初恋童話




寝ても覚めても、といった具合に腑抜けてはいない。
何も手につかない程奪われているわけでもない。
ただ折に触れて、思い出すのだ。
放課後、部室に向かうまでの廊下。
すっかり日の傾いた帰り道や他校との練習試合で移動する電車内、知らない街を歩く時、ふと生まれる空白があった。
想像だにせぬ隙間風に吹かれた気分に陥って、心を余所に失ってしまう。
ほんの一瞬だ、大した損失ではないがしかし僅かな間だろうと剥き出しになれば、否が応でも奥底に根を張った存在を認めざるを得ない。
雑踏のさ中にあって取り残される。
喧噪に紛れていても尚、音は絞られ、目蓋の裏へ姿形なき幻に似た影を反映させた。
面影すら知らないというのに、この焦げつき様は一体どういう事だろうかと白石は他人事のように首を傾げる。
名前が付けられない。
己の感情を区分する事が出来ず、故に向き合い片付けるのも叶わず、過剰に余した分さえ捨てられないのだから、腹に収める他なかった。

「おう、ボケーッとしてんなや白石。前見えとるか」

時折、捕らわれた一瞬を運悪く目撃され、無遠慮な揶揄を浴びる。
路面に伸びた影より遥かに薄い夢想の末尾は霧消しており、笑って応じればチームメイトの騒がしさが掴めぬ感情の滴りを弾き蹴飛ばした。
懸命に掬った所で掬いきれない。
湧き溢るる根源を抑えたとて、あの瞬間の勢いには敵わない。
指と指の間から零れ、手の内をしとどに濡らし、目にも跡にも残らぬ無数の引っ掻き傷だけが刻まれるのだ。
痛みはなく、抱く感慨もなかった。
それが、どうしてか寂寥を呼び込む。
突然うら寂しい通りへ放り込まれた心地だった。
一人きり立ち竦めば、頼れるものは己の足で、支えになるのは四天宝寺中に在籍しているのであれば誰しもが持つ学生証である。
白石にとってのいわゆる『蜘蛛の糸』はか細い光のようでしかなく、校章が刻まれた皮の表紙にひっそりと織り込まれて、顔も名前も知らぬ彼女に繋がっている。



「おっ、そこの青少年。調子どや」
「……オサムちゃん、雑なフリやめてや。そんなん誰も乗れんわ」

冬を迎え、葉の落ちた枝が冷たい風で呻っていた。
表皮は窓際に寄ると寒気で粟立ち、制服の長袖が非常に有り難い。
昨日の晴天と打って変わってどんよりと雲の集った空は暗く重たげだ。
春が来れば白石は中学三年生へ進級する。
わかりやすい境を前に、終ぞピリオドを打てなかった記憶の波が白石の足下に敷き詰められた理性の砂をくすねていく、寂寞の時間だった。
偶然なのかそれとも察しているのか、渡邊が教室よりぐっと気温の下がる廊下で、ハッハーそこで乗って来ぉへんからお前は真面目君のままなんや、笑いながら教え子を見据える。

「頼んだで部長」

声色こそ真面目くさっているが頬はいまだ笑んだ余韻に満ちており、要するにこの教師らしからぬ監督は白石をからかいたがっているのである。
敏感に悟り、さてどう返すかと構えたらば手早く挫かれた。

「…て、言うたんは俺やけどな。まぁあれや、ずっと硬くなってないで抜いてけや」
「聞きようによってはセクハラやな。オサムちゃんそれ女子に言うたらアカンで」
「アホかセクハラやて受け取りよるお前が思春期や、めでたいこっちゃ一コケシやろか」
「いらん」

不毛な会話は続く。

「そーかいらんか。なら本題いくでぇ。少年よ、恋して大志を抱け!」
「………なんや余計なもん混じっとるけど」
「おいおい余計なもんちゃうやろ、大事にしたりや」

にやついた顔面を睨む気も起きない。
白石は呆れ顔だ。

「あーあー皆まで言うな、オサムちゃん黙っといたるし、ピーピーうるさく言うつもりもない。感謝しぃ」
「いや…オサムちゃん」

何の事や、と言い掛けた所で、悪ふざけの気配を感じさせる目がきらりと光る。

「あれはしゃあないわ。俺かて惚れるで。あと12,3歳若かったらお前追い抜いてさっさと連絡先聞いとる。チャンスっちゅうもんはな、あちらさんから来てくれるもんちゃうねんぞー白石。待っとったって来ぉへん来ぉへん、もっと攻めてけや。まだ若い内から腰が重くてこの先どないすんねん」
「…………は?」

息つく間もない攻勢に白石の喉奥から間の抜けた声が転がった。
思いも寄らぬ場所を突かれ呆ける様を間近で見届けた渡邊は、やっぱ一コケシやろか、唇の端をにやつかせる。
見て見ぬ振りという配慮の一切感じられぬ大人げない態度だったが、咄嗟の反応が出来なかった時点で白石の負けだ。
見開いてしまった目の中に表情を緩ませた監督が飛び込み、次いで耳へととどめが刺さる。

「お前、今のだけで俺が何の話してんのかわかったんちゃうか?」

白石。多分な、それが答えやで。
言うだけ言って、気楽な第三者は片腕を上げ去っていった。
取り残された白石は声を発するどころか応じるでもなく、失態の証たる締まりを忘れた口元へ手を当て絶句する。
痛くもない腹を探られたとて大した事ではないとも思っているのに、連鎖して浮かび上がった記憶は確かに渡邊の指し示す通りだ。存外世話焼きの教諭の言は間違っていない。
透明なガラス窓の向こうで、枯れた色の幹が冬に凍えていた。







