冬の朝、その亡骸を見つけた。 頬を刺す風は底冷えし、舗装されていない隅に霜柱が立ち、吐く息も濁ってなかなか消えていかぬほど全てが凍りついた朝だった。 こっちのが早いじゃろと適当な理由を盾に何度か幼馴染と通った覚えがある道の外れ、焦げ茶色をした木々の群れの中、わずかな陽射しも届かぬ枯れ葉と土の上で眠るよう横たわっている。 取り落としかねない小さな骸にどうして気づいたのかともし問われれば、偶然、たまたま、何となく、のらりくらりと答えただろう。 ほんの子供の頃からただ正道を進むだけでは面白くない、あらぬ方向へ逸れていく癖が原因と言えば原因なのかもしれない。 鈍くさい人間であれば転んだあげくすり傷の一つや二つ間違いなしの、道ならぬ道を足でかき分けながら、背丈を悠々越し覆い被さって来る茂みの隙間を縫う。 か細い余地に沿って二、三歩進み、引っかかって本当の意味でお荷物となったランドセルをその場で放った。 光薄く奥まった影の傍。 ほんによう見つけたもんじゃ、後ろへと流れる吐息に混ぜて誰にともなく呟いた。 積もり積もってかさを増した落葉は、スニーカーの裏をやんわり押し上げて来る。 高くそびえた幹に阻まれるせいでなけなしの陽光が失せてしんと寒い。 すぐ傍まで近づくと思った通りだった。 私と一緒でこの子も年寄りだからねえ、穏やかに微笑む声と、お構いなしに日向の縁側で寝こけていた猫の両方が一度に蘇るので、膝を折り、まだ古びていない記憶を辿りながら見下ろす。 白黒のまだら模様はぴくりともしない。 重ねた年月の長さと飼い主に可愛がられていた事もあって警戒心の薄かった猫だ、とはいえ俺やが寄れば尾で応じていたから、そういう事なのだろう。 もう何も聞こえていないのだ。見えてもいない。 かすかに開いたままの目がうつろに濁り、下りた瞼の白い毛は乾いていて、張り詰めた薄暗さが凍らせでもしたのかと一瞬錯覚を起こした。 喉の奥に弾みが生まれ、上着の袖に隠れていた指を伸ばす。 こびりついた目やにをひと撫ですると、飼い主から助言を得た幼馴染が柔らかい布で拭ってやっているいつかの風景が浮かんだ。 つたない掌が触れるのを大人しく、どこか心地よさそうに許していた猫の鳴き声が耳に遠い。頭の中だけで響いているようだ。 一面に敷かれた葉を払う。 秋の終わりには散々踏み鳴らしたそれらは濡れてしなり、少しの音も奏でない。 現れた濃い茶色の地面に両手を当てて、叶う限り握り込む。抱えた塊を避け、二度目。 今度は全部の指を立たせ掘り進めていく。 何度か繰り返し手の内から甲までが冷たく湿った土にまみれた所で、手近な位置に転がっていた太い枝を引っ張り、地を破り伸びた硬い木の根へ向かって振り下ろした。 落葉や土と似たり寄ったりの量の水分を含んでいたのかもしれない、手応えは確かだったものの響いて然るべきの音はなく、みし、と半端に唸るのみだ、ちょうど真ん中の辺りの裂け目を立てた膝で力任せに折る。 二つある内の頑丈な方を突き立てると同時、瞼の裏側でこんな日陰とは大違いの温かな庭がはっきりと色づいた。 「見て雅治。この子、全然逃げない」 触れたい気持ちが先走るあまり猫という猫に逃げ続けられ、ろくに追いかけもしない俺の方にばかり寄っていくのはおかしいと不満を訴えていたが、ふてぶてしく寝転がったままの白黒模様をそっと撫でている。長い尾はコンクリート上でゆったりと泳いでおり、どうやら上機嫌らしい。 