やさしい王様




――九月。
密度の濃い嵐のような夏は終わった。暦の上では秋に分類されるとはいえ、クーラーを稼動させなければ些か辛いものがある。
夏休み明け、だらける暇もなく海原祭の準備が始まろうとしていた。
クラスの出し物を何にするか話し合いが始まったばかりで放課後残る生徒の姿もそう見かけない中、昼間より柔らかくなった日差しに照らされた廊下を歩く。
野球部だろうか、遠くからランニングの掛け声がかすかに届いた。三年生の夏は過ぎ去ったけれど、一、二年生の真夏はまだ続くのだ。
応援したい気持ちと羨むような感情とが混ざり合い、私の唇は重く閉ざされたままだった。
部外者の心境がこれだけ複雑になるのであれば、実際直面し悔しさと痛みを味わった人の胸中は如何ばかりか。想像もつかない。
立海大附属中男子テニス部は16年連続関東大会優勝も、全国大会三連覇も、そのどちらとも達成する事が出来なかった。
元々自己を律するだとか常勝を掲げて試合に挑むだとかそういった厳しい世界に縁がなく、能天気に何も考えず日々を過ごしてきた私ではあるものの流石に以前のような

『全国決勝まで行っただけすごいんじゃないの? おめでとう』

などといった軽い感想は抱けない。
声をかけようとして、メッセージを打とうと画面を見遣り、いつもあの一瞬が即座に思い浮かぶ。
雨の病院。
静かな廊下で、時間が止まったかと錯覚した。声が出てこないどころか、呼吸すら上手に出来ていなかった。
幸村くんのあんな表情を目にしたのは、後にも先にも一回きりだ。
ずっと遠くまで見透かす強い眼差しに当てられて、言いたいことの全てが泡と消えてしまって以来、いまだ戻ってきていない。
七月と九月の席替えで私と幸村くんの席は近くにならなかったので、あれから以降お見舞いに行く事はなく、話をしたのは始業式の日に返しそびれていたタオルを渡した時だけだった。

「会場そこまで遠くないし、中学最後の夏なんだから、応援に行こうよ」

そんな友達の誘いで全国大会決勝戦だけは見に行っていたから、話しかける切っ掛けが見つからなければ掴みはこれでいこうと前日の夜に決意していたにも関わらず、いざ本人を目の前にするとやはり萎縮して気持ちが挫ける。
勝とうが負けようが幸村くんは幸村くんだったし、おつかれーとか退院おめでとーとか声をかけてくるクラスメイトにも普通に応対して、ありがとう、なんて穏やかな微笑みまでおまけにつけていたのだが、私はなんとなくその輪の中に入れなかった。
これで席が近かったらなんとかなったかもしれないのに、と天に恨み言を呟いても自分自身に意気地がなければ意味がない。
悶々としたまま担任教諭の話を聞き、LHRが終わりクラスの皆がばらばらと帰り支度を始める中、全体から一歩先んじる形で教室から出て行った背中を追いかける。
勢いが大事だ、こういうのは。
緊張で震える胸に必死で酸素を送り、名を呼ぶとあっけなく振り返られた。
どうしたの。
久しぶり、とは言われなかった。予想していた反応と微妙に違う所為で第一声が挙動不審になる。あの、ありがとう、タオル。遅くなってごめん、返すの。間抜けな片言喋りにも、彼は茶化さず真摯に対応してくれた。ああ、そういえば貸していたね。わざわざありがとう。
笑う表情はあくまでたおやかだ。
言え、ここで言えなかったらいつになるかわからない。
覚悟を決めて口を開いたと同時に、低く力強い声が幸村と唸るように響いた。真田くんだ。今行く、後ろからの呼びかけに軽く振り向いて答えた人が、今度は私の方に向き合って言う。
じゃあまた明日、
うん、以外に返すべき言葉などあっただろうか。少なくともその時の私は持ち合わせていなかった。
考えてきた台詞を頭の中で何度も繰り返した作業は水泡に帰し、振り絞った勇気は力んだ甲斐もなく小さく萎んだ。また明日と返されただけ良かった、と自分を慰めてみても気持ちは晴れてくれなかった。
何かと校内の話題を掻っ攫う彼がテニス部に復帰した後、それまで緘口令でも敷かれていたかの如く聞こえて来なかった話がちらほら耳に入ってくる。
幸村くんの病はあまり症例がないものだった事。
症状が酷い時は会話や呼吸も困難になる事。
七月に手術をし、リハビリを経て全国大会に出場していた事。
夏休み中の登校日や夏期講習で友達に、聞いた話だけどさ、という前フリの後に話された時はクラスにいた数人が振り返るくらい大きな声をあげてしまった。
うるさいよと突っ込まれるより、体の真ん中からあっという間に体温が下がっていく衝撃の方が強烈だ。
お見舞いに行った日、自分が口にした言葉の数々が蘇る。
じゃあもう退院だね。幸村くんってすごいね。
何の問題もなく復帰をしてテニス部は全国制覇をし、教室でも会えるんだなぁと単純極まりない思考回路で暢気に喜んでいた。
冬から入院していた人が元通りの生活を送るまでどれだけ大変かなんて、よく考えればすぐわかるはずなのに、どうして気軽にすごいだの何だのと平気で言えたのか。
確かに病気の事は何も知らなかった。
ただのクラスメイトが立ち入ってはいけないとも思っていた。
けれど知らなかったからしょうがない、で済まされる事なのか。考えなしにもほどがある。
人の言う事を疑え、という彼の言葉に様々な憶測を並べて一人落ち込んだり慌てたり困惑したりもしたがしかし、紆余曲折し怯えた所で、行き着く所は常に同じだった。

