パノラマ・ボイス 小さな画面を見つめたところで何も変わらない。 私と白石君の出会いは、人に話すとまず嘘だろうと疑われる、現実味の薄い、偶然の重なりが生んだものだった。 中学二年の夏、全国大会の会場で白石君の学生証とお財布を拾ったのが、すべての始まりだ。 いまだに友達に‘生涯最後の武勇伝’とからかわれるのだけれど、お財布=お金=すごく困っているに違いない、の方程式を脳内で勝手に作り上げた私は、運営本部へ届け出ればよかったものを、灼熱の炎天下を本人の元へ追いつこうと全力疾走、という無謀な行動を取ってしまった。 紆余曲折を経て人様の親切に助けられた結果、四天宝寺の選手さん達がいる駅までなんとか辿り着き、駅員さんへ無事手渡してひと安心。 それで終わるはずだったものが、奇跡みたいに続いていく。 なんとなく気になって、学生証の名前を頼りに聞いてみたら、関西で有名なテニスプレイヤーだと知る。 大きな大会で試合会場が同じになった時、一度だけ試合を見に行った。 私がマネージャーとして所属しているテニス部の実力を振り返っては、もしもトーナメント戦で当たったらどうしよう、相当対策を練らないと、とちょっと怖気づくくらい完璧な試合運びにびっくりしてしまう。 手持ちの言葉だけでは足りないほど整った顔立ちで、案の定、試合の後に女の子たちから話し掛けられている所を目撃し、絵に描いた遠い世界の人っぷりに思わず後ずさる。 ああでも、しっかりしていそうだけど大変な落し物をしちゃうんだよね、いつかの夏を思い出しこっそり笑った。 大会出場選手名簿に名前が載っていないか、探すようになった。四天宝寺は関西の学校だから、地方違いの私たちとは滅多に同じ会場になったりしなかった。 レフティの選手はテニスだと有利だしマークもされやすいだろう、注目を浴びるのは大変だよね、どんな声で話すのかな、もう落し物はしていないかな? 時々、名前と顔しかちゃんと知らない人を思う。 誰にも話した事はない。 誰にも話さずに終わるはずだった。 中学三年生の夏、全国大会。 白石君が私を呼び止めなければ。 そうすれば、こんなに頭を悩ませる夜なんてまるで知らないまま、平凡だけど平和に過ごせていたのに。 真っ暗だった液晶画面がぱっと光を発し、今まさに思い浮かべていた人の名前が浮かんで、ベッドの上でうつ伏せになっていた私は慌てて飛び起きた。 動揺するあまり間違えて拒否してしまわないよう、ことさら丁寧に携帯端末を持ち上げる。 「っ、はい!」 たった二文字ばかりの発音だというに、見事情けなく震えた。 吐息混じりの笑い声が電話越しに耳をつく。 『怖い上司からの電話に出る社会人みたいやな』 いつだって優しい話し方をする白石君は、いま平気か、とやっぱり今日も優しく尋ねてくる。しらずしらず強張っていたらしい肩の力が抜けた。うん、大丈夫。心持ち姿勢を正して返すと、 『そんなら良かった。こないだ電話した時もうすぐ考査や言うとったやろ? もう結果出た頃かな思て。あかんかったら第一相談者の俺にも責任あるし、早めに聞いて責任の取り方考えときたいんや』 気遣いと、それからこちらの気持ちをほぐす為の軽口とが混ざった答えが鼓膜を揺らす。口の端は独りでに緩んだ。 「第一相談者?」 『せや。あ、第一責任者でもええで』 「私の事を、私じゃない人に責任取らせるわけにはいかないよ。それに、あかん…く? あかんくない? ……えっと、大丈夫な結果だったから」 初めての電話じゃないにもかかわらず返事を迷った私の肌に、遠く離れた街にいる人の声が淡く滲む。 『ほんまに?』 俺に気ぃ遣て嘘ついてへんか、と半分微笑んでいるような響きに釣られて笑った。 「うん。ありがとう白石君。