始まりは夏にまで遡る。
頂点近くへ上り詰めたものの、全国一という輝かしい座には及ばなかった。
白石がコートでラケットを振るう前に、中学二年生の夏は終わってしまったのだ。
どれだけ良い試合をしようと、いくらテニスが強かろうと、チームが負けてしまっては何の意味もない。
勝利を地道に積み重ねていかなければ、目指すたった一つの尊い場所まで届かないのだと思い知らされた、苦い盛夏だった。
不完全燃焼で得た敗北は重いの一言だけでは足らず、喉の下の下で頑なな栓を作り、心の内側へくっきりと跡を残す。
脳は至極冷静に敗退の原因について回路を巡らせ、しかし腹の底は焼け切れるよう熱い。
引っ掛けたラケットバッグが肩に食い込み、やたらと痛んでは白石を責め立てた。
今唇を噛めば間違いなく柔い肉が破れ、血が吹き出すだろう。
だから耐えた。
滲む後悔と悔しさを吐き出さず、ひたすらに押し戻し、次の夏への蓄えにするのだと言い聞かせて溜め込む。
立海との準決勝で伝い損ねた汗が今更額に浮き、こめかみを下って顎から零れていく。
想像以上に煩わしかったが、拭うつもりは元よりない。渇ききったコンクリートに吸われる汗の粒は、失われた涙の代わりのようだ。
目の奥がちりちりと霞んで、視界が歪んだ。
憎たらしく晴れ渡った蒼穹には雲一つ見当たらず、果てまで澄んでい、遠くで陽炎が揺れる。空間は夏の陽射しによって捻じ曲げられ、気管に入り込む酸素自体が熱い。
もの皆干上がる気温の中、白石を含む四天宝寺中テニス部の面々は帰路についており、駅のホームにて電車を待っている所であった。
おーい忘れモンないな、と当時から監督を務めていた渡邊が傍を行く人が振り返る程の大きな声で呼び掛ける。
聞くとはなしに聞いていた白石はほとんど無意識に財布と学生証をまとめて突っ込んでいた制服のポケットをまさぐって、手ごたえのなさに冷水を浴びせられた。
利き手に準じた左側のポケットにあるはずの、馴染んだ感触がまるでない。
幾度なく辿ってみた所で手品のよう湧いて出るわけでもなし、平らかな布地のみが掌に触れている。
愕然とした。
信じ難い失態に、上げる声すら失くした。
チームの敗北に加えてこの有り様である、どれほど注意力を欠いたら他県で貴重品を紛失するのだろう。今日日浮かれた修学旅行生とてなかなか犯さぬ愚行だ。
監督か、もしくは傍で親しみを籠め、せやからオサムちゃん声でかいわうるっさいねん、と茶化しているチームメイトに申告すべきなのだが、心が挫け、気力が萎えてしまってどうにも出来ない。
じりじりと人々を追い詰める多湿高温の夏は、白石から考える力をも奪っていく。
密度の濃い汗ばかりが出、他の何ものも現れはしなかった。
遂に思考を放棄し始めた白石は、そもそも大した金額が入っていたのではないし、学生証も再発行すれば済むのだから届け出る必要はないのかもしれない、等と彼らしからぬ腑抜けた結論まで無理くり持っていこうとさえする。
噎せ返る大気が怠惰の手助けをした。
ぼんやりと尻に当てていた手を離し、諦めの支配する体で荷を運ぼうとした、その時だ。

「白石君! えー、白石蔵ノ介君はいますか!?」

三十代に差し掛かった頃だろうか、まだ年若い駅員が蒸す空気を切り裂き、懸命に声を張り上げている。
突然、見知らぬ人間に名を叫ばれて驚いたのは本人だけではなく、その場にいた四天宝寺中の面々がざわつき、皆の視線の先は白石か駅員かに散らばった。
すぐには反応が叶わず誰も何も言えずにいると職務に励む大人が困惑の表情を浮かべ、おかしいな、四天宝中の方ですよね、何度か念を押し、引率の先生はいらっしゃいますかと渡邊の立つ前方へ足を運ぼうとする。
それで、止まっていた時間が解けた。
一歩、進んで前に出る。

「白石は自分です」
「ああ、よかったあ!」

額やこめかみに汗を浮かばせた駅員が破顔し、帽子のつばを上げながら白石の側へ寄った。

「これを落としたのは君だよね?」

わけもわからず学生服の群れから抜け出した所で目の前へ差し出されたものを見、白石はただただ驚愕する。
日焼けした手の甲に握られているのは、先程紛失を確認した財布と学生証だ。
物珍しげに場を覗き込んでいた謙也が、ハア? お前財布落としたんかい! ありえへん、と騒ぎ立て、あら蔵リンが落し物なんて珍しいわね、金色が続いた。
賑々しいチームメイトの反応に駅員がまた笑う。

「ありがとうございます。確かに俺のです。けどこれ、どこで……」

ごもっともな揶揄を耳にしてはいたが仕返しする余力はなく、困惑のままに疑問をぶつければ、思いも寄らぬ回答が寄越された。

「僕は改札口で渡されただけなんだよ。女の子が持ってきてくれてね、学生証を見たのかな。四天宝寺中の白石君という人が試合会場で落とされたものなんですが、学生の団体さんはまだホームにいますかって。少し前に改札を通っている所を見ていたから、僕が預かってきたんだ」

だからお礼はその子に言うべきだね。
何か微笑ましいものを前にした柔らかな眼差しで言い収める。
急速に渇いていく喉を自覚しながら、白石はひたすら脳を回転させていた。
刺す陽射しばかりかアスファルトからの照り返しも加わって肌を焼き、体の水分という水分を奪い尽くそうとする気候の元、察するに拾い主が白石の失せ物を手にしたのは全国大会の行われていた会場なのだ。
気軽に歩いて行き来出来る距離ではない。
かくいう自分達もバスで駅まで移動したのに、僅かな差で追いついた少女はどんな手を使ったのだろうか。
それだけでなく、学生証には写真を貼るスペース等ないから駅員の言う女の子とやらは顔も知らぬ、初対面ですらない白石の為に駆けたのだ。
この炎天下を、である。

