光あれ! 詳しい時期はもう忘れた。 いつからか、おっ? とつい前のめりになる瞬間が増え始め、元々微妙に掴み所のないヤツではあったが、皆といても心がどっか遠くへ行っちまってる時があって、かと思えばたまにウカれた顔もしていた。 まあ、長年サエを近くで見て来た仲間にしかわからない小さな違いだったが、それにしたって俺からするとあまりにもわかりやすいので、我が部が誇るエースへ向かって黄色い歓声をあげ無邪気にはしゃいでいる女子達を、女子の目はフシアナかよ、と遠巻きに眺めた日もある。 妙に機嫌がいいのになんでか頑なに理由を語らず、オイオイそれで上手いこと隠してるつもりか? と少し呆れた直後、サエって地味に顔に出るタイプだよな、零された亮のぼやきに思わず大笑いしたのは、ロミオだなんだと囃し立てられる男の異変に気づいて結構経った頃だ。 だから、解決してよかったなと思った。 昇降口でやけに神妙な顔つきをした女子に呼び止められ、心底驚いている幼なじみを間近で目撃し、グッドラックの意味も込めて親指を立てつつ退場した――、 っつーのに、これまたそこそこ後になって、 「いや…別に、は彼女じゃないよ」 とか言い出しやがる。 意味がわからねえ。 口走る寸前、樹っちゃんの軽い溜め息が俺の耳を割った。亮は無言で帽子のつばを深めに下げ、首藤が、ま、まあ彼女じゃなくたっていいよな! とまるでフォローになっていないフォローをする。 元副部長をいまだになんだかんだ頼りにしていて、次の夏目指して頑張っている後輩達がこの場にいない事が不幸中の幸いだった。 当の本人は‘らしい’爽やかで、でもなんとなく曖昧さの残る笑い方で肩を竦めるから、触れて欲しくない事なのだろうと皆それ以上聞きはしなかった。 見て見ぬフリだ、男同士の優しさってヤツだ。 サエの方も顔色を変えず、助かったと言いたげな視線を送って来るでもなく、ガキん時みたいにあの子が俺の好きな子だよと宣言したりもしなかった。 誰彼かまわず正直さを貫き通し、隠し事をしないクセを少しは省みたのかもしれない。 柄にもなくしみじみと過ぎた年月を感じていたら、忘れた頃に例のウカレっぷりをさらけ出す。 「気配を消してたんだってさ」 収穫祭当日、完全に想像上の人物でしかなかったが、自分の損得関係なしに他人の為に自転車で爆走するなかなか男気のある、多分テニス部の集まりに誘うつもりだったサエを慌てさせるくらいのひと騒動を起こす女子だと知り、どうして今の今まで目立って来なかったのか謎だ。 何の気なしに首を傾げた途端、間髪いれず答えが寄越された。 きっちり拾っているあたり視力だけじゃなく耳もいい。 「ハア? ワケわかんねえヤツだな、なんでまたんな事してたんだ」 「さあ? なんでだろうな」 口元が楽しげに笑っている。いや、目もあてられないほど顔全部が緩み切っている。 あーハイハイ。そのパターンな。 ものの一秒でピンときた俺は沈黙で話題を打ち切った。 サエの悪い癖だ。自分から吹っかけてきて引っ掛かり所を作ったくせに、本当は話したくてウズウズしていること間違いなしなのに、まだ秘密にしておきたいのだ。 小学生の六角予備軍だってここまでヒドかねえだろ、ガキかよ、じゃあ最初から言うんじゃねえ。 くだらねえダジャレを聞かされた時並に浮かぶ数々のツッコミが頭ん中でわめいてやかましい。 普段は平気な顔をして何事もそつなくこなし、仲間内じゃ頭がいい方で回転も早いのだが、コイツは時々ものすごくバカになる。そんで子供っぽくもなる。 クラスの女子にサエさんの好きなもの聞かれた。誕生日が近いからだと思う。 ねえねえ、どうしたらサエさんみたいにモテるのかな!? 脳内再生されたダビデと剣太郎の声が余計にむなしく響き、どうだろな、と返した自分の答えが今になって真実味を増した。 色々任せて問題ない男だし、頼りになるのは確かだ。冷静で判断力もある。 顔は……まあそりゃ騒がれるのもわかる作りで、性格だって気取ったところのないヤツで付き合いやすい。 