(あまりにも無神経な事を言いました、ごめんなさい)

私は幸村くんに謝りたかった。
タオルを返すのも大事だったけれど、こちらだって捨て置けない重要な用件だ。
露骨に避けられたらそれはそれで辛かっただろうけど、何も気にしていない素振りで変わらず接して貰うのも別の辛さがある。心苦しくて、顔をまともに見る事が出来ない。


人影のない廊下では、吐く息一つすらよく通った。
始業式から一週間経っても、話しかける隙を見つけられないでいる。
病院と学校に別れていた梅雨頃までは何の気無しにメールのやり取りをしていたというのに、今ではぷつんと切れた糸みたく繋がりの一切がない。
もっと仲良くなりたい等と願っているわけではないが嫌われたくはなかった。彼を友達だと思っていたし、向こうもそう思っているものだと取っていた。
関係を壊したくないから謝るのかと罵られると答えに困ってしまうけれど、こういう時に自分を誤魔化して嘘をついても仕方がない、何はともあれきちんと謝罪の言葉を伝えたい。
が、なかなか上手くいかないのが世の常と言うべきか、理想と現実の差は開くばかり。
伸ばせば伸ばすだけ切り出しにくくなる事だからなるべく早めに決断し実行したいと心から願っていても、部を引退したとはいえ多忙な身の上であるスターと、新学期早々担任に忘れ物が多すぎると注意されたあげく英語のプリントのコピーを命じられて奔走する自分とでは、生活のサイクル自体が違う気がした。
何気ない会話が可能だったのは、ひとえに席替えの神様のおかげだったのだと思い知る。そりゃあファンの子にも睨まれるというものだ。今更ながら申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
大量の用紙を数え職員室まで運んだ為、かさついた指先を擦り合せる。目をやると薄く白い色に染まっていて、長い長い溜め息が出た。
放課後になったら彼を捕まえるのは困難だ、今日はもう諦めるしかない。
じくじくと膿んだような痛みを訴える心臓をどうにか出来るわけもなく、後ろ手に鞄を下げてだらだらと帰路に着いた。
階段の踊り場に差し掛かり一歩踏み下ろした所で、階下から誰かが上がってくる。
その人の顔を見て、一寸息をするのを忘れた。

「やあ、今帰りかい」

数冊の本やファイルを腕に抱えた幸村くんが、こちらを見上げて問う。

「あ、うん」

突発的邂逅を華麗に捌ける技術など持たない私はとてつもなく軽い調子で答えてしまった。一瞬ののちに、『あ、うん』じゃない! 返事ははいだろ! と混乱しながら己を叱咤した所で過ぎた時間は戻せない。つくづくがっかりだ。
そういった葛藤を知るはずもない幸村くんは人の三倍厳しい風紀委員がいたら注意するような速度で段を駆け上がり、非常に男子らしい豪快な歩幅でもってあっという間に私のいる階までやってきた。

