スイッチ




ヤケクソ。
現実逃避。
熱でもあるのか。
明日は雨だな。

家族や友達から散々言われた台詞も受け流し、冬休み突入直後から、何かにとりつかれたよう勉強に励んだ。
クリスマスが過ぎ、年末年始の空気漂う駅前へ出向いて、いつもより人の多い本屋で買った参考書や問題集、単語帳を机にかじりついてひたすら片付ける。
娘のあまりの形相に、母ばかりか父親までもが滅多に開けないドアをノックして、ご飯だから下りて来なさい、などと言った。
確かに、今までの能天気溢れる行いを顧みれば、異常ありと判断されて当然かもしれないが、明らかに『こいつ大丈夫か?』みたいな対応をされれば反抗だってしたくなる。
そもそも真面目に勉強しているだけなのに、失礼な話だ。

無心で英単語を書き写している途中、シャーペンの芯が切れた。
カチカチと押しても空振るばかりなのでノートの上に放り投げ、時計を確認すると針は12時近くを指している。
まるで逃げるみたいに自室に引っ込んでいたから、毎年恒例の大晦日のTV番組も、元旦のだらけた雰囲気満載の家族団欒も、今回は味わっていない。
両肘をついて、ノートの横に安置されたケータイを眺めた。
1月1日に無数行き来した、あけましておめでとうメッセージの波はとうに過ぎ、そろそろと世間も通常営業に戻る今日は5日だ。
私はまだ幸村くんに新年の挨拶をしていない。
昨年はお世話になりました、と最も伝えなくてはならない相手なのに、メッセージ作成画面を開く事さえ放棄したままだった。あちらからのコンタクトが一切ないのも手伝って、尚更何を言えばいいのかわからなくなっている。
病気を引きずっているようには見えない。
敗北さえも乗り越え、少なくとも周囲に悟られないくらい、高等部という次なる目標へと向かっている。
勉学とテニス、他人との関わり、全て手抜かりなくやってのける人がこぼした揺らぎ。
考えれば考えるほどどうしてか不安になって、胸の奥、深い部分のもやもやが一向に晴れてくれない。
彼が一瞬見せた、抱えているだろう痛みを、どう受け取るべきなのか答えが出ない。
幸村くんに何が言いたいのだろう。
何を問いたいのだろう。
――私は彼に、なんて言って欲しいのだろう。
もう一度、携帯端末に目をやった。
息をひとつ吸い、その分だけ吐く。
いくら考えが定まらず伝えるべき言葉が浮かばないからといって、あけましておめでとうの一言も送らないのは、あまりにも礼に欠いている。
これじゃ駄目だと手を伸ばした瞬間、静かな部屋には大きすぎる振動音が鳴り響いた。
図ったようなタイミングにびっくりしながら画面を見ると、幸村くん、の文字。
更にびっくりした。 しかも電話だ、逃げようがない。
せめて第一声を考える時間くらい欲しかったが、この状況ではまず不可能である。
観念して通話ボタンを押した。

『やあ、あけましておめでとう。、初詣行った?行ってないよね。今から行こう』

もしもし、と口にする前に、言いたい事を言われてしまう。
普段なら、誘っているくせに全くお伺いを立てていない物言いにツッコむか、質問しておきながら答えは聞いていないとばかりに既に決定事項のよう語る図太さに無言になるか、二つに一つの場面なはずだが、その時の私は私らしくなく即答した。

「あけましておめでとう。行ってない。行く」

両親や友達が言うよう、やっぱりどこかおかしいのかもしれない。
電話口で幸村くんが笑ったのがわかった。
機械を通して伝わる声は遠いのに、息遣いが近い。直に鼓膜へ入り込んでくる音がやけに懐かしくて、なんだか妙な気分になった。