ただ世間が評価しているようなモテとしっかり結びつくかというと、ちょっと違う気がする。 海風を受けて相変わらずのキラキラオーラをまとう横顔を呆れ半分で見やりつつ、真っ直ぐな視線の先に誰がいるのか確かめなくてもなんとなくわかっちまう自分もいて、どうしたもんかと持て余した腕を組んだ。 応援してやるべき仲間で幼なじみだってのに、なんでかやる気が出ない。 サエの言葉を信じるなら‘別に彼女じゃない’相手へ向ける眼差しが、付き合いもしない内から惚気ているせいか? あてられている気分になった俺は、とまあまあ離れていても上機嫌に笑う男を尻目にその場を後にした。 ※ 見かけたのはまったくの偶然だ。 お、ありゃじゃねえか? 放課後、コンビニから学校に戻る途中チャリンコを漕ぎつつ気づいたのだが、ひと雨来そうな空模様の下とぼとぼ海の方へ歩いていく背中があまりにもしょげていたせいで、声をかけるタイミングを拾えなかった。 なんと言ってもあのサエを出し抜く真似をしたツワモノ、今、目にした夢遊病患者じみたオーラは俺が抱く印象からほど遠い。 収穫祭本番で明らかになった気持ちいいくらいの食いっぷりに、あいつよく食うよなー、純粋に感心していれば、バネ、それ女子に言っちゃダメだぞ、いつになくニコニコ顔でたしなめられた事を思い出し、よく言うぜそこが可愛いんだみてえな顔しやがって胸やけだいい加減にしろ、と寄った眉間の皺の感覚まで蘇ってくる。 友達とまではいかないがまるで知らない仲じゃなし、何よりサエの想い人だ。放っておく選択肢はなく、いつもより力を入れてペダルを踏み込み、いつも通り学校の敷地内の適当な場所にチャリを停めて、この情報を伝えるべき男が顔を出しているに違いないテニスコートへ向かう。 にしてもこの寒い中、なんで海なんかに行くんだ? ほんとにワケわかんねえヤツだな。 首を捻りながら北舎を通り過ぎた時、視界の端に覚えのありまくる人影が掠って足を止めた。 隣にそびえる体育館横、コンクリート製の三段くらいしかない階段に腰掛けている。 やっぱコート近くにいやがった、受験生じゃないんか、と自分の事を棚上げし、 「おいサエ、あのよ……」 歩み寄って呼びかけたとこで、続きがぱったり途絶えた。 俺やダビデより劣るとはいえそれなりに図体のでかい幼なじみが肩を落とし、今にも倒れそうだったさっきのと張るくらいにしょぼくれている。 こちらを見向きもしない男の、いつになく萎んだ背中ははっきり言って哀れだ。 「え? 何事だよ、どうした、腹でも痛ぇのか?」 「違う」 隣に座って一応してみた心配を思いがけない強さで振り払われる。声に弱さはない。ただ、立てた片方の膝に肘を乗せ、指の背でデコを支える横顔には覇気がなかった。 同じ男から見ても通った鼻筋は前髪で微妙に隠れ、おかげで余計に表情が陰って見えてしまう。 やっぱすっごいかっこいい、佐伯君って六角の王子様だよね、女子達がキャアキャア騒ぐ顔が苦しげに歪む。 「……自己嫌悪中」 それと、すごくへこんでる。 短い続きを吐いて、さっと引っくり返した左手で眉毛の辺りを覆う様子は、苦悩の二文字が似合いの切実さを醸し出している。 ここまでストレートに落ち込んで、しかも隠さないサエを目にしたのは久しぶりだ。 一体何があったと気遣ってやるべきなんだろうが、俺の脳みそはある意味正反対で、場違いな事を考え始めていた。 ――全国大会一回戦で敗退した、今年の夏。 全員比嘉にボロ負けしていった中で迎えた最終局面、たった一人きりで戦い、弱い所を見せないまま、U-17の選抜に漏れた時だって頑張って来いよと明るく送り出してくれた姿が連鎖する。 部の連中全員が想像もしなかった事態に騒然となり、誰も気を配る余裕なんかなかった昼間の病院へ遅れてやって来たサエは、流石にオジイんとこへ向かった時は慌てていたけど、すぐに落ち着きを取り戻し、誤魔化しもしねえで堂々と口にした。 ああ、6−4で負けたよ。 チームとしての敗北は決まっていたし、オジイの状況も状況だったから、不本意は不本意だが棄権も出来たろう。 