仁王が眠っている。 ぴくりともしない所を見るに、相当深く寝入っているらしい。 ソファの上に目をあてたは、お裾分けの袋を手に室内の奥へと足を向けた。 大きな窓のあるリビングより幾らか涼しいキッチンを横切り、今さっき聞いた話の通りに冷蔵庫の野菜室を開け、みっしりと身がつまったメロンを置く。 指先から腕の皮膚までを冷気が覆い、仄かに立ち上がるそれはものの数十秒たらずの外出でも滲む汗を消してくれた。 熟して食べ頃だからお隣に持っていて、と母親に言いつけられたはからかいに似た視線を感じたものの、気まずいから嫌だ等と素直に刃向かえるはずもなく、粛々と頷いて受け入れるしかない。ただ、内部進学とはいえ受験生、勉強の手を止めさせてまで自分の頼む事なのか、と疑問は抱いた。 明り取り窓の状態からある程度察していたが、玄関を出た瞬間に者皆全て射殺さんと降り注ぐ陽射しにげんなりする。目を細めていても僅かな隙から入り込もうとする、八月の光の乱反射は痛いくらいだ。 肌が焦げる。庭の土も道路のアスファルトも等しく高熱を含んでおり、一歩進む毎に蒸され血管が煮え立つようだった。 容易に触れられぬ程太陽に刺された門を抜け、高校三年の今に至るまで慣れ親しんだお隣さんへ首を巡らせたその時、近頃ではすっかり緊張の源と成り得る声に名を呼ばれたのである。 駅までお姉ちゃん迎えに行って来るだけだからすぐ戻るわね。悪いけど、ちょっとの間よろしくね。 遠出するわけでもないのにいちいち戸締りをするのが手間だった、と手短に説明をする妙に上機嫌な笑顔の持ち主が、足取り軽く車に乗り込むのを呆然と見送った。 手渡された鍵が鈍く光る。 隣家の住人は仁王が留守番役として頼れないと考えているのか、もしくはもっと別の思惑があってなのか、には判断がつけられない。生温かく見守られている気がする、と考え至った所で息を吐いた。 幼馴染同士という土台を思えば、致し方のない事である。 予想していた未来なのだから潔く諦めよう、と少女は腹を括り、近過ぎるが故に他家とは言い難い隣の玄関扉を開いたのだった。 細心の注意を払いつつ冷蔵庫の扉を閉め、来た道を数歩分戻る。何度見返しても仁王家のリビングに変わりはない。 しんと静まり返る屋内の空気に潰されそうになりながら日陰の廊下を歩いて、恐る恐る顔を覗かせたらば説明された通りの光景が広がってい、いかにも他人の気配に敏感そうな男が寝入り続ける様に何故かほっとしたつい先刻の事を思い出した。 目を覚まさなければ帰宅するまでいて欲しい、覚ましたのなら本人に鍵を押しつけて構わない。 なんとも緩い頼まれ事だ、例えばダイニングテーブルへわかりやすいよう置いて帰ったとて、仁王家と家間では問題にならないだろう。 しかし、確約された自由と守るべき境界があるのもまた事実。 厳格に定められている気がするし、幼馴染であるが故に融通の利く部分も存在している、同時に好きに踏み越え過ぎると途轍もない叱責を受ける予感だってする、とは脳を働かせた。 悩みの種の一つである張本人は、長いソファの背もたれの影になっていて見えない。 ひょっとしてお得意のフェイクで本当の所起きているのでは、と立海でも悪名高い詐欺師へ対する猜疑心が沸き、は足を忍ばせてキッチンから離れる。 フローリングの床が万が一にも鳴らぬよう心掛け、仁王の足元側から回り込んでみるも変わらず微動だにしない。 自室のエアコンが故障したとまではいかないがどうにも効きが今一つだったみたい、と語った仁王の母親の軽快な音程を蘇らせる。 は、雅治は暑さが天敵なのに大変だ、まず心配をし、特別暑がりでもない自分ですら昨日の熱帯夜に苦しめられたのだから快眠等出来るはずもない、想像に易い結果を弾き出した。 