心幼く恋をする




「おはようさん」
「い、う、お…おはよう」

朝日差す清々しい昇降口、上履きを取ろうと鉄製のロッカーに触れたその瞬間、横合いからの柔らかな響きに思いっきり動揺した。
そらもう目に見えてガッタガタに狼狽えたのだが、寒さで濁った息を吐く白石くんは甘い笑顔を浮かべたまま何も聞いてこない。
私の知っている白石くんなら、普通に挨拶しただけやろ、そない目ぇ白黒させる事ないやん、ぐらいのツッコミを入れてくるはずだけど、黙って上靴に履き替えているあたり元からそのつもりはないようだ。
いつもと同じようで、全く違う。
小さな異変はじわじわと足元からよじ登り、お腹の底をものすごく変な感じに掻き回そうとするので、わけのわからない汗が拭き出そうになった。
私のちょうど真後ろが、彼の下駄箱だ。
背中合わせで互いに屈み外靴を引っ掛け、ほぼ同時にロッカーの扉を閉める。
意識しません絶対しませんと頑張れば頑張るだけ気配を察知してしまうのがとても困った。
張り詰める真冬の空気の中、息を押し殺す。
歩き出すタイミングすら掴めなくなって肩にかけた鞄の紐を無意味に握り締めていると、先んじて廊下に上がった白石くんが少しだけ振り返って言った。

「今日早いな、まだ教室に誰もいないんとちゃうん」

一番乗りや、と微笑んだ顔の美しい事。
どことなく白んだ陽光に透ける髪が、立ち上る薄い息越しに揺れている。
光と影の両方とが彼という人を優しく彩り、冷気の詰まった昇降口とは思えない体感温度を生み出した。
一体いつ呼吸をすればいいのかわからなくなった私は、首から上に異様に熱が籠もった状態でどうにかこうにか答える。

「た…ったまたまな、バス一本早いの乗って。いつもはこんな早ないし、わ、私どっち言うたら遅刻ぎりぎりタイプ……」

登校時間が重なったのは狙ったのでも何でもなく、本当に偶然だ。
変に思われたくない一心で注意点の多い日頃の生活態度まで言い並べてしまったが、そもそも出会い頭からして変だったのだから意味がないと、口を閉じた後で気がついた。
なんというマヌケ。
即刻ダッシュをして逃げたくとも足が竦んで動けない。

「そんなら俺は、さんのたまたまに感謝しよかな」

細めていた目をひとつの線にして笑い、背負った通学鞄を掛け直す仕草が、なんでかえらい様になって見える。
柔らかに、でも確実に気圧された私はといえば、なんで、どういう意味、どこに向かっての感謝、口をついてこぼれそうになる言葉の数々を飲み込むしかない。
わけのわからない汗、再び。
視線が泳ぐ。
自分が今どんな顔色になっているのかまるで想像がつかなかった。
本格的に挙動不審者だという自覚はあっても解決法が見つからないので悲惨な現状維持に努めるだけだ。
3年は部を引退した身だから朝練はないにしろ部外者にはわからない用事があるのかも、と先程よぎった予想で己を奮い立たせようとし、静かに歩き始めた背中が部室棟ではなく教室へ向かっているのが視界に入って早くも挫けそうになる。
ここでわざとらしく、私そういえば用あったんやお先に教室へどうぞどうぞほなさいなら、などと誤魔化す勇気はない。
怪しすぎる。
この場をしのげたとしても、後が気まずすぎる。
潜めていた呼吸を揺り起こし、慎重に酸素を吸う。
意を決してちょっとだけ駆け足すると、足音がやたら大きく聞こえた。
そうして隣に追いつけば、こちらを見下ろす綺麗な瞳がふっと和らぐのだから困ってしまう。
語るべくもないとばかりの声なき声に、心臓が白旗を揚げ、連動した頬に熱が差していく。

だって人から、それも男の子から、こんな風に見つめられた経験なんて、私一度もない。







狂乱、と難しい本でしか目にしない表現がお似合いのバレンタインだった。
四天宝寺中の有名人たる白石くんをはじめとした強豪テニス部の面々はほとんどが3年生、つまり最後の2月14日だったから、女の子たちの意気ごみっぷりは色んな意味ですごかった。
我らが母校の気風であるお笑いを含みつつも底には本気が見え隠れし、気温に反して熱気ばかりが充満していた。
おまけにドンピシャで雪が降ったのを指してホワイトバレンタインデーだ、と例年になく盛り上がり、今日に賭ける女子が続出、浮き足だった雰囲気に飲まれたのである。
雪のせいで白みを帯びる校舎内は、心なしか輝いて映る。
いつ渡すのかをこっそり相談する声、意中の彼が休み時間誰かに呼び出された呼び出されてない、告白するだのしないだの。
この日に備え磨かれし武器を手にした恋する女の子という名の戦士達は、雪が降ろうが槍が降ろうが作戦会議に余念がない。
みんな義理の中にとっておきを隠し持ち、可愛らしくはしゃぎながら意中の相手を追いかけている。
さておき私はといえば、朝も早くから保健室行きであった。
慣れない雪道にてすっ転んだ負傷者ではない、厳密に言えば膝をぶつけて僅かな青あざを作ってはいたけどもメインは怪我の手当ではなかった。
やらかしてから失態を悟り、軽いショックを受ける私は生粋のアホなのだろう。
後の祭り。
英語でIt's too late.
残念にも程がある。
笑う以外に作る表情を見失い、借り物のタオルを頭から被って俯いていた所、会いたくない人に会ってしまった。

