(ねずみ)




例えば過去に戻れたとして、私はやり直せるのだろうか。


稲光がカメラのフラッシュめいて目の奥を焼いた。
間髪入れず轟く雷鳴に首を竦め、両手で必死に耳を塞いで、ぎゅうと目をつぶる。
素肌に当たれば痛みを覚える大粒の雨が降り出したのは、つい先ほどの事。
うんていやブランコといった遊具ばかりか、家の屋根とマンションの壁に砂地やコンクリートの路面、地上のありとあらゆる所をあっという間に濡らし尽くしていく。狂暴なスコールとはこの事かと身を以って知った。
公園の人影は蜘蛛の子を散らすよう消え、わーとかきゃーとか騒がしい悲鳴が立ち上って、自宅まで最低でも走って15分はかかる私はおろおろとまごつく。小学校低学年の判断力では、咄嗟の逃げ場所が探せなかった。
額に手をかざさなければ視界不良に陥るほど雨の勢いは強く、けたたましい音を立てながら増す一方である。
髪も服も濡れ染みに侵され始めた所で、敷地内に設置されているタコの山すべり台の存在をやっと思い出し、一目散に駆けていく。
豪雨にはつきものの雷に怯えた私の心臓は、地面に穴があくんじゃないかというくらい激しい雨音に負けず劣らず爆発しそうにがなっていた。
全速力で走り抜け、天井の低いトンネルに滑り込む。
切れ切れの息をろくに整えもせず、這いつくばって奥に進んだ。
ちょうど真ん中辺りで留まり、ダンゴ虫みたいに丸まって伏せる。
うう、と涙混じりの呻きが、かちかち鳴って噛み合わない歯の隙を縫い転がっていった。
二つの目をしっかり、力いっぱい閉じているはずなのに、恐ろしく暗い空を打つ稲妻の走りがわかってしまい、吐く途中だった息が一瞬で肺の底まで引き下がる。
身構える暇の一つ与えてくれない雷が轟いた。とんでもない衝撃だ。
辺り一帯の空間ごと震え、耳は痺れて使い物にならなくなった。叫べもしない。
再び光る。
呼吸がぐらついた。
切り裂き壊す轟音。
あまりの恐怖に身動きもとれない。

「平気か!?」

はっと正気づく。
涙で崩れた視界には、床のくすんだオレンジ色しか映っていない。
耳に当てた手をそのままに首を持ち上げた先に立つのは、前髪にいくつかの雫を宿した幼馴染だ。
少しだけ状況の判断がついた。
蔵ノ介くんの背後ろには友香里ちゃんがいて、心配そうにこちらを見ている。
私にとっては同い年の幼馴染の手を引きながら近づく、背を屈めた男の子が頼もしすぎて、今までと違った意味の涙が溢れてどうしようもない。

「もう大丈夫やから、泣かんといて。ちょっとクーちゃん、なんか気ぃ紛れる事言うてや!」
「どんなムチャぶりやねん。そもそもこんだけ雷、」

が鳴っていたら声なんか聞こえない、と言いたかったのだろうけれど、続きは天を貫く轟きで掻き消えた。
恐怖した喉が引き絞られて叫ぶ。
年の近い幼馴染達は昔から私が雷に弱い事を知っているので、虚勢を張る必要がなくなったのも震えが止まらない理由の一つかもしれない。
とりあえず起きや、服汚れるやろ。
なだめすかす蔵ノ介くんの言い方が優しかった。
クーちゃん触りなやセクハラで訴えんで。
ひと息で言う友香里ちゃんの声はあたたかい。
うっうっと嗚咽なのか出来損ないの返事なのか、よくわからない声を漏らす私を引き起こすのは小さくてやわらかい手だ。
もう一方で、少々広い掌に背中を撫でられている。
以前学校の授業中に雷が鳴った日、怯えに怯えた私をからかってきた男子とは全然違う、思いやりに満ちた年上の幼馴染のものだった。
目元を擦り、鼻をすすって、ごろごろと恐ろしげにうなる雷をどうにかやり過ごそうと試みる。隣に座り込む友香里ちゃんがしっかと腕を組んでくれて、蔵ノ介くんは正面に腰を据えたらしい、

