It's my rule 毎年、国民の祝日か何かと勘違いしそうになる。 私は幼稚舎や小等部からの持ち上がりではなく、中学一年時に編入した身なので以前がどうだったのか生憎知らないのだが、直接見ていなくとも想像は出来た。この人がいればアメリカだろうがブラジルだろうが南極だろうが、全く同じ雰囲気になるのだろう。 黒板の日付は10月4日。 跡部君の誕生日だ。 単なる平日でもその場にいるだけでよくわからない空気にしてしまう彼の生誕したおめでたい日と来たら、それはまあ当然至極大騒ぎする方向に流れる。 朝っぱらから登下校の道でも昇降口でも廊下でも教室でも、その名を耳にしない時間がないほどだった。 女の子の色めきたつ可愛らしい囁き、呆れた様子で、でもあいつならしょうがねえ、と認めたような男子達の会話、バレンタインやクリスマス以上に浮かれた空気が性別年齢問わず、学校中に広まっている。 あえて聞き耳を立てるなど無粋な真似はしないけれど、みんながどんな話に花を咲かせているのかくらい簡単にわかった。 渦中の彼とはクラスメイトにすらなった事のない私はというと、誕生日が日曜だったらどうするんだろう、テニス部の練習に登校している所へ集まるのかな、等と完全に第三者の立場でのんびり考えたりしている。 跡部君率いるテニス部が全国大会へ出場するのが決まった時もそうだけれど、彼が関わるとこの学校はどことなく浮ついた雰囲気に包まれるのだ。 それでいて何故かまとまっており、熱っぽくもある。 他の学校の子が実際目しにたら、何これ宗教? と言うに違いない。 氷帝生の私でもたまにそう思う。たまに、なあたりが染まっている証拠だ。麻痺しつつある自分が怖い。 「なんかさあ、あんたって冷静じゃない?」 「なにが?」 朝どころか昼過ぎまでお祭り騒ぎの校舎内、カフェテリアで一緒にご飯を食べていた友達が、真面目くさった顔つきで切り出した。 「あたしがあんたの事よく知らなかったら、ほんとは興味あるのに強がってるーとか感じわるーいとか言えるんだけど、マジでそうじゃないからね」 「いや強がってないし」 「知ってるって。だから言ったんだよ、冷静だなあって」 「別にみんなが浮かれてるとは思ってないよ?」 「それも知ってる。ねえ、跡部君のこと嫌いなの? ほんとに興味なし?」 話がわりと飛躍しているのだが、彼女は気づいていないのだろうか。 「ふつうにおめでとうって思ってるけど。心の中で」 「の心の中見えにくー」 「丸見えだったらイヤだ」 「なにもあげないの? プレゼントとか」 「………なにをあげるっていうのよ」 「えー! それ考えんのが楽しいんじゃんよー」 「私跡部君と友達でもなんでもないし。っていうかおんなじクラスになった事すらないし。そんな相手からいきなりどうぞって渡されても困んない?」 「あのねえ、よく考えな、あの跡部君だよ」 「……いや…まあ……あの人は困らないかもしんないけど…」 「受け取るよねーお礼とか律儀に言いながらさ。だってみんな、そういう跡部様が好きなんだもんね」 それはなんとなく理解出来る。 常に王様殿様跡部様、くらいの態度でいる割に、彼は人に対して礼を欠いた真似をしない。 口調は少し乱暴かもしれないが言葉の表す意味自体はそうきついものでなく、関わる機会が少ないはずの下級生にも結構親切なのだ。 相手が女子となれば最低限以上の対応をし、免疫のない子なら一晩舞い上がるであろう優しさを振り撒く。 物腰柔らかな、といった類いではない、しかしどういうわけか彼を見ていると優しい以外の表現を思いつかないのだから不思議である。 「だからあんま深く考えないで、おめでとーこれあげるーみたいなノリで渡せばいいよ。