照る日




冬は鬼門である。
大して細身でもないくせに、小さな頃からめっぽう寒さに弱かった。脂肪なんかちっとも役に立たない。中学三年生になっても変わらない体質だ、おそらく高校に上がっても同じように苦しむのだろう。
シャツの下にキャミを着込み、ホッカイロを数ヵ所に貼り付けコートのポケットにも入れた完全防備の状態だったが、家の玄関から一歩でも外に出ると登校する気力が限りなくゼロになった。マイナスと言っても過言ではない。
くるりと一回転すればすぐそこにぬくもりの我が家が待っている、しかし戻る道はない。
憂鬱な気持ちをぶら下げたまま、手袋だけじゃ温まらない指に息を吹き掛け駅へと続く道に足を向ける。
着膨れた人達で溢れ返る電車とバスを乗り継ぎ立海の校舎が見えた所で、ようやく『暑い……かな?』と思い始めた。
着る物を失敗し車内で暑そうにしている人と比べたら幸せな方だと自分では考えているが、友達曰く『防寒準備の手間がめんどそうだからあんたのが大変っぽい』らしい。慣れてしまえばどうって事はないのだけれど。
冬は他の季節よりも倍、布団から出てくるのに時間がかかると承知済みの母親に早々起こされる為、この時期の起床はやたらと早くなる。
同じ友人にだったら春夏秋も可能だろうと突っ込まれた事もあるが、冬だけが特別で、寒さが災いし毛布を剥ぎ取られればそこでおしまい、眠ってなんかいられないのだ。
容赦ない母の手から冬期のみ繰り出される秘技ゆえ、学生としては正しく、私個人としては不本意極まりない、人気も疎らな時間に登校しているのであった。
がらんとした校門を抜け敷地内に入る。
いかにもな音を立てて吹く風が、バスの中で蓄えた熱をさっさと奪い去っていき、一刻も早く教室へ着かなければと決意させる。
首を縮こまらせ小走りする勢いで進む道すがら、テニスコートに差し掛かると結構な人数が朝練に参加しているのが目に入った。
後輩の指導や高等部での準備等々あるのか、もう引退したはずの三年生の姿もある。
そして恐ろしい事に、皆ほぼ半袖のユニフォームを着用しているのだ。
正気の沙汰ではない。
見ているだけで震えそうになったが、当の本人達は平気な顔で練習に打ち込んでいる。
乾いた空へ立ち上る息は、寒くて上手く噛み合わない自分の唇から漏れるものと同様に白いけれど、伴う温度は明らかにあちら側が高そうである。
勿論というかやはり幸村くんもいて、前線で指揮を執る王様みたいに、元レギュラーの幾人かと何やら話し込んでいるようだった。
天気予報では一桁だった今朝の最低気温を感じさせない振る舞いに、本気で拝みたくなった。

秋の初め、怖いけどすごい人、だった評価に、いい人、が上乗せされて三ヶ月。
幸村精市という人は、つくづく気が抜けないし侮れない人物だと改めて思い知った。
穏やかで優しそうな面差しと中身にそう大差ないだろう等とあたりをつけていると、教室で男子と笑いながら話す時のやや乱雑な仕草にぎょっとして、周囲にどれだけ生徒がいようと手を振ってきたり声をかけてくる図太い神経に唖然と立ち尽くす羽目になるのだ。
廊下や教室ならまだしも、一度ごった返しの食堂でかまされた時には驚きで言葉を失った。
食券の列に並んでいる私を見つけた幸村くんが、角の机を陣取るテニス部の目立つ面々と女子達の密かに色めき立つ空気を遮って、たまに遊ぶ近所の子供に対するよう気安く片手を挙げひらひら宙で揺らす。
当然、無数の眼差しが相手を探すわけだ。
辺り一帯の人々がスターの挨拶相手を見つけるより先に、私は火事場の馬鹿力的俊敏さを備えた右手を小さく挙げ、幸村くんのチームメイトが何、誰誰、と振り向く前に素早く下げた。手に汗握る攻防戦である。とてつもなく心臓に悪かった。
周りを見て下さい。
もしかして、目に入ってないんですか?
喉の瀬戸際まで非難声明が出かけたが、堪えただけ偉いと我が事ながら思う。
彼にしてみれば級友にちょっと頭を下げた程度の事だろう、私の対応はもしかしてまずかったかもしれない、とかなり後になって気づき機嫌を損ねていないかびくついていたのだが、別段これといって言及されずにいつも通り話しかけられたので問題はないようだった。
だが、注目を浴びたくないからやめて、とは言えなかった。
蒸し返して怒りを買ったらと考えれば肝が冷えたし、正直にお願いしたら面白がって余計にやられるかもしれない。
確かにいい人ではあるのだけれど、誰かをからかったりなんてしないと言い切れない部分を持っている。リスクを背負ってまで進言する事かといえば違う、黙り込む選択肢を掴む事にしたのだった。
加えて私も私で、体育の授業がテニスでたまたまサーブが上手く決まり、たまたまそれを幸村くんが見ていた時、上機嫌にピースしてみせた事があるので痛み分けの可能性だって有り得る。
ちなみに彼は、腕を組みながら笑って頷いてくれた。一流のコーチに認められた気分がして嬉しかったのを覚えている。