「安心しぃ。すぐ止むと思うわ」

落ち着き払った口調で紡ぐ。
体育座りをした足は見慣れたスニーカーを履いていた。
下を向いているから自然その色を眺める恰好となってしまい、耐えている間に段々と落ち着いてくる。
肌に触れる自分以外の体温と、鼓膜を撫でる声。
二人の幼馴染のおかげで、何かの発作を起こしたよう荒かった息も猛烈な速度を叩き出していた心拍数も、雨が上がって陽射しの差す頃にはすっかり元通りになっていた。


緊急避難場所のトンネルを抜け出す。
小学生といえど流石に三人も詰まれば些か狭かった、真っ先に外へ向かった友香里ちゃんの、わーめっちゃ晴れた、せいせいしたと言わんばかりの一声が伸びやかだ。
私はといえば、大泣きしたせいで力を使い果たし一挙一動が遅れてしまって、腫れぼったいまぶたを擦りながら空を見上げようとし、足元気ぃつけやと立ち上がる前に手を繋いでくれていた幼馴染からお叱りを受けた。

「擦ったらアカン」

手ぇ洗ってないんやから、ばい菌入りよんで。
クラスの保健係か。
思いつくままに告げるとその通りだと何故か胸を張る。
涙目のままで思わず吹き出した私を見、頼れる手の持ち主が笑った。蔵ノ介くんも私も、互いに離す事をすっかり忘れていた。

「けどほんま嘘みたいに晴れよったなあ。きっれーに洗った後の青やんか」

釣られて仰げば、雲一つない快晴模様である。
深く澄んだ青が目にも鮮やかで、ついさっきまで端から端へ詰め込まれていた、漆黒と濃い灰の混ざった暗雲の存在など、既に遠い過去のものだ。
不意に吹き込んだ風の爽やかな事。
濡れそぼる緑の葉が太陽に煌めき、つやつやとして息づく。
園内の遊具の何もかもが掃除でもしたかのよう、光を反射するほど綺麗になっていた。

「クーちゃんの靴だけきったない!」
「うわほんまや、何がどうしてこないなってん」
「もう忘れたん? さっき大急ぎで公園走った時、水たまりに足突っ込んどったやろ」
「あ、それか」
「何? その今気づきましたーて顔」

兄妹の会話が進むのを眺めていただけの私は、蔵ノ介くんとほぼ同じタイミングで気づいた。つい数分前まで無意識とはいえ眺めていたにもかかわらず、幼馴染の足元を彩るグレーのスニーカーがぐっしょり濡れて変色していた事を見過ごしていたのだ。

「いくらこの子が逃げてくの見つけたからて、もうちょい道選んで走ってもええんとちゃう? ねえ、お、に、い、ちゃん!」

――私のせいだ。
蔵ノ介くんは雷に追い立てられた年下の幼馴染を心配して、己を顧みず走ってきてくれたのだ。
ざあっと翳った顔色を察したのかもしれない、こちらがごめんなさいを口にするよりずっと早く、蔵ノ介くんが私の名前を呼ぶ。

「見てみ、これ。鼠色が雨に打たれて濡れ鼠色になっとる」
「グレー言うてや。クーちゃん言葉のセンスがおじさんくさいねん」

軽快なテンポで進む会話が、体の内側に染みるもやを蹴飛ばしていった。
実の妹に厳しい指摘をされても鷹揚に受け入れ、中にたらふく雨粒を蓄えてしまっているのだろう、踏み下ろすごとにちゃぷちゃぷと水音を奏でる靴をして笑う。
声変わりする前に聞いた、最後の笑い声だったかもしれない。







