薄紅のまなざし




そぼ降る雨が薄い屋根を叩いている。
校舎と違うつくりの部屋では、聞き慣れた天気の音もどことなく新鮮に聞こえた。
よりクリアに鼓膜を打つ不連続な響きに半ば意識を奪われそうになるが、目の焦点だけは惑う事がない。
白と黒の上を走るペンの軌跡は掻き消されてしまい、耳にまで届かなかったけれど、絶えず行き交う動作が時間の経過を物語っていた。
世界から切り取られたような静寂が籠もる。



委員会後に時計を見ればちょうどテニス部が終わる頃合だったので、少し寄ってみようかという気紛れのままに足を運んだのが、事の始まりだった。
約束はしていないし委員会の日だとも伝えていない、本当になんとなく訪れたコート前は案の定、もぬけの殻である。
空模様はこれまでにない曇天。
細い雨が針みたいに真っ直ぐ落ちてくる。
引退したとはいえ、後輩の指導や引き継ぎ、他校との合同合宿、諸々のお仕事を抱える彼は、秋の長雨とテレビでよく聞く季節になっても部室に顔を出す機会が多いようだ。
呆れるほどの面倒見の良さに称賛の言葉を送れば、ただの雑用係や、嘆いたと同時にちょっとだけ照れて笑う。
白石君はそういうところが可愛い、と突っ込める度胸など私にはない。
いつかの回想を停止させ、無数の雫が滴り落ちるフェンスの向こうを覗き込み、部室に明かりがついているのを確認して、一緒に帰れるかどうかメールで聞いてみよう、と傘の置き所に四苦八苦しながら鞄を探っていたまさにその時、コート横を通ってきたらしいテニス部部員の面々と鉢合わせたのである。

「おお、さん。なんや、白石待っとんのか?」

先頭を切って歩いていた忍足君が親切にも声をかけてくれ、白石ならまだ部室残ってんで、と知りたかった情報まで提供して貰った。

「うん、ええと、待ってたっていうか…」

傘の柄を持ち替え、時間が合ったから来てみたの、と伝えるより早く、後続の人たちが一足も二足も先をゆくテンポで話を進める。

あらやーん、乙女の純情って感じやわ、あたしも見習わなアカンねえ。
小春はそのまんまで充分魅力的やで。
先輩らほんまキモいっすわ。
あまり雨に打たれると風邪を引くかもしれへん、はよう白石はんのおる部室まで行きや。
せやね、それが一番ええわぁ、銀サンったらや・さ・し・い!
浮気か死なすど。
あー! やかまし! いっぺんに喋んなや!
ワイ腹減ったーはよタコ焼き食いたい!
金ちゃん、買い食いバレたら白石に叱られるばい。
そっちはそっちで関係あらへん話しすな!
ホラホラちゃん、はよ部室まで行きましょ、だぁいじょうぶ、しっかり口添えしたるから。
おう、ほんなら俺も手伝おか。
アララ、今日はケンヤくんまでや・さ・し・い!
小春と2ショットきめるつもりか死なすど。

タイミングが掴めず、口を挟めない。
重たく湿った天気をものともしない賑やかさに場が華やぐ。
めまぐるしい展開のさ中、どういうわけだか部室にお邪魔する事が決定したらしい、否定や辞退を述べる間もなく背中を押され、部室と言うには立派な扉の前までやって来る。
かと思えば、目にも止まらぬ速さでぽいっと放り込まれるようにして室内に押し込まれたあげく、気づいた時には傘さえ持っていなかった。
ぎょっとして振り返れば、一際大柄の石田君が丁寧且つ綺麗に畳まれた私の傘をそっと傘立てに入れている。
意外だ。でもちょっと納得。
――って、そうじゃない!
慌てて前を見遣り、切れ長の瞳を開き驚いている白石君を確認した。
制服姿で、部誌か何かだろうか、机に向かって書き物の最中だった。
ああやっぱりいきなりじゃ迷惑だったかも、と後悔の念が後退りをさせたけれど、すぐ後ろには壁、ドアには忍足君と小春ちゃんが張り付くようにして待ち構えており、逃げ場など用意されていない。

「コートんとこで会うてな。白石、お前待ちやで」
「蔵リンもあとちょっとで終わるやろ? 雨降っとるし中に入れたってや。くれぐれも仲良うね! ケ・ド! 健全なレベルでお願いしたいわぁ、あたし花も恥らう14歳なんやから」
「おう小春の可愛さナメとったらいてまうぞコラ」
「アホ。揃いも揃って何してんねん、とっとと帰りや」

