やまないシークエンス




聞きやすい声だな。
なんとはなしに抱いた第一印象は、飛ぶように過ぎ去る日々に埋もれてしまって当然の、凡庸なものだった。
部の連絡事項、人に頼まれて、起きているのかいないのか曖昧すぎる先輩に変わって、等々の理由から、鳳は下級生にも関わらず宍戸のクラスへよく顔を出す。
快活で何かと忙しいらしい宍戸は、いつも教室にいるとは限らない。
ならばと言伝を頼むにも見渡したところで上級生の知らぬ顔が並び、そう小心ではないにせよ躊躇せざるを得ない、出直すか携帯に連絡を入れるかと惑うた時、助け舟を出してくれたのが彼女だった。

「誰かに用事ですか?」

階が違うだけで空気の異なる教室前、しとやかな声にほっとしなかったと言えば嘘になる。
立ち尽くす鳳の背後ろから、プリントの束を抱えた女子生徒。
訝しむでもない、好奇心に輝くでもない、当然の親切心を浮かべた瞳が頼もしかった。
そのような喩えが相応しい相手ではなかったが、当時の鳳にしてみればまさしく天の助けである。

「はい。あの…宍戸さんがどこへ行ったか、わかりますか?」
「宍戸君?」

細い首は斜めになびいた。肩口から陽光を纏う髪が流れ落ち、ちいさな耳たぶも傾ぐ。
宍戸君なら、さっき跡部君が呼びに来て出て行ったけれど。
簡易な答えは予想外の展開を含んでいた為、えっと驚きの声が漏れた。
珍しい組み合わせだ。
元々自分の用は部に関したものだし、部長である跡部といるのであれば不必要かもしれない。

「伝言があるなら預かりますよ」
「え…あ、いいえ。大丈夫です」

失礼しました、丁寧に頭を下げ、きびすを返した後で慌てて留まる。
礼を言っていない。
漂う年齢差の気まずさと同時に聞く機会の少ない名があがった事が、礼儀正しい少年から礼儀を奪ったようである。
振り向けば親切なその人は、鳳に比べると随分低い背中をすっきり伸ばしながら立っていた。
すみません、ありがとうございました。
二度目のお辞儀に対し、扉へ触れていた手をわざわざ離してから体の向きを揃え微笑む、そのたおやかな角度。

「どういたしまして」



出会いなど些細なものだ。
特別美しい音色とは違うから、合唱部に所属しているというわけでもないだろう。
たとえばテニスコートの周りを取り巻く歓声に紛れてしまう、放送委員会に推薦されるほどかと言えばそうでなく、かなりの生徒数を誇る氷帝に在り、抜きん出て個性的な響きを含んではいなかった。
ただそれでも、すっと耳に入り込んでくる声だった。
当然のように馴染んで、優しく鼓膜を打つ。
体の中へと淡く溶け、大仰にではないにしろ、心のどこかでわずかに残る。

後になって、滴る雨音に似ている、思った。


二度目の邂逅は3年C組ではなく、グラウンドの端、ささやかながらもしっかり設えられた花壇のそばだった。
先んじて気がついたのは鳳の方で、プリントの束じゃなく如雨露を持つ彼女は水遣りに集中している、視線も合わない。
声をかけようにも第一声が選べず、サーブミスで大ホームランとなったボールを罰として探して来いと命じられたのを忘れた足が迷う。
焦げ茶色のレンガを端まで辿り、降り続いていた細かい水糸が止むや否や、如雨露を持ち上げる人が鳳を見、大きな黒目をしばたたかせる。
何故だか身が竦んだ。

「こんにちは」

しかし零れたものにすぐさま解かれ、臆せず返す事が出来た。

「こんにちは。先日は、ありがとうございました」
「ううん。大した事、してないもの」

掌を振ると同時、まだ水の入っているらしい緑色の園芸用品がちゃぷと音を鳴らす。
草花に関係する委員会かクラブに所属しているのかと尋ねてみれば、急用で帰らなければならなくなった友人の代わりだと言う。
あの日声をかけてくれたのもそうだが、この一つ年上の少女は人が好いのかもしれない。
自らもお人よしの部類に入ると評されていることなど知らぬ鳳は、会ったばかりの女子生徒を他意なく案じた。
空からめぐみの光が注ぐ。
生き生きと輝く葉の上で透明な雫がまるく溜まってい、弱い風に吹かれる都度ふるふると震え、しなった葉先から滑り落ちていく。土の色は湿っていた。

「部活は大丈夫?」

唐突ともいえる問いに反応出来ず、まばたきを二度三度。
屈託のない少女が笑声と共につけ足す。

「ランニングか何かの途中じゃないのかな」

言われて思い出した。
レギュラージャージで放課後グラウンドにいる、自分の状況さえ失念していたなどと笑い話の種にもならない。
気の急いた鳳は誤魔化しもせず、そうでした、忘れてました、と馬鹿正直に答え、はじめて会った日のよう踵を翻しかけたところで立ち止まる。

「失礼します」
「はい。がんばってね」

やわらかく揺れる手、指先が尾を引いて目蓋の縁に刻まれた。
軽く走り出す。
両足は先程黄色いボールが飛んでいった方へと進んでいるのだが、心はいつまでも背を向いたままだ。
がんばってね。
あれは自分に対してだったのだろうか。
否定の材料などなきに等しいとわかっているくせに、何度も確かめたりした。