でもサエは選ばなかった。 酷いヤジが飛んだであろう会場に残り、六角の誰がいなくても最後まで戦い続けたんだ。 ぐっと腹の底から沸き上がる感覚が重石みたいで息が詰まる。 周りの奴らもおんなじだったのか、待合の廊下になんとも言えない空気が漂い始めた数秒後、一人だけいつもと変わらない雰囲気を保つ男が、青学に応援して貰ったから今度は俺達が応援しよう、何気ない調子で続けた。 そうとは悟らせない促し方だったと、今にして思う。 悔しくて悲しくてやりきれず俯き通しだったみんなが顔を上げたのは、紛れもなくコイツのお陰だ。 俺もその内の一人で、だからこそ漏れる寸前だった重い溜め息を切り捨て、よっし行くか! と続いて声をあげる事が出来たわけだし、始まりはオジイのズッコケだったにしろサエが副部長で良かったと感謝もした。 しかし、同じだけある思いが浮かんで止まらない。 (けどよ、サエ。お前はそれでいいんかよ) 外からの強烈な陽射しが降り注ぐ真っ白な廊下を進み、先行く背中はいつだってしゃんと伸びていて、迷う事を知らないようだ。 集中力と動体視力がずば抜けて良いせいか、時々相手の様子を窺いすぎるサエは、滅多に怒らず慌てず騒がず、大抵爽やかでニコニコしている。 そして樹っちゃんの言う通り、‘その分、絶対に敵には回したくない’ヤツでもあった。 見かけだけは完璧オージサマでも本当のところは強情で頑固。 プライドもそこそこ高く、物分りよさげな顔をしておいてまるで逆、納得出来なきゃ出来るまで首を縦に振らない。 そんな風にサエだって人間で、普通の男だ。 信じられないバカもやりゃ、許せない事にキレもするし、悪ふざけにはノってくる。 にもかかわらず、味わった屈辱を想像すれば平気なわけがないだろうに、顔色ひとつ変えなかった。 事実を数える度、余計にかさを増していく。 (ほんとにいいのか? お前だって言いたいこと山ほどあるんじゃねえのか) 覚えた引っかかりが消えていかず、あれよあれよと膨れていって、なんとかして吐き出せないもんかと悩み出した頃、俺たちが見届けてやれなかった中学最後の公式試合で、サエがどんな扱いを受けたのか。 何がキッカケかはあやふやだが全国大会を終えてすぐの桃城から詳しく聞き、腹が立つという言葉じゃ追いつかないくらいムカついたのと一緒に、病院やその後目にしたサエの表情や様子を思い出してまた頭に血が上った。 弟からはにーちゃん顔怖い、六角予備軍のチビ達にバネちゃん今日どうしたの、指摘されるレベルまで達してしまい、とうとう収まりがつかなくなった俺はほとんど衝動的に電話をかけた。 『もしもし?』 休みの日の朝だってのに何コールもしない内に出るなんだかんだで立派な優等生が、バネが電話なんて珍しいなと後についてきそうな、のんびりにも聞こえる声で応じる。 心臓と頭が怒りで爆発しかけた。 「お前ちょっと出て来い」 『え?』 「今すぐだ。練習ん時いっつも待ち合わせてたとこまで来い」 『急になんだよ、どうし』 最後まで待たずにブツ切りしたのは流石に大人げなかったと反省したのもつかの間、指定した場所に待ち人がのこのこ歩いてきたせいで、綺麗サッパリ掻き消されてしまう。 「やあ、バネ。今日天気いいね」 片手を上げ笑顔を向けられても返せない。 こっちの異変も意に介さない穏やかさは一体なんなんだ。 お前それどこで買ったんだよとツッコみたくなる変な色のビーサンは履きすぎてヘロッとなっているし、よく見りゃ髪の後ろに少しばかり寝癖もついている。 二枚目が台無しだぞ、と普段はからかってやるのだが、今日は軽口を叩くつもりも余裕も暇もない。むしろイラつきが猛スピードでかさんでいった。 何でもない風に来やがって、どういうつもりだお前。 俺もみんなも、お前も全員含めて仲間でチームじゃなかったのか? 冷静になればある種の押しつけだとバカでもわかる八つ当たりが、抑えようと踏ん張る理性なんか蹴散らす勢いで渦を巻いて荒れる。 