▽夏草のつわものども 空から矢の如し鋭く降る光の作った日向は、凝縮された熱で満ちている。 遍く照らし出された緑色のテニスコートが目の奥を焼いた。足元の煉瓦道など、今にも焦げた臭いを漂わせてきそうだ。地を這い、ともすれば俺の背も越して重苦しく滞留する空気が、肌という肌にびっしりと纏わりつく。 この灼熱を懸命に生き抜く木々や植物達はどこか気力を失い萎びて見え、鮮烈極まりない陽光に輝く地面へ濃い影を落としている。 真昼のわずかな暗闇は他の季節と異なり伸びず、短く切り落とされて縮こまっているから、一時的な日差し避けにもならない。 汗の粒が背筋を伝う。喉は渇きを訴える。強すぎる光の影響を受け、瞬きする度目蓋の裏が明滅した。 紛れもなく、夏だった。 今年もまた特別な季節と巡り会えたのだ。 部室前の通路に立って眼下に広がるコートを眺めたはいいが、ボールを跳ね返す音が聞こえてくるわけでもない。 しかしつい耳を澄ましてしまうのは、体どころか骨の髄まで染みついたテニスという俺を形作る重要な芯の所為だろう。 夢に見た。 見たくなくとも夢にまで見た、ラケットの感触、緑に映える黄色のボールを打つ反響音、シューズで一歩踏み込んだ時の摩擦。 病室では真実、夢でしかなかった。 閉じ込められた四角い箱の中でろくに息も出来ずに喘ぎ、常に傍にあった現実が消えてなくなって、けれど一歩先にさえ進めぬような闇へ叩き落とされた記憶はなくならない。 体で思い知った恐怖を制するには、自分で考えていた以上の時間と折れぬ心が必要だった。 費やして費やして、足元を踏み固める。 出来上がった土台の上に道を作り、進むべき方向へと伸ばしていく。 必然の勝利。 日々なくてはならないテニス。 繰り返し、飽きもせず、決して弛まず、俺が俺でいる理由を再び取り戻していかねばならなかった。 大丈夫、簡単だ、今までもそうして栄光の輝きを掴みとってきた、同じように築き上げればいいだけの話なのだから。 見渡す限り人影のないテニスコートに遣っていた視線を断ち切り、誰かの暴投で折れ曲がったフェンスへ移した。 そこで一度瞳を閉じて、すぐさまこじ開ける。目蓋の幕を降ろしていようがいまいが、光の眩しさに変わりはなかった。 揺れもしない強烈な日差しが突き刺さる。 無風の正午に好きこのんで外へ出る生徒はそうそういないらしい、コートに限らず辺り全体に人気はなく、喧しく奏でられる蝉の声のみが寄り添ってきていた。 白色に支配された壁は静寂という表現が似合いだ。 昼は勿論、夜になると尚更黙り込む。家とは違う。 子供の頃、家族で旅行した時に泊まった旅館やホテルとも違う。 死んでいるのか生きているのかわかりやしない。暗闇に慣れた目が仄かに薄明るい天井に向かい、縫いつけられて動かなくなった。 深いしじまの彼方を超えてやって来る、かつて身近であったざわめきは儚い。 いつかの歓声が聞こえる。 いつかの賞賛が蘇る。 優勝旗を掲げて、熱に酔い痴れ、信じるまでもない程当然だった勝利と共に在った、いつかの夏。 たとえ胸の内だけだとしても、テニスがしたいと呟くのを禁じた。 一度負けてしまえば全てが過去になる。ただただ、早く帰ろう、一秒も遅れる事なく戻ろう、願いよりも祈りよりも強く刻んだ。 有り難い事に見舞い客がひっきりなしに訪れてくれたお陰で、目標を抱き続ける事はそう難しくなかった。 家族に始まり、学校の先生に今よりずっと子供だった頃お世話になったテニスクラブのコーチ、テニス部に新しく入った一年生やあれやこれやと理由をつけては顔を出しに来るレギュラー陣、卒業した諸先輩方、一、二年次同じクラスだった生徒、ノートやプリントを運んでくれる現在のクラスメイト。 巡回に来た看護師さんが、私が知る中で一番顔が広い中学生だわ、笑うくらい多岐に渡っている。 途切れぬ人と人の繋がりの中で、確かに俺はまだ立海の生徒であり、部の部長なのだと知った。 だから耐えた。 急く気持ちを堪え、じっと待ち、医師の話に耳を澄ませ、来るべき復帰の日の為力を蓄えて怠けず準備をするべきだと信じたのだ。 