付け根、制服の下で蠢く肩甲骨の位置。
並ぶ背骨の箇所。
引っ手繰って掴んだら、いとも簡単にくず折れてしまいそうだ。
彼女の内に潜む、幼馴染ならざる己が見出した女を知ってからは、より一層際立った。
まぼろしのように煙っては溶け、夢の胎で揺れて、淡く仁王を呼ぶ。
寒さが募れば募るだけ、朝の訪れはひどく億劫なものとなっていき、幼馴染の仮面を被り演じれば演じる分、生じた軋轢によって体がわめいた。
一度こうなると非常に具合が悪いと、仁王は随分前から知っている。
自ら探しておきながら視界に受け入れると、胸の嫌な部分がどんより濁った。
目でも合ってしまえば尚のこと良くない。悪魔を騙したとしても笑んでいるであろうものを、この幼馴染が相手となれば押し黙り、罪悪に侵されるほかなかった。
だから彼はいつも、振り向けと乞う傍からやはり見るなと拒んでいる。
の瞳とかち合う時には、平静を装って騙し続けている。
視線の熱に気づいている幼馴染たる少女も、その行く先と含まれた意味まで悟ることができない。


追い追われ、追っても追われず、追おうとしたが縋れない。
すれ違う日々を重ねていく間に、根をあげたのはどちらかといえば不向きであり、また慣れてもいないだった。
こぼれ落ちた変化の発露を掬おうとせず、だけれど捨て置いたままでいられなかった仁王は、皮肉にもあの背中に目を焼かれたのだ。


間の空かない、翌朝だった。
既に引退した身だが代表合宿を控えていてはラケットを握らないでいるわけにもいかない、どこぞのクソがつくほどお堅い元副部長が言い出した朝練に顔を出した帰り、昇降口を目指して歩くを目にして足が止まる。
規則正しく揺れている肩と、昨日仄暗い廊下の上を進んでいったそれとが重なってしばし瞬きが途絶え、にわかに潤いの失われる眼球の裏でちかちかと不連続な情景がゆらめく。
シャツの白色。
伸びる脚。
うずくまるようにしてしゃがみ、唇を震わせ、詰まらせていた。
それらすべてが己の為だと知った、あの高揚。
恐ろしい奔流に、情けなくも腰が引けた薄い午後。
上手く隠す質と言い難いの甘い拒絶は、やわく成り果てた仁王を押し潰してわからなくさせる。
幼馴染と、そうではない顔の境が煮え混ざり、最早区別することができない。つい昨日まで避け続けてきたはずの幕引きを、皮膚と肉の下で流れる血までもが欲している。
数え切れぬほど口にした名が、喉元で渦巻いたきり上がってこないのは、どのような声色になるかわかったものではないからだ。ある程度の予想はしたがあまり良い気分にはなれない。
ふと変異が滲む。
この期に及んでひた隠してしまう仁王の視界で、重なっていた背に歪みが生じたのだった。
息を呑んだ。
小さく揺れる手の甲は見覚えがなく、当然誰かに向けて振っているものだろうが、位置からしてこちらに対してではない。
相手がいる、と気づけばの向かう先、昇降口前に立つ影がある。
それなりに視力も良く、勘の方はもっと鋭い仁王は瞬間的に悟った。
男。
同い年。
よく話しているのを見かけた。幼馴染のクラスメイト。
確証などない、ほとんど感覚で判ずる。

