▽Amazing summer 予想最高気温の数字を見るだけでげんなりする。 お天気お姉さんの注意喚起は熱中症についてがほとんどで、CMは経口補水液がどうたらと打ち出しているし、この上真夏日の連続記録更新なんてニュースを耳にしては心も折れるというものだ。 アスファルトから立ち上る熱気が凄まじく、冷気に満ちるバスや電車に乗り込んだ時の涼しさは天国みたいにありがたい。 歩いているわけでもなし、ただ立っているだけなのに際限なく汗は噴き出、うなじに張り付いた髪の毛がまた不快感を煽った。 高みから地上すべてを見下ろす太陽が、ここまで憎らしくなる季節は他になかった。 容赦なく街を焼き、影も消し去り、何もかもにぎらつく熱を浴びせる。 ほぼ無風の午後などは、地獄の入り口ってこんな感じかな、とふざけた考えに頭を持っていかれて自分がどこを進んでいるのかさえわからなくなってしまう。 そんな気候の中、いくら昼をとうに過ぎ夕方近くの時間だからといって、海沿いの道を歩いている私はマゾだと思う。 隣を行く精市くんもまあ勿論暑そうにしているのだが、恐ろしき運動量を誇る部のトップ・オブ・トップ、やはり常人よりずっと平然としている。どういう原理なのか一度柳くんあたりに聞いてみたくなった。 海まで足を伸ばそうと言い出したのは、一体どちらだったのだろう。 あと一歩、いや十数歩の所で乗り逃がし項垂れ、次の電車をじりじりと焼け焦げるホームで待つよりは、と移動したのがきっかけだったかもしれない。 わずかな日蔭を求めて階段を下る。 全力疾走した所為で息が途切れ途切れになる私と、いつも通りにたおやかな精市くん。ハンドタオルで額を濡らす汗を押さえてから、丸くすぼめた掌で乱れる呼吸の通り道たる唇を隠して整えていると、たるみも荒れもしていない声が隣から投げられた。 コンビニで飲み物でも買おうか。 語尾が微笑みに曲がっているし、まなじりもまた同様だ。 いっそう自分の体が錆びついたポンコツになった気がして、嬉しい気遣いもすんなり受け取る事が出来ず、数秒ほど答えに詰まったが、ここでお礼を言わないってどんだけ無礼者だ、ありがとうと弾む肩でこぼし目線を上向ける。 そこで、探し当てようとしたわけじゃないのに、萎えていたはずの両足が生き生きと蘇る看板が一直線に飛び込んできた。 でも、あっちの方がいい。 熟考せず漏らした私の目先が向かう背後ろを振り返った精市くんは、自らの目で確認すると笑って了承してくれる。 よく見つけたね、。俺気づかなかったよ。 言外に、こういう事に関しては目ざとい、といった類いのものが含まれている気がしたが、事実だったので黙るしかない。 そういうわけで、うわんと唸る音さえ聞こえてきそうな真夏に対抗すべくジェラート屋さんへ立ち寄り、お腹から冷える涼を得ると眉間で凝り固まっていた皺も和らいだ。 口の中が幸せで満たされる。 甘くて冷たい味わいは、夏に養分を奪い取られた体に染みていく。 ついでに気持ちも軽くなり、熱の吹き溜まりとなった駅前のロータリーに突っ立っているのもつまらない、そもそも立ち並ぶビルやテナントの所為で暑いのだ、障害物のない通りに出れば風も出ていていいかも、なんて計画性ゼロの散策を開始したのであった。 流れのままに足を運んだだけで海を目指したわけではなかったが、彼がそんないい加減極まりない見立てで駅を離れるとは思えないので、やはり言い出しっぺは私という事になるのかもしれない。 でもはじめに突っ込まず乗っかってくれたのはどうしてだろう。 学校のテニスコート近くで観戦している時など、熱中症になるよと必ずひと声かけてくる人なのに。 内心首を傾げた。 本人に直接尋ねない限り解の得られぬ思考を回し、素足だったらまず火傷するだろうコンクリートをひたすら蹴って、暑い美味しいでも暑い、と言い繰り返しては精市くんに笑われていると、ほどなくして海が見えてくる。 横断歩道を渡って海側の歩道に辿り着いた途端、元々苛烈であった日差しが更に激しさを増し、肌が刺される心地になって、電車を逃がした時に日焼け止めを塗り直せばよかったと後悔した。 