遠く離れてから一度だけそっと振り向くと、新たな花壇に優しい雨を降らせている姿が、広い広い学園の片隅で陽光を浴びていた。


聞きやすい声は、耳によい声でもあったのだ。
ゆえに違和感を覚えず、そっくりそのまま取り込んでしまう。
響き。
言葉のかたち、音程、抑揚。
ピアノの鍵盤を叩けば彼女のそれは美しいメロディになって蘇る。
一つ一つに宿る音階を追いかける度、知らない街に置き去りにされたような、途方もない孤独が胸を濡らした。
だからこのどうしようもなく、晴れる日の想像もつかぬ感情が、いっとう特別なひとに対するものだとは気づかない。
圧倒的存在を前にして項垂れる無力。
寂寥ばかりが肩へ積もっていく。
楽しいと感じた事などないのではと疑問を抱きながら、繰り返し思い出している。
顔を見かければ、以降の一日が華やぐような気さえした。
けれど最後は決まって陽が陰る。
記憶の彼女へと触れる時はいつも膨大な寂しさが後をついて回り離れない。
恋ではなかった。
恋ではないと思った。
こんなにも身を切る想いが、周囲の友人、女子達の話すような、あまやかな幸福の一端であるはずがない、考える以前に選択肢から外した。
好きになればなるほど寂しい恋もあるだなんて、たかだか十数年しか生きていない少年が知る由もない。
教室。
グラウンド。
花壇のそば。
廊下。
すれ違い、声もなく会釈だけを交わす、微笑むひと。
甲斐甲斐しく辿る端から奈落の底へ落ちていく心地がし、行く先を失った呟きが絶望に萎れた。
――だって俺は名前も知らない。



よって初めに気がついたのは本人にあらず、何かにつけて下級生の面倒を見る機会の多い宍戸であった。
鳳にとって一番近い先輩だから、ごく自然な流れだったのかもしれない。
些細な変化がやたらと目につく。
訪ねてくる後輩は変わらぬようで、どこかがおかしい。
そわそわと落ち着かず、誰かの姿を探している素振りを見せ、しかし問うてみたところで何でもありません、一辺倒にしか返ってこない。
落胆。
一見それとはわからぬ喜色。
話が終わった帰り際、ぼんやり室内を眺めている。
これはもしかして、とある可能性が脳裏を掠め、決定的な瞬間が訪れないので確信出来ずにいたのだが、思いも寄らぬ方向から現れた存在を発端に、はっきりとした形と質量を帯びた。

「宍戸君、お話し中ごめんなさい。数学のノートをもらってもいい? 私、係なの」

そういえば提出日だった、とクラスメイトの進言で思い至った宍戸は謝罪の言葉を添えて、教科書類の詰まった机から指定されたノートを取り出し手渡した。
ありがとう。
いや礼言うのは俺じゃねえのか、忘れてたんだし。
笑顔がこぼれる。
それじゃあお邪魔してごめんなさい、提出してくるから。
よく話をする相手ではないにしろ穏やかで親切、というイメージがあった為、悪感情は抱いていなかった。
隣にいた鳳と顔を合わせるや否や頭を下げたのも、礼儀正しくあるよう育てられてきたからだ。
そう受け取り、んでさっきの続きだけどよ、教室の扉をくぐる背を送り出しがてら口にして言葉を失う。
長身の後輩は、完全に彼女を追っていた。
物憂げに伸びゆく視線が部活中と大違いに儚く、横顔など急に夕陽にまみれたような様相だ、俺の世界はたった今終わりました、と辞世の句でも詠みかねない澱みが窺える。

「……お前、それはわかりやすすぎんだろ……」

ほとほと呆れた宍戸の突っ込みのおかげで我に返った鳳は、すみません宍戸さん、ぼうっとしちゃって聞いてませんでした、性根と同様に素直すぎる応答をしたのだった。

黒か白かで言うのなら断然黒である。
問い詰める権利はないし、さしものお人よしでもそこまで小うるさく言われたくないだろう、迷ったのだが結局仕舞っておけなかった。
長太郎、お前ちょっとこっち来い。
汗みずくになる部活をこなして着替え終え、レギュラーの面々も帰路についた頃、テニスコートのスタンドに腰かけながら、近くを通った疑惑の発信源を捕まえたのである。
はい、なんですか宍戸さん。
また特訓に付き合わされるとでも考えているのか、背のラケットバッグを下ろし固唾を呑む、といった具合で続きを待っている。

「まあ、なんだ……こういう事はよ、俺がいちいち言うまでもねえっつーか関係ねえっつーか、お前も聞かれたかねえよな、ねえだろ、うん」
「……あの、一体」
「ただお前が感づかれたくねえって思ってんなら、話は別だ」

穏やかでない物言いだ、空気も滞る。
鳳は眉間を慎重に強張らせた。
とっぷりと暮れた空に灯りはなく、極めて細い月のみが浮かんでおり、昼日中ならば壮麗に映る校舎も不気味な威圧感で以ってそびえ立つ。
湿気た風は重たく、やがて訪れる夏をじっと待ち構えていた。

「いつのこと知ったんだよ」

意を決して疑惑を形にするも、

「……えーと………誰っすか?」

間の抜けた返事に思いきり背骨を折られた。
脱力し、知らず知らず力の籠もっていた肩が落ち窪む。
だがすぐに異なる懸念が沸き出で、砕かれた背筋もたちどころに完治する。
名前すら知らぬまま、あんな思いつめた表情になるほどの気持ちを育ててしまったのか。
他人事ながら気が遠くなってしまう。