「大分走ってきたのかなあ、汗だくで大変そうだったよ。もしかして知り合いの子だったりするのかい?」

暢気に職務外の事を話す声で、眼前の現実から半ば遠ざかっていた頭が覚醒する。
手渡された財布と学生証の重みを感じる中、次の電車が来るまでの僅かな時間内に聞き出せるだけ聞き出しておかねばと掠れる唇を懸命に動かした。
やけに焦燥に駆られている事は速度を上げる鼓動が教えてくれていたが、理由まではわからない。
皮膚に沿ってじわりと浮かぶ汗を吸ったシャツが気に障る。背筋に得も言われぬ高揚が薄く走っていた。

「ああ、知り合いじゃあないんだね」

否定ののちに拾い主の特徴について尋ねれば、人の好い駅員は少し目を丸くし、白石の問いに悉く丁寧に答えてくれる。
この辺りでは見かけない制服であったから、おそらく遠方の学校から来た生徒である事。
有り触れた色のセーラー服に凡その身長、長い髪を一つに束ねており、鞄の類いは持っていなかったらしい。
地方訛りはなかったので、関東近辺の子だろうという憶測。落し物を必ず届けると預かった時、
「よかった!」
一言、快活に発した。
心からの笑顔を滲ませ、誰にも名を告げず去っていった。
話し終わる頃に騒ぎを聞きつけた渡邊が座に加わり、自分は何も、と恐縮する駅員に対し謝罪と礼を口にする。
不意に、真夏のホームへアナウンスが響き渡った。
乗るべき電車が来るようだ。
軽く頭を下げて本来の職務へ戻る駅員を見送る白石の耳に、またしても至極真っ当な指摘が染み込む。

「別にここまで走らんでも、運営んとこに届ければよかったんとちゃいますか、その人」

もっともだ、それが正しい。
光ったらイケズねえ、せやせや小春の優しさ見習えや、金色と一氏は絡んでいたが、自分ならまず運営本部へ届けた。
間違っても熱中症注意報の出る昼日中に走りはしない。
正解か不正解で言えば不正解かもしれず、無駄の多い行為と人によっては評するだろう。
そう思っているのに、同意している自分がいるのに、肯定の相槌が打てなかった。
せやなとたったの三文字を声に出すのがどうしても躊躇われ、ひと度口にしたのなら名前も顔も知らぬ少女の善意を踏み躙り、そればかりか自らの心さえ足蹴にしてしまう気がしてならなかったのだ。
黙して語らぬ白石の頭上に、渡邊の掌が優しく乗っかった。

「ま、財布と学生証が無事で何よりや。感謝せなアカンで」

誰にとは明確に指定されたなかったが、白石は顧問の言を正しく理解する。
しかしやはり頷けない。
まるで時間が止まったようだ。
小さな親切だからこそ余計に沁み込んだ。見知らぬ街で、見知らぬ相手の為に、夏のさ中をひた走ったであろう健気で少々考えの足りていない存在は、敗北に沈んでいた白石を確かに勇気付けた。
――白線の内側にお下がりください。
機械的なアナウンスが通り始め、渡邊が生徒らに整列を促す頃になってようやく学生証と財布の中身を確かめると、落とす以前と何も変わっておらず白石は息を詰める。
胸の奥が熱く、苦しかった。
何故と問うだけの力はまだない。




ふとした瞬間に眼差しが呆け、終わった夏へ戻るようになった季節だ。
些細過ぎる変異ゆえ気付く者はおらず、白石自身さえ正確には把握していなかったので、中学生活最後の全国へ向け部長然とした顔つきで挑む日々である。
静かな情熱だけが胸に凝っていた。
秋、新人戦で遠征し、大阪から離れ他県へ赴く。
会場は広々としており、敗北を喫した場所とは多少違えど、様相は似通っている。
吹く風が涼しい。
強烈な陽射しは大分和らぎ、枝葉が落とす影は幾らか薄かった。
コンクリートにあの頃の熱はなく、根源の判然としない侘しさを呼び込む。
踏みしめる毎に足首辺りまでを包んでいた熱の塊が、今やすっかり静まり返っているのだ。
所以は秋特有の物寂しさかもしれないとひとまずの決着をつけた白石は、メンバー表を本部へ届け出たその足で会場を見て回っていた。
試合の予定されているコートに辿り着き、観客席に腰掛ける。
オーダーを考えるのは渡邊の仕事であるが、かといって己が無策で良い理由にはならない。対戦校選手の特徴を脳内のデータベースから引っ張り出し、もし不足があれば無類の頭脳を誇る金色と話すべきだろう、予測を立てながら思索に耽っていると、

「えーっ! 何それ、すごくない?」
「ね! ちょっとカッコイイっしょ、てかもう勇者だよね。根性ありすぎ」

かしましい声が背後ろで奏でられた。
そういえば女子テニスも会場が一緒だったか、と何を感じるでもなく聞き流す。
進んで耳を傾けるつもり等毛頭なかったのだが、向こうは音量を下げる事を知らないらしく、手で塞がぬ限り言葉が入り込んでくるのだ。

「何、相手そこまでイケメンだったとか?」
「中に写真貼るとこなかったみたいだし、顔とかわかんなかったってよ」
「マジ? どんだけ親切なわけ、あの子。日本終わってなかった」
「ねーむしろ始まりそー」
「私だったらやんないなーそこまで。バカみたいに暑かったじゃん、今年の夏ってさ。落し物拾ったって直接届けようとは思わないよ。駅までダッシュ?」
「多分どっかでバス使ったと思うけど、とりあえず超死ぬ気で走ったってさ」
「そんで先生に怒られてんだもんねえ、バカだよほんと」
「まあってそういうとこあるから。うちの生徒とか近くの学校ならともかくさ、他県の学校から来てる子の財布と学生証ってのがダメだったみたい。ヤバイ、遠くから来てる人の大事なものが! って焦っちゃったんだって」