それでもなんとか堪え、拳を握りしめながら桃城の言葉を借りて問い質すと、サエはあっけなく認めた。 すんなり、素直に。 別にどうという事もないとばかりに。 体を貫いた激情が角膜や脳みそを真っ赤に焼いて煮えくり返らせる。考えるより先に腕が突っ張って伸びた。 「お前! なんで俺らに言わねえんだよ!」 サエの寝間着か何かと見間違うラフなTシャツの襟を掴み上げた直後はっとする。 口にしてから気づいたのだ。 言うはずがない。 今、目の前で凪いだ海のような眼差しでされるがままのヤツが俺の知る男なら、言うわけなかった。 誰よりも悔しいのは、悔やんでも悔やみきれないと思っているのは、最後の砦としてみんなの想いを託され一人ラケットを振るい続け――けれど勝てなかった、6−4で負けたと報告するしかなかった、コイツの方だ。 瞬時に理解したのにどうしても体は退けず、行き場のない感情で夏用の薄い生地を握り込む指や掌がぶるぶる震え始めて、厚みも重量も含んだ猛熱で焦げる胸の中心と裏腹に、頭だけは急速に冷えていく。 元のクリアな視野を取り戻した目で、もしかしたら血の繋がった家族よりも長い時間を共にした幼なじみを見据える。 もっとガキだった頃、掴み合い殴り合いの大ゲンカをした。 お互い鼻血が出るまで拳を引かず、周りが宥めすかせ諌めようとするのも無視し、最終的にはホースの水をぶっかけられてようやく治まった真夏の午後。 ケンカの理由はやっぱり覚えてねえ。俺は右利きだから、左利きのサエとはケンカがしにくかった。泥だか砂だか血だかとにかく色んなもんが混じった汚れにまみれ、ついでに落としてけと勢いの強まった水量を二人同時に浴びせられ、そうこうしている内に笑えて来ちまってどうでもよくなった。 あのくだらなさを、どうしてか鮮明に思い出す。 もうサエはあの時みたいに掴み掛かってこない。 「言ったってなんにもならないだろ」 でも絶対に退かない強さだけは変わらない。 「負けたのは事実で、俺は一矢報いる事さえ出来なかった。俺達は弱くない、六角のテニスを舐めるなって正面切って言い返す為には、勝たなきゃいけなかったんだよ」 視線を逸らさずいつも通り語る様子は淡々としてさえいる。 底光りする両目に射抜かれる。 並べられた言葉の面構えと違い、卑屈になっているんじゃなく、いやに落ち着いていて、頼れるエースかつ副部長の顔だった。 それだけに留まらず、自分の悪い部分や足りていない所すら正々堂々と口にし、腹ん中で溜めに溜めてめちゃくちゃに燃やしているのが、掴んだTシャツを通して伝わって来る。 俺を止めも宥めもしないサエは、そう、見かけよりずっと厄介な男だ。 熱くなった頬に潮風が吹き込んだ。 力が抜けていく。 年がら年中そばにある海鳴りは夏の盛りを過ぎた風に乗っかって届き、耳の奥まで染み渡っていけば肺から腑抜けた息が流れ出、緊張状態だった右腕もついにほどけた。 「……そーかい。悪かったな、余計な口挟んでよ」 いきなり襟元を乱暴に掴み上げられるなんて普通キレてもいい所だ、ところがサエはといえばぐしゃぐしゃに縒れたTシャツを簡単に伸ばしてニコッと笑う。 「何言ってんだ、余計な口なんかじゃないって。俺の為に怒ってくれたんだよな? ありがとう、そういうバネ見てると気合入るなぁ」 そら何よりだが、こっちは色んな意味で気合もやる気も萎えた。 コイツは本当にこういうとこがチビの時からある。 溜め息も出てこない、持て余した右手で後頭部を二度三度掻いて、腹に力を入れ直す。 「うだうだしててもしゃーねえ! 詫びに奢るからそれで勘弁な」 「別にいいのに。相変わらず気前いいよな、バネは」 「ただしドクペだ」 「それ鰯庵近くの駄菓子屋まで行かなきゃないヤツじゃん」 ついさっきまでのマジな空気はどこへやら、いまだに刺す陽射しの強さも物ともしない幼なじみが爽快な笑顔で俺の提案を受け入れた。 「いやこないだ首藤がまた語っててよ、なんか飲みたくなっちまった。