寝つきも悪く浅い眠りを繰り返すばかりだったのだろう、真夏の被害者は朝方誰よりも早く起床し行方をくらませて、仁王家の全員が職場や学校、買い物と各々の目的地へ旅立った後で戻って来た。家を出て数十メートルの地点で姿を見掛け、計ったようなタイミングに、人目を避ける野生動物か何かか、と喩えたのは彼の姉だ。に鍵を託した人の携帯端末に送られたメッセージを見せて貰い、言い得て妙、実に的を射ている表現に同意したのは数分前。 帰り着くや否や荷を放り冷房の温度を下げに下げ、ソファへ身を投げたらしい仁王を眺める。うっすら開いた上唇と下唇の間から安らかな呼吸が漏れていた。 一歩分距離を縮め、どんな隙間も見逃さず入り込み室内温度を上げんと横たわる光の帯に気付く。 ふと目を向けると薄いカーテンが僅かに開いており、その形通りの明暗が仁王の頬から首筋、通ずる胸元辺りを斜めに切っていた。 見ているだけで暑そうだ。 ここでも足音を殺し、外の熱を遮断し切れぬ窓まで進み、ずれをそっと正す。と同時に、近付いたの顔や腹の前面を照らしていた灯りも消えた。 踵を翻し、なるべく遠くを回って傍に寄る。 ――起きない。 細かな塵や埃は室内に在っても強い陽で刺されるのか、きらきらと輝いていた。 冷気の流れを作る機械が吹き出し口の薄板を忙しなく動かす音がする。 夏らしく薄着のには肌寒いくらいだが、耳を澄ますと聞こえて来る寝息の発生源にとっては適温なのだろう。 剥き出しの二の腕や肩を摩る少女が慎重に足を折り畳んだ。敷かれたラグの上に膝をつき、組んだ両肘を眠る幼馴染の傍へ置く。しげしげと眺め、そういえば寝顔をじっくり見た事なんてないかも、今更の事実を脳内にてくゆらせる。 年がら年中屋外で駆け回る部員の割に肌は白い。 眠る彼は青い静脈の浮き出る手を互い違いにして腹へ乗せ、左足を立たせてもう片方は投げ出すように伸ばしてい、つま先が端からはみ出てしまっている。ソファのサイズと身長が合っていないのだ。 鼻先は背もたれの側に傾いており、露わになった襟足や髪の生え際、硬そうな首の筋が己の物とまるで違う思いに捕らわれ、は得も言われぬ不安を覚えた。背筋や腰の付け根が落ち着かない。 呼吸が淡く響く。 と仁王のものは完全に混ざらず、涼しい風の中へ溶け込んでいく。 今一度視線を流し、ダメージデニムの裾の先、大きな足の甲を見た。 幼い時分はそう変わりなかったというに気付くと数センチの差が広がっており、驚愕した弾みで尋ねてしまった事がある。 27。 簡潔に戻った靴のサイズに言葉を失い、並んだ素足を凝視していたら、仁王の怪訝な呼び掛けによって我に返った日の事。 印象深い思い出の数々が巡っては密やかに騒ぎ、昼日中のリビングに漂う空気で薄まって、ある所では深さを増す。 やにわに落ちる記憶の雫が、の意識を今現在から遠ざけた。 ※ 息を繰り返すのも躊躇するような濃い闇で満ちている。 夏の満月は大きい。遮るもののない夜空で尚更際立って、支柱と支柱の間隔も広く通り過ぎるばかりの外灯より余程、瞼の裏に焼き付いた。 厚ぼったい風が背中と髪の内をぬるりと撫でていく。一切涼しくならず、特有の不快感だけが込み上げいっそ苦い。溜め息と共に、暑い、呟きたい気もしたが、却って悪化するに違いないと断じ堪えた。 虫の音がそこら中の草むらを振るわせ、サンダルと裸足の裏の隙にも張り付く湿気に嫌気が差して来た頃合いだ。 コンビニへアイスを買いに行くついで、母親からじゃあ牛乳もと頼まれたが白いビニール袋を持ち替えた刹那、幽鬼の類と通行人を怯えさせるであろううすぼんやりとした後ろ姿が、日が暮れても引かぬ高熱で煮込まれた闇夜から抜け出したのだった。 あっと思うが早いか、足先が駆け出している。 