足が震えた。
咄嗟に立ち上がって階段を駆ける。
傍近くの自動販売機前で立ち話をしていた様子の女子生徒は目的の物を手にし、既に歩き出していた。
柵に手を掛けた白石の目に飛び込んだのは、冬仕様となったセーラー服の背中だ。
いやいや落ち着けよ、落ち着けないのがなんじゃん、その相手もテニス関係者だったらここに来てんじゃないの、ドラマか! 月9か! 等と話に花を咲かせているから、動転の表情に染まる白石の方を振り向くはずもない。
あの盛夏を思い出しでもしたかのよう急速に干上がる喉で何事かを紡ごうとし、しかし第一声をどうするべきかまるでわからぬ事に気が付いた。
何と声を掛ければいいのか必死に考えているはずだというに、一つとして浮かんでこないのである。
遠方の他校生が落とした財布と学生証を拾ったその子のフルネームはなんですか。
ただの不審者だ。
学生証には四天宝寺中、白石蔵ノ介と記されていませんでしたか。
突拍子がなさ過ぎる。
落し物を届けられたのは自分である可能性が高いから、もう少し詳しく教えてくれませんか。
反論の余地なき盗み聞きである。
そもそも人違いかもしれない、少女達の話題に上っていたのが白石の貴重品を届けてくれた人物とは限らぬし、また落とし主が白石であるとも断定出来ない。遠方地で財布を無くす粗忽者がこの世に一人とて存在していないとは言い切れないのだ。
そして万が一、という名の少女が白石の思う通りの相手だったとしても、伝えるべき言葉をいまだ持っていなかった。
ありがとう、迷惑をかけて申し訳なかった、一も二もなく口にせねばならないとはわかっていても、それだけで終いにするのかという声が腹の底で唸る。
その餓えた反響音で悟った。
それだけじゃない。
夏からこちら、まなこが独りでに過去を追い、夕影に誰かを見出そうとし、どうしようもない寂しさを覚えるのは、謝罪や礼を伝えていないからという至極真っ当な理由ばかりでない。訪れた秋の所為でもなかった。人の善意に甘えたまま何も返せなかった後悔、も少し違う。
気持ちに言語が追いついていない。
胸の内にはもっと様々な色が溢れていると感じるのに、上手く掴めず、正しく当てはめる事が叶わない。
全てがふいになる瞬間があり、数え上げてみればそれは面影も知らぬ夏の少女を辿って、思いを馳せる時だけだった。
揺れるでもなく、希いはせず、熱も帯びない。
心は在りながらただ空虚で、望んでもいないのに何もかもを失ってしまう。
自らの現状を理解はしていてもやはり理由を見出せず、言葉にする前から尽きた白石は出来損ないのでくのぼうかという風采で佇み、たった一つ得た響きを反芻した。

この名もなき心に答えをもたらして、乱れる無数の綾を重ね結び、美しく描いてくれるであろう存在だ。







冬はいつまでも居座る代物ではなく、当然のように春が来た。
渡邊から与えられた感情の解が両手で突っ撥ねられぬ威力を持っていた事は認めるが、同時に彼の一言が完璧に符号するわけでもないとも思う。
相応しい言葉を求めている、或いは待っている途中なのだ。
他人の手から降らされたものを、天の恵みだと安易に飛び付きたくなかった。
再び似たようなからかいを受けたのならば、そんなんちゃうわ、言い切ってやる腹積もりだったが、渡邊はそれきり触れて来もせず普段通りにふざけた顧問であり続けた。
桜が咲いて、一週間も経たぬ内に散っていく。
とんでもないルーキーが入学し、九州からの転校生が現れ、男子テニス部は一層賑やかさを増した。
青の透けて見える微かな雲が棚引いて、同様に空も薄い。
まろやかな春の陽射しを受けた葉は新芽の色で輝かしく、冬を耐えた草や木々の幹は若々しい様子を取り戻している。
目に映える緑が陽光を反射し、路面の影さえ生き生きと落ちて見えた。
風はそっと花の香を孕み、練習試合に向けたオーダーを顧問と相談する白石の鼻を僅かにくすぐっていく。
大阪以外の学校と試合をする機会は、そうそうなかった。
それでも時折、気まぐれに組まれる遠方校との対戦があって、移動を強いられる都度明確にではないものの視線を走らせる。
広めの会場へ足を向ける日はそれとなく見通しの良い位置から全体を眺め、ゴンタクレの一年生を捕獲した帰り道、背の低い人影があればそうとは悟られぬ程度に気を張った。
足は萎え知らずで、時と状況が許せばあてどなく歩き、心のついでに頭も空っぽにする。

「あの…もしかして迷ってるん? それとも何や探し物?」

時々、やや頬を紅潮させた他校の女子部員らしき生徒に声を掛けられ、白石は決まって苦笑を零すのだった。
はいともいいえとも答えられない。
自身にさえわからぬ事だ、人様に返すべき答え等ありはしなかった。
三年生に進級し、見る見る背が伸び顔つきも精悍になってきた白石は、女子から熱っぽい視線を送られるようになった。
男子と会話もするにはするがその人気は滅法異性からのもので、ほとんど冗談に近いとはいえやっかみも買ってしまう。
ふざけんなイケメンが朝起きたら髭モジャになっとれ。
笑って返す。
世の男から手厳しい態度を取られたとて致し方なしと教師さえ言い出す程度には告白をされた。好きでもない子とは付き合えない、真面目に過ぎる文句で断る度、胡乱な目付きの謙也に責められた。

「贅沢モンが。お前、どんな子ならええんやっちゅー話や」
「好きな子からなら有り難く受け取らせて貰うで」
「ヤダァ、蔵リンったら! いつの間にそんな子ぉ出来たん!? アタシ妬けてまうわ!」
「浮気か小春死なすど!」