アイツ自販機ごとに味ちげーとか言ってんだよな、ぜってえ嘘だと思わねえか? そん時もそんなワケないだろって亮にツッコまれてたんだけどよ」 「そう言うなって、本人にしかわからない何かがあるんだろ」 「何かってなんだ?」 「え? うーん、まぁ俺にはよくわかんないけどさ。そんな気になるんなら首藤に直接聞けよ」 「オイオイ、お前こそ興味ねぇなら半端なフォロー入れてくんなっつーの」 「いやあ、アハハ」 雑に流しやがった。 重ねて言うが、サエは本当の本当にこういうとこがある、昔からそのまんまだ。 夏ももう終わりだってのに、セミが鳴いてやかましい。 お互い伸びた背丈の分だけ太陽に近づくから、暑くて仕方がなかった。 ボロいガードレールが生える海沿いの道をダラダラ歩く途中で、だが変わっていくとこもあるのかもな、サエの真面目くさった声色に気づかされる。 「あのさ、バネ。俺の方こそ謝るべきなんだ。あの時、最後の試合中、オジイや皆の事を忘れていたかもしれない……っていうか多分頭になかった。病院の事も不二に言われて思い出したんだよ。薄情だよな、ホントごめん」 自分でもビックリした、と繋がったのは、しんと静まり返ってはいても決してか細くない、揺らがぬ芯のある響きだ。 先の事はわからない。 高校でもテニスは続けるにしたって、みんな仲良く一緒の学校でというわけにはいかないだろう。 今更、腹を割って話し合おうなんて面倒が必要な仲でもなく、しなくてもテニスをしていればいつだってコートで会える。 ほぼアウェーの状態で一人っきりの試合を経験したサエと、していない俺らとじゃ何かが違っていく予感はするが、それも悪い事ばかりじゃないと思う。 腹を立て憤ったりしながら、きっと俺はどこかでほっとしてもいた。 サエは負けない。 俺が知るサエならテニスをやめないし、俺が知らないサエならもっと諦めないはずだ。 地団駄踏むくらいの悔しさも腹ん中に溜め込んで、次へ進むための原動力に変えようとしている男が、簡単にラケットを手放すわけがねえ。 情けない事に寂しさを感じつつも、いつかと同じよう無性に笑えて来てしまい、ポケットへ突っ込んでいた手を取り出して、隣に並ぶ肩口に数々のツッコミで磨いた手刀をかましてやる。 「イテッ! 何するんだよ、痛いって」 「別に謝る事じゃねえってのに謝っからだよ。お前がブン殴られた方がスッキリするって言うなら、そうしてやってもいいぜ」 「ハハ! なんだか小さい頃を思い出すな」 「おう、俺とお前で殴り合いになった時だろ」 「そうそう、あの後家ですっごく叱られたんだ俺。担任の先生には何か悩みがあるのとか聞かれたりもしてさ」 「あーまー、サエは優等生だったもんなぁ」 「同じ事したのにそっちはいつも通りだったろ? 子供ながらになんでこんなに違うんだって思ったよ」 そう言うが、普通にいつも通り叱られただけだ。 訴えたところで爽やかに笑い飛ばされ、今だから白状するけどちょっと羨ましかったんだ、あっけらかんと告げられ却下される。 どの口が言ってんだ、親の顔が見てみてぇよ、いや何度も見てっけど。 「今の言い方、ダビデがいたらダジャレで乗っかって来るぞ」 「ゲッ、勘弁してくれ。休みん時までツッコみたくねー」 辿り着く場所は駄菓子屋だとわかっているのに、慣れ親しんだ道は長く長く伸びてずっと続いていくみたいだった。 残暑の思い出がわっと吹き込んだ冷気で掻き消される。 すっかり冷たくなった風が、俺たちがいる体育館と北舎の間を駆け抜けるせいで一瞬むちゃくちゃ寒い。 まだ夏っぽかった青空の頃はあんだけ骨太なとこ見せたのに、なんでこういう時は落ち込んでるの隠したりしねえんだか。 相変わらずどこか掴めない、まあプライドをしっかり持っているからこそ、表に出さない部分とそうでない所があるのだろう、自分に言い聞かせて納得をし、 「んだよ、今度はどうしたってんだ」 自己嫌悪、と先ほどの穏やかじゃない表現を汲み取り尋ねた。 そうして片目で視線をちらと走らせすぐ戻したサエの語り口に、俺は言葉を失う。正直顎が外れるかと思った。 昨日、が知らない男子と喋っていた。 