湿気た空気で夜が濃くなっている。
真夏の手前特有のにおいがした。
じっとりと肌をくるみ、他の季節ならなんとも思わない髪を鬱陶しいものへと変化させ、風向き次第では呼吸さえままならなくなってしまう。
雨が降ったわけでもないのに、アスファルトを踏む音は鈍く低い。
ゆるい坂道の所々にぼやけた外灯が取りつけられており、滲んだ明かりの滴る部分だけがてらてらと濡れて光っていた。
羽虫が何匹かたかるのを見ると、なんとなく直下を通る気が失せる。
心持俯き、中学に進学して買って貰ったローファーの先へ視線を置いた。もっと子供の頃、私の足はお気に入りのスニーカーでそこら中を飛び回っていた。
唇を結んだまま上る途中、立ち並ぶ家々の玄関先を闇の中へ浮かび上がらせる、電灯とは違った光がやけに眩しい。いっそ消えてしまえばいいと思うくらいだ。
足音は二つ。
先行く私のそれと、少し後で鳴る、重い気配。
ただ、あくまでも私と比べたらの話で、実際はそこまで大層な重量ではないのだろう。

「コラ、待ちなさい。そない早く歩きなや、俺が一緒におる意味ないやんか」
「……別におらんくても平気やもん」
「平気ちゃうから俺にお迎え指令が下ったんやろ?」

やわらかい声にかすかな笑みを持たせ、人好きのする軽い冗談を混ぜてくる一個年上の幼馴染から見えないのをいい事に、私は思いっきり顔を顰めた。
ほっといてんか。
無愛想に突き放せば、きっとこちらの意志を尊重し退いてくれる。
わかっているのに頭の一文字ですら口を割ってこない。喉をも通らず、気管でぐるぐると迷ったあげく、お腹の底まで落ち込んでいった。身も心も底なし沼へ沈む。


最寄駅前のロータリーで蔵ノ介くんに気づいた時は本当に驚いて、周りの時間が凍りついた錯覚に陥った。
大きな時計を囲うようにして設置された煉瓦造りの花壇に腰掛け、長い足を投げ出し、手元の携帯端末をじっと見つめている。
地面に下ろされたラケットバッグは、長く苦楽を共にした相棒みたいだ。隣にいるのが当たり前、ない方が違和感を抱く。
改札口と大通りを繋ぐ、三段しかない階段を下る足先がみっともなくわなないてしまう。
駅舎が放つ煌々とした光を受けた綺麗なつくりの顔が陰影を帯びもっと綺麗だ、これ見てや、クーちゃんケガしてないのにずっと包帯巻いとるんやで、といつだったか友香里ちゃんから送られてきた画像を思い出した。
ほんまや意味わかれへん、いやいやなんでやねん、ツッコミ待ちなん?
即座に打つべき返答が何一つも出てこない。
私が覚えている蔵ノ介くんはもっと背が低くて、平均身長よりは上だったかもしれないけどずば抜けて大きいわけでもなく、同級生とそう変わりない男の子だったのだ。
小さな画面に映し出された幼馴染は、記憶の中の姿を打ち破るほどの破壊力があった。
宣言せずに撮ったのかもしれない、感じとしては盗み撮りに近く、真横を向いている。
壁に貼られた何かに見入っているのか、目線は友香里ちゃんへは向いていない。
メッセージにあった通り白布で包まれた左手で、1Lの牛乳パックを掴んでいた。口元へ迫った開け口の角を見た瞬間、直飲みやめなさい、とおばさんに怒られていたかつての白石家のキッチンが脳裏に浮かんだ。
横顔が違う。
ほっそりとしていてどちらかといえば繊細に見えた腕はたくましく、手の甲も大きくなって骨張っているようだ。喉仏が飛び出た首の筋は太かった。
(こんなん、私の知ってる蔵ノ介くんちゃう)
自分で選んだ未来のくせして、離れている間の変化がショックだった。
アホや。間抜けもいいとこの大層なアホや。
呟きはびっくりするほど頼りない。