語尾にハートマークでもついてきそうな発言もそれに甲斐甲斐しくくっつく惚気的発言も、あえなく断ち切られて宙を舞い、とっくに元の落ち着いた表情を取り戻した白石君は、じっとり睨むような眼差しをチームメイトへぶつけている。
色々とついていけていない私が視線で行ったり来たりを繰り返していると、他の皆には見えない角度で可愛らしくウィンクをしてみせる小春ちゃんに出会った。
……口添えって、そういう意味?
思い至ったそばから、言われんでも帰るわ、馬に蹴られたないしな、等々明らかにからかいの色を含んだ言葉を置き土産にあっけなくドアは閉まり、足音が遠ざかるごとにあたりは静けさによって支配される。
文字通り放って置いていかれた私はぎゅっと肩を縮めて言う他ない。
あの、なんか、ごめんね。
白石君が一瞬だけ目をまん丸にして、それからすぐに微笑んだ。

さんが謝るとこちゃうやろ。今のでなんとなく察しがついたわ。こっちこそごめんな、あいつら無茶苦茶やりよって」
「ううん。みんないい人だよ」
「そう言うて貰えんのはありがたいけど、本人達に言うたらあかんで」

一度調子に乗るとほんま手に負えんのや、忘れずに釘をさす様は、引退したと言えども強豪テニス部を引っ張ってきた部長の面影を残している。
白石君以外の人の気配が消えた部室内は寂しいくらい大人しい空気に包まれている、一人で作業をするのはさぞかし味気ないだろうな、と思ったけれど、それはあくまでも私の観点なので他人にあてはめるのは違うかもしれない、考えを正す。

「雨に濡れんかったか」

会話をいくらか進めても尚入り口付近で突っ立ったままの私を見かねてだろうか、気遣いの言葉が投げられる。
うん、大丈夫。
簡素な返答に頷いて、狭っ苦しいわ汚いわで申し訳ないんやけど、どうぞ。
ペンを握ったままの掌で引かれたパイプ椅子が古びた音を立てた。
どこかで遠慮が顔を出したおかげで、意味はないのに二度三度周囲を見渡し、お邪魔します、と断りを入れてから腰を落とす。
隣に座ると、ほのかに体温が香った。
思わぬ近さにたじろいだが、なめらかに言葉を辿る声色が頭の芯をやんわりほぐしてくれて、数秒の緊張感はほっとする安心感へと様変わりする。
けど珍しいな、自分がこんな時間まで残ってるんは。
忍足君たちの言い分を、真っ向からは信じていない慎重さが白石君らしい。
ただの一言で力のぬけた私は笑いながら応える余裕すら持ち得ており、手短に下校時刻が遅くなった訳を伝えた。

「なんや、そんなら言うてくれればよかったのに」
「放課後に気づいたの」
「出たな、お得意のボケ」
「笑いをとるためにボケたつもりはないけど、ごめんなさい」
「はい。素直に謝ったから許しましょう」

ちっとも怒っていなかったしるしに、紡ぐ言葉はことごとく優しい。
唇を震わせるだけでなく、指先を動かす仕草までもが穏やかだった。
もうちょいかかるわ、待っててな。
頭の天辺をなぜる掌はあたたかい。
そういった気質の人だと元々わかっていたけれど、付き合い始めて以降の白石君は結構な甘やかしいだ。
そしてゆるんだ彼のキャパシティを理解した上でよりかかる自分は、ちょっと性格に難ありなのかもしれないと思う。
しかし、後味の悪い気持ちは、梅雨の晴れ間のように顕れて立ち消える。
おもては凪いでいて静かの内に膨れ、萎み、降り積もるものが、私にとっての恋だった。