自分と友達だとすら断言してくれなかった。 おまけに他校の女子との仲を取り持たれてしまった。 「脈がないのかもなってさ」 呆れてものも言えないとはこの事だ。意中の相手に好きなヤツがいると気づかない女子達を揶揄した日もあったが、サエもサエで目がフシアナだったらしい。 六角予備軍から二人揃って遊びに来たと聞かされていたので、いつもの余裕はどこへいった? 冷静になれよ、としか返事が浮かばず、我も我もと詰め寄るチビ達のはしゃいだ声もあわせて脳内に蘇る。 あのお姉ちゃんてサエちゃんのカノジョ? えっまじで!? あのね、とっても仲良しだったよ。わたしは遊んでもらったの。テニス教えてあげたんだー! サエといる時のの様子も全然悪くなかったし、俺らから見てもいい感じの雰囲気が伝わって来た事もあるのだ、どこをどう通れば脈なしなどと後ろ向きな考えに至るのだろうか。 「知らない女の子みたいだった。生き生きしてて軽口叩いて…俺の前だとあんな風に喋ってくれないのに」 俺はいよいよ本格的に呆れ返った。 じゃあお前はに全部見せられんのか? 合宿先の風呂でくっだらねーことやったり部室でバカ話して大騒ぎしたり、女子には見せらんねえアレコレとか、1から10までさらけ出せるのかよ。確実に無理だろ。 たとえばに呼び出されたとして、ヘロヘロのビーサンとダラッとしたTシャツで行ったりするか。絶対しねえし、むしろ逆にかっこつけようとするんじゃねえのかお前は。 次から次へと湧いて溢れて止まらない、自分のツッコミ体質というものを嫌というほど実感する。 だがコイツは今のタイミングで言った所で素直に話を聞くタマではないと知りすぎているので、ハア? と盛大にひと声あげたい衝動を堪えた。 「そう言うけどよ、サエ。俺から見たらお前に全然嫌われてねーし、好感持たれてんだから、んなへこまなくてもいんじゃねえの」 剣太郎がここにいたら、サエさんの欲張り! と不満を爆発させているに違いない。 隣でしょげている背中は一向に伸びる気配を見せなかった。 「バネにはわかんないよ」 「なーにイジけてんだ…っよ!」 情けない物言いに活を入れる意味で二の腕辺りへグーパンを叩き込んでやると、サエの体が少しだけぐらっと揺れて、でもそれだけだ。無抵抗を貫き項垂れている。 「大体なぁ、んーなんわかるワケねえだろ。他人の事なんか全部わかんないのが当たり前だ。それはお前だけじゃねぇ、みんなそうなんだよ。だから頑張んだろ?」 俺とサエを含めた六角の連中がわかり合える部分があるのは、最初から気持ちが通じていたわけでも、ある日突然理解出来るようになったのでもない。 育った環境や元々気が合ったというのは前提としても、長い間一緒にいて段々とわかるようになっていったのだ。 恋愛とすぐ結びつけるのは単純だと否定されるかもしれないが、何にしてもそういう事だろうと思う。 とサエが出会ったのはおそらく中3に上がってからだ、まだまだこれから始めていく所で、脈のあるなしで悩んでいる場合じゃなく、届かないと感じるのなら努力を重ねるしかない。 俺なりの考えを率直にぶつけるも、返る反応は鈍かった。 「……そんな風に考えられて羨ましいな」 高い二つの建物の間から覗く空は、どんよりと冬の色をしている。 「かーっ! うだうだとメンドくせえ! お前って男はなんで大事なとこで思い切りが悪くなるんだ? イミわかんねえなあ!」 意外と早く我慢の限界が訪れたので勢いのまま続けていく。 「いい機会だから言っちまうけど、今のサエは相手がどうこうってより自分を知って欲しいっつー欲求が強ぇんだよ」 好きになって欲しい。 自分だけを見て欲しい。 気持ちを知って欲しい。 まあ多分当然みんな思う事なんだろうが、コイツは人一倍そういう想いがデケーんだ。 「……そうかな」 「おーそうだそうだ」 「そういう欲求がなかったって言ったら嘘になるけど、俺ちゃんと、ずっと一人だけを見て来たはずなんだけどな……」 「見てただけだろ? 見てはこういうヤツなんだろうなって勝手に判断して決めつけてただけだ。