「……さんどないしてん」

絶対に目撃されたくない、私だと気づかれたくない。
念じながらこそこそ端を歩き顔を隠していたのに何故、と驚愕したがなんの事はない、胸元にはガッツリ名前が刺繍されているのだ、気づかれないわけがなかった。
観念し曲げていた首を伸ばすと、右肩にいつもの鞄、左手にはどう見ても男の子は選ばないだろう色使いの紙袋を携えた白石くんが目を丸くして立っていた。
そのちょっと可愛いびっくり顔に影響されたわけではないが、私も私で驚いた。
毎年一人では食べきれない量だと噂に聞いていた、確かにいたけど悪天候の朝から早速貰っているだなんてまさか思わないではないか、朝一ならいけるかもしれないと能天気に構えていた己のぬるま湯に限界まで熱した鉄の棒を突っ込まれた心地である。
水面はボコボコと音を立てて舞い上がり、あっという間に蒸発し、残るものはといえば焼野原。
愕然とした。

「いやぁ…まぁ、なんやろね、色々ありまして、うん」
「転んだんか?」

真剣な眼差しが痛い。
他意なく心配してくれているのがわかって、取り払ったタオルをもう一度被りたくなった。
一方はバレンタインの主役かというほど注目を浴びる、登校時間前にもかかわらず既に贈り物を手にしている四天宝寺きっての大イケメン様、一方は髪まで濡らしバレンタインだというにジャージ姿を晒す冴えない女子。
並んでいるだけで自己嫌悪や羞恥心、場違い感その他諸々に押し潰されそうだ。

「ううん大丈夫、転んでへん。学校来る前に、弟とちょっと……」

そこまでどうにか口にした努力も虚しく、白石くんは小首を傾げ更なる説明を求めてくる。
諦めの境地へ辿り着いた私は腹を括り、事の顛末を話してみせたのだった。


明日雪だったら保育園へ送っていくように、とあらかじめ指令を下されていた私は、そのつもりで前日早めに目覚ましをセットした。
喧しい鐘の音に叩き起こされカーテンを開けば、予報通りに一面の白。
共働きの両親は雪でも出勤しなければならないらしく、仲良く天を罵りながら家を飛び出していく。
残された私達は朝ご飯に身支度を終え、まだまだ小さな弟に考えられる限りの装備を施したのち家を後にした。
初めは滅多にない雪に心躍らせていたのだが、想像以上の降りようにこれは私ももっと防寒対策するべきだったのではと後悔した頃、遊びたい欲が爆発したらしい弟がおもちゃみたいにちっちゃなレインブーツで道端の雪を蹴っ飛ばしたのだ。
反動で繋いでいた手が離れ慌てる私へ、本当に幼児かと疑う剛速球がヒットする。
ちびっ子の作った雪玉といえども、顔に当たれば痛いし冷たい。手加減を知らないので、親や友達とやり合うよりも被害が甚大だ。
叱ろうと口を開けば、追撃。
キャアキャアはしゃぐ声が、白濡れの視界の向こうから届いてきた。
なるほどならば実力行使だ。
後先考えず雪用ではない手袋で、降り積もっていた塀上の雪を引っ掴み、やんちゃないたずらっ子へどばっと浴びせた。
後はもう、語るのも憚られる大騒ぎである。
叱るどころか一緒になって雪の掛け合い、注意に注意を重ねて歩くべき雪道はただの遊び場と化し、それでも小さな子を濡らしてはいけないと気を遣っていたのが災いしたと言うべきか、変な風に力を抜いてしまった私は雪の吹き溜まりに突っ込んだ。
爆笑する無邪気な声に釣られて、あかんめっちゃ濡れた! と笑っていたら、通りすがりのおばちゃんのアラ雪も滴るいい女、との声。
おかげで二割増し、ほんま雪様様です。
答えた調子乗りの私が己の行動を省みたのは、保育士さんに挨拶をしてからだった。
どないしたん大丈夫怪我はないとあまりの心配されっぷりに、あれもしかして私今恥ずかしい状態、薄々感づきつつも手を振る弟に別れを告げ学校までやって来たら、正門あたりの雪かきをしようとしていた体育の先生や下駄箱近くを歩いていた用務員さん、見るに見かねたらしい養護教諭の先生と会う人会う人に、お前なんちゅう格好や、コケてしもたんか可哀相に、保健室はあったかいからそこで着替えなさい、悉くつっこまれてようやっと冷静になったのである。
雪遊びは正直な所すごい楽しかったけど、後々学校がある事を考えれば本気出して小さな子と一緒になって騒いでる場合ではない。
子供か。
弟と同レベルか。
びっしょびしょに制服濡らしてなにをどうするつもり。
遅れて次々襲いかかる内なる総ツッコミが刺さっていく。
膝小僧の青あざだって保健室の先生に指摘されて気がついたくらいだ、こんな私が曲りなりにも中学3年生で、実はチョコをしっかり鞄の中に潜ませていたなんて笑い話にもならない。
最早体温を奪う代物と化した制服を預かって干して貰うのと引き換えに、今日一日ジャージ姿で過ごす事が決定した時の自分で自分にガッカリした感は何やらもう生きているのが辛いレベルである。
四天の先生方と保育士さんの驚愕や呆れた表情も当分忘れられないだろう。
恥ずかしくて情けなくて、しばらくは夢に見そうだ。