先程の言葉の通り部室は雑然としていて、ついでにちょっと埃っぽい。
というより、かすかに土のにおいがするのだ。
なかには汗の残り香も混ざっているだろうから、純粋に土だけのにおいかといえば違うのかもしれない。
教室や廊下で目にする白石君とは少々かけ離れた様相なのだが、不思議と浮いたりせず、そこにいるのが当たり前みたく自然だ。
二年半以上の記憶が刻まれている場所をもっと知りたくはあったけれど、あんまりじろじろと観察するのも失礼に値する、彼が奏でる紙とペン先の擦れ合う響きへと意識を預けていく。
てっきり部誌だと思っていた書き物は、どうやら後輩達の練習メニューや問題点について一言アドバイスが書かれものだったらしい。
引き継ぎノートのようなもので、聖書という異名の後に残された下級生に泣きつかれたのが発端だと笑って話してくれた。
小学生の頃に出された絵日記の宿題とか、日誌に対する担任のコメントとか、そういうたぐいのものが脳裏に浮かぶ。
だから余計に無数の筆跡へ赤いインクが書き込まれていく様子は、学校の先生にしか見えなかった。それも随分熱心な教師だ。
彼は大雑把なところもあるのに、時折ものすごくまめまめしい。

「白石君、赤ペン先生みたい」
「あれはれっきとしたお仕事やろ。俺は無償やで」
「お疲れさまです」
「笑とるやないかい」

お疲れ、のあたりでつい吹き出してしまって、即座にツッコミを頂戴した。
かたい椅子の端と端に置いていた両手を、足のがたつく長広い机へ移し肘をつく。やや前屈みになった顎は掌で支えた。
白石君の赤ペン先生はまだ続いている。
同じように止む気配のない雨がしとしとと湿り気をたくわえて窓を濡らし、ぷっくり膨れた透明な粒は頼りなげに伝い落ちて、やがてサッシの向こう側へ姿を消していく。
暗がりが増えるばかりの夕時、降らぬ日差しの所為もあいまって、照らす灯りは室内の電気のみといっても過言ではない。
現に、机や椅子の下に出来た影はそれなりの濃さを誇っている。
ペンや消しゴムならまだしも、制服のボタンが外れて転がりでもすれば、見つけるのはなかなか労力を要しそうだ。
窓の外へ遣っていた視線を隣の彼に遣ると、長い指が小さな字を書き詰めているところだった。
なるべく一行の内に記さなければ、余白が足りなくなってしまうのだろう。
じつに細やかである。
ノートの内容を目にとめてしまわぬよう位置をずらし、白い包帯の巻かれた手の甲をじっと見つめる。
左利きの人が字を書く様はなにか新鮮だ、珍しいと言い替えても良い。
私の手前から奥の方に流れ、端まで行き着くとまた戻る。
目立つ赤色を操る指の根元、骨張った関節は丁寧な文字が白面に染みてゆく度小刻みに動き、それに釣られる包帯は小さな弛緩と緊張を繰り返して、うすい皮膚をなぞり形を変えていた。
長さの揃った爪は健康的なピンク色。
いくら綺麗な顔立ちだからといってそこまで整っているわけでないらしい、まろやかに白い爪半月が半分ほど甘皮に覆われている。
一筆で描いたみたいに真っ直ぐ伸びる指。第一と第二関節だけがしっかり張っているのでともすれば不恰好に映りそうなものだが、決してそうはならないあたり、完璧だ。
人差し指の中程に、よく見なければわからないかすり傷がある。
引っかいたような、擦ったような、真横に走る傷跡だった。
すぐ下には包帯が待ち構えているのに、雑菌から守るべきであろう肝心な部分にまでは届いていないのがなんだかおかしい。
どうにもこの人には、周りの人間がが同じ大きさの怪我をしたら絶対、消毒しろだの絆創膏を貼れだの口出しするはずなのに、ことが自分となると、まあこんくらい平気やろ、なんて放っておいてしまう癖がある。きっと水道で軽く洗っておしまいだ。
一瞬の気の緩みが健康を害する、などといかにもな口上を述べておきながら突っつきやすい隙も一緒に抱え込む。
手首は意外にも太い。
白い布の上からでもわかる隆起した骨が、ノートにつくかつかないかの所を行き交っていた。
下方の行にあった、インクの滲むペン先がふいに止まる。
きゅっと花丸の記される空気がついてきてもおかしくはない仕草である。
ページをめくる音さえ鮮明に響いて、ようやくお互い無言でいた事を知った。
綺麗な、という冠をのっけても許される指が、続きを記しかけ、迷うよう微細に上下したのち動きを失くす。
明らかに書き始めるところだったのに終わったわけじゃあないだろう、どうした事かと首を傾げようとしたと同時に、おでこのあたりに視線を感じた。
見られている。
投げ掛けられた気配を追えば、微笑み半分、困った顔半分の白石君と目が合った。