――持っていかれた。

一瞬後、腹が赤々と染まり沸く。
たかだか数秒だろうが何だろうが許せそうにない。
の意識が他の男へ向けられた事実によって、激しい憤りが呼び起されたのを、しかし冷静に受諾する。
生白い太腿と縒れた制服。
時期を顧みず薄着だから肌は凍えそうに寒々しく、同時にやわらかな温もりも放っている。
紅潮した頬。苦悶に乱れた眉。掠れる言葉に繋がる唇が浅くわななく。
縮こまり、むき出しの素足を覆いたいのだろうが、細腕が二本あったところでほぼ無意味だ、叶わない。
全身で呻き、ともすれば涙のこぼれそうな羞恥。
可哀相で可愛い幼馴染。
彼女は舌のもつれすら繕えず言ったのだ。
恥ずかしい。雅治の前では。
仁王が誰とどうしていようが平然と構え、行動を起こされぬ限り幼馴染という枠の内に大人しく収まっていたが、弱々しくも、たしかにその声で。
だからあれは――俺のものだ。
よそにくれてやる分なんぞ、ひとつもない。
独善的に決めてかかると、後はただ従うだけで良かった。感情の暴挙は止まらない。
常と変わらず歩み、静まり返るでもなく荒いわけでもない呼吸を繰り返して、そ知らぬ顔でを追う。
いつぞやとまるで逆だと気づかなかったのは、近くなる背にまぼろしを見ていたからだ。
焼け爛れ、肩の傍まで恋情が侵食している手を、平然と伸ばした。
一切の躊躇いも、戒めもプライドも、何もかも掴んでいない掌だった。
名を口にする。
どんな風に聞こえているかなどもう知ったことではない。
後ろ姿のが震え、こちらを振り仰ごうとした手前で、触れた。
夢では背筋の窪みを辿りすべらせていたから、そこだけは違っていたけれど、髪の梳き方はまるきり同じ形をとった。
仰向けにした指の腹に艶めく糸のような髪を通し、甲の部分で地肌を掠め撫でる。
冬日にさらされ冷え切ったのそれが唯一、夢幻と現実を分かつ証拠だ、底まで下がった温度に爪先が痺れていく。
頼りない陽光を帯びるひと房をゆったりと掬いあげ、マフラーと生え際の間からかすかに垣間見えるうなじへと視線を預ける。優しくいざなう隙だった。
その甘そうなところを噛みたい。
無防備に柔らかく映る所為か、仁王は暗い熱が籠もっていくのを自覚する。
跡をつけたい。
邪魔なものはすべて取り払ってもっと触れたかった。
そして、深くゆらめく声で呼ばれたいのだ。
雅治。
が仁王のよく知るのままならば、見ないでと懇願するだろう。或いはやめてと抗うかもしれない。どちらでも構わない。どちらにしろ仁王がとる行動に変わりはなかった。
あらゆる衝動を殺しながら梳いていき、はらはらと元通り散る様にどこか失望を覚えている自分は救いようもなく滑稽だ。
夢は所詮夢でしかない。
しかしだからこそ、手を緩めずに主張ができる。
最後の最後まで掌に絡んでいた毛先が落ちる寸前、に悟られぬ程度に顔を伏せ、殊更ゆっくり指で撫ぜつつ、ほんの少し鼻先を寄せてみせた。遠くからだと髪に口づけているようにしか映らないだろう。
ほのかに甘い香りがする。
冷たい空気が鼻腔を刺す。
睫毛の浮いた目端で見遣り、玄関口の扉前、硬直したように立ち尽くす男の影を認めた時の、得も言われぬ昂ぶりを何と表現するべきか。
あーあ……いい気味じゃの。
胸中に沸き上がったひと声が我知らず唇を歪ませる。明確な愉悦の笑みだった。
身を震わせた高揚と似てはいるけれどまるで違う、深い呼気で堪えたいのに我慢がきかない、大して面白くもないというに楽しそうだと評されかねない、異様な興奮に腹を混ぜ返されている。
だが不思議と気分は悪くなく、とうとう頭の螺子が飛んだかと仁王は思った。
振り返ろうとしない、できないが半端に腕をあげたので、わずかに残っていた髪を落とす。
今度ばかりは裏を作らずただ唱えた。
――こっち向け。
聞こえているはずもないだろうに、声なき声を感じ取った様子の小さな肩がひくつく。