「……ていうしょうもない事情です」

このように女子力低下著しい私なんかにも白石くんは優しかった。
なるほど、とほっとしたように息をつき、怪我なくて良かったわ、思いやりに溢れた言葉まで付け足してくれるので、アホの極みたる自分のお話を聞かせるには勿体ない相手だ。
流石イケメン、モテる男は一味違う。
居た堪れなさに落ち込んだ肩へ、眩い微笑みが降る。

「ええな、さんちは楽しそやなぁ」

嫌味でもなんでもなく、心から羨ましいといった風だった。

「楽しい代わりにバレンタインやのにジャージで過ごさなあかんけど、白石くんそれでええの?」

一時大事な鞄の中身を忘れてしまうほどはしゃいだのは事実なので、否定はしない。楽しかった事は楽しかった。
加えて、ここまで時間が経過してくるとどうにでもなれとやけくそになって、ふざけた回答を口にする気力も沸いてくる。

「俺は別にジャージでも構へんけど」
「もお、またそんなん言う…。白石くんがよくても女子がほっとかへんよ。バレンタインにびしょ濡れになったあげくジャージとか、濡らしたほうが怒られる」
「どういう理屈なん、それ? 第一、他の女子は関係ないやんか」

朗らかな笑い声が、窓の外でしんしんと落ちていく雪の色と混ざった。
床から体をよじ上ってくる空気は冷たく凍りついている。
けれど目の前の白石くんと、慣れ親しんだ風景を白く染める雪はとても綺麗だった。

「うちは上も下も女やからな、一緒んなって雪遊び出来る兄弟おらんのや」
「あ、そうなん。男の子、白石くん一人?」
「せや、男は俺とオトンだけ。女三人に団結されたらもうどうしようもないしめっちゃ肩身狭いしで敵わん」

買い物付き合わされてみ、荷物持ちは100%俺、との嘆きに伏せられた睫毛が長く綺麗に生え揃っていて、彼と血を分けたお姉さんと妹さんはさぞや美形なのだろうななどとぼんやり考える。

「重いもの持ってくれはる人がおったら助かるもん、ちょっと気持ちわかる、私。白石くん、おうちで頼りにされてんねや」
「……そんな可愛いもんと違うな、あれは」

肩を竦めながら何事かを思い出している様子の白石くんは、それでも家族の頼みやお願いを断る人ではない。
何せ、チョコを貰ったりあげたり甘い雰囲気の漂う今日という日に、明らかに主役から外れたジャージ女子にも声を掛けてくれる人なのだ、どれだけ不満を述べていたとて本質的にはすこぶる優しいのである。
(……そっかぁ)
学年が上がるにつれて激化していった競争率も納得のかっこよさに、私は尻込みした。
一刻も早くこの場を立ち去り、彼を想う相応しい誰かに譲らなくてはと少々卑屈にもなった。
散々遊び倒してしまったからどういう具合になっているかを確かめて、平気そうだったら頑張ってみようかと思っていたけれどやっぱりやめよう。

――チョコレートは、渡せない。

渡すにしたってもっと決死の覚悟とかそういうものが必要だ。
昨日友達同士で集まって一緒に作って、誰にあげるのかと場が盛り上がった時、思い浮かんだ顔が今目の前にいる人とまるで重ならなかったとは言わない。
よぎる一瞬一瞬の表情、笑った時の甘い目元、テニスプレイヤーのくせして綺麗な指に高い背丈。
好き以前の問題で、憧れているとさえもはっきり言えない、淡いにおい。
親切心のかたまりみたいな人で、体育の授業前、準備係たる私がカラーコーンを運んでいたら恐ろしくスマートに手伝ってくれた事があった。
廊下の掲示物を剥がそうとつま先立ちした頭上、軽々超えていく長い腕を無意識に辿っていく。
腕の付け根にあたる肩が見えてすぐ、鼓膜に溶ける声が降る。
こら、何でもかんでも一人でやろうとせんと、こういう時は周りを頼らなあかんで。
思い出す度、少しだけ心臓が速まった。
だけどその程度で、軽々しい気持ちで渡していい人じゃあないのだ。
他の誰を差し置いても、白石くんだけは大切にしなければならなかったと本気で反省した。
誰に向けたものでもなく、ごめんなさい、と心の中で謝ったのち、ジャージを取る際荷物を置いてきた更衣室へ向かうべく、風邪引かんよう気ぃつけなさい、と最後の最後まで気遣いを忘れない人に別れを告げた歩き始める。


あんたアホなん、2月14日にジャージて女捨ててるんか。
手厳しくも愛に溢れた友達のツッコミを笑って受け取り、そのジャージのおかげで下半身が冷えずにかえって温かく過ごせた一日。
始業時間の繰り下げ、登校できなかった生徒や先生がいた所為で目立つ空席、よその学校は休校した所も、と雪の影響の及んだ校内であったが熱量に変わりはない。
さわさわと薄皮だけを舐めていく、独特の空気が悩ましい。
休み時間に呼び出されてはクラスから姿を消す白石くんを不可抗力で目撃したあげく、机やロッカーにそっと積まれたものはともかく面と向かってだとか名前入りだとかの分は受け取っていないと知ってしまってそれなりにショックだった。
たった一日に全てを懸けるつもりだったらしい子は身投げでもするかというくらいの嘆きっぷり、知らずに攻め上がった子が実らなかった想いを抱え帰還していく様を間近にした私はただただ体を震え上がらせる。
最も校内を騒がせたのは、四天でも指折りの美人さえ叶わなかったという足の速い、一時間と経たずに広まった噂だ。
あの時ほど自己判断を称えた事はなかった。
危ない、朝の内に撤退してよかったセーフ、と意気地のない自分を棚上げして胸を撫で下ろす。
2月14日だけ特別な意味を持つチョコを受け取らない理由なんて、一般的に考えてそう多くない。
彼に限って、お返しが面倒臭い、単純に欲しくない、などといったひどい理由を掲げやしないだろう。
それすなわち既にお付き合いをしている人の為とか、好きな人からしか貰わないと決めているだとか、ごくごく誠実な理由に決まっているのだ。
宣告されればわかりましたと頷くほかない当然の、でも悲しい対応に、最早どれくらいの女子が涙したか数え切れない。
降り積もった雪の量よりあるかもしれない、と恐れと敬意を持って考えてしまうくらいには、白石くんに想いを寄せる子がたくさんいた事を知っていた。