とりあえずここ数ヶ月で、神の子と交流するには多大な労力が必要だという事がよくわかった。
一般人の私がなんとかなっているのは、頭の悪さと気遣いの欠如と幸村くんは差別をしないいい人、この三つによるものだ。
友達でこれなら、彼女になる子はさぞ大変だろうとしみじみ思う。どんな人が似合いかと問われると完璧超人な美人くらいしか考え付かず、己の貧困な想像力に落ち込んだ。
一切恋愛話の類いをしない私が珍しく色づいた思考へ走ってしまうのは、一週間後に迫ったクリスマスの所為に他ならない。
まるで関係のないイベントでも、街中や友達の雰囲気が来たる24日に向けて華やげば意識は嫌でもそちらを向くというものだ。

閑散とした校内を進み、教室に着く。
人の少なさが気温を余計に下げているようだ。温度が存在しないドアの引き手を掴み引くと、しんと静まり返る廊下に開閉音がけたたましく響いた。
隙間を作るまいとしっかり閉めてから、ヒーターからやや遠く真ん中にある自分の席へ向かう。
着ていたコートを膝にかけ、手袋をしたままケータイを取り出した。
11月にクラスで決めたヒーター係の人が登校しなければ、暖房をつける事は許されていない。
冬に弱く冷え性の私にとって地獄のような取り決めだが小市民は御上のお達しに従うだけ、背中とポケットのホッカイロが心の友である。
携帯端末を取り出し今日の運勢を確認すれば、12星座中5位、とまずまずな位置についていた。
去年の梅雨、かの人と初めて言葉を交わした日から習慣化した朝のひと時を過ごし、血の流れが止まったみたく冷たい指先を温めながらしばらくぼんやりしていると、教室前方の扉が開く。

「おはよう」

遅刻の多い私が朝練に出ていた自分より早く教室に座している事は、特に驚くべき現象ではないらしい。幸村くんがにっこりと優雅な笑みをたたえて言った。
おはよ、と返す間に彼は席へと辿り着く。
席替えの神様に嫌われたのか、結局夏以来ずっと教室内での距離は遠ざかったままだった。今月の幸村くんの席は、私から二列飛ばした並びの一番前だ。
しかし離れていようが近かろうが関係ないといった風情で、ラケットバッグを下ろした人が椅子に横向きで座り話し出す。

「いつも早いね。暇じゃない?」
「暇だよ」

そうなっては、私も答えないわけにはいかない。
コートの中で温めていた両手を机に置いて返事を投げた。

「じゃあ、毎朝教室で何しているんだい」
「……ぼーっとしてる」
「はは、余裕だな、。受験も近いのにさ」
「……………」
「聞きたくないって顔しても駄目だよ。あと二ヶ月もしたら試験だよ。逃避したところで、何の解決にもならないからね」

容赦ない言葉が次々振って来て、朝一番にげんなりする。
彼の意見が圧倒的に正しいとわかってはいるが、ほんの十数分くらい差し迫る問題を忘れてもいいじゃないか、思ってしまう。