「あのな、さん。めっちゃ書きにくい」

なんのこと、反射的に口にしそうになり、慌てふためいて取り消す。
顎に添わせていた掌を外し、ついていた肘も浮かせて申し開きをはじめる。

「あ! ご、ごめん。でも、えっと、書いてる内容は見てないよ!」

自分の目には彼の手しか入っていなかったのだが、本人や第三者からすると、どう考えてもノートを盗み見しているようにしか見えない。
プライバシーの侵害、守秘義務、無遠慮、デリカシーがない。
等々の単語が頭の中を勝手に駆け巡り、嫌な汗を掻くかと思った。
しかし、白石君は虚をつかれた表情で言う。

「…いや、何書いてるかは、別に見られてもええんやけど」

自分に厳しい人はパーソナルな部分に踏み込まれるのが嫌い、というイメージがあったので少し驚いた。新発見である。

「そうなの?」
「ふざけてるんと違うし、真面目なことしか書いてへんから。問題は内容やない」

見られてる思うと、うまく書けん。
乱雑に切られた語尾はいつもの白石君らしくない。照れているのかもしれなかった。
言葉の発せられる瞬間、下を向いていた両の瞳が持ち上がる。

「まあ、それはもうええわ。書いてる内容は見てない、言うたな?」

頷く私を見、白石君も頷いた。

「なら何見てたんや、じーっと一生懸命に」

問い詰めるでもない、単純に不思議がっている声色だったが、まさか指や手の甲をじっくり見てました、と正直に白状するわけにはいかない。
なんとなく恥ずかしい事のような気がしたし、マニアとかフェチとか思われたら身の置き所がなくなってしまう。
大体そのパーツが好きというよりは、白石君のものだから気になるのだ。
……余計に恥ずかしくなってきた。

「近くに左利きの人っていなかったから、字を書いてるとこが珍しくて」

嘘はついていない。
疑問封じに笑顔をつければ羞恥も薄れる。
突き所を含んだ危うい私の返答に、彼は自らの左腕を眺めた。

「そうか? 俺なんか見慣れとるから、ようわからんわ」
「だってそりゃあ、白石君左利きだもん」
「テニス部にも多いんやで、利き手が左なんは」
「そうなんだ」
「せや。目立つとこで千歳やろ、銀もそうや」
「へー、背のおっきい2人とも、左利きなんだね」
「…………」
「…………?」

指折り数える動きが急に止まるので、今度こそ私は首を傾げた。

「やめとこ。他の男の手ぇ見られでもしたらかなわん」

静かに放られたペンが机にあたった為にかちりと鳴って、正しく伸びていた背筋が緩み、足を投げた反動で椅子のパイプがぎしぎし音を立てた。
思いも寄らぬお言葉に、知らず知らずまばたきの回数が増えていく。

「えっ、見ないよ?」
「珍しいんやろ。隣におったら目がいくやんか」
「えーと……いかないです」

真実に限りなく近い言い訳が、ここに来て私を追い立てる。
完全に信じてもらうには、洗いざらいすべて吐くほかないからだ。
ある種の緊急事態に屈み気味だった背を起こす私に代わり、白石君が右の肘をついて姿勢を崩した。

「箸持つのも左で、ラケット握るのも左や。それも珍しいん?」
「……あんまり」
「ふうん、そか」
「あのね、私、左利きの人が近くにいなかったって言ったよ。すぐ傍で字を書くところ見るなんて、白石君以外そうそうないと思う」
「あったら嫌やなぁ」
「ないもん」
「わからんで。委員会でも席替えでも、機会なんていくらでもあるんちゃう」

前提がずれているから、若干噛み合っていないのは当然だ。
困った事になってしまった。

「だ、大丈夫。白石君じゃなきゃ、左利きって気づかないもの」

沈黙が落ちた。
そう賑々しくもなかった雨音がやたら耳につく。
いっそう肘に体重をかける姿勢の白石君は、この上なく真顔だ。
切れ長の瞳が空を裂いて何事かを訴えかけてきている。
いびつに傾いた顎のラインへ影がかかり、前髪や襟足が斜めに散った所為で白光の下に首筋が顕になった。
怒っているのだろうか。にしては、ぴりっと肌にさわるような気配が存在していない。
よくわからないけれど、空気が変な感じだ。
足元が頼りなく、そわそわする。
耳朶を打つ雑音と静寂が重たげに反響していた。
いきなり始まった根比べを、