「…あれ、自分まだ残ってたんか」

放課後になっていっそう冷える心と校舎に、柔らかい声が差し込む。
帰り道を考慮し一応乾いたがジャージのほうがいいと判じた私は、制服を仕舞う袋がないかと教室のロッカーを漁っている所だった。
本日何かと騒ぎの中心だった白石くんは入り口あたり、ドアに手を掛けて佇んでいる。

「う、うん。服入る袋とか…あったかなぁ思て」

あかんちょっと声震えてもうた。
まだ真正面から見る勇気は持てない私は動揺を隠せず、振り返った先の姿を目にし、慌てふためいて首を戻す。
昼頃に止んだ雪の解ける、雨音のようで少しばかり異なる音が壁を伝っていて、その中に床を踏む上履きの気配が混ざり込んだ。
始まりは背中側からそっと、やがて大きくなる。他の誰でもない白石くんの足音だ。
指の爪がきゅうと締まって、降ってわいた緊張に喉が鳴る。

「ジャージのまま帰るん?」
「……ジャージのまま帰りますよ。制服着て、もっかい濡れたないもん」

投げ掛けられた声がからかいの色を含ませていたので、若干体の力を抜いて答えられた。
張り詰めていた糸が緩んだ拍子に尋ねてみる。

「白石くんこそ、教室になんの用。あわかった、ぎょーさん貰ったチョコ持ち帰る袋探しに来たんや?」

雪解けがもたらす音以外存在しない、気詰まりな静寂を振り払うよう、思ったより彼の誠実さに傷ついているらしい自分に早くケリをつけられるよう、願いを込めてなるたけ明るく放った。
白石くんへ向けてではない、私自身に切っ先が向いた言葉の刃。

「貰てへんて。俺が断った事知ってるやろ、同じ教室にいたんやから」

だけど優しくはたき落とされ、予定していた効果を発揮せぬままぐんにゃり曲がってしまう。
ロッカー内をくまなく調べる為座り込んでいた私が思わず体勢を起こし立つと、一番後ろの席の椅子に腰を掛け、どこか困った顔つきをしている白石くんと目が合った。

「せやから、袋は探してないで。別の探し物はしとったけどな」
「……その探し物の途中で、教室の前通りがかった?」
「そやな、まあ運良く」

運良く?
不可解な言葉尻に首を傾げても、当の本人はうっすら笑うばかりで解決の糸口さえ掴めない。
無難な相槌というものがどうしても思いつかず、なんとなく笑い返してみた。
ら、白石くんが椅子から手を離し一歩こちらに近づいたので、心の準備が間に合わなかった私はびっくりした。

「俺の事はええんや、どうでも。それよかさんは?」

彼らしからぬ、ちょっと乱暴な距離の詰め方だと感じたからだ。

「え、わ…私?」
「チョコ貰たりあげたりな。女の子はようやるやん、友達同士で」

よく見ればコートも鞄も身につけておらず動きやすさ重視のようだから、本当に探し物の途中だったのかもしれない。
しかしこの天候でマフラーもないとは寒くないのかと、他人事ながら心配になる。

「ああ、ええと……去年までやっててんけど、今年はない。今年は作るとこまで一緒にやって、でもみんな最後やし本命がんばるからー言い出して……」

着地点なき会話に困惑が募り、言わなくてもいい事が唇の端からこぼれていく。
こんな時だというのに、ジャージの裾長いわサイズが合ってないんとちゃうこれ、などと足元が気になって仕方がない。
上履きの底を擦って不格好な箇所が見つかりませんようにと祈る途中で、年頃の女子として寂しすぎる実情を発表している事に考え至った。
雪に濡れて登校し、丸一日ジャージで乗り切ったあげく、友チョコを作りはしたけどあげてません、虚しい俳句が自動作成される始末。
いかに私がバレンタイン無視のしみったれたジャージ女といえども見逃せない事はある。

「そ…っやから、友達にはあげてない。こ、今年は弟だけ。あ、あのね、恐竜発掘チョコゆうんがあって、化石掘るみたいなやつなんやけど…一緒にやったら楽しいかな思て。あとは、あとは自分で食べる、くらい?」