は、内部進学?」

若干、今更と言えなくもない質問だ。
話してなかったっけ、と首を傾げつつ頷いた。

「うん。幸村くんは?」
「俺もそう」
「あ、そうなんだ。じゃあ一緒だね」
「フフ…進学先は一緒だけど、俺にはテニスと内申点があるから、そこは違うかな」

ものすごくいい笑顔で通達された事実に、耳が痛くなった。遠回しに勉強しないと進学できないよと苦言を呈されている。
全国一を逃したとはいえ才能溢るるテニスプレイヤーの成績優秀者と、忘れ物番長と遅刻魔を兼任する自分。
並べてみると、目指す学校が同じ事自体無茶だと指をさされても仕方ない気さえしてきた。
現実を突きつけられ寒くなった心中に比例し、身体の方も冷えてくる。手袋をつけても尚、温度の上がらぬ指を摩り合わせた。
途端、肘をついて話していた幸村くんが席を立ち、黒板の前、教卓の後ろを通り窓際へ歩いていく。
一体何事かと見守っていると、さも当然の権利というようにヒーターの電源をつけた。

「ちょ、ちょっと、幸村くん!」

係の人や先生の叱責を想像した脳が、腰を半端に浮き上がらせてしまう。
設定温度を弄る片手間、幸村くんは平然と言い放つ。

「大丈夫。もし怒られたら、俺が勝手につけたって言うから」

大丈夫でも何でもないし、彼を叱れる人なんか限られているんじゃないか。
一般人相応の小さな心臓しか持ち合わせていないので、大罪を犯した気分になり落ち着かなくなった。

「今日は寒いしね」

と、こちらを向いて微笑む。後ろに光が差して見えた。神の子全開だった。
通常通りの制服着用で、防寒グッズなど持っていそうもない彼はちっとも寒そうじゃない。少なくとも、極寒のテニスコートでも半袖でいる人が吐く台詞ではなかった。
これは、あれだ。

「……うん、ありがとう」

またしても、気を遣われたのだ。
何ヶ月経っても進歩のない自分に気落ちし、ついでに椅子と離れていた腰も落ちた。

「いいよ、気にしないで」

幸村くんが優しく笑う。
世紀のモテ男とはかくあるべきか。
もう幾度か与えられた恩顧ではあるが一向に慣れず、反対に己のしょうもなさが浮き彫りになった気がして微妙にへこむ。
見るからにしょぼくれた私を案じてか、、とどこか問いかける声色が冬の空気に響いた瞬間、ドアの開閉音と共にクラスメイトが現れた。ヒーター係の大島くんだった。
間髪入れず、幸村くんが口を開く。

「すまない、勝手にヒーターつけたよ。寒くってさ。前は平気だったんだけど入院して体質変わったのかな。もう病人じゃないつもりなんだけどね。俺も困ってるんだ。先生には言わないでおいてくれると助かるよ気を遣われちゃうからさ。あと君より俺の方が早く来た時は先にヒーターをつけていてもいいかな」

突っ込む隙も暇もない。
模範的男子生徒では太刀打ち出来そうにない弁論をすらすら続け、ぴしゃりと目には見えない扉でも閉めるよう言い切った。
そこまでされて、反論する人間がいるだろうか。大島くんは、お、おう…いいよ、べ、別に…と盛大にどもり、私は話している間ずっと笑顔のままだった彼に絶句した。すごすぎる。

まあまあなはずの運勢とは裏腹に、その日は散々だった。
英語の授業であてられて答えられず、体育で100メートルのタイムを計れば思いっきり転び、お弁当を忘れた事に昼休みになってから気付いて、既に売り切れ続出の購買で渋々入手したうぐいすパンひとつでお腹を膨らまし、掃除当番のゴミ捨てじゃんけんでは一発負け、重たいゴミ箱を引きずり帰ってきてみたら『彼氏と時間合っちゃったから先帰るねーごめん』と友達からの連絡が入り、人の波が去った教室で一人取り残される等々を乗り越え、部活動の始まる頃には満身創痍状態である。
なんというか、惨めだ。
ホッカイロの効力はとうに失せ、冬将軍から守ってくれるものは何一つない。
明日からは振るホッカイロを予備として二、三個持ってこよう。
占いは二度と信じない。
そう心に刻み、間に合わせの対抗策としてマフラーをきつく巻いた。
疲労のこもった溜め息が口の端から漏れ出る。昇降口で靴を履き替えていると、突然名前を呼ばれた。

「あ、いた、。どこ行ったのかと思った」

びっくりして声がした方を見遣ると、制服姿の幸村くんがいた。

「どうかしたの……、っていうかテニスは?」
「ぼちぼち行くところ」

廊下から上履きのまま、土足で歩くコンクリートの床まで下りてくる。
返す返すも、ルール無視の王様だ。
困惑と呆れが混ざり無言になる私の前に、厚めの本が差し出された。