向こうだって同じ感じで流すって。そこに嘘じゃないお礼も加わるんだよ? 今行かないでいつ行くのって話じゃん」 「なんかこの話、私は跡部君に何をあげるか迷ったあげく諦めた、みたいな前提ありきで進んでない?」 「うんじゃあ回りくどいのやめる! プレゼント渡したいんだけど一人じゃやだから一緒に来て!」 「……本題はそっちか」 お母さんが綺麗に焼いてくれた玉子焼きを箸でつまみながら軽く溜め息をつくと、えへへと緩んだ笑顔が寄越された。 正直な事は美徳だ、責めるべき点ではないと私は思う。 「いいけど、直接はやだよ。付き添いの私が手ぶらだったら超気まずいから」 「うんわかってる。どっちみち下駄箱かロッカーにしようと思ってたんだ。入れるのに付き合ってくれればそんでいいよ」 表面に無数の雫が走るアイスティーのカップを握った友達は、尖らせた唇でストローを吸う。 ざわつくフロアでは、跡部君の名称も空中に溶けて消えてしまった。 からからと氷を揺する音と共に会話は続く。 「ていうか、跡部君とは知り合いでも何でもありませんみたいなこと言ってたけどさ、あるじゃん面識。話だってしたことあるくせにさあ」 舌の上で甘い玉子焼きをゆっくりと味わっていたおかげで返答は数秒遅れたが、投げ掛けられた言葉はまったくもって正しい。 二年の頃、生徒会書記に当選した彼女の手伝いをした事が何度かあり、跡部君とはその時に初めてまともな会話をしたのだ。 「ちょっと、私が抜け駆けしたみたいな言い方しないでってば。大体、仕事が終わらなくて泣きついてきたのはそっちでしょ?」 「だってあん時はびっくりするくらい忙しかったんだもん」 膨大な生徒数を誇る我が校の行事や会議の諸々が重なったのと同時に所属していた女子バスケ部の次期部長となった才気溢るる彼女は、書記の仕事と部の引き継ぎとで大変な状況に陥っていた。 定期テストまで加わればそれはもう地獄の形相、寝ていません疲れていますと顔どころか体全体に書かれ始めてしまったのを見るに見かねて手伝いを申し出、書類の整理や冊子作り、プリントのコピーなどの雑用をひっそりこっそり内緒でこなし、全方向に等しく目を光らせている跡部会長に案の定見つかったのである。 何してる、とあのお声で問われた時は、私の人生が終わったかと思った。 無駄だとわかっていても、手にした書類を背後ろに隠し、肩を縮こまらせた感覚は今でも鮮明に覚えている。 庇ってくれるはずの書記を務める彼女はおらず、私一人が空き教室で作業をしていた瞬間だったのは運が悪いとしか言い様がない。 お前、か。 第二声で名前を言い当てられ、目を丸くした。 どうして知っているのか疑問を口にするより早く、彼は唇の片端を綺麗に上げて笑い、うちの書記が迷惑かけるな、と言い放つ。 もう、言葉もない。 キングはキングと呼ばれるだけの理由があったと心の底にまで刻まれた出来事であった。 「話だったら、あんたの方がした事あるでしょう。同じ生徒会だったんだから面識だってありまくりじゃん」 「会話ったってほんとのほんとに用件だけだったんだよー! 指示とかそれの報告とかさあ。別に仲良くなりたくて生徒会入ったわけじゃないけど、接点多いあたしより普通の会話した回数多いってなんかずるい」 「一時期だけね」 「その一時期が欲しくてみんな頑張ってんだっつーの! 夜道に気をつけな!」 「やめてよ、ありそうで怖い」 「跡部君に近づかないで。あんたよりずっと前から好きだった子とかいるんだからね。何様のつもり。調子乗ってんじゃねえよ。……みたいな?」 「漫画みたい」 「跡部君自体がもう漫画だからね」 ふざけて笑い合うと、益々彼という人が現実から遠ざかるような気がする。 