そつなく逸らし、相も変わらず騒がしい仲間達の喧噪に揉まれて本題が消えていく中、笑いつつ嗜める白石は問いに無言で応じる。
せやな、どんな子ならええんやろな。
可愛い子、綺麗な人、脚の長い子、スタイルが良い人。
一つに絞れぬ程色々なタイプの相手から恋を打ち明けられたが、かなしいくらいに気持ちは動かなかった。
寄せられる好意を有り難いと思いはしても、いわゆる応援に対する感謝でしかなく、ただ一人の女の子として見る事は出来なかったのだ。
ごめんな。
重ねていけばいくだけ不自由になった。
申し訳なさが先立ち、人の真心を蹂躙している気さえした。
誰かを想い、好きだとはっきり口にする気持ちが胸に根付いていたらば、ここまで重苦しく考えずに済んだだろうか、等と埒もない仮定に捕らわれる。

「白石、たいぎゃロマンチストったいね」

散歩の途中でICカードを落としたと朗らかに述懐する千歳に対し、そういえば白石も財布落としよったな、と誰かが話し始めた放課後だった。
粗方語り尽くし、あれはビビったで、なんや白石ぃ大した事あらへんなあ、どんだけボケとったんや、皆が好き勝手言い連ね部室からコートへ移動した時である。
室内に残っていた千歳が前触れもなく呟き落とすので思わず真正面から見据えれば、才気煥発、読めない揃いの瞳とぶつかる。

「なんや、いきなり」
「いきなりでもなかよ。今ん話聞いてわかった。誰の事も好いとらんから断っとったわけじゃなかね、お前さんは」

暢気者に見えてこの男、非常に油断ならない。
類い稀なる瞬発力で悟った白石は肩を竦めて笑ってみせた。

「プライバシーの侵害で訴えんで」
「誰にも言わんけん、見逃して欲しかつね」

脅し文句を本気とも受け取っていない千歳もまたのらりくらりと躱して笑むのだった。


好いているだとか恋だとかいう表現に頷くつもりは全くない。
ないが、一度きりの親切心をいつまでも抱えている事については、些か夢を見過ぎているのだろうなという自覚はあった。
何くれと首を突っ込むチームメイトへ隅々まで告解したが最後、お祭り騒ぎ調子でからかわれるに違いない。
ええ加減目ぇ覚ませや、言われれば、そらそうやろな、答える他なく、千歳から頂戴したロマンチストの称号に抗うだけの説得力とて最早残っていないのである。
二年生の時分に比べ精神的余裕を会得した白石は、寂寥を覚えながらも進んで行動を起こす事はしなかった。
意識して視線を巡らせ、四六時中思い悩み、回顧に身を委ねたりする事もなかった。
このまま見つからずとも構わない、とさえ思う。
決して忘れてはいないにもかかわらず不思議と欲求が湧かない。
大切に仕舞い込み、誰の目にも触れさせず、胸の内だけに留めておきたかったのかもしれなかった。
ほんま、夢見過ぎやな。
気恥ずかしさに一人笑い、学生証に触れる。
皮の手触りはつるりとして冷たかった。
中を開く。
指先を掠めた感触は乾いてい、捲られる紙が大人しく白石に従う。
辿り着いた一ページには何度も見返した文字が記されていた。彼女も同じよう目にしただろう、己の名前。白石にとって有り触れている、十五年間親しんだ五文字だ。
巡り会えるかどうかはわからない。
すれ違う可能性の方が高い事はわかっていた。
昨年の秋に繋がる細い糸を見つけたきり変わりはなかったから、おそらく何事も起きやしないのだろう。
来たるべき機を手にし、日頃ラケットを振るう左腕が疼く。
試合直前の高揚感に似た熱っぽさが体を駆けずり回っていた。
、の響きを追っても心は凪いでいるから、この噴き出さんばかりの感情は全てテニスへ向けられているのだと、白石は考えるまでもなくただシンプルに感じ入る。
勝ったモン勝ち。
ずっと掲げ続けたスローガンを頭の中に並べ、部屋の隅にまとめておいた荷物を見遣った。
行き先は東京だ。
大阪代表を勝ち取った四天宝寺中は明日、全国大会へ向け生まれ故郷を発つ。

――最後の夏が来た。







組み合わせ抽選日から開幕までは些か日数があったものの、最終調整をしている内瞬く間に過ぎていく。
大阪も充分に酷暑だが、東京の暑さはまた別である。
吹く風の種類が違う、地中奥深くにまで突き刺さるかのような陽射し、伴う熱の温度や蝉の声、僅かと言えども差異は差異、日常からかけ離れた場所にいるのだと周囲全てが警鐘を鳴らした。
気を抜くな、去年と同じ轍は踏むな、顔にはおくびにも出さず繰り返し唱える。
順当に行けば立海とは決勝で当たるだろう。
手塚率いる青学ともどこかで対戦するはずだ。
並み居る強豪校を下し、昨年果たせなかった全国制覇をものにしなければならない。その為の聖書で、完璧なテニスだった。
一回戦は試合がなく、四天宝寺中は二回戦からの登場となっている。
夏の盛りに人々の熱気が加わった会場は眉を顰める程蒸しており、体を動かす前から何かしら消耗してしまいそうだ。
皆は東京の過酷な夏に調子を崩していないだろうか、一瞬考えもしたが、部の連中が易々と負ける玉でない事は部長たる白石が一番知り得ていたので、すぐさま切り替えた。
体調管理は各々に任せるとした白石は、二回戦で使用するコートの様子を見た帰りである。
そういえば青学も一回戦は試合なかったな、と今朝方目にした対戦表を思い浮かべて歩を進めた。
日陰を作る木々がない為、辺りは眩い光に満ちている。
歓声が割れんばかりに鳴り響き、ラケットがボールを打つインパクト音は絶え間なく、ひと夏限りの熱に会場全体が沸いた。
観客を避け、席に沿った段を上り、あちらこちらで敵情視察をしているらしい何人かを視界の端で捉えながら、通りを斜めに突っ切っていく。
テニスコートから少々離れ、酔い痴れる喧噪が遠ざかった頃合で、