んで大外れはねえってタカくくってよ、予想と違ったからってへこむんだ」 頭が良くて勘も冴えているのもそれはそれで面倒だ、妙な同情心が湧き出、サエさんはさえざえと冴えてる才能さえ冴え渡ってる、とダジャレにもなっていなかったいつぞやのダビデの発言が頭をよぎってしまい、心の中に現れた、周囲からは相方扱いされる後輩へ思わず飛び蹴りをかました。 「もっとこう…なんつーか、自分の事は置いといて自身を知ろうとしたらどうだ?」 なんで友達と言ってくれなかったのか、他の女子との仲を取り持とうとしたのか。 貴重なはずの受験勉強時間を削り、俺たちが通い倒した手作りのテニスコートまで一緒に来てくれたのか。 ヨソから見てもいい感じの雰囲気だったのはどうしてなのか。 並び数えてみればなんとなく答えが出てきそうなものだが、どうもサエにはイマイチ通じなかったらしい。 今まで弱さのあった声が瞬時に低く落ちてうなる。 「……まるで俺がを気にもしてないみたいな言い方するんだな。そっちこそ決め付けんのやめろよ」 あからさまに怒りの籠もった言い草と声色だった。 「そんなのとっくに思ってる。あんなに知りたいって思った子、初めてだったんだ」 いつの間にかすっかり顔を上げた幼なじみは、睨むような視線をぶつけてくる。 悪いがちっとも怖くねえ。 「だァーから! そこ口に出せってんだよ。にわかりやすく伝わるようにしてみろって」 聞き分けのないガキか? 胸の中で呟き言い返してやると、サエが怪訝そうに眉間へ皺を寄せたのがわかった。 「いつも思うんだけどさ、バネって俺にだけ当たりが強くないか?」 「バカ言ってんじゃねえ、発破かけてやってんだぜ! 俺くらいしかやってやれねーだろ」 こうなったらビンタの一発でもしてやるかとタイミングを計ったが、サエの目つきを確かめて即座に取り止めた。 俺らがよく知る‘絶対に敵には回したくない’、‘見かけよりずっと厄介な’男の顔に戻っていたからだ。 「ほらこんなとこで腐ってないで、さっさと行けよ。そこまで好きならぶつかって来い。もしダメだったらダメだったで、あー……まぁしゃーねえ、そん時は残念会開いてやっから!」 直後、横からプッと吹き出す音が漏れた。 「アハハッ、残念会! これから頑張ろうとしてるヤツに言う事かよ。けど……そうだな、悪いバネ。助かった、ありがとな」 言うが早いか、横に下ろしていた鞄をリュックよろしく背負い、あっという間に立ち上がる。 薄い影が頭上を通ったかと思えばすぐさま消え失せ、砂浜ダッシュで鍛えた足の速さを駆使し、こちらに口を挟む間も与えず遠ざかっていった。相変わらず立ち直りが早い。 一直線に走る学ランの背中が、真夏のそれと重なりぶれた。 不意に胸をついた一拍の間が口を開かせる。 「おいサエ!」 振り返った幼なじみはしかし歩みを止めず、後ろ向き走法で俺の方を見やっていて、ついつい笑いをこぼしてしまいそうになる。 すげえ頼れるとこもあっけど、しょうがねーヤツだ。 子供かよと亮辺りがクスクス言って、樹っちゃんはバネの言う通り仕方ないのねと呆れ顔だろう。首藤は、ここぞって時には様子見しないで斬り込んでくんだぞ、と応援するはずだから、俺は遠慮なく吹っ掛けてやる。 「気張れよ! ならさっき市民公園の方の海岸ら辺で見かけたぞ!」 叫んだ渾身のアドバイスを、潔く立ち上がった男はここ最近一番のキラッキラな笑顔で受け取った。 遠くからでも光って映るような白い歯が天気もイマイチな真冬だってのに眩しい、コイツ以外のヤツだったら鳥肌ものの爽やか加減だ。 礼代わりのつもりか、サエは掲げた左手を軽く振り、それから拳を握って天を突く。 一秒たらずで前を向き全速力で駆けてゆくのを、俺は嬉しいんだかこそばゆいんだか、苦笑なんだか微笑ましいのか面白いのか、唇の端を緩ませるよくわからない笑いを噛み殺しつつ、晴れ晴れしい気持ちで見送った。 行け行け色男。 まっ俺のカンが合ってりゃ、残念会じゃなくて祝勝会になるだろうけどな! |