昨夜遅くに降ったみぞれ混じりの雨の所為で、湿り気を帯びる酸素を思い切り肺へと送り込んだ。
何日ぶりの外だろう、寒がりの私にしては珍しく、真新しい空気を味わうように大きく伸びをする。
友達と初詣に行って来る、と母親に伝えたら、十数年間引きこもっていた人が外出する時並の喜び方をされ、お小遣いまで持たされてしまい、一体どこまで危険視されていたのか考えて悲しくなった。
各自昼ご飯を食べてから集合、との指令が下されたので、たっぷり腹ごしらえをしてから家を出て、待ち合わせのバス停を目指し歩き始める。
短いながらもしっかり会話した電話中、去年はどこにお参りに行ったの、と聞かれたので、ガイドブックに載り混雑極まるようなメジャー所を避けて毎年近所の小さな神社に行っていると言えば、じゃあそこにしよう、即決された。
幸村くんは物好きだ。
感じたままにそう返すと、普通だよ、と笑い声と共に否定を寄越してくる。
家だって近いわけじゃないのに、わざわざおみくじすら置いていない神社まで出向くなんてどう考えても普通じゃない。
しかし、今度は口にはしなかった。
この人を自分の常識で図ろうとするから、肩透かしを食らったり言葉に詰まったりするのだ。
前方からやってきた車とすれ違いざま、巻き起こった風に顔を歪ませる。
制服だろうが私服だろうが、防寒対策は欠かさない。
オシャレや可愛さ等をかなぐり捨て、冬からの防備一点に尽くしたから、着膨れしていて正直格好悪かった。コートのポケットには、勿論ホッカイロが入れてある。誰になんと言われようと、海が近いこの街で冬場に薄着をするつもりは毛ほどもない。
住宅街を抜けて、比較的大きな通りに着く。
微かに濡れた路面では足音も鈍く響いて、裾からはみ出た手袋の先もそう冷たくならず、降れば気温低下を招く雨も止んだ後であれば悪くないと思った。
黙々と進む内目的地が遠くに見えてくる。
余裕をもって早めに出発したというに、バス停の前に立っている姿で即気が付いた。
不思議なものでこれだけ距離があっても見分けがついてしまう、慌てて取り出した端末で時刻を確認すると、指定時間の15分前だった。運動部って恐ろしい。
立ち上っては消える白い息の間隔を縮め、小走りで駆け寄る。
まだ辿り着くにはかかるだろう大分手前の時点で、幸村くんはこちらに目をやり軽く手を挙げ答えてくれた。急がなくていいよ、と言外に伝えてきているのはわかっていたが、甘えるわけにもいかない。
運動不足で息が弾んだ。
約束数メートル前まで到達すると、彼の方からも歩み寄ってくる。

「――ごめん! 待たせちゃった」
「いや、待ってないよ。わざわざ走らなくても良かったのに」

年明け、初笑いならぬ初慈悲だ。
王様は今年も王様らしく振る舞うのだろうか、なんて埒もない思考が頭の中をふらついた。

「でも待ってるのが見えてるのに、ゆっくり歩くのはなんか悪いよ」
は変な所で真面目だな」
「……もっと違う所で真面目になれって?」
「そうやってすぐ捻くれない」

旋毛あたりに軽く拳骨を頂戴し、瞬時に終業式の事が蘇ってほんのちょっと体が固くなった。けれど幸村くんの手は即座に離れて行き、あの日感じた長い数秒にはならない。下から見上げる穏やかな表情も、いつも通りだった。
唇から生まれ天へ上がっていく白い霧の所為か、柔らかな眼差しがぼんやり霞んでいる。

「俺、この辺詳しくないんだ。道案内を頼んでもいいかい」

笑みは優雅なものだったが、なんとなくイエッサーとか言いそうになった。
じゃあこっち、と来た道をやや戻り、傾斜のゆるい坂が続く方へ曲がっていく。
たまに行き交う車のエンジン音が、静けさを切り裂いては失せる。
隣に並んで足を動かした数歩目で、はっとした。すっかり忘れてた。