つま先が迷い、立ち止まる。
行き交うたくさんの人のざわめき、電車ががたごと発車したり停車したりする気配、無数の足音とバスやタクシーが車輪を回す音、あらゆるすべてで鼓膜がばかになる寸前、私の目線を縛るその人がふと鼻先を持ち上げた。
目が合う。
白石家の長男が稀代のイケメンに育ったとご近所中で噂されている彼はすぐさま破顔し、軽く掲げた左腕で手招きをして来、無視するわけにもいかない私は口元を引き結んだ上で一歩、慎重かつ勇ましく踏み出したのだった。

「……蔵ノ介くん、何してるん」

率直に尋ねると、連絡いってないんか、四天宝寺中の制服姿の幼馴染がおかしそうに自分の携帯端末をトン、トンと指差す。
言わんとしている事を悟った私は鞄を探り、ボタンを押せば暗がりでも光る画面をチェックして、これから辿らなければならぬ己の運命を知った。同時に絶望する。
『近くで久しぶりに蔵ノ介くんに会いました。世間話に花が咲いたついでお迎えを頼みましたから、気をつけて帰ってくるように』
日頃、私の帰宅時間が遅い事を咎める母の企みである。
わざわざ標準語で記すあたりが嫌味だ。
だけど何度怒られても直さなかった自分が悪いという事もわかっているから、肝心要の部分で反抗できない。

「ほな行こか」

テニス部で忙しいはずの蔵ノ介くんは、疲れを微塵も見せない涼やかな面持ちで言う。
いっそダッシュで逃げればよかった。
家へと続く坂道の手前まで辿り着いた時に後悔したが、後の祭りだった。


黙々と進む内に早足となった私の後ろを歩く、もう男の子じゃなくてすっかり男の人に近づいた幼馴染の気配が背筋に障る。
今からでも走り出そか、思案し、やっぱできひん、即諦めた。
こちらは急ぎ足のつもりでも、蔵ノ介くんはゆったりした速度で追いついてくるせいで、気が滅入って仕方がない。
(嫌いになれたらよかった)
そうしたら、きっともっと楽だったのに。
夜より黒い感情が胸の奥底から湧き出、肩に掛けたスクールバッグの紐を握る手に力が籠もる。加減なしに噛みすぎて奥歯が痛い。わけもわからず昂ぶっていく心臓が喧しかった。


蔵ノ介くんなんかほんまのお兄ちゃんやないくせに! もおいい加減そういうのやめてや!


弾みでぶつけた言葉は今でも頭の中でこだましている。
私はまだ小学六年生で、蔵ノ介くんは四天中に進学して二ヶ月は経った頃だった。
人並外れて端整な顔立ちをしている人は、中身も人並外れてでき上がっており、成績優秀かつ面倒見もよく、頭一つ分抜きん出て成長が早かった。
小学校と中学校に別れ、ランドセルの私と学ランに身を包む幼馴染の差は歴然だ。
五年生までは一切気に掛からなかった様々が浮上し、子供のままだった私は埋めようのない生まれ年の違いに打ちのめされ始める。
帰り道がたまたま重なり、並んで歩けば兄妹に間違えられた。
しっかりしてはるお兄ちゃんやねえ。まーこら可愛い妹さんやわ。
かつては照れ臭いだけだったはずの賞賛に、素直に頷けない。
蔵ノ介くんが日ごと夜ごと新しい知識を得ていく一方で、私はといえば追いつくどころか自分が何を理解しどこがわからないのか、初めの一歩自体が把握できなかった。
制服姿に気後れする。
しっかり者の幼馴染が心配してくれるほど口が堅くなっていく。
小さい時から顔を突き合わせてきた人が、急に知らない男の子になったみたいだった。
背が伸びた。
いつの間にか声は低い。
顎のラインが引き締まり、やわらかそうだった頬から無駄が削がれる。
頼もしい限りだと見上げ、何かと助けを求めていた今までが、とても恥ずかしい事のように思えてならなかった。
出来たお兄ちゃんみたいやで。あんたまるきり妹やんな。蔵ノ介くん、友香里ちゃんとは別にもう一人妹がおるんとちゃう?
からかわれる都度、心のどこかが軋んで痛い。
何度も繰り返され、蔵ノ介くんは幾度となく平気な顔でかわし、時にはノッてみせたりして、悠々と先へ進んでいってしまう。
降り積もり続けてきた昏い感情の塊は、なんて事はない、いつも通りのからかいをやり過ごした直後に爆発した。まるきり子供の癇癪だった。
激情をぶつけられた瞬間の、蔵ノ介くんの表情を私は一生忘れないだろう。