冬が来なければ春も訪れない。 今はその時期だと思った。人より少々冬が長いだけだと言い聞かせ、人より長く経験した分存分に春を謳歌出来るはずだと腹に据え、しっかり唱えた。 日に日に暖房の必要がなくなっていき、暦の上での冬が去って、命に芽吹く春が来る。 病室に差しこむ光はうらうらと温い。 やがて春も行き過ぎ、桜が散って、初夏を迎えた。狭い部屋から見下ろした若木の緑が目に深かった。 確実に移ろう空模様は曇りの様相を濃くし、窓や路地は梅雨で濡れ光るようになっていく。湿気に満ちた空気が室内にまで染み込んだ。 鬱陶しい雨が上がれば、待ち望んだ夏はすぐそこだった。 そうやってこちらを見向きもしないで通り過ぎる季節を超えていく中で、毎夜ごとに、自分自身でも気づかないくらい少しずつ、絶望していく。 いつまで待てばいい。 俺はいつまで、一人冬に取り残されたままでいればいい。 衰えは隠せなかった。笑えない冗談かという程細くなった腕が、時折ものを取り落とす。 箸ひとつ満足に握れぬ日もあった。筋肉の削げ落ちた足で、それでもベッドでずっと寝ているよりはましだと、院内を黙々と歩く。 せめて握力だけでもと密かに持ち込んだ専用の筋トレ用具を死にもの狂いで掴み、一年生の時より握り込めていない気がして、長い長い息を吐いた。 肉体能力の低下は精神にも多大な影響を及ぼす。 忍び寄る諦観を黙殺し、初めに抱えた目標も手放さず、見舞いに顔を覗かせた人達に必ず戻るよ、笑ってみせていた俺の、奥底のまた奥に潜んでいたその絶望が表面化したのは、ひどく残酷な宣言を耳にしてしまった時だ。 可哀相に。 かなりの難病だからな。 テニスなんて、もう無理だろう……。 何度も何度も聞こうとして、言おうとして、その都度唇を噛み血を流す思いで耐えてきた事を、あっけなく、何の躊躇いもなく告げられてしまった俺の、可哀相な病人扱いされた俺の気持ちが誰に理解出来る。 他人が発したほんの数言で胸は腐り落ち、奈落の底まで転がっていった。 だったら何の為に、何を目指して、苦に苦を重ねここまでやって来たんだ。 抑え殺してきた分、反動は凄まじく、止めるすべもない。 叩きつけられた勢いが強烈だっただけに、是も非も判別つかぬ程混ざり合った泥まみれのような感情は一気に噴き出た。 戻れないかもしれない日常を心底憎んだ時があったし、テニスの話をするなと子供じみた癇癪を起こした日もあれば、見知った顔が揃ってかけてくれた優しさを踏みにじった事だってあった。 望んだわけでもないというのに、自分が自分でなくなっていく。 俺が思う、これまで思ってきた幸村精市という人間がわからなくなっていく。 行く所まで行き、落ちる所まで落ちる。それでも最後の最後まで失わず、失えないものがひとつだけ残っていた。 倒れた秋や入院した当初よりも尚深く、混迷を極める闇に差した一条の光は、この期に及んでやはりテニスだったのだ。何を差し置いても他には有り得ない。 間に合うかどうか全く不明の、全国大会が間近に迫っての手術を乗り越えて、軋む体でリハビリに臨んだ。 途絶えた時間と時間を繋ぎ合わせるように、テニスから離れてしまっていた自分を引き寄せるように、継ぎ接ぎし尽くして壊れた箇所が跡も残さず治るように。 手すりを掴む手が汗で滑る。それでも一つとして落とすまいと握る。 指を回す。思いを籠める。力むそばからみっともなく震えてしまい、歯噛みした。 引き攣れた傷がじくじくと痛んだ。 数歩も進まぬ内に足が萎える。力が入らない。体を支える事が出来ず、くず折れそうになっても、必死に押し留まった。 固形物だった食事は手術を境に流動食へ様変わりし、味もくそもないというものになったが残さず飲み下す。 低下した体力を取り戻す事が重要なのだ。 それにはまずよく食べ、よく眠らなければ何も始まらない。 苦悶の声が、引き結んだ唇の端からぼろと情けなくこぼれていく。 食い縛り、よっぽど固い紐で結わえ、無理矢理身の内へと押し戻した。 決壊したが最後、弱音と一緒に何もかもが溢れるからだ。 