「あのね、白石君。その傷どうしたの?」

話題転換で切り上げた時点で、白旗をあげたも同然である。

「左手の…人差し指のとこ」

前触れのない指摘に理解が及んでいない様子の白石君を見、思わず手を伸ばして痕に触れる事で知らせようとしたが、すんでのところで我に返る。

「あっ、ご、ごめん……なさい!」

叱責を受けたわけでもないのに、びくついて手を引っ込める私へと降る微笑みは、ひたすら柔らかい。
なんや、そこまで怯えることないやろ。
しかしながら、些か苦笑が混じっているのも確かだった。

「もうほとんど治っとるし、触られたくらいで怒ったりせえへん」
「ほんと? じゃあ、さわ」

ってもいいの。
とんでもない発言を悟らせずに済ませるには、1秒遅かった。
せめて二文字目を口にしていなければ別の解釈だって可能だったかもしれない、悔いても取り返しはつかなさそうだ。
ほとんど無意識だったから、何故そんな事を言い出してしまったのか、自分でもわけがわからない。先程、一心に彼の手を見すぎた所為だろうか。それにしたってぶっ飛んでいる。
羞恥の自覚や言葉の意味を熟考するより、現状把握さえ出来ない思考回路に混乱し右往左往するばかりだった。
中途半端に切れた声のフォローをするでもなく、発言を取り消すでもなし、ただただ無言の内に固まっていると、口角の上がった唇から抗い難い声音がこぼれ出る。

「ええよ」

触っても、とは聞こえなかった。
だけれど彼の瞳は間違いなく、暴挙と謗られたって仕方ない私の言動をゆるしていた。
目は口ほどに物を言う、なんて一体誰が考えたのだろう、正し過ぎてぐうの音も出ない。
室内に在っても、雨のにおいがする。
つと視線を下ろし、すっかり空になった左手を見てみれば、天井へ向かって開かれた内側が皓々と照らされていた。
包帯の白色のおかげで、より眩しく感じられる。
小さな傷を持つ人差し指が震えたような素振りで動く。
机に写った影も同じく微動した。
手招きと言うには微かで、そもそも上下の向きが逆なのだが、白石君がその仕草に与えた意味は等しい。
ちょい、と可愛らしく振られる指先は、こちらを優しくいざなっている。
猫か犬か、ともかく小動物を呼ぶ時のような軽さに思わず息を詰めるも、ひと欠片も拒絶の意を表さない無防備な掌を跳ね除けることなど出来そうになかった。
一寸惑うて再び目線を戻すと、変わらぬ微笑み。
私の右腕は素直に引き寄せられたのだった。
恐る恐る、爪先が掠り、自らの人差し指が彼の小指の端へと辿り着く。
指どころか、爪ひとつとっても、いちいち作りが違う。
手の角度を一切ずらされなかったから、はからずも蓋をするような形になったが、大きさが異なるのでだいぶ不恰好だ。
だから、鍋に丁度良い蓋というよりは、貝殻と貝殻が合わさったと表現する方がまだ近いと思った。ぴったり、まではいかないけれど、触れる面積は喩えが前者だとあまり正しくない。
人差し指あたりの側面をゆっくり握られて、心臓が飛び跳ねた。
口から出るんじゃないかと慌てるほどだった。
そういった動揺を鎮めようとしてくれているのか、ラケットを掴む節くれ立った親指が手の甲を撫で滑っていく。
世間でいう、恋人同士、にあてはまる仲になっても手を繋いだ経験がない、あっても片手でおさまってしまう回数では、緊張しない方が難しい。
首より上、特に頬へ熱が集中していくのを感じながら、自分のそれとの差異を探し続けた。
じかに肌で確かめるとよくわかる、白石君の掌は肉刺だらけだ。
膨れては潰れ、時には血を流し、そうして新しい皮膚に覆われていったのであろう指の付け根が、じんわりと私の肌を包む。
また、やわらかに脱力した格好と裏腹に固く引き締まっており、包帯の部分はしっとりとなめらかで、それ以外の剥き出しであるところはかさついて熱っぽい。
ある意味では綺麗な見かけに反していた。
長く美しい手指に憧れる人からすれば勿体無い話かもわからないが、この人の腕は観賞用でなく、テニスをする為に在る。
うまく言えないけれど、私はそんな白石君が好きだった。