「……そか。ごめん、堪忍な」

綺麗な二重の下にある揃いの瞳を丸くしたかと思ったら、素早く元の形に戻す。
それから笑おうとして笑い損ねた、何でもそつなくこなす蔵ノ介くんらしからぬ、曖昧に濁った声色で謝罪をこぼした。
カッと頬に火がつく。
目の前が潤んでほんの一瞬、込み上げた水気で視力を失った。
本当に悲しそうな顔の幼馴染をそれ以上見ていられなくて、ごめんなさいの一言も口にできず、私は文字通り逃げ出したのだ。

隣家ではないにしろ歩いて1分の距離に自宅があるし、親同士の仲が良い事もあって疎遠にはならなかった。
家族の会話に名前が上がる。
時たま出くわす。
道端で軽い会釈をし、手を振り合う。
年賀状やお年玉のやり取りもする。
お裾分けの使いに出され訪ねると、ちょうど家で一人過ごしていた蔵ノ介くんの勧めでお邪魔する破目になって、リビングのソファで出して貰ったジュースを飲みながら他愛ない話を咲かせた。
中学生活と部活、両方とも充実しているようでいいなと、心から思った。
気まずくはなかった。
でも、一度言ってしまった事は取り消せない。
変わらずに優しい年上の幼馴染と向かい合う度に、私はどんどん俯きたくなっていく。
消えてなくなりたい、まではいかないけれど埋没したいと懇願する。
一緒にいるのは嫌じゃない。
話したい事や聞いてほしい事が本当はいっぱいあるのに、同じくらい会いたくなかった。
進路を決める季節を迎え、あんたも四天行くんやろ、蔵ノ介くん先輩やねんからちゃんと挨拶忘れんようにな、両親から何気なく言い渡され首を横に振る。
違う学校に行きたい。
告げた時は少しだけ揉めた。
どんなに言い聞かされ理由を問われたとて口を閉ざし、憑りつかれたみたいに猛勉強を重ねる、頑なな様子に根負けしたらしく、家族は皆何も言わなくなった。
そうして、電車通学にはなるが家から通える範囲内の学校に合格した私は去年の春、二人の幼馴染が通う四天宝寺中とは別の門をくぐったのである。

「学校はどや?」
「どうもせーへん。蔵ノ介くんお父さんとおんなし事聞くのやめて」

中学二年になった蔵ノ介くんは益々テニス部が忙しいようで、以前のよう顔を合わせる機会は失せていった。
別の学校を選んで、幼馴染の帰宅時間をわざわざ予想し行動範囲や手順を考え、不自然にならぬ程度に避ける事を心掛けた私は、深い墓穴を自らの手で掘っている。
離れる為の道を進んだくせして、志望校を決める際には制服のカラーを参考にしてしまったのだ。
怪物の咆哮じみた雷鳴の中でじっと見入った、きらきらと輝く陽光と澄み渡った青空の下に在った、濡れ鼠の本来の色を忘れられなかった。
四天宝寺の目立つカラーリングからはほど遠い、衣替えからしばらくはダサいダサいと言われ続けたグレーの夏服。
(私のアホ)
強い自覚を持ちながら、三年生に進級し今までなんて目じゃない速度で成長していく幼馴染が淋しくて遠く、しかしなおの事距離を置きたいと願う。
図書委員を買って出、当番以外の日も図書室に籠もり、時には自習室で予習復習へと没頭し、早々の下校を遂げまかり間違って白石家へ使いを頼まれてはたまらないと、念入りに帰宅時間を遅らせた。
おかげで意図せず成績優秀者と相成り、初めは喜んでいた母だったが、日没後にふらふら帰る日があまりにも多いと最近は目を釣り上がらせている。
もうずっと前から全部が上手くいかない。
――あの時から。
私が消化できない気持ちを蔵ノ介くんにぶつけて、幼馴染という心安い関係に傷をつけてしまった日から。