「居残り?」

息一つ、髪の毛一筋さえ乱さず、にっこりと笑う。
日頃どう思われているのかが手に取るようわかる発言だ。
しかし反論できる程優等生ではないので甘んじて受けた。

「……似たようなものかな」
「フフ…そんな顔する事ないだろ。安心しなよ、俺も居残りだから」
「え、なんで?」
「いくら入院中勉強してたって言っても、やっぱり皆から遅れているからね」

先生に個人的に補習をお願いしてたんだ、と参考書を掲げて言い、居残りついでに借りてた本図書室に返しに行くとこ、と続ける。
差がより一層開いた気がした。
神の子と、ただの人間。
なんと返答すればいいのか迷い沈黙する私に、

、ちょっと時間あるかい?」

慈悲深い声音で尋ねるのだ。神妙に頷くしかなかった。
幸村くんに他意があるとは思いたくないが、いつもならこちらの都合など聞かずにちょっと来てだとかいいからおいでだとか割と問答無用で連行されるのに、今日に限って許可を求めらている。
3ヶ月ぶりのまともなやり取りである事や己の失態の等々を加味すれば、何かしらあると考えるのが当然だろう。
神の審判を待つ罪人になった気分で、屋上まで行こう、と階段を上り始める後ろ姿を追いかけ鞄を肩に掛け直す。大して荷物など入っていないはずなのに、やたら重たく感じた。
平時ならそれなりに騒がしい私たちだが、上へ向かう途では珍しく黙りこくって会話らしい会話もない。
負い目のある自分はともかくとして、大概の人に前と変わらず接していた幸村くんが、粛々と静寂を保っているのはとても恐ろしかった。
嫌な予想が脳内を駆け巡って暴れ出す。
こうなったら思わず耳を塞ぎたくなる通告をされるより早く、先手必勝でとにかく謝り倒した方が良いかもしれない、等と卑怯な算段を整えている最中で無情にも目的地に到着した。
屋上は憩いの場として最終下校時間30分前までは生徒に解放されている、校舎の天辺、手入れの行き届いた庭園が目の前に広がる。
空に近い場所に降る陽は、先程の廊下で浴びたものより少々きつく感じられた。
ぐんぐん進む幸村くんとただついていくだけの私が入り口から無言で歩んだ先に、庭園の周囲を彩るよう設置された花壇がある。盛りを過ぎややしなだれた向日葵が咲いていた。

「うーん、やっぱりもう枯れてきちゃってるなあ」

病院にいる頃と比べ幾分太陽に焼けた人が腰に手をあて、園芸部員さながらのコメントをする。
隣に追いつき同じように眺めると、葉先や花びらの数枚が茶こけて萎れているのがわかった。真昼でなく夕方近い時間帯の所為あってか、中には寂しく俯いてしまったものもある。

「八月中はもっと綺麗に咲いてたんだけど」
「……見に来てたの?」

ほんの数分言葉を発していなかっただけなのに、私の声帯は向日葵みたいに萎れていたらしい。
たった一言が僅かに掠れて震える。
花に注がれていた視線がこちらへ寄越された。

「ああ。補習と部活で、ほぼ毎日学校に来ていたしね」
「………そっか」
も夏期講習には来てたんだろ?」
「うん」
「その時会えてれば、一番綺麗な向日葵教えてあげたのにな」

断りを入れておくが、私に花を愛でる趣味はない。
勿論人並みに綺麗だなとか可愛いなとか思う感性はあるけれど、幸村くんレベルで詳しいわけじゃないし毎日様子を見る程熱心な観察もしない、彼を通しかろうじて関わりがあるくらいなのだ。
交わされた雑談に時たまのぼった、花壇がどうのあそこは手入れが不十分だのといった事柄の中で、向日葵の記憶といえば一つしかなかった。

「でも私、去年のも綺麗だと思ったよ」

二年生の夏、違うシチュエーションで似たような会話をした。
どういう理屈でここまで連れて来られたのか詳細は覚えていないが、どうせ私と幸村くんの事だから登校日に会って時間が空いていたから話のついでに来てみた、とかいう流れだったのだろう。
話すようになってまだ二ヶ月かそこらだったから、花壇の植物についてやけに知り得ている彼を意外に思いつつ、今年は雨が多かったからいまいちだ、との呟きに大人しく耳を傾けていた。
来年に期待だね、私が返し、幸村くんはそうだねと笑った。