だけど波打ち際から風が吹いてくるので、その点だけは目論見通りだ。 汗に湿った前髪を煽られ、一瞬ひんやりするのが気持ちいい、目を細める。 狭まった視野は夏の輝かしい光を絞り、眼前が白一色に染まった。太陽の元で波立つ海がうねり、潮騒を奏で、水面は魚のうろこみたいにきらきらと光っている。 砂浜で遊ぶ人が、三人、四人。 こちらと向こうで気温が数度も違うはずないのに、飛沫を浴びている足元はとても涼しげだ。 潮のにおいが鼻を通り抜けていく。 本当は電車の待ち時間を潰す為のちょっとした散策だったのだが、ここまで来ると来た道を戻る気も失せてきた。 なんて無計画なんだと自分で自分にがっかりしていたら、精市くんが遠く水平線を眺めたままで似たような感想を呟くので、びっくりして思わずまじまじ隣を見上げてしまう。 目が合うと、小首を傾げて微笑む。 強烈な日差しも、重たく圧し掛かる熱も、彼にかかればただの自然現象でしかない。 多分この人、夏バテとか一生知らないで生きてくな。羨ましいやら、恐ろしいやら。 促され、一つ頷き返して足を動かし始める。 折角だからと海を横目に一駅か二駅分歩く事を決めたのだ。 後々若干の後悔に襲われるのだが、街中より幾らか暑さが落ち着いていた事もあって、この時はわからなかった。 一時中断していた口を再度動かし、舌の上で甘い涼を転がす。 私はレモンフレーバー、精市くんはこけももを、空から降る鉄さえ曲げかねない光の粒に溶かされまいとそれぞれ寡黙に食していく。 甘ったるいだけでなく優しい酸味の効いたジェラートは、喉をすんなり下って、爽やかな余韻のみを残した。夏にぴったりだ。普段でも美味しいのだろうけど、暑い盛りに食べるともっと美味しい。 そうして強風の折に飛んできたのか端に砂の混じる道を進む途中、ふとした拍子にひとくちせがまれたので、まだ手をつけていない方を差し出す。 珍しい、レモン味好きだったっけ、それともジェラートが好きなのかな、考え言いあぐねていると、かぶりつくと言うには上品過ぎる仕草で唇半分ほどもない量を口に運び、丁寧に吟味している様子の精市くんはなんとも言葉では例えにくい表情をした。 言うなれば、微妙、といった所か。 「酸っぱかった?」 戻る反応は否定。 「いや、ちょうどいいんじゃないかな。ただ試してみたくなってね」 「あ、レモン?」 レモンのアイスとかお菓子、あんまり食べた事ない? 続けると、柔い笑顔と共に更なる否定が投げられる。 「そうじゃなくて。レモンとこけももが混ざったらどんな味になるかと思ったんだけど、見事に混ざらないな、これ。最後まで別々のままだ」 つい、あからさまに、何言ってんのこの人的な表情を向けてしまった。 彼の言葉を信じると、唇の奥にこけもものジェラートを少し残しつつ、レモンの方を食べ口腔内で実験的にミックスしたという事なのだ。 ……図体のでっかい子供か。 何故そんな幼稚園児、もしくは小学生のような真似を。 怪訝な眼差しなどどこ吹く風の人が、唇に微笑みを滲ませる。 「呆れられちゃった、フフ」 「…呆れたっていうか、そんな事思いついた理由がわからないっていうか……精市くんて、たまに突拍子もない事言ったりやったりするよね」 「そう? 俺としてはきちんと順序を踏んでいるつもりなんだけど」 「……三段くらいすっ飛ばしてるようにしか見えないんですけど」 「それはまた、豪快だなあ。というか乱暴だ。やられた方は、さぞかしびっくりするだろうね」 「…………他人事みたく言うとこじゃなくない?」 「なのについてきてくれてありがとう、」 思いも寄らぬ方向からしっぺ返しを食らい押し黙る。 頭の中でやぶへびってこういう事かともぼやく。 ぐぐっと詰まった喉を誤魔化す為、手元の甘味を唇で溶かし味わってみたはいいが、先程とは異なった食感に様変わりしている気がしてならない上に、味がわかるようでわからない。 嫌味が含まれているだとか、からかってやろうという魂胆が透けて見えているだとか、何かしら取っ掛かりがあれば言い様もあるけれど、彼は大抵心からの笑みで飾らず言葉に託すので、いい事のはずなのにたちが悪いとも思う。 物言いは冗談めかしていても、声に乗った気持ちは本物だ。 