「これ、猫にやられてん」

特別な感覚にひたる鼓膜へまろやかな声が入り込んで来、指先から視線を剥がして首を傾けた。

「猫?」
「うちにおるんや、気分屋さんの子が。いつもは大人しいんやけど、たまにわけわからんくらい暴れてなぁ、帰宅早々飛びかかられて爪の餌食に」

人差し指を上下させ、私の指の背をぴたぴたと叩く白石君が、あん時はびっくりしたで、と続ける。
よりにもよって利き手を襲われるとは、流石の聖書も自宅の愛猫には気を抜いているのだろうか。
優しく撫でられたら大人しくなりそうだけど、微笑ましい光景を勝手に目蓋の裏に浮かべながら問うてみる。

「痛かった?」
「死ぬほど水しみたわ」

素早い答えが返ってきたので、いまだ捕まえられていない為、唯一自由な親指を傷跡から遠ざけようと動かせば、彼は吐息をこぼして笑うのだった。

「せやから優しくしてな」

断る理由が見つからない。

「うん」
「うんて」
「えっ、だめ?」
「駄目ちゃうけど、心配や」

心配。
どこか困ったふうに首を竦める人が下した言葉を飲んで反芻する。
常日頃、そのような振るまいをしてきたつもりはないのだが、すぐには信じて貰えぬほど粗暴だと受け取られているのだろうか。
ああ、でも、さっきは不用意に触ろうとしてしまった、それがいけなかったのかもしれない。

「俺以外の奴の手、握ったらあかんで」

等々真面目に考えていたら、予想を超えたあげく斜め上にまで突破する声が聞こえて、思わず耳を疑った。

「なに言ってるの」
「うん? 気ぃつけてや、言うてる」
「そんなの、言われなくても大丈夫だよ」
「さあ、どうやろね」
「そこまで体張ってボケたりしません」
「信用なりません」
「なんで?」
「なんでも」
「じゃあ、どうしたら信じてくれるの?」
「……言うたそばからこれやもんな、なんべん心配したってきりがないわ」

あーあ、とわからず屋の聞き分けない子供を前にしたみたく、空いていた右手で顔を覆う。
心外な評価に私は顔を顰めて言い募った。

「だから、なにがだめなの」
さんはほんまずっと隙だらけやん?」
「やん? とか聞かれてもわかんないよ」
「そら困りました」
「もう! 敬語やめてよ!」

痺れを切らし声を荒げるも、当の白石君は、俺の気持ちちょっとはわかってええやんか、などと楽しげに肩を揺らすのだから腹立たしい。つ
いでに、こんな時でも崩れない綺麗な顔立ちがにくらしくもある。天は二物も三物も与えすぎだ。
とっさに身を引いて尚も抗議を続けようとし、

「ちっちゃい手やな」

喉が詰まった。
いつの間にか笑顔を引っ込めた人が、静かな視線を手元へ傾けている。
指が指をなぞる。滑りゆく皮膚の熱。
はっきりわかったのは、かたい肉刺の跡だ。するり。擦るように撫でられて背筋が震えてしまう。
背骨の埋まるすぐ上、窪んでひとつに通じるラインが、無性にくすぐったかった。
騒がしい問答の最中にはまったく気にならなかった雨音がここにきて存在感を増す。
密度の濃い空気は肌に痛い。

「……普通だと思う」

なんとか絞り出した言葉は弱々しく、いかなる拘束力も持っていない、白石君の目先は変わらずにただ声だけが私のもとまで投げられてきていた。

「そんで、かわええ指や」

こちらの事などまるで意に介していない。白石君の親指に小指が絡めとられてまたしても呼気が止まりかけ、緊張に体を硬くしていれば、ふっと空気が和らいだ。

「……わかっとる。さんは、そんな子ちゃうもんな。俺の一方通行いう方が正しい」

零れるささめきは、ともすると聞き逃してしまいそうなくらい密やかだった。

「あの、白石君」
「勝手にいらんとこまで心配しとるだけ。見ててアホらしいやろ」
「あのね」
「そやけど知らん内によそで仲良うなるんは嫌や。いつの間にやら小春はちゃん呼びやし、さんは小春ちゃん呼びで、あのゴンタクレも遠山君から金ちゃんなっとるやん。俺、びっくりしたんやで」