「昼教室来た時いただろ。俺のノート取りに来た女子が」

頭下げて挨拶してたじゃねえか。
続くはずの台詞が、さっと色をなくした鳳のかんばせの所為で立ち消えた。
こういう話題にはそれなりの反応というものがある。
いくら己が大それた頭脳など持ち得ぬといっても、その程度であれば承知しているし、心情の出やすい後輩なら尚の事だ。
真っ赤になって押し黙るか、大慌てで否定をするか、わかりやすく嘘を吐くか。
大雑把に分けて三つのどれかに属するだろうと予想していたのだが、悉く外れていた。
紅潮の兆しすらない。
蒼白に染まるでもなく、甚だ率直な返答を寄越すでもない。
暗闇に飲まれ、引き止めなければどこまでも沈んでいきそうな風采で、宍戸の座る観戦用スタンドに腰を下ろすばかり。
硬直した頬が初夏にも関わらず凍りつき、さながら病人のようだ。
宍戸は溜息をつきたくなった。
こうなってはもういちいち尋ねるべくもないが、半端に首を突っ込んでおいて放っておくわけにもいかず、念を押す意味で口を開く。
あいつの事が好きなのか。
今更回りくどくしたとて仕方がない。
いつも後輩がそうするのと同じく、飾らず隠さず問う。
静寂が走り、層を厚くした闇は重たげに圧し掛かる。
鳳は長い沈黙を全面に押し出してから、蚊の鳴くような声で呟き落とした。

「…………わかりません」

呆然自失に片足を踏み込んだ響きに、これは根が深い、と即判断する。
時折羨ましくなるでかい図体を縮こまらせ、地面に視線を落としていても実際何も見ていないのが丸わかりの表情は、迷い過ぎて帰り道を失い憔悴しきった犬そのものだ。
愛犬家でもある宍戸は特にひどい例えだとは思わずに、むしろ愛着を込めて評した。


それから、自分の感情をコントロールするどころかろくに把握も出来ぬ鳳とは違った意味で、宍戸の方も落ち着けない日々を過ごす羽目になった。
単なるクラスメイトでしかなかった女子生徒が、よく知る後輩の想い人となってしまったのでやりにくくてしょうがなかった。
本当に級友程度の認識であったから、クラス委員だとか成績優秀だとか優しそうだとかあまり怒らないだとかぱっと見て知り得る事しかわからず、あの調子じゃ毎日世界が終わってんじゃねえのかとつい心配になる、悩める後輩の力になってやれそうにない。
具体的に頼まれたのならばまだましだ。
好きな人はいるのか、恋人の有無、趣味、好物、写真撮って来い、部活がオフの日はいつ。
頭や語尾に跡部君の、忍足君の、と付く女子の願い事をいくつか聞いてやった覚えがあるから、それくらいの協力ならば不可能ではないだろう。誰にも知られたくないというなら、バレバレだぞもっと気をつけろ、助言だって出来る。
だけれど今回は少しばかり話が違う。
何も言わない、救いの手を求めない、深みに閉じ込めて仕舞っている鳳に対し、軽々しい申し出などはどうしても躊躇われた。重すぎじゃねえかこいつ、冷静に考えると突っ込みたい衝動に駆られても、いざ本人を前にしたらば指摘する気も失せる。
わかりませんて。
んなわけねーだろうがよ、あんだけ目で追いかけといて。
匙を投げておきながら捨て置けぬのが、宍戸の短所でもあり、尊ぶべき美点だ。


「よければ全部任されましょうか」

差し迫る大会へ向け一刻も早く部活に励みたいのを耐え、掃除に精を出そうとしたところ、鳳を思い出さずにはいられない同級生の声がした。
問いかけがわざとらしく慇懃なのは、悪ふざけを混ぜる事で後腐れなく行けるよう気遣ってくれているから。
教室での様子を目にしていれば、誰でも悟る事だった。
そんな当たり前の事実さえ知る事が叶わぬのだとしたら、鳳の絶望振りも理解出来るような気がした。

「いやいいぜ、気にすんな。誰か身代わりにして部活行くと跡部がうっせーんだ」
「そう? 真面目だね、跡部君。私もみんなも、ちっとも気にしないのに」

ころころと転がる笑い声は軽やかに舞い、ざわめく放課後の空気へ流れていく。
手にしたほうきで廊下を掃く少女の肩のそばを、窓から差す光によってきらめく細やかな埃が漂い散っていた。

「……あのよ」

ひと声投げれば、ごく一般的な色をした瞳が見上げてくる。
こう言い切っては非難轟轟だろうが、彼女は一人の男を深い谷底まで叩き落とすほど絶対の魅力の持ち主ではないのだ。
愛らしくはあるが、それもこの年頃の少女であれば想定の範囲内、顔立ちも群を抜いて美少女というわけじゃない。

「あー…いや……、はいいのかよ。部活とかやってねえのか」
「なんだ、そんなこと。私は急がなくちゃいけない理由なんてないから、大丈夫だよ」
「帰宅部なのか?」
「ううん、入ってるよ。頼まれて名前だけ貸してるの。恥ずかしながら幽霊部員です」