白石君のおかげだね」 『俺はいらん口出しただけや。頑張ったのも結果出したのもさんやろ? そない簡単に誰かのお陰言うたらあかんで』 「え、でも……」 簡単には言ったりしてない。 続けようとして、しくじった。一瞬、間があく。スピーカーの向こうで白石君が、ん? と問いかけて来、そんな事をしている場合じゃないのに、彼の綺麗な顔が不思議そうに傾く様を連想してしまった。 途端、鼓動がはやまって熱を持った酸素が喉で呻く。 「な、なんでもない」 『いや何でもない事あらへんやろ、今の妙な沈黙は』 「お礼! 白石君に色々アドバイスして貰ったお礼どうしようって考えてた!」 『めっちゃ怪しい言い訳やなぁ』 時間的に帰り道で掛けてきているのだろう、言葉を交わすさ中にあって、電波に音を乗せている人が歩く気配は止まない。 白石君は、知り合ったばかりの私が偉そうに言う事でもないけど、いつもそうだ。 経歴やテニスの実力を思えば忙しいに決まっているのに、ちょっとした空き時間に電話やメッセージをくれる。 どうして? 尋ねるわけにはいかなかった。 『まぁええわ。今日は結果聞きたかっただけやから』 「え…」 『良かったな。おめでとう。今の調子で受験までいけたら上手くいくと俺は思うで』 「う……うん、あの、」 『あと、お礼な。もしほんまにしてくれるんやったら……そやな、このまんま、口実にさしてくれたら嬉しいな』 私が暮らす家と、白石君のいる大阪。 絶対的な距離が縮むなんて有り得ない。 だけどぐんと近くなった気がして、耳のそばの血管が一気に膨れ上がる。電話の声が心なしか小さなささめきになった所為かもしれなかった。 『はい、おしまい。ごめんな遅くに。大事な時に風邪引かんようあったかくして寝や。おやすみ』 最後の最後まで甘く柔らかい声は、触れたらあっけなく消えてしまうような音を奏でてふと切れた。私の思い違いという可能性もあるけれど、こちらに返す隙を与えない、優しくもさっさと畳み掛ける言い方だった気がする。つまり、気恥ずかしさをそうとは言わず語っていた。 口の中がとろけるみたいに撓む。 長い溜め息をついて、さっきまで白石君と繋がっていた端末を握り締めたまま、毛布の上へ飛び込み、まばたきをゆっくりと一回、二回。 胸の真ん中がとくとく鳴っているのが、皮膚の下から伝わってきた。まだ明るさを保っているであろう画面を見る勇気はない。剥き出しの素足は冷たいのに頬が熱を帯び、布団に入った方がいいとわかっていても動けなかった。 (どうしてそこまでしてくれるの?) 聞けないのはもう理由を知っているからだ。 忘れもしない、今年の8月23日。 私たち三年生にとっては最後の全国大会決勝が幕を閉じたあの日、表彰式に出て大阪へ帰るという白石君に、私はきちんと挨拶をしておきたかった。 財布と学生証のお礼をすると言ってくれていた彼に、たまたま拾っただけなのだから必要ないと伝えなくてはならなかったし、お疲れ様と準決勝の話、白石君のテニスについて聞いてみたい事、色々とあったので、少しでも時間があればいいな、とはっきり言って軽い気持ちで足を向けたのだ。 全国大会が幕を開けてすぐの頃、初めて会話をした時に交換していた連絡先を頼りに電話してくれたのだろう、今から会えへんか、話したい事もあるし、と指定された場所へ駆けつければ、陽に焼かれ色濃く映える緑の下、葉影に埋もれた白石君が、太い木の幹を囲う鉄柵に背を預け佇んでいた。 なんと、将来が有望過ぎる選手をこのうんざすりる暑さの中で待たせてしまっているではないか。 とにかく急いで走り出す。 白石君! と少々離れた位置から声を掛けると、地面の方へ落ちていた彼の視線がぱっと持ち上がった。 