「どっから乗っけてきたんじゃ。枯れ葉がついとうよ」

一切内面を伴わぬ台詞を舌に乗せ、尤もらしい理由を付け足し手を払う。
はたして思惑通り捻られた細首に満たされ、余所事へ散らばっていた意識が集約すると、どういうわけかとても嗜虐的な気持ちになった。胸の端がほくそ笑む。
動揺と覚えのない色が滲んだ瞳で、は仁王を見つめている。
湿る喉は疎ましい。押し殺していたものが溜息に混ざりそうだ。

「あ、ありがとう……」

白い息を吐く唇の奥でぽっかりと暗い穴があいている。
中には濡れる舌があって、小作りな歯が並び、柔い頬肉はやがて咽喉に通じているはずだ。どのように蠢くかなど知るわけがない。
だけれど無性に思い出す。まぼろしの感触。匂い立つ憧憬。
なぞった途端に背が張った。
腰元から首筋へと抜けていく奇妙なゆらぎは数瞬、脳内に空白を生み出してしまう。
何も考えられない。
情動の渦すら消える。
いつまでも閉じぬ洞に吸い寄せられ、同時にこぼれたかすかな苛立ちが体内を蝕んだ。

「……隙だらけじゃな」

腹の中とは裏腹に、表に転がる声だけが上澄みの美しい音色を奏で、丸くひらかれた幼馴染の瞳へ落ちていく。
自らが発しているのに間違いないが、ひとつとして思い通りに動く器官がないと感じるのは気の所為なのか、事実なのか。
代わりのきかぬ唇から寄越された言葉さえ聞き取れなかった、仁王にはわからない。

「お前さんはすかすかしちょる」

大事にしたいのか、投げ出したいのか、泣かせたいのか、優しくしたいのか。
いっそ無惨に傷をつけたい、だがそんな真似をすれば死ぬほど悔いるだろうと思う。
所有を誇示して面倒な感情から逃れたいと願うさ中、いつか飽いてしまうかもしれないから恐ろしい。
想いが根深くなっていくにつれ、億劫になる。
顕にしたくて、隠し通したかった。
持て余すことが苦痛なのか安寧の在り処なのか判断がつかない。
終わりにしたい。
終わらせたくない。
最早をどうしたいのかも曖昧だった。
唯一確かと言えるのは、何でもいいから繋ぎ留めておきたい。それだけだ。
視線の行方も奪うような凶暴極まりない内心と程遠く、慈しみ澄んでいる声がさも正しい行いだと言わんばかりに執着を訴えている。
正しいことなどあるものか、と仁王はどこかで否定をし、直後にの唇が弾かれ震え、喉が締めつけられた。
やめろ。
そうやって俺に応えるな。
膨れ上がる熟した拒絶は取り付く島もなく激しい。
元より崩れていた境界が、の隙に煽られなぶられ溶け落ちていく。ぐらぐらと煮え、底の底までない交ぜになった。
もう戻れはしまい。
反射的に悟ったが、今尚直視を避けたい仁王はその左手で視界からを取り除き、鈍い両足で歩み始める。
細い息の切れる音がした。
力の籠もらぬ腕で別れを告げると、当然昇降口が近くなって、人気の失せた静寂は仁王を出迎えた。
凍えた空気が清々しく気管を抜けていく。
枯れ葉も忌々しい男の姿も、初めから存在していなかったかのよう失せているから、児戯めいた優越に目の前が眩む。
すっとしたのだ。
どうしようもない笑みが胸をつくのを止められない。漏れた溜息は嘆きに近いがその実心から歓喜しており、酔い痴れるほどの安息と充足、歪んだ悦楽をもたらした。
(好いとう)
そうして彼は遂にこぼした。
胸の内ですら一度たりとも形にしなかったものを、はっきりと、明朗な言葉で以って、生々しい感情を吹き込んだ。
好き。が好きだ。自分ではどうすることもできない。他はどうでもいい。どうなったって構わない。夢と同じに抱き籠めて、泣こうがわめこうが知らぬ振りをし、すべて塗りつぶしてしまいたい。狂おしい切望ごと、ただただ欲している。
一歩進んでは踏み入っていく境地に帰る道はなかった。