平生、面倒事や他人を避ける事に長けたはずの男はの騒がしい足音やら何やらを振り返りもせず、靴底を引き摺ってたらたらと歩くのみ。ラケットバッグを背負う肩が四角く骨張っている割に萎びた風情だ。 「雅治。今帰り?」 の幼馴染は隠すべき部分は綺麗に包むが、そうでない領域は非常に粗末なむしろを掛けてお終い、適当に片付ける。高校最後の大会を控え、体力気力を費やし練習に励む故に、疲労感を消し去る余力がないのかもしれない。 仁王が隣へと追いついた影に目を見開いたのもつかの間、即座に元の形へ戻し、両手をポケットに突っ込ませたまま薄い唇で紡ぐ。 「……そういうお前さんは」 微か傾ぐ両の目で咎められている事に少女は気付かない。 「そこのコンビニ行って来たとこ。こんな時間まで部活なんだ。大変だね、お疲れ様」 何なら自分の為に購入したアイスを分けようと指を滑らせた所、差し止められた。 見上げた先に仁王の横顔がある。 感情もない、いらん、の一言で済まされたにもかかわらず、は別段気にするでもなく会話を繋ぐ。 「雅治、生気も覇気もなくってお化けみたいだった」 「そーか」 「あ、やる気もない?」 「使い果たしたんじゃ」 「よく真面目に歩いて帰って来たね」 「…おまん、俺をなんだと思っちょる」 「だって死ぬほど疲れてたら適当なとこで仮眠取りそうだし。あと下手したら外泊とかしそう」 「せん。そっちのが面倒じゃき」 「………わかってるってば。単なるイメージ。それとちょっと違ってたからびっくりしただけ」 中学生の頃は夜遅くに出掛けていたくせに、と喉元までせり上がった声をどうにか抑える。 もう付き合いも長い、いっその事ぶつけてやっても良かったかもしれないが、外泊しない訳を面倒の二文字で語る男に言った所で何割伝わるか、可能性を考えるだけで色々と無意味に思えて取り止めた。 二人分の足音が暗がりに沈む住宅街へ響く。 スカートの裾が風以下の空気を孕んで、膝横にじめじめと鬱陶しく纏わりつくので、は我知らず眉根を寄せた。 夜の帳が落ちてしばらく経つというに、この熱の籠もり具合はどうだろう。引かぬ内に朝が来て、また灼熱の太陽に焼かれる一日が始まるのではないか。 想像上の真夏日に気力を持ち去られまいと心で首を振り、月明かりや人工的な光を吸収し映える、限りなく白に近い色の髪を仰ぐ。 長い前髪の隙から覗く鋭い眼差しがぶれずに正面を向いていた。 硝子玉のようでいて、その実見るべきを見る瞳なのだ。 不意に光を反射したまま何一つ凝らせぬ様に身震いした冬が蘇り、背の裏で寒くて冷たい何かが走るのでつい左肘を掴んでしまう。 鳥肌が立ったわけでもないが、縋りたかったのは確かだった。コンビニの袋がざわつく。隣人たる仁王が目先をの方へと落とした。 「…ン?」 何処をとっても厳しさの見当たらぬ視線だったが、実際浴びた方はきちんと視認せずに取り繕う。 「蚊に刺されたかも」 もう三年近く前の事なのにいまだ忘れられないのは、ほとんどトラウマと化していると言っても過言ではない。 痛くも痒くもない肌に爪を食い込ませ引っ掻いてみる。目論見通り赤くなったかどうか、こうも暗澹たる黒に包まれていてはわからなかった。 当てられる視線を頬や顎のラインで悟り、耳の傍や肩の後ろ、首裏で薄皮が粟立つ。感覚が剥がれていかない。 仁王の溜め息にさえならない呼気は鼓膜を難なくすり抜けるのに、入り込み到達した心臓でけたたましく轟くから、影響を受けた脈がぐんと速まった。 心持俯き歩くの脳裏に、焼き付いて忘れられぬかの瞳がよぎる。 腕の内側を強く掴む。 どんな風に見詰められても、どんな感情が宿っていたとて、何もかもが特別でしかない仁王の目が、いつだっての中身を混ぜ合わせようとする。 透かされて浮かび上がっていく。