「ごめんね、待たせちゃった。暑くなかった?」 涼しい場所へ移動しようか、何なら冷たい飲み物でもごちそうする……と申し出ようとしたところ、やんわり且つ丁重に辞退される。新幹線の時刻もあるし、学校の皆に断りを入れた上で輪から抜けてきたと言うのだ。 私はてっきり白石君がお礼の為に連絡をくれたと思っていたので、そんな貴重な時間を割いてまでいいのに、逆に申し訳なくなり、じゃああんまり話はできないなあ、と心の中で一人そっと残念がった。 せめて最後にと、これからもテニスを続けるよね、よかったら私も見に行けそうな大きな大会に出る時は教えてね、お別れの言葉と一緒に伝えた、直後。 「……あのな、さん。俺は最後のつもりないねんけど」 思いも寄らない真剣な眼差しに撤回を要求される。 ああもしかして最後という単語を選ばない方がよかったのか、冷たく聞こえたのかもしれない。 どうしてか上手く話せないもどかしさを抱えつつ謝ろうとしたら、また遮られた。 「いや…すまん。君が謝る必要は一個もない、そうやなくて、ただ……大阪帰る前に顔見てちゃんと話したかってん」 熱波を吹き飛ばす威力など到底ない、スカートの裾さえ揺れない微かな風が吹いた。 頭の上で葉っぱがさわさわ鳴って、セミの合唱がシャワーみたいに降り注ぐ。 こめかみはうっすら濡れている。 そこで、自分が汗をかいている事に気がついた。 「か、顔? あの………私の?」 「はは! それボケなん? そやったら俺きっちりツッコむで?」 「え!? ボケてないよ、あの…びっくりして。急に、急で。そんな風に、言われた事ないから」 変な話し方になってしまった。おまけに心臓がおかしな動きをし始めて、足の裏も熱い。きつい陽射しに散々あぶられたコンクリートの上に立っている所為だろうか。なんだかよくわからないけど、身の置き場に困る。 「そか。びっくりさせてしもてごめんな」 背が高くて体格も良い男の子の、私なんかよりよっぽど綺麗な瞳がやわく細められて、とても優しく微笑みかけるよう揺れている。 どういうわけか、こっちに向かって。 「ほんまにいきなり過ぎてこいつ何言うてんねんてなるかもしれんけど、聞いてくれるか」 頷くのに精一杯だった。 おおきに、と白石君はただ笑って、それから事も無げに続けた。 「好きや。俺と付き合って欲しい」 元々暑さで変形していた空気が一層うわんと歪む。じっとり湿って重たく熱い酸素は鼻をばかにして、実際に存在しているはずの景色がまるで映画を観ているかのよう現実味を失い、ちゃんと聞こえていたのに白石君の言っている事がわからない。危うく条件反射で、え? と口に出すところだった。 私が余程マヌケな表情をしていたからだろう、緑樹の生み出す細かな影を浴びた誠実な瞳が柔らかく笑む形をとり、かと思えば瞬く間にほんのわずかな愁いを帯びる。 「俺の言う事、信じられへん?」 「え! ちがっ…ちがくて、信じられな、じゃなくて」 ろれつも回らなくなってきた。 そもそも、彼は今、なんと言ったのか。あらためて思い返してみる。 好き。誰が? 付き合って欲しい。誰と? 可能な限り脳みそをフル回転させても答えは見つからない。 「し……白石君、あの、好きってどういう…」 「俺がさんを好きっちゅう以外の意味あるわけないやろ」 鮮やかに切り返されカッと頬に血が集まって燃える。目の前に火花が飛んで心臓は一瞬で膨れ上がる。真夏の汗が一秒で引いてすぐ別の種類の汗をかく。膝の裏から震え始めてまともに立っていられない。そのままよろけて倒れるかと思った。いっそそうなればいいのかもしれない。覚めたら夢だと一発でわかりそうだ。 視線が定まらない。 迷い迷ってさまよう。 