完全なお節介だと迷いつつ、なるべく遠い方向から探ってみれば、真面目に見えたクラス委員の意外な一面が顔を出す。

「なんの部だよ」
「うん? 将棋部」
「将棋ィ!? マジかよ」
「マジですよ」

なんだかみんな同じリアクションするんだけど、そんなに似合ってないかなあ。
のんびりと緩む頬が、一か所に集めたごみを取りあげる為に屈んだ。

「っつーか、女子いなくねえ? 男ばっかなイメージだぞ」
「そうだね。私の友達と、あと数えるくらいしか女の子はいないみたい」

なるほどそれで頼まれて、か。合点がいった。
いつの間に持ってきたのか謎であるちりとりへ向かってほうきを動かす少女のつむじを見遣りながら、どうやって一度テニス部の練習を見に来させるか、策を練る。
他人事だというに、まるで自らに降りかかった試練のよう挑む宍戸は、彼の後輩とそう変わらぬレベルのお人よしだ。

「でもいっつもサボってるわけじゃないんだよ? きちんと顔出してるんだから」

将棋はちいさい頃、おじいちゃんに教えてもらったの。
あんまり強くないんだけどね。
謙遜は卑屈に曲がらず、自然な音色で奏でられていた。
偽らぬ相手を騙し討ちに誘い込む心地へ陥り、口にすべきか惑うたが、世界の終わりを黙って見守るかの如し鳳が頭をよぎったので躊躇いを振り払う。
気楽なのもいいんじゃねえか、うちは暇がねえからよ。
自分が強引に誘ってはあらぬ誤解を受けてしまう、それでは意味がない。

「テニス部は大変そうだものね。今年はすごく強いって聞いたよ」
「お…っ、おお! こ、今年はそうだな、二年もなかなか調子いいからな!」

妙な力が入ったが、はテニスへ対する情熱だと受け取ったらしく、別段不審がらずに会話を続行した。

「そうなんだ。後輩の子が頼もしいと、嬉しくなるよね」

一緒くたにするつもりはないけれど、別の所では全く当てはまらないものだから、はいそうですと答えるべきなのに力が及ばない。
胸中の葛藤に気取られ返事を考えている間、冷や汗が流れる錯覚を抱く。
俺関係ねえのになんでこんな焦ってんだ、八つ当たりに近い憤慨が芽を出した一瞬、

「ああ、もしかして、いつも教室に来る子が頼もしい二年生なの?」

宍戸の沈黙を肯定とみなした少女が、高らかな調子で紡ぐ。

「背が大きい子でしょう。私最初、同い年なのかと思っちゃった」

喜べ長太郎、しっかり認識されてんぞ。
つられて不覚にも叫びたくなった。

「あ…ああ、あいつ、長太郎な。知ってんのか」
「うん。何度か話したことがあるんだよ」

ちりとりを揺らし、表面ですべる塵埃を手元の方へ寄せ、下方にあった影がふいに立ち上がる。
形よく曲がる唇が少女の頬へと優しく食い込み、明るい日向のような笑顔をつくった。

「いつもちゃんと挨拶してくれるんだ。優しそうなのにテニス強いんだね、意外だあ。試合とか見てみたいかも」

もうよっぽどメールで知らせてやろうかと思った、とのちのち宍戸は語るのであった。



陰ながら応援する者の存在を認知出来ぬ張本人は、盛り上がる周囲を尻目にどんどん混迷の闇に沈んでいく。
吐きどころのない想いは膨れ上がり、がそばにいない時の挙動にすら危うい部分が滲み出て、瞳の内側がうつろにほのめく時間が長くなった。
最近様子が変じゃない、と直接宍戸に尋ねるのは滝だ。
同じくこういう事に鋭そうな忍足は、一切関知しておりません、という顔つきで見て見ぬ振りをしてやるつもりらしい。
さあな、俺はなんも聞いてねえからわかんねえよ。
口ごもらず、なるたけ不自然に映らぬよう、ぶっきらぼうに答えたが、受け取った滝の表情からして露見している可能性は高い。
そう。宍戸も大変だね。
にこやかな男はそれだけ言って、会計の仕事に戻ったのだった。


そういったごく一部でかわされるやり取りも、宍戸のなけなしの気遣いも、何もかもを水の泡と化す出来事が立て続けに起こるのだから、人生とはまったくもって先行き不明だ。


とある放課後、部室でウェアに着替えていた時の事である。
いかなる場所でも夢と現実の狭間でたゆたう慈郎が、寝惚けた有り様で宍戸の名を呼んだ。

「あ〜そうだ〜、ししど、俺のノート知んない?」
「知らねえよ。なんで俺がお前のノートの面倒まで見なきゃなんねんだっつの」

ソファに座る者、ロッカー前で制服を脱ぐ者、机上のプリントを整理している者。
各々が動くさ中、鳳はというと珍しく余裕があるのか、間延びした声にあたたかな苦笑を浮かべている。

「えー、おかしいなあ? こないだ出したやつ、ししどに渡したっていわれたんだけど」
「ハア? 誰にだよ。つーかお前どうせどっかで寝てたんだろ、寝んならせめて教室にしとけ」

うーんダメだ、思い出せないや。誰だっけ?
誰だっけじゃねえよ、同じクラスの奴の名前もわかんねえのか。
さっさと着替え終わった宍戸がロッカーの扉を閉め、だらしなくシャツを垂らした慈郎を問い詰めた。
ふざけた調子で、おい頑張って思い出せよ宍戸、と茶々を入れるのは向日だ、げらげら笑い飛ばしつつ椅子から跳ね下りる。

「なんか優しそうな声してる奴。俺が寝てても怒んないの」
「全っ然わかんねえ」
「えーっと、あれだ、クラス委員?」

ドガ、だか、ドゴ、だかわからぬが、濁音まみれの激突音が狭くはないはずの部室内に響き渡った。
皆の視線の先には、無駄に大きな背を丸めて痛みに耐え忍ぶ、鳳の姿がある。