だからあれは必然だ。
向こうから断ち切られぬ限り、どの道同じ結末を迎えていただろう。遅いか早いか、その程度の差でしかない。
いつからか子供でなくなったは、子供のように素直だった。
わかりやすく仁王を意識し、気の抜けた行動で近かった距離を示しては煽り、指先ひとつ触れただけであからさまにうろたえる。
キスには慣れていない。
泣きそうな顔をしているくせに堪え、かと思いきやすぐさま溢れて責め叫ぶ。
口にする前から好きだと伝えてきた。抱けば返してくる。失せない恐れを消し飛ばす勢いで、喜びを与えようとする。
唇の裾に滲んだ微笑は無上のひと時に負けた証でもあった。
多くの時を共にした幼馴染だけれど、仁王とは全く異なる人種なのだ。
その彼女が自分を好きだと囁く。幼馴染でよかったと言う。
喜ばしいはずなのに、ひどく辛く耐え難い。
幸福と謳うには穏やかさが足りていない。
だが間の抜けた声色に気が緩み、つられて笑ってしまうから、本当にこの幼馴染が恐ろしかった。
救いと破滅を秘めておきながら腕に収まる淡い体温が恋しく、手中にあっても尚現実感のない、夢に見た法悦を噛みしめ、仁王はしばし瞑目していた。







大層な熱を出したが登校したのは、四日目のことだった。
結局、あれきり見舞いに行かなかった仁王は、詳しい回復の経緯を知らない。
日に一度、まだ熱が下がらないだの下がってきただの、連絡が入ってきたくらいで、ろくろく会話もしてないのだ。
責めるつもりなど毛頭ない。
しかしタイミングが悪かったのはその通りだと言わざるを得ない。
ゆっくり確かめる暇もなくては鎮まるものも鎮まらず、本来なら気が済むはずでもそうはいかなかった。
一切興味を持たずにいたがに教えられて仕方なしに名を覚えてしまったあの松井とかいう男はなかなかしぶとく、仁王の行為を目の当たりにしてもめげていない様子で、級友が休むや否や周囲の友人、果ては仁王にまで状況を尋ねてくるのだから全く神経が太い。怒りを覚えるどころか馬鹿馬鹿しくなった。
無論答えてやるつもりなどさらさらない仁王は適当にあしらったので、どこまで把握しているのか定かではないが、とりあえず風邪だという情報だけ入手したのだろう。二度は話しかけてこなかった。
初日は良い。ほとんど初対面にも関わらず遠慮がない男の面の皮の厚さに虚脱していれば終わったからだ。
だけれどのいぬまま二日、三日過ぎていくとどうにも落ち着かなくなる。
片恋とも知らずに思い続けている阿呆の存在を考えるだけで胸糞が悪い。
仁王もも、大っぴらに恋人の有無を宣言するほうでなく、解消にはほど遠いと思われた。
突き詰めてしまえば、それとて別に構わない。がそばにいるのなら些末事として払いのけられたはずだ。
でも、ここにきて三日だ。
途方もなく長かった。
自らを気の短い質と断じたことはなかったが、たかだかそれしきの日数も耐えられぬようでは堪え性がないと評されても反論できない。
(明日は学校行けそう)
無機質に映し出された文字とそっけない一言通り、幼馴染は病み上がりと思えぬくらい普段通りに来たようである。教室での様子にはあえて目を向けていない。
どちらにせよクラスメイトの二人は会話をするだろうし、実際見ても見なくても腹立たしいことに変わりはない。ならば見ないでいる方がまだましだ。
放課後までは会えないかもしれない、と進んで避けておきながら腐っていた昼休み、日当たりが良い割に人の来ない海友会館内、窓際に面した長椅子にだらりと腰かけていた仁王の耳に誰かの足音が届く。
やれやれ。ここなら見つからんと思ったんじゃがのう。
ともかく人目につきたくなかった為、来訪を告げる反響が煩わしい、せめて喧しい女どもじゃなければいい、などと勝手な願いを抱いた瞬間に打ち砕かれた。