何の意味も成さぬ現実逃避を、とても同い年とは思えない精悍な目つきの人に壊される。 「それとも、もう付き合うとる彼氏がおるとか」 「い! いな、いない、けど」 「けど」 「けど……私白石君のことぜんぜん知らないし、し、知らなくて、だから」 「………だから、俺はナシか?」 「そっそうじゃない! なしなんかじゃない…。でもほんとに知らないから、その、せめて……と、友達からでとか、それじゃあ、だめかな………」 両の耳まで自分の声が届いているのに、唇はぱくぱくと空回っている気がしてならない。陸に打ち上げられた魚のよう。 制服のスカートの前で組んだ指の内側にすらじんわり汗が滲んでいる。無意識に擦り合わせては気づいて止めるをくり返し、脈が激しさを増した。 白石君がごく短く息をついて、友達な、と呟く。 掠れながらも弱々しくはないその響きに、背中の芯がぴくりと反応してしまう。 「俺はそれでも構へん。でもただの友達ちゃうで? 先見越しての友達や。言い出したん自分の方やけど、大丈夫か。後でやっぱあかんかったとか思ってたんとちゃうかったていうのナシやで」 ……もしかしなくてもとんでもない事態なのでは。今更怖くなってきた。 嘘とかドッキリでしたとかだったらどうしよう。白石君はそんな人じゃない、直感で判じながらもマンガですらお目に掛からない展開に腰が引ける。 でも、と渇いた唇をやっとの思いでこじ開ける。 なかった事になんて絶対にできない。 「うん…白石君が大丈夫なら。わ、わかった……」 我ながら曖昧極まりない答えで、白石君が告げてくれた言葉に比べ随分不誠実だったにもかかわらず、私の視界に入ったのは安心したような破顔一笑。 あんなに大人っぽくてしっかりして見えた人が急に身近な男の子になる。胸がきゅうと締めつけられ、口の奥に甘さが染みて呼吸は止まる寸前だった。 「おう。これからよろしくな、さん」 自然な動作で差し出された左手には真っ白な包帯が巻かれていて、薄い影の中だと静かに光って見える。 テニスの試合前の握手みたい、なんて場違いな事を考えつつ、私はいつもの右手ではなく左の方をぎこちなく持ってゆき、この夏、準決勝までラケットを振るい続けたのであろう掌へそっと重ねた。 優しく、でも力強く握り締められるとすごく熱い。 長い指。大きな手。私や、白石君と同じくテニスをしている私の弟と妹のものより、ずっと分厚い感触。 彼の人となりを深く知る前に、彼の利き手に直に触れて思い知ったのだった。 ――これは夢じゃない。 ※ と言っても気軽に会える距離に住んでいるわけではなかったので、主な連絡手段は電話かメッセージかの二択、放課後に寄り道をしておしゃべり、だなんて天地が引っくり返っても有り得なかった。 自ら友達からでとお願いしたものの、これだけ離れた所にいる人と友達になる方法がまったくわからない。 第一、友達とはなろうねと言い合ってなるものなのか、根本的な疑問が沸いてどうしようもなくなり自滅しかける。 そうして戸惑い思い悩む度、優しい白石君に救われた。 気後れするほど頻繁にではなく、かといってもう気持ちが変わってしまったのかなと考え込んでしまう間はあかず、すごく紳士的な距離感を保ったまま私に知る機会をくれる。 本当に何でもない話や突発的な大阪弁ミニ講座に、今やっている授業内容と私の学校との違い、その日起きた面白い出来事と話題は多岐に渡り、白石君と‘先を見越した友達’を始めてから、私の日常は微かに変わり出した。 少しずつ覚えてゆく。 どんな声で話すのか、一日の内いつぐらいに連絡をするのが負担にならないのか、電話とメッセージ上での言葉づかいがどう違うのか、物柔らかな口調とイントネーション。 