「なんや鳳、エラいいったそうな音立てよったなあ」
「す…すみません…」

レンズの奥にまたたく瞳をゆるやかに湾曲させた忍足は、真意の読めぬ声色で言う。
大丈夫です、なんでもないっす。
おそらくそのように返そうとしたのだろうが、宍戸は己の中に生まれた閃きにはっとした、し過ぎたおかげでつい遮ってしまった。

「あ、か!」
「おーそうそう、その子ー!」

再びの轟音。
今度は本格的にロッカーへのめり込む勢いで、中に仕舞ってあった雑貨やら制服やらが雪崩れて転がる。
馬鹿かお前は。
近くにいた日吉が心底迷惑そうな顔で吐き捨てた。
四散した私物を滝が拾ってやっていて、宍戸は内心頭を抱えた。
最早打つ手も浮かばない、とりあえず一刻も早くこの場から脱出しろ、と空を掻くよう慌てふためき己の荷を片付ける後輩に向けて無言のまま指示を送る。

「渡されてねえぞ」
「マジかー」

言う割に困っていなさそうである寝惚けまなこのチームメイトと、そ知らぬ顔で会話を続行し、視線の束が一点集中するのを回避せんと試みつつ、頼むからクラス委員って聞いたくらいで動揺すんじゃねーよ俺まで動揺すんだろうが、音も立てずに詰った。
周囲の様子、反応を確かめたい衝動に駆られ、だが実行すれば余計困窮に喘ぐ羽目となりそうで出来ない。
上手くフォローしてやれる自信がないし、自らが好奇の的となると、ひいてはまでもが晒されてしまうかもしれないのだ。
しかし後輩の状態異常を見逃す不自然極まりない挙動がより違和感を抱かせる事に繋がるのだと、親切な先輩は気づかない。鳳ほどにではないにしろ、彼もまた焦っていたのだろう。
身長に準じて長い脚の真ん中、膝が床から離れる。
開け放たれていたロッカーがしずしずと閉まった。
手を貸してくれた滝への謝罪と礼を忘れず、素早い退出も同時進行させる鳳は着実にドアと距離を縮めていく。
そのまま行け!
ここは俺に任せて早く逃げろ!
映画でよく目にする台詞とシーンに似通った境地、わけのわからぬ勢いで宍戸が念じる中、高速サーブを繰り出す右手がドアノブを掴もうとしたその時、

「おい、ジローはいるか」

跡部の登場と共に開かれてしまい何もかもが挫かれた。
一歩退く鳳のそばを、跡部に従いラケットバッグを二つ抱えて現れた樺地が通り過ぎる。外と部室内を繋ぐ出入り口が儚く閉ざされ、宍戸は絶望した。
もうダメだ。
聞きたくもない破滅への輪舞曲を無理矢理聞かされた心境に叩き落とされる。
何故かというと跡部の手には、快眠の証たる涎でよれよれになったノートがあった。

「俺様の手を煩わせるんじゃねーよ。自分のもんくらい自分で管理しろ」

あれーもしかしてそれ俺の、慈郎がのん気に指をさす。

「それからクラス委員に迷惑かけてんじゃねえ。相当泡食ったツラしてたぜ、確か……だったか」

今日一番の快音が響き渡った。
引かねば開かぬ所を力一杯押した鳳が、当然塞がったままのドアへと額を打ちつけたのだ。
音を聞いているだけでも鈍痛が伝わってきたので、かなりの衝撃を受けたに違いない。
患部を抑えて蹲る哀れな少年の横を、救いようのない阿呆がと冷たく見下ろす日吉がすり抜けていく。
絶対零度に蔑まれた方は遅れる事数秒、どうにか体勢を立て直し、頭へ遣った手は外さず後に続いた。
先程のけたたましい衝突音の源と思えぬほど、ゆっくりと、静かに扉が閉まる。
微笑みながらも困り顔の者、人知れず冷や汗をかく者、何が面白いのかうっすら笑う者、両腕を後頭部に回しのびのびと次の展開を待つ者、手渡されたノートを握った途端眠たげに目蓋を落とす者、ただただ黙して沙汰を待つ者。
居並ぶさ中、テニス部どころか学園全体を掌握しているであろう絶対王政の覇者が口火を切った。

「……で、鳳のあのザマはなんだ?」



同じ二年がいては何かと具合が悪いと判断したのか、せめてもの情けなのか、念の為保健室に行くよう言ってこい、と樺地を送り出した跡部と思い思いに自白を待つ部員へ、洗いざらい説明しなければならなくなった宍戸はこの上なく不運な男である。巻き込まれ事故も良い所だ。
何分デリケートな問題なので省ける部分は省き、無関係のについてまでは言及しなかったが皆相応に納得したようで、宍戸の言葉が潰えると場が沸いた。

「そうじゃないかなとは思っていたけれど、やっぱりね。宍戸、お疲れ様」

滝のねぎらいも今や疲労感を増やす重石と化している。
申し訳ないが、ありがとよ俺頑張ったぜ、言い切る気力はやはりない。
途中で飽きたらしくソファで寝こける慈郎の態度の方が逆に有り難い、本人にそこまでの意識があるのか怪しいが、少なくともこの場においては優しい無関心である。
どこをどうやってかのノートが渡り歩いたのかを宍戸が問うと、慈郎は教室外での昼寝で不在、頼みの宍戸も捕まえられず、困っていた所にちょうどよく跡部が通りがかった、それだけの事だった。
まさかの傑物から想いを寄せる女子の名が飛び出た時の鳳の胸中を思うと、笑えそうで笑えない。
一度は動揺するなと叱咤した宍戸であったが、今となっては致し方ない、と同情しきっていた。