謎の勢いがものの見事に口を滑らせた。
弟の分を用意している事も、友達同士で作った分を自分で食べた事も、嘘じゃなく本当だからたちが悪い。
真実だからこそ覆すのは難しく、今のやっぱナシでと頼み込むなんてとんでもない、全ては白石くんの反応次第という窮地に陥り明後日のほうへと息が弾む。
後腐れなく、綺麗に私の胃の中へおさまっていった甘さが不意に蘇る。
持ち帰って家族にからかわれたら憤死もの、上手く掻い潜った所で一人侘しくあげるつもりだったチョコを食すだけ、イメージすればするだけ悲しみが増していった。いくらなんでも寂しすぎる、その光景。
だったら学校、友達のいる場でわいわいしながら方を付けたほうがまだまし、と今朝方心の底に押し隠した気持ちごと飲み込んだのだ。
少々片寄っていたけれど、チョコ自体は割れても崩れてもいない。
ラッピングも家族が寝静まってからこっそり頑張った。
味だって経験値のない私にしては悪くなくて、甘すぎず苦すぎずでちょうどいい。
え、どないしたんそれ、あげへんの、自分用ちゃうやろええの食べて。
好奇心と心配の同居した眼差しで素早いツッコミを見せる友達をよそに、摘んだ欠片をひょいと口の中へと放り舌で転がした。
昼休みの教室、お弁当を囲むいつもの顔が曇ったので、だって今成仏させんと化けて出てきそうなんやもん、頬張りながら茶化す。
のアホ。
ジャージもなんも関係あらへん、頑張ったらよかったんや。
すると、隣に座った小学校からの付き合いの子がよしよしと頭を撫でてくれ、それを期にみんな揃って深くは聞かずに慰めてくれたので、不覚にもちょっと泣きそうになった。
ジャージは確かに原因のひとつだったが、そればかりではない。

誰にも言えない。
まさか何の考えもなく、あげたい人はと問われて一番に浮かんだからという理由だけを根拠にあの白石くんに渡そうとしていたなんて、口が裂けても。


「そか。そら羨ましいわ」

本人を目の前にしてそうとは知らせず罪の懺悔をしているような状況だ、私の許容量をとうに超え、段々何がどうなっているのかわからなくなってきた時、それまで静かに話を聞いていた白石くんがふぅんと呟き更に混乱の増す言葉を寄越した。

「……白石くん」
「ん?」
「今のどこに羨ましい要素あった? 私ぜんっぜんわかれへん」

色恋沙汰から程遠い、むしろ寂しくも悲しいバレンタインである。

「そうか? 恐竜発掘チョコ、俺は楽しそうやと思ってんけど」

そこ!?
大声でツッコミたい衝動を必死に我慢した私は偉いと思う。誰か表彰したって。
白石くんは基本しっかり者でほとんど完璧な男の子なのに、時たまズレた発言をする。
3年で初めてクラスが一緒になった私は知らずにいたけれど、同じテニス部の忍足くんに言わせれば、あいつに向いとるんはボケや、との事で、入学当初から付き合いのある人達にとっては周知の事実らしい。
そこが残念、そこが可愛い、女子の意見は常に真っ二つに割れていた。
私はどっちに属するかだなんて、そんなの自問自答する意味もないくらい決まりきっている。
ただの一度も白石くんに対してマイナス感情を抱いた覚えはないのに、前者のわけがなかった。

「………発掘が?」
「発掘も」

チョコの物珍しさを指しているのかと思いきや、相も変わらず含みのある返答しか戻ってこない。
でもってまだあの朗々とした笑みを浮かべていたらどうしてくれようかと目を据えて見、はっと息がつっかえて転んだ。
首を傾かせ、笑っている事は笑っている。
だけど困り顔だ。
それも以前と比べて倍、訴えかけるような。

「そ……そないに珍しいチョコちゃうし、白石くんが貰た中にあるかもしれんよ?」

白石くんのがうつった、なんだか私まで返事に困る。
落ち着かない。
変わらぬはずの空気がやんわり動き出した気がして、足の先も踵も戸惑った。

「今日貰ったモンはあかんのや。意味がないからな」

先程は断ったから貰っていないと言っておきながら、さらっとちゃっかり翻している。
その上贅沢だ、今なんと言ったかこのモテ男子、意味がないと言わなかったか、よっぽど夜道に気をつけなければその内刺されるんじゃなかろうか。
あなたを殺して私も死ぬという過激派が存在しないとは言いきれない、こと白石くんにおいては。

「あんなぁ白石くん…義理どころか本命まで死ぬほど貰って、その上まだ欲しいとか言う? 普通。罰当たるで、ほんまに!」

ひょっとしたら私のチョコも無意味だと一刀両断されていたかもしれない、もしもの未来を考えたらとてつもなく悲しくなって、気持ちを無下にされた気がして、好きな人に一途なだけの白石くんは何も悪くないのに刺々しくなってしまう。
私のほうこそ勝手気ままに行動しようとしていたくせに、わかっていても止められなかった。

「うん、当たるかもしれん。……いやむしろ今当たっとるか」

またしてもさらっと認めたではないか、自覚があるなら尚悪い。
この人ダメだわ刺される。
今でも充分真面目だけどもうちょい違う部分にもそれを応用させてみては、と余計なお世話を焼くのも彼の身の安全を思えば大事だが、最後に加わった言葉の意味も気になってどういう意味だろう、心当たりがあるのかと尋ねかけ、

「言うても、好きな子から貰えんかったら他にいくら貰たかて意味ないやん」
「えっ!? 嘘、なんで貰てないの!?」

爆弾発言に全部が吹っ飛んでいく。
まさか彼ほどの人が意中の子から本命を頂けていなかったとは夢にも思わず、失礼無礼極まりない発言をしてしまった。
だってあんなに真摯にお断りし、本気なら尚更気安く受け取れないとたくさんの贈り物を辞退していたのに、14日の放課後になってまで叶えられていないだなんて一体誰が思いつくのだろう。
彼も彼で辛かろうが、好きな人がいるからこそ断られたのだと知り涙した女の子達だって報われない。
想像だにせぬ大事件に衝撃を受けた私の一言は相当大きかったらしく、白石くんはおかしそうに肩を揺らしながら続ける。