待ち合わせたり会って話す事が叶わぬ代わりに、画面上の返信をじっくり丁寧に読んだり、電話越しだと余計に印象深い声を気をつけて聞くようになった。 そうすると、彼の調子やどんな顔をしているのかがなんとなくわかる気がして、わけもなく嬉しかった。 白石君は時々、トーク画面へ写真を載せる事もあって、ほとんどが風景か物、自分が写っているものはなく加工もしておらず、シンプルそのものだ。人の性格ってこんなとこにも出るんだ、微笑ましいやら気恥ずかしいやら、一人で口角を緩ませる私の様子は不審者のそれだったと思う。 お返しに、というわけではないけど、中でも一番マシな映りのものを送信した私はといえば、風景のみを撮る事は滅多になく、大抵友達と一緒に映っているか友達がふざけて隠し撮りをしたピンショット、要するに人物が多かった。流石に悪ふざけの写真を送る勇気はなかったので、誰に見られても困らない、無難なものばかりを選んでみたり。他校の男の子と写真を送り合うなんて初めての経験で、ちょっと緊張した。 ほな自己紹介から始めよか。 夏以来初めての電話で軽やかに切り出されたのがきっかけで、大体のプロフィールはお互いに知っている。 完璧なる聖書の通り名に相応しく勉強もできて、志望校の判定がイマイチで柄にもなく落ち込んだ私がつい弱音を吐けば、小さな子だってすぐ理解するに違いない教え方でアドバイスしてくれた。 満足に会えないほど離れた場所に暮らしていなければ、こんな風にゆっくり知っていく事もきっとなかったろう。 晴れの日も雨の日も、くもりの日だって、電話越しの声は胸の奥まで澄んで響く。 大切にしなくちゃいけない事や気持ちは、多分、小指の先ほどもないスピーカーの向こう側、電波に乗ってこちらへ届くものしか知らない大阪にいる白石君が、浚ってくれているんだ。 「……で。返事はまだしてない、と」 人気のない自習室まで連れ出された放課後。 以前から成り行きと事の顛末を話してあった友達2人に、私は尋問されていた。 容疑者Aのような扱いに文句のひとつも言いたいところだったが、内容が白石君に関するものだとうまく言葉が繋がらない。 「イミわかんない」 「なんでまだ付き合ってないの? てかむしろ告られた時点で付き合わないのおかしくない?」 「だ、だってそんな…いい加減な気持ちで付き合うわけにいかな」 「はあ〜? 今のどっちつかずで友達なんだか違うんだかわかんない関係のがよーっぽどいい加減じゃん!」 歯に衣着せぬ物言いとはこれを言います、といっそ教壇で発表したくなる正論に刺されて呻く。 「さ、あんたからなんかしらの返事ないと白石くんは次いけないってわかってんの?」 「ほんとだよーその気がないならちゃんとフッてあげないとさー、あんだけのイケメンなんだから、絶対あの人のこと好きな子いっぱいいるよ」 「あと白石くんが可哀相だって。死ぬっほどモテるっぽいのに誰とのどんなチャンスも今んとこあんたのせいでスルーするしかないんだもん」 「…………その気がないなんて私話した覚えない」 「はい言ったじゃ今すぐ電話して返事しよ」 鞄の外ポケットに入れていた端末を見事な手さばきで盗られ、さっきまで白石君に返信していた所為でスリープモードになっていない画面を颯爽と弄られる。背筋が凍った。 「だめやめて! 自分で言う! でも今じゃないの!」 「えー煮えきらねー」 「白石くんのこと好きな女子に呪われるよ」 「……そんなの付き合ったって呪われるじゃない」 「たしかに」 「そこは否定してよ!」 「いーじゃん呪われたってさー白石君みたいな彼氏一瞬でもいいから欲しー」 「大丈夫。にイケメンの彼氏が出来てもそれで呪われても私らは友達でいるって。