自惚れだと攻めるもう一人の自分がいる一方、精市くんが嘘をつく人じゃないという事を知っている自分もいて、決めかねた心に影響された喉が絡まり、無言を貫く以外の選択肢が浮かんでこなかった。 「まあそれは置いといて」 勝手に置いてかれても困る。 「俺だっていつもこう子供みたいな事をするわけじゃないから、そこは知っておいてくれ。と一緒じゃなければ、甘いものもあまり食べないしね」 「えっ、そうなの」 しょっちゅうではないが人が食べているものをつまんだりする事もある、てっきりどちらかといえば好きな方だと思い込んでいた。 「嫌いではないけど、特別好きってわけでもないよ。一人だったらまず買わないもの」 もうほとんど残っていない掌中のジェラートを傾ける姿に、違和感はない。 精市くんの容姿や持っている雰囲気と甘いものは、たとえばバレンタインにチョコを贈りやすいかにくいかで言えば断然前者であるように、そこまで似合わぬものではないのだ。 意外だった。 「でも家の人と出かけた時は? お母さんとか、妹さんとかいるでしょ」 「確かに二人とも甘いものは好きだけど……そうだな、付き合わされる事はあっても自分から食べたいと思う時はあんまりないかな。食べ歩きもしないし」 格差社会とよく耳にする昨今、関係ないないと暢気に聞き流していたら、見落としかねないほど近い部分で格差があった。 育ちが悪くてすみません。 口に出さなかったのにどういうわけか通じていたらしい、悪口は言ってないじゃないか、新鮮で楽しいよ、明らかに嗜める口調で軽く笑われてしまう。 まただ、嫌味じゃない上本心を含ませている。どう頑張っても叶わない。 ならいいけど。 やっとの事で答えれば、吐息と笑声が半分ずつ混ざった囁きが私の耳まで届き、如何ともしがたい心境に陥ったが、なるほど、と納得のいく理由も同時に見つかったので引き続きレモンの甘い酸味に舌鼓を打つ。 要するに、物珍しいのだろう。 甘いもの、食べ歩き、目的地を決めないままの出発、海辺の道をただただ歩んでいく。 私にとっては何でもない事だけど、精市くんにしてみれば非日常なのかもしれない。 さすがあれほど大きな家に住んでいる人は違う。どこがって、色々と。でも嫌がられてないのなら、よかった。 冷たく舌や喉奥を潤すジェラートを完食し、コーンの部分に取りかかる。同じタイミングで買ったにも関わらず、片付けるのは精市くんの方が早かった。 常々考えていた事だが、彼に限らず運動部部員というものは大体にして早食いである。ついでに量も多い。 しかし食い散らかすという表現が似合う真似など絶対にしないあたりが、本当に謎だ。 最後のは育ちや性差より、精市くん自身のあり様に秘密がある気がした。 最後まできっちり食べてしまうと、今まで感じていなかった渇きが急激に喉を刺激する。 ごみになるからとカップでなくコーンを選んだのだが、こうなる事まで予想しなかった己の失策を悔いた。 小さな頃、アイスを買って貰い、やはりコーンの部分でお腹がいっぱいになって食べ切れず怒られた記憶がふいに蘇る。まるで同じ過ちを繰り返しているようなものだった。 学習能力がゼロ過ぎる。いやマイナスかもしれない。 ジェラート自体は延々と後を引く甘さではなかったのがせめてもの救いだ。 水が飲みたい。 念仏のように心の内で唱えたが、朝、出がけに買ったおーいお茶は鞄の中でホットな感じに生まれ変わってしまっている。 ないよりましかと一旦考え、でも味を想像するだけで舌がなんとなく萎む。いよいよ脱水症状寸前という状態ならまだしも、進んで飲みたくはない。 海の傍を離れない道は緩やかなカーブを描き、段々と上り坂になっていく。 陽光を跳ね返す、前から後ろから行き交う車が目に痛かった。特に白い車体なんて強烈で、反射的に目を細めてしまう。エンジン音が横を通り過ぎる都度、むわっと籠もった熱風に襲われる。 足を持ち上げる時間が長引き、勾配がきつくなってくると、足が鉛のように重くなっていった。 もう少し、ほんの少し涼しければ、この全身を包む気だるさも軽かったろうに、などと仕方のない夢想が頭をよぎる。 