確かに同学校の同学年に在籍しているのだがとてつもなく遠い。芸能人のようなものだ。 私にとっての跡部君とは、まるで現実味のない雲の上の存在だった。 だからだろうか、二年の秋に言葉を交わした日々は短かったというのに今となっては長く感じられ、同時に夢のように淡くて掴めない記憶として残っている。 跡部君に叱られたと半泣きで告げる友達と、本当に大変そうだったから可哀相で一応フォローを入れてみた私と、能力以上の事を一人で抱えようとするからだ馬鹿が、言って取り合わない跡部君。それでも見捨てたり、使えねえなどと悪口を言ったりはしなかった。 そんな暇はないだろうに、時たま手が空いたからといって私が貰ってきた仕事を手伝ってくれた。 傾き始めた日の差す教室内で、黙々と日付順にプリントを並べる時の微かな物音。 薄く透ける茶色の髪。 制服のシャツがじんわり朱に染まる。角度を違えば眩しくすらあった。 ファンの子に見つかったら大目玉だと自覚しながら、五回に一回は目の前の綺麗な人を盗み見たりする。 小さいとはいえ仕事中、沈黙を保つかと思いきや、跡部君は時々乱暴な軽口を叩いた。 お前もお前だ、何が楽しくてくだらねえ雑用引き受けてんだよ。 楽しくはないけど、誰かがやらないと終わらないじゃない。 お前が進んでやる事でもないだろうが。 まーそうなんだけど、なんかほんとに大変そうだったから見てらんなくて。 わざわざ面倒背負い込んでんじゃねえよ、バーカ。 笑みの混ざった罵り文句はちっとも怖くない。 跡部君のやわらいだ頬につられて、私も肩の力を抜いたのだ。 英単語の小テストで、二問しか間違えなかったのを喜んでいたら満点の答案を堂々見せつけられた。 苦手な教科を聞かれたので答えれば、ダセエ、と鼻で笑われる。 テニス部の応援はいつも壮観だと述べると、お前も混ざるか、なんてあからさまにからかってきた。 初会話をしたのが跡部君の誕生日の後だったから、すごかったねと率直な感想を伝え、見事鮮やかな一笑の内に流される。当然だ、か、別にすごくねえだろ、どちらの意味なのか判断にとても困った。 生徒会の仕事と部活の雑事の両方が軌道に乗り、新しい生活のリズムに彼女が慣れ始め、そろそろ私の手も必要でなくなったかなと一息ついた頃、ご苦労だったなと言わんばかりに自販機でジュースを奢って貰った事もある。 私はいちご牛乳で、彼はコーヒーを飲み、中学生離れした気遣いと選択に感嘆しながら立ち話をした。 それが跡部君と一番近かった時期の、最後の記憶だ。 コツを掴んだ彼女は一度に色んな事をこなせるようになり、私へ謝罪と感謝を重ねてから残り半分を切った中学生活へと邁進する。 跡部君にちゃんと謝ったら許してくれたよ。 次からは気をつけろ、他人の手をわずらわせるくらいならハナっから引き受けるな、って怒られたけど。 はにかむ彼女はどことなく嬉しそうだったので跡部君の事が好きなんだなあと思っていたら、三年生にあがる前、しれっと彼氏を作り私を仰天させた。 みんな大好き跡部様の事は、憧れでしかなく実際どうこうなりたいという願望はないらしい。 ちなみに例の彼氏とはその三ヶ月後に別れ、今現在は跡部君にきゃあきゃあ言いながら本当に好きになれる人、とやら探しの真っ最中である。女の子のたくましさはすごい。 そうして彼女がしっかり一人立ちすると私と彼の接点は途切れ、話どころか顔を合わせる機会さえも急速に失せていった。 冬が来て、雪の降った日は練習どうしてるのかな、とシートに覆われたテニスコートを眺めた。 春が訪れ、己の限界を知った友達は生徒会立候補を諦め、部活一本に気力活力を絞った。 跡部君は三年生になっても生徒会長であり続け、新生徒会の選挙が終わった今でも引き継ぎの為だろうか、生徒会室へ度々顔を出しているようだ。 