飼い主は大らかな人柄で、猫を追った近所の子供が声を立てようとも快く受け入れ、家の敷地内にまで招き、好きなだけ撫でていってちょうだい、などと言って笑う。 まあ、塀の外から飽きもせず自由気ままな動物を見詰める様子がよっぽど熱心に映ったというのもあるのだろう、ついて来たり来なかったりする俺は完全なおまけ、ついで扱いだ。 傍から見てもはのんびり構える猫をとても可愛がっていた。 本当に逃げていかないと驚き、抱っこが出来たと喜んで、地べたに直接座り込んで、膝上に乗せた温もりを宝物のように扱う。 そうして自分の飼い猫でもないくせに触れてみろと強要して来るので、意味も脈略もない発言に元からなかった気力が更に失せた。 断るのも億劫だ、言われた通りに付き合って撫でると実に柔らかく、冬には重宝するに違いないと確信を抱くくらい温かい。 が得意げに笑った。 可愛いでしょ。 思った事をそのまま返す。 お前の猫じゃなかろ。 欲しい欲しいとゲージの前でわめき、絶対に世話をするからお願いとねだった末に飼う事許されたハムスターが死んでしまった一年前のあの日、今目の前で緩む頬は大粒の涙で濡れていた。 朝から晩まで泣き通し、目元を真っ赤に腫らして、慰める大人が根負けするほど長い間顔を拭い続け、自宅の庭の片隅、小さな墓前から離れずしゃがみ込む。 ちゃん、あんなに泣いて可哀相に、と呟く母親の横を素通りした俺には声を掛けた記憶がない。 もで寄って来なかったし、慰めを求めたり冷たいと罵ったりする事もなく、翌日の昼頃には顔を曇らせながらもある程度は見ていられる表情を取り戻していて、帰り道の足取りもしっかりと定まり揺らぎもしなかった。 けれど突然、日暮れの手前でぽつりと言い落とす。 もう動物は飼わない。 目線を上下させる必要もない、ほとんど変わらぬ身長の同級生がランドセルの肩ベルトをぎゅっと握り締めていた。 「そーか」 「うん」 舌を転がった返事が妙にざらついていたのを思い出してしまう。 何かしらの感情を含ませたつもりなどないのに、胸の奥には形になり損ねたしこりが引っかかった。 一気に蘇った感触をシャベル代わりの枝ごと掴み、掘り進めれば進むだけ固さを増す地の下をほじくる。時たま姿を現す拳大の石や砂利をかき出す内、爪の間に割れて裂けた小枝の破片や土くれが挟まってうざったい。 しかし黙々と深くを目指す。 念入りに、土の覆いが風でめくれる事を防ぐ為、肌の薄い部分が擦れ始めても手は休ませなかった。 面倒なだけじゃ。 言い聞かせるとこれほどしっくり収まる理由はないように思えた。無理矢理目を逸らしたのでもない。大した努力をせずとも腑に落ち、地道な作業が却って楽になる。 きっとは泣く。 悲しむという言葉の範疇を飛び越え、失われた温もりを悼んで泣くのだろう。 俺の隣で口にした宣言を律儀に守り、飼いたいと欲しがらなくなった姿を近くで見ていれば、避けられぬ未来の予測は簡単だ。 無茶苦茶な遊び方をしても、泥だらけになるような道を行ったとて、好き勝手に歩く俺の後を不思議な間を置いてついて来る、こだわりのない幼馴染。 帰りながらふらつくさ中でどんなに酷い目に合おうとも泣き出しやしないくせに、ペットを飼う以前も以降も動物系の番組に弱く、日本中が涙した感動ストーリーなどと謳う安い売り文句もまともに受け取り目を潤ませる。 全部考えるだけで面倒くさい。 頭蓋骨の中でじんわり反響する幼馴染の声すら疎ましかった。本当に面倒だ。 これくらいであれば十分だろうと想像した深さへと達し、無事な箇所がないほど土まみれの手を払う。 