「さあ、なんでやろな。それは俺やなくて、本人に聞かんとわかれへんけど」
「う…うん……そっか、そうやんな、ご、ごめんなさい私、びっくりして」
「いえいえちーとも気にしてません」

宥める口調は柔らかく、ふざけた音を混ぜる事で私の気持ちを軽くしてくれようとしている意図が伝わるばかり、怒りや気を悪くした様子は一切感じられない。
これだから白石くんは怖いのだ。
何を食べたらここまで優しくてかっこいい男の子に育つのか、謎すぎる。
そうして改めて彼という人の懐の広さに感じ入っていたら、さんがなんでて聞きよった事については、と油断なく付け加えられた。
突然改まった声色に、いつの間にやら下がっていた鼻先が跳ねる。

「けどな、誰にもチョコ渡さんかった理由はめっちゃ気にしとる」

目が合って、でもすぐ逸れた。
私からではない、白石くんが視線を外したからだ。

「誰かに失恋したか。元々好きな男がいないんか。それともおるけど諦めたんかな」

今日の雪と同じくらい白い包帯の巻かれた左手が所在なさげに彼の首筋へと置かれ、露わになっている指先は襟足を小さく掻いて上下している。
彼らしくない、宙ぶらりんで迷う仕草。
いつもあの綺麗な声ですらすら受け答えをしているのに、今はたかが言葉ひとつ繋げる事にとても手こずっている様子だった。

「とかまあ、色々考えたけど俺一人で答え出せるわけちゃうし、ずっとうだうだしとんのも嫌やったから。せやから…さっきも言うたけど本人に聞かん事にはどうしようもないから、探しててん」

ゴムがゆるゆるになっていたはずのジャージの袖が、掴みかかる勢いで私の手首を締めつけた。多分――というか絶対気の所為だ。そんな現象有り得ない。
でも似通った強さで手首と言わず関節と言わず、全身が何者かに圧迫されている感覚は嘘ではなかった。
キンと耳鳴りがする。
残り雪の反射光が校舎の中を掻き回し、私の内側をも乱す。
肺まで凍らせる冷たい空気を浅くしか吸えず、鼻の奥や喉が痛んで仕方がない。
混乱だとかいう一言では言い表しきれない感情が頭の端から端を猛スピードで駆けていく。
気持ちの整理も次に口にするべき言葉も見つけられないでほんの数ミリ後ずさったら、

「ストップ」

とひと息に押し留められてしまい心臓まで止まりかけた。

「……ごめんな。俺が怖い?」

おまけに弱まった声で滅相もございませんと答えるしかない事を聞くので脈が戻ってこない。
すっぽ抜ける勢いで首を横に振る。
さぞや間抜けな動作だったろうに白石くんはぴくりとも笑わない。
気遣いやあえて触れない優しさ、もしくは元々そこまでおかしな態度ではなかった。
おそらくどれも当てはまらない。
真っ直ぐな光を伴う瞳の奥、普段の人当たりのよさが隠していたらしい熱が形をとり、無数の言葉を訴えかけてきている。
引き結ばれた唇の裏でどれだけの声が存在しているのか、見当もつかなかった。
彼はちょっと変かもしれないけど基本的に優等生だ。
テニスも上手で頭もいい。
だからすぐさま相応しい言葉を選べるはずなのに、沈黙を保つのは何故なのだろう。
完璧に、でも窮屈でなく、その辺の女子なら即刻恋に落ちるくらいスムーズかつ柔らかに物事を運ぶ白石くんが、どうして私には余裕がなさそうに見えてしまっているんだろうか。

「俺は……今日、さんのチョコが欲しかった」

目の前の人が小さな身じろぎをした拍子、流れる髪の間から見え隠れした耳がかすかに赤い。
しっかり見てしまった瞬間、強力な伝染病のように体中が高熱で侵された。
喉と気管が声もなく吠える。途絶えていた脈拍は凄まじい早さで戻り、またたく間に破裂寸前まで昂ぶって、からからに乾いた唇が独りでに空回っていく。

「わ、わたっ…私?」
「そう、君や」
「いやでも、私、こんな日にジャ、ジャージやねんけど」
「…っはは! どんだけ格好気にしてんねん。ジャージでも構へん言うたやろ、もう忘れてしもた?」

支離滅裂な回答を並べた私に、寒さばかりの所為じゃない、薄く赤らんだ頬の白石くんが破顔した。よく見かけていた大人っぽい微笑みとは違う、子供みたいな表情だ。
口から飛び出す声がいっそう焦る。

「えぁ、あれ!? あれは、だって、私やなくて白石くん自身がジャージでもええて意味……」
さん、俺がジャージでも気にしないんちゃう」
「えっ」
「ダッサいんじゃはよ着替えて来いとか思うか」
「ええ!? そ、そんなん思わへんよ! 白石くんのジャージに罪ないやん!」
「はは! せやな、ジャージは悪ないな。かわいそな事言ってしもた」
「う、うん…そう、か、可哀相やね」
「わけわからん」
「は、はい?」
「っちゅう顔してんなぁ思て。あれや、とりあえず答えとるだけや」

ひとしきり笑い区切りの息をついた白石くんがゆっくりと私を見遣る。
それから何か言い聞かせるみたく、心地よい声で続けるのだった。

「けど今さっき俺が言うた事、とりあえずで片付けんのはナシやで。どんな格好かて構へん。君がジャージの俺でも気にせん子やから、俺もおんなし。もっと言うたらどうでもええねや、着てるもんなんて。そこ別に大事なとこちゃうやろ。
…なぁ、ジャージのさん?」