さ、貰ったものなら何でも嬉しいって言うタイプだろう」
「……ものによるよ」
「そう? たとえば嫌いなものだったとしても、気持ちを無下にはできないとか言って喜んじゃうんじゃない?」

そう言われれば、そうかもしれない。しかし私に限らず大抵の人は物より気持ちを大事にしようと心がけるのではないだろうか。
いやそもそも向日葵と何の関係があるんだ、疑問をぶつけると、

「関係あるよ。こういう所の花は自然に咲いたわけじゃなくて、誰かが手入れしているんだから正当に評価しないと」

どうやら花だったら何でも綺麗という大雑把な感想しか口にしない私を批判しているらしかった。

「正当って…」
「頑張って世話をしたから合格じゃなくてさ、頑張ったからこそ厳格に審査してしかるべきだ」
「……そういうものなの?」
「少なくとも、俺はそう思うな」

言い終わった目線は再び花壇へ移る。
どちらかといえば柔らかい印象を持たせる容姿だというに、間近で見る横顔の線はくっきり浮かび、頬も女子のそれとは違って硬そうだ。幸村くんは性差を感じさせないくらい話しやすい人だけど、どこをどう見ても男の子だった。
病院の姿を瞼の上、頭の中で浮かべてみる、あの時は入院前と変わらないと感じていたがこうして並んで立てば病は確かに彼を蝕んでいたのだと実感した。
薄くなった肩も筋肉の落ちた背も、白い肌も女の人みたいに細く綺麗だった指先も、今では影すら残さず消えている。
喜ばしい事のはずなのに、私の胸は痛みを訴え出した。
どこまで能天気で、どこまで考えなしだったのだろう。
鞄の紐を掴む手に力が籠もる。
気づけなかった自分の不甲斐なさが悔しくて仕方ない。
幾日も前から練習し何度も反芻していた台詞の数々をかなぐり捨て、腹の底からせり上がった熱を抑えつけながら、ずっと閉ざされ通しだった唇を開いた。

「幸村くん」
「うん?」

首を傾げてこちらを見つめる仕草を肌で感じ取ったが、合わせる事は出来なかった。
目についた向日葵と同様に俯いたまま次の言葉を紡ぐ。

「ごめんなさい」

謝罪まで明後日の方向を見遣った形でしてはいけない、体ごと隣の人に向いて頭を下げた。腿で合わさった指の先が微かに震えているのが視界の大半を塞ぎ、眉は思い切り歪む。情けない、思っても止められない。

「……どうして、謝るの」

旋毛にかかった声は、想像していたものと比べ遥かに穏やかで、そして優しかった。
思わずちらと両目と首とを上げると、沈む方へ落ちかけている陽に透け、滲む微笑みが佇んでいる。緊張してか体中に響く勢いで脈打つ心臓に翻弄されながら、続けなくてはならないと渇く舌の根を必死で動かした。

「お見舞いに…行った時、あの…すごく考えてなかったなって思って……」
「考えてなかった?」

静かに促され、いつまでも腰を折っていては失礼だと背筋を伸ばす。しかし唇から零れるものはしどろもどろで、あまり要領を得ない。
それが自分でもわかり苛立ちを覚えたが、当の幸村くんは悠然と構えていた。

「私何も知らなくて、ううん知らないからって許されるわけじゃないんだけど、い、色々…考えないで色々好きに話したり、失礼な事言ったりして、無神経だったから」

温い風が吹いて、制服の裾を揺らした。
夏の盛りより大分ましにはなったが、熱を孕み余韻の残る空気は頬に当たり髪の毛を通り抜けていく。知らない内、下がっていった顔が上げられない。

「だから……ごめんなさい」

謝罪の方法は一つくらいしかわからない、そこでもう一度屋上の床に頭を近づけた。
怖くて目が見る事が出来ないという理由も含んでいたから、純粋な気持ちではなかったかもしれない。泣きたくないのに視界の端が歪んでしまい、耐えようとしてぎゅっと瞑る。
また遠くから、三年を欠いた運動部の掛け声。
頭上を抜けていく。
硬球の跳ねる音が高らかに伸びる。
万事を尽くし、声にすべき言葉の空になった身にはすべて虚しく反響し、何もかもが跡形もなく失せていった。
まさしくただひたすら審判を待つだけの私に、神の子は沙汰を下した。