輝かしい夏は過ぎ、足元から秋が忍び寄って、再びの冬を前に感慨深くなったりしている。 来年の今頃は高校生だ、なんてあまり信じられない。 「でもマジ、部活ないと暇なんだよねえ。毎日やってた事をいきなりやめろって言われると困るっていうか」 気だるげに机へと肘をついた彼女の顔を見、今は遠い跡部君を思い出した。 引退もなんのその、関係なしに彼は忙しそうだが、移り変わる季節をぼんやり見送った時に寂しくなる事はないのだろうか。 想像するそばから、俺様を誰だと思ってやがる、自信に満ち溢れた声が脳内で自動再生される。 自分で考えておきながらちょっと面白くなった私は吹き出し、燃え尽き症候群にかかった友達に怪訝な瞳を投げ寄越された。 うだる熱の去った秋、失ってしまった何かを埋めたい気持ちも含めながら、特別な人の特別な日に駆け寄って皆夢中で騒いでいるのかもしれないな、と思う。 跡部君は、氷帝になくてはならない人だ。 人気の少ない時間を狙い、本人の意思により無記名のまま丁寧にラッピングされた包みを彼の人のロッカーへ届け、無事に目的を果たした放課後。 やはり行かずにはいられないのか、ちょっと部活に顔出してくる、言う友達と昇降口前の階段で別れた。私は本を返却する為に図書室へ向かい、帰りの足で驚くべき偶然と出くわす。 「よう」 「うん」 図書室と同じ階にある生徒会室から、ちょうど跡部君が出てきた所だった。 通りがかりの私はわけもなく歩みを止め、すっかり停止してからやめておけば良かったと後悔する。 彼の左手はポケットへ突っ込まれ、右手には大小様々なプレゼントを収納した大きな紙袋。 尋ねるまでもなく、誕生日の贈り物だろう。 彼が受け取った好意が袋一つに留まるはずがない、どこか別の部屋か、もしかしたら部室にでも仕舞っているのかもしれない。 体育館で後輩に指導する友達へ向けて、これじゃあ贈り主は私ですって記名しても大丈夫だったんじゃないの、胸の内で声をかけたが届くはずもなかった。 忙しいはずの跡部君は悠々とこちらへ歩き、少しびっくりした私は背筋を伸ばす。 「お前、なんで残ってんだ。またくだらねえ雑用押し付けられてんじゃねえだろうなァ?」 語尾が上がる変わらぬ彼独特の調子のおかげで、張り詰めていた全身の筋肉が一瞬でゆるんだ。 若干、いや時にはほとんどヤクザさんのそれと化するのに、不快感を抱かず何かと落ち着いてしまうのはどうしてだろう。 彼との間にあった距離は着実に狭まり、ついに歩幅一歩分しかない位置にまで来た影を見上げた私はふいに違和感を抱く。 すぐには原因がわからず、探ろうとまじまじ視線を向けていたらば、 「なんだよ」 当たり前と言える応答により押し返された。 なんだろうね、ふざけた返しをするすんでのところであっと一息もらしかけ、彼の瞳が益々訝しげに揺らいだが、私は効率良く伝えられるほど器用じゃない。 背だ。 またしても声にはしない言葉を紡ぐ。 跡部君の身長が何センチか明確な数字は知らないけれど、二年生の記憶よりもぐっと高くなっている。 ひょっとすると縦のほうは急成長したわけでないのかもわからないが、体つきと鍛えられた腕や肩の所為で大きく映るのだろう。 別段背が低くない私でもつい仰いでしまってなんとなく首が痛い。 「跡部君、背伸びたね?」 「……あぁ?」 とんだ阿呆かといった眼差しで見下ろされたので、慌てて付け足した。 「あ、あのね、二年の時より大きくなったなって。ほら、私はあれ以来跡部君と近くで話す事なかったからわかんなくて、今気がついた」 「そりゃ、随分と今更だな」 鼻で笑う仕草は一年前と変わらないけれども、彼がそこかしこで纏っている雰囲気は一段と大人びている。 