「まあ確かに俺オトンとちゃうけど、学校で何かあるから変に帰るん遅なるんかなて、心配になって当たり前やん。さっき駅で待っとった時、ほんま暗なるまで帰って来ぉへんやんて驚いたんやで? 聞いたら毎日あんな時間らしいやんか。危ないやろ」

低くなっても変わらずに穏やかで、優しく鼓膜を打つ声音が、確かに好きだと感じているのに受け入れられない。
胸の中心が一秒もかからず燃えて、息ができなくなった。
お腹の下の方から想像上のマグマみたいなうねりが吹きこぼれ、舌のつけ根へ至るまでを焼き尽くし爛れさせる。

「蔵ノ介くんに関係あらへんもん」
「……あのなぁ、」
「ないったらない! 私、一人で帰れる。危ない目に合った事かて一度もない」
「そら今までは運が良かっただけや」
「じゃあもおやめる。明るい内に帰る。何ならスタンガン持ち歩いてヘンタイ出たら私一人でやっつける」

ふてくされて拗ねた言い草だ。
自分でもよくわかっているが為に、余計止められない。

「もういい。く、蔵ノ介くんが一緒やなくても……もうええねん、私は」

小さな子供みたいに語尾がねじれて震えてしまった。
自己嫌悪の質量が増す。心臓が異様に轟き、鞄を握り締めた掌は汗で滑って、すぐ傍後ろから届く男の人の声にあてられ、体中が重たい。
やっぱり駄目なのだ。きっとやり直せない。
何度チャンスが与えられたとしても、同じ過ちを繰り返すのだろう。
私が、蔵ノ介くんを一番に想う限り、異なる選択肢は掴めない。

「年一個しか違わないねんから子供扱いせんといてや」

周囲が微笑ましげに仲良しさんやねえと目を細める度、一足先に大人になった幼馴染がさらりと応じる都度、お前は対象外だと突きつけられているようで苦しかった。
蔵ノ介くんを慕う気持ちを、たった一人だけに向ける特別な想いを軽々跳ね除けられ、なかったものとして扱われる、近すぎる距離が大嫌いだった。
私の知らない幼馴染が増えてゆき、いつか本当に離れてしまう日を想像するだけで悲しかったくせに、自分からは行動を起こさず伝えるでもなく地団駄を踏むだけだったくせして、あれは嫌だこれは嫌だと騒ぎ立て、蔵ノ介くんへと真っ直ぐ向かい追いかける心を掴んで置いておけない。
今だって気遣いに溢れた言葉をかけてもらっているだけのに、なんだか悲しくて泣けてきてしまう。
湿り始めた鼻を、すん、とバレないように気を張りながらすすったと同時、かすかな溜め息と、静かに私を呼ぶ音が背中側に落ちた。
わかったから、いっぺん落ち着いて話聞きなさい。
妹分を通り越し赤ん坊をなだめる調子だ、目の前が真っ赤に染まって焦げた喉が痛い。
黒々としたアスファルトを目一杯踏みしめ、体という器を飛び出しかねない激情を握り拳へ籠めて、勢い良く振り返ったその刹那。

「はい、捕まえた」

指先が白くなるほど堅固につくった拳骨をまるごと包み込まれた。
大きな左手の包帯の感触がくすぐったい。
ひゅっと息を詰めた私へ降り落ちる、視線の束は柔らかかった。辿った先にて光を吸い、ごくゆっくりまたたく瞳のみが、溶けそうな闇に映えている。蔵ノ介くんの表情は凪いでおり、つい先刻、呆れ気味に聞こえた溜め息を転がしたばかりとは思えない。