「…こんなとこにいた!」

廊下は走るな、の標語をまるきり無視した速度で駆ける影から放たれた声が、鼓膜へ貼りつく。



思わず、といった調子で響いた己の一声は、他人のように遠く聞こえる。
組んでいた足を崩し、ポケットに忍ばせた両手まで差し出して、近づく少女を丁寧に眺めた。
軽く弾んだ息が矢継ぎ早に転がっていく。

「教室行ったらいないっていうし、部室棟にもコートにも屋上にもいないし、どこ行ったのかと思った」

雅治、着信履歴見てないでしょ。
問われ、率直にカバン中じゃ、答えると項垂れる。でた、携帯不携帯。嘆きと共に隣へ座り込んできたの顔色は随分と良く、風邪が完治したことを物語っていた。
えーと、ご迷惑おかけしました。と頭を下げるので、短く否定してやる。ええよ、大したことしちょらん。聞き届けた様子のが顔を上げ、唇を開いた。

「なんでここにいるの?」
「…誰も来んからの」
「そりゃ来ないよ、講堂使う時くらいしかみんな来ないよ。ていうか、それだってなかなか来る機会ないじゃん」
「ピヨ。だからええんじゃろ」
「……雅治、やっぱサボりの常習犯でしょ」

薄い皮張りのソファがゆるやかに軋み、幼馴染は脱力したのち深い息をついている。
硝子窓から差す陽光があたたかく背中を押す。冬というには温く、先日の寒さとは一転した小春日和。
手をつき、仁王よりも浅く腰かけているの頬がわずかに細く、病を得ていた所為かもしれない、と光が漂う空気の中でぼんやり考えた。

「そんで、お前さんは?」

視線を離さず続けると、目が合う。一瞬慄いたものの、何が、返す唇は部屋で目にした時と違って乾いていない。

「なんぞ用があって来たんじゃろ。俺に言いたいことでもあったか」

一切の妥協もなく交じる瞳をそのままにわざわざ底意地の悪い物言いをしたが、やはりは怯まなかった。
逡巡し、ほんのり伏せた目先で惑うばかりだ。退く様子は窺えず、何故だかやたらと気が急いた。

「う、うん…用っていうか、まあ……用なのかな……」
「なんじゃ、珍しい。はっきりせんのう」
「……珍しいってなに」
「いや別に、俺をなじった時の勢いはどこいったと思うただけじゃき」

怪訝に寄る眉が可笑しい。
まなじりが独りでに溶ける。

「もっと早く言ってよ、ばか。……だったか?」

曲げた背と共に傾く顔を右手に預け、膝上に肘をつくと表情がよく見えた。さっと朱の走るかんばせは実に心地よく仁王の胸元を染めていく。

「あ! あれ、は…私悪くない!」
「そーか。なら俺が悪いんか」
「……わ、悪い…よ……」

消え入る声音を追って、より深く左隣の彼女へと視線が伸びる。
これは隠そうとしなかったので見据えられた方はかなり恥ずかしいのだろう、俯いているけれど、間近で目にしたいことのひとつだ、止めるつもりはない。
そろそろと睫毛を持ち上げ、わずかに膝の向きを整えるは思いの外早く二の句を継ぐ。

「でもいい。今ので私の用事、済んだから」

今度は仁王が訝しむ番だった。

「俺はよくないぜよ。結局何の用だったんじゃ」

言ってしまってから、身が竦んだ。
雄弁な沈黙。
遠い残響。
彼方のまぼろしが腕を引く。は困ったように口元で含んでいる。
幼馴染の内の探し求めた女が顔を出し、しとやかに微笑みかけてきた。