あらためて、これではみんなが大騒ぎするのも仕方なし、との判断に至った。 「だって遠くからしか見てないし、わからないよ」 「誰が遠くから見てろと言ったんだ」 「言われてないけど」 「お前の背が縮んだんじゃねーの」 「縮んでねーです」 ふざけんな、とのツッコミを頂戴して肩にかけた鞄を抱え直す。 先に脱線したのはそっちのくせに。 思ったけれど、跡部君がお世辞でも朗らかとは言えないにしろ笑顔でいたから口にはしない。 目の前に立つ人の手元でがさりと鳴った紙袋へ自然と目がいき、態勢を立て直すついでに少しだけ緊張しながら言祝ぎを呟いた。 「誕生日おめでとう」 「ああ、ありがとよ」 反して跡部君は涼しい顔だ。 きっと朝から言われ続けて、最早慣れ親しんだ言葉なのだろう。 それでも礼節を忘れないところが、皆の羨望や憧れを集める理由の一つと思われる。 「去年もだけど、今年もまたすごいね」 言葉もなく何がだ、と問われた。 器用な事に片方の眉だけが上がっている。 「跡部君が右手に持ってるの」 不特定多数の人が差し出す好意を遍く許容し、返礼も欠かさぬ彼は様付けされるのに相応しい人物だが、もし私だったらと考えれば身が竦む。 膨大過ぎる誰かの気持ちは、私のような凡人にとって些か荷が重いのだ。 しばしば感じる精神的な距離を測っている最中に、跡部君がフンと鼻を鳴らした。 「お前こそ去年と同じ、代わり映えしねえ感想だな」 「代わり映えしない量のプレゼントを貰う跡部君がすごいんだと思います」 中学最後の年というのを加味すれば、むしろ去年より増えているかもしれない。 留まる事を知らない人気面での進化が空恐ろしかった。この調子でいくと成人式を迎えている頃には一体全体どういう状況になるのか、非常に興味深い予想である。 ふと一呼吸を整え、先程までの傍観者じみた感覚がなくなっている事に気が付いた。 どことなく寂しげだった友達に引き摺られたのか、普段はかけら程も姿を現さないナイーブな面が無意識の内に出てきていたらしい、去年の10月をやたら懐かしく振り返ったのもその為だろう。 数ヵ月後に迫る高校入学や夏前までの景色とは変化した日々は少なからず私に遠い未来を想像させたようだ。 跡部君のいない学校。 或いは彼の活躍の余韻が平らになった日常。 更にその先を進めば、同級生というささやか過ぎる関わりすらなくなってしまう十年後。 これだけ鮮やか且つ強烈にイメージを植えつけていく人と一時でも言葉を交わした経験は、のちのちの人生に多大な影響を与えそうでちょっと怖い。 大人になれば、おかしくなった基準をきちんと元に戻せるのか。 そういったややこしい諸々が、跡部君と会話を重ねるにつれ失せていく。 体ばかりか心の中身にまで差していた物憂げな秋の日がより強い光に掻き消され、ぼんやりと考え事に耽る余裕は姿を隠し、全ては足の裏が浮き立つような感触へと変わる。 穏やかに静まりかえっていた心中が、にわかに騒がしくなる。 なんと言うべきか、うるさいというより騒々しいというより、賑やかだ。 一人ではしゃいで馬鹿みたいだと思う反面、ああ、これかあ、と純粋に納得をした。 みんなが跡部君を好きな理由。 そうでもない人からもなんだかんだ注目を集めてしまい、あらゆる意味で尊敬の念を抱かれる訳。 などと一番しっくりくる表現を思いつき、悦に入っていた私は完全な不意打ちを食らった。 「お前のはねえの」 「えっ」 紙袋を軽く顎で指した跡部君に、何をどう言われたのかさえもすぐには理解出来なかった。 悪い笑顔に強い口調を加えた彼は、にやり、が似合うやり方で唇の端を上げる。 