「その子供扱いていうやつな」

こちらの目尻に薄く張りつく涙に気づいたのだろう、ちょっと困ったふうに笑うその人が繋いだ手を離さずに一歩近づいてくる。

「してないから迎えに来たんや。切っ掛けはおばさんが言い出した事かもしれへん。でも、いっくらでも断れる理由あんのに全部蹴って来たんは俺の意志。ここ、ちゃんと知っといてな。あ、念の為言うとくけどお兄ちゃんぶってもないし、オトンになった気持ちで甲斐甲斐しーく待ってたわけとちゃうで」

あいていた距離が狭まるほど、身長差が明確になる。
四天宝寺中指定のカッターシャツは第二ボタンの辺りまで開け放たれていて、半袖から伸びる腕がすらりとしていながら頑丈そうで、顎の下や首筋、垣間見える太い鎖骨の周りが、夜の影を帯びて濃い。
懐かしい蔵ノ介くんのにおいがすると思った。

「……雷が鳴るといつも思い出すねや。助けてーて一言言えばええのに我慢して丸くなっとった、俺の幼馴染を。一人で泣いてへんやろかて気になってしゃあない。心配っちゅうか……そやな。もう覚えてないくらい昔から俺が守ってやらなアカンて決めててん」

せやから前提が間違うとる。

「うちの学校に来るて勝手に信じとったから、去年の入学式でビックリしたわ。志望校、ちゃんと聞くべきやったて後悔して、そん時初めて俺避けられてんねやて気付いてもうた」

やって友香里とは連絡取って遊び行ったりしてたんやろ。こんだけ家近いのに俺だけ会わんし顔もよう見んし、友香里と遊んどるわりには前みたくうちに来ないんや、問題は俺やったんやな。
細い雨を浴びた感覚を連想させる言葉が、湿った夜風へぽつり、ぽつりと落ちていく。
がんじがらめにし、二度と開いてなるものかといった確固たる決意で以って丸めた手は、蔵ノ介くんの乾いて熱っぽい皮膚から体温を送り込まれて溶け出した。
ぐーの形をとる為に折り込み、ほぼ直角に曲がった指の関節を包んでいた、しっかりとしたつくりの指が物言わずして語っている。ほんの数瞬、く、と力を籠められて、呼ばれてもいないのに名前を囁かれた心地になってしまう。
あたたかい肌が音もなく伝う。
人差し指から小指までの四本に手の甲を撫でられ、残った親指が私の爪をなぞり、ゆっくりと押し込まれる感触が硬く、テニスラケットのせいかもしれない、ごつごつしていて小さな頃とは比べ物にならなかった。
根元の方にわずかばかり包帯が取りついている事が、実際には見えていなくとも断言出来る。今、中学生になった私達では有り得ないはずの近さで触れ合っているから、嫌でもわかる。

「妹みたいに思うた事、一度もないで。俺の妹は友香里しかおらんしな。…まず気持ちありきやねん。俺がしたい事しとったら、外野がお兄ちゃんとかオトンとか勝手に言い出しよった。それだけの話や」

もうほとんど力の入っていない手の腹へ、綺麗に整った顔立ちからは想像しにくい太さの親指が潜り込んできた。
げんこつ型の指が完全にほどけ、じんわり開け放たれる。
しかし即座に覆われて、今度は蔵ノ介くんの掌に無理矢理握り込まされる体だ。
喉が撓んだ。

「そやったら、なんで……」

お兄ちゃんと妹みたい、冷やかされても否定しなかったのか。
続きを紡げなかったにもかかわらず、余す所なく理解されたらしい。
支台の親指と、他の四指に挟まれた私の指は、小刻みに揺らいでいる。目の中が異様に熱い、舌が渇いて回らない、掌どころか全身が強張ってどうしようもない。
一歩たりとも動けぬ私と対照的に、蔵ノ介くんはとても穏やかな笑みを湛えながらまた一歩、間に横たわる距離を潰していく。