「幸村くん、あけましておめでとうございます」

私を見下ろす両の目が、不思議そうに揺らめく。

「さっき聞いたよ」

隙間風の進入を許してしまう、巻きの緩いマフラーを直しながら返す。

「直接言ってなかったから」
「フフ…そう」
「今年もよろしく」
「こちらこそ、よろしく」

機嫌の良い形に持ち上がった唇の端を見て、ようやく深い息を吐いた。
それで自分が緊張していた事がわかった。
家であんなに悩んでいたのが嘘みたく、会って顔を見たら言葉がすらすら出てくる。
お見舞いに行っていた頃と進歩がない、思うと同時に、変わらない関係に結局私はどこか安心しているのだ。
友達としてやってこられたのも、落ち着いて話が出来るのも、いつだって幸村くんが普通に接してくれるからこそ可能な事かもしれなかった。それら全て理解しての言動ならば、勝ち目がない。元々勝つつもりはないのだが。
子供たちの姿がなく空っぽの遊具がある公園を横目に、ひたすら坂道を上って行く。
薄曇の空の下、風は弱々しい。
マンホールへ流れ落ちていく水の筋を踏み越え、この寒いのに小屋から出て、通りすがりの私達をじっと見つめてくる犬の前を通過した。

「私、幸村くんならとっくに初詣行ってると思ってたよ。テニス部の人たちとかと」

沈黙を保ちながら延々と歩くのも気詰まりだったので、話題を振ってみる。
幸村くんは前を向いたまま、目だけでこちらを見遣った。そういえば学校の外、私服で会うのは初めてだ。

「ああ、行ったよ」
「え!? 行ったの!?」

初めてだらけの正月に感慨深くふけっていた色々が吹っ飛ぶくらいの発言だった。

「元旦。馬鹿みたいに混んでる時にね」
「え、ええー…じゃあこれ初詣じゃないじゃん…」

なんで来たの、意味わかんない。
言わんばかりに呟きを落とせば、にっこり、という表現が似合いの微笑みで私を嗜める。

「いつもなら神様なんかに頼まないんだけど、今年は願い事が二つあってね。一つの神社で一気に全部お願いするわけにもいかないだろう?」

罰が当たりそうな事を平気で口にするのを間近で見ると、天啓の元に生まれた神の子説が正しいような気がしてくる。つまりは神経が太い。
しかし神頼みなど到底しなさそうなタイプなのに、意外だ。

「そこまでして叶えたいお願いがあるの?」
「俺強欲だからさ、あはは」

あっけらかんと笑われても笑えない。
ごうよく、と閉じた口腔内で繰り返す。同じ響きでも幸村くんが言えば、なにかとてつもない野望を秘めていそうに聞こえた。
ちょっと怖いので、早歩きになる。一秒をも惜しんで抜かりなく神社までお連れしなければならないような気もしてきた。

「……どんなお願いなのかはあえて聞かないけど、真っ当な願い事にしてね」

うちの近所の神社に、世界征服とかムカつく奴を闇討ちして下さいとか、お願いされても困る。
私自身に被害はなくとも、気分的に嫌だ。

「安心していいよ。至極真っ当で、とても真面目なお願いだ」
「…じゃあ強欲じゃないじゃん」
「大層な夢ひとつより、ささやかな願いをたくさん叶える方が欲張りだと思わないかい、
「どっちにしろ成就させるのって大変だと思う」
「フフ、言うなあ。でも俺の場合は夢じゃなくて願い、だからね」
「えーと……それはつまり願いなら夢みたく成就させるのは難しくないって言いたいの?」
「うん、まぁ近いかな」

続きに、よくできました、なんてついてきかねない雰囲気で言われても、一体どういう真意があって話しているのかわからなくなってきた。

「だったら神様にお願いする必要なくない?」
「勝負事前の験担ぎって、結構大事なんだよね」

勝負事なんだ、問う。
勝負事だよ、笑う。
何事においても自力で成し遂げているイメージがあったが、そういうわけでもないらしい。
験担ぎというと彼より真田くんや柳くんの方が気にしそうなのにな、とホッカイロを弄りながら二人の顔を思い浮かべた。
やがて坂道にも終点がやって来て、右と左に道が分かれる。迷う事なく右折し、左手に見えてくる鳥居と階段を指して、あそこ、と簡潔に案内した。
幸村くんはのんびりと私の後をついてくる。失礼な感想かもしれないが、願掛けする程負けたくない勝負を控えた選手にはとても見えなかった。
境内を囲むようにして冬でも葉を落とさない木々が生えており、隣接する建物との間は金網で仕切られている。この辺まで来ると住宅の数より緑の方が多い、年明け早々の平日真昼間でただでさえ人気がないのに、一層静寂が際立つ。
年季を感じる石階段を上りきる頃には、軽く息が上がってしまった。
冷え刺す空気で鼻の奥がつんとして、存分に酸素が吸えず微かに苦しい。
後ろから悠々歩き、ゆっくり並び立った人の顔を見ても疲労の色は一切表れておらず、運動部元主将と帰宅部まっしぐらでは当然の結果なのだが、己の情けなさと無情な体力差に悔しくなって悲しくもなった。
靴底が玉砂利を擦る音が二人分、他に人影のない境内に響く。
お賽銭を投げ鈴を鳴らして手を合わせる。
幸村くんはかなり正当な方法でお参りをしていたけれど、きちんとした知識のない私は結構真面目だな、等ど構えるに終わり、去年と同じ詣で方だ。
厚かましく学業成就をお願いしたが、叶えるどころか罰を当てられてもおかしくない。
信心深い方じゃないし、まあいっか。閉じていた目蓋をあげ、両手を口の前でさすり息を吹きかけた。
至極真剣に手を合わせていた幸村くんがやっと願い終えたようで、こちらへ向き直り口を開く。

は何をお願いしたんだい?」
「え? 高校受かりますようにって」
「へえ、なるほどね。ところで願い事って人に話すと叶わないって言うよね」

酷いタイミングで酷い事を言われた気がする。
いくら叶ったらいいな程度の願いだったとはいえ、新年早々受験まで一ヶ月もない時期に口にする言葉じゃないだろう。
渋い顔をした私に、優しい声がかけられた。

「大丈夫。のお願い、きっと叶うよ」
「……何を根拠に言ってるのそれ」
「俺のお願いを根拠に言ってる」
「えっ、幸村くんの願い事って学業成就だったの? っていうか、人に話しちゃったら叶わないんじゃないの?」
「ははっ!」
「いや笑ってる場合じゃなく!」
「うん、まぁ、安心して。俺のは、学業成就でもの高校合格祈願でもないからさ」

言うが早いか、用は済んだと踵を返し階段の方へと歩みを進める。
数瞬遅れて私も後を追った。
また、玉砂利の音。日の差さない空に溶けていく。
行きより僅か性急な歩調の幸村くんは、戦況を見極めた上で策を立てる為に一旦引く指揮官のようだった。
王様の心の琴線に一体何が触れたのかは、予想する事さえ不可能だ。
勝負事と私の願いにどういう関係性が、と足りない頭をフル回転させて考えていた所に、やや前を歩く人が首から上だけを振り返らせた。次いできっぱりとした声が投げられる。

「少し歩こう」

ここでもやはり、イエッサーとか言いそうになった。







この辺詳しくないんじゃなかったのか、と恨み節をぶつけたくなるほど、正確な足取りで彼は真っ直ぐ進んだ。
バス停から神社までは来た道だからいいとして、その他の勝手知ったるが如し振る舞いには呆れるしかない。
考えている事の八割は顔に出る私が無言でいると、神社の境内から見てわかったんだよ、高い所にあったからさ、と子供に話すみたいな声色で笑われた。
理解出来る説明であったが、納得は出来ない。
立ち並ぶ家々を通り過ぎ、幾度も車とすれ違い、線路を渡れば海が近い。ゆるかった風が恐るべき勢いで頬に当たって砕け散る。
冬、最低気温、風、曇り、様々な悪条件を揃えた浜辺に、どこの誰が好き好んでやってくるだろう。サーファーの姿もぽつぽつとしか見えなかった。
煽られ空中でばらばらになるマフラーを必死に押さえる。
潮の香りが強い。

「……少し歩くだけって言ったよね…幸村くん…」
「少しだろ?」

海まで来るのは少しじゃない。
言いたくても、問答無用の微笑みを前にして抵抗する術や隙はない。
私よりずっと薄着のはずなのに、幸村くんは一切寒そうな素振りをせず、強風など存在していないかのようしゃんと立っていた。ポケットに手を突っ込んではいるものの、コートの前は閉めずに男らしく全開だ。信じられない。
動きの鈍る私をあっけなく置き去りにし、湿った濃い色の砂浜へと降りて行く。
最早溜め息すら出ない。ひりひり痛む頬をがっしり巻き直したマフラーに埋め込み、肩を縮こまらせた万全の体勢で後に続いた。
潮騒と耳の横を忙しなく突っ切っていく空気の渦の所為で、他には何も聞こえない。
水際は余計に気温が低く、震えが足元からせり上がってきた。
寄せる波と食い違い、低い雲が沖の方から風に乗ってどんどん運ばれる。
ひとつ足を前に出す毎、水気を帯びた砂がぬかるみ絡んで普通に歩くのが少々困難だというに、広い背中をこちらに向ける人は平地と変わらない歩み方をしていた。
当然距離が開くと思いきや、後ろに目でもついてるのかと疑うくらい、私の歩調を把握し合わせてくれているのだ。先程から視界に入る背の大きさが全く同じである事から、問わずとも明らかだった。
まただ、と私は顔を顰める。
幸村くんが出来た人であればあるほど、言葉に詰まる。
冬休み前までなら申し訳なく思いつつも、すごいな、とか、神の子だな、とか感動していたはずなのに、この短期間でどのような変化をしたのか、自分でもわからなかった。
不意に、鞄に仕舞いっ放しの参考書が脳裏を過ぎって体が固くなる。
あれきり触れてもいない。
連鎖をし、己の意識とは関係なく過去が次々回想されていった。
電話越しの言葉。笑顔の彼。参考書を貸して貰った時。
女の子達の可愛らしく騒ぎ立てる声、注目を浴びる人。
慣れたふうにヒーターをつける指先。
痛みを孕んだ声音の近さ。明るい教室が暗くなった。

密やかに心臓が跳ねてゆく。
逆立ちしても熟考など出来ない、感情のままに渇く唇を開いた。
濡れて重たい空気が流れ込んでくる。

「さっき、何をお願いしたの?」

私は不安だった。
理由の在り処がわからないのも尚更、それを増長させた。
じっとしていられない。
先に待つのは得体の知れないものなのに、焦れて仕方がない。
波と風の唸りで聞こえないかもしれない、と常に比べ大きな声で発したのだが、前を向いているにも関わらず彼の耳にはきちんと届いたようだ。
瞳だけが振り返る。

「気になる?」

答えになっていない答えである。
しかし幸村くんの声は、急く気持ちを少しばかり落ち着かせてくれたので、素直に頷く。
なかなか離れずにいた距離も会話を見越していたからか、とそこで初めて気が付いた。

「俺が答えるわけないってわかってて聞いてるよね」
「うん。だって叶わないんでしょ」
「そうだけど、誰かに言わなければ絶対に叶うっていう話でもないよ」
「じゃあ教えてくれるの」
「今は無理かな」
「無理なのは今だけ?」
「うーん。……うん、そうだね、今だけだ」
「いつになったら大丈夫?」
「いつかね」
「いつか?」
「そう、いつか」

視線が流れて消え、なびく髪だけが残る。
去年までの私だったらあっさりと諦めてここまで食い下がる事もなく、彼だって同級生のそういう変事などは目聡く見つけ笑う性質のはずだった。
そのどちらも、今の私たちにはない。
記憶の中でも学校でもほとんど穏やかな表情をしているからわかりにくいけれど、笑っていない幸村くんは怖い。
口元から感情が隠れるとどうしても目を注視さぜるを得ない。
よって微笑みを浮かべていない時は決まって、人をじっと見つめてくる双眸と対峙しなくてはいけないのだ。本物の王様や神様相手でも、あんな気持ちにはならないだろう。
剥き出しの頬や額が凍るように冷たい。
温度を失った髪の毛先が顔を叩いて痛かった。
形にならない不安が大きくなって、会話をしていないと今すぐにでも走って逃げ出しそうになる。
あろう事か幸村くんと一緒にいたくない、なんていう不遜が頭を支配し始め、跳ね上がる鼓動がじくじくと疼いた。
また懲りもせず、寒さで麻痺しかける声帯を懸命に振るわせる。

「願い事って、叶ったら言っても平気とかなかったっけ」
「ああ、そういう説もあったかもしれないね。でも俺、叶った所でどんなお願いしたかなんて言わないけど」
「…言わないんだ」
「残念」

ふざけた回答に怒る気力もなく、それじゃあいつかの基準ってなんだろう、ともすれば歯痒さに苛立ちそうな気持ちから必死で逸らす為に考え出したのが悪かった。
暴れる胸中を制御するのに気を取られて、覚束ない足元に力を入れるのを忘れていた。
沈んだ砂に靴先が埋まり突っ掛かった状態で、転びそうになる。
情けない叫び声が喉から投げられ、ポケットに仕舞っていた両手は表に放られて中途半端な位置で静止した。
非常に妙な姿勢で固まっていると、足を止め歩みよってきた幸村くんが、大丈夫、と尋ねてきた。うん、セーフだった、返すと時を同じくして、どうぞというように片手が差し出される。突発的事態に判断力の鈍っていた私は考えなしに、どうもすみません、と軽率極まりない心持ちで指を重ねた。
握り返される。
嵌まっていた足が抜け、背筋も伸びた。
挟まる違和を抱えたまま視線を下へやると、靴の先が砂と泥とで汚れてしまっていた。洗うか拭くかしなくてはならない。
ほとんど勝手に唇が言葉を紡いだ。

「あ、ごめん」

極寒の海辺で自分以外の熱を感じる状況は、殊更わかりやすい異変だったのに自覚が遅れた。
自ら口にしておいて、何に対してのごめんなのかよくわからない。
幸村くんの掌は暖かかった。
手袋もしていないのに、完全防備である私のそれと二倍は差があった。
姿勢も戻り転ぶ心配もなくなった、借りた手から引こうとした一瞬前、硬い指先がするすると滑り人差し指を包むように掴む。
呼吸するのを忘れた。

「うわあ」

語尾は柔らかいけれど確かな悲鳴が、呆然とする私の耳に打ち寄せる。
微笑みの形に歪んだ口元から白いもやが昇った。

、これはないよ。冷たすぎ。もっといい手袋買いなよ」

愛用しているものは中学入学時からの物で、寒さに耐えかねてよく調べもせず購入したから、防寒には適していない。布越しでも人の体温がわかるくらい薄いし、綿入りだとか特別仕様でもなく、彼の指摘は最もだ。

「それか体質改善だね。適度な運動も必要だから、まずウォーキングから始めたら?」
「……運動してないって決めつけないでよ」
「してないだろう」
「………外寒いです。無理です」

は何年経っても同じ事言ってそうだ、笑う幸村くんが指から温もりを引かせた。
返す台詞を声に出すのもやっとの私は心底ほっとしたが、一秒ほどの間も置かず、今度は手首ごと掴まれるんじゃないかと危惧する深さで手の甲ごと握られる。
吐く途中だった息が見事止まった。
さっきから困惑し通しのこちらの気持ちなんかお構いなしに、大きな手の持ち主は体を捻り再び前へと歩き始める。
必然的に引っ張られる形になった私の口はだらしなく開けっ放しだ。
待って、すら言えない。
一人では危うかった濡れた砂浜での歩みは、神の子のお導きにより大分しっかりまともになっている。
間抜けにもたっぷり数十秒経ってから、一人で歩けるよ、と繋がれた手をほどこうとしたが、駄目だ、信用ならないな、予測していた以上にはっきり却下された。
転ばない、転ぶ、絶対転ばない、絶対なんてない、下らない応酬を我が事とはいえ飽きるまで繰り返したが、彼は意見を撤回させるどころか微笑みつつ強引に手を引き、空いていた距離を一歩分縮めようとする。
……わかった、わかりました。
心の中でだけ答え、無言のまま抵抗を諦めた。根比べで勝てるはずがない。
荒れた白波が次から次へと寄せ返す。
一層強く鳴いた風に思わず首を竦め、俯けば足跡が見える。
体温は消えない。
やり取りといい、真っ直ぐ堂々と歩く彼と後ろから下を向いてついてく自分といい、これではまるきり親子だ。よくて兄妹。
訳もなく溜め息が零れ、胸が苦しかった。
どこまで行くつもりか問おうと曲がっていた首を戻し、まず現在地を確認する為に浜より高い所を走る車道の道路標識へ意識をやったが、歩行者が二人いるのが視界に飛び込んで来、すぐさま顔を伏せる。
女の人だった。
海を見ていたのかもしれないが、それにしたって私たちの姿も目に入るはずだった。
同い年の私と幸村くんが彼女らにはどう見えたのか、考えるべくもない。遠目からの自らの姿を想像した。小さな子供と、保護者だ。

――恥ずかしい。

思った。
強烈な衝撃だった。
情けない羞恥に頬が赤く染まり、寒さも相まって両の目が潤んだ。絶対に鼻をすするまい、と気合を入れて呼吸をし、その分繋いだ指先から力が抜ける。
ついさっきまで体中をいっぱいにしていた不安は、自らへの責め苦に変貌を遂げていた。
絶えないぬくもりのおかげで、いつもは恐ろしい程冷える指先も暖かい。
腕まで伝染し、やがては顔にも到達するんじゃないかという勢いだ。
伝わり続ける彼の温度が、自分の中にある何かを変えてしまいそうで怖かった。
幸村くんが何を考えているか、全然わからなかった。
けれど彼は決して振り返らない。
今の私にはそれがすごく有り難かった。


手が離れたのは結局、砂浜から上の道に戻った頃で、あんな頑なに拒んでいたくせして自分が決めたらさっと一瞬で解放をする。
釈然としない。
納得も出来ない。
恥じ入る気持ちも晴れない。
けれども黙り込み無言を貫く私に幸村くんが、寒かった? と気遣わしげに尋ねてくるから、沈んだ心を隠して、全然平気、と強がるしかなかった。
だったらなんで海まで連れ回したのとか、何がしたかったのとか、じゃあまず最初に寒くないかを聞けとか、ぶつけるべき台詞はごまんとあったがどれも声にならずに消失する。
余程一大事と取ったのかどうかはわからないけど、幸村くんは帰りがけ自販機でココアを奢ってくれて、この上なく素直に受け取った。
すぐには飲まず懐であたため、彼と別れてから蓋を開ける。すっかりぬるくなっていたが、その程度が私には丁度良いと思う。
甘さを喉に流し込む途で上を向いたら涙が一粒落ちた。
未経験の感情を噛み下す事に手一杯で、帰り道彼がどんな表情をしていたのか覚えていない。優しい気遣いにお礼を言ったのかさえ曖昧である。最低だ。
ぎゅっと目を瞑って、最後の一滴を飲み干した。

とりあえず家に着いたら早急に鞄の中にある参考書を解いて、丁重にお返ししよう。
掌中の一冊を手がかりに、今日のお礼を言って、それから謝ろう。
きっと幸村くんはどうして謝るの、聞いてくるだろうけれど、どうしても謝りたかったから、で最後まで突き通そう。
今は遠くなってしまった笑顔を目蓋の裏に浮かべる。
休み明けに話しかけた時、かの人がどうか笑ってくれるよう、祈りに似た想いで願った。