「これ貸そうと思ってたんだ」

お菓子を与えられた子供みたく素直に受け取る。
何が何だかわからないなりに、理解しようとまじまじ本のタイトルを見、

「え、えー……高校入試に必ず出る数学問題集……って。え!? さ、参考書?」

素っ頓狂な声をあげた。
予想していない、というか出来る訳ない展開に目を丸くする。

「俺使ってみたけど、なかなか良かったよ」
「い…いや、あの…ええっと…その…」
「どうせのことだから、参考書も使わずに勉強してるんだろ? まあ勉強というより、教科書開いてノート眺めてなんとなく復習したような気分になっておしまいって感じだよね。公式覚えてたって問題解かなきゃ身に付かないよ、それ使って頑張りなよ」

見破られ過ぎていて恐ろしい。見てたのかこの人。
事実だったのでおとなしく受け入れ否定せずに、どんどん大きくなる戸惑いの理由を突き詰め解決しようと試みる。

「で、でも…幸村くん、いいの?」
「なにが?」
「借りても…」
「うん。俺はもう使わないからさ」
「あ、あの…な、なんで?」
「なにが?」
「私に貸してくれるの……」
「うーん、が困ってるから、かな」
「困ってる?」
「困ってない?」
「え……いや…どっちかって言えば困ってるけど…」

色々な意味で、とは付け加えなかった。
私自身全てを説明し切れない部分もあり、実際勉強をしようにも方法がわからなかったのは本当の事だ。期末考査の結果も芳しくない。

「だよね。だから、遠慮なく使ってくれ」
「………幸村くん……どこまでいい人なの……」
「フフ、そうかい? に言われると、自分が本当にいい人になった気がしてくるから面白いな」

まるで真実は違うと訴えるような物言いに、謙虚さをも兼ね備えているのかと驚愕した。
確かに侮れないし甘く見ちゃいけない人だと重々承知しているが、それらを差し引いてもこの振る舞いはいい人以外の言葉は当てはまらない。親切とかそういうレベルじゃない。朝見た後光が、更に輝きを増した。
さっきまで地の底に足が着くか否かの境でさ迷っていた気持ちは、あたたかな日に照らされるが如く地上まで蘇り、身に染みる寒さも頭の中から弾き出されるくらいだ。

「ありがとう、頑張って使ってみる!」

私の一世一代の宣言に対して、余裕たっぷりな王たる王の微笑みが返ってくる。
ありがたやありがたやと胸中で拝みながらパラパラと参考書をめくる途中で、明らかに付属品ではない類いの栞が挟まっており、これ幸村くんのじゃないの、口にしかけた所で涼やかな声が場に割って入った。

「精市、少しいいか」

顔を上げる。正確無比といった佇まいの柳くんが立っていた。
幸村くんに声をかけられる時や話し込んでいる最中、テニス部の人たちと何かと鉢合わせになる機会が多く、夏頃は顔と名前が全員一致していなかった有様が今では軽く会釈できるまでに進歩した。
集団で人がたくさんいる場所ではとても挨拶など出来ないが、個々別々であればなんとかなるのだ。
彼らの方も、幸村の級友、程度の認識を持ってくれているらしく、特に柳くんとは印刷室で遭遇する事が多々あり、軽く話をした日もある。
遭遇理由としては、私は先生の言いつけでプリントのコピーで彼は生徒会の仕事、といった具合に格差のある悲しいものだった。

「…と、すまない。取り込み中だったか」
「あ、大丈夫。私もう帰る所だし、二人でゆっくりお話しして下さい」
、何か言いかけてなかったかい」

なけなしの気遣いをひっくり返され、古典的ずっこけをしそうになった。やはり神の子は神の子、いい人だけでは終わらない。
けれどテニス部の連絡事項だったら私の用より重大だ、めげずに続ける。

「でも大した事じゃないから、別に後でも」
「だってさ、柳。お先にどうぞ」
「そうか。わかった」

後でもいいし、それじゃあまた明日。
連ねようとした言葉が物の見事に切り捨てられた。
幸村くんはともかく他人の話を最後までしっかり聞きそうな柳くんが、王様の対話打ち切りをそのまま流すのが少々意外で驚く。
帰るに帰れず、テニス部の話を部外者に聞かせていいのかと他人事ながら心配でそわそわしている私を尻目に、二人は着々と会話を重ねていく。
メニューがどうの高校生との合同練習がどうの24日の件がどうの、簡潔に要点だけをまとめた言葉が行き交うのを見、同い年とか嘘でしょこれ、とちょっと引いた。
中学生じゃない、社会人のやり取りだ。