「あ、わっ!」

なかなか大きな声が左耳をつく。
次いで、シューズの先にてこつんとぶつかる硬質な音がした。
何事かと屈んでみれば十円玉である。
陽射しが強ければ目にも痛い白色の包帯が巻かれた左手で、掴み拾う。
転がってきたからには持ち主がいるはず、軽く首を巡らせるとそれらしき人影がすぐさま瞳に映り込んだ。
曲げていた膝を伸ばし、ジュースの缶を抱えながら右往左往する背中と距離を縮める。
にわかに吹き込んだ風でユニフォームがはためいた。
小さな肩にはセーラー服の襟がかかっている、すなわち女子生徒だ。
東屋に設置された自動販売機の前で、落としてばら撒いたらしい小銭を拾い集める様はどこか微笑ましい。
髪を一つに結い上げてい、少女が首を振る度に揺れ、露わとなった項へ屋根が生むものより一段濃い影を落とす。
眼前の惨事を片付ける事で手一杯なのか、無防備にも財布を足横の地面へ置き去りにしており、ややあって邪魔になったのだろう、ジュースも同様に並べた。
ここが海外ならば間違いなく盗難被害に遭う気の抜けっぷりに、白石は思わず唇を緩めてしまう。
自分もとやかく言えぬ失態を昨年演じているだけに他人事とは思えない。余計な世話だとわかっていたが、一つ助言をする事と決めた。

「はい、これ落ちとったで。それから、せめて財布は持っといた方がええんちゃうかな」

真後ろでは驚かせてしまいかねない、心持斜めの位置で立ち止まり、転がった硬貨をやや屈んで差し出すついで付け加える。
束ねられた髪の尾が揺れ動き、一秒と経たず目が合った。

「えっあ! ありがっ……」

あからさまに言い掛けの状態で白石を仰ぐ少女は固まった。元より丸い瞳を更に太らせ、驚愕の二文字をしっかり顔に出してしまっている。
そのような反応を返される覚えがなかったので、内心首を傾げた白石がふと目線を横に向ければ、自動販売機の電光パネル部分に同じ数字が居並ぶ。

「当たり」
「え!?」
「自販機。当たっとる」

偶然の発見を伝えた途端、座り込んでいた背中がすっくと伸びて、指先は数瞬迷う素振りを見せたのち緑茶のボタンを押し込んだ。
因みに財布は置き去りにされたままである。
これは己が余計な声を掛けたからか、はたまた少女の気性ゆえか。いずれにせよ看過出来ぬ無頓着振りだった。
取り出し口を探り、缶を掴んだ二の腕が目につく。

「あ、あの。これ、貰って下さい」

誰を前にしても滅多に感じずにいた、全く以って不覚極まりない、柔らかそうな肌だ、等というふざけた感想を抱いた白石へ、水滴を纏って涼しげなアルミ缶が差し出される。
少女の行動と自らの内に生まれた異変のどちらともが予想外で、二の句が継げなかった。

「お金拾って貰ったお礼に。当たりで出てきたからタダみたいなものなので、よかったら。今日、暑いし」

喋りながら財布を握りにしゃがみ、また戻る。
優しい声が遠くなっては近付いた。
大した親切ではないのだし辞退すべきだと判じた脳が、声帯を振るわせようとした直前、つらつらと言い募っていた人の唇が不安げに撓む。

「……ごめんなさい……その…迷惑でした?」

全身で打ちひしがれたと訴える様があまりにも懸命だった所為で、白石は吹き出しそうになったのを隠さなければならず、不自然にならぬよう心掛けながら左手で口元を覆った。

「いやいや、迷惑なわけないて。そんなら貰っとこかな。おおきに」

自然と零れた笑みで応じ、

「よかった!」

瞬間の破顔に視線の行方を縫い止められてしまう。
目一杯の笑顔には夏がもたらした汗が垣間見え、爽やかな色合いのセーラー服が日陰にて色付いていて、肩先に垂れた髪の幾筋を撫でる指が照れており、白石の時間はあっという間に巻き戻る。
今年でもない、一昨年でもない、たった一度巡った十四回目の夏。
誰しもが使う一言だ。特徴があるわけでなし、口癖とも呼べない。何の確証だってなかった。
それでも、骨を軋ませる程に心臓ががなり出す。
頭は真白く染まった。舌が乾燥し絡む。
渡された緑茶は冷たく濡れているし、重みを確かに感じて掴んでいてもまるで現実味がなかった。
あらゆる音が消え失せている。
あれだけ纏わりついていた真夏の熱も死して凍りついたかのようだ。
そんなわけあるかい。もしかして。考え過ぎの夢見過ぎや。けど聞いてみない事にはわからんやろ。
肯定と否定が目まぐるしく脳内を走り回る。
立ち竦む白石の前で大人しくなった少女が、あの、の形に唇をくつろげた所で、突如として聴覚が蘇った。

ー! おいてくよー!」

屋根影の下、僅かな光を吸い艶めく髪が舞う。

「うん、いいよー! 先行っててー!」

蝉の声が噎せ返る。人のさざめき、コートから届く熱気、陽射しの募る音なき音、真夏の気配、全てが大挙して押し寄せ、気圧された白石は無策に黙するしかない。
体中を押し殺しているのに相違なく、すう、とが密やかに息を吸った音さえも敏感に感じ取ってしまう。一寸の不快感も伴わぬ鳥肌が立った。

「…えっと、本当にありがとうございました。試合、頑張って下さい」

丁寧に頭を下げきってから、既に集め終えていたらしい小銭を財布に入れ、あっけなく踵を返そうとする。
捻られた首の角度が異様なまでに白石の喉元を抉った。
今の今まで片鱗すら与えられずにいた痛みによって胸は刺し貫かれ、膨らみかけの肺を手荒く潰される。
痛烈な衝撃だ、しかし彼女という存在を直に確かめなければ傷つく事も許されなかった。
思うと、ぐらついていた体の芯が定まる。