手遅れではないのか、本当に冬は終わるのか、戻る事が叶うのか。 果たして間に合うのだろうか。 ラケットを握り、思うさまコートを走って、打ち込まれるボールを叩き返せるのだろうか。 酸いも甘いも、美しきも醜さも、乱暴にまとめてものにする。何であっても蓄えるべきだった。 どんな事でも、この先で待つ勝利に続いているはずだと信じ、糧にした。 今までになく鬼気迫る様子だったのかもしれない、病院のスタッフの人もやや気後れしているように見えたが、関係ないとばかりに励み通す。 流動食が再度固形食へ戻り、両足の踏ん張りがきくようになって、試しに握り締めると生意気な後輩が痛いっすマジでイッテエ死ぬ死ぬ骨が砕けると喚く程度には握力が戻った頃。 俺は、意に反し長く根づいてしまった病室を後にした。 不本意ながら久しぶりと言わざるを得ないテニスコートを見下ろして、真夏の暑さも構わずじっと佇む。 長期休暇に突入した所為で記憶よりも些か静かな校舎、反対に熱気や密度を増す部室棟、仁王あたりがしんどそうに背を曲げるだろう熱射が目には見えずとも激しく存在を主張していた。 アクリル絵の具で塗りたくったように空が青い。 学校の敷地を超え、続く街並の向こう、端に入道雲がこんもりとした塊になっていて、その天辺は高らかに伸びゆく。真新しい綿色だ。 青草のにおいが肺まで浸透する。 道路に撒かれた水は数分も経たぬ間に蒸発し、煙めいた水蒸気でむせ返った。 豪雨のような蝉の鳴き声。蝉時雨とは上手く言ったもので、全く相応しい表現である。 こちらを刺し殺す勢いの日差しがすっかり白んでしまった肌に染みて痛むが、顔を顰める類いの痛みではない。 純粋な熱の発露である汗が額に浮き出、こめかみを滑り、顎を濡らす。 制服のシャツが腹周りや背に貼りついて、うんざりするくらい鬱陶しく、同時に心底喜ばしかった。 梢の囁かぬ風のない昼日中。 濃く深い影が木々の下で滴り、平たいだまになっている。 帰ってきた。 夢でも幻想でもなく、俺は帰ってきたんだ。 窓越しじゃない、病室から眺めるのではない、本物の夏が当たり前みたいに傍で輝いていた。 「――あれ、精市くん?」 懐かしい感慨に浸りきった瞬間とほぼ同じくして、背後ろから一人の女の子の声が響き、一瞬で過日の回想は消え去った。 俺は自然込み上げる笑みを隠せない。 はいつも無自覚に、タイミングが良すぎる。 「何してるの、一人で」 そこ暑くない、言いながら歩く手には膨れたごみ袋がぶら下がっていた。 休暇真っただ中の学校にいるのは大まかに夏期講習に出席する生徒か部活動がある者かのどちらかに分かれるのだが、彼女は前者である。 教室に人が入れば当然汚れやごみも付随するもので、夏期講習組には当番制で掃除が課せられているのだ。 確か今日は午前中で終わりだと言っていた、集めたごみを捨てる係でも引き受けたのだろう、引き摺るか引き摺らないかの危うい位置で揺れる2リットルの袋は重そうだった。 「夏は暑くなきゃ夏じゃないだろう」 滲んだ微笑みをそのままに返せば、実に怪訝な表情をされる。 「……だから何してるのって聞いたんじゃん。ずっと日に当たってたら、具合悪くなるよ」 「ずっとじゃないし、大体そんな軟でもないさ。俺の事より自分の事に気を配って欲しいな」 ごみ捨てるだけなのにいちいち熱中症対策なんてしてられません。 押し黙る彼女の顔には、堂々と書き出されていた。元々隠すつもりがないのである。 読み取った上で唇を開く。 「たるんどる。真田を見習いなよ、いつの時期も帽子を被っているじゃないか」 「それなんか違うと思う…熱中症予防とかじゃないでしょ…」 隣に立たれるといっとう背が低くなったよう感じる。 俺の身長が、あの頃より少し伸びた所為かもしれない。 一つにまとめた髪の毛をうなじの後ろで弾ませたは、ワイシャツの襟を摘みはたき、眉間に軽く皺を寄せた。 「ねえ、せめて日陰に入ったら?」 「ここがいいんだ」 次に寄越される言葉は決まっている。 「……なんで?」 ほら、思った通りだ。 