「夢じゃないって、わかってよかった」

逆流した血で肌が燃え立つ。
その熱量に呆然としているくせに、指先は勝手に空を切る。
抱きしめた体がぬくい。回した左腕で肩を包む。
ほぼ無意識だったので、もし問い詰められた時口にできる答えがあるとすれば、気がついたら体が動いていた、くらいだろう。
やはり堪え性がないのかもしれない。おまけに随分即物的だ。自分がここまで思考回路を通さず行動する人間だとは思わなかった。
雅治、と戸惑いの溢れた声が制服の上を滑る。
が胸元で身を固くしているのは承知していたけれど、加減するつもりなどない。
指より頬でぴたりと触れているほうが耳の形はよく伝わり、冷たいようで熱いような不思議な温度がした。
掌で髪をやんわりと掻き遣って鼻先を寄せると、細い肩が縮こまる。
鎖骨の下あたりに置かれた幼馴染の手は熱い。
溜息に似た深い呼気を一度味わえば、喉を下りて肺の奥深くまで染み込む芳しいひと時が、仁王の全身をあまやかに震わせた。
あの日、しばらくぶりに踏み入った部屋の空気に似ていて、少しばかり違う。
過ごした20分ちょっとの、妙な居心地の悪さもなかった。のにおい。
子供の頃と同じ銘柄のシャンプーを使っていないからだろう、知らない女のそれだと感じているのにどこか懐かしい。体の真芯から安堵し、今までにないほど落ち着いてしまう。
しかし同様に、或いはすべて飛び越える勢いで胸が焼け、どうしようもなく切なかった。
何故こうも相反する感情に振り回されるのか理解できない。
苦しみは深く、喜びも奥まで刺し込み、引き離せないから苦悶を晴らせずにえずいている。
閉じ込めるように目蓋を閉じた。
掠れた声帯が、動かぬままで物を言う。

本当はわかっていた。
怖いだけ。
を失う可能性を孕んでしまった今が、ただ。

この上なく情けないことだ。死んでも、口が裂けても言えやしない。
けれど以前ほど切迫していないのは、大それた真意もないであろう一言を他ならぬ彼女が呟き落とした所為だ。
幼馴染でよかった。
仁王は返す。一生言い続けそうやの。涙混じりの笑みが戻る。うん、そーかも。伸びやかで、何のてらいも存在していない響きだった。
だからつまり、そういうことなのだろう。
いつか恋人という枠で括れなくなる日が訪れるかもしれない。
学生でなかったら、同級生という接点もなくなる。友人では、おそらくない。赤の他人。
でも幼馴染だ。
暢気な上に大雑把であるは些細なことなら平気で見落とすし、生真面目な部分もあるので肯定した以上は貫くに違いない。
自惚れだと責められても反論の余地はないことだが、仁王にはが幼馴染じゃなきゃよかった、などと嘘でも口にする姿が想像できなかった。
別れても、二度と戻れないところへ辿り着いてしまったとしても、心安い距離でいられなくなったとしても、幼馴染は幼馴染のままなのだ。
人を騙し、欺いて、腹の底に隠すばかりの、詐欺師と呼ばれる仁王が言っていたのでは信憑性の欠片もないが、一生という言葉になんなく頷いたもう一人がいる。そのたった一人が、でよかった。偽りなく思える自分にこそ、甚だ安心していた。
たとえば何かが起きたとして、何事も起きなかったとして、この瞬間を、初めて口づけた日を、きっと思い出す。
先の知れぬ未来のはずだが、いやに慕わしく傍らにあるよう感じられ、仁王の唇が勝手気ままに笑みを佩き、こぼれた吐息に当たったらしいは半身を震わせてかすかな抗議を滲ませる。
必ずといっていいくらいきっちり返される応答に、苦笑を禁じ得なかった。
ゆるゆるとした速度で手離し、表情の見える位置まで距離が開くや否や、濡れた闇を覗かせようとするのが何とも言えない。舌が言葉を転がすより早く、頤ごと掴んで黙らせた。