「そんくらい自分で考えてみぃや。少なくとも、俺は一人でずーっと頭悩ましてどないしよか知恵絞ったで?」

額面通りに辿れば突き放している、受け取ってしまいそうな言い草だったが、纏わる声の甘さ、優しい滲み方、温度のあるささめき、全部が冷静な判断力を打ち壊す。
いよいよ涙がどっと溢れた。
眉は情けなく下がり、鼻がぐずついて、唇もひん曲がる。
喉から飛んでいくくらい高鳴って当然なはずの心臓は、勿論速まってはいるけれど、不思議と心地よい程度で落ち着いていた。
ほっとしたのだ。
嬉しい、どうしたら、嘘やもん信じひん、けどもしかして、よかった、私もっとちゃんと自分の気持ち言わな。
体の内側を駆けずり回って巡る数多の感情が騒がしくて痛い、けれどひっくるめて上回るのは心からの安堵だった。
背中が萎む。肺の空気はことごとく熱を帯びてい、吐くのも吸うのも上手にできず、苦しさに喘ぎ、死にそうだと瞼をきつく閉じればたちまち、蔵ノ介くんに繋がれた右手の存在で何もかもが帳消しになった。
無理強いする意志がまったく感じられない弱さで腕を引かれ、頬にこぼれた塩辛い水の粒が上唇まで下りてくる。
体温が近い。
夜そのものの黒色と、たった一人がもたらす暗がりが混ざって、胸が震えた。
う、と抑え切れない嗚咽が、口の端から転げ落ちる。

「よしよし、大丈夫や。雷注意報は出てへんし、万が一落ちたかて俺が傍におる。またあん時みたく雨宿りして、自分が落ち着くまでずっとおるから。そんで、出来たら落ち着いた後も一緒にいたいんやけど。どうや? 思い切り笑って、うんて頷いてくれるか」

ずるい。
私がなんて答えるかわかって聞いているじゃないか。
なのに言葉ばかりが誠実で、憎たらしいくらい適切な距離を保ち、左手以外では触れてこない。薫るにおいや気配、温度まで肌で知るほど傍にいるのに、最後の一手は仕舞われたままだ。
蔵ノ介くんが学校では完璧なる聖書といった呼び名で有名なのだと、友香里ちゃんから聞いた事を不意に思い出した。

「…………く、蔵ノ介くんの」
「…ん。俺の、なに?」
「……蔵ノ介くんの、アホ……」
「ハハ! 酷いなぁ、ただの悪口やないかい。でも今の今までぐだぐだしとったんはほんまの事か、うん、アホはアホやんな。エラいすみません、今後気を付けます」

悪ふざけの延長線上であろう大阪訛りの標準語に対し、あらん限りの力で首を横に振ると傍らの空気が和らぐ。
そこ、縦に振るとこちゃうん。
呼吸混じりの声の響きが甘すぎて切ない。

「俺はお兄ちゃんやないしオトンもでない。俺ん中にある気持ちも、とっくに幼馴染飛び越えてんねや。それ踏まえて聞くわ」

背の高い人が、慎重に息を吸った音がする。

「……触れてもええか。ぼろっぼろ零れとる涙拭って、今すぐ抱き締めたりたい」

長い付き合いの中で聞いた事もなく、揃いの目や瞼、髪に肌に、足のつま先まで染みて仕様がない、心を振るわせる、高熱を薄い衣で包んだような声だった。
早く、一刻も早く蔵ノ介くんが言ったように頷いて首を縦に振りたいのに、後から溢れ尽きない涙のせいでろくに答えられず、何も言えない。

「ほら、はよせんと、制服の鼠色が濡れ鼠色になるで?」

にもかかわらず蔵ノ介くんが柔らかな調子でトドメを刺してくるものだから、互いが望んだ通りに応じ、何年もかかって辿り着いた近さで好きな人の熱を知って、雷雨に見舞われたも同然の止まぬ涙が乾くまでは、相当な時間を要したのだった。