動く事をやめてしまってどの程度経つのか、静まり返っている毛並みを抱え上げると恐ろしく冷たい。 周囲を取り巻く空気よりずっと寒かった。息は先ほどと同様に白く凍っている。 硬直した小さな亡骸を掘り当てた底に置いて、限界まで伸ばしていた腕を引き戻した。 すぐ傍に出来たいくつかの小山を崩すのは、作り上げる手間に見合わず驚くくらい簡単だ。やはり冷えきった土をかき、それなりの時を費やし掘った暗い穴へと落としていく。 白黒の毛がぱらぱらと零れたものに混ざった。 横たわる体、曲がったままの手足が埋もれる。 尾は揺れず、しなびた髭が深みで目立ち、乾いた瞼はもう窺えない。 覆いを寄せ集める為にいっそう屈んだ時、土の湿る匂いが鼻についた。 過去がふと、いかにもなタイミングで心臓を焼く。 日向で寝るに相応しい時間帯、がいない所で出くわすのは初めてだった。 道路の脇に現れた年長者はさして興味もないといった目でこちらを眺め、かと思えば長いあの尾を揺らし半分寝転がった姿勢で、来ないのか? とでも言いたげな表情である。憎たらしい。 可愛い良い子だねと愛でる飼い主やの前では従順に撫でられているというに、どうにも人を選んでいる様子だ。 ポケットに手をおさめたまま距離を詰める。 視線の行く先を下の方へと流したら、誘い顔の猫は己の寝場所はここだと誇るみたいに伸び伸びと、無防備に腹を見せて来た。 猫をかぶる。 家か授業か覚えていないが、耳にした覚えのある単語がよぎって消えていく。 撫でろと求められているらしい部分に触れ、首元や耳の後ろもかいてみる。 俺やより数年年上の猫が気持ちよさそうに目を細め、ごろごろ喉を鳴らした。 大層なご身分で。 口の端へ浮かんだ皮肉はしかし、笑んでしまっている。上機嫌な様子に釣られて年の割にはつややかな毛を撫でた時、首輪についた鈴がちりんと鳴った。 邪魔くさいと袖をまくり上げたせいで鳥肌が立っていたが、不思議と寒さを感じない。 陽射しは一切降らないにもかかわらず、つい先日までは安らかな寝息を立てていたはずの体に触れた時の方が余程寒かった。 かき集める。押して落とす。いくえにも重なる柔い蓋で塞がっていく。 自分が悲しんでいるのかどうかがわからない。 寂しいのかと聞かれればそんな気もした。 もっとああすればよかった、悔いが残っていたとしても特に今は出て来ない。 だから実際は何も感じていないのかもしれないとごく冷静に感じ取る。 ただ、穏やかを絵に描いた飼い主とがいる前で最期を迎えたらどうだったのだと心の深い所で呟いた。 こんな風にうら寂しい、滅多に人の通らない、冷たく凍る林の中ではなく、好んで昼寝をしていた日向でも縁側でも何でもいい、慣れたすみかとやらで終えた方がずっとよかっただろう。ふてぶてしく逞しく、我が者顔で生き抜いて、最後は眠るように、らしく居続けてくれたら問題はなかった。 そうすれば、泣いてもやれない自分以外の誰かに優しく看取って貰えたはずだ。 あいつが――が、他人の分の涙まで吸い取って大泣きするに決まっている。 知れば当人は仕舞い込んで隠した傷からまた血を流すかもしれないが、だからといって一匹ぼっちで土に還るしかなかった終わり方が一番だとは言えない。 でも泣き顔は想像するだけでうんざりだ。 やっぱり面倒だとこの時は思っていた。 俺のいないとこで好きなだけ泣けばええ、と無責任に放り投げ、払いのけていた葉のじゅうたんを元通りに広げる。 ここにいるとわかるしるしを作ろうとして、やめた。 