「待ってや」

襲いかかる圧力を問答無用で弾き飛ばす。
掠れやしないか、裏返りはしないか、そればかりが気になって仕方がない。
肝心の発音は己が胸元で暴れる苛烈な臓器のお陰であまり聞こえなかった。
の肩が留まる。
髪が宙を跳ねる。
目と目がかち合ってようやく、白石は息を吹き返した。

「いきなりで悪いんやけど、ちょっとええか」

どくどくと脈打つ心臓が普段の倍近い大きさになっているのではないかと危惧し、先刻無惨にも抉られた喉は碌に機能せず、ひと呼吸するだけで精一杯だ。
目が眩む。
汗で指が滑る。

「……俺、去年の夏、全国大会の会場で財布と学生証落としてしもて」

親切な子が拾って届けてくれたんやけど、名前も顔もちゃんと知らんのや。礼言おうにもどこの誰だかわかれへん。
続けるにつれ渇きを覚えていった。
一音一音を腹の底から振り絞り、しかし声自体にはその労苦を微塵も出さず、なめらかに響くよう注意を払う。
体中の水分が唇の端から揮発してゆく錯覚にまみれ、舌がもつれそうになるのを必死で堪える。
本来なら隠しておきたい間抜け加減を今会ったばかりの相手に語り明かしただけに留まらず、と呼ばれた少女が白石の思う人でなかった場合完全に頭のおかしい不審人物だ、もし彼女と自分の立場が逆であれば警戒心を叩き起こしていた事だろう。
真実、証拠等一つとして存在していない。
思い込みだと諌める声も頭のどこかで鳴り響く。
人違いですと告げられた時、どのようにして場を収めるつもりだとも危ぶんだ。
だがそれらを凌駕する勢いで確信している。
間違えていない。
白石のすぐ傍で、白石の声に耳を傾け、白石の目を見上げる彼女こそが、あの夏の日から繋がるたった一人だ。

一つに結わえた髪。
セーラー服。
昨秋に耳にした、財布と学生証を拾い駅まで駆けたらしいという響きが重なっている。
よかったと顔の全部で笑い、快活な声音を奏でた。
初対面で名前すら知らないはずなのに、彼女は白石の顔を見た途端言葉を失う。
無料のものとはいえよく冷えた緑茶の缶を惜しまず差し出し、所属校を明かす前から試合を頑張れと口にする。

幾つにも散らばった欠片が惹かれ合い、身を寄せ合った。
乱れ滲む綾錦が折り重なって妙なる彩りを生む。
焦燥とも高揚とも呼べない、おそらくは激情と称するに相応しいものが沸き上がり、轟音を伴わぬ奔流となった。
聖書と尊称されるまでに至った白石が有する理性によって、静かに抑え込まれている。
何故、このまま見つからずとも構わない、と嘯いたのか今となってはわからない。
どうして、欲求が湧かない、だなんてまるきり他人事のよう客観視していたのか。心は凪いだまま、穏やかでいられたのだろう。
そんなはずがなかった。
初めから違っていた。
平静であろうと努めていただけだ。
ゆっくりと気付きはじめた白石の目下で、毅然と持ち上げられていた少女の睫毛が僅かに震えた。

「あのそれ、多分私です。第三コートの近くで拾って。運営本部に届けるのが一番なのに、お財布だったからパニくっちゃって……。すぐ追いつけたらよかったんだけど、間に合わなかったの。ちょうどバス停に出た所でバス出ちゃって、それで余計焦って戻ればいいのに急がなくちゃヤバイって、あの…は、走りました……」

バカだよね、友達にも言われちゃったし。
白石の胸にあれだけのしるしを刻んだ張本人は、その行動を恥じているらしい。照れ隠しに笑い、あまつさえごめんなさい等と口にする。
彼女自身何を伝えるべきか迷い、前後不覚状態に陥っているのかもしれない。

「結局私追いつけなくて、駅員さんに預けたんです。ちょっと不安だったんですけど、無事白石君のとこに戻ったならほんとによかった」

微笑む眦が柔らかに甘かった。
瞬間の、白石が得た感情は言葉という表現だけでは到底間に合わない。
夏が生むたくさんの声で辺りは満ち溢れている。
引き結ばれていた白石の唇が笑みに割れた。

「……駅までダッシュ?」
「えっ! えっと、途中で親切なタクシーの運転手さんが声掛けてくれました。事情を話したら運賃は今持ってるだけでいいから乗ってきなって言ってくれて、だからそこまでは走ったけど……」
「そんで先生に怒られたんやろ」
「う、うん? 怒られたけど、どうして知ってるの?」
「はは! そか。……そうか」

枷はなく、不自由さも感じない。
ただ浮き立つ一方で際限がなかった。
じわじわと人を追い詰める熱気もこの時ばかりは白石を押し上げてくれる補助器同然だ。
胸が晴れる。
天高く澄み渡る夏空へ全て溶けていくようだった。
名もなき寂寥は影も残さず消え失せて、鮮やかな感情のみが空っぽだった心を埋めていく。

「君やったんやな。俺、ずっと」

痛快極まる勢いのまま声にしかけ、唐突に悟った。
相応しい言葉、その所以、夏から夏までに味わった憂いと切なさ、誰の言にも頷けない不可思議。
続く声はこうだ。

(探しとった)