信じよう人類愛」 「全然説得力がない……」 茶化されて、いつも通り軽口を叩き合いながら、気持ちがあるのに付き合わない理由はなんだ、という2人の問いを思い出す。 (意地になってるのかな) ううん、少し違う。帰り道、また心の中で取って返した。 彼も私も曲りなりにも受験生、高校へ進学してもテニスを続ける予定らしい、日本代表に選ばれるような人の邪魔には絶対なりたくなかったし、やっぱり自分は軽いノリで、じゃあ付き合おっか、なんて口が裂けても言えるタイプではないのだ。白石君が相手だと思うと尚更、気楽に踏み込めなかった。 それが、とにかくひと通り何でもできて、苦手科目はないと答える学力を持ち、友達いわくイケメンで死ぬほどモテるっぽいすごい人だからか、ただ白石君という一人の男の子が特別だからなのか、今の自分には判断がつかない。 どっちもっていうのはアリかなあ、独りごちては、こんなあやふやなままで返事とかできるわけない、そんな資格ないよ、と自己嫌悪に押され部屋のベッドへ倒れ込む。 端的に言うと、私は多分困っている。 なのに嫌じゃないのがもっと困る。 十数年間慣れ親しんだ苗字でも、白石君に呼ばれるとまるで違ったものに聞こえた。 飽きたり想いが薄れたり、面倒くさくなったらすぐに終わらせられる電話が今でも続いているのは、生きた証拠みたいなものだ。遠距離の私たちの連絡手段なんてたかが知れている。白石君が一度でももういいやと断じてしまえば、あっけなく途切れるもの。 言葉そのものや甘くて優しい声音、簡単な文面にも潜むあたたかさ、限りある内の全てが私に語り掛ける。 ‘好きや。俺と付き合って欲しい’ 人から――白石君に好きだと思って貰えている、否定しても否定してもどうしたってそう感じてしまうから、息切れを覚えるほど心臓が高鳴って苦しい。 切ないような、込み上げる嬉しさで息が詰まるような、けれどずっと味わっていたいと願う自分もいて、本当にどうしたらいいのかわからなかった。 ベッドの隅へ放り出されたうらっ返しの連絡手段を、毛布に埋もれていない片目で見遣る。 電話をしてみようか。 たっぷり30分は悩んだ後でのろのろ起き上がった私は結局、勉強机へ向かいシャーペンを掴んだ。 煮えきらない、意気地なし、もったいないおばけが出る。 昼間の友達の声におびやかされながら、白石君から教えて貰った使いやすい参考書を開くのだった。 ※ ふ、ふっ、と不規則な吐息が白く弾む。 すっかり冬の化身となった空気に頬を打たれ、もちろん痛かったけれどそれどころじゃない。先生から頂戴したありがたいお褒めの言葉も、申し訳ないことにあまり耳に入らなかった。 濃い灰色のコンクリートを蹴って走る。 ほどけそうになるマフラーを必死に押さえ、通話が許されているエリアまで一直線だ。 葉を落とし寂しくなった木立を抜けると少々開けた広場へ出、適当なベンチに鞄を下ろした私は突っ立ったまま中身を漁った。硬くて冷たい感触が肌に引っ掛かるや否や取り出し素早く画面を開く。 どくどくがなる心臓がうるさい。深呼吸をくり返しなんとか落ち着かせたのち、震える指で電話をかけた。 長い間微妙な所をさ迷っていた志望校の判定が、今日初めて合格ラインをしっかり超えたのだ。長い夜がようやく明けた気分で喉元がうねってはしゃぐ。 一番に伝えたい相手なんて、今までたくさん助けて貰った人ひとりしか浮かばない。 凍りそうな耳に当てた端末は無機質な呼び出し音を奏でている。 1コール、出ない。 2回、まだ出ない。 3コール目、踵が跳ねそうになって我慢する。 4回目、口から心臓が飛び出しそう。 5回目の途中、掛け直した方がいいかも、息を吐いたと同時。 『…ッい、もしもし』 白石君! 