ひといきで紡がれる言葉には、付け入る暇も余裕もない。
つい先刻まであれだけ合っていた目が、かわされでもしたかのよう不自然に交わらず、表面は穏やかなままである彼の双眸が一点で留まっていた。
やわらかに、しかし離してはくれない強さで握られた私の手を、じっと見つめている。
鋭い彼が己へ注がれる視線に気づかぬわけがない、では黙殺するのはどうしてか。
にわかに秀眉が曇った。

「なぁ、頼むわ。あんまり隙見せんといて」

俺にも、俺以外の奴にも。
言ったきり、白石君は黙ってしまった。
静けさがひた走り、屋根を打つ雫は絶える事がない。
私の緊張はというと、すっかり収まっている。硬さが抜け、脱力し、手に触れる温度を包んでお返しする余力だってある。
白石君がはっとしたようだったが、まだ目は合わない。
指を通る血脈がかすかに鼓動して、肌を伝う音はクリアに響いた。
あたたかい。
この人が同じように私を感じてくれていたらいいな、心から願いながら、生憎の雨模様と裏腹に乾いた唇を開く。

「こっち見ないの」

がっちり掴まれて身動きのとれない指先で、大きな掌を小さく叩いてみる。とんとん。
ねえ、白石君。
私、一方通行だなんて思わないよ。だってもしそうなら、こんなに嬉しくならないよ。
あますことなく懇々と説いてやりたかったのだけれど、ふやける口元では上手く形にする事が叶わなかった。
とんとん。
二度目のおとないで、ようやく顔を上げてくれる。
常々見惚れるくらい美しいかんばせは変わらずに美しく、だが揃いの瞳だけが拗ねた子供のそれだった。口は真一文字に結ばれている。
止めを刺された私の頬はだらしなく緩み、抑え切れない唇の端がやんわり上を向いていく。

「大丈夫だよ。白石君じゃない人と手を繋いだりしないから。ほかに誰の名前を呼んでたって、白石君より特別な人なんていないもん」

咎められる可能性は低くとも、自然ボリュームが下がった。
雨に負けてもおかしくなかったが、きちんと届いたらしく、真っ直ぐ目が合う。
体感は十数秒。
実際には、ほんのニ、三秒。
ガラス窓についた水の粒が流れて消えるくらいの短い間だった。

「そっか」

白石君が、目尻を滲ませて笑う。
瞳は幼さと大人びた表情の狭間を漂っている。
だが口数少なく、どこか苦味を含んでいるのは、かっこ悪いとか言わせてしもたとか、多分そんな事を考えているからなのだろう。
わかっていない。
全部含めて、私が好きな白石君なのだ。
ゆらゆら。掌の下にあるもう一つの掌が、さっきの返礼のように接触をはかってきた。
私は笑って、それから首を傾げる。

「なあに?」

ゆらゆら。
上下にたわむ手の内がぴたりと止まり、低すぎず高すぎず心地よい声音は他愛ない事だとでも言いたげに告げてきた。

「ん、健全なレベルで仲良うしよか思てな」

わあ、いかがわしい。
小春ちゃんとこの人ではここまで差が出るのかというくらい不健全極まりなく聞こえ、程度の酷さに怒るより早く許してしまう。
あまりにあまりだったので素直に感想を呟くと、彼はちっとも悪びれないで続けていく。

「しゃあないやん、好きな子がこんなすぐそばにおるんやから」
「私のせい?」
「せやな。けど半分くらいは俺のせい」

一つ勝ったら、二つ負けてくれる。
白石君はそういう人だ。
相手に全てを押し付けたりせず、自分が悪いわけじゃない事だって背負う。
やっぱり甘やかしいで、どうしてもよりかかりたくなる。

「うん。あのね、ありがとう」
「何がや」
「いろいろ、たくさん」
「……たくさん、な」

可笑しそうに微笑む彼へ、だけど、あともうちょっと、わかりやすくして欲しいな。
試しに零してみたら、そら難しい、俺結構小心者やねんで、やけにさっぱりとした声色で戻ってきた。
何が、と問うたのはそっちのくせしてほとんどわかっているじゃないかとか、本当に小心の人はそんなの口にしないとか、言いたい事は諸々あれど、とりあえず。
どうやって仲良くするの?
自分、わかってて聞いとるやろ。
触れ合い、ぴったり重なる指先が熱をあげてゆく。
声はかたわらで色を奏でている。
雨に降りこめられた四角い箱の中、静寂と数多の水滴が私たち二人の味方だ。
からまる眼差しは甘い。
ほどなく落ちてくるキスを待つ為に、私はそっと目蓋を閉じた。