一層笑うしかなくなる。 「フフ、なんでだと思う」 「またそれ……。……テニスがしたいなーって考えてたとか?」 「うーん、まあギリギリで丸にしてあげようか」 「なんかすごいお情けで妥協された感満載なんだけど」 「まだ粘ってみる?」 「…………コート整備がいまいちだ、けしからん」 「残念、正解から遠のいた」 ついつい甘くなる語尾に対し、彼女はというと難問を前にした時の顔つきで黙り込んだ。 察するに、解を得た所でどうという事もない問いを真剣に解き崩さんと挑んでいる。 口角が独りでに持ち上がっていく。 遡れば中学入学時から顔を突き合わせ、今に至るまでを過ごして来た。 初めて会話をした時はまだ、幸村くん、さんと呼び合う仲だった。 雨に濡れ、しっとりと髪の毛を垂らし、タオルもハンカチもないと呆然自失の状態で俯く首がやんわり細い。忘れた傘にこだわらずまっすぐ走る姿を思い浮かべたら、なかなか爽快な気分になった。 流れる一方の時間は引き止められやしないけど、裏切る事もない。 俺にも、彼女にも、等しく降り積もっている。 ちょっと忘れっぽい、見ていると面白い女の子は、入院中たび重なる席替えを乗り越えちょくちょく顔を見せに来た。 ノートや連絡事項の書かれたプリント、時には花を抱え、なんだ幸村くん元気そうじゃん、聞くまでもなくすぐにわかる顔つきで、教室にいる時と同じように話し始める。 花壇の様子。今の席はどの辺りなのか。 次お見舞いに来る人の名前、行事の準備でぐったりしている事。 体力測定で派手に転んだのだと膝にガーゼを巻いて現れた日もあった。 相変わらず傘を忘れれば走って切り抜けるらしく、タオルを貸す。 頼めば、いいよ、と気合が入っているのかいないのかがわからない、ごく普通の映りである写真を送ってきてくれる。 一緒にケーキを食べた。お茶を飲んで、ひと息ついたようにほっとした顔をする。 大丈夫だと口にすれば、幸村くんがそう言うなら信じるとばかりに頷かれしまい、気が抜けていく。 誰しもが気遣わしげに、懐疑的になる所を、あまり疑わない。 俺自身さえもう信じきれるか危うくなっていた復帰を、そうなんだ、じゃあもう退院だね、何でもない事のように受け入れた。 彼女はのちのち自分で懺悔した通り、無知だった。何も知らず、あらかじめこれこれこうだと説明してしまえば知ろうともしない。 だから軽々しく信じる事が出来るのだ。 それを勝手ながら苛立たしく思った時もあったが、同等に、あるいはそれ以上に勇気づけられたのも確かなのだった。 二度と味わいたくはない、終わりの見えぬ闘病生活の中で、俺はまた恵まれてもいたのだろう。 数多くの支えがあった。 その内のひとつは、本人はそうと知らずに深部まで触れ、杭を穿ち、崩れぬように打ち立てるのを助けてくれたのは、間違いなくだった。 ――だから、そうだな。 約束もしていないのに今日会えたのは、あまり好きじゃない表現ではあるけれど、奇跡みたいな偶然だ。 まだ難しい面持ちで考えている人をよく見澄ますと、スカートの端には小さな葉が引っ掛かっているし、夏には暑いだろう靴下がかすかに土で汚れており、ローファーにも乾いた色合いのそれがこびりついていた。 正しい通路ではなく、横着して近道を突っ切ってきた動かぬ証拠である。 夏の熱と午後の気だるさにかまけて校則を破ったらしい。 でも今日は、黙っておいてやろうと心に決めた。 前触れもなく音も立てずの腕からごみ袋を奪い取ると、案の定驚きに見開かれた揃いの瞳が俺を見つめる。 「はこっち」 何事かを言い差したのか、中途半端に開かれた唇から声が漏れる寸前、空いている方の手で指を掴み捕えた。 柔い指先がびくりと震え、怯えたようだった。 思いきり狼狽え、しかしされるがままになっているのが愉快極まりない。 「え、え!? な、なにっ…いきなりどうしたの?」 慌てふためく声音は俺が強引に引っ張り歩いている所為で、弾み揺れてしまっている。 踵を返してテニスコート側から逞しく枝を伸ばす木々の植わっている方へと足を向け、ごみ捨て場ととことん色気とは無縁の場所を目指して進んでいく。 