呼ぼうとして何も出てこなかった。苗字の頭文字、し、の字さえろくに紡げない。ドキドキを通り越してドンッと胸を内側から叩くような鼓動に頭からつま先までを支配される。 だって最初の、は、を発音できていない、もしくは声に動作が追いついていないのは、白石君が急いで電話をとってくれた証だ。おまけにちょっと上擦っても聞こえてしまい、益々いてもたってもいられなくなる。 ほんの1,2秒の間だったが、電話の向こう側で白石君が首を傾げる気配がする。秋の深まりつつあった頃と違い、今度は想像じゃなく、確かに感じ取る事ができた。 『どないしたん、さんの方から電話なんて珍しいな。困るわ、明日雪降ったら朝の自主練中止せなあかん』 語尾に混じった微笑みが、存在しているはずの距離をゼロにする。この瞬間、電話をしている間だけは、私と白石君は隣でおしゃべりしているみたいだ。 ぐ、と喜びを飲み込んで返事を電波に乗せる。 「…そうだっけ。わたし電話したことなかった?」 『そやなぁ、ないことはないけど。大体は俺からやんか』 寒いのと緊張と高鳴りの所為で舌足らずになった。 白石君がまた笑ったので、私の発音の幼さが電話でもバレたのかもしれない。 「あ、あのね!」 『なに?』 「白石くんに言いたいことあって」 『ん…俺に? ……なんやろ、思いつかんわ』 「うん。あの、わたし白石君に、」 勉強の仕方とかどの参考書がいいかとか、他にもいっぱいアドバイスしてもらったお陰で、今日A判定の結果が出たの。 矢継ぎ早に言い連ねようとして、はたと思いとどまる。 呼吸が比較的静まってきたからだろう、耳で感じる白石君のいる場所の雰囲気が何かおかしいのだ。ざわついているというか、音の種類が多い。 気づいた瞬間、あっ、と勢いよく声が飛んでいきそうだった。 白石君、今スピーカーフォンになってない? 確認の為に冷え切った空気をすうと吸い込み、 『あーおった! なあなあ白石ぃ! なんでわざわざ外出て電話しとるん? 寒くないんかー!? 中に戻ってすればええやん!』 『アホ金ちゃんしーっ! しーっ! 今だけはそれやったらアカン、マジでしばかれんで!』 『ホラ金太郎さん! ケンヤくんの言う通り邪魔せんと、アタシ達と一緒に戻りまひょ!』 『ええーなんで今聞いたらアカンのん? 後やったらええんか! ん? 後ていつ?』 ノイズが入って聞き取りにくい部分もあったけど、大体はこんな感じの会話で間違っていないと思う。 入れ代わり立ち代わり、色んな男の子の声が一気に来て一気に去っていった。音に聞く騒がしさ――白石君はやかましくてかなわんと言っていた、嵐めいた音の洪水である。 呆気に取られていると、深い深い溜め息が鼓膜を押してくる。 『……聞こえたしもた? 今の』 「えっと…ごめんなさい」 『いや、ええ。君が謝るとこちゃう…て、俺前にも似たような事言ったな』 話している内、スピーカーフォンになっている事に気づいて直したのだろう、四天宝寺中の心地好い雑然とした感じが薄れ、白石君の声がよりクリアになった。 息遣いの近さは、せっかく落ち着きを取り戻しつつあった心臓に高熱を注ぐ。 察するに、白石君は部のみんなといた室内から急いで外へ出、私の電話を取ってくれたのだ。 下睫毛の上辺りが潤んで熱い。堪えようとすればするだけ、涙のつぶが震えて零れそうだった。今日一番の速さを刻む脈拍でもう息ができない。絶え絶えに、舌を動かす。 「………ごめんね、そ、外まで、出させちゃって」 『はは、どういう謝り方やねん。それにそっちかて外で話しとるやろ。お互い様や』 私の方は普通の電話だったはずなのに、ものの見事言い当てられてびっくりした。 弾みで目に溜まっていた雫も吹っ飛んでいく。 