どこにいても、何をしていても、大阪から遠く離れ彼女の現れる可能性が高い場所ではしらずしらず探していた。
気付いてしまえば至極簡単、シンプル過ぎていっそ退屈な一言を見落とし続けたのが無性に悔しくて、自嘲の笑みが零れかけている。
どうしたって触れたい。
知りたい。
身の内に留めておける程度の気持ちではないから。
大切に仕舞い込んではおけない。
彼女も自分も作り話に登場するキャラクターではなく、今この時を生きている生身の人間だ。物と同じに扱う等、土台無理な話だった。
味も匂いもしない夢幻に身を委ねたりしていたから、大層なロマンチストだと指摘を受けるのである。
ああ甚だ馬鹿馬鹿しい、二度とそんな腹の膨れぬ夢想で満足してやるものか。
堪え続けた白石の奥底に清しいまでの風穴があいたので、秋冬春夏、超えてきた四季の移ろいを吹き飛ばすのを待つさ中、不思議そうに見詰める瞳が白石を呼び戻した。
いやすまん、なんでもない。名前、聞いてもええか。
中途半端に終わっていた発言を取り消し尋ねるも、アカンこれただのナンパや、一人突っ込んで可笑しくなってしまう。だがまあ正直似たようなものである、下手に誤魔化すと今後ややこしくなるし面倒だと言い聞かせる。

「言うても下の名前は知っててんけどな。
「え!?」
「今呼ばれてたやんか」
「あ、そ、そっか」
「それに俺去年の秋、君の友達が試合会場で君ん事話しとるとこにいたんやで」
「ええー!? そ、そうなの?」
「せや。は根性ある勇者言うとった」
「ば…バカにされてる…」
「してへんて、単に褒めとるだけや」
「なんか恥ずかしいな……。でも、すごい偶然!」

無遠慮に下の名前を口にされたにもかかわらず、は変わらず明朗に笑って答えた。
苗字は
中学三年生、同い年。
夏の敗退がとっくに決まってしまった学校のテニス部マネージャーで、引退した身で何故会場に来ているのかというと、他校に所属している弟妹の応援との事だった。
白石については初め学生証の名しか知らなかったが、部の選手に尋ねて関西の有名選手だと教わったらしい。
知ったのち一度だけ試合を見たから顔を覚えていたのだと聞かされ、白石は歯噛みする所だった。その時すれ違わずにいれば、今よりもっと早く出会えていたに違いない。

「だから、さっき声掛けられてびっくりしちゃった」

立て続けに話し、身の置き所に戸惑う仕草を見せ、言葉の中途で時折照れ笑いを挟むの頬は微かながら上気している。先程よりも仄かに赤いのだ。
夏の所為にしたくなかったし、夏の所為だとも思えなかった。
間近でつぶさに見詰め独りごちる白石の胸に、また一つすんなり当てはまる言葉が生まれくる。想像するしかなかった頃とは違う、生身のとまみえてからこちら、止む事はない。言葉だけでなく感情も溢れ、抱えきれない程だ。
骨を打つ鼓動がいやに心地よかった。
あまりの強さに軋む胸の内すら喜ばしい。
血管の運ぶ熱に全身がうなされ、想いは巡り、ただひたすらに至福を味わう。
偶然って続くものなんだね。
だが弾む声が愛らしかったばかりに不足を知ってしまう。
微笑む瞳の底まで見通せるよう、の奥側からも己が見えるように、願いは尽きない。貪欲に掴もうとする。作り話ではない白石の現実が今だけに留まらず、最後の最後まで幸福である為に両の目で探し手を伸ばすのだ。
もう、ひと夏で終わらせたくない。
心に決めて、白石が渇きの癒えつつある唇を開く。

「うん、せやな。えらい確率で会うたな。そやから、こっからは偶然抜きにしよ」

の口元が、え、の形で止まって動かなくなった。
頬のラインは柔らかく、顎だって己とは全くつくりが異なり、片方の掌だけで容易く包み込めそうだ。
東屋の影を浴びているはずなのに、瞳の二つともがきらきらと輝きを放っている。
欲目だと白石は判じた。
なんでやろな可愛くてしゃあない。
とうに答えを得ているくせして、あえて自らに投げ掛けてもみる。

「とりあえず、連絡先聞く所から始めよか」
「え、え?」
「財布拾て貰たお礼出来てへんし、さんの事知らんと、どんなお返しがええのかわからんやん」
「え、あ、ああ…そういう……い、いいよ、お礼なんて気にしないで」
「気にさせてや。俺に、その権利をくれ。知りたい事が仰山あってな、けど自分じゃどうしようもない事みたいやから……さんに助けて貰わなあかん。なあ、お願いしてもええか。もっかい親切にしてくれたら、俺はめっちゃ嬉しい」

すらすらとつっかえもせず出ていく声に、熱が潜んでいたのは白石自身にもわかった。
眼下で薄紅の頬が俯く。
拒絶の反応ではないと察する心が騒いで喧しい。

「……あの」
「ん?」
「い、いえあの、どうしてそこまで」
「そこまで、何?」
「そ、そこまで……なんでかなって…」
「それはあれやな。一目惚れってやつや、さんの根性に!」

一言一句思い通りに響く音の清々しさが想像以上で、白石は遠慮なく笑声を立てた。
え? え!? と降りかかった事態が嘘か真なのか判断のつけられぬが、目を白黒させて狼狽えている。
見事耳朶まで火照った様を見、より速まる鼓動が付随する充足を感じて、再びの幸福を得る。
いくら引き締めようとしてもにやついてしまう表情筋を何とか見られる程度に保ち、はい納得したんなら携帯電話出してんか、颯爽と言い切った。
慌てて携帯を探し始め花のようなかんばせを一層赤く染めるは、非常に可哀相なのだがとても可愛い。
釣られて白石の心と言わず体と言わず、天辺から爪先までを炭酸の泡めいた熱が通り抜ける。
夏の暑さの所為には出来ぬ己が頬の有り様は無論気恥ずかしかったが、どう映っていようとも構わなかった。最早名もなき少女ではなくなったの事を、これからは知ってゆけるのだと思うと嬉しくてたまらない。
不快指数も熱中症になりかねない体感温度もどこか遠くへ飛んでいく。
残ったのは何者にも勝る、一等眩しい始まりの夏だけだ。