「つかなんでお前がうちのクラス委員知ってんだよ……。あれが原因で頭ぶっけたようなもんだぞ」
「アーン? 馬鹿言ってんじゃねえよ。同じ学年の生徒の名前なんざとっくに把握済みだ、俺様を誰だと思ってやがる。大体、好きな女の名前を他の男が知ってたくらいで使いものにならなくなる方がおかしいんだろうが。お前のくだらねえ努力もその甲斐なしだな、宍戸。ご苦労なこった」

いちいち腹の立つ男である。
うるせーよ跡部、悪態をつきながらも事実は事実だとある程度納得してしまう自分もいた為、口調は弱々しい。
どっと降ってきた疲弊に肩を落とす宍戸の背後ろから、言われてみりゃアイツ最近ぼけっとしてやがったわ、得心の溜め息をついた向日が無邪気なトーンで悪乗りした。

「なーなー、そいつって可愛いの?」
「足綺麗なん?」
「テメエら面白半分でからかうんじゃねえ!」

便乗してふざけた質問を寄越す忍足諸共、叱り飛ばす宍戸の一声は荒々しく乱暴だ。だけれどそれこそが人を心から思い遣っている証拠に他ならなかった。
室内を包む騒ぎも何のその、ソファの上でまどろむ慈郎が、長い長いあくびを唸らせながら伸びをしている。



何が変わるわけでもない。
三年生の間で生ぬるく、時折からかいの色が見え隠れする空気が漂う事にも、鳳は気づかずに、というより気づけずにいた。
毎日は何事もなく過ぎてゆく。
彼女と会える日も会えぬ日も、同じように朝が来て昼には空腹を覚え暗くなるまで部活にのめり込む。
幾度か図書室で見かけ、声をかけようかと思ったのだが、私語厳禁という貼り紙と書物に落とされる睫毛の長さに慄いて結局止めた。
人もまばらな午後のカフェテリア、日替わりケーキとアイスティーをトレーに乗せ席まで運ぶ姿が偶然視界に入った時、手を振って挨拶してくれる。
馴染みが薄い上級生の階の廊下に張り出されていたクラス案内新聞とやらで、フルネームを知った。
編集、の後に続く文字の内ひとつに、覚えがあった。

そうか、あの人はというのか。
辿れば途端に味気ない明朝体が温度を帯びる。
移動教室の為に渡り廊下を進み、つい花壇の方へ眼差しを向けては嘆息する。
顔が見たい。
声が聴きたい。
叶うのならば、話だってしてみたい。
いとも簡単に行動に移せるだろう、彼女の級友である宍戸や慈郎をとてつもなく羨ましく思う一瞬、たかが一年の差が強大な壁として立ち塞がる錯覚に襲われた。

季節がひと巡りするだけ。
校舎に置き換えてみると、一階ほど。
階段をのぼるのに数分もかからぬから、ほんのわずかな時間でしかない。

けれど、それでも、同じ教室で肩を並べるには遠いのだ。
努力次第で埋まる類いのものなら何かを恨むべくもないが、こればかりはどうしようもない、ないから胸が詰まる。
呼吸は覚束なく、頭も上手く働かなくなった。
心の奥底にまで潜り込み、気力という気力を枯らす、寂しいばかりの想いだった。


「あ、長太郎君だ」

何度追ったか数え切れない、やわらかな声に呼ばれる、その時までは。



部室へ行く前に借りていた楽譜を返そうと音楽室を目指していた鳳は階下から段を上ってくる所で、対する少女は上の階より下ってきた様子だった。踊り場で足を止め、微笑みを湛えている。
予期せぬ出会いとその唇から奏でられた響きが信じられず、もしや白昼夢かと己の正気を疑うあまり、片足を半端に持ち上げた状態で硬直した。
すると、ふやけてゆるんでいた女生徒の頬が、見る見るうちに赤く染まっていく。

「ご、ごめんなさい! 私、宍戸君から下の名前しか聞いたことなくって……」

口元を隠す指が細くて白い。綺麗だと他意なく思った。
抱えていた鞄で上半身をひた隠し、ちいさく一歩後ずさる様を見、我に返る。
慣れ親しんだ感触を踏みしめる足が緊張に震えて止まない。
気まずさからだろうか、は視線を明後日の方向へとそむけている。
超える都度、距離が近づく。
お願いだから行かないで下さい。今だけでもいいから。
陽炎のように揺らめく胸の内へ刻まれていく囁きは、手に負えぬ熱さで弱ったところを食いちぎった。
痛みはすぐさま蒸発し、感じる暇などほとんどない。
おかげであらわになる一方の激しい鼓動が、体全部を支配する。
剥き出しになっているのではないかと危ぶむほど熱く、質量を持ち、肋骨を突き破ってきそうにがなり立てていた。
同じ階に並ぶ。
心臓はいよいよ破裂間近かというばかりに騒ぎ出す。
上背のある鳳からしてみると、は偉大な先輩というより、か弱いちいさな女の子だ。
はじめて声を聞いた日はあんなに頼もしかったのに。
自ら望んで確かめたのにもかかわらず、芯から胸が震えた。