万が一にも知られてはならない秘密だ、込み上げた何かは飲んで戻すしかない。 はたき合わせた手の行き場に少しばかり迷う。 爪と肉のはざまに詰まった土がどうしても気になったので弾いてみる。 数回強くなぞったが綺麗に取りのぞけず、むしろどの爪先も汚れるばかりだったのでいさぎよく諦めた。 冬枯れの光景がどうしても肌に染みて痛い。 掘り返されたおかげで周りと見比べれば真新しい色の平らな墓と十数秒向き合って、離れる直前、本当にわずかの間、誰に向けたのか自分自身でもわからないまま、言葉もなく祈る。 あとは振り返りもせず来た道を戻った。 ついさっきかき集めた土の蓋に似たものを、なぜかざわつく胸へかぶせながら。 やがて音もなく気配すら残さず埋もれていく。 まったく上手い事体のいい言い訳を捕まえたものだ。 誰かさんの指摘通り、可愛くない子供だった。 高校生になった今顧みれば何の事はない。 泣かれるのは面倒だ、涙でしとどに濡れる頬や指を見たが最後慰めを口にすべきかどうか、諸々を考える事自体が鬱陶しい、たかだか一つ二つの理由を支柱に徹底出来たのだから最早言うまでもないとはこの事だろう。 昔から泣くにしても一人で泣き、話を聞いてだの優しい言葉を掛けろだのうるさく求めぬ女だった幼馴染だ、あれこれ俺が思い巡らせる必要など一切なかった。 永遠に続く黙秘と一度で済む自供、どちらが重荷かと問われれば断然前者である。 反対に気が楽なのは圧倒的に後者だ。 真実面倒だったのであれば、取るべき選択など明白だった。 だからずっと特別だったのかもわからない。 気付く必要性もない程近しい存在だという証明が遠ざけたあげく、真白い朝に溶かし入れ混ぜていただけで、どのみち決まっていたのだろう。纏う感情が何であれ、異性として見ていない時期があっても、ただ一人の幼馴染には違いない。 ほんにタチが悪いのう。 うっすら染まりながら立ち上っていく息を見るとはなしに見遣っていれば、小ぢんまりと丸い霧の向こうで誰かの手が揺れ始めた。 心持鼻先を真っ直ぐ起こしたが早いか、予想を裏切らぬ人影が走り寄って来た。 「…なんでこんなとこにいるの? 今日寒いし風邪引くよ」 発言者たるもコートの類を羽織っておらず、学校指定の制服しか着ていない。 「お前さんがか」 「違う。雅治がです」 昼日中の休み時間、生徒が行き来する中庭の花壇に腰掛けている所を、あえなく見つけ出されて何度目なのか。 よく飽きもしないものだ。も、俺も。 スラックスのポケットに仕舞った両手を断固として晒さず、だらりと曲げていた膝を伸ばす。 立ち上がりきると、俺はいつ身長追い越したんじゃったか、知らん間にこいつが縮んだんと違うか、時々首を傾げてしまうくらい小さくなった背が横に並んだ。 「ねえ、テニス部の人達で残ったりしないの」 「さーてのう。俺なんも聞いちょらんし、ないならそいでよか」 「ええ? そんなアッサリ…」 「濃かったら気持ち悪いじゃろ」 「……流石に薄情だよ」 「今に始まった事か」 「それ自分で言う事じゃないでしょ」 校舎が呼び込んだ暗い影の只中を歩く。 掃き清められた煉瓦道には枯れた葉はない、湿り気を帯びる土くれもなく、ましてやかつての感傷など何処にもなかった。 「じゃあ家では?」 「そんなんもっと有り得んの。今日家なんぞにおったら追ん出されるぜよ」 「えー!? そ、そこまでになっちゃったの? でも…だって、去年は別に普通だったじゃない」 「バレてなかったからな」 「……ちょっとはバレてなかった?」 