「俺言ったよね?」

若干物騒な物言いに背が縮んで肩も狭まり、血が天辺から引いていく感覚に陥る。
どうしよう。
怒ってるかもしれない、どうしよう、ばかりがぐるぐる体を回っている。
愚かにも深く考えず三度目のごめんなさいを口にしようとした所、

「人の言う事すぐ信じないで、ちょっとは考えなよって」

やや語尾の上がった声が聞こえて来、跳ねる勢いで顔を上げた。
私の形相がよっぽど酷かったのか、目が合うなり幸村くんは面白そうに笑う。

「誰から聞いたの」
「え? だ、誰? って誰?」
「どうせ俺の病気が難しいものだとか、手術やリハビリが大変だったみたいだとか、そういう事を人から聞いたんだろう?」

まったくもってその通りだ。
なんか難しい病気だったって聞いた? 息するのも出来なくなったりするんだって。そんで手術とかリハビリで、大変だったみたいだよ。すごいよね。でも辛かっただろうね、花形テニスプレイヤーだったんだもん。あんたもぼけっとして忘れ物ばっかしてないで、ちょっとは幸村くん見習いなよ。ま、無理だろうけど。
友達の声が次々と鮮やかに再生される。無知を思い知らされた瞬間の苦い記憶なので、いくら忘れっぽい性質とはいえきちんと覚えていたのだった。
彼は私の沈黙を肯定としたのか、流れを留めずに会話を続行した。

「なんで、疑わなかった」
「う、うたが、疑う?」

予想だにしない方向で叱責を受けとにかく困惑してしまい、返す言葉を盛大に噛む。

がなんて聞かされたのかは知らないけどさ、俺が一度でも大変だったとか辛かったとか気を遣えとか言った事あった?」

目を泳がせて過去を辿り、結果、該当するものは見つからなかった。
幸村くんはいつも幸村くんのままだった。だから私も私のままだった。
病院で何遍も感じた事だ。

「な…ない……ありません…」
「だったらどうして謝った。どこが無神経で、何が失礼だと思ったんだ」

怒られている気はしたが一切想像していない部分だったから、今のところ大きなダメージを受けておらず、あてはめるとしたら困った、というのが相応しい。不思議だった。

「え…ええ……ええと…学校の事とか、花壇の事とか、色々考えててすごいなとか、普通に言っちゃったのが……」
「そう、普通だね」
「ふつう?」

最早教えを乞う生徒と、根気強く指導する教師の図である。
いっそ年下に生まれれば良かった、これで同い年なのだから頭が痛い。

は普通に、いつも通り俺とお喋りしてただけ。何も悪い事はしてないよ。だったら、謝る必要なんかないだろ」

笑いもせず不機嫌な表情もせず真顔で言うから、ぽかんと口を開けるしかなかった。
自分にはない発想だ、しっくり来なくて無謀にもつい抗ってしまう。

「でも…ああいう時って気を遣ったり、迷惑にならないように心がけるのが、い、一般的っていうか当たり前の事じゃ」
「だから、俺は言ってないし頼んでもいないよ。大体誰が当たり前とか一般的だって言ったんだ。本当に自身が、最初から一人で考えたこと?」

気が遠くなるほど遡り元を正せば違うと答える他なく、小さい頃にお年寄りや体の不自由な人には親切にしましょうと教えられたから、とかそういうレベルの話になってくる。
けれど察しが悪い自分が何度も見舞いに行っていいのか、と疑問を抱いたのは誰に言われたからでもない、一人で悩み一人で考えてきた事だ。
不透明だった頭が冴えてくる。
幸村くんが私に問いたい『本当』は、言葉の外にあった。
何故、謝ろうと思ったのか。
誰を慮って無神経だったのかもと悔い、気遣い上手でもない人間が訪ねて大丈夫なのかと迷ったのか。

「……幸村くんは、いいの? 全然気を遣えなかったり、物事をよく考えないで話すような私が、病気で大変な時に行って大丈夫だったの?」

友達や先生、親に指摘されたからなどではない。
ただ、己の無配慮がゆえに彼を傷つけたり、負担をかけたりしたくなかった。
幸村精市その人が心配だったからだ。
謝罪してから初めて、まともに正面切って目を見る。神の子はその異名とちぐはぐに、どこにでもいる普通の男の子と同じように破顔した。