「…あの、気にしないで下さい。俺、気にしていませんから」

思った以上に平生を保った声が出、心中で大きな安堵の息を吐く。
みっともなく震えでもしたら、もう明日から学校に通える自信がない。
唇の上にあった手を外し顎まで下ろしたが、照れ隠しのにおいを含んだ笑みで言う。

「いやだなあ、私、先輩なのに恥ずかしいね」

先生のことお母さんって呼んじゃう子供みたいな間違いしちゃった、転がる響きの愛らしさに胸をつかれ、用意していた自己紹介の台詞だとか、宍戸さんは俺の事なんて言ってますかだとか、その他諸々のすべてが吹き飛んだ。
ちっとも恥ずかしくなんてありませんというかずっと下の名前で呼んでくれて構いません。
見栄や建前を取り除いた本音が舌の付け根あたりでうろつく。

「宍戸君がいつも長太郎って呼んでるからうつっちゃったみたい」

抗う間もなく眼前が暗に塗りたくられる。
折角の彼女の声もお構いなしに、浮き立つ心はあっという間に死んでいった。
湿気て重い霧が籠もり、頬の朱は照れている所為で宍戸に対するあれこれじゃないはずだ、人の呼び方がうつるくらいそばにいたとかそういう意味はないだろう、切羽詰った英単語テスト前の暗記法並のしつこさで繰り返し言い聞かせる。
本当にごめんなさい、忘れてね。
どうという事もない一言に深く傷を負わされた少年は、意図せず斬りつけてきた本人によってまた癒された。何度耳にしても好い声なのだ。
わかりました、答えながら、彼女が紡いだ長太郎という音色だけは忘れまい、固く誓う。
二度は訪れぬかもしれない幸運である、の意に背く真似は心苦しかったがどうしても譲れない。
間を取ってとりあえず、宍戸との関係についての深読みは忘れる事とする。

「あのね、名字を聞いてもいい?」
「鳳です」
「よーし覚えたよ、鳳君だね。私はっていいます。

知っています、とは答えなかった。
ずっとこんな風にそばで声を聞いて、話をしてみたかったんです、とも言わなかった。
簡単に口に出来るほど浅く短い日々ではなかったし、追い辿るだけの時間を一人で過ごしてきたわけでもなかった。
今になってお互い自己紹介ってなんだかおかしいね、贔屓目に見ず、そうであって欲しいと希う気持ちをも差し引いたが、声色はやはり楽しげに揺れている。
丁寧に確かめると、喉が潰される歓喜に締めつけられた。

「それで、鳳君は部活に行かないの?」
「いえ、行きますよ。その前にこれを返そうと思って」

手中にあった紙の束を掲げてみせる。

「……楽譜?」
「はい」
「鳳君、楽器弾けるの?」
「ええと、一応…ですけど。一番好きなのはピアノです」
「そうなんだ! 多才だねえ、羨ましいな」

本来なら恐れ多いと称賛を辞する所なのだが、零れた声音はまっすぐで嫌味など有り得はしない、純粋に感銘を受けているようにしか響かなかったので、面映さにただ困り果てた。
とはいっても黙ったままではいられず、二の句を継げんと唇を開きかけ、慎重に息を飲む。
忘れかけていた緊張と鼓動が、じわりと蘇ってきた。
眩暈さえ覚え、掌が汗ですべる。

「……あの…、先輩は、どこへ行く途中だったんですか?」

名字ひとつ口にするのにこれほど労力を要していては近い内力尽きてしまうのでは、と鳳は若干本気で恐ろしくなった。
少年の事情など知るはずもない少女は優しく、けれども明快に答えた。

「友達が提出する書類を作りたいからってパソコンルームにいたの。そのお付き合いで、ちょっと。でももう部活に顔を出す時間だから、私だけ先に抜けてきたところなんだ」

知らなかった、クラス委員だけでなく部活動もこなしているのか。
新事実に軽く目を見張った鳳が返す。

「何部なんですか?」
「将棋部」
「えっ!?」

驚きに跳ね上がった声にも、は鷹揚に微笑む。
もう、みーんなそうしてビックリするんだよ、私が将棋部って変かなあ。
今の所不満は現れていないが、気を悪くさせたりしたくない、懸命に言葉を考え、且つ自分の気持ちからも近いものを選び取る。

「変……じゃないですけど、意外です」
「そうかな? 運動部より似合ってると思うんだけどな」
「運動部の方がビックリしないですよ。俺は、ですけど」
「ええ? 本当? 私全然ダメなんだよ。運動神経ゼロ」

だからね、鳳君が羨ましい。ピアノも弾けてテニスも出来るだなんて、怖いものなしじゃない。
褒め称え羨望のまなざしを向ける相手に、ある意味では恐れられているだなんて気づく余地もないが、歌うように喉をふるわせた。
どういうわけか自分には特別響く声を鼓膜から聞き取り、体中に染み渡らせ、頭の中でつい音階に当てはめてしまう鳳は、溢れ出そうな何かをぐっとこらえる。
衝動のままに唇を開いたが最後、どんな言葉が走り転がるかわかったものではない。
腹の底の奔流に蓋をし、息を切った。
入念に長々と間を置いて、そんな事ないですよ、やっとの思いで否定する。

「謙遜しないで。ピアノ弾ける人も、テニスが強い人も、どっちもかっこいいもの」

なんとか掻き集め形にした体裁が、彼女のたった一言で脆くも崩れ去った。
拠り所であった支え木を奪われて、骨という骨が木端微塵に折れた気分だ、腑抜けの芯が衝撃にたわんで曲がる。
自分がきちんと立てているかどうかも危うい。
少女の前髪が、午後の光を浴びながらわずかに下がる。そっと伏せられた瞳はまろやかに煌めいていた。