「そういう事なら、ミーティングで話をしないといけないな。わかった、考えておくよ。それから24日だけど、俺は構わないよ」
「ではこちらで進めておこう。――邪魔をしたな」

含み笑いの柳くんが短く言い切り、音も立てずに去っていく。軽く会釈をされたので、慌てて頭を下げて見送った。
前から感じていたけれども、全体的にシュッとした人である。幸村くんもどっしりと言うよりはスマートな雰囲気を纏わせているが、彼はその上を行く。
あんなに背が大きいのにどうしてあまり足音がしないんだろう。
不思議に首を傾げていれば、傍近くに立つ人が苦笑する気配を感じ取った。

「え、なんで今笑ったの」
「いや、なんでも。それで続きは?」
「……続き?」
「言いかけてたこと」

第三者の登場ですっかり忘却の彼方へ飛ばされていた、指摘され思い出すとはどこまでも忘れっぽいとしか言い様がない。そうだったと指を挟んでいたページから、栞を摘んで引き抜く。

「これ幸村くんの?」
「あれ、どっかに挟まってた?」
「うん」

はい、と返そうとした所をやんわり止められる。

「ああ、いいよ。それも貸すからさ」
「え、でも」
、栞なんて持ってないんじゃない。どこまで問題を解いたか忘れた時困るだろ? 教科書みたいにページの端折り曲げるわけにもいかないしね。遠慮しないで、栞ごと有効に使ってほしいな」

エスパーというより千里眼の持ち主、の方が表現として正しいかもしれない。
すべてを見通す第三の目とか持っているんじゃなかろうか。
最早返す言葉もなかった。

「………わかった。ありがとう。頑張ります」

ただ単語を一つずつ並べただけの私に、幸村くんがはは、と声を出して笑う。
おそらくそこそこ酷い事を言われているのだが、屈託のない笑顔を見ると怒りの一欠片も沸いてこないのだから困ったものだ。

「でも、受験勉強とかテニスとか色々やる事いっぱいあって、幸村くん大変だね」
「大変そうに見えるかい」
「うーん。幸村くんは大変な時も大変じゃない顔してるからあんま見えないかも」
「あはは、そっか」
「けど自分が幸村くんだったらって考えてみると、やっぱ大変そうだよ。クリスマスも練習なんでしょ? その分だと大晦日もお正月もなさそうだもんね」

先ほどの社会人みたいな会話に出てきた24日という単語を拾い、詳細はわからないので独自に解釈して思うまま意見を述べる。
勤勉に部活や勉強に励む事もなく冬休みは家でのんびり過ごすタイプとしては、是非とも遠慮したい多忙具合だ。
ある種尊敬の念を込め、すごいなぁ、というニュアンスで言葉を掛けても柳に風、彼はただ微笑んでいる。

「褒めて貰っているところ恐縮だけど、実はそうでもないんだ。確かに部活をやっていない人に比べたら、イベント事とは縁遠いけどね」

はっきり態度に出して褒め称えたわけではないのに、どうやら通じていたらしい。
私がわかりやすいのか、幸村くんがエスパー千里眼なのか。
どちらをも含んだ故の意思疎通かもしれない。

「じゃあお正月休みくらいはあるんだ」

いくら強豪テニス部といっても休息はあった方がいいに決まっている、自分の身に降りかかった事でもないのになんとなく安心した。

「少しはね」
「……少しなんだ」
「クリスマスは練習早めに切り上げるよ」
「……でも練習はあるんだ」
「ちなみに終わった後は皆でご飯食べる予定」
「え!? 嘘!」

一年365日テニス漬け、遊ぶなど以ての外、たるんどる。
そういった印象しかなく、運動部らしい運動部と目に映っていたので、降って沸いた意外すぎる事実に声をあげて驚いてしまう。

「効率を考えなよ、。いくら練習を重ねなくちゃいけないって言ったって息抜きする暇も与えなかったら、逆に捗らなくなるだろう?」
「そ…そうかな」
「俺だってそこまで鬼じゃないしね。クリスマスくらい、たるんでもいいんじゃない」
「真田くん怒らないの?」
「渋い顔はしていたけど前もって組んだ予定だから、誰かが馬鹿な真似しない限り怒らないと思うよ」
「へえー」