「いいよ。嫌だったら、とっくに嫌だって言ってる」

強張っていた肩がすとんと落ちた気がして、悟られない為なるべく静かに深い息を吐く。
単純な私らしくいつの間にか涙は引っ込んでいたが、代わりに両目と唇の渇きが増していたし、心臓は耳まで伝い響くような音を立てて血液を送り出していた。
どれもこれも気にならず、何よりも安堵が大きく勝っていた。

「それに、みんな揃いも揃ってすごく気を遣ってくれていたしね。一人くらい気遣い下手な子がいた方がバランスとれてちょうどいい。俺も気を遣わなくて済んだから、が来てくれると楽だったよ」
「…………」
「あれ? 怒った?」
「…怒ってません。本当の事だし、悪いの私だし」
「フフ、まあそう拗ねない。俺が構わないって言ってるんだから、それでいいじゃない」

有り難い慈悲ではあるが、あまり素直に頷けない。
王様のジャッジはそこはかとなく不公平であり、気分や対象によって変わるもののように思えた。
釈然としない気持ちで黙る私を横目に、幸村くんが、でもそっか、とか何とか独り言同然に呟き、抱えていた本とファイルを足元に置いてしゃがみ込んだ。
まだ元気のある葉とそうでない葉を交互に指で見遣り、素人にはわからないチェックをしている。

「だから、俺のこと避けてたんだ」
「え? 避けてないよ」
「きちんと話をしたの、久しぶりだろう」
「そうだけど…でも別に避けてないよ」
「じゃあ言い方を変えようか。ものすごく話しかけにくいですって顔してた」

してました。
とは答えなかった。
図星過ぎて素直にはいそうです、なんて逆に言い辛い。
視界の下方で、太い静脈が浮き出た腕が向日葵の葉先へと伸びている。

「負けたからさ。そのせいで、前みたいに話しかけてくれなくなったのかと思った」

……何の話。
唐突に話題が変わり、行く先をさっぱり掴めないので答えどころか選択肢すら現れなかった。さっきとは別の意味で困っていれば、こちらを振り仰ぐ眼差しが強くあてられる。

「全国決勝。クラスの奴に聞いたけど、見に来てたんだって?」

唇の端に笑みが乗っていたから、ああなんだその事、と振られた言葉のボールを簡単に投げ返そうとし、慌てて思い留まった。
負けたから。
幸村くんは確かにそう言った。
固まる私か自分自身か、どちらに対してかはわからないが、常と変わらぬ純然な彼の微笑みに苦さが混じって変化する。

「あれだけ言っておいて、あのザマだ。そりゃあ、かっこ悪いって思うよね」
「それは別に思わなかった」

心外だったのできっぱり否定してやると、伸ばしていた右腕を引っ込め顎の前で指を組み、焼けた手の甲に顔を預けた幸村くんがへえ、と意味深に笑いながら言い捨てる。

「他に理由が考えつかなかったから、俺はてっきり負けた可哀相な人扱いされているのかと思ったよ」
「それも別に思わなかった」
「ふーん?」

引き続き無愛想に言葉を落とす。幸村くんは笑ったままだ。
先程と打って変わって、じゃあ何、と促さない所が非常に神の子、憎たらしい。

「テニスの試合って私なんかじゃわからない事が多いと思ったし、素人だからああだこうだ口出せないとも思って何も言わなかっただけ」
「俺は聞きたかったな」
「……今聞かれても無理だよ。答えられない」
「どうして?」

今日よりずっと暑かった、有明のテニスコートを思い出した。
観戦席で私は友達と並んで座って、歓声と応援団の叫び、大きなうねりに巻き込まれていた。その渦の中心で幸村くんと対戦校の選手が、目には見えない何かを削り合って縦横無尽にコートを駆ける。
――暑い。
夏のそれと試合の熱気が、遠く離れた席まで直に伝わってきた。
常勝立海のスローガンを大事にする人達にしてみれば全く嬉しくもない見当違いなのだろうが、私にとって勝ち負けはそこまで重要なものになり得なかった。
勝っても負けても、すごかった。圧倒されるとはこれを指すのか、等と感心さえした。
気持ちだけが先行して表現を担う言葉が追いつかない。
八月は既に終わったものだとしても、まだまだ正しい解が見つからない。