間近にあった波飛沫の音は眼下に遠く、ちょっとした小山になった地形が恨めしい。 実に健康的な足取りで進む精市くんは、数歩先で首から上のみを振り返らせながら瞳で笑っていた。 これは完全に他人事だと思っている。 まあ実際他人事だけども。 心の中で悪態をついた所で、テニスで鍛えた強靭な足腰に勝てるはずもないので、ひたすら歩を進める。 足を引きずり、肩に食い込む鞄を抱え、無言の励ましに手を引かれながら坂道を上りきると、一気に視界が開けた。 てっぺんらしき地点からの眺めはなかなか見応えがあって、ずっと遠くには江ノ島が見え、その手前は海水浴場だろう、小さな棒のような人影が無数に点在し、様々な色合いのパラソルが砂浜を彩っている。弧を描く海岸は夏の光に輝いて見えた。 海が深く、太陽に染まってこまやかに揺らめく。 吹き抜けた風は髪を梳き、額の汗を冷やしたと思っていたら、颯爽と消えていってしまう。その風も貫く、熱量を限界まで含んだ日差しがじわじわと体全部を追い立てた。 深い息を吐く。 「暑いね」 隣の彼が優しく言い落とすので、思わず素直に頷いた。 すっかり顎を俯かせてから、今の言いざまは小さな子を撫でるに近い声色だと気づく。 ぐずったり拗ねたりしている子供に、疲れたね、怖かったね、えらかったね、気持ちを汲んで甘やかすのと同じだ。 釈然としない。 すると、真横から乾いたコンクリートを蹴る音が聞こえ、しなやかでも柔らかくは映らない背中が歩き始めていた。数拍遅れて追う。 上ったのなら次はおりるのが道理だ、またゆっくりと下っていく道を足裏に籠めた力で消化していく。 途中トンビに注意・飲食注意と書かれた看板があって、ここに辿り着く前に食べ終わってよかったと横目で安堵する。精市くんはものすごい防衛力を発揮しそうだけど、私なんかは彼らの恰好の餌食になるに違いない。 無風じゃなくても尚暑い夏から空想で逃避する頭上にて、ゆったりと旋回している噂のトンビは風を受け気持ちよさそうだった。 やがて下り坂も終点、目線が地上とほぼ同じくらいになった頃、道路から砂浜へと続く階段の方角を指した精市くんが唐突にこぼしたのである。 ちょっと寄ってみよう。 言い方は断定的ではないのに、行動の方はかなり決定づけられていた。 こちらの答えも聞かずさっさと進路を海辺寄りに変更する。待ってと引き止める暇もない。 海水浴場は近いもののこの辺りは遊泳禁止区域らしい、ピクニックシートを敷く人や波打ち際を散策している人、水深が深い所でサーフィンをしている人がちらほらと夏を楽しんでいる。 幅が広く、段の浅い階段を下りていく精市くんの足取りは軽い。 突然の事で反応も何もかもにもたついた私は、歩き弾むつむじを見ながら後に続いた。 波音が近くなる。潮の香りは体をくまなく包み込む。太陽に焦がされた砂粒から伝わる温度が、コンクリートの比じゃなく熱い。 これは裸足だと厳しいかも、どう頑張ったって沈み込む足を慎重に進めていると、 「、入ろう」 学校行こう、家に帰ろう、に似た非常に軽い調子でとんでもない提案を寄越された。 ぎょっとして地面へ傾けていた鼻先を持ち上げ、穏やかに笑ってはいるけれど絶対に本気なのがわかる表情とかち合った。 「足だけだよ」 再びの何言ってんのこの人視線を隠さぬ私に安全性を訴える彼であったが、なんだー足だけかーじゃあいいよーなどとはしゃいで答えられるわけがない。 「そんな無茶な事……」 出来ない、辞退するより早く精市くんがせっせと裾をまくり始める。見事に話を聞いていない。 「待って待って、ちょっと待って! 本気? 冗談とかでなく!?」 「道路を歩くより涼しくていいんじゃない」 これは間違いなく本気、本気も本気の大本気だ。 焦る私を置き去りに、海へと引きずりこもうと企む、悪ふざけにも手を抜かない神の子がついに履き物を脱ぎ捨てた。放ったそれが砂にまみれようと顧みもせず、一秒ほども躊躇わないで打ち寄せる波へと足を突っ込んでいく。 ギリギリ水を被らない辺りで押し留まった私は砂の色が濃くなった部分で戯れる様子を呆然と見つめるしかない。 