「うん? どうもしないよ」 「い、いやどう見てもしてる……」 「には当てられない」 「………はい?」 だからこそ、この子が大事だったのだ。 「君が当てるのを待っていたら、二人揃って干からびかねないもの。ああ、安心していいよ。不合格でも何でもないし、ばっちり丸をつけてあげるからさ」 ばらつく軽めの足音を背中で聞きながら歩いてゆけば、むっと草いきれに包まれた。 下草をなるべく避けたのち、熱を帯びたスニーカーの底で踏みしめる。 夏の盛りの香りが体に染み込んで、まるごと収まっているゆうに一回りは小さい掌を握り直して、掻いていた汗が現実のものだと確実に思い知る。 「………あの、聞いてもいい?」 「なんだい」 「よくわかんないんだけど…つまり不正解じゃないけど、正解でもないっていう事だよね?」 「いや。どちらでも構わないって事だよ?」 「ええー…ほんとにわけわかんなくなってきたー…」 「そう、俺はよくわかるけどなあ」 「そりゃそうだよ。精市くん自身の話なんだから、精市くんにわからなかったら誰にもわかんないじゃん」 眉を寄せ、脱力し、どういう事なのとしきりに問うてくる人が傍にいると思えば思うだけ、顔が綻ぶ。 「どっちでもいいよって言ってくれるのは嬉しいけど、大正解ってわけでもないんでしょ? なのにどうしてそんなに機嫌がよさそうなの」 とうとう俺は声をあげて笑った。 が醸し出す疑問で一杯の雰囲気も、弾む心を余計に浮き立たせる要因でしかない。 「ねえなんなの、ほんとに! 私また何かしちゃったの!?」 「あははっ! してないしてない、はいつもだよ」 「今の流れでそれって全然褒められてる気がしない……意味わかんないし、逆に怖いよもう」 あれ、じゃあ機嫌が悪い方が良かった。 間髪入れず返したこちらの悪ふざけを察知し、滅相もございませんと首を振ったが為に、春のそれよりきつい日差しを反射しすべらかに輝く髪が躍る。頬に掛かったひと筋をよけてやりたかったが、生憎両手は塞がってしまっていた。 校舎の影に差しかかると些か涼しい。蝉のわななきが近くなって、草むらからバッタだろうか、小さな虫が住処を荒らす人間の所業に慌てて飛び出してきても、背中越しのは臆さず言い募っている。まだまだ諦めるつもりはないらしい。 耳に響いて心地よい声を聞きながら、俺は言葉にはしないままで、出来得る限り誠実に答えた。 嬉しくもなる。 機嫌だって良くなるだろう。 何年経とうが忘れられない、覚えたくなくても刻まれてしまった、他人にとっては数ある茹だった夏の内のたった一日でしかない今日、意図せず会えたのだから仕方ないじゃないか。 の空気に胸がすっと透き通る。 体は軽く、進む足にはきちんと力を籠める事が出来て、繋いだ手は熱かった。 中学三年生の自分と高校生になった今の俺とが一緒くたになって、幼い子供のように喜んでいるのだ。 溢れ、込み上げる感情は尽きない。 遅れに遅れて俺は気がついた。 多分ずっと会いたかった。 あの時も、今までも、今さっきも。 そしてこれから先の今日も願わくば。 ああ、でも彼女には言わないでおこう、恥ずかしがったあげく、照れ隠しに手を振りほどかれでもしたらたまったものではない。普段なら可愛らしく思う所だが、今日だけは看過出来そうになかった。 (離したくない) 触れていたい――今日だけは、どうしても。 大好きだよと囁く代わりに強く、しかし宝物を仕舞うようそっと掌を握り締める。 の指と温もりが、俺に触れてくれている。 深く確かに、傍にいるのだと、絶え間なく。 数年前の今日。 長すぎた冬の終わりを迎え、退院した俺は何か月ぶりなのか数えるのも馬鹿馬鹿しい懐かしの我が家に帰り、その足で学校を訪れ、同じようにテニスコートを眺めた。 真夏の太陽に照らされた八月。 陽炎、逃げ水、蜃気楼。 夢に似た感触を恐れ、喜びに沸き、一人きりで幸福を噛みしめた。 あの日から、ずっとだ。 俺はきっと君に会いたかったんだ、。 だから会えて本当によかった、。 |