「んぶ!?」
「…っハッハ! 不っ細工じゃのー」

非常に遠慮のない一挙だった為、の顔が無惨にひん曲がっている。
仁王の親指、人差し指と中指の間に挟まれた唇はタコかひょっとこかという有り様だ。言っておいてなんだが、本当に可愛くない。
酸欠と羞恥、それからおそらく怒りに染まった頬が見る見る内に赤くなった。

「ひょっと! ひゃひふんほお!」
「おもろいことになっとるぞ、お前」
「んだ…えの、へい…!」

にやつく仁王に益々気色ばむはどうにか抗おうと己の顎を掴む左腕に食ってかかり、渾身の力でもって引きはがさんと試みているが、びくともしない様に意味の取れぬ罵りをしつつ決死でもがく。仁王は笑いが止まらない。

「あか! やええよ、はらひて、もお!」
「何言うとるかちいともわからん」

指先に力を籠めたり緩ませたり、小刻みに繰り返す都度、掌中の皮膚と肉は形を変える。容易く、柔らかかった。あんまりにも自由になるから少々滅入るほどだ。
けれども胸には火が煙る。
ふいに掌からこわばりを取り除かせ、うっすら話せる程度にまで戒めを解く。
途端、眼前の眉間に皺が寄り、瞳には抗議の色が爛々と輝き始めた。

「まさ」

最後まで呼ばれぬ間にキスをする。ほんの数瞬、掠める温もりだけが明確な触れ方だ。
仁王は目を閉じなかったから、驚きに見開かれ、何をされているか悟り揺れる光彩、さっと潤む眼球、あますことなく見つめていた。
怯えか恥じ入ってか、ぎゅっと瞑られた目の鞘までを見尽くし、いまだわずかに突き出された様相である上唇の内側、ぬるつくところを小さく食んだ。
相変わらず左腕を握ったままの頼りない掌がびくついたので、舐めるのはやめておく。
呼吸が近い。
湿る体温は冬に似つかわしくない。
とりあえず満足し、唇を退かせる。
顎にあった手を額にやり、撫で梳くように髪を弄ったがは何も言わなかった。外れた両手だけが行き場を失くし、戸惑っている。
余韻もなくさっさと立ち上がった仁王に注がれる視線は弱くもあり厳しくもあったが、気づかぬ振りで呟いた。

「さーて、腹も減ったしそろそろ行くか」
「えっ、まだご飯食べてなかったの?」

慌てて続いたが率直に問う。そこに険しい音色はない。

「食うとらんよ」
「購買とか食堂とか、もう売り切れてるよ」
「そうは言うても、なんぞ残っとるじゃろ」
「……なんで昼休み始まってすぐに食べなかったのよ?」
「腹が減ってなかったからな」

誰もいない廊下に響く他愛ないやり取りを聞き澄まし、たらたらと歩いていく。

「ねえちょっと、今からじゃ食べてる内にチャイム鳴るんじゃ…」
「残念無念、また来週」
「……何それ」
「お前さんは俺に付き合うことなか。さっさと教室帰りんしゃい」
「めんどくさいからって撒こうとしてるでしょ今! もう、雅治……さ、さっきといい、子供みたい。ちゃんとしたら」

思いがけず笑声が漏れた。全くもって自分は子供と大差ないのだ。ぐうの音も出ない。
欲しいものが手に入らず苛立ち、わめき、諦めるのが嫌だから欲しくない振りをする。
時折すべて壊したくなり、仕舞っておけばいいものを引っ張り出して連れ回す。
大事なものほど上手く大事にできない気がして仕方なかった。
だったら手を引けば済む話なのだが、今更御免だ、冗談じゃない。
ああそうやのう、その辺におるクソガキみたいなもんなんじゃ。
歪んだ口の端は弾みでほつれていって、ひりつく喉がそれでもゆるい笑みを絶やさず、音もなく希う。

「しょーがなか。を見ちょると腹が減る言うたじゃろ、俺」
「えー! 言っておくけど、私のせいじゃないからね!?」


だから今は甘えさせて。