「えっ! 当たり。なんでわかったの?」 『声と音でなんとなく、やな。そこ寒ないか? 無理せんとどっかあったかいとこ入り』 体の真ん中、胸の奥へと温もりが差し込み、いよいよ本格的に言葉に詰まる。 新幹線でも数時間かかる距離。 当然走ってなんていけない、それほど離れていても白石君が近かった。 私と同じように、電話越しの声を頼りにしている。少しずつ知って、わかっていく。どちらか一方が止めてしまえば途切れるだろう、神さまが気まぐれみたいに繋げてくれた縁を、ずっと大事にしてきた。 迷いが確信に変わり、ぼやけていた輪郭が色鮮やかに輝き出す。 私の特別はとっくに決まっていたんだ。 (白石君) 『そんで…何? 俺に言いたい事て』 どこか落ち着かない風に低い声が揺れ、私はたまらなくなった。うう、と変な唸り声まで上げかけてしまい、慌てて押さえつける。 逸る気持ちを堪えに堪え判定結果の報告と心からのお礼をしたら、白石君はまるで自分の事として扱うよう、本当に嬉しそうにお祝いしてくれた。 良かったなぁ、春からは立派な高校生やん、あ俺もやけど、あかん完全おじさんのコメントや、聞かんかった事にして。 楽しげに笑いながら朗々と続けて、ふと思いついたらしい。 『けどその為だけにわざわざ電話くれたん? 俺の落し物ん時といい、自分ほんま律儀やな。うちの部員らにも見習って欲しいわ』 感心感心、言わんばかりの物言いへ否と突きつける。ほとんど衝動的にだった。 「ううん。違うよ。律儀じゃないし、最近は迷ってばっかだったよ。白石君のお財布と学生証の時は……うん、多分考える前に走っちゃうタイプだったんだ」 『お、なんや意味深な言い方すんねんな。今は真っ先に走るタイプと違うん?』 「わかんない、どうだろう。まちまちな気もするな」 『ケースバイケースっちゅうヤツか』 「うん、多分。……白石君、あの、今日の電話ね」 『うん? 電話?』 小さな子供を相手にしているような、穏やかで軽やかな口調も声の響き方も含めて、私は白石君とする電話やメッセージでのやり取り全部がとても大切で、すごく好き。もっと早く気づけばよかった。 「一番に言いたくてついしちゃった。伝えたい人、白石君しか思い浮ばなかったの」 白石君が電話口で黙った。 えっ、と私に聞き返そうとしたのが、電話だからこそ拾える微かな息の音でわかった。 冬の風が耳を打つ。スピーカーからのと実際に吹きつけてくるものの両方が、体の中にある熱を際立たせてやまない。 『そか。…それは…………おおきに。えーと……喜んでええんかな? 俺、えらい都合のいい勘違いしそうなんやけど、今』 いつもの白石君らしからぬたどたどしい声に合わせて、行った事のない大阪の風景が頭の中に広がる。 毎日歩く通学路、四天宝寺中の校門、テニスコートに教室。 ご両親とお姉さんと妹さんと暮らしている、白石君の家。美味しいタコヤキのお店と、帰りによく立ち寄る本屋さん。 夏祭りの神社、初詣の時の骨に染み入る、寒々とした景色。 知らないのに知っている。 他の誰でもない白石君が話してくれた事だから、こんなにも鮮明に思い描き、辿ってゆけるのだ。 『……言いたい事、もう終いか? 続きがあるんやったら言うてや。俺ももっかい言いたい』 あなたはとても遠い人。 だけど近くに感じる時もある。 電話じゃなきゃ得られなかった感覚を私はいつの間にか頼りにしていて、大事に握り締めてきたのかもしれない。 電話越しでも気持ちは伝わるかな? 私が白石君をいつも感じ取っていたみたいに。そうだといいな。そうだったら、すっごく嬉しい。私たちの間には距離がない、何よりのしるしになるから。 「白石君。私、白石君の事が――」 |