ざぶと水面を掻き分ける精市くんの脛は、すっかり海に浸かってしまってい、合間合間で潮騒がわななく。 「ほら」 早く。 急かす人の髪が、日の光を浴びて生き生きと風になびいている。 「む、無茶言わないでってば……無理だよ、タオル持ってないし」 「冷たくて気持ちいいよ」 「いやだから」 「砂浜の方が熱いだろ。火傷する前に、こっちにおいで」 「うんだからね」 意見を受け取るどころかはなから聞かれもしない内に事を推し進められてたまるかと口を動かしていたら、少しばかり浜辺へ戻ってきた彼がおもむろに腕を伸ばしてくる。嫌な予感がした。 考え直して海から上がってくれるんでしょうそうでしょうそうであって下さいお願いしますどうか何卒。 祈り終わる前に手首を掴まれた。 「えー! ちょっ…ほん、ほんとに、マジで言ってるの!?」 「俺が君に嘘を言った事があったかい」 「え、な……ない…ないけど、あのでも私」 「大丈夫。服までは濡れないさ」 他は濡れるという事だ。 「いや待って、私スカートだし、濡れたらおしまいっていうか困るっていうか、」 言い募る間にも体が引っ張られ、否が応でもミュールを脱ぐ破目となり、結果として彼の思い通りになってしまうがしかし、抵抗しようにもその方法がわからない。 にこやかに手を握る人は更に恐ろしい案を持ちかけてくる。 「じゃあもっと深い所まで行こうか。波打ち際にいたら、飛沫で濡れてしまうから」 「行ったらすごい足濡れるじゃん!」 「海に入って濡れない方がおかしいと思うな」 そんな風に言葉の最後に微笑みを足して、伸びきっていた腕を一気に縮めた。 心構えも身構えも出来ていなかった私はあっけなく引き寄せられ、冷たい渦を作る波間に両足が沈む。小さく跳ねた水の粒や泡が肌を濡らした。 やったよこの人、ほんとにやった。 驚愕を通り越して最早感心する。 言葉も出てこない。 無茶苦茶にもほどがある。 足の裏で蠢く砂がくすぐったくて、爪先をよじった。柔らかで心許ない感触に、心地良さより歩きにくさが先立つ。絶え間なく行きつ戻りつを続ける波が思った以上に力強く、いつの間にか手首から掌へと移っていた大きな掌を頼って握り締めれば、躊躇わず返された。 手が夏の所為ばかりじゃなく熱を帯びる。 下方で縦横無尽に飛び回る、スカートまでは届かぬ水飛沫が肌に当たって涼しい。 引き波を堪えるには結構な力が必要で、水着ならまだしも普通の服装でしかない、しかも濡れたら一発でゲームオーバーという状況が加わると、しがない女子高生の私にはかなり分が悪かった。 不安に駆られ繋いでいない方の手を伸ばす、しっかり受け取られ、頼もしいけれどまっすぐな感謝は出来ない。 誰の所為だと思ってるんだ。 毒づくものの、胸の中でだけだ。 言葉にする度胸はないし、また、本当に涼しいだとか言う通り冷たくて気持ちいいだのちょっとだけ楽しいだとか思ってしまっていては、資格もなかった。 後始末の事を考えずにいられたらもっと心の底からはしゃげるかもしれないのに、考えるとなんだか余計に悲しい。頭の出来は良くないくせにこういう時馬鹿になりきれないのは不幸だとさえ思う。 お互い向き合った形となって、今日一番近くで海の香りに触れている。 肌を焼かれ、喉は渇き、水が青々としてうねる。 煌めく夏景色に視界一面が染まりきった。 「……足、思いっきり濡れた……」 「涼しくなって良かったね?」 「いいけど、よくない」 「あはは、全否定はしないんだ」 「し、ない…けど、どうやって帰るつもりなの。拭くものもないし……ていうかまず水で足洗わないと」 「放っておけば乾くよ」 「海から上がってそのままでいた事ないでしょ、精市くん。べたべたして気持ち悪くなるんだからね、それでビーチサンダルじゃない普通のやつ履いて帰るとかプチ拷問だからね!」 「へえ、は経験者なのかい」 「…………」 「二度ある事は三度ある、か」 「……一回しかやった事ない。今日のが二回目」 「はは! じゃあ、二回目も濡れたまま帰ろう」 「帰れない!」 「なら今日は、ずっと一緒にいようか」 「そ…っういう意味で言ったんじゃないよ、今のは!」 私の周りで巻き起こる騒ぎの発端は、いつだって精市くんだ。 |