「なるほど、テメエの一言にはプレゼントと同等の価値があると言いたいわけか」 瞬間どうしてか、覚悟は出来てんだろうなぁ、みたいな台詞が脳裏を過ぎった。ヤクザさんのお目見えである。 ようやっと発言の意図に思考を向けた私は、まずブレザーのポケットに勢い良く手を当てて何かが入っていないか確認したが、あるはずもない。 手ぶらだったら超気まずいから。 昼休みに友達へ告げた己の声がフラッシュバックし、目立つ姿についつい足を止めてしまった過ちを悔いた。ノープラン、ここに極まれり。 次いで肩から掛けていた鞄の中を慌てて捜索すると、教科書やノートに埋もれながらも何日か前にコンビニで買ったポップキャンディの袋がちらりと視界に映りこむ。 パッケージは無論、可愛らしく舌を出したペコちゃん。 目の前で堂々立つ人とあまりにも不釣合い、似つかわしくない組み合わせに躊躇しつつ二、三度袋と跡部君を見比べて、 「……ごめん、飴しかない……」 一切の工夫も遠慮もなく懺悔した。 輝かしい功績や圧倒される数の好意を寄せられる立派な元生徒会長と対面しておきながら、飴しかない、である。 冷や汗の一つや二つ掻いたって当然だ。 いやそもそも汗を一つ二つとカウントいいのか。違う違う、そんなの考えてる場合じゃない。 思考回路の暴走をどうにか嗜め、焦る掌でペコちゃんが歪むほどの強さで引っ掴み、忙しなく回転する口と舌を必死に動かした。 「あ、あ、あの、こんなので良かったらどうぞ。あっ何味が好き? 何種類かあるんだよ、オレンジとグレープと」 数え上げていく内に一個しか渡さないのもおかしい、ここは全種類差し出すべきだと結論付け、静寂に包まれる廊下には充分騒音であろう騒がしさと共に袋を漁ってとりどりのキャンディを掬い上げる。 上下の向きを揃えてからなるべくまとめた形で手に持ち掲げると、跡部君は両の瞳をまん丸にしてこちらを見ていた。 非常に場違いであるが、びっくりしている表情はちょっと可愛いなと思う。 しかし流石はテニス部200人の上に君臨していた御方、すぐさま態勢を立て直し怖いくらいの真顔になる。 無言の内から既にすみませんでしたと言いそうになった。 「」 「……はい」 「お前、俺をいくつだと思ってやがる」 「じゅ、15歳…」 「ああそうだな、お前も知っての通り、今日で15だ」 めでたく15回目の誕生日を迎えた中学生男子、そしてよりにもよって跡部君にペコちゃん。 やばい。 本格的に夜道に気をつけた方がいいかもしれない。 「ごめんなさい、やっぱりいらな」 「が、しょうがねえ。貰っといてやるよ」 しっかり最後まで言い終える前に、かぶさってきた声音で何もかもが塗り替えられた。 下がりつつあった腕と指から掠め取られたかのよう、掴んでいたものの感触が消える。 驚いた拍子に顔と目線を走らせると、私の捧げた精一杯の贈り物の行方はたくさんのプレゼントで溢れそうな紙袋にではなく、先刻まで跡部君の左手が入っていたズボンのポケットだった。 それなりにカラフルなキャンディはしなやかに仕舞われて、一連の動作をこなす為にどう見ても学校指定じゃない高そうなセーターがたわみ、周辺の部分に皺が寄っている。 渡せる物がないかと慌てていた時と違う意味で焦った。 「い、いいの? 跡部君、それ飴だよ? ふつうにコンビニで売ってる、ただの飴だよ?」 「飴以外の何に見えんだよ。お前、俺を馬鹿だと思ってんのか?」 「お、思ってない思ってない!」 急いでかぶりを振れば追従した髪の毛が左右に散らばる。 と、跡部君は今までの悪人めいた表情を一変させ、目を細めながらやわらかく微笑んだ。 「まあそうだな。馬鹿はむしろ、お前の方だ」 残念だが否定出来ない。 差し出しっ放しの手を下ろし、鞄のチャックを閉めて口を開く。 