「ええと……だからって言うのもおかしいのだけれど、一度見てみたいなって。テニス部って、関係ない生徒が見学しても大丈夫?」

都合が良すぎて、夢でも見ているのかと再び疑う。
訪れておかしくないはずの喜びを越えて、放心が手足と声帯の自由を奪った。
ぽかんと開ききった鳳の口を目にし、薄くれない色の混ざるやすらかに丸い頬が左右に揺れ動く。

「あ、も、もちろん、最前席でって意味じゃないんだよ。端っこの方で、ちょっと見るだけでいいの」

慌てているようだった。
軋んで主張する心臓は、一秒でも早く全力で受け入れろ、身の内を叩き回って喚くのだが、いつの間に渇いてしまった口腔内は掠れるばかりで何も生み出せない。
記憶を頼りに巡っても、こんなに落ち着きを失った彼女の声はついぞ聞いた覚えがなかった。
呆気にとられた、と評されて当然の鳳の様相に、淡い紅潮も、跳ねていた語尾も、陽光の降る上向きの双眸も、一挙に消沈させたがしなびた呟きを足元へ落とす。
ごめんね。図々しかったよね。
転瞬、付き纏う数多のしがらみが沸騰して消えた。

「い…いいえ!」

階段に留まらず、上の階にも下の階にも響いたのではないかというほど大きな一声だ、俯いていたの鼻先も持ち上がる。
こぼれそうな両のまなこがしきりに瞬いており、びっくりさせてしまった事は明確だったので、ボリュームを絞りに絞って謝罪した。
すみません。

「いつでも、見に来て下さい。端じゃなくても大丈夫です。前でも、どこでも」

だからどうか行ってしまわないで。
今だけでもいいから、なんてひどい嘘だ。
それだけじゃ足りない、とっくに足りていないのだ。

「先輩が来てくれたら……俺は嬉しいです」

伝え終えた後の、清々しい呼吸。
体内は火照っているはずだというに、気管や肺は爽快に晴れている。
今日は良い天気だ。
中天から下りてくる日差しは厳しい暑さを放ちながらも、健やかな伸びを見せる。
澄む空が甚だ青く、どこまでいっても底に突き当たらぬ深度を誇っていた。
そうして当たり前の情景を認識するのと同様に、鳳は理解した。
あたかも天啓のよう、眩いばかりの閃きが全身を浸す。
ささやかな吐息。
微笑む一歩手前の頬が甘く染まる。
なだらかな曲線。
こちらを見上げる瞳の色合い。
次いで――声。
何もかもが特別に映る理由。

「……本当?」

ぱっと開く、目にするでもなく目にしていた花壇の花よりも、美しい笑顔だった。
陳腐な上使い古された礼賛だと自分でも感じるが、それ以上に相応しい喩えが見つからない、と思考を放棄する。
可愛らしい問いかけに応じる為頷く。
鳳より年嵩の少女は、そうとは思えぬ幼さで続きを紡いだ。

「ありがとう。でも、なんだか無理言ったみたいになっちゃったね、急でごめんね」
「無理だなんて思っていませんから、本当に気にしないで下さい。けどもし……先輩がどうしても気になるなら、代わりにお願いしたい事があります」

まばたきが、ひとつ。

「いつか、俺に将棋を教えてくれますか」

交換こみたいなものです、相対する事が叶うよう、わざと子供じみた言い方をした。
と、吹き出す笑声。
高らかな調べが心地よい。
唇に被さる掌が、相も変わらず綺麗だった。
滲む声は溶けくずれて親しみやすく、弧を描く目蓋の線がなめらかに揺らぐ。

「うん、わかった。約束ね?」

置き去りにされていた知らない街が、気づいた時には美しい世界へと生まれ変わっている。
奈落の闇がものの見事に打ち消され、積もる寂寥は一層色を濃くしているけれど何故だか疎ましくはなく、追う切なさ、付随する苦しみさえも優しく甘い痛みとなって、大事に抱えていたくなるのだ。
萎れて枯れた泉が息を吹き返す。
この世が終わってしまうかのような絶望を味わい、しかし彼女と邂逅を果たせば再生し、幾度となく終末とはじまりを繰り返してきた。
途方に暮れる夕べ。
ただ一人の声をピアノで辿った。
切に染み渡る音の粒。
もの皆すべてが連なり、重なって、深いところで実を結んだ。

――ああ、俺はこの人の事が好きだ。
とてもとても、大好きだ。

「はい。約束ですよ」

鳳の顔が微笑に色づくとは弾む声音を隠そうともせず、それじゃあまたね、似通った意の灯る笑みで返した。
緩やかな風がすれ違う。
それぞれ己が時間へと別れていく。
埋まらぬものは確かにあったが、落差に嘆くよりも強い気持ちで満ち足りていたおかげで、出会った日からいつも感じていた寂しさなど塵ほども存在していない。
一方は階段を上り、一方は下りていく。
調子を狂わせたままの心臓が現実感を抱かせるのに、校舎内のざわめきはどこか夢に似て遠く不確かだ。だけれど足取りは快く軽い。


不連続でいてその実繋がっている、日常のかけらを引きよせ、結び、集約すると代わりのきかぬ想いが洗い出された。
彼は今、恋をしている。
それも、一等輝く幸福の内で。