外から見ているだけじゃ、内情とはわからないものだ。
決して短くはない期間で積み上げられたイメージが変わっていく。

「なんか、いいね」

もっとピリピリした雰囲気の漂う集団と受け取っていたが、それなりに交流がある仲の良さも持ち合わせていると知り、帰宅部一直線でチームメイトなんぞ持った事がない私は率直に羨ましくなった。

「よくない。男ばっかのクリスマスなんて、むさ苦しいだけじゃないか」

だが、当の本人としては顔馴染みとのあれこれより、己の不満の方が重要なようで些か呆れ気味に軽く肩を竦める。
笑って、マネージャーの人たちがいるじゃん、励ましても、真田が女子をこのような時間まで連れ回すわけにはいかん! とか言って途中で帰すんだ、と真に受けてくれなかった。

「でも楽しそう」
「そういうだって、予定くらいあるだろ」

ない事はない。
しかし幸村くんのように活気があって賑やかなわけでもなく、彼氏持ちの友達みたいに色気のあるものではない、言い出し難くて一瞬の間が空いた。

「昼間友達と遊んで夜に家族でケーキ食べるのを、予定と言っていいならあるにはあるけど」
「へぇ、いいね」

嫌味か、と脊髄反射しかけた好意的な肯定が寄越され、再び時が一拍止まる。いまいちテンポが鈍る私と相反して、幸村くんの旗色はすこぶる良くなっていった。
複雑な心境に陥って寄った眉に、穏やかなフォローが入る。

「本場のクリスマスは、家族と過ごすものだからね。そう自分を卑下するものじゃないよ」

やはり嫌味か、とわずかに憤るがしかし、見上げた表情に嘘は反映されておらず、柔らかい光を灯す瞳がたゆたうばかりだ。
肩から力が抜けた。

「だって、誰かと出かけないのとか勉強しなくていいのとかってからかわれると思ったんだもん」
「フフ…言わないって、そんなこと」
「うん、まあ、実際言われなかったけどさ」
「気にしないで、24日はゆっくり家で過ごしたらどうかな」
「そうする」

でもそれ以外の日は、勉強頑張るんだよ。
教師然とした台詞を置き土産に、いつかのよう片手を挙げて廊下に戻っていく。
引き止めるものを一つとして持っていない。
黙って手を振り返し、下駄箱の向こうに消えていく真っ直ぐ伸びる背を追ってみたら、目指す所へと迷わずに突き進む姿が見えた。
窓から差す日が制服の肩のラインを、くっきり浮かび上がらせている。
途中で幸村くんとすれ違った女子生徒が、密やかに声を高くして騒ぐ。なんか雰囲気あるね、やっぱかっこいいね。囁きながら、私の横をすり抜けていった。
覗かせていた顔を引っ込ませる。
掌中の参考書に視線をやった。
…別にどうという事は、ないんだけど。
あの善人ぶりを私以外の人間にも振り撒いているとしたら、彼は真に神様の子供なのだろう。
借り物をそっと鞄に仕舞い込み、手袋に包まれた指に息を吹きかけた。既に冬場の癖になりつつある。
昇降口の重い扉を押し開け一歩踏み出すと、冷たい風が頬に突き刺さった。
お日様が遠いな、と体を震わせ、首元のマフラーに顔を埋めて校門へ歩を向ける。
無言で進めば、ボールの跳ねる音と掛け声が凍る鼓膜に飛び込んで来、無意識の内に横目で確認した。
今朝と違い、王様のいないテニスコートは物寂しい。
けれど私はそれを伝える言葉も理由も相手も、どれも持ち合わせていなかった。
風がいっそう強く吹く。
ポケットに突っ込んだ手が、冷たくなったホッカイロを探り当てた。意味もなく握り締めてみると余計に寒さが染みたような気がした。







それからの話。
母親の攻撃の手が休まる事はなく、とうとう終業式の日まで遅刻ゼロという偉業を達するに至ってしまう。
ヒーター係を乗っ取られた大島くんはあからさまに登校時間が遅くなり、侵略者はそれを黙殺ならぬ微笑み殺で看過していた。いらぬ苦労を背負い込んでいるんじゃ、と思ったが、何が面白いのか自ら望んでやっているようなので結局は言わずじまいだ。
数の増えたホッカイロと参考書のおかげで、私の鞄は二学期の初めよりずっと重い。
幸村くんとは終業式後、帰り際に話をした。
教室で身支度をし、ラケットバッグを背負った彼に足りないパーツが一つあったので、声をかけたのだ。