ひと時床へと逸らされ、ややあって這い上がる視線はひたすら真っ直ぐだ。
言葉にも迷いがない。
今日明日に答えを出せとは言わんから。多分俺まだ待てるしな。そこはあんま気にせんといて。
でも、ちゃんと考えて欲しい。
段々と元の落ち着きを取り戻していく白石くんに反し、心拍数が限界突破した私はえげつない眩暈に襲われる。

「付き合ってや、俺と」

トドメの甘い囁きに持ちこたえられず、いよいよこの場で重力崩壊を起こすかと思った。







翌日学校があればまだ違ったかもしれない。
土日を挟み考える時間が過分にあった所為で、袋小路へ突っ込んだ思考は戻れなくなった。
寝不足がたたって足の小指を角にぶつけるし、夕食の準備中野菜を切れという母からの指令を遂行していたらざっくり指を切るし、日曜朝の仮面ライダー戦隊物を視聴し終えたばかりの高いテンションで布団の上に飛び乗ってくる弟にもいつも通りの対応が出来ず、日中のほとんどを自室で過ごした。
あんた何、何かあったの。怪訝に尋ねる母、遊び相手が本調子でないと知るや否や食べかけだけど自分のおやつを差し出してくれる弟、お父さん風邪薬買うてきたろか、と見当違いな気遣いを見せる父、揃って心配されてしまう。
実はお付き合いを申し込まれまして、などと打ち明けられる私ではない。
かといって大丈夫何もないよと気丈に振る舞えるわけでもない。
全く大丈夫ではないし、何かはあったし、いや何かっていうか天地がひっくり返る級の大事件だったし。
同じクラスになってからのあれこれを可能な限り掬い上げ考えに考えてみてたが、ちっともわからない思い当たらない理解出来ない、の三拍子で脳内が泥沼と化す。
一体全体、自分のどこに人様から好かれる要素があるというのか。
まあ悪人ではない、ないと思いたいからない事にする、けどそれだけだ。
超がつくほどの聖人でもなければ眩いばかりの優しさに溢れているでもなし、大勢の中に紛れ込めば見分けのつかぬ女子生徒Aの自覚はある。
なのに相手は並大抵の男子にあらず、1年から3年まで幅広い支持を集める白石くんなのだ。
別段問題も起こさずそれなりに仲良くやってきたクラスメイトだから嫌われてはいないだろうけれど、特別なたった一人に選ばれるほどの魅力や長所があるとは到底思えない。思っていたら相当な自信家でかなりの自惚れである。
私はそんな鋼のメンタルからは一切無縁で、たった一言に動揺し、たった一瞬の出来事でびくついたり自信をなくしたりみっともなく卑屈になったりする、しょっぱいジャージ女子。
どんな格好でも構わないといくら白石くんが言ってくれたとしても、キラキラ輝く一番星みたいに可愛い女の子にはなれないのだ。



人気のない廊下はしんと冷え切っていて、賑やかな日中と比べると別世界だった。
雪が降っていなくても寒いだとか教室についたらまずストーブをつけるだとか他愛ない会話を交わすさ中、盗み見た顔立ちは変わらずに美しい。
よく通る声が鼓膜を抜けて、私の体の奥底にまで落ちてくる。
視界が白くかすかに濁る。
上へ上へと向かう吐息の所為だけじゃなく、異変をきたした心もきっと関係していた。

「……し、白石くん」

上履きが生む足音がやたら遠い。

「ん、なに?」

喉から出た声があまりにも上擦って聞こえ、我ながらいい加減落ち着いたらどうだと思ったけれど、どうしたって動揺や困惑は抜けきらない。
明らかにいっぱいいっぱいの私へと、呼ばれた当の本人は優しく穏やかに聞き返して、それだけでもう色々なものが爆発しそうだ。

「わ、私、考えたっていうか、思い出せる分思い出してみたんやけど…なんにもわからん……。何が…私のどこがよくて、白石くんがその、あ、あん時言うてくれたんか、ちっとも」

一緒のクラスになってから1年間、思い出に残るような、特別な出来事などなかったように思う。
私が助けて貰った事はあっても逆はなかった。
困っている所を助けてあげたり好きになって貰える行動を取ったりなんて、これっぽっちもしてしない。
唯一記憶に残らなくもないと言えるのは、文化祭準備期間中の一コマである。
共働きの両親と小さい弟を持つ私はお使いというか問答無用の指令を受ける事が多く、あちらこちらのスーパーの特売日や安い商品を知っていて、買い出しをどうするかという話し合い時に多少といえども役に立てた。
これは向こうのホームセンター、こっちは近くのスーパーの方がいい、と無駄に生活感の溢れる指摘をしていった結果、お前はオカンかと揶揄されたあげく、無駄を嫌う白石くんと併せて省エネコンビ、節約組とまとめて一緒くたにされていた事があったという、多方面へ申し訳なくときめき感から程遠いエピソードだ。
オカンと節約も極めれば家庭的な女の子と言えなくもないかもしれないが、何せ私の場合は当てはまらない。
調理実習の時だって野菜を切るだとかの下ごしらえや洗い物は手早く出来ても他の分野は人並もしくは以下レベル、おかげでうちの班の出来が他と比べずば抜ける事もなく、なんとなくべちゃっとして味にばらつきのあるチャーハン、卵スープは班の男子曰く食えなくもない、程度の代物としかならなかった。ちなみにこの発言者は女子から折角作ったもんにケチつけるとか最低とブーイングを食らっていた。
なんかすみませんと肩身の狭い思いをした私は、いわば偽装オカンである。
家庭的でも何でもない。むしろ出来そうなのに実際は出来ないというガッカリ仕様なのだ。残念がられはしても好感を持っていただける点にはならないだろう。
それでもなけなしの個性や特異点を捻り出そうと試みるも、小さい子が家にいる所為で服の汚れにわりと寛大、ゴミ捨てや掃除が苦ではないから何度か引き受けたとか、一回泥まみれの側溝にダイブしていた落し物を拾って案の定汚れてしまい、やばいこれ私めっちゃくっさいと笑いつつ寄るな触るな状態の友達とぎゃあぎゃあ騒いで帰ったとか、自分用のエプロンがお母さんからよくするような、あの水っぽいような醤油ような独特のにおいになってきたとか、運動神経だけはいいから体育に限って好成績だとか、あまり長所と呼べない、人様に自慢の出来ない事しか浮かんでこず撃沈した。
考えれば考えるほど、頑張っていい所を探そうとすればするだけ、なんでとどうしてが膨らみ、自分で言っていて悲しくなってくる。
白石くんは相手を誰かと間違えているのではとさえ思う。