「うん、自分でもそう思う…。次の誕生日はもうちょっと考える」 「あ?」 「え?」 心からの懺悔と反省だったのだが、何かおかしな事を言っただろうか。 驚くというより半ば呆れた面持ちの彼は、微妙に眉間へ皺を作り言い切った。 「……お前、やっぱ馬鹿だろ」 「え、うん。ごめんね」 「意味わかって言ってんのかよ」 「頭悪いってことでしょ?」 「そっちじゃねえこのうすらバカ」 跡部君はチ、と忌々しげに舌打ちをし、それから何事かを堪えるように下を向いたと思えば、ほんの数秒で持ち上げる。 窓から振る光が色素の薄い髪の毛を壁の白色へと溶かし込む。瞳にはほのかな灯火が宿る。 。 真っ直ぐな視線と声に名を呼ばれ、うろたえた私はみっともなくどもった。 は、はい。 合ってるって事にしてやる。 と告げる顔つきはどこかに優しい色合いを隠している。 「もうちょっと考える、な。馬鹿は馬鹿なりに正しい時もあるんだろうよ。理解は出来ねえがな」 「う、うん……?」 「バーカ、腑抜けた返事してんじゃねえ」 「はい、頑張って考えます」 「そうしてくれ」 短い返答の直後にまたしても真顔へ戻った彼が、私背後ろにある階段の方向にと一歩踏み出した。 不機嫌そうに固まった頬や眉間、愛想のなくなった両目に身を竦ませた所へ、じゃあな、さっさと帰れ、と有り難いお言葉が降りかかる。 すぐ横を通り抜けていった人を追う為捻らせた首で見遣ると、広く硬そうな背中がだんだんと遠ざかっていく所だった。 別れの言葉を返すべきか迷ったが、もし万が一お怒りの場合無視でもされたらショックなので結局黙ったままで送る。 重たく膨れた紙袋と相変わらず手首から先が突っ込まれたポケットを交互に見、溶けるかもしれないから飴も袋に入れた方がいいよって言えばよかった、なんて小さいにも程がある反省をした。 さっきのやり取りだけで何ヶ月か分の馬鹿を頂戴した気がしたが、なんといっても今日は10月4日。 祝うべき日に水を差すなんてとんでもない。 再び同じ言葉をこっそり呟く。 たくさんの心の中から悉く寂しさを打ち払う、氷帝になくてはならぬたった一人のキングへ敬意と尊敬の念をこめて。 「跡部君、誕生日おめでとう」 それから幾日も経たぬ間に、あの跡部がロリポップを口にしていた、自分で買ったわけじゃないだろう、一体誰があげたんだ、それよりも似合わねえ、つーか何キッカケで食おうと思ったんだよ、といった主に元テニス部発信源である噂が全校を凄まじいスピードで駆け巡り、跡部様の誕生日にペコちゃんのポップキャンディをあげました、などと白状する勇気のない私は背筋に冷たい汗をかきながらただただ戦慄した。 面識はないのだけれど体育の合同授業で一緒になった向日君が、跡部のヤツ最近すげーぼけっとしてる時あんだぜ、変なもんでも食ったんじゃねえの、などとクラスメイトらしき男子と話しているのを聞いてしまい、もしや私の渡したものに何か混入していたのかと真剣に恐れて焦ったが、その日の放課後に昇降口で渦中の人と鉢合わせた際に馬鹿馬鹿連呼されたので杞憂だと知る。 おそらく初体験であろう大量生産された飴の感想をついでに尋ねてみれば、味がわかんねえと返って来、育ちが違うってすごいなと思った。 あっけなく忘れ去られるものと考えていた噂は絶えない。 似合わないと評されてもなんのその、跡部君は時折キャンディを味わっているようだ。 気に入って貰えたのなら嬉しいし、そういう庶民寄りになった彼を想像するのはちょっと楽しかった。いつか機会があったら、どの味が好きか聞いてみたい。 しかし、頭の中で浮かべる跡部君は例の悪い顔で笑う。 何、俺に聞いてんだ。いいからもうちょっと考えてみろよ、バーカ。 |