「だって…言えても、なんかよくわかんないけどすごかった、くらいなんだもん。小学生みたいじゃん」

座る人の隣に腰を下ろし同じ目線になってから私が正直に白状すると、王様は許すと目を柔らかく細めて拙い返答を受け入れてくれたようだった。
機嫌上々といった声音が辺りに響いて鼓膜に伝わる。

「ははっ! それ、今更言う? は前から、忘れ物が多すぎて小学生じゃないんだからしっかりしろって怒られる、って言ってたじゃないか」
「言ってたけど! 言ってたから、直さないとって思うんであって、今更気にするなってツッコまれてもそうだねーとかなんない」
「気にするなっていうか、そのままでいいよって言いたいんだけど俺」
「ええ…やだよ…」
「フフ、本気で嫌そうだね」
「本気で嫌なんだってば」
「気にする事ないのになあ」

相変わらず幸村くんの判断基準はわからない。
思わぬ所で厳しくなり、唐突に甘くなる。
今回だっていつもの軽口を叩く余裕さえ復活しさっさと立ち直っている私に、そのままでいい、とは流石に過分な施しだ。いくら今まで単純に生きてきたからといって、この許しを簡単には受け取れない、腰が引けてしまう。
大体現状に甘んじる事が大嫌いなタイプっぽいのに、何故他人の私に時折ゆるい採点をするのだろう。
自分に甘く他人に厳しいだとか、両者共に甘かったり厳しかったりならわかるが、己に厳しく人に甘い、というのはなかなか見かけない気がする。
しかしまあ、一年と数ヶ月の付き合いで知った全てを総括し、私の足りない言葉で彼の人となりを表すのであれば、

「幸村くんって、いい人だよね」

一言に尽きた。
怖かったりちょっとばかり傍若無人だったり、人をからかったり暴言吐いたりもするけれど、結局の所最も当てはまる表現を考え抜けば、ここに辿り着くのだ。
心が広い、鷹揚と言い換える事も可能だが、私が口にするに相応しいのは、いい人、だと思う。

「そう? あまり言われた事ないから、俺、よくわかんないや」

少し困った表情で微笑むのが珍しくて、なんだかおかしい。
つられるように唇が緩み、頬がやんわりと崩れた。幸村くんと一緒にいてこんな風に笑うのは久しぶりだ。ついさっき、階段を上がっている時に重く感じていたはずの鞄は、肩に食い込んでいても気にならない位軽い。
豚もおだてりゃ木に昇る、を体現するかのように気分が急上昇する私の横で、今度はどこか嬉しそう笑っている幸村くんが向日葵に目で触れた。
園芸部より厳しい御眼鏡にかなった今年の花は余程素晴らしいものだったのか、写真を撮っておけばよかったな、と囁く。切り替え上手と称される人にはあるまじき引っ張り具合だ。
植物に対する愛情もかける情熱も眼差しも何もかもが劣った私に、綺麗だった頃の姿に思いを馳せ、脳裏に浮かべる事など出来ないが、せめて今だけでもと背の高い向日葵を注意深く見つめた。
首を持ち上げて種の面積の方が大きくなった花の額縁、徐々に目線を元に戻していき、先が茶に染まり枯れてしまった葉、屋上の風に吹かれても折れない茎、視線が伝い下りた。
雨など随分降っていないのに乾いた色をしていない土。
整然と並ぶ向日葵の下、蝉の抜け殻がぽつんと落ちている。
葉や花弁が風に煽られゆっくり揺れる度影と陽とが混ざり合い、不安定な木漏れ日を受けた殻がきらきら透けて薄ら輝いた。
中学三年の夏は終わってしまったし、一番綺麗な向日葵を見る事だってもう叶わない。
けれど八月と一緒に去ってしまわずに残って秋や冬へ持っていけるものもある。不必要だと捨てられた抜け殻も、いつかは土に溶けて花と咲くのだろう。

「来年に期待だね」
「…ああ、そうだね」

調子付いて、してやったり、と言わんばかりににやける私をまるで咎めようとしない、やさしい王様が今日一番の微笑みで乗っかってくれた。