「そういうとこ」

懇々と諭すよう、いいですか私は残念な人間ですよと念押しするよう、出来るなら話したくないしょうもないエピソードを考えつく限り語ってみせたにもかかわらず、彼はただ笑って一言こぼした。
その何気なさに、思わず目を剥く。

「えっ……ぎ、偽装的なとこが!?」
「いやなんでそこだけ取り上げんねや。そもそもさんは偽装してないやろ。オカンやなくて、普通に女の子てだけやねんから」

トンチンカンだったらしいこちらの返答にとんでもない単語を張り付けて打ち戻してくる白石くんが、いっそう笑みを深くする。
淡く滲んだ目のふち、うっすらたわんだ唇やあたたかな声、緩まっていく一方の眼差し全てで、私を捉えてくれていた。

「好きや。言わんでもええ事言うてまうとことか、みんな大抵嫌がる仕事平気な顔してちゃっちゃと片付ける所とかな。なんかあっても笑って済ませて仕舞いや。手伝おかな思ってんのになんでも一人でやりよるから声かける隙がなくて、弟くんに優しくて、スーパーの特売日に詳しくて、そんで自分が好かれるとか微塵も考えてなさそやなぁてすぐわかる所とか……俺の言う事にいちいち顔赤くするとことか、全部」

知らない内に足が止まっている。
一体どちらからだったのかは不明だが私も白石くんも歩くのを完全に放棄し、階段を上りきったあたりで息を白く染めていた。
呆然。
口元が中途半端に開く。
のちに、遅れに遅れた衝撃が全身を駆け抜けた。

「だ…っ! ぅあ、ありが、と……」

確かめられないけれど絶対真っ赤になっているであろう顔を咄嗟に腕で隠し、きちんと意味を理解せぬまま礼を口にする。するしかなかった。他にどんな対応も出来ない。
彼の言葉は耳に届いていても、芯から聞こうとすれば心臓が持ちそうにないから丸飲みするのみだ。

「ありがとう言わなあかんのは、俺のほう」

見えない所為で余計に響く声音がひたすら甘い。
半歩、距離の縮んだ気配が薫った。

「14日は俺も相当テンパっててん、ちゃんと言えへんかったて後悔しとったから今言えてよかったわ。ほんまにほんまの好きな子に、チョコ欲しいと付き合うてしか伝えてないておかしいやんか。かっこつかへんし、ダサダサや。ジャージがどうとか俺が言う権利ないで」

頬に凶暴なまでの熱が溜まって息が苦しくなる。
わけもわからず小さく首を振りながらそうっと腕の覆いを下ろすと、冬の朝日に透ける瞳とかち合い、益々胸が詰まってしまう。
悲しくも嬉しくもない、感激していると言うには少し違うと感じているのに、視界が潤んでやわらにたわんだ。
もしかして人は恥ずかしさでも泣けるのか。
こぼれそうになる何かを必死に堪えていたら、不意に柔らかな影が降る。
なあ、もっかいやり直してもええか。
顔も頭の中身もぐちゃぐちゃになった私に向けて、白石くんが思いの籠もった囁きに近い声音で問うから、全身全霊懸けてさっきの5倍は力強く首を振った。
だってそんなの新手の拷問だ。
充分ですかっこつかん事ないですダサくないですもう一回だなんて私が持たない多分死ぬ、と句読点をつけずに胸中で呟いた。

「そっか、残念やけどしゃあないな。なら付け足すだけにしとこ」

残念と言いながら気を悪くした素振りを全く見せず、逆に聞く前から予想していたのではと疑いたくなる程あっさり退く。
語尾なんか面白そうに笑っているし、やり直さないらしいが上乗せはする様子であるし、この人なんなん私殺す気、と誰かに訴えたくて仕方がない。

「バレンタインの1ヶ月後がホワイトデーで、そのまた1ヶ月後が俺の誕生日。覚えやすいやろ?」

極上の微笑みの中に少しだけ、悪戯っ子に似た、それでいて熱っぽい色が映り込む。

「……俺の事考えるついでに、覚えてな。スーパーの特売日だけやなく」

包帯の感触がする指を滑らせ、胸前あたりで固まっていた私の掌を取り、特別白くもツヤツヤもしていない手の甲へと優しく触れる白石くんが静かに、けれどはっきり言い落とす。
それで私は、与えられたと信じ込んでいた猶予が最初から存在していなかった事を思い知った。