「プリ。バレとらん」 「そうかなあ…私は去年の冬、ていうかその前? くらいからすごい遠回しにだけど聞かれたよ」 「そらおまんの誤魔化し方が悪かっただけじゃな」 「嘘、私!? だ、だけど付き合い始めてすぐとかじゃなかったし……だから気付かれてないのかと思ってた」 「いんや。自覚なかったんか、お前は嘘が死ぬほど下手。時々見ておれんしのう」 「なんで今言うの、遅いよ! そういう時はすぐに言って恥ずかしいじゃん!」 当時より随分長くなった足で日陰を渡れば、冬のか弱い光が差す場所まであとしばらくも掛からない。 頬を引っ掻き頭上に葉を散らして来た茂みは、成長を遂げた今やさしたる障害物にならないのだろう。 それどころか目隠しになるかどうかも危うい、色褪せた情景が脳の中心でぶれて、手の皮膚に付き纏う感触だけがやけに鮮烈だ。 寒い。 骨から冷たく凍え、動かなくなる。 眼下のは諦めか腹を括ったのか、はあ、長引く息を零してやや俯いたのち、低気温に奪われた温もりを取り返そうと手を擦り合わせ出した。 白くけぶる吐息を吹き掛けられた指先は痛々しい赤に染まっている。 「が気付いちょらんだけで俺はとっくに言っとうよ」 「…言われてない」 「ま、わからんかったらしょーがなか。ない才能は伸ばせんしな」 「もう、またそういう言い方する……普通嘘つく才能とかいらないからね!」 いいやいるだろう。 心中で即座に応じる。 お陰で俺は酷い泣き様を目にする事もなく、お前は憔悴する程泣かずに済んだ。 伝わらなくても一向に構わないので口には出さない。 にわかに息巻いていただったが、落ち着けと自らを諌めるように跳ねかけていた肩を下ろし、気になる所でもあったのか、ブレザーの腹周りを軽く払って整える。 今日は怒っちゃダメなんだった。 真面目くさった口調に喉が笑ってしまう。伸びた背の分だけ低く変わっていった音だった。 相も変わらず気付きそうもないの唇から、息の粒子が零れ出、ひと固まりの白色と化した一瞬後にあっけなく立ち消えていく。 「雅治?」 「ん」 「誕生日おめでとう」 「おう」 見上げて来る眼差しは真冬に透けて柔らかく、鼓膜を静かに打つ声音が特別優しい。 初めてではないはずなのにいまだ身の置き場に困るらしいが、やっぱ改めてってなんか照れる。眦をやんわり滲ませ呟くので、んじゃなんべん繰り返したら慣れるんかのう、気怠く首を傾けからかってやれば他愛ない軽口を叩かれたと思い込んでいるのであろう、何回お祝いしても慣れたりなんかしないよ、とそれはそれはあどけない幼馴染の顔で言ってのけた。 「じゃあ放課後はテニス部の人達にお祝いされて来て、」 「…お前ん中じゃ祝われる事前提なんか」 「だって何もないって事はないでしょ? その後でご飯食べて帰ろ。あ、ちゃんとケーキも食べようね」 学び舎に遮られた所為で仄かに漂うばかりとなった陽光の映える揃いの目が、しなやかにまたたいている。上向く唇の端に確かな微笑みが顕れ、年に一度の生まれた日を迎えた俺より余程嬉しそうだ。 結わぬ言葉は最初から存在していないも同然、しかと埋めてしまえば尚更紛れて掘り起せない。 共有していたはずの思い出が分かたれて眠っている。 冷たい土の下と、在り処も知れぬ胸の奥。 大昔に止まった鼓動へ、今も息づく心臓が何故か重なって寄り添う。 店を決めておけば良かっただの食べたいものは何だの、熱心に語るを後ろからただ見詰めた。 立ち止まった分だけ距離が出来る。 異変を悟られる前に伸ばした左腕で、先行くブレザーの背を掴んだ。 驚いて跳ねる背を尻目に我ながら些か乱暴だと思う力で以って手繰り寄せ、細い首を捻りわけがわからないと表情で伝えて来るに視線で触れた。 二歩程無理に後ろ歩きする破目となった幼馴染の頬の一部は、毛先も凍る冬の所為で食べ頃のりんごみたいな色だ。風向きに合わせ零れ流れた息の白が、微かといえども貴重な事には違いない日向側へと伸びていく。 虹彩のささめきが交わったのは瞬きをするかしないかの間だった。 戸惑い掛けた柔な背中をぽんと軽く叩き、一旦引かせた左手で支えながら撫でて、 「」 呼べば、え、の形に温かそうな唇が開く。 「ありがとな」 折角の謝意にも釈然としない顔付きである、ほとんど条件反射で笑う。 併せて漏れた吐息が白く丸い霧となり、の呼吸の証と混ざり同じ方へ流れていった。 夏と比べて分厚い作りの生地を引っ張る指の間、先端の爪に湿って重い土くれはこびり付いてなどいない。あるはずもなく、探しようもなかった。 「…えーと私、まだ何もしてないし……あの、今引っ張った意味は」 滑稽だ。 その事に酷く安堵し、再生される感情や衝動に舌が震え、あやうく眉を顰める所だった。 数年遅れでじくじくと痛む。 忘れて消し去るどころか、まるで体を内側から引き摺り下ろさんと絡んで重い。 寂しさを思い知らされる時、所以を遡れば大抵同じ場所へ辿り着く。 耳によく馴染んだ声で、いつまでも肌を粟立たせる声で、ただ一人の女が俺を呼ぶ。 「気にしなさんな。礼の後払いと前払いじゃけ」 「どういう事……?」 断りもなく勝手に笑みを含む口元は煩わしいが、嫌じゃない。 ハ、と遂に明確な音を得て落ちた笑声を拾うが、とりあえず離して下さい、至極当然に訴えた。 ブレザーの背中側を摘まれている所為で身動きが取れないのだ。 諸悪の根源である俺の指を取り除こうともがいている。 「お前さん、今日がなんの日かわかっとるじゃろ」 「え? う、うん」 「そんなら祝え。なぁに、ここに立っとるだけでええんじゃ、簡単簡単」 「……。…祝うよ…祝う、けど。私が考えてたお祝いとこれちょっと違う……」 脱力しながらも睨むくせして決して離れてはいかないに、クソガキじみた笑いが止まらない。 胸がすいて清々しいくらいだ。気鬱も鳴りを潜めていく。 それでもきっと思い出す。 冷え切った土の下へ丁寧に埋葬した温かく小さな命の記憶と、見通しのきかない深奥へ沈めた気持ちの二つともを、この先何度だって追ってしまう。 傍にいる限り。 例えば匂いさえ鮮明な過去より遠く離れてしまったとしても、幼馴染が幼馴染で在る限り。 掘り起こせやしない永劫の秘密が寂寥を招き、同時に温もりも与え、錆び付いた鍵に意味を持たせる。 が必死の抵抗とは到底言えぬしおらしい掌で背に触れている俺の指を捕まえようとしていて、見下ろす俺は躱しつつ引いて押してと繰り返しながら笑った。 楽に抱き潰せそうな肩が怒り始めた所で、甘えるんじゃないと雷が落ちるとすればさていつになるのやら、あの猫のように我が物顔でふてぶてしく独りごちる。 ありがとう。 ほんに思っとるよ。じゃから怒りたきゃ好きなだけ怒れ。 なんでって、もう俺一人の手に負えんしのう。 お前のせいやき、今日くらい黙って頷いたらどうじゃ。 なぁ、傍におって。 胸の淵へと寄せられた想いに誰にも明かさぬ名前を付ける。やはり埋もれていくそれらはしかし、消えて無くなりはしなかった。証拠に、体の芯から指先まで和らぎ不思議とあたたかい。 |