「幸村くん、マフラーは?」

自分が極度の寒がりなので、着込みが薄く甘い人を放っておけない。
彼はなんとも可愛らしく小首を傾けながら、ちょっと照れくさそうに笑った。中身と多大なギャップを発生させる仕草だが、おそらく誰も咎めない。だって神の子だ。

「それが忘れちゃってさ」
「えっ、珍しいね」
「これじゃ、のこと言えないね」

だけれどまだまだ余裕のある表情で、王様らしからぬたるんだ忘れ物の説明をし始める。
今日は月に一度の病院検査で、朝の支度が慌しくなってしまった事。
少々首が寒い気はするけど、なんとかなるから大丈夫だという事。
正直、返答に詰まった。
退院したのは夏なのに、いまだ彼の身には検査という形で病が付き纏っているのだ。
与えられたごく短い時間で上手い返しが見つかるはずがなく、仕方がないので特に触れる事もないまま、じゃあこれあげる、と鞄を開け中を探る。
かき分ける最中、貸して貰った参考書に指先が当たって、わけもなく緊張した。
不思議そうな顔をしつつ待ってくれている人へ、見つけ出した物を手渡す。

「……ホッカイロ?」
「あ、言っとくけど未使用だよ」

目を瞬かせた幸村くんは、なかなか珍しい。

「私予備でいっぱい持って来てるから」
「いつも多めに持ち歩いてるんだ」
「うん。朝イチで使ったやつは、帰る頃になると冷たくなっちゃうし」

何ならもう一つどうぞ、舌の根から厚意が送られかけたが、寒そうだけど実の所寒くないであろう人が思いきり吹いて笑い出した事により無に帰した。

「あははっ! 、おばあちゃんじゃないんだから!」

純粋な善意が目にも留まらぬ早さで引っ込み、あっという間に眉間に皺が寄る。
面白くない流れに、声色も愛想をなくす。

「いらないんだったら返して下さい」
「ああ、ごめんごめん。いるよ、いる。有り難く使わせて頂くよ」

取り返そうと伸ばした私の手をさっと避け、笑うのを抑えようともしないくせにそう言った。

「けど、がそこまで寒がりだなんて知らなかったな。冷え性?」
「冷え性かどうかはわかんないけど、寒いのに弱いし大嫌い」

開けっ放しだった鞄を閉め返事を投げる。
そう、と呟き落とした幸村くんが何かを耐えるような含みを持たせ、それまでとは異なった笑みを浮かべた。
私は息を呑んだ。

「なんで今まで気づかなかったんだろうと思っていたけれど、去年の冬は病院にいたからだ」

固まる私の額に握り拳がひとつ当てられた所為で、肝心な眼前の人の顔が見えない。
影が落ちて、教室の外のざわめきが遠くなった。
触れている部分にぐっと力がかかって、乗った拳骨が重さを増す。消えていないはずの蛍光灯は私より背の高い彼によって遮られている。
知らないにおいがした。

「ありがとう。大事に使うよ」

とてもつもなく近くで響いた声は、聞いた覚えのない音色を孕んでいた。
拳一つ置いた向こう側、すぐ傍に思いの外しっかりとしたつくりの輪郭がある。塞がれて、天井も壁も机も見えない。
防寒グッズなど必要なさそうな温度を持つ指が去っていく一瞬、大きな手に収まったホッカイロが目の端を横切っていき、やがて完全に失せた。
あたりの喧騒が戻る。
学期末の開放感に身を任せた生徒の大半は、既に教室から姿を消していた。
残っていた数名のクラスメイトは誰も私と幸村くんを見ていなかったようで、視線が集まる事はなかった。何ら変わりばえのない放課後が広がっている。

ほんの数秒。
びっくりするくらい長かった。

我に返り、後ろを見遣る。
背にたくさんのものを負った人は、とっくに教室から出て行ったようで、余韻も残さず消えていた。
鈍感な心臓が今になって騒ぎ立てる。
冷たいはずの指先が熱い。
追いかけてなにか言うべきだ、けれど渡せる言葉など到底思いつかない。
病院を見上げ一人あてどなく呟いていた時より、もっと途方に暮れた気持ちで立ち尽くす。

自分から連絡をする勇気もない私は、そのまま冬休みを迎えた。