かと思えば奥まで落ち窪み、また始めから。 積み木を崩してはやり直す幼子じみた反復だとわかっているのに、その都度、纏わる感情や心臓の早鐘ごとむざむざと思い知ってしまう。 どうか隣の幼馴染に両頬の赤みを気付かれませんように。 一心に祈るさ中で他愛ない言葉を続け、夜道を渡ってゆく。 やる気を使い果たしたと軽口を叩いた仁王はへ向かって短い返答を零し、相も変わらず気怠く踵を引き摺った。話を聞いているのかいないのか、幼馴染の少女も判ずる事が出来ない。の二の腕と仁王の肘やその先が、近いけれども触れはしない距離で歩調に合わせ揺れ続ける。 やがて自宅前まで辿り着いた時、背丈の低い所にある肩が微かに緩んだ。 良かった、やっと着いた。 もう少し二人で歩いていたかった。 相反する想いが胸の内を巡り、反動で細く長い息を吐く。 徐々に歩くスピードを落とした仁王は口を開かず、夜に滲む家の灯りを見るとはなしに見ている。 じゃあ、と少女が別れの挨拶をしかけた所で、 「」 らしからぬ穏やかさを含んだ声音がしじまを打った。 家の方へと捻り始めていた首を戻し、初見ではスポーツに打ち込んでいると考え付かないくらい姿勢が悪い幼馴染へと振る。暗過ぎて表情の細部まで見通せず、は首を傾げたのち目で尋ねた。 なんだろう、と待つの鼓膜に、夏の夜気に撓るアスファルトを踏むシューズのささめきが届く。湿って重い空気の匂いが鼻腔を触り、熱の名残は流れていかず停滞する。蒸し暑い。 「遅い時間に一人でフラつくのやめんしゃい。誰かについて来てもらえ」 肌に添って滲む汗を鬱陶しく思ったが頭の隅で不快指数について考えていると、やけにしっとりと滑る言葉が空気を伝った。 まるきり子供に言い聞かせる内容だ。揃いの瞳を瞬かせ、急に何、まだ九時ちょっと前の時間だけど、打ち返すつもりが払い除けられてしまう。 あっという間の事で息をつく暇がなかった。 瞬く所か見開きも出来ず、ただ突っ立っていたも同然だ。 灼熱の余波がいまだ薫っていたが、僅かに掠める仁王の鼻筋は少しばかり冷たい。唇は熱かった。真実触れるだけの口付けだった。 寄せる為に屈んだのだろう、影の位置と濃淡が変化しぶれて、けれど訳を問う前に失せていく。 「オヤスミ」 発音自体の問題かそのように受け取るの聴覚の所為かは知れぬが、妙にあざとく響いた声の終いが息と混ざって柔らかい。 全てポケットへ手を入れたままでやり通した男の背が、隣家の敷地内へと消える。年月を経て錆び付いた門を開ける音がしたから、通り抜ける時にのみ左手を出したのかもわからない。いずれにせよ視線の先が凍って動かぬには確認のしようがなかった。 「…………え、えー……」 仁王家の玄関が乱雑に閉められた三秒後、何とも間の抜けた呟きが転がる。 今になって荒く巡り出した血が耳の奥でどくどくと喧しく、はとにかく動けなくなった。 ほんの一瞬重なった唇を無意識に手で抑えても、仁王の体温の一滴も残っていない。 皮膚のすぐ下を流れる血管が騒ぎを止めず、頬や眦、置き場を見失った舌と喉は苦しいくらいに熱を帯び、真夏の夜も弾いて掻き消す。 己のひと声に困惑と高鳴った心の両方が含まれていた事に気付けば尚悪い、肋骨を軋ませる心臓が一層暴れて手が付けられなくなるからだ。 まったく仁王らしくない、ともすれば可愛らしいキスは思い出すのも躊躇われる程、の胸底まで掬い浚って砕こうとする。 細い銀糸めいた髪の向こうに息づく双眸を見た。 瞬きもしなければ逸れてもいかず、ぬばたまの暗中に漂う弱い灯りをくぐらせた虹彩が小さく光る。下瞼の際に宿る影、生え揃う睫毛、濡れているような透けた膜。余す所なくに向けられていた。 (……急にしないでって、言ってるのに) 仁王の色はいつも目に震えて残る。 場違いな独り言が舌の上で空回り、ついぞ声にならぬままくずおれた。 ※ 眠り人の気配が近いのに淡い。 (雅治って時々ああいう事する…) 溜め息を吐きたいようなそうでないような、複雑な気持ちで胸が混ざっていく。 寝返りを打たない――というより打てるスペースがない所為だろう、仁王の首は動かずに固まったままだがしかし、却って都合が良いかもしれないとは思う。意識がない人相手とはいえ凝視し通しというのも座り心地が悪い、背もたれ側を向いてくれていれば幾らか見詰めやすいのだ。 やんわり閉じられた眼瞼は熟睡している証。 重力でなだれ落ちる仁王の前髪が傍近くの額や上頬、耳殻に掛かって、儚く今にも消えそうな影を生み出している。 平熱が低いから指先も少し冷たい日が多いけれど、寝顔には大層温もりがあるよう視界へ映るのは、リビングに差す陽の影響だろうか。 口元の黒子をつついてみたい衝動に駆られ、高校三年生にもなって子供じみた真似をするわけにはいかない、とは自制する。 八月も終わりかけだ。 カレンダーをめくり、暦を秋へと変える日はすぐそこまで迫っていた。 中等部、高等部と膨大な時間をテニスに注ぎ込んで来た仁王が大学へ進んだ後はどうするのか、幼馴染兼恋人のにもわからない。 部活動としての競技は今夏の大会で一区切りがついて、しかしそれでテニス自体を止める仁王も想像がつかないし、かといってサークルに所属し打ち込む質かというと違和感を覚えてしまうので判断の難しい所である。 腕組みをほどき、ついた両手で頬と顎を支える。 急に触れてくれるなと願う訳を、おそらく仁王は羞恥心やTPOを考えろといった常識分野にあると思っているのだろうが、もそう隅々まで理性的な少女ではない。 開かぬ目の端を視線に触れさせ、唇の裏側で囁いた。 (ただ好きなだけ) 仁王が自分だけを見ている。あれ程躱してばかりの、真意の読めぬ詐欺師と称される男が真っ直ぐに射抜いて来る。 日頃はどこに隠しているのか不思議なくらい豊かな感情の揺らぎと、じわと滲む熱の奔流で、瞳の奥が濡れる様をずっと目にしていたい。 だからはその為の時間と余裕が欲しいと常々思っているのだが、仁王は肌や唇、どこに触れるにしても予め尋ねるという事をしないのだ。大抵前触れがなく、言葉だって足りていない。 あんなものはほとんど不意打ちだ、とは愚痴に近い音色で独りごちる。 続いて、自分ばかり好き勝手振る舞ってずるい、胸中にて響かせたと同時、傍らの瞼が持ち上がり酸素で喉が詰まった。 本人に聞こえているはずもないがタイミングが見事にかち合っている、は背筋を正し、反射的に息を殺した。 当の仁王は向きを変えずに、あらぬ一点へ目線を寄せている。開いていても定まってはいないので、まだ半分夢の中なのかもしれない。 緩慢な瞬きを二度、三度。 唇には必要最低限の隙しか見当たらず、しかと引き結ばれていない様に絆され気が抜けていき、あどけなさが残る面差しはの口の端へ微笑みを灯らせた。 ふ、とあるかないかの吐息で静寂を割ってしまい、ひとまず聴覚は覚醒させていたと思しき仁王が背けていた首を動かす。 逆はあっても自分が幼馴染をこの角度から眺めるのは珍しい、は今再び笑んでしまう。彼女の恋人の揃いの瞳はやすらかに凪いでいる。ぼんやりと揺れるばかりの眼差しがやけに大人しく、見えているはずなのに反応らしい反応が見受けられないので、は緩む頬を抑え切れない。 「おはよう、雅治」 聞こえるようはっきり告げてやっても尚、仁王は明確な反応を寄越さなかった。益々面白くなってしまい、遂に肩が揺れる程の笑声を零す。 ――と、眦を和らげるの頬へ、節々の太くなった指が触れた。他の誰でもない、仁王のものだ。全体を包むのでなくうっすらと輪郭を撫で、親指が上頬骨の辺りを摩って、伸びた人差し指以降の四指は耳殻をなぞる。動作の一つ一つが頼りなくおぼろげで、平素の仁王からは想像もつかないしとやかさである。 少し冷たい指先がくすぐったくて、また笑った。 「寝惚けてるの?」 薄らぼけていた仁王の双眸へ力と光が徐々に戻ってゆく。は間近で見入り、逸らさぬままで受け入れた。 「…………か」 呼び掛けは寝起特有の掠れ声だ。喉に甘く絡んでいる。その響きをむず痒く感じたが、いとけない微笑みを浮かべ頷いた。 「うん。」 「今日来る言うとった?」 「ううん。頂きもののメロン持って来た」 これまでの経緯と手短に語ってみせれば、ああ、と理解しているのか否か分かり難い返答が落ち、視線の中身も行方もくっきり定まり始める。 本当に通じているのだろうか、とが確かめる寸前、仁王が腹筋を駆使し瞬く間に上体を起こした。どれだけ不真面目な外見をしていようとも強豪運動部のレギュラー、並の人間より鍛え上げられているのだ。 目の当たりにした少女は素早い起床に驚き、前のめりだった姿勢を元に戻す。 一方の仁王は背筋をくたっと曲げ、首横やうなじを掻きつつ欠伸をしてい、猫科の野生動物じみた様子を見せた。 訳もなく手持無沙汰の心境に陥ったが正座を崩さず三、四歩分後退して、やや離れた位置にてソファ上へと目を遣る。斜め横から確かめる体躯は己の物より厚みがあり、鋼のような、とまではいかぬものの、どこもかしこもしっかりと骨張っていた。 「夢見とった」 低い声音が鼓膜を揺すり、夏の粒子の漂う室内へと溶ける。 は軽く首を傾げ、しかし直後に頷いた。 それでか、と胸中にて呟く。あの仁王が忍び込んだ暑さや人の気配にも頓着せず、こんこんと眠っていた謎の解を得た気がしたのだ。 「全然起きなかったもんね。…あ、でも普通は夢見てる時の方が眠り浅いんだっけ」 仁王は床に座ったまま話すを横目に、僅かに眠気の残る表情で応じる。 「全然か」 「全然」 「なんじゃ、趣味の悪い。見ちょらんで起こせ」 「だって昨日大変だったんでしょ? クーラー壊れたって聞いたけど」 「まーな」 「死ぬほど暑かったんじゃない」 「地獄じゃった」 「だから起こしたら可哀相かと思って。それに気持ち良さそうに寝てたし……そんなにいい夢だった?」 割合平坦に打ち返され続けていた声色が不意に途絶えた。 からかってやるつもりで投げた少女としては腑に落ちない。言葉を取り落とす程妙な質問にあらず。話の筋道も通っているはずだ。 夢から覚めても依然として微睡んでいる幼馴染の輪郭へ、薄墨色が寄り添う。横になっていた時と姿勢が異なる為に纏う光の種類や角度が変貌し、併せて散った影がもたらした彩りだった。 仁王の唇から恐ろしく静かな呼気が零れる。 昼日中の熱にふやかされたリビングに差す陽射しは濃く、それらを吸った両の目が瞬いて刹那の沈黙を弾いた。 頭から終いまで細い筆で描いたような美しい目の縁が滑る。錯覚だ。縁取りが動く訳もない。 頭では理解していたが、瞳というよりは周囲の薄い皮膚と称した方が正しい気がし、はどうしても己の喩えを捨て切れなかった。 仁王がを見詰めている。 じっと黙り込んだまま、息をするのと同じように、まるで当然の行いだとばかりに、眼差しの先を一切外さない。 の旋毛から始まり額、鼻の付け根や鼻梁、眉の生え際。その下にてしばたく双眸、長い睫毛や二重の瞼、頬、唇、顎へと流れて薄れていく。 熱の籠もったものではなく某か確認する匂いを感じた為、は心臓が飛び出る程の緊張を覚えなかった。ゆっくりと早まる脈のみが胸元を揺り動かし、脳の芯をぼかす。 なに、何か顔についてるの、膝上に置いていた右手を持ち上げかけ、 「ピヨ。内緒」 「………なにそれ……」 戻る答えに脱力した。ついでに呆れもした。小さな頃でもなかなか耳にしなかった酷い誤魔化し方じゃないか、と些か憤慨してしまう。 実際の時間はほんの僅かであったもののそれなりに間が空いた、にもかかわらず子供じみた一言で済ませるとは何事だ。 ぶつけてやろうとして、あえなく頓挫する。 の寄りに寄った眉根に気付いているはずの仁王がソファからさっさと降りた所為だった。 気が済んだのか萎えたのか、そもそも初めから教えるつもり等なかったのか、ともかく応酬を打ち切る腹のようだ。 ぺたぺたと素足でフローリングを進む足音が耳につく。 は畳んでいた両足を伸ばし、キッチンの方へと消えた幼馴染を追い、冷蔵庫のすぐ傍でコップに水を注ぐ背中を目に入れた。薄手のTシャツ越しに、肩の後ろについた筋肉や大きな肩甲骨の形、真っ直ぐな背骨が見える。姿勢そのものの悪さに体の中身が準ずるかというと、どうやらそうとも限らないらしい。 陽を透かすガラスに満ちる水音と冷蔵庫の開閉音が、夏の午後に騒ぐ蝉の遠い鳴き声と交わりながら室内へと巡った。 軽い溜め息を吐いたは仕舞っていた鍵を摘み、冷たい水分で喉を潤した様子の幼馴染へと差し出した。 「はい、これ。おばさんから預かったやつ」 一瞥し、しゃくった顎で了解の意を示す仁王が、デニムのポケットに鍵を突っ込む。 雑としか言いようがない。落としたり失くしたりしたらどうするんだろう、つい思案顔をしてしまったへ、 「今から時間取れんかの。どーせ暇じゃろ?」 問いが降った。 決めつけた物言いにむっとする。 「暇じゃないよ」 「言っとくが勉強は用事の内に入らん」 先手を取られ言葉に詰まる。 「ほんに忙しかったら頼まれ事なんぞ断って引き籠もりんしゃい」 「ちょっと! 人を社会不適合者みたいに言わないで! 真面目に受験生してるだけじゃん」 「ほんじゃ不真面目な受験生になれ」 「……大学落ちたら雅治の所為だって言いふらす」 喉を低く鳴らす仁王はねめつけるを躱しつつ、空になったコップをとろとろと光るシンクへ置いて、可否が決定する前に踵を返して行ってしまう。 「俺とおまんが一緒におったら面倒じゃろ」 リビングのソファやローテーブルに放置されていた携帯と財布を掬い上げ、背後ろ近くまで辿り着いていた少女に目を遣る。 「冷やかされるに決まっちょる。無視すんのも疲れたぜよ、ええ加減鬱陶しか」 だから出掛けようと言うのだ。 「…外暑いよ?」 「わかっとう。あー家出る前からうんざりじゃ」 「テニスプレイヤーとは思えない発言なんだけど」 「テニスは別やき、そう睨みなさんな」 何かにつけてはっきり断言しない仁王だが今の別は特別の別だ、互いに委細を口にせずともは悟った。 息を切る。 眉間の皺等とっくに失せていた。 常日頃から人の悪い笑みを浮かべる男は、眦を一等優しく滲ませ、すこぶる愉快げに声を繋げていく。 「一時間だけ。、俺に付き合え」 「…………短いね、一時間」 「ないよりマシじゃろ」 先刻の言を信じるとして、家族の目を避けたいのであれば何も一緒に居る事はない。むしろ別行動を取った方が確実だ。並び歩いているだけで揶揄され、結果落ち着かなくなる現状では尚の事。 ですら考え至る事に、悪魔も騙す詐欺師が勘付かぬ訳がなかった。 しかしこの際あえて見過ごす。 胸をざわつかせる喜びにも似た衝動を堪えつつ、だらしなく緩みかける頬に力を注ぐも即座に崩れてしまい、浮かんだ苦笑も綺麗に消し去ったが破顔した。唇は半円を描き、仁王を仰ぐ一対のまなこが柔く煌めいている。 一日以下の、数時間にも満たぬ夏、暑さにかまけて遊んでも罰は当たらないだろう。 終わっちゃう前に過ごしたい。他の誰かじゃなくて、雅治と。 想いを